日本映画伴奏の改善から前衛へ
――無声映画期の音響実践におけるプログラム・選曲・伴奏の諸機能について

大傍正規

はじめに

 初期の映画館という場では、多様な音響実践が行なわれていた。そこに集まる観客、多様性に富んだプログラム、そこに働く市場原理の要求などを勘案すれば、同じ映画を見ると言っても、その受容形態は多岐にわたっていた。アメリカにおいて、映画はイラストレイテッド・ソング(スライドショー付き館内合唱)やヴォードヴィル[1]、幻燈スライドといったさまざまなアトラクションとともに受容され、館内アナウンスもまた英語だけでなく、イディッシュ語、チェコ語、ドイツ語、イタリア語、フランス語など多様な言語で行なわれていた。音楽は映画館内外で聞くことができ、ライブ・パフォーマンスもあれば、機械(蓄音機やレコード伴奏)によるものも見られた。ところが1920年頃、こうした多様性は失われる。エスニック・コミュニティのように抵抗を続けた地域はあるものの、模範となる映画館のプログラム編成や音響実践が国内全域にひろがるのである[2]
 もちろん、これはアメリカで見られた現象であるが、日本の無声映画期の多様な音響実践と、それが均質化してゆく過程を知る上で立ち戻るべきは、やはりアメリカの制度化された音響実践である。日本においては、一部の特権階級を除いて、洋楽受容と映画受容とがほぼ同時並行的に進んだことや、伝統芸能の影響が根強かったこともあり、弁士より楽士の地位が相対的に下位におかれていた[3]。とはいえ洋楽の摂取が遅れていた当時の日本においては、映画伴奏が洋楽の普及を軌道に乗せた側面もあり、当時の映画雑誌においては、アメリカの制度化された音響実践を参照しつつ、日本独自の音響実践を模索する言説も見られたのである。
 本稿の目的は、映画館内で行なわれていた「日本的な」音響実践、すなわち狂言、人形浄瑠璃などの伝統芸能のみならず、レヴュー、ヴォードヴィルに供された伴奏、あるいはその他の見世物に提供された多様な音響実践を今後考察する際の参照項として、日本における無声映画期に制度化された音響実践について明らかにしておくことである。具体的には、1929年5月21日付の『キネマ旬報』から計9回にわたって連載されたエルノ・ラペーの『映画伴奏事典』(1925年初版)の翻訳と、1930年5月の『国際映画新聞』(第39号)において映画伴奏の参考書として取りあげられた著作(上記のラペーの著作とジョージ・W・ベイノンの『映画伴奏音楽』[1921年])を手がかりに[4]、その周辺の言説を分析することで、そこに映画というミディアムを媒介とした様々な欲望の変遷を見ることである。洋楽受容と切り離す事のできない日本における映画の伴奏音楽は、和洋合奏というかたちで洋楽との折衷的融合をはかると同時に、いかにして洋楽を乗り越えるかという課題があった。結論を先取りして言えば、そうした状況下における楽士の和洋折衷を乗り越えようとする音響実践は、洋楽受容の進展とその対抗策として見出された「日本的な」洋楽の流れと一致していた。こうした楽士の音響実践はのちに、1937年のP・C・L(写真科学研究所=フォト・ケミカル・ラボラトリー)の登場前後に頭角を現す映画音楽家たちによって、「前衛」的な「新しい」映画音楽として受け継がれてゆく事になる。

1.1929年以前の伴奏音楽における諸問題とその改善策

 『キネマ旬報』誌上に『映画伴奏事典』の訳注(1929年)が掲載される1年前、鉄道省嘱託の村尾薫は『国際映画新聞』誌上で、1928年当時の楽士を取り巻く状況について、以下のように語っていた。すなわち「説明者を重大視する日本ではアメリカ程に伴奏楽が重んじられていない。先ず普通の一人前の音楽部を持っていればそれでいい。特に音楽部に力を入れて、メンバーを大勢にしても、それだけ余計もうかるものではないから、人並に、他の館に比してさして遜色のない程度にやっていればいいと考える経営者が多い」[5]
 常設館の音楽部に欠けていたのは、経営者の音楽に関する認識だけではない。楽士自身の映画と音楽に関する認識も同じように欠落していた。すなわち陸海軍の軍楽隊出身者や「東洋音楽学校其他の私立音楽学校出身者及び音楽教習所、個人の私宅教授等」から楽士になった者らが、総じて映画に暗いと言う。そして彼らの多くが、ただ楽器を弾き、スクリーンに向かって年月を送るのみで、仕事に熱がなく、映画の特質や映画界の趨勢、映画監督や俳優の特長などについても総じて関心の薄かったことが指摘されている。このことは当時の高級な音楽家はみな東京音楽学校出身であったことからも推察され、楽士を目指したものは相対的に低学歴であったことからもうかがわれる[6]
 また1927年に入って、パラマウント特作『戦艦くろがね号』(Old Ironside、ジェイムズ・クルーズ監督)と『つばさ』(Wings、ウィリアム・A・ウェルマン監督)が「立派な伴奏スコア」とともに輸入され、邦楽座において封切られたとき、それらが「映画音楽家にとっては得難き絶好の研究資料」であったにもかかわらず、邦楽座以外の館の楽士の中に、このスコアを記録して、研究する者はいなかった[7]。このことは映画が封切りされて数ヶ月のちには、楽士の記憶とともに、スコアの存在は他館の楽士に共有されることもなく忘却されていたことを意味している。したがって村尾の言うように、「楽士養成機関」を設立するなり、その「採用試験」を受けさせるなりして、「今後はただメンバーを多くするよりも、メンバーは少なくても映画の分ったほんとうに有能な楽士を集めることが経営者の注目点」とならねばならなかったのだろう。とはいえ時すでに遅く、1929年5月9日には、ウエスタン・エレクトリック社製のフィルム式トーキーによる本邦初のトーキー短編映画『進軍』、『南海の唄』が新宿武蔵野館と浅草電気館で公開され、続いて同月23日には追い打ちをかけるように、『レッド・スキンRedskin』が映画伴奏界における大御所ザメクニックの選曲による伴奏音楽と共に、邦楽座および松竹座において公開された。映画産業のトーキー化という技術的な変化が、無声映画期の音響実践にとってかわり、それらを完全に破壊したという単純な進歩史観はつつしまねばならいものの(当然、ラジオやレコード産業等の他のミディアムとの関係も考察しなければならないだろう)、この時点で、楽士の存在は早くも不要なものとなりつつあったのである[8]
 こうした状況を改善すべく、芝園館専属の弁士として、さらにパラマウント日本支社が経営する邦楽座で数多く封切られた欧米の「高級な」映画の弁士としても有名な松井翠聲(すいせい)は、映画と音楽に関する論文を数多く執筆するなど、多面的な能力を持つ弁士=説明者として活躍していた。その松井が、1929年の『キネマ旬報』誌上(331号〜339号)において、「映画伴奏楽に就いて」と題し、計9回にわたってエルノ・ラペーの大著『映画伴奏事典』(1925年)の訳注を行なった[9]。松井の言うように、原著の出版から4年の歳月が経過しているにもかかわらず、『映画伴奏事典』の冒頭部分(27頁分)を訳出すると同時に、日本の文脈に照らして注釈を加えたのは、1929年当時、映画伴奏に関して手引きとなるまとまった著述が少なかったという動機からである[10]。ここで留意しておかなくてはならないことは、なぜパラマウント日本支社が経営する邦楽座の弁士が、このようなアメリカの音響実践のモデルを日本へ移入したのかという点である。考えられる理由としては、少なくとも以下の二つがあるだろう。第一に、音楽に関する認識の低い経営者の下で、頼みとなる手引きもないまま、映画に疎い楽長の指示に従って行われていた稚拙な映画伴奏を改善しようとする松井自身の考えである。そして、さらに重要な理由としては、蓄音機やレコードなどの音響設備を海外の輸入に頼っていた日本においては、外国映画を上映する際に、その設備を販売する業者が提供するプログラムに従わざるを得なかったという背景がある。だからこそパラマウント直営の映画館においては、映画の説明者(理解者)たる松井翠聲自身が楽長の役割を兼務し、それまで存在した多様な音響実践を平準化するような、アメリカの制度化された音響実践を推奨してゆくのである。ラペーやベイノンの参考書が必須のものとされた背景には、こうした状況が存在したのである。

