書評
映画と社会学のすれちがいのメロドラマ
長谷正人/中村秀之編著『映画の政治学』(青弓社、2003)

羽鳥隆英

忘却とは、忘れ去ることなり
忘れ得ずして
忘却を誓う心の悲しさよ

―菊田一夫『君の名は』[*]

 映画学とはすれちがいのメロドラマである。いかに精緻な分析をすることができる映画学者であっても、二時間から三時間にわたってスクリーンのうえに現出する光と影の戯れのすべてを把握することはできないのだから、彼/彼女がものした映画をめぐる言説は、つねに映画そのものと決定的にすれちがわざるをえない。それゆえ彼/彼女は、自分自身が把握しそこねたなにかの存在をあえて「忘却」することで、とりあえずは首尾一貫した映画論を書くことになるのだが、彼/彼女が誠実な映画学者であるならば、恐らくは不可避的に体験する「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさ」を知りぬいているにちがいない。

 長谷正人と中村秀之というふたりの社会学者によって編まれた『映画の政治学』は、これまで映画をめぐって生産されてきた数え切れないほどの言説が、すべて映画そのものとすれちがってきたということを念頭においたうえで、それらの先行言説よりは用意周到に準備を整えることで、念願である映画との邂逅を果たそうという試みである。本書の「はじめに」の項で長谷が述べるように、現在の日本には「映画を「趣味の問題」としてだけ語るような私的な言説の公的な繁茂」が見られる(12)。このような言説群が提示するのは、いわば映画そのものと決定的にすれちがっているにもかかわらず、おのれのうちでは映画との交感を成し遂げたと信じるような、映画へのストーカー的な愛情である。これに対して長谷は、『風の谷のナウシカ』(1984)や『もののけ姫』(1997)などといった宮崎駿監督作品をめぐって、「「人間と自然との共存」(エコロジー)という政治的なメッセージを解読」する言説群と「「飛翔」や「落下運動」のような[中略]「主題」を分析」する言説群とのせめぎあいを可能にするような「「政治的な磁場」」の重要性を指摘する(13)。つまり、映画とのよりよい邂逅を果たすために、自分以外の人間が映画と出会おうとして、結局はすれちがってしまうありさまを見極めて、それを他山の石とすることで、自身の映画に対するアプローチの仕方を決めていこうというのである。このように考えてくれば、『映画の政治学』と名付けられた書物が映画への「美学」的なアプローチを重視し、「映画作品がもっている映画的な「魅惑」や「快楽」に徹底的にこだわってもいる」(17)理由が理解されよう。長谷が先行言説と映画とのすれちがいのありさまに目を向けて、映画を「政治的」に論じようとするのは、すれちがう彼/彼女を眺めて悦にいるためではなく、あくまで長谷自身が「映画作品がもっている映画的な「魅惑」や「快楽」」、すなわち映画のもつ「美学」との巡りあいを果たすための手段なのだから。
 こうして本書は自己省察的な特徴を帯びることとなる。長谷が「映画を批評したり分析したりする言説的活動それ自体を(自らの言説をも例外とせず)、映画をめぐる政治の一部に含めて考える」(11)と記すとき、長谷はたしかに映画学者が「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさ」に思いをいたしている。そして実際、たとえば飯岡詩朗による「ヒッチコック(もまた)戦争に行く―『救命艇』のなかの黒人」という論文が、『救命艇』(1944)という映画の「「魅惑」や「快楽」」と、同作品が公開された当時にものされた言説やアルフレッド・ヒッチコック監督自身の回想とのすれちがいを指摘するなかで、すぐれて飯岡的な『救命艇』論を展開していながらも、同時にその議論が、やはり『救命艇』そのものと究極的にはすれちがわざるをえないということを「忘れ得ず」にいるように、本書に収録された論文は、いずれも著者と読者のあいだに起こりうるだろう議論へと開かれた、真に「政治的」なものである。少なくとも、あるひとつの例外をのぞいては。
 では、その例外とはなにか。それは長谷正人自身による「占領下の時代劇としての『羅生門』―「映像の社会学」の可能性をめぐって」である。この論文を要約すれば以下のようになるだろう。すなわち、これまでは「「現実の複数性」という黒澤[明]監督の主観的現実解釈を提示したものとして」社会学的にも美学的にも考察されてきた『羅生門』(1950)という映画作品を(34)、十五年戦争敗戦後のGHQ占領下における映画検閲の「制約のなかから[生じてきた]、逆に従来の「チャンバラもの」や「大衆文芸・講談もの」とは違った、ヒューマニスティックな時代劇を作るべきではないかという新しい機運」(37)のなかへと還元することで、「一九五〇年前後における時代劇のヒューマニズム的刷新の潮流」(38)の一翼を担うものとして捉えなおそうという試みである。それゆえ、旧来の解釈では虚偽である可能性の残されていた木こり(志村喬)の陳述も、長谷にとっては、それが多襄丸(三船敏郎)の陳述に登場するような「従来の時代劇の様式的なチャンバラに代わる、新しいヒューマニスティックな殺陣の演出」(43)を含んでいるために、「人間的な弱さが表れた客観的な事実」(43)の描写となるのである。
