ドキュメンタリー映画と中国
ジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督インタビュー

(聞き手) 暁暉 +中伊万里

 『青の稲妻』(2002年)により、劇映画監督として日本においても一躍知名度の上がったジャ・ジャンクーだが、彼の製作意欲がドキュメンタリーにも熱く向けられていることは意外に知られていない。2005年山形国際ドキュメンタリー映画祭に審査員として来日していたジャ・ジャンクーに、幸運にもインタビューする機会に恵まれ、その思い入れのほどを単刀直入に伺ってみた。
 インタビューでは「記録」とは自分を形成する「血性」のようなものだという独自のドキュメンタリー観が披露され、ドキュメンタリーに対する真摯な姿勢が印象的だった。山形国際ドキュメンタリー映画祭での一時間に及ぶインタビューからジャ・ジャンクーの熱い思いをお届けしたい。
ジャ・ジャンクー、山形ドキュメンタリー映画祭について語る
―――山形国際ドキュメンタリー映画祭は中国でどんな働きをしてきましたか?

 山形国際ドキュメンタリー映画祭については中国にいるときから知っていました。この映画祭は中国で非常に有名で、影響力のある映画祭です。実を言えば中国では記録映画と実験映画の二つの分野が欠落しているのです。1980年代末から90年代にかけて、中国においてドキュメンタリー映画が数多く製作されるようになりましたが、インディペンデントなので中国国内で上映するチャンスはありませんでした。この時代は中国の経済が急速に発展した時期だったので、多くの人々が映画を製作できるようになりましたが、上映する場が欠けていました。だから山形映画祭は中国国外でドキュメンタリーを上映する場を提供してくれた点で存在意義が大きかったのです。つまり中国の映画製作者が山形という製作する上での目標を見つけ、山形という場を通して全世界に中国のドキュメンタリー映画を発信できたわけです。
 中国においてドキュメンタリー映画のレベルは驚異的に発展しています。 ウー ウェンガン [1]の作品が山形で上映され、前回は 王兵 ワンピン [2]がグランプリを獲得したように、ここ数年、中国から若手監督の作品が登場してきています。中国の監督たちは、この映画祭を通してドキュメンタリー映画の最先端を肌で感じることができ、さらに自分が作品を製作する際の世界標準を理解することができました。 

―――中国国内で山形映画祭のようなものはないのですか?

 映画祭はあるのですが、山形国際ドキュメンタリー映画祭のように定期的、継続的に行なわれているものは全くありません。しかし映画祭とはいえませんが、民間で時々行なわれているものはあります。傳媒大学の教授であり中国“中央TV局”(中央電視台)でも働いている、林教授の主催で国際的なドキュメンタリーのシンポジウム[3]が2回開かれました。主要な活動は世界各国のドキュメンタリーの上映です。去年は北京で開催されました。中国でドキュメンタリーを製作する人にとって、この2回の機会は非常に有益でした。とりわけシンポジウムは成功でした。
中国の文化慣習と物語性
―――なぜ中国でドキュメンタリー分野は重視されないのでしょうか?

 ドキュメンタリー映画と劇映画をめぐる状況は全く違います。なぜかというと中国で劇映画の発展と変化は顕著ですが、ドキュメンタリーは注目されていない分野だからです。中国で記録映画が重視されていないのは中国人の文化的背景と密接な関係があります。
 中国人の映画に対する理解とは、劇的なもの、物語を求めることに尽きます。そのため過去から現在まで、映画を製作するときには「拍戯」[4](物語性があってドラマティックな要素を強調する作品を撮ること)という精神概念が反映されるのです。中国人が何かを見るとき、たとえば現代小説でもいいし、古典文学でも京劇でもいいのですが、芸術においては物語性が非常に重視されるのです。
 映画においても、同じように、物語性が当然期待されます。中国映画史100年の中で、この考え方はほとんど変わってきませんでした。「映画を撮る」ということは「ドキュメンタリーを撮る」ことを意味しません。現実の世界で起きた事件を一つの映画作品として記録するという考え方がないのです。このような文化的背景により、中国のドキュメンタリー映画の発展は遅れました。もちろん政治的な問題など他の原因もあるのですが、私が考える最大の原因は文化的習慣にあると思います。

―――ではドキュメンタリーについての反応はどのようなものなのでしょう?