2.『映画伴奏事典』 ― 松井翠聲の訳注を手がかりに

 松井自身も断っているように、『映画伴奏事典』[11]は、約一万にものぼる楽譜目録がアルファベット順に分類されているエンサイクロペディア(事典)の部分が中心であり、松井が訳注を加えたのは同書の導入部にあたる最初の27頁分でしかない。その27頁にすぎない手引が、アメリカのみならず日本においても参照され、それまで多様に存在していた日本の音響実践がいよいよ完全に均質化する契機が与えられたことは意義深い。とはいえ映画学者リック・アルトマンが述べるように、ラペーの『映画伴奏事典』と、ベイノンの『映画音楽のプレゼンテーション』、そしてラングとウエストが執筆した『映画の音楽伴奏』(1920)の三冊のみを引用するだけで、単一的なサイレント映画期の伴奏音楽史を書き上げてしまうことは慎まねばならないだろう[12]。それらの著作は、あくまでも無声映画期の多様な音響実践との比較検討を行うための参照項として利用すべきマニュアルなのである(日本の多様な音響実践との関係については、稿を改めて比較検討したい)。
 さてラペーの『映画伴奏事典』が訳注された当時の映画興行プログラムはいかなるものであったのだろうか。ここからは、おもに松井の訳注を参照しながら、ニュース映画、風景映画、 長編物語映画 ( フィーチャー ) における映像と音のシンクロナイゼーションの観点(あるいは 感情 ( エモーション ) と音楽の結びつきの観点)から、アメリカのサイレント映画期の音響実践と、日本の無声映画期の音響実践について確認しておこう。
 1929年当時の一般的な映画興行プログラムは、以下の表のように前奏曲(序曲、序楽)にはじまり、当時流行していたレヴュー、ニュース映画(外国の風景をとらえた風景映画も含む)、ヒットソングの寄せ集めで構成されていた短編喜劇という、いかにも音楽との相性の良いプログラムから、時代劇や現代劇等の呼び物映画( 長編物語映画 ( フィーチャー ) )へと至る構成をとっていた[13]
 前奏曲(序曲)に関して松井は、日本のように「二本立て、三本立てと称して呼び物映画が二つも三つも番組に組まれる」所では、個々の作品に応じて、より「変化に富んだもの」であることが求められ、「観客の好み」に応じて決定されなければならないという[14]。じっさい、日本の常設館においても、前奏曲で館内の雰囲気を醸成し、その雰囲気を長編物語映画へと導いてゆくことが求められていたのであるが、その意味で、この時期の映画興行における音響実践は、単に映画作品の映像とその伴奏の間の関係が問題であっただけではなく、前奏曲にはじまり長編物語映画で終わるプログラム全体を通してはじめて理解することが可能であった[15]。ただし封切館においては、事前の検閲のために試写が封切り初日やその前日に行なわれたり[16]、毎週新しいプログラムに切り替える必要があったために選曲をする時間が限られており、必ずしも全ての常設館で同じような音響実践が採用されていた訳ではないことは留意しておくべきであろう。
 アメリカにおいて、ニュース映画の添え物としての外国の風景をとらえた風景映画には、「美しい旋律」の音楽が適切であり、交響楽のアンダンテ楽章やチャイコフスキー第五番の5/4楽章等が伴奏されていた。さらにイタリアやフランスやロシア等の風景にはそれぞれの国の民謡を奏する慣習が存在していた。ここで重要なことは、ラペーが伴奏を聞かせる対象として想定しているのが、1920年代中頃のピクチュア・パレスのような豪華絢爛な映画館に集まる多様な移民観客であったということである[17]。すなわち当時の映画館という場所は、イタリアから来た移民にとっては、イタリアの風景映画に伴奏されたイタリア民謡を聴きながら故郷の風景に思いをはせると同時に、アメリカという多民族国家における自らのエスニック/ナショナル・アイデンティティを再発見する場所として機能していたのである(次節では、日本における映画館の伴奏改善に関する日本人の言説を分析することで、日本の映画館という場もまた日本人にとってのナショナル・アイデンティティの獲得の場となっていたことについて検討したい)[18]
