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註
[1]語源的には、オリヴィエ・バセランが作曲した、当時よく知られていた酒場の歌のタイトル『岩棚の谷のうたChansons du Vau de Vire』から採られたというものや、その他に「街路の歌songs of city streets」を表す「voix de ville」など諸説がある。Bernard Sobel, A Pictorial History of Vaudeville(Citadel, 1961), p.17.
[2] Rick Altman, Silent Film Sound (
Columbia
University
Press, 2004), pp. 367-368.
[3]日本における洋楽受容については、以下を参照されたい。掛下慶吉『昭和楽壇の黎明 ― 楽壇生活四十年の回想』(音楽之友社、1973年)、塚原康子『十九世紀の日本における西洋音楽の受容』(多賀出版、1993年)、中村理平『洋楽導入者の軌跡 ― 日本近代洋楽史序説』(刀水書房、1993年)、中村洪介著、林淑姫監修『近代日本洋楽史序説』(東京書籍、2003年)。
[4]松井翠聲は、エルノ・ラペーの『映画伴奏事典』の訳注の中で、移民としてのラペーの経歴を述べる際に、ジョージ・W・ベイノンの『映画音楽のプレゼンテーション』(1921年)を参照している。それによれば、ラペーの経歴は以下のようになる。エルノ・ラペー・・・NY、キャピトル座の有名な音楽指揮者。ハンガリーのブタペストに生まれ、王立学院の作曲及びピアノ科を卒業。ドレスデン王立オペラ劇場の音楽指揮者エルンスト・シュツフに就いて指揮を習う。欧州各市において大劇場の指揮者である。米国に渡り、はじめヘンリイ・サヴェッジと契約し、のちにハリイ・ラウダアと結ぶ。カーネギー・ホールの音楽指揮者として二シーズンを過ごしたが、映画界に進路を見出して辞す。『キネマ旬報』(1929年、5月21日号)、40頁を参照。
[5]村尾薫「常設館音楽部の改善」『国際映画新聞』(1928年10月号)、23-25頁。楽士のおかれた状況を述べた以下の挿話も興味深い。「邦楽座も開館当座は日本交響楽協会の三十余名のオーケストラを揃へて山田耕作氏以下三人のコンダクターを持つ程の勢いだったが・・・最近では指揮者なしの十七八名の小管弦団に縮小してしまった」。
また、映画館内の演出を統一する、ステージ・マネージャーの必要性について言及されることもあった。ここで、日本の映画音楽の新しい方向性が打ち出されていることは注目しておくべきである。
斉藤為之助(松竹)「このマネヂャー、一人ではいけない。音楽説明、映写の解る人まァ三人が必要です」
石井(国際新聞社員)「専門家に駄目の出せる人であればよいのでせう」
斉藤「いや、それなら僕でも出来るが何と云ふ曲をやれと云った様に専門家でないと楽手の方で馬鹿にしますからネ」
三宅巌(日活富士館支配人)「楽長なども映画を正しく見て、同じ乱闘の場面でも、逃れていく時と、進んで行く時とは自ら調子を変えるべきです」
斉藤「編曲でない、創作の曲が必要ですな。どうも説明と音楽との調和がとれてなくていけない」
「今秋内外映画興行戦批判合評会速報記録」『国際映画新聞』(1927年11月25日号)、253-257頁を参照。
[6]東京音楽学校創立のおこりは、1897年(明治12年)に、時の東京師範学校校長伊沢修二を御用係に任命して、音楽取調所を創立したことにはじまる。以下の伊沢の音楽政策は、のちの映画音楽の方向性の指針としても読めるだろう。一、洋楽と邦楽を折衷して新曲を創造すること、二、またそれを創造する楽人を養成すること、三、さらに全国各学校に音楽を正課として実施すること。園部三郎『音楽五十年』(時事通信社、1950年)、33‐43頁。
