映画学と映画批評、その歴史的展望
――加藤幹郎インタヴュー

(聞き手)大迫優一

ミュートとしてのメロドラマ

----映画雑誌『イメージフォーラム』に加藤さんのダゲレオ出版評論賞受賞作が掲載されてから去年(2006年)でちょうど25年が経ちました。そして今年(2007年)は、加藤さんが50歳をむかえられる年です。この節目に過去四半世紀をふりかえって、映画批評と映画学にいったい何が起きたのかお聞きしたいと思います。

加藤 おかしな話ですが、20代前半のころ自分が50歳になる日が来ようなどとは夢にも思っていませんでした。ひとえに想像力不足のせいでしょう。もっとも20代前半で50代の自分を想像することなど、あまり健康的なことではないような気もします。いずれにせよわたしもまた死の緩慢な歩みを歩んできた者たちのひとりです。もっとも死の訪れは誰にとっても(あなたにとっても)早すぎるものでしかありませんが。
 さて日本ではこの25年ほどのあいだに映画をめぐる言説に大きな地殻変動が起きました。1980年ころまで映画論はまだ小説論の影響を受けており、多かれ少なかれ映画は物語の水準で論じられていました。それが記号論の浸透のおかげで、わたしが映画批評を書きはじめたころには、映画の内的構成要素である映像と音響の水準で映画を論ずることができるようになりました。それはまた蓮実重彦氏が映画論にテマティスムを導入し、それまで映画論にそんなことが可能だろうとは誰も思いもよらなかったような、ほとんどアクロバティックな映画論が書物として現れはじめていたころでした。
 制度論的に言えば、そしてそこに個人的な回想を付け加えれば、わたしが『イメージフォーラム』の懸賞論文に応募したのは、大学の卒論で映画をあつかうことが不可能だったからです。無論、当時でも私立大学では映画で卒論を書くことは可能でしたが、国立大学ではまず無理だったのです。そこでわたしはサミュエル・ベケットの小説について英語で卒論を書くかたわら、アラン・ロブ=グリエの映画に触発されて、どうにも抑えがたい衝動に駆られるまま「映像と音の自己増殖」という映画論をまとめて『イメージフォーラム』に投稿することになります。映画について、誰もがその物語については語るのに、肝腎の映画的物語を構成する映像と音響のダイナミズムについては日本ではほとんど何も語られていないと思ったからです。そのときの『イメージフォーラム』の審査員のなかに松本俊夫氏と山根貞男氏がいましたが、このふたりはわたしの先行世代のなかで、もっともすぐれた仕事をした数少ない映画批評家たちです。おふたりとは、後年、京都映画祭で一緒に仕事をすることになります。
 話を制度論にもどせば、とりわけ過去10年ほどのあいだに、大きな変化がありました。国立大学では(2004年に中途半端な法人格があたえられましたが)、卒論で映画があつかえるようになったばかりか、修士号も博士号も映画学で取ることができるようになりました。これでようやく日本もアメリカの1970年代の水準に追いついたわけです。ただし2007年の時点で言えば、旧七帝大にあたる日本の大学で映画学の博士論文の審査にあたる教授たちが、映画学で博士号をもっているというのは非常に稀なことで、ほとんどは文学や歴史学や美学や社会学などの教授たちが審査にあたっています。この点でも、現在の国立大学法人は70年代のアメリカの大学院事情とよく似ています。現在の博士号授与者が映画学第一世代だとすれば、それはわたしもふくめてもともと文学などの人文社会諸科学の隣接分野から転身してきた世代であり、この第一世代から映画学の博士号を得た現在の第二世代がさらに第三世代へと受け継がれるとき(いまから早くても10年後くらいのことでしょうが)、はじめて日本で映画学が制度的に定着したと言えるわけです。つまり現段階では映画学は文字通り世代間過渡期にあります。
 そんなこんなで映画をめぐる言説のなかに映画批評と映画学というふたつのカテゴリーが峻別できるようになったのが過去四半世紀の大きな地殻変動なのです。それは国公私立を問わず日本全国各地の大学に映画学科や映画学コースの新設というかたちで制度化されました。映画学は映画批評同様、市場価値をもつようになったのです。いまや映画学コースのない大学は(どんな有名な大学でも)少子化全入時代に生き残れないと言わんばかりの勢いです。

----加藤さんは最初の著書『映画のメロドラマ的想像力』(1988年)以来、いつもメロドラマなるものを映画論のひとつのパラメーターとして論じつづけてこられました。それは『映画ジャンル論』(1996年)でも『映画の論理』(2005年)でもくりかえし取りあげられる問題です。そこで第一の質問ですが、そもそもメロドラマとは何なのでしょうか。そして第二の質問、加藤さんのメロドラマ映画論でも特に挑発的なのは「男性メロドラマ」という概念だと思うのですが、その批評的実効力はどのようなものなのでしょうか。第三の質問は、映画批評と映画学というふたつのカテゴリーが成立したのだとすれば、加藤さんのお仕事のなかで両者はどのような関係を結ぶのでしょうか。