 ニュース映画には 行進曲 ( マーチ ) が伴奏された。ラペーは、風景映画において同じ場面が長いあいだ続く場合には、伴奏曲の長さに合うように映画のあまり重要でない場面を躊躇なく編集して良いと述べていたが、ニュース映画についても以下のように述べている。すなわち「選んだ行進曲を丁度良い切れ目で終わらせるのが重大な事ですが、全ての場面が或る行進曲とお誂への長さになっては居りませんから、其の長さを計って繰り返しを廃すとか乃至はカットをするとかして其行進曲の丁度終りと一致させるのです」[19]。つまりニュース映画や風景映画においては、音楽が主であり、映画がそれに従属していたことが理解されよう。首尾一貫した構成を持つ音楽と同じように、ニュース映画もまた首尾一貫した構成を持たねばならない、さもなければ音楽に合わせて映画が切除されることを意味したのである(映画が統一的な構成をもたねばならないという考えは、この頃のニュース映画や短編喜劇映画の伴奏音楽によって普及した側面がある)。
 最後に、 長編物語映画 ( フィーチャー ) の伴奏音楽についてみておこう。ラペーの経験によれば、長編物語映画の伴奏は、以下の二点に集約される。第一に、映画の地理的、民族的な雰囲気をとらえることであり、第二に、主要登場人物にテーマ音楽(主題歌)を付ける事である。前者に関しては、風景映画やニュース映画における伴奏音楽と同様に、たとえ物語映画が複雑な構成を持っていたとしても、伴奏音楽がその構成を単純化してしまうという弊害があり、その後も改善すべき音響実践として映画雑誌や業界紙において議論の対象とされた。
 後者について言えば、アメリカでは1910年代後半から20年代にかけて、音楽的なコンティニュイティの構築と登場人物の感情を表現するための新しい方法論が、キュー・シートの編集者、作曲家、音楽監督等によって模索されていた。サイレント映画の伴奏が登場人物の内面を表現する際に参照していたのは、主として登場人物の表情であった[20]。この外面(音楽)から内面(感情)へという手続きが登場人物のキャラクターを画一化することで、スクリーン上の多様な俳優の演技の差異もまた画一的に把握され、アメリカにおけるスター・システムの発展やジャンル映画の発展さえ、こうした伴奏音楽によって維持されていた[21]。このように主役や主要登場人物に主題歌やライトモチーフ[22]を割り当てた背景としては、セットmusical settingsやキュー・シートを主題的に組織化することが求められたからである[23]。こうして登場人物の状況によって音楽を変えるというライトモチーフ起源のスコアは、のちの映画音楽伴奏に大きな影響を与えた。主題歌を採用することによってキュー・シートの編集が容易になったために、選択する曲目が減り、オーケストラとオルガン奏者の負担が軽くなったが、「単調さ」や「繰り返し」が生じるというリスクを伴っていた。そのため長編物語映画において最も注意を要したのは、いかにして「変化」を加えるかということであり、オーケストラの構成を変えたり、楽器を変えたり、同じ歌を転調したりして、テーマ音楽をさまざまなヴァリエーションで使用することが求められた。しかしながら主題歌においては、どうしてもスクリーン上の感情の高低としっくりゆくことがまれであり、映画に合わせた新曲を作曲することが理想とされたのである。
 松井が言うように、日本における主題歌の問題については、「物語をテーマとしても、場面の感じを主題としても勿論、伴奏曲の選定はできますが人物テーマだと非常に選曲が楽で都合の良い場合」が多く、「只の一二度顔を出すだけでも、印象を強くするためにはテーマが必要」であった[24]。二人の登場人物が画面上に現れた際には、対位法の法則に従って、作曲することが理想とされていた。このように登場人物の複雑な 感情 ( エモーション ) を表現する際には、それ相応の楽曲を創造する必要があったが、松井も「日本の様に伴奏のない部分がある部分より多い様では斯うした試みは出来ません」と述べているように、日本で通常行なわれていたのは、邦楽座のような一部の例外を除いて、「幕あき」「ラヴシーン」「格闘」「追かけ」等の伴奏音楽を挿入するだけで済ますことも多かったようである[25]
 こうして1920年以降、徐々に均質化したアメリカにおける音響実践を記述したラペーの『映画伴奏事典』の訳注は、映画伴奏に関して手引きとなるまとまった著述のなかった1929年当時の日本において、数多くの常設館主や楽士によって参照されたと思われる。そうした状況の中、早くも翌年には日本の常設館における伴奏音楽の改善を促す声が上がり始めるのである。

