わたしのことを好きになってもらいたくない
『リバティーン』小論

加藤幹郎

 ひとりのおそるべき「リバティーン( 放蕩児 ( ほうとうじ ) )」が登場する。ジョニー・デップ演ずるところの詩人=劇作家ロチェスター 伯爵 ( はくしゃく ) である。 清教徒 ( ピューリタン ) 革命の瓦解後、リチャード二世(ジョン・マルコヴィッチ)の王政復古がかない、時代がデカダンスと性的 放縦 ( ほうしょう ) にそめられるときのことである。ロチェスター ( きょう ) の自由奔放な生きざまは国王リチャード二世の庇護下にありながら、国王の 逆鱗 ( げきりん ) にふれる行為をくりかえすことに端的にあらわれている。ロチェスターのラディカリズムは、国王から 委嘱 ( いしょく ) された 国賓 ( こくひん ) 向け戯曲をポルノまがいの演劇にしたてあげて政治的、文化的 顰蹙 ( ひんしゅく ) を買うことでピークに達する。
 しかしここまでのことなら 凡百 ( ぼんぴゃく ) の歴史映画がいくらでも描いてきたことである。本作『リバティーン』が突出した商業映画(時代を超越する非「歴史映画」)となるのは、ロチェスター卿(ジョニー・デップ)の徹底した自己破壊と自己戯画ぶりにおいてである。じっさい『リバティーン』は演劇的な映画であると同時に映画的な演劇とでも呼ぶべき奇蹟を達成している。
 映画の冒頭で主人公ジョニー・デップはカメラに向かって(つまり観客に面と向かって)「わたしのことを好きになってもらいたくない」と言い放つ。どんな商業映画であれ、ふつう観客が主人公に肩入れ(自己同一化)しないかぎり物語は円滑に進まない。「視線のリレー」(カメラの視線=登場人物の視線=観客の視線)と「切り返し」を組み合わせることではじめて映画的な映画になる古典的枠組みのなかで、プロローグとエピローグでジョニー・デップが観客にダイレクトに語りかける演劇的な手法(あるいは初期映画的な手法)は、この映画に「 放蕩児 ( リバティーン ) 」ジョニー・デップにふさわしい自己 韜晦 ( とうかい ) をあたえる。彼に見つめられることで、観客は彼に感情移入するキューを見失う。ふつうの商業映画なら、観客は主人公が見たものを見ることで(視線の同一化を通して)、物語世界内にスムーズにはいってゆく。しかるにジョニー・デップに見つめられながら(つまり彼が見たものを見ることができないまま)、「俺を好きになるな(俺に感情移入するな)」と断言されれば、観客としては途方に暮れるしかない。
 それだけではない。ジョニー・デップが演出した舞台は、当時の芝居小屋そのままに枝状燭台の膨大な数の 蝋燭 ( ろうそく ) の光だけで撮影されているように見える。そのため舞台のうえの俳優には薄暗い芝居小屋のなかでゆらめく蝋燭の光が神経症的に反映している。クローズアップで撮られた顔のうえに蝋燭の光がちらちらとゆらめき落ちている。しかもそれが手持ちカメラで撮影されている。いくらしっかりと固定しても手持ちカメラの微妙なゆれは隠せない(ふつうの商業映画ならば三脚に固定して撮影するところである)。それゆえゆらめく蝋燭の光と手持ちカメラの微妙なゆれによって、ジョニー・デップの舞台には緊張と狂乱、 凄絶 ( せいぜつ ) な神経症的不安があたえられることになる。
 放蕩のかぎりをつくしたロチェスター伯爵(ジョニー・デップ)が最期に妻に ( ) とられて静かに息をひきとる場面がある。そのまま凡百のメロドラマに ( ) すのかと思われた瞬間、あろうことか突然場面が変わって、息をひきとるロチェスター卿の姿が芝居小屋で演じられている場面となる。ロチェスターの稀代の生きざまは同時代に戯曲化され、評判をとっている。戯曲のモデルとなった詩人=戯曲家の死とそれを演ずる俳優の死の床の場面とをダイレクトにつなぐこのエンディングは、この映画の新人監督ローレンス・ダンモアのセンスの良さを物語ってあまりある。ロチェスター伯爵は実人生を演劇のように生きた人間であり、その最期の場面が舞台化された場面と重なるのは、彼の早すぎる死が観客の胸にせまるのに十分な演出である。死とは本来、一回性の出来事である。にもかかわらず、その死が舞台にのせられ、何回となく上演され、あまつさえ今回映画化もされたのだから、ロチェスターの生と死は永遠に反復されるものとなる。そしてそれこそ彼がもっとも望まなかったはずのものである。「これでもわたしのことを好きになるのか?」と映画の最後で観客に問いただすロチェスター卿(ジョニー・デップ)。彼にたいする観客の好悪の感情はともかく、彼の言葉に韜晦はあっても、いささかの偽りもない。
 商業映画(物語映画)では主人公の意見と感情、そして彼が行動するスペクタクル空間に観客がどのように関わるのかがつねにボックス・オフィスに反映する。したがって観客を凝視して「俺を好きになるな」と言い放つジョニー・デップは、演劇的な( 仄暗 ( ほのぐら ) い舞台も主人公の心の闇もよく見えない)映画であると同時に映画的な(写実的な)演劇でもある本作においてはまさに理想的な主人公となる。
 ハリウッド映画なら二時間四〇分はかかるであろう物語を、一時間五〇分にまで切りつめた本作『リバティーン』は、短すぎる一生を性急に駆けぬけたロチェスター卿の生きざまにふさわしい。そして「わたしのことを好きになってもらいたくない」というジョニー・デップの言葉は、華やかなスターであることをみずからに禁ずる俳優にいかにもふさわしい冒頭の一句ではなかろうか。


 小論は『キネマ旬報』(2006年4月上旬号)に掲載された拙文を改訂したものである。