加藤 第一の質問ですが、たしかにわたしの著書の通奏低音はメロドラマです。メロドラマには負のメロドラマと正のメロドラマがあります。負のメロドラマとは弱者の吐く(本来なら他人の耳に届くはずのない)弱音です(「弱音」とは、ここで「よわね」であると同時に「じゃくおん」であることに気をつけてください、つまり弱者の吐く弱音には社会的ミュート[弱音器]がつけられていて、弱い音しか出せないのです)。正のメロドラマとは弱者の見る幸福な夢です。前者において弱者は外圧に翻弄されるまま死んでしまいます。後者においては弱者は嘘のようなハッピー・エンディングをむかえます。いずれにしてもメロドラマにおいて(メロドラマ演劇であれメロドラマ小説であれメロドラマ映画であれ)、弱者は死ぬか、それとも(逆境の渦中で一息ついて)なお当座のあいだ生きつづけるかするだけです。そしてそれは人間の生の奇妙なアレゴリーとなっています。つまりすべての人間は一度は死ぬことをまぬがれない存在ですから、もし死というものが人生における敗北を意味するのであれば、わたしたちはみなメロドラマ的弱者だということになります。しかし他方、死が人生における敗北を意味しないという立場もあります。すべての宗教は本質的にそのような立場をとりますが、宗教が大衆消費社会の安逸のなかで生きる近代人にとって、以前ほど効力をもたない時代をむかえると、悲劇的ヴィジョンもまた影が薄くなります。つまり負けるが勝ちというか、死を賭してなお意味のある人生を選択しうるという想念を、社会がその構成員にあたえることがむずかしい時代にわたしたちは生きています。それゆえメロドラマは今日、その政治的、美学的有効性を発揮します。
 9.11テロもまた典型的なメロドラマ的イデオロギーの表出です。旅客機をハイジャックしてツイン・タワーに激突させたテロリストたちは熱烈なイスラム原理主義者だったと思われますから、その意味で彼らは悲劇的ヴィジョンをもって死に赴いたことになります。しかしテロリストたちを産み出した温床はアメリカのキリスト教的資本主義の帝国的支配にあるわけですから、9.11テロは、テロリストたちがその意思を代表しているつもりの弱者たるイスラムと、彼らにしかるべき配慮を欠いた強者たるアメリカとのメロドラマ的衝突の一場面でしかありません。このメロドラマは今日なおアメリカ占領下のイラク国内で止むことのないテロとして演じつづけられています。考えてほしいことは、本来、弱者の吐く弱音には社会的ミュートがかけられていて誰の耳にも届かないということです。それが同時多発テロのようなメロドラマにおいて、はじめて第三者の耳に届くようになるということです。その結果、同時多発テロの犠牲者の遺族のなかにすら、アメリカ的「民主主義」の瞞着行為に気づくひとたちが出てくるわけです。女こどもをふくめた非武装の一般市民を大量殺戮した歴史においてアメリカ合衆国はナチス・ドイツと大差ないのです。第一次および第二次湾岸戦争、ヴェトナムや長崎、広島その他の日本各地における無差別爆撃はアウシュヴィッツトレブリンカなどの絶滅収容所と死の大量生産性において競い合っています。9.11テロがメロドラマであるというのは、その意味においてです。9.11テロにおいてアメリカ側は徹底して無辜の犠牲者であり、それゆえ確固たる報復者たろうとしますが、それはメロドラマ以外のなにものでもありません。メロドラマにあって人間の屍の山はどうあっても償いきれない無辜の犠牲者か、さもなければ合理的な数値達成目標にすぎないのです。
 社会的不正義があるところには、かならずメロドラマが生じます。メロドラマは弱者と強者の衝突において姿を現します。今日、人間の悲惨と抑圧があるところ、かならずメロドラマが演じられます。メロドラマ映画とは、裁判映画のようなありふれたハリウッド映画のサブジャンルもふくめて、かかる潜在的イデオロギーをわたしたちに教えてくれる日常的装置なのです。メロドラマ映画はふだん表象=代理されることのない恵まれない弱者に照明をあてる今日的装置なのです。
 さて第二の質問ですが、これにたいする回答もおのずと第一の質問にたいする回答と重なる部分がありますが、まずわたしが「男性メロドラマ」という概念をなぜ、そしてどのような意味で練り上げたか簡単に述べておきたいと思います。
 わたしが見たかぎりでは、映画のサブジャンルとして「男性メロドラマ」が生まれるのは、1950年代のハリウッド・スタジオ・システム崩壊期です。つまり政治的、経済的、倫理的システムの締めつけが弱くなったとき、はじめて弱者が上げる弱音が第三者の耳にも届くようになったのです。そしてそれは新しい生=性のありようを模索するイデオロギーとして登場します。このイデオロギーの誕生を論ずるとき、とりわけ重要な固有名詞はアイダ・ルピノとニコラス・レイです。『映画ジャンル論』でもふれたように、このふたりはニコラス・レイのフィルム・ノワール『危険な場所で』(1952年)で監督と主演女優として出会ってさえいます(ルピノ自身、この映画の演出に携わったとも言われています)が、アイダ・ルピノがスタジオ・システム崩壊期のはじまりに、つまり40年代末に、みずから独立プロダクションを興して演出をはじめるメロドラマは、それまでの女性を主人公としたありふれたメロドラマ(ほかならぬルピノがそれまでスタジオ・システム下で演じられることを強いられてきた類のもの)とは180度異なって、むしろ男性を主人公としています。そしてそれまで西部劇やギャング映画のようなジャンルに代表される勇壮な男性としての生=性のありようにジェンダー論的立場から疑問をつきつけたのです。それが「男性メロドラマ」という新しいイデオロギーの誕生につながります。アイダ・ルピノは、わたしが知るかぎり、ハリウッド古典期の数少ない女性監督としてフェミニズム陣営から論じられることはあっても、ジェンダー論の立場から論じられることはありません。しかし本当に重要なことは彼女のジェンダー論的革新性なのです。『映画史』冒頭部(1989年)でルピノに言及したゴダールも別の角度からそのことに気づいていたのではないでしょうか。
 他方、ニコラス・レイはフィルム・ノワールや西部劇やギャング映画やファミリー・メロドラマや「不良少年少女もの」といった既成の古典的ハリウッド映画のジャンルやサブジャンルを巧みに利用しながら、そのなかで、それまでなおざりにされてきた男性主人公の心理的脆弱さを告発します。つまり西部劇やギャング映画のようなジャンル映画では、けっして弱音を吐くことを許されなかった男性が、もし弱音を吐くことがあるとすれば、それはどのような状況下でどのような新しい事態をもたらすものとなるのか、そうした男性の内面について今日のジェンダー論でもおよばないような映画的考察をニコラス・レイは50年代におこないます。「男性メロドラマ」という概念は70年代に西ドイツのR・W・ファスビンダーという不世出の天才演出家によって引き継がれ、ここで詳論する余裕はありませんが、今日なおその批評的実効力は維持されつづけていると思います。
 つまり男性と女性ならびに両性というか、男性でありながら女性でもありうるひと、あるいは男性でも女性でもないようなひとびと、とりわけ両性のあいだを往還しつづけるひとびとなど、多種多様な生=性の存在様態について議論を重ねることは、二元論的対立図式でしか物事を理解しようとしない世界のメロドラマ的趨勢にとっては有効なアンチテーゼとなりうるからです。男と女が明確に区分できるというドクサにこそ根底的な欺瞞があります。世界が正邪、男女、明暗、そうした二元論で成立しているという立場は、現在のアメリカのブッシュ政権の基本方針ですし(ブッシュ政権は一方で「世界の警察アメリカ」を「悪の枢軸国」と対置させ、そのことによってみずからの違法性を隠蔽しつつ、他方で男女間の婚姻以外は合法的な結婚だと認めたがりません)、それ以前の大方の国家の政権の前提事項だったのです。「男性メロドラマ」において男性が女性になり、女性が男性になるとき、世界の秩序を担っていると言われるメロドラマ的二元論が音を立てて崩れるのです。

----『映画のメロドラマ的想像力』に収録された加藤さんのファスビンダー論は、日本でもっとも早い時期に現れたもののひとつであると言うだけでなく、今日なおもっともすぐれたファスビンダー論のひとつです。