 ここに、ひとつの疑問が生じる。それは、ここで長谷が提示したような解釈が、果たして『羅生門』そのものの「もっている映画的な「魅惑」や「快楽」」と直接対峙しているか、という疑問である。前述のように、『映画の政治学』が目指すこととは、映画そのものとのよりよい邂逅を果たすために、自分以外の人間が映画とすれちがうさまを見極め、それに対するオルタナティブなアプローチを考えるということである。それゆえ、まず長谷がなすべきことは、先行言説すべてが『羅生門』そのものと決定的にすれちがっていることを前提にして、それぞれと『羅生門』とのすれちがいのさまを炙りだすことであり、先行言説のうちA案を採用してB案を却下するといった取捨選択ではないはずである。しかし長谷は、1950年当時の黒澤明が時代劇に人間性を付与しようとしていたという意図の存在を立証するだけでよしとしてしまい、そのような意図が『羅生門』そのものにおいて実現されているかどうかについては考察していない。つまり、ここで長谷がおこなっているのは、数多ある先行の『羅生門』解釈のうちから1950年当時の黒澤明案を選択し擁護するということであり、先行する言説のすべてを否定することによって、すぐれて長谷正人的な『羅生門』との邂逅=すれちがいを提示するまでにはいたっていないのである。
 このような本稿の主張を長谷正人自身が目にするという僥倖があるならば、恐らく彼は以下のように反論してくるのではないだろうか。すなわち、この論文は「『羅生門』の二度の殺陣の場面の演出方法の微妙な違い(一度目は様式的に、二度目はよりリアルに)を画面から感じ取ることを論文の出発点に」おき(18)、「黒澤が人間の心理を時代劇に導入しようとする熱気」を感じることで(45)、一回目の決闘のありさま(多襄丸の陳述)を虚偽、二回目の決闘のありさま(木こりの陳述)を真実と解釈しているのだから、これはまぎれもない長谷版『羅生門』論であると。たしかに、『羅生門』における二回の決闘場面には差異があり、そこに長谷が感じたような「熱気」を読みとることも不可能ではない。しかし同時に、一回目の決闘が虚偽であるのと同様、二回目の決闘も虚偽である可能性も『羅生門』そのものは留保している。そして、たがいに矛盾するこのふたつの選択肢、すなわち長谷が感じた「熱気」にもとづく〈木こり真実案〉と、旧来の社会学者や美学者がいうような、下人(上田吉二郎)による木こりの窃盗行為の暴露にもとづく〈木こり虚偽案〉のうちから〈木こり真実案〉を採用するにあたって、長谷が感じた「熱気」の妥当性を先行言説よりは説得力のある言葉にしていくという、映画そのものとの直接的な対峙がなおざりにされて、時代劇映画をヒューマニズム化しようという1950年当時の黒澤明の意図、および彼をとりまく時代劇映画界の環境のみが状況証拠として提出されるならば、これはやはり黒澤明案の長谷による追認にすぎないではないだろうか。いいかえれば、この論文の読者が1950年当時の黒澤明と「政治的な磁場」を共有することはできても、長谷正人と読者とが「政治的」にせめぎあうことはできないのではないだろうか。
 では、長谷正人はいかにすれば『羅生門』に関するオリジナルな解釈案を提起できたのだろうか。以下に本稿なりの提言をしてみたい。まず長谷がなすべきことは、『羅生門』の放つ「黒澤が人間の心理を時代劇に導入しようとする熱気」と、その「熱気」を無に帰してしまうような下人による木こりの窃盗行為の暴露が、矛盾しつつも映画そのもののうちに実際に同居している事実を認めることである。結果として『羅生門』という映画作品は、1950年的な時代劇改革という黒澤明の意図に沿って始められた作品でありながら、その最終局面で黒澤の意図を裏切るような要素が混入したために、人間的な時代劇という解釈では説明しきれなくなったものとして我々のまえに現出する。そして、長谷のいうように、時代劇のヒューマニズム化の達成という意図が1950年当時の黒澤明の意識の中心にあったとするならば、その目標の達成を阻害する下人のふるまいは、黒澤による意識的な作品統御の範囲外にある〈超黒澤的〉なものであり、それゆえ旧来の社会学や美学が試みてきた、『羅生門』を「黒澤明という特権的な作家の頭のなかで考えられた社会的思考の表出」と見なすような「抽象的な」解釈(35)、つまり黒澤自身が意識しえたことに対してもそうでなかったことに対しても責任をもつような想像上の〈黒澤明〉を設定し、そのような〈黒澤明〉作品として『羅生門』を論じる解釈も可能となるのである。いいかえれば、『羅生門』そのものは長谷のいう「熱気」と下人のふるまいとのあいだに矛盾をはらんだ作品であり、それゆえ矛盾した作品として解釈されなければならないのである。