また、1924-5年度版『映画年鑑』(東京朝日新聞社)に掲載された楽士名簿における、楽士の「学歴」を見ても、東京音楽学校出身者は皆無であり、「東洋音楽学校」「陸軍戸山学校」をはじめとして、「海軍軍楽隊米国加州アラメダ音楽学校」、「海軍軍楽手」など軍楽隊出身者が一部見られる程度で、小中高出身の楽士が大半をしめている。
[7]村尾薫「常設館経営と音楽の効能」『国際映画新聞』(1927年10月20日号)、268-269頁。
[8]『キネマ旬報』(1929年、5月11日号)、6頁。邦楽座では、山田耕作の日響管弦楽団がパラマウント社から1929年6月限り全楽手の解雇を申し渡されている。同年7月20日には、新宿武蔵野館の楽士17名の内6名に手当一ヶ月分を支給して突然解雇され、本邦初の楽士争議が持ち上がるなど、いよいよ楽士は別の道に進むことを模索する必要に迫られていた。
[9]本訳注も含めて、松井がこの時期に執筆した論文がまとめて、『映画音楽全般』(春陽堂、1931年)に採録されている。巻頭には、当時NYのロキシー劇場にいたラペーから、『映画伴奏辞典』の序文の翻訳を許可する手紙が掲載されている。残念ながら、手紙の日付の上に松井自身の写真が重ね合わせられているために、手紙が送られてきた日付は同定できないが、『キネマ旬報』に訳注が掲載され始める1929年5月21日以前のものであると推察される。
[10]『キネマ旬報』(1929年、5月21日号)、40頁。
[11] Erno Rapee, Encyclopaedia of Music for Pictures.
New York
: Belwin, 1925; rpt.,
New York
:
Arno
. 本書が出版される前年にラペーは『ピアニストとオルガン奏者のための映画のムード』を出版した。こちらは、スクリーン上のアクションとの同期化(飛行機、楽隊、戦闘、鳥、子供、ダンス、人形、フェスティバル、葬式、レース、鉄道など)や、心理的な状況(陰惨なムード、怪奇的、恐怖、ユーモラス、不寛容、喜び、幸福、愛のテーマ、神秘的、退屈、牧歌的、情熱〔受苦〕、宗教的、悲哀)に焦点を当てた楽曲のリストが豊富である。さらに充実しているのが、「国家」に焦点を当てた楽曲のリストである(アメリカに関連する音曲集、集合ラッパの音、南部用の音、大学、クリスマス、古い流行歌。その中で日本は中国と同じカテゴリーに容れられ、日本の国歌『君が代』、オットー・ランジェー作曲の『中国人‐日本人』や、『中国の茶室で』であるとか、ロバート・H・バウアー作曲の『中国の子守唄』、『FUJI-KO』(日本の幕間演芸)など、日本と中国とがステレオタイプ化されてとらえられている)。『ピアニストとオルガン奏者のための映画のムード』から『映画音楽事典』にかけての最大の変化は、事典に掲載された楽曲のタイトルと作曲家の隣に、レコード業者名が記載されたことだろう。前著では楽譜を採録していたが、『映画音楽事典』では楽曲のリストを採録するにとどめたため、一万曲近くのリストを掲載することができた。その各リストには余白があり、そこに購入したレコード名を記載してゆく事が推奨されている。なお、両書を出版したベルウィンBelwinもシャーマーG. Schirmerも有名なレコード会社であり、楽曲リストの中には両社製の数多くのレコード名が採録されている。1970. Erno Rapee, Motion Picture Moods for Pianists and Organists: A Rapid-Reference Collection of Selected Pieces,
New York
: G. Schirmer, 1924.