加藤 当時、つまりファスビンダーが1982年にわずか36、7歳で死ぬ直前、もっとも良質なファスビンダー紹介をおこなっていたのは、わたしの知るかぎり岩淵達治氏ただひとりです。わたしは25歳で、ファスビンダーの突然の訃報に深い衝撃を受けた者たちのひとりでした。彼の死後、しばらくしてから『イメージフォーラム』に追悼文のようなものを寄せた記憶があります。あなたがおっしゃっているわたしのファスビンダー論というのは、さらにのちになって『ユリイカ』に掲載されたものだと思います。大事なことは、当時ファスビンダーひとりが気を吐いていたのではないということです。70年代のドイツ語圏映画全体がものすごい活況を呈していたということです。すくなくともロベルト・ファン・アカレン、ヴェルナー・シュレーター、ジーバーベルク、ダニエル・シュミットといった錚々たる映画作家がファスビンダーの同時代人としていました。彼らのメロドラマ映画のマニエリスムぶりに比べると、西ドイツをあとにしたヴィム・ヴェンダースの凋落には悲しむべきものがあります(アメリカ占領期を経験した西ドイツがその後アメリカ映画と取り結ぶ関係については別の機会に是非とも論じられねばならない点だろうと思います)。
 ところで第三の質問ですが、たしか映画批評と映画学がたがいにどのような関係を結ぶのかという質問だったと思いますが、これはおもしろい論点を提供してくれる質問だと思います。これを論ずるにあたって肝腎なことは、映画学者であり、かつまた映画批評家でもあるという人間がいま世界中捜してもほとんど見当たらないという現状を憂うることです。

----それはどういうことですか。

加藤 わたしが思うに、映画批評家は作品単位で、一本の映画の肌理についてなら、どんなことでも語りうる人間でなければなりません。他方、映画学者はかならずしも作品から出発する必要はありません。作品の周囲にあるさまざまな映画的事象について、いろいろな立場から議論と検証を重ねうる篤実な人間であればよいのです。しかし映画学者がもどってくる場所は、いかなる検証の迂回路を描こうとも、最終的には映画作品でなければなりません。映画作品がなければ、その周囲の映画的事象もまたないからです。両者は当然、相互規定的関係をもつものです。
 しかし残念ながら映画学者が映画作品そのものについて有意義な発言をしたことがほとんどなかったというのが、過去20年ほどの世界的動向です。このことは映画批評が主観的印象言説であり、映画学が客観的検証言説であるという二項対立的な説明に還元されがちですが、けっしてそのような単純な問題ではありません。映画学がさまざまな方法的立場から括弧付きの「実証」を積み重ねてみても、映画作品の「本質」と、これも括弧付きで呼ばざるをえないものを評定できないならば、実証主義者はみずから敗北宣言をしているも同じことなのです(そもそも実証主義はとうの昔に時代遅れになった概念にすぎません、つまり実証主義者が実証できるのは実証のためのデータそれじたいにすぎず、そのデータが充当される対象ではないのです)。結局のところ、映画批評と映画学とは最悪の場合でも共存関係になければ、映画をめぐる言説は総体として痩せ細るばかりです。現状では両者は完全に遊離しています。しかし近い将来、両者の相互規定的関係を方法論的に視野に入れた映画学者=批評家が映画の言説界をリードしてくれる日がくることと信じています。

----1970年代を境に世界的趨勢として映画批評家の時代から映画学者の時代へ移行としたわけですが、そのような両者の交代劇は本来なら弁証法的に止揚されなければ意味がないというわけですね。

加藤 これまでに映画学が掘り起こしてきた映画をめぐる膨大かつ精緻な知は、けっして過小評価されてはならないものです。しかし映画についての知に血道をあげるあまり、映画についての美に関してはなおざりにされてきたのです。映画作品の美的イデオロギーについて映画学者=批評家が妥当な議論を構築しえなければ、早晩、映画批評と映画学は共倒れになることだってありえます。美的経験の貧困化は、ひとつの領土喪失をまねく最大の誘因のひとつではないでしょうか。 

マイナー映画作家とは何か

----さきほどメロドラマとは、ふだんまともに相手にされない弱者の吐く弱音に耳を傾けることだというお話がありましたが、加藤さんのお仕事のなかには直接メロドラマに言及しない著書のなかにも、広義のマイノリティ問題が取り上げられることが多いと思います。吉田秀和賞を受賞された『映画とは何か』(2001年)における黒人劇場専門映画作家としてのオスカー・ミショー論やインディアン(ネイティヴ・アメリカン)映画の作り手としてのD・W・グリフィス論や亡命映画作家としてのフリッツ・ラング論などがそうですし、なかにはマイナー映画作家としてのヒッチコックという評言すらあったと思います。それにしてもヒッチコックほどの巨匠がはたしてどのようにマイナー映画作家となるのでしょうか。

加藤 ヒッチコックについて言えば、『映画とは何か』に収録されたヒッチコック-グリフィス論の続篇が別にあります。

----『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』(2005年)のことですね。そう言えば、加藤さんの著作はつねに前作の続篇と言うか、別の文脈で問題になっていたことが、のちの著書で別の角度から照明を浴びて、ふたたび研磨し直されるということがあるように思います。

加藤 ええ、そうですね。新しい観点から再読するということがなければ、映画史というものは不可能になるでしょう。そもそも螺旋を描くような、往きつ戻りつがなければ、書きつづけるということにも読みつづけるということにも、なんの意味もなくなってしまいます。再規定/再分節化の権利を放棄すれば、わたしたちはひとつのイデオロギーの下にがんじがらめになるだけです。
 さて『ヒッチコック「裏窓」』はみすず書房の「理想の教室」という高校生でも読める入門書シリーズの一冊として書かれたものです(じっさい不幸なことに、わたしの著作から大学入試問題や模試問題さえつくられていますから「高校生でも読める」というのは大方の同意事項のようです)。その意味でわたしのヒッチコック論に誤解の余地などないはずなのですが意外と誤読されているようなので、マイナー映画作家ヒッチコックとはどのような意味なのかという御質問にお答えするかたちで、この書物について一言ふれさせてください。
 この本のなかで、わたしは「裏窓」の向こうで本当に殺人事件があったのかどうか最後までわからないと書いています。ところが少なからぬ読者が、わたしは殺人事件は起きていないと述べているのだと誤読しています。わたしがヒッチコックほどの巨匠をあえてマイナー映画作家と呼ぶのは、まさにこの二重の誤読と関わるからです。つまり第一の誤読は、フランソワ・トリュフォーのようなすぐれた映画作家=批評家をふくめて、映画『裏窓』を見たほとんど全員と言ってもいいくらいの多くの観客が、この映画の主人公ジェイムズ・スチュアートに同意=感情移入して、彼がそう確信するのと同じように殺人事件は起きたのだと考えてきたという問題です。しかし、この映画をよく見ると、どこにもそんなことを示す客観的、視覚的証拠はないのです。映画という視覚的媒体のなかで、ヒッチコックは「裏窓」の向こうで殺人事件があったのではないかと考える写真家と、この主人公に視線を通して感情移入してやまない観客の双方に視覚的物証を提供することを断固拒否するのです。あるのは状況証拠ばかりです。これはちょっとおかしなことだとは思いませんか。誰もそれをじっさいに見たわけでもないのに、容疑者はいつのまにか犯人に仕立てあげられるのです。つまりこの「裏窓」の容疑者は見たところ(外見は)犯人にちがいないのですが、ではその内実(彼が本当に犯人である視覚的同一性)があるのかというと、それは映画のなかのどこにも見あたらないのです。
 外見と内実の乖離と、わたしがこの本のなかで呼んでいる異常な事態が他のヒッチコック作品にも一貫して読み取れるということ、それがヒッチコックをして同時代の古典的ハリウッド映画作家にまじって(つまり偉大な「巨匠」でありつづけながらも)、ポスト古典的な作家たらしめます。古典的ハリウッド映画では外見と中身の一致にすべての物語論的根拠がおかれるのに対して、ヒッチコックは古典的ハリウッド映画期に身をおきながら、外見と内実の乖離というポスト古典的な問題にひとり取り組んでいるのです。言うまでもありませんが、映画には「外見」、つまりスクリーン上に投影された映像しか存在しません。映画の根本原理たるその「外見」、映像、仮象が「内実」に到達しえないとすれば、それは映画的世界を構築するうえで非常に冒険的なテーゼとなります。ヒッチコックをあえてマイナー映画作家と呼ばねばならないのは、その意味においてです。