3.日本映画伴奏の改善から前衛へ― 映画音楽の「日本化」について

 前節では、『キネマ旬報』誌に掲載されたエルノ・ラペーの『映画伴奏事典』の訳注を参照しつつ、制度化された音響実践におけるプログラムや選曲、伴奏の諸機能について確認した。本節では、1930年前後の『国際映画新聞』に掲載された、映画伴奏の改善策に関する記事を分析することで、日本の常設館における伴奏音楽を改善する試みが、1937年のP・C・L創立を契機として現代音楽家らの前衛的な試みに引き継がれる中で、映画音楽が「日本化」されてゆくこと、すなわち、映画音楽が日本人にとってのナショナル・アイデンティティの獲得の契機となっていたことについて考察する。その際に念頭に置いているのは、アメリカ社会におけるいわゆる同化と排除のプロセスにさらされた移民の境遇と、西洋文化の同化と排除にさらされた日本の境遇との類縁性である。とりわけユダヤ系移民の映画興行者が、アメリカ映画の上映の幕間に、イディッシュ語のヴォードヴィル劇を上演することで、自らの文化的アイデンティティを保持した点は示唆に富むだろう[26]。つまり映画産業構造そのものや興行習慣を「アメリカ化」[27](あるいは西洋化)することを強いられていた当時の日本の映画興行者もまた、近代化の象徴たる映画というミディアムの興行に際して、「日本的な」音響実践を行なう事で、自らのナショナル・アイデンティティを保持した可能性があることを示唆したいのである(急速な近代化を目指していた日本においては、アメリカにおいてユダヤ人らが示した抵抗という側面よりも、ナショナル・アイデンティティの萌芽という側面が大きいだろう)。
 1930年当時の日本の常設館において、定員500‐600人位の映画館で伴奏をする際に理想とされた最小単位の構成員は、ピアノ、ヴァイオリン、セロのトリオであった。それ以外に、木管、ブラス、弦バス、ドラム等が追加されることもあったが、これは映画の種類や、観客、土地柄、館内の状況等によって、伴奏責任者や常設館の経営者の自由裁量に任されていた。だからこそ東京芝園館支配人の金指英一が述べるように、音楽部の編成に際して「経営者の音楽に対するセンスが求められる訳であるが、その経営者のセンスが最も露見するのは、音楽部員の編成による」のだ[28]。いまや休憩奏楽より映画伴奏を重視し、ジャズの伴奏をとりいれたり、新しい趣向を凝らした選曲を行なって観客の嗜好をとらえなければ、目(耳)の肥えた映画(音楽)愛好家を満足させることはできなくなっていた[29]
 選曲に際しては、「館の経営方針、客の階級層、館内の雰囲気、映画の性質等を敏感に察知し、曲目を多く識り、真面目で研究心に富み、アレンヂすることが出来れば更に結構で、楽員の統制にも長けている人」が選曲者となることが求められていた[30]。とはいえ『映画伴奏事典』の訳注の中で松井も言っているように、「まったく活動(劇的方面)がよく解るかと思へば音楽的の技量がなかったり、音楽的には立派な人でも芝居心がなかったり、活動館の音楽指揮者やボードビルの指揮者は一般音楽家仲間からよくも云われないくせに恐ろしく骨の折れる仕事でして、なかなか適当な人はいない」のが現状であり、邦楽座のような一部の例外を除いて、本格的な交響楽は聞くことは容易ではなかった[31]
 さらに経済的見地からいち早くトーキーのシステムを導入した邦楽座、電気館、芝園館等のトーキー上映館ではレコード伴奏が行なわれていた一方で、レヴューを提供していた松竹座では(松竹座の幹部には、一流館としてレコード伴奏は貧弱だという自負心もあった)、従来どおり生の楽器伴奏を提供するなど、『映画伴奏事典』や『映画伴奏音楽』などの参考書によって音楽のレパートリーが均質化してゆく一方で、この時期のトーキー映画の常設館の興行方法は混沌とした多様性を保持していた。松竹座チェーンでは、説明者をあくまでも生かし、映画のダイアローグの音量を小さく絞ってサウンドを生かす程度にとどめていたし、電気館においては映画中の主題歌又は主な説明を幻燈にして、スクリーンの傍らに同時に映写して外国語を解さない観客の理解を助けていた。武蔵野館では、徳川夢声が中心となって、説明者がトーキーの音量を説明に応じて調節していたし、外国人や比較的上流階級の支持を受けていた芝園館や邦楽座ではトーキーのシステムを最大限利用し、しばしば無説明上映が行なわれたり、説明字幕を挿入することも試された。トーキーのサイレント版その他の無声映画を上映している南明座、道玄坂キネマ、葵館、牛込館、シネマパレス、東京館、東京倶楽部等の洋画館は大部分がレコード伴奏で、東京館とシネマパレスが依然として生伴奏を行なっていたのである(1930年時点)[32]
 こうした玉石混淆の体をなす音響実践に対して、具体的な改善策を提起する者も現れた。一般的に洋画には当然のように洋楽が伴奏され、邦画には和洋合奏が行なわれることが多かったのであるが、そうした音響実践に対する批判の矛先は、邦楽と洋楽が折衷的に用いられていた日本映画の伴奏に向けられた。1931年の『国際映画新聞』誌上で村尾薫は、「楽譜も従来の日本曲では映画伴奏には不適当だし、かと云って洋曲をこのまま使っては尚更気分が合わない。そこで新しく日本映画の伴奏曲を作曲することが必要になってくる」と述べた[33]。ここで言う「新しい」日本映画の伴奏曲とは何を意味するのか。村尾が範としてあおいでいるのは、「日本映画伴奏の第一人者」、浅草富士館の楽長松平信博の音響実践である。すなわち「従来の単なる和洋合奏ではなくて、洋楽と邦楽とをよく融合せしめて、時代劇によく適応する新しい音楽」を創造することである。
 一年前の『国際映画新聞』誌上において、松平信博はその「新しい音楽」の試みについて述べている。「外国映画に関しては、最低限、ピアノ、ヴァイオリン、セロのトリオで間に合うが、日本映画、とりわけ時代劇には、そこに、是非、三弦、フリュートを付け加えるべきである」[34]。すなわち時代劇伴奏にお囃子方を加えるべきであり、「日本楽器を骨子として、洋楽器を肉として編成するを最も効果多きものとして試みている」というのだ[35]。従来のように、単に邦楽と洋楽があいまいに折衷されていた音響実践ではなく、和楽器を軸とした「日本的な」音響実践への転換を説くのである。