楽譜のライブラリーは楽士にとってなくてはならないものであったが、カール・フィッシャーやシャーマーのライブラリーを揃えるには当時の価格で数千円を擁し、エルノ・ラペーが編曲した3〜400冊のライブラリーからなるベルウィンのライブラリーはそれよりもやや手頃な価格であった。金指英一「支配人の為に執筆せる 常設館に於ける音楽及伴奏上の諸問題」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、13頁。
[12] Altman, p.11. アルトマンの『無声映画の音』(Silent Film Sound, 2004)では、これら三冊が随分と引用されているものの、それは業界紙、ヴォードヴィルの経営者のリポート、スコア、技術的なジャーナル、キューシートといった一次資料を渉猟したうえで、それらと比較検討するために持ち出されている。このように、アルトマンの無声映画音楽研究は1970年代以降に隆盛を見せた初期映画研究の方法論を採用し、アメリカの無声映画期の音響実践を新たに書き直している点で、従来の無声映画音楽研究とは一線を画している。George Beynon, Musical Presentation of Motion Pictures.(New York: Schirmer, 1921), Edith Lang and George West, Musical Accompaniment of Moving Pictures: A Practical Manual for Pianists and Organists and Exposition of Principles Underlying the Musical Interpretation of Moving Pictures.(Boston: Boston Music, 1920)も参照されたい。
[13]「常設館経営十二講◇第六講 客扱」『映画国際新聞』(1929年、7月号)、49頁。
[14]『キネマ旬報』(1929年、6月1日号)、10頁。
[15]映画を見終わった観客に「追出し」として流す曲は、英国では国家、フランスではノルマンディーの歌、マーチ等を奏していた。日本においては、スコットランド民謡の編曲たる『蛍の光』が奏されることが多かった。『キネマ旬報』(1929年7月11日号)、22頁。
[16] 映画伴奏を均質化してゆく契機となった試写と選曲のプロセスについては、以下を参照されたい。「楽長は音楽部の支配者だ。又、支配人の指図の下に、プログラムの編成に就いて演出部長と共同手配する(楽長が演出部長を兼任していた常設館も多々あったようである)。楽長の主要な任務は、プログラムの各篇に伴奏として用いられる音楽を選定することだ。それ故、映画の場面や気分にしっくり合ふ音楽を選定する為に映画を試写してみなければならぬ。その時には速度計に基いて試写して試写中に思い附の楽譜を心覚えに書抜いて置く。楽長は常設館に図書室があれば、其処で楽譜の文庫を保管させておいて、試写が済んだ後で、愈々音楽を選定して、その後で試写室で二度目の試写を行ひ、それを洋琴で演奏して各場面に合わせるのである」。「常設館経営十二講◇第七講 上映部」『国際映画新聞』(1929年、8月号)、26頁。
[17]『映画伴奏事典』には、イタリアやロシアのみならずハンガリーやアイルランドといった移民を数多く輩出した国の楽曲が数多く含まれている。
[18]加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(中公新書、2006年)、89-101頁を参照。
[19]『キネマ旬報』(1929年6月11日号)、16頁。
[20]メロドラマ演劇においては、音楽は物語のプロットに沿って伴奏されていたが、映画においては、登場人物の表情に焦点があてられるようになった。そのことは、登場人物の心理に焦点を当てる古典的ハリウッド映画の物語の発展において重要な役割を果たしている。Altman, p.370を参照。
[21] David Bordwell, Janet Staiger, and Kristin Thompson. The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960.(New York: Columbia University Press, 1985), pp.174-193.
[22]示導動機のこと。舞台作品において、音楽外の事物・人物・観念などを指し示す特定の音型。三光長治他監修『ワグナー事典』(東京書籍、2002年)、167−169頁。
[23]リック・アルトマンによれば、こうした映画音楽の主題的な構成は、これまでリヒャルト・ワグナーのライトモチーフと単一的に関連づけられてきたが、今日では、ジョセフ・カール・ブレイユがスコアを担当した作品(D・W・グリフィスの『国民の創世』〔1915〕、『イントレランス』〔1916〕など)やオルガンの即興演奏と関連づけられるものと、ロキシー劇場やキュー・シート、そしてオーケストラの上演と関連づけられるものと、二つの別の音響実践として理解されるようになった。後者がやや単一的な音響実践であったのとは対照的に、ブレイユのライトモチーフは、映画の状況に応じて流動的に修正する可変的な演奏であった。Altman, pp.372-3.