----時代を構造的に先取りしたそのマイナーぶりにおいてヒッチコックは、典型的にポスト古典的であるフランスの60年代ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たち(ロメールやゴダールやルーシュやリヴェットやシャブロルら)に大きな影響をあたえたわけですね。

加藤 そうです。その意味でヒッチコックは極北のメロドラマ映画作家でありつづけたのです。ヒッチコックのそうした偉大な教訓を理解できなかったのが、ヒッチコックに長大なインタヴューをしたフランソワ・トリュフォーであったというのは歴史の皮肉です。ヒッチコックはまたゴダールの影響下でアンチ・メロドラマ映画を撮りはじめるシャンタル・アケルマンさえをも準備していたと言ってよいかもしれません。言うまでもなくアケルマンもまた映画史上屈指のマイナー映画作家のひとりです。

----マイナー映画作家と言えば、言葉本来の意味で正統的「マイナー映画作家」であるエドガー・G・ウルマーについても『思想』3月号(岩波書店、2007年)で論じられていました。そこではマイナー映画作家とジャンルとスタジオ・システムの関係が立体的に論じられています。

加藤 ええ、わたしは彼のマイナー性を強調する意味でもウルマーではなく、アメリカの映画作家としてアルマーと呼ぶべきだと主張していますが。

----この新しいアルマー論はエクスプロイテイションという概念を軸にジャンルとヘイズ・コードとの関係を再規定しています。その意味で1996年に出された二冊の御著書を補完するものだと思います。加藤さんはまた本来なら映画作家とは呼べないようなひとの作品も積極的に論じられています。「箱の芸術家」と呼ばれる美術家ジョーゼフ・コーネルのアマチュア映画などです(『映画の論理』所収)。加藤さんがそうしたマイナー映画にこだわる理由はどこにあるのでしょうか。

加藤 ある映画はメイジャー映画ではないがゆえにマイナー映画なのではなく、メイジャー映画が関心を示さないような、ある美しさを探究しえた映画が真のマイナー映画となるのです。したがってヒッチコックのように多くのひとたちによってメイジャー映画作家とみなされている「巨匠」もマイナー映画作家たりえますし、逆にマヤ・デレンのように、ヒッチコックに比べればはるかに知名度が低いにもかかわらず、およそマイナー映画作家とは呼べないような実験映画作家もいるのです。コーネルの場合、映画に関してはアマチュアであったがゆえに、マヤ・デレンのようなステレオタイプに陥らないですんだのです。「実験映画作家」としてコーネルとマヤ・デレン、いずれがすぐれた作家であるかは言うまでもないことです。

----ヒッチコック以外にも、古典期のメイジャー・スタジオのなかで映画を撮りながら、なおマイナー映画作家であった監督はいますか。

加藤 ええ、います。『ザンジバルの西』(1928年)や『フリークス』(1932年)などで有名なトッド・ブラウニングがそうです。ヒッチコックが古典期からポスト古典期への橋渡しをしたのと同じように、ブラウニングも初期から古典期への橋渡しをしました。そうした映画史の過渡期にあっては、順応主義的でない監督は思いがけないことをやってのけるものなのです。

映画批評と映画学の融合

----さきほど加藤さんは、映画批評家は作品から出発するが、映画学者といえども、もろもろの議論と検証ののちには作品にもどってゆかねばならないと言われました。この問題は『映画 視線のポリティクス』(1996年)で顔を覗かせたのち、本格的に主題化されるのは御著書『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(2004年)においてだと思いますが、そのへんについては御自身どのようにお考えでしょうか。

加藤 『「ブレードランナー」論序説』では実験的な試みをする時間的余裕があったのです。ふだんは週6コマ程度の授業と各種委員のノルマがついてまわりますが、2002年から翌03年にかけて2度目のサバティカルをもらって1年間、フルブライト財団の客員研究員としてアメリカの3つの大学に研究滞在しました。授業などのオブリゲイションはついていません。1度目は1990年から02年にかけての1年半でした。京大に雇われて今年でちょうど20年になりますから、10年に1度の割合でサバティカルをもらったことになります。これは欧米の基準からすればまだ少ないほうなのです。その間、1999年に3か月間だけミシガン大学の客員教授を務めたことがありますが、このときは日本映画について現地で学部向けの講義と大学院向けの演習、それに一般向けの講演などを英語でしなければなりませんでしたから、とても本を書く余裕などありませんでした。
 さてアメリカ滞在中に書かれた『「ブレードランナー」論序説』ですが、これはミクロとマクロを接合する試みです。そこでは作品論が映画史に通底し、テクスト分析と歴史的分析が和解しようとします。そのような試みは、こと映画論に関するかぎり、一度もおこなわれたことはなかったのです。またそうでなければ、一本の映画について400枚も費やすことなど無意味です。そこでは映画論と写真論や絵画論や精神分析などの文化的イデオロギー批判が同居します。とりわけひとつの解釈の実践であると同時に、教条主義的な解釈理論の批判の書です。たとえば精神分析批判の急先鋒であったジル・ドゥルーズが死んだのをよいことにラカン派精神分析の立場から杜撰な映画論を開陳するスラヴォイ・ジジェクの恐るべき欺瞞が検証されたりもします。じっさいドゥルーズの映画論とジジェクの映画論とを読み比べてみて、学問と批評の名において、どちらがより誠実な哲学者であるかは火を見るより明らかです。ドゥルーズは新たな概念の創出のために映画を利用しますが、ジジェクがやっていることは、他人の理論の転売のために映画を利用しているにすぎません。しかもその内実ときたら、搾取まがいのものにすぎないのです。