 90年代末、特に1998、99年あたりまではドキュメンタリー映画をめぐる状況に対して多くの人が非常に楽観的に考えていましたし、私自身もとても楽観的でした。この時期は映画製作が活発で、観客の好み、映画に対する理解と認識、映画製作者の映画に対する理解は大きく変わり、国内の状況は活発でした。
 しかし、現在、私は非常に悲観的に考えています。中国の何千年の歴史で形成された文化慣習と観客の趣向を変えることは非常に難しいことなのです。

―――なぜドキュメンタリーに対して悲観的になったのですか?

 流行るか流行らないかの問題。私は自分で劇映画も撮っているし、ドキュメンタリー映画も製作しています。気がかりなのは私が賞賛した中国の映画監督たちがドキュメンタリーを1,2本撮ると、もうそれで製作をやめてしまうことです。ドキュメンタリーを撮らなくなって、そして映画製作自体からも離れてしまう。観客に対して失望するというよりはドキュメンタリー監督たちに対して失望しているのです。

記録者精神

―――あなたにとってドキュメンタリーを作るときに大切な態度とは?

 
ひとつの作品に2、3年、力を注ぐのも記録者精神といえるけれど、記録者精神というのは、そのような一時的なものではなく、10年続けて撮り続けることもまた記録者精神だと思うんです。ある監督は3年間かけてある人物の人生を撮っていたけれど、作品が終わったら、その題材からもドキュメンタリーという分野からも離れてしまいました。
 このような態度は多くの監督に見られます。彼らは、たとえば、ある家庭の変化を3,4年しか追わないけれど、私は同じ対象に10年、20年と情熱を注ぎ続けることも大切だと思っています。それをやり続けている人が少ないことに私は失望しているのです。物事に辛抱強く長時間をかけること、それも一つの記録精神ですよね。
 個人的な話なのですが、私にとってドキュメンタリーを撮ることは一種の生理的な反応を与えてくれるものなのです。もし劇映画だけを撮り続けたら、自分自身の血性(気質)がなくなってしまいます。
 私にとってドキュメンタリーは実験性が高い芸術なので、ドキュメンタリーを撮るたびに映画というメディアムに最初に感じた感動や認識がよみがえってくる。ドキュメンタリーの実験性は、いつも映画というメディアムに対する私の止まらぬ思考をもたらしてくれます。ドキュメンタリーを撮ることで何か新しい場所を発見したり、面白い物語を発見したりすることが大事なことではないのです。重要なのは、ドキュメンタリーを撮るとき、私の映画に対する認識と考えは最も活発になるということです。この実験性を通して、映画とドキュメンタリーという二つの媒体の本質を考え続けています。つまりドキュメンタリーを撮ることによって劇映画についての反省と新しいアイディアが生まれるのです。監督は映画製作で作品に対する信念や意識を一生持ち続けるべきだと思います。ドキュメンタリーが私に映画の新しい発見を与え続けるのです。

―――ドキュメンタリーを継続して製作できないのは政治的な理由によるのでしょうか、それとも資金的な問題ですか?

 私は監督の個人的な問題だと思います。資金や政治的な面で難しいこともあるけれど重要なことではないですよ。それは克服できる問題であり、監督の情熱の問題だと思います。自分自身のモチベーションを持続できないことが問題なのです。
 
中国のドキュメンタリーは放送の機会がないとはいえません。それは製作者の情熱の問題でしょう。中国だけでなく、どこの国でもドキュメンタリーを作るときには困難がつきまといます。ヨーロッパでもドキュメンタリーの放送の機会はあまりありません。TVはありますけどね。しかし劇場での上映の機会は非常に少ないのです。一年に2,3本です。でも上映できるかどうかは根本的な問題ではありません。観客の入場者数を気にしていたら、製作者側のドキュメンタリーに対するモチベーションは続かないでしょう。
 
つまり一人の観客がいれば一つの作品といえるし、100人の観客がいればそれも同じ作品といえます。どちらも同じ作品ですよね。もし一人の観客しかいないからといって情熱が消え、1万人の観客がいるからモチベーションが上がるということではいけないと思います。ドキュメンタリーを撮ることは個人の問題です。中国でも日本でもヨーロッパでもどこの国でもこのような問題があります。

ドキュメンタリーの実験性
―――劇映画と比べドキュメンタリーにはどんな魅力があるんですか?