[24]『キネマ旬報』(1929年6月21日号)、10頁。
[25]『キネマ旬報』(1929年7月1日号)、10頁。1931年の『キネマ旬報』(1月1日号)には、レコード伴奏『アジアの嵐』の選曲表が掲載されているが、そこに掲載されている曲目は、ラペーの『映画伴奏事典』に掲載された曲目が大半である。
[26]映画学における移民研究の推移については、板倉史明『映画に見る戦前の米国日系移民』(京都大学博士論文、2005年)の第一章第三節に詳しい。とりわけ、Judith Thissen, “Jewish Immigrant Audiences in New York City, 1905-1914”, In Melvyn Stokes and Richard Maltby eds., American Movie Audiences. (London: British Film Institute, 1999), pp.15-28.を参照のこと。
[27]初期のアメリカ映画におけるアメリカ移民の同化のプロセスと、「アメリカ化」については以下を参照されたい。Richard Abel, ‘The Perils of Pathe, or the Americanization of Early American Cinema’, in Leo Charney and Vanessa R. Schwartz(eds), Cinema and the Invention of Modern Life(Berkeley: University of California Press, 1995), pp.200-207.
[28]金指、13頁。
[29]井田一郎「ジャズとシネマハウス」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、298‐299頁。
[30]金指、10頁。
[31]『キネマ旬報』(1929年6月1日号)、10頁。
[32]松井翠聲『映画音楽全般』、64-65頁。
[33]村尾薫「日本映画伴奏の改善策」『国際映画新聞』(1931年、4月下旬号)、24-25頁。村尾は、改善策の一つとして、たとえ時間のない封切館であっても、セカンドランをやっているうちに、伴奏曲目をじっくり検討してキュー・シートを作り、セカンドラン以下の地方館へ、フィルム、説明台本とともに送付することを提案している。
当時の映画伴奏法に用いられたスコアの種類には、1.スコアScore、2.セットMusical Setting、3.キュー・シートMusical Cue-sheetがあった。1.2.3.にはしばしば混同がみられたものの、松井翠聲は、以下のように定義している。1.は、「主題歌とか特定の曲目の演奏丈けを指示要求したもの」であったが、曲の名前を挙げてあったり、楽譜の二三小節だけが示してあったために、その紙に楽譜の販売元が書いてあっても買いにいけない不便があった。2.は、「楽譜で示さないで何の場所、或は何の字幕が出たら何の曲を奏せよ」と指定したもの。3.は、2.においては曲名を指定していたのとは異なり、楽譜の頭の数節を書き込んであり、おおまかに映画の曲想を伝えるものであった。松井翠聲『映画音楽全般』、66‐73頁。
[34]松平信博「邦画伴奏を新に作曲せよ」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、288‐298頁。
[35]浅草公園常盤座の男澤靖央は、楽士へ今後希望することとして、「和楽の研究」をより深くすることを求めている。「伴奏音楽の改善」『国際映画新聞』(1930年、5月号)、287頁。
[36]田邊尚雄「映画と新日本音楽の誕生」『国際映画新聞』(1930年、5月下旬号)、8-9頁。ここで田邊は、先頃流行した小唄映画の出現を、「極めて稚拙な形式ではあるが、音楽と映画が結びついた第一階梯としての興味ある出来事だった」として一定の評価を与えている。このことから、アメリカにおいて、イラストレイテッド・ソングが視聴覚的結合に新たな局面をひらいたミディアムであったように、日本における小唄映画もまた同様のミディアムとして受容されていたことが推察される。
[37]新日本音楽とは、広義には新様式の日本音楽、すなわち「新邦楽」と同義になるが、狭義には宮城道雄、吉田晴風、本居宣長らが中心となって実践した大正年間の音楽運動、ならびにその所産としての作品を指す。『音楽大事典 第三巻』(平凡社、1982年)、1266頁。
[38]田中純一郎『日本映画発達史2』(中公文庫、1976年)、224-261頁。
[39]秋山邦晴『日本の映画音楽史1』(田畑書店、1974年)、111頁。
[40]同書、138頁。
[41]同書、159頁。
[42]同書、346頁。
[43]同書、244頁。
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