----ドゥルーズが映画を見ることから新たな理論を立ち上げているのにたいして、ジジェクはせいぜい既成の理論にあわせて映画をむりやり裁ち直しているにすぎませんから。

加藤 ともかく『「ブレードランナー」論序説』で一番肝腎なことは、あなたも指摘されたように映画批評と映画学をどのように遭遇させるかという問題でした。
 この本を書くにあたっての段取りはつぎのようなものでした。まずロラン・バルトの『S/Z』のように、映画『ブレードランナー』をショット単位で、ただし任意の個数において(というのも『ブレードランナー』はバルトが論じた『サラジーヌ』のような中篇ではないわけですから映画の全ショットを網羅的にあつかうことは議論の経済上およそ無意味なことですから)、分割し、テクスト全体とその単位ショットとの有機的関係を映像と音響のテマティスムの観点から分析します。その結果、過去『ブレードランナー』について論じられたこととはまったく異なる解釈にゆきつきました。ここまでは映画批評のカテゴリーに収まる作業です。ついで、その単位ショットを潜在的に支える古典的ハリウッド映画の歴史ならびに、それと連動して作用する諸文化史(絵画史、写真史、精神史など)を考察します。その結果、古典的ハリウッド映画なるものが、辞書的に定義可能な正統を形成しながら、その内部に幾多の偏倚をも包摂しうる鷹揚な制度であることが明らかになりました。これは映画学的な水準での作業でした。『ブレードランナー』の個々の単位ショット分析においてテクスト全体とハリウッド映画史全体とが出会うのです。さきほど作品論が映画史と通底すると言ったのは、この意味においてです。
 もっとも映画作品について、なんらかの意味ある結論を導こうとすれば、映画批評の作業と映画学の作業のふたつが截然と区別できるような場面はそう多くはないのです。過去の映画作品を再発見し、それを新しい秩序の下に再編成することは映画批評家の仕事でもあれば、映画学者の仕事でもあるからです。もっとも、そのさい肝腎なことは、「新しい秩序」なるものの言説的虚構性にあくまでも自覚的であることです。

----映画『ブレードランナー』は人間とレプリカントの対立の負のメロドラマとしてはじまり、両者の和解劇として夢のようなハッピー・エンディングでもって正のメロドラマとして終わります。にもかかわらず加藤さんの精緻なテクスト分析が明らかにしたことは、それらふたつのメロドラマのなかに悲劇がサンドイッチのようにはさまっているという驚くべき事実でした。加藤さんの解釈のほかに、いったい誰が『ブレードランナー』の真の主人公を、当初誰もがそう思っていた刑事(ハリソン・フォード)ではなく、彼から追われる悪役でしかなかったはずのレプリカントの首領(ルトガー・ハウアー)であることを示すことができたでしょう。しかもそれが作者=監督の意図の解明としてではなく、「テクストの自壊作用」として脱構築的に示されるのですから画期的です。このメロドラマからの悲劇への物語構造の一時的シフトは非常に大きな意味論的負荷をこの映画のなかで担っています。

加藤 ええ、意味論的負荷だけではなく、エモーション(情動)の水準においても非常に重要な転換点です。ロイ(ルトガー・ハウアー)が悲劇的主人公になりおおせるからこそ、『ブレードランナー』は古典的ハリウッド映画史のなかの偉大な偏倚体となるのです。

映画を「見ること」と「読むこと」

----御著書を読ませていただいての率直な感想は、まさに目から鱗が落ちる思いと言うか、非常な爽快感に襲われました。一種、酩酊感と言ってもいいと思います。それまで『ブレードランナー』についてもやもやしていたものが、すっかり見通しが開けたという感じでした。もちろん作品論としてだけではなく、ハリウッド映画史論としても学ぶところ大でした。映画というものの魅力をあますところなく堪能することができました。映画の美とシステムについての、これは大変にダイナミックな本だということになります。

加藤 この本は別に『ブレードランナー』を論じなくとも、できあがっていた本なのです。古典的ハリウッド映画であれば、作品論の対象は原理的に何でもよかったわけです。無論、わたしなりの『ブレードランナー』あるいはフィルム・ノワールへの愛着はありましたが。

----分析対象がカルト的人気を誇る映画『ブレードランナー』ですから、この本は加藤さんの御著書のなかでもよく売れた本ということになるのではないですか。

加藤 どうでしょうか。先日、筑摩書房の担当編集者から増刷(3刷)の知らせが届きましたが、もし読者が『ブレードランナー』の謎めいた表情だけに興味があって、あの本を手にしたとすれば、読者の半数近くは途方に暮れることになるのではないでしょうか。あの本は『ブレードランナー』のみならず、いわばすべての映画の表情は謎めいていると主張しているようなものですから。

----『ブレードランナー』を論じた他の多くの類書とはちがって、御著書は逆説的なことに『ブレードランナー』の謎解きの書ではありません。むしろ力強い解釈の書です。しかも映画的テクストそれじたいが要請する解釈であり、出来合いの理論の応用ではまったくありません。しかしまさにそれゆえに加藤さんが拒絶される既成の諸文化理論、コード化された主流読解格子について多くを学ぶことができます。

加藤 『ブレードランナー』論はアメリカ滞在中に執筆したためか、日本語の感覚が若干狂ったのか、はたまた日本語の参考文献が入手しづらかったためか、いくつかの小さな誤記、誤変換を生んでしまいました。これは増刷のたびに訂正するようにしています。丁寧な校閲者がいる出版社なら、かんたんに発見してくれるような類のミスです。逆に以前出版したある本では、校正刷りをやりとりするたびに出版社(編集者)サイドで新たな誤植が生ずるということがありました。あまりにもひどかったので初刷から正誤表をつけさせたのですが、それでもその正誤表は最低限のものでしかありません。あまりにもミスが多すぎるので、それを全部、正誤表に掲載することは見栄えが悪いので勘弁してほしいというのです。この出版社については四方田犬彦氏も以前、自著を誤植だらけにされたと怒りをあらわにしたことがありましたが、それでもわたしはこの映画専門の出版社を愛してやみません。日本で唯一、映画を専門に書籍をつくるマイナーな出版社に誤植をぽろぽろと産み出す悪癖があったとして、それがいったい何だというのでしょう。そもそも誤植がない本というものは存在するのでしょうか。

----10年ほどまえに出された『映画ジャンル論』は『ブレードランナー』論同様、興味深いフィルム・ノワール論をふくむ画期的な書物ですが、これがいまや古書市場で異常な高値を呼んでいて、かんたんに入手できない本となっています。なんとかならないものでしょうか。