 このように、映画を矛盾したものとして動態的に解釈しようとする姿勢の欠如は、長谷が『羅生門』論を展開するなかで言及している黒澤明脚本作品『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(森一生監督、1952)の分析にも看取される。長谷はこの映画が「作品の形式自体において、従来の封建的時代劇を批判するというメタ映画的な構造をもっているため、黒澤明の当時の時代劇観が明快に提示されている」としている(39)。このうち、「黒澤明の当時の時代劇観が明快に提示されている」という点に関しては、映画の導入部で様式的に振付けられた鍵屋の辻の決闘のありさまを提示し、つづいてそのような遊戯的なチャンバラよりも意義深いものだという全知の立場からの紹介にあずかって、よりリアリスティックな鍵屋の辻の決闘を表象していることからも明らかであり、長谷自身もこの点に根拠をおいている(39−42)。しかし、この映画が「従来の封建的時代劇を批判するというメタ映画的な構造をもっている」がどうかに関しては疑問を感じざるをえない。なぜなら「従来の封建的時代劇を批判するというメタ映画的な構造」の追求が「黒澤明の当時の時代劇観」の中心を占めていたからといって、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』がそのような「構造」をもつ作品になるとは限らないからである。以下に詳しく見ていこう。
 前述のように、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』の導入部は、様式化された鍵屋の辻の決闘のありさまを映しだす。この場面を見て我々が感じるのは、この作品以前に繰り返し描かれてきた伝統的な殺陣の「美学」を模倣しようとしてしきれない、三船敏郎の身体のぎこちなさである。たとえば、我々が『決闘高田の馬場』(マキノ正博監督、1937)における阪東妻三郎の様式化された殺陣を見て、阪妻がそれ以前に培ってきたような、剣戟王というイメージと遊び戯れる「メタ映画」としてそれを解釈することは、説得力のある意見である。しかし、2003年のNHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』第一話が明らかに『七人の侍』(黒澤明監督、1954)を模倣しているという理由で、『武蔵 MUSASHI』が『七人の侍』よりも「メタ」な水準に到達しているとはいいがたい。同じように、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』の導入部には、長谷が指摘するような1950年的時代劇改革を標榜する黒澤明の意図を体現するかたちで、自己を「メタ映画」として規定しようとする全知の語り手が存在しているが、同時にそのような「メタ映画」としての責任に耐えきれずに右往左往する三船敏郎もまたそこに存在している。つまりこの映画には、黒澤明が脚本を執筆するに際して抱いていた企図を体現する「メタ」時代劇映画としての部分と、この作品を製作した東宝には伝統的な殺陣の「美学」を再現できる俳優がいないという〈超黒澤的〉な出来事に由来する「メタ」時代劇映画ではない部分とが、矛盾しつつも同居しているのである。そのような同居のさまこそがこの作品のもつダイナミズムであり、それを黒澤の意図にもとづいて「メタ映画」と名指ししてしまうのは、やはり黒澤明版『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』解釈の長谷正人による追認だといえるだろう。

 本稿は、冒頭部において本稿なりの言葉で要約したような『映画の政治学』の壮大な目論見に刺激されるかたちで書かれたものである。それゆえ、同書に収録された少なくとも一本の論文がそのような目論見を果たせずにいたところで、その著者・長谷正人のうちには恐らく映画学者が耐え忍ぶべき「忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさ」への自覚があろう。そのような自覚がある限り、日本における映画学は、本書に寄稿した多様な執筆陣を中心にしながら、こののち健全に発展していくにちがいない。筆者もまた、おのれ自身の「忘却」を見つめなおすことによって、そのような潮流に掉させればと張り切っている。

引用註
[*]菊田一夫『君の名は 上』(宝文館出版、1991年)、頁番号なし。
本稿では、同一の箇所を複数回引用する場合に、初回のみ引用註を付している。また『映画の政治学』からの引用についても、初回のみ後続する()内に頁番号を明記している。

付記

本稿で筆者が展開した黒澤明論の原型は、東京芸術大学映像・舞台芸術に関する授業科目開発研究プロジェクト実験授業「日本の古典映画2」を通じてまとめられたものである。