 
ドキュメンタリーは予測できないからこそ、予想外の出来事と出遭えるチャンスがある。これは一つの例ですが、私は以前『インパブリック』[5]という作品を撮りました。映画の中で重要な駅のシーンがあったのですが、中国は人口が多いから駅はいつも混んでいる印象があったので、映画を撮る前には混雑する駅を想定していました。僕は混雑している駅を撮影したいと考えていたのですが、実際、駅は想像していたものと全く違っていた。これは実際には、以前見た映画の中に出てきた中国の駅のイメージが自分の中に染みこんでいただけで、駅は混んでいるものだという推測は一種の想像にすぎなかったのです。
 そこで私は自分自身に本当に混んでいる駅が撮りたかったのか?と問いかけたのです。混雑している駅のイメージしかなかったのではないのかと。もう一つ例を挙げましょう。私はある女の子を活発な子だと想像している。しかし彼女は話すのが好きではない。でもクールな彼女も美しい。なぜ話をする活発な彼女が美しいと思っていたのか?なぜ私はクールな美しさを撮らないのか?
 ドキュメンタリーを製作する時のこういった体験は劇映画を作るときに非常に役に立ちます。私たちは過去に見た映画の視覚体験と想像の中から映像を構築していく。ドキュメンタリーを撮るときは、人と人が出会うような新鮮な体験をする。つまり無意識的なものを認識していくような経験です。たとえば空間を認識して、都市を認識して、それを通して自分を再び認識する、今まで無視していたこと、あるいはすでに忘れていたようなことです。僕は都市の変化を非常に感じている、だからこのような観察は意義がある。
 
もう一つの例は、人の顔をクロースアップで撮ってテレビで再生する時は何も感じないが、プロジェクターを使って上映するときは映像が拡大されるので、突然感動が生まれる。映画は拡大の芸術で、クロースアップで写した映像に感動するのです。つまりドキュメンタリーを製作するとき、最初に映画に対して感じた不思議な感動がよみがえるのです。もちろんそれは理論ではなくて、身体的な反応なのですが。

―――今回の山形映画祭に来られて現在のドキュメンタリーについて感じられたことはありますか?

 現在、ドキュメンタリーの映像表現の傾向として身体表象が少ないことがあげられます。つまり多くの監督がインタビューに頼り過ぎて、人の行動に対する観察が少ないと思うのです。実際、私たちはそんなに他人の話を聞きたくないでしょう?たとえばある人がご飯を食べる様子や、何かに没頭する映像の方が見る人に訴えてくる。現在のドキュメンタリーは身体運動に対する情熱が減っていると思います。走ったり、食べたり、仕事をしたりといった身体運動のほうが魅力的です。家庭に起こる不幸な事件や社会問題をインタビューで記録するのはもちろん大切だけれど、あまりにも多いですよね?現在のドキュメンタリーは身体動作、行動そのものを撮影しようとする意欲が薄いと思う。

―――監督の映画を見ると自分の中にある日常の記憶を映像化してよみがえらせているように感じるのですが、あれは記憶なのですか?

 二つあります。ひとつは過去の経験の中に残っている忘れられない映像です。もう一つはその場の風景を記録しています。僕は現場で即興性を重視するタイプです。たとえば劇映画を撮る計画を立てるとき、次の日の予定は私が決めます。なぜかというと助監督に私の意図が通じないので、自分で計画するのです。たとえばこの道を撮りたいと思ったとき、助監督は朝6時に設定したけど、私が撮りたいのは午後3時の道です。道は人と同様に時間によって雰囲気が変わります。道に着いた早々、「よし撮ろうか」というような簡単なことではないのです。

デジタル技術への危惧

―――ところでここ4、5年あたりドキュメンタリーもデジタルが多いですよね。監督も『三人三色』ではデジタルで撮られ、劇映画はフィルムですがその違いはありますか?