加藤 あれも当時、3刷ぐらいまでいったと思いますが、その後、平凡社からの連絡は途絶えたままになっています。機会があれば、増補改訂版を出さなければいけないと思っています。じっさいジャンル論はいまなお映画史の重要な課題でありながら、一般に中途半端な状態で宙吊り状態になっています。

----加藤さんのお仕事は一見、積極的には政治的ではないように見えます。政治の映画ではなく映画の政治を、芸術を通しての政治を探究しているにもかかわらず、加藤さんはしばしば芸術至上主義者だと誤解されます。『ブレードランナー』論のエピグラフに引かれたARS GRATIA ARTIS(芸術のための芸術)というエピグラフも、この誤解を増長させるもののひとつとなりました。しかし、このエピグラフの「正しい」出典は、この場合、ライオンが吼えるおなじみのMGMのロゴ・マークにすぎません。つまりMGMという大衆娯楽産業の覇者が唱えている「芸術のための芸術」というお題目は、加藤さんにとって20世紀における芸術の価値低減のシンボルとして機能しているわけです。そもそも芸術と政治がいかに密接に結び合っているかということは、加藤さんの著書全体をよく読めばわかることです。

加藤 おっしゃる通り、芸術と政治は分かちがたく結びついています。両者を切り離して議論できると考えているひとがあまりにも多いので、わたしはいつも当惑させられます。一番わかりやすい例は『映画とは何か』所収のD・W・グリフィスのインディアン(ネイティヴ・アメリカン)映画論です。それはつぎのことを示しています。すなわち20世紀初頭の北アメリカの支配的文化表象においてインディアンはすでに白人中心主義社会から同情されるべき他者であり、極度にロマン主義化された他者であり、その意味で徹底した社会的弱者であったということ、それと同時に、そうしたインディアンのメロドラマ的表象を実現するためのもろもろの映画的装置の開発がグリフィスの(ということは初期アメリカ映画の)達成すべき芸術上の目標であったということです。このように、ふたつの側面、つまり政治の映画と映画の政治は切り離して論じることはできません。

----去年出された『映画館と観客の文化史』(2006年)は『ブレードランナー』論から180度様変わりしています。そこでは映画が作品として論じられることはありません。映画作品ではなく、映画が上映される場所そのものに照明があてられます。そのなかでわたしが特に印象深かった一節に、こういうものがあります。グーテンベルクの活版印刷が発明される以前の写本時代には、多くのひとは読者たりえなかった。書籍として大量複製が容易になり、ひとり一冊、まがりなりにも書物を所有することが可能になった時点で、ようやく書物は多くの読者を得ることができるようになった。つまり「読む」という実践が社会的な意味をもちはじめた。そして映画の場合も、ひとり一本のヴィデオや一枚のDVDを所有することができるようになってはじめて「読み」の対象となった。それまでは映画館で、ひとは映画を「見る」ことはできても「読む」ことはできなかったという一節です。

加藤 ええ、この場合、「読む」ということは「見る」ことに比べて自由度が高いのです。わたしたちは映画館で通常1秒間に24コマの静止画像を回転シャッターがはさむ暗闇をまじえながら「見る」わけですが、ヴィデオやDVDで見るときには原理上もっと遅くしたり早くしたり、場合によっては同じ場面を何度も巻き戻して見ることができます。本を読むのと同じことができるようになったのです。わたしたちは本を読むとき、1秒間に24文字読むなどという機械的なことはしません。1ページ読むのに10秒でも10時間でも、好きなだけ時間をかけます。必要なら前のページを再読することもできます。「読む」ということは、この伸縮自在の単位時間内での再読を意味します。
 たとえばジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』を1、2回読んだだけで、「わたしは『ユリシーズ』を読んだ」と言うひとを、わたしは絶対に信用しません。理由は簡単です。『ユリシーズ』は幾度となく読まなければわからないようにできている本だからです。おまけに通常のリニアな読み方だけではすまされません。あちらこちらページを飛んで、往きつ戻りつのクロス-レファランス(相互参照)を実践しながら読まなければ、『ユリシーズ』を読んだことにはならないのです。同じことが『ブレードランナー』を「見る」場合にも言えます。『ブレードランナー』を1、2回見ただけで「『ブレードランナー』を見た」と言うひとは、ちょっと相手にしかねるところがあります。これは別に奇妙なことでもなんでもなく、わたしたちはふだん当然のようにバッハやモーツァルトを繰り返し聞いていますが、同じことが音楽のみならず映画や小説にもあてはまるというだけのことです。
 『映画館と観客の文化史』を書いたのは、過去四半世紀のあいだで起こった映画を見る環境の大きな地殻変動を、まだ映画館というものがなかった映画史初期からまとめておく必要を感じたからです。というのも映画館がふたたび(映画史初期に映画館がなかった時期があったように)消えようとしているからです。一世紀後には映画館は今日の歌舞伎座のような存在になっているでしょう。映画館で映画を見ることは特別な行事のようなものになっているでしょう。

----『映画館と観客の文化史』を拝読して、映画館が過去これほど多様な実践形態をもっていたということを、これまでまったく知らなかった自分がいやになりました。『ブレードランナー』論とはまた別の意味でぞくぞくするほどの興奮をおぼえました。
 さてさきほどの「見る」と「読む」との区分とは多少意味がずれるのですが、加藤さんのお書きになられるものは、特に映画作品の水準で書かれたものは、徹底して「見る」ことが実践されます。『ブレードランナー』論はその「見る」ことの実践を極限まで推し進めた例だろうと思いますし、『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(2002年)の溝口健二論やすでに言及した『映画とは何か』のフリッツ・ラング論などの超絶技巧的分析において、ふだんわたしたちが観客として、いかに映画を見ていないかということを、いやと言うほど思い知らされます。映画作品にいかに盲点が多いかということがよくわかります。

加藤 映画テクスト上に盲点を生産することもまた映画的システムのなせるわざですから、システム下で映画を楽しむことを学んできたわたしたちにとって、映画を見ているにもかかわらず映画が見えないのは、ある意味、当然なことなのです。

----スクリーンに現に映っている、にもかかわらず、なんらかのシステムの呪縛の下で見えなくなっているものにあえて瞳を凝らす、という立場は蓮実重彦氏の立場に近いと思いますが。

加藤 そうですね。わたしが映画批評を書きはじめたころ、彼の最初の一連の映画評論集が陸続と出版されはじめましたから、影響がないことはないでしょう。蓮実重彦氏のエクリチュールには朦朧様式が見られますが、それでも彼は世界屈指の映画批評家です。世界中捜しても蓮実氏に太刀打ちできる映画批評家は今日ちょっといないでしょう。もっとも、これも世界の趨勢が映画批評から映画学へと動いたことと関係があるでしょう。蓮実氏は映画学の領域からはつねに一定の距離をおいています。世代論的に言えば、彼はわたしのように映画批評から映画学への架橋に腐心する必要のない世代に属しています。わたしより2世代ほど上の方ですから。