 1930年当時の日本映画の伴奏の状況について、「剣劇の殺陣の場面にテンポの早い長唄のある一個所を無闇に繰り返」して、「唯有合せのものを以て間に合わせているに過ぎない」と批判していた理学者田邊尚雄は、理想の映画伴奏として「其の映画に就て特別に作曲されたもの」でなければ充分な効果をあげることはできないと言う[36]。ここで理想とされている音楽もまた「日本的」なるものを重視した「新の意味の純日本音楽」であり、欧州の音楽に囚われない音楽のことを理想としている。具体的な方策として、田邊は、 発声映画 ( トーキー ) という新しいミディアムと、当時勃興しつつあった宮城道雄らの「新日本音楽」[37]を融合させることによって、日本映画の新時代を切り開くことを提起した(田邊尚雄は作曲もできる音楽学者でもあり、そもそも新日本音楽の協力者であった)。こうして無声映画期の音響実践について数多くの提言を行なってきた村尾薫の理想である、松平信博の和楽器を軸とした「日本的な」音響実践と、大正期に楽壇ジャーナリズムにおいて旺盛に音楽評を執筆していた田邊尚雄の理想である、時代劇映画と宮城道雄らの「新日本音楽」との融合という視点は、日本の伝統的な音楽感覚と異なり、遥かに豊かな表現力を持った西洋音楽に圧倒されていた日本の音楽家達が、1930年前後になってようやく乗り出した日本の音楽創作の流れと重ね合わせて見ると、1937年のP・C・L発足以降における日本の映画音楽家らの音響実践へと引き継がれていることが理解できるだろう。つまり、のちに映画音楽家として華々しく活躍する深井史郎(1937年「パロディ的な四楽章」が新響邦人作品コンクール受賞)や伊福部昭(1935年「日本狂詩曲」がチェレプニン賞受賞)、早坂文雄(1937年「古代の舞曲」がワインガルトナー賞受賞)らの新しい世代が1930年前後から取り組んできた音楽が、P・C・L(のちの東宝)の映画音楽において重要な役割を果たしてゆくのである。それでは、本節を締めくくるにあたって、無声映画期の音響実践を改善する際に提起されていた「新しい」映画音楽が、P・C・L= 写真科学研究所 ( フォト・ケミカル・ラボラトリー ) 発足以降の映画音楽において具現化されている姿を見ておこう。
 写真乳剤研究からフィルム式発声映画の研究熱に乗じて、P・C・Lは、録音技術の提供に特化した新興ベンチャー企業として出発した。その後、P・C・Lは、東京モスリン(現・大東紡織)、明治製菓(同社との資本関係は、『純情の都』〔木村荘十二、1933〕として結実)、日本無線、大日本ビール社(現・サッポロビール、アサヒビール、同社との資本関係は「日本初の」ミュージカル映画『ほろよひ人生』〔木村荘十二、1933〕として結実)などから豊富な資金提供を受けた国産トーキー社を吸収合併し、あらためて1937年6月1日にP・C・L= 写真科学研究所 ( フォト・ケミカル・ラボラトリー ) として株式会社化された(P・C・L作品『純情の都』、『ほろよひ人生』を作曲し、P・C・Lの音楽部長として19作品もの映画音楽を担当した紙恭助は「日本的な」音響実践が謳われていた無声映画期の楽士出身である)[38]。P・C・Lは当初、資本家の投資リスクを軽減するために、トーキー映画製作を行なわず、録音技術の提供に特化せざるを得なかったが、事業が軌道に乗りはじめた1937年の時点で、投資資金を回収するという投資家の要求を満たすかたちで、広範な配給網と興行施設を併せ持つ東宝に吸収合併された(事業の拡大化という野心を持つ東宝の経営者とP・C・Lの投資家達との利害が一致したとも言えるだろう)。こうして映画事業の近代化の申し子たるP・C・Lから東宝へと「国産トーキー」を制作するという事業戦略が引き継がれ、東宝は次々と現代作曲家らを使って、日本映画音楽史に重要な作品を残してゆく。
 P・C・L、東宝の専属作曲家であった伊藤昇(1903-1993)は、『妻よ薔薇のやうに』(1935年、P・C・L、成瀬巳喜男)において、テーマ音楽の変奏という無声映画期の音響実践=ラペーのモデルに従っていたが、『桃中軒雲右衛門』(1936年、P・C・L、成瀬巳喜男)においては、「浪花節を洋楽器の編成によるシンフォニックな表現でこころみた」、「新しい」映画音楽を創造した[39]。「前衛的な手法」を用いて映画音楽を作ると言われた深井史郎(1907-1959)における「前衛」もまた、『阿部一族』(1938年、東宝、熊谷久虎)にみられるように、洋楽器を用いた映画音楽に、「日本古謡か琴唄のような表情をもった音楽」を加えたものであった[40]。さらにフランスの印象派スタイルで新しい表現の作曲を試みていた菅原明朗(1897-1988)による『藤十郎の恋』(1938年、東宝、山本嘉次郎)の映画音楽とは、「弦楽器と管楽器のゆったりとしたハーモニーのうごめきのなかから、雅楽ふうのおごそかなひびきがうかびあがる」ものであった(そこには、先述した「新日本音楽」家、宮城道雄の琴が加わっている)[41]。服部正(1908-不詳)がのちに『虎の尾を踏む男達』(1945年、東宝、黒澤明)において、試みたのもまた「日本の伝統音楽と洋楽器による西洋的な構造をとった音楽」との巧みな混合であった[42]。東宝で重要な仕事をした伊福部昭(1914-2006)の音楽の日本的な抒情性や、「映画音楽に民族的要素」を加えなくてはならないと言った早坂文雄(1914-55)にせよ彼らはみな、「西欧とは異質な東洋の音楽の時間=空間の構造を追求して、そこから独自な自分たちの音楽の世界が創造される可能性を生涯追いもとめた」人たちだったと言えるだろう[43]
 このように、のちに日本における映画音楽界を牽引してゆく現代作曲家たちによる、日本「独自」の、「自分たち」の映画音楽を模索する試みは、一方で「新しく」「前衛的」な試みであったとも言えるが、じっさいは1930年前後の『国際映画新聞』誌上でも議論されていたように、無声映画期の音響実践を改善する試みの中においてすでに焦点化されていたものである。こうして、無声映画期の音響実践において残された課題と、その後の現代作曲家たちの「新しい」音響実践によって、映画音楽はますます日本映画そのものの一部として機能するようになったのである。