 
デジタルを使ってドキュメンタリーを撮るのと、伝統的な手法で劇映画を撮るときでは、被写体との距離に違いが生まれます。撮影する被写体との距離感のことです。たとえばデジタル機材はとても身近なものですから、確かに最初は違和感があるけれど、それはすぐになくなりますよね。逆に伝統的な映画の製作環境は被写体に影響を与える。なぜかというと、ライトを照らしたり、他にも大きな機械を使うことになるからです。しかもそれらの機材は普通の家庭にはまず存在しないものです。しかしデジタルカメラは多くの家庭で普及しているので、撮られる側に不安を抱かせません。だから出来上がった映像の雰囲気は違うものになるのです。
 デジタルに対する認識に私は納得いかない点もあります。一般的にデジタルは安くて誰もが映画を撮れます。デジタルは手軽に手に入ることができて、もちろんそれがデジタルのいい点なんですが、安いからという理由で選ぶことには反対です。なぜならデジタルという新しい媒体の特性を理解していないし、デジタルの特性を活かした美学が構築されていないからです。
 伝統的な映画作家は不信感を持っているけれど、私はとてもデジタルを愛用しています。DV150、デジタル・ベータからHDまで全部試しましたが、それぞれの特徴があって非常によかったですよ。
劇映画

―――物語性が極めて薄いあなたのスタイルは物語性を重視する中国でどのように受け止められていると考えますか?

 激しい論争が起こっています。これは主に研究者やメディアからの批判です。でもこれは私にとっては予想できたことです。中国には物語性を重視する伝統があり、私はこれに対して挑戦してるので、結局どんなことが起こるか予想できました。しかもここ10年、中国人はハリウッド映画に慣れているので、これらの二重の抑圧によって起こる私の映画に対する批判的な反応は予想できるものでした。

―――その論争はどうなったのですか?

 実のところ論争はないし、結果もないのです。騒いでいるのはメディアだけで、民衆はいつも沈黙しています。しかしどの時代でも反逆者が必要だと私は思います。大衆のなかには、いつも非常に陳腐なものが存在しているからです。だからこれは観客に対する挑戦なのです。ところで、そろそろラーメンを食べてもいいですか?すごくお腹がすいてるのです。(笑)


―今回、審査員を務める彼は食事を取ると眠くなってしまうので、映画上映中は、つまり一日中、食事を取らなかったそうです−

(本稿は2005年10月10日、山形国際ドキュメンタリー映画祭開催中に行われたインタビューを編集したものです。通訳者  (ハンエンレイ)


[1]中国のドキュメンタリー監督。1991年に『北京放浪』が上映される。山形映画祭に参加した際生前の小川紳介とも会う機会に恵まれ、帰国後中国の作家たちに映画祭の様子や世界のドキュメンタリー作品について語り大きな刺激を与えた。また1993年の山形ドキュメンタリー映画祭のアジアプログラムの『私の紅衛兵時代』で小川紳介賞を受賞した。
[2] 中国のドキュメンタリー監督。2003年の山形ドキュメンタリー映画祭で九時間に及ぶ『鉄西区』が上映された。
[3] 1997年北京で最初の国際ドキュメンタリー学会が行われ、アメリカからはフレデリック・ワイズマン監督が招待された。山形映画祭の作品を数本上映され作家達に新たな影響を与えた。また2004年の第二回目には土本典昭監督が招かれ『水俣―患者さんとその世界』などが上映される。この学会には中国各地から作家、批評家、テレビ局関係者が集まり、彼らに大きな影響を与えた。中国ではこのほかにも雲南でも2004年からドキュメンタリー映画祭が始まっている。
[4] 中国語で「拍」:作る、撮影する。「戯」:物語。映画を撮るという意味の単語だが、直訳すると物語を作る。
[5] 2001年にチョンジュ国際映画祭の企画により製作した30分の短編ドキュメンタリー作品。台湾のツァィ・ミンリャンの『神様との会話』とイギリスのジョン・アコムフラーの『デジトピア』三監督による『三人三色』というオムニバス作品。