----蓮実氏がヌーヴェル・ヴァーグ経由で唱道する「作家主義」からも加藤さんのお仕事は隔たったところにありました。ところで四方田犬彦氏の仕事ぶりを加藤さんはどう評価されますか。

加藤 四方田氏の超人的な仕事ぶりは、あなたも知る通りです。彼はわたしより数歳、歳上で、まだ東大在学中の70年代後半、『シネマグラ』という映画批評の同人誌を他の東大生たちとともに出していました。そのなかに蓮実重彦氏のインタヴューが掲載されているのですが、これが悶絶級のインタヴューなのです。言葉をかえれば、不躾なほどの質問に満ちたインタヴューで、いまのあなたとわたしのあいだで交わされているようなお行儀の良いものではなかったのです。『シネマグラ』が休刊するころ、四方田氏は『ユリイカ』のような文化雑誌で映画論の連載をはじめます。当時、たいへんおもしろく読んでいたのを覚えています。その連載のなかで彼が、あなたが最初に言及してくれた『イメージフォーラム』のわたしの映画論を引用してくれたように記憶しています。ともかく四方田氏はたいへんな才人で、当初、蓮実氏のように映画批評家ないし文芸批評家としてやってゆくのではないかと思っていたのですが、御存知のように、その後の四方田氏は映画論のみならず漫画論、小説論、都市論をはじめとした、とても広範な文化批評を展開してゆきます。彼ほど守備範囲の広い批評家というのも、ちょっとめずらしいのではないでしょうか。知識人という言葉が死語になったあとに現れた新しいタイプの知識人です。明治学院大学の映画学科で後進を育ててはいますが、彼の仕事は映画批評や映画学に限定されるものではありません。
 個人的には彼の八面六臂の活躍を慶賀してやみませんが、できれば映画批評家四方田犬彦でありつづけてほしいと思います。と言うのも、さきほど紹介した『シネマグラ』での蓮実氏とのインタヴュー以来だろうと思いますが、四方田氏はどういうわけか蓮実氏とは犬猿の仲で、それぞれの著書のなかで相手を名指しで非難しあっているほどです。しかしわたしに言わせれば、このふたりの映画批評家はなにしろ世界トップクラスなのですから、いがみあいをつづけるにしろ仲直りするにしろ、映画批評という同じ土俵のうえで議論をつづけてほしいと思います。まあ、いずれにしろ蓮実重彦氏と四方田犬彦氏というふたつの強烈な個性があったればこそ、わたしは自分の進むべき方向が見えたようなわけです。

----加藤さんは映画批評から映画学への橋渡しにおいて、蓮実氏とも四方田氏ともまったくちがう独自の道を歩んでこられました。

加藤 そう、スキュラとカリブディスではないのですが、わたしは怪物的なこのふたりの先達の間隙をなんとか擦り抜けてゆくことができました。

----80年代なかばに蓮実氏が編集していた映画雑誌に『リュミエール』という筑摩書房の旗艦誌がありましたが、そこに乗りこんでいた若い書き手たちのほとんどがその後、消息不明になっていったのと対照的です。ところで去年刊行された御編著『映画学的想像力 シネマ・スタディーズの冒険』(2006年)には、加藤さんの教え子さんたちも寄稿されていますが、京大での大学院教育の成果はいかがですか。

加藤 成果主義というのが当世流行の言説です。しかし成果というものがかならずしも客観的尺度ではかられるものではないということは御理解いただけると思います。たとえば論文の数が多ければ、その研究者が優秀かと言えば、かならずしもそうではありません。たしかに博士後期課程進学者のほとんど全員が日本学術振興会の特別研究員に採用されてきましたから、京大の院生たちは経済的に恵まれた環境で研究生活をおくってきたはずです。なかには京都映画祭の関連事業の一環として募集された「京都映画文化賞」を受賞した者たちもおりましたので、その副賞100万円は学生がもらう金額としてはけっして小さいものではないはずです。民間の研究助成金も獲得していたようです。しかし、どのような研究生活を選択するかという問題は、非常に個人差の大きい問題です。東京での生活にあこがれて、5年間の院生生活を終えると、博士論文も書かずに、さっさと立教大学文学部助手(映画学担当)として就職した者もいれば、逆に限度いっぱいまで(6年間でしたか)日本学術振興会特別研究員をつづけ、その奨学金をつかってアメリカ各地でリサーチを重ね、独創的な博士論文を完成させた者もいます(彼は東京国立近代美術館フィルムセンター研究員になりました)。あるいはローザンヌの大学院に籍をおきながら長年研究をつづけていた者は、もはや日本で就職する気をまったくなくし、ヨーロッパ以外では就職しないと言っています。そうかと思えば、京都市内で生まれ育ち、地元の高等教育機関(京大の学部と院)に学び、そして自宅から歩いて通える私立大学に新設された映画学コースで教鞭をとる者もいます。また博士論文を執筆する者に共通して言えることは、時間はかかりますが、みな非常に緻密な論文を準備しているということです。これは3年間の博士後期課程在籍中に博士論文を提出してしまう最近の傾向からは逆行しているように見えますが、むしろ欧米並みの時間のかけ方です。断言してもよいのですが、良い論文はある程度時間をかけないと絶対に書けません。この夏からフルブライトの奨学金でアメリカの大学院に留学する者もいます。彼はアメリカでPh. Dを取ってくるでしょうが、それまでには5年ほど見ておかねばなりません。またたくさんの留学生も受け容れてきましたが、彼らの大半は、そつなく博士号を取得して帰国していきます。ことライフ・スタイルに関わる以上、「大学院教育の成果」も本当にさまざまな表れ方をするものなのです。

----加藤さん御自身も民間の研究助成を利用されますか。

加藤 ええ、民間財団の研究助成も公的機関のものも、それこそ数えきれないくらいもらってきました。そうでなければ世界各地にリサーチに出かけることは不可能です。院生にも競争的資金を獲得するのも研究業績のうちだと言って発破をかけています。

----映画学教師としての加藤さんはどのような方なのでしょうか。そして教義の神髄は。

加藤 教義の神髄などといった古色蒼然たるものはありません。学部生向けの講義はごく非体系的なものです。なんらかのクロノロジカルな映画史を講ずることは絶対にありません。さまざまな映画の特権的な瞬間をつぎつぎと学生諸君に見て聴いてもらうだけです。体系的統一理念など芸術には無用の長物です。知識の伝授ではなく、多様な方向に拡がる発見と感動の共有であってくれれば良いと願っています。