おわりに

 以上、本稿では、『キネマ旬報』と『国際映画新聞』誌上で取り上げられた、エルノ・ラペーの『映画伴奏事典』を手がかりに無声映画期における音響実践の歴史的変遷をたどりつつ、そこに映画というミディアムを媒介とした欲望の変遷を見てきた。すなわちラペーの『映画伴奏事典』やベイノンの『映画音楽のプレゼンテーション』の普及によって、感情を図式的に分類してそれに見合った音楽のリストを準備することで映画伴奏を簡素化してゆく一方で、日本映画の伴奏に関しては、折衷的な和洋合奏から、和楽器を軸とした「日本的な」音響実践への転換が説かれ、そうした「新しい」映画音楽が、P・C・L発足以降の映画音楽において具現化されていることを明らかにした。今後は、1929年以前に映画館内で行なわれていた「日本的な」音響実践、すなわち狂言、人形浄瑠璃などの伝統芸能のみならず、レヴュー、ヴォードヴィルに供された伴奏、あるいはその他の見世物に提供された多様な音響実践を本稿で言及したラペーらの音響実践と比較検討することで、より広範な視点から映画について考察してゆく必要があろう。

昭和4年7月7日‐14日一週間

種別

序楽若ハ休憩楽

レヴュー

ニュース時報

喜劇

時代劇

現代劇

名称

スパニッシュセレナーデ

高速度舞踊

世界見物

牛の競争

忠臣蔵

近代幻想曲

第一回興行

十時

十時十分

十時二十五分

十時三十五分

十時四十五分

十二時十五分

第二回興行

二時

二時十分

二時二十五分

二時三十五分

二時四十五分

四時十五分

第三回興行

六時

六時十分

六時二十五分

六時三十五分

六時四十五分

八時十五分

付記 引用文献中の旧漢字・歴史的仮名づかいを断りなく現行の字体に改めた場合があるほか、電子編集作業の都合上、アクサン記号などが省略されている場合がある。


[1]語源的には、オリヴィエ・バセランが作曲した、当時よく知られていた酒場の歌のタイトル『岩棚の谷のうたChansons du Vau de Vire』から採られたというものや、その他に「街路の歌songs of city streets」を表す「voix de ville」など諸説がある。Bernard Sobel, A Pictorial History of Vaudeville(Citadel, 1961), p.17.
[2] Rick Altman, Silent Film Sound ( Columbia University Press, 2004), pp. 367-368.
[3]日本における洋楽受容については、以下を参照されたい。掛下慶吉『昭和楽壇の黎明 ― 楽壇生活四十年の回想』(音楽之友社、1973年)、塚原康子『十九世紀の日本における西洋音楽の受容』(多賀出版、1993年)、中村理平『洋楽導入者の軌跡 ― 日本近代洋楽史序説』(刀水書房、1993年)、中村洪介著、林淑姫監修『近代日本洋楽史序説』(東京書籍、2003年)。
[4]松井翠聲は、エルノ・ラペーの『映画伴奏事典』の訳注の中で、移民としてのラペーの経歴を述べる際に、ジョージ・W・ベイノンの『映画音楽のプレゼンテーション』(1921年)を参照している。それによれば、ラペーの経歴は以下のようになる。エルノ・ラペー・・・NY、キャピトル座の有名な音楽指揮者。ハンガリーのブタペストに生まれ、王立学院の作曲及びピアノ科を卒業。ドレスデン王立オペラ劇場の音楽指揮者エルンスト・シュツフに就いて指揮を習う。欧州各市において大劇場の指揮者である。米国に渡り、はじめヘンリイ・サヴェッジと契約し、のちにハリイ・ラウダアと結ぶ。カーネギー・ホールの音楽指揮者として二シーズンを過ごしたが、映画界に進路を見出して辞す。『キネマ旬報』(1929年、5月21日号)、40頁を参照。
[5]村尾薫「常設館音楽部の改善」『国際映画新聞』(1928年10月号)、23-25頁。楽士のおかれた状況を述べた以下の挿話も興味深い。「邦楽座も開館当座は日本交響楽協会の三十余名のオーケストラを揃へて山田耕作氏以下三人のコンダクターを持つ程の勢いだったが・・・最近では指揮者なしの十七八名の小管弦団に縮小してしまった」。
 また、映画館内の演出を統一する、ステージ・マネージャーの必要性について言及されることもあった。ここで、日本の映画音楽の新しい方向性が打ち出されていることは注目しておくべきである。


斉藤為之助(松竹)「このマネヂャー、一人ではいけない。音楽説明、映写の解る人まァ三人が必要です」
石井(国際新聞社員)「専門家に駄目の出せる人であればよいのでせう」
斉藤「いや、それなら僕でも出来るが何と云ふ曲をやれと云った様に専門家でないと楽手の方で馬鹿にしますからネ」
三宅巌(日活富士館支配人)「楽長なども映画を正しく見て、同じ乱闘の場面でも、逃れていく時と、進んで行く時とは自ら調子を変えるべきです」
斉藤「編曲でない、創作の曲が必要ですな。どうも説明と音楽との調和がとれてなくていけない」


「今秋内外映画興行戦批判合評会速報記録」『国際映画新聞』(1927年11月25日号)、253-257頁を参照。
[6]東京音楽学校創立のおこりは、1897年(明治12年)に、時の東京師範学校校長伊沢修二を御用係に任命して、音楽取調所を創立したことにはじまる。以下の伊沢の音楽政策は、のちの映画音楽の方向性の指針としても読めるだろう。一、洋楽と邦楽を折衷して新曲を創造すること、二、またそれを創造する楽人を養成すること、三、さらに全国各学校に音楽を正課として実施すること。園部三郎『音楽五十年』(時事通信社、1950年)、33‐43頁。
 また、1924-5年度版『映画年鑑』(東京朝日新聞社)に掲載された楽士名簿における、楽士の「学歴」を見ても、東京音楽学校出身者は皆無であり、「東洋音楽学校」「陸軍戸山学校」をはじめとして、「海軍軍楽隊米国加州アラメダ音楽学校」、「海軍軍楽手」など軍楽隊出身者が一部見られる程度で、小中高出身の楽士が大半をしめている。
[7]村尾薫「常設館経営と音楽の効能」『国際映画新聞』(1927年10月20日号)、268-269頁。
[8]『キネマ旬報』(1929年、5月11日号)、6頁。邦楽座では、山田耕作の日響管弦楽団がパラマウント社から1929年6月限り全楽手の解雇を申し渡されている。同年7月20日には、新宿武蔵野館の楽士17名の内6名に手当一ヶ月分を支給して突然解雇され、本邦初の楽士争議が持ち上がるなど、いよいよ楽士は別の道に進むことを模索する必要に迫られていた。
[9]本訳注も含めて、松井がこの時期に執筆した論文がまとめて、『映画音楽全般』(春陽堂、1931年)に採録されている。巻頭には、当時NYのロキシー劇場にいたラペーから、『映画伴奏辞典』の序文の翻訳を許可する手紙が掲載されている。残念ながら、手紙の日付の上に松井自身の写真が重ね合わせられているために、手紙が送られてきた日付は同定できないが、『キネマ旬報』に訳注が掲載され始める1929年5月21日以前のものであると推察される。
[10]『キネマ旬報』(1929年、5月21日号)、40頁。
[11] Erno Rapee, Encyclopaedia of Music for Pictures. New York : Belwin, 1925; rpt., New York : Arno . 本書が出版される前年にラペーは『ピアニストとオルガン奏者のための映画のムード』を出版した。こちらは、スクリーン上のアクションとの同期化(飛行機、楽隊、戦闘、鳥、子供、ダンス、人形、フェスティバル、葬式、レース、鉄道など)や、心理的な状況(陰惨なムード、怪奇的、恐怖、ユーモラス、不寛容、喜び、幸福、愛のテーマ、神秘的、退屈、牧歌的、情熱〔受苦〕、宗教的、悲哀)に焦点を当てた楽曲のリストが豊富である。さらに充実しているのが、「国家」に焦点を当てた楽曲のリストである(アメリカに関連する音曲集、集合ラッパの音、南部用の音、大学、クリスマス、古い流行歌。その中で日本は中国と同じカテゴリーに容れられ、日本の国歌『君が代』、オットー・ランジェー作曲の『中国人‐日本人』や、『中国の茶室で』であるとか、ロバート・H・バウアー作曲の『中国の子守唄』、『FUJI-KO』(日本の幕間演芸)など、日本と中国とがステレオタイプ化されてとらえられている)。『ピアニストとオルガン奏者のための映画のムード』から『映画音楽事典』にかけての最大の変化は、事典に掲載された楽曲のタイトルと作曲家の隣に、レコード業者名が記載されたことだろう。前著では楽譜を採録していたが、『映画音楽事典』では楽曲のリストを採録するにとどめたため、一万曲近くのリストを掲載することができた。その各リストには余白があり、そこに購入したレコード名を記載してゆく事が推奨されている。なお、両書を出版したベルウィンBelwinもシャーマーG. Schirmerも有名なレコード会社であり、楽曲リストの中には両社製の数多くのレコード名が採録されている。1970. Erno Rapee, Motion Picture Moods for Pianists and Organists: A Rapid-Reference Collection of Selected Pieces, New York : G. Schirmer, 1924.
 楽譜のライブラリーは楽士にとってなくてはならないものであったが、カール・フィッシャーやシャーマーのライブラリーを揃えるには当時の価格で数千円を擁し、エルノ・ラペーが編曲した3〜400冊のライブラリーからなるベルウィンのライブラリーはそれよりもやや手頃な価格であった。金指英一「支配人の為に執筆せる 常設館に於ける音楽及伴奏上の諸問題」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、13頁。
[12] Altman, p.11. アルトマンの『無声映画の音』(Silent Film Sound, 2004)では、これら三冊が随分と引用されているものの、それは業界紙、ヴォードヴィルの経営者のリポート、スコア、技術的なジャーナル、キューシートといった一次資料を渉猟したうえで、それらと比較検討するために持ち出されている。このように、アルトマンの無声映画音楽研究は1970年代以降に隆盛を見せた初期映画研究の方法論を採用し、アメリカの無声映画期の音響実践を新たに書き直している点で、従来の無声映画音楽研究とは一線を画している。George Beynon, Musical Presentation of Motion Pictures.(New York: Schirmer, 1921), Edith Lang and George West, Musical Accompaniment of Moving Pictures: A Practical Manual for Pianists and Organists and Exposition of Principles Underlying the Musical Interpretation of Moving Pictures.(Boston: Boston Music, 1920)も参照されたい。
[13]「常設館経営十二講◇第六講 客扱」『映画国際新聞』(1929年、7月号)、49頁。
[14]『キネマ旬報』(1929年、6月1日号)、10頁。
[15]映画を見終わった観客に「追出し」として流す曲は、英国では国家、フランスではノルマンディーの歌、マーチ等を奏していた。日本においては、スコットランド民謡の編曲たる『蛍の光』が奏されることが多かった。『キネマ旬報』(1929年7月11日号)、22頁。
[16] 映画伴奏を均質化してゆく契機となった試写と選曲のプロセスについては、以下を参照されたい。「楽長は音楽部の支配者だ。又、支配人の指図の下に、プログラムの編成に就いて演出部長と共同手配する(楽長が演出部長を兼任していた常設館も多々あったようである)。楽長の主要な任務は、プログラムの各篇に伴奏として用いられる音楽を選定することだ。それ故、映画の場面や気分にしっくり合ふ音楽を選定する為に映画を試写してみなければならぬ。その時には速度計に基いて試写して試写中に思い附の楽譜を心覚えに書抜いて置く。楽長は常設館に図書室があれば、其処で楽譜の文庫を保管させておいて、試写が済んだ後で、愈々音楽を選定して、その後で試写室で二度目の試写を行ひ、それを洋琴で演奏して各場面に合わせるのである」。「常設館経営十二講◇第七講 上映部」『国際映画新聞』(1929年、8月号)、26頁。
[17]『映画伴奏事典』には、イタリアやロシアのみならずハンガリーやアイルランドといった移民を数多く輩出した国の楽曲が数多く含まれている。
[18]加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書、2006年)、89-101頁を参照。
[19]『キネマ旬報』(1929年6月11日号)、16頁。
[20]メロドラマ演劇においては、音楽は物語のプロットに沿って伴奏されていたが、映画においては、登場人物の表情に焦点があてられるようになった。そのことは、登場人物の心理に焦点を当てる古典的ハリウッド映画の物語の発展において重要な役割を果たしている。Altman, p.370を参照。
[21] David Bordwell, Janet Staiger, and Kristin Thompson. The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960.(New York: Columbia University Press, 1985), pp.174-193.
[22]示導動機のこと。舞台作品において、音楽外の事物・人物・観念などを指し示す特定の音型。三光長治他監修『ワグナー事典』(東京書籍、2002年)、167−169頁。
[23]リック・アルトマンによれば、こうした映画音楽の主題的な構成は、これまでリヒャルト・ワグナーのライトモチーフと単一的に関連づけられてきたが、今日では、ジョセフ・カール・ブレイユがスコアを担当した作品(D・W・グリフィスの『国民の創世』〔1915〕、『イントレランス』〔1916〕など)やオルガンの即興演奏と関連づけられるものと、ロキシー劇場やキュー・シート、そしてオーケストラの上演と関連づけられるものと、二つの別の音響実践として理解されるようになった。後者がやや単一的な音響実践であったのとは対照的に、ブレイユのライトモチーフは、映画の状況に応じて流動的に修正する可変的な演奏であった。Altman, pp.372-3.
[24]『キネマ旬報』(1929年6月21日号)、10頁。
[25]『キネマ旬報』(1929年7月1日号)、10頁。1931年の『キネマ旬報』(1月1日号)には、レコード伴奏『アジアの嵐』の選曲表が掲載されているが、そこに掲載されている曲目は、ラペーの『映画伴奏事典』に掲載された曲目が大半である。
[26]映画学における移民研究の推移については、板倉史明『映画に見る戦前の米国日系移民』(京都大学博士論文、2005年)の第一章第三節に詳しい。とりわけ、Judith Thissen, “Jewish Immigrant Audiences in New York City, 1905-1914”, In Melvyn Stokes and Richard Maltby eds., American Movie Audiences. (London: British Film Institute, 1999), pp.15-28.を参照のこと。
[27]初期のアメリカ映画におけるアメリカ移民の同化のプロセスと、「アメリカ化」については以下を参照されたい。Richard Abel, ‘The Perils of Pathe, or the Americanization of Early American Cinema’, in Leo Charney and Vanessa R. Schwartz(eds), Cinema and the Invention of Modern Life(Berkeley: University of California Press, 1995), pp.200-207.
[28]金指、13頁。
[29]井田一郎「ジャズとシネマハウス」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、298‐299頁。
[30]金指、10頁。
[31]『キネマ旬報』(1929年6月1日号)、10頁。
[32]松井翠聲『映画音楽全般』、64-65頁。
[33]村尾薫「日本映画伴奏の改善策」『国際映画新聞』(1931年、4月下旬号)、24-25頁。村尾は、改善策の一つとして、たとえ時間のない封切館であっても、セカンドランをやっているうちに、伴奏曲目をじっくり検討してキュー・シートを作り、セカンドラン以下の地方館へ、フィルム、説明台本とともに送付することを提案している。
 当時の映画伴奏法に用いられたスコアの種類には、1.スコアScore、2.セットMusical Setting、3.キュー・シートMusical Cue-sheetがあった。1.2.3.にはしばしば混同がみられたものの、松井翠聲は、以下のように定義している。1.は、「主題歌とか特定の曲目の演奏丈けを指示要求したもの」であったが、曲の名前を挙げてあったり、楽譜の二三小節だけが示してあったために、その紙に楽譜の販売元が書いてあっても買いにいけない不便があった。2.は、「楽譜で示さないで何の場所、或は何の字幕が出たら何の曲を奏せよ」と指定したもの。3.は、2.においては曲名を指定していたのとは異なり、楽譜の頭の数節を書き込んであり、おおまかに映画の曲想を伝えるものであった。松井翠聲『映画音楽全般』、66‐73頁。
[34]松平信博「邦画伴奏を新に作曲せよ」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、288‐298頁。
[35]浅草公園常盤座の男澤靖央は、楽士へ今後希望することとして、「和楽の研究」をより深くすることを求めている。「伴奏音楽の改善」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、287頁。
[36]田邊尚雄「映画と新日本音楽の誕生」『国際映画新聞』(1930年、5月下旬号)、8-9頁。ここで田邊は、先頃流行した小唄映画の出現を、「極めて稚拙な形式ではあるが、音楽と映画が結びついた第一階梯としての興味ある出来事だった」として一定の評価を与えている。このことから、アメリカにおいて、イラストレイテッド・ソングが視聴覚的結合に新たな局面をひらいたミディアムであったように、日本における小唄映画もまた同様のミディアムとして受容されていたことが推察される。
[37]新日本音楽とは、広義には新様式の日本音楽、すなわち「新邦楽」と同義になるが、狭義には宮城道雄、吉田晴風、本居宣長らが中心となって実践した大正年間の音楽運動、ならびにその所産としての作品を指す。『音楽大事典 第三巻』(平凡社、1982年)、1266頁。
[38]田中純一郎『日本映画発達史2』(中公文庫、1976年)、224-261頁。
[39]秋山邦晴『日本の映画音楽史1』(田畑書店、1974年)、111頁。
[40]同書、138頁。
[41]同書、159頁。
[42]同書、346頁。
[43]同書、244頁。