----でも学問のゴールはなんらかの統一体の構築ですよね。

加藤 そうです。しかし、その統一体はあくまでも多方向に開かれていなければならないのです。その意味では学問にはゴールがないことになります。
 学生のなかには(京大の学生にかぎりませんが)自分がいままで大学で聴いた講義のなかで一番おもしろかったと言ってくれる者たちもいますが、おおむね新学期当初は立ち見まで出ていた大教室が学期の終わりころには閑散としています。教育はコミュニケーションではなくインスピレーションを喚起するものであれば、それで十分だと思います。教師にできることは、学生諸君が自分で考えはじめることを手伝うことだけです。1から10まで手取り足取り教えていては、学生はだめになってしまうだけです。それは彼らの創造性と想像力の根を摘み取ってしまいます。いまの大方の学部生は、ひとつの問いにはひとつの答えしかないと思いこんでいますし、既成の問いに答えることよりも問いそのものを鍛えることの方が大事だという発想をもっていません。インターネット上で、さまざまな問いと答えがセットになって簡単に検索できますが、そのことが若いひとたちの想像力を著しく低下させています。インターネット上に答えが載っていない問いは、問いとして認められないという非常に危険な兆候が見られます。

日本映画学会と日本映像学会

----日本映画学会や日本映像学会の活動については、いかがですか。

加藤 わたしが日本映像学会とはじめて積極的に関わったのは、2000年春に当時の日本映像学会会長の松本俊夫氏から理事に就任してくれないかと打診を受けたときからです。それ以前に口頭発表やシンポジウムのパネリストを引き受けたこともありましたが、世界中どこの研究集会や学会でも同じことですが、そうしたものはわたしにとって退屈なだけです。

----リサーチと執筆をしているときだけが、加藤さんにとって幸福な時間だということですか。

加藤 院生たちとのゼミナールの時間もわたしにとって楽しいもののひとつです。
 さて日本映像学会会長がわたしに相談してきた話というのは、学会の改革の一端を担ってくれというものでした。松本俊夫氏は先に話した通り、尊敬に値する数少ない映画作家=批評家のひとりです。そもそもわたしがこの道に入ったのは、高校生のとき、彼の一連の映画批評書を読んだことがきっかけなのですから、その松本氏の依頼とあらば否も応もありません。しかしのちに松本氏のあとを継いで会長となる岩本憲児氏から学会誌の編集委員長の就任を依頼されて、はじめて事の重大さに気づきました。設立して何十年にもなる日本映像学会の学会誌に、まともな投稿規程もなければ、査読委員会もいっさい存在していなかったからです。わたしは一から投稿規程を練り直し、一から査読規程をつくらなければなりませんでした。2000年の時点で日本映像学会がレフェリー制の学会誌を運営していなかったという事実は、わたしを驚かせました。時代遅れもはなはだしかったからです。
 そのことによる制度疲労にも思いあたることがありました。まだ岩本憲児氏がわたしの前任者として学会誌の編集委員長をしていたときのことですが、ある院生が自分の投稿論文が理不尽な理由で不採用になったとわたしに相談しにきたことがありました。編集委員会によれば投稿論文に添付されていた写真が多すぎるから不採用だと言うのです。論文の内容のためではなく、添付写真のために落とされたのです。ところが投稿規程には写真の貼付については、何の規程もないのです。写真は何枚までなら掲載すると、あらかじめ規程があるならば、それを超過したという理由で投稿論文を不採用にするというのならわかります。しかしそのような規程がないにもかかわらず、ただたんに主観的に多いと判断されたから論文を掲載しないというのでは、投稿規程をよく練り上げていなかった編集委員会の怠慢だと言われても仕方ないでしょう。映像学会の学会誌が映像(写真、図版)の掲載について何十年ものあいだ何の規程ももっていなかったのです。院生が全身全霊をこめて書き上げた論文が、その内容の如何によってではなく実務的理由によって落とされたのです。そこでわたしは院生にかわって、この問題について学会誌編集委員会内でよく話し合ってもらいたいとお願いしました。はたせるかな学会誌次号には写真の貼付についての新たな規程が付け加えられました。しかし結局、不採用通知が取り消されることはありませんでした。編集委員会のそのような態度に、わたしは不誠実なものを感じました。
 またそのころの学会誌の論文の英文要旨には文法的にも語彙的にも、とてもお話にならないものが堂々と掲載されていて、同じ学会会員として恥ずかしい思いを味わっていました。要するに編集委員会は英文要旨をチェックする体制もその能力も、また職責をまっとうしようとする誠実さももちあわせていなかったのです。将来、学会の在り方をチェックする第三者評価機関といったものができたとき、この時期の日本映像学会がいかにいいかげんなものだったかと判定したとしても故なしとはしないでしょう。
 ともかくわたしが学会誌の編集委員長に就任する直前まで、そのような状態だったのですから、たしかに松本会長が言うように日本映像学会は改革を要する時期にきていました。むしろ改革に着手するには遅すぎるくらいでしたが。
 もうひとつ、これもわたしが常任理事会に出席しておどろいたことですが、当時、常任理事会は日本学士会館という由緒あるところを、わざわざお金をはらって一部屋借り受け、12人くらいの常任理事が一堂に会してフルコースのディナーを食べながらおこなわれていたのです。日本映像学会はやたらと学会費が高いところなのですが、このような散財がなされていたのなら当然のことだったとも言えましょう。問題は学会費の散財にとどまりません。学会の最高議決機関である常任理事会がボーイ付きディナーを取りながら開催されていたのでは、とてもまともな議論などできるわけはないのです。慎みを欠いたもの言いをすれば、みんな食べることに忙しすぎて重要案件の審議など上の空だったのではないかということです。松本会長が学会のそうした悪弊の改革に乗り出したのは当然のことであったわけです。

----お話をうかがっていると、まるで学会の「腐敗を糾弾し、弱きを助け、欠陥のある抑圧的な権威に挑みかか」らんばかりの勢いですね。

加藤 ともかくわたしに任されたことは、日本映像学会の学会誌をきちんとしたレフェリー制にして、どこに出しても恥ずかしくない内容にするという仕事だったのです。わたしは2000年春から2002年春までの一期2年間、編集委員長を務めました。すでにお話したように2002年夏からわたしはフルブライト客員研究員としてアメリカに滞在することになっていましたから、わたしの改革は中途半端に終わらざるをえませんでした。本来なら二期4年間の在任が慣例だったのです。
 在任中も問題は絶えませんでした。わたしたちはたった7人で国際版もふくめて年間3冊もの学会誌を編集しなければならなかったので、編集委員会は多忙をきわめる仕事となりました。国際版の編集責任者は、あるとき査読に合格して掲載可能になった投稿者に、誤って、正反対の不採用の通知を出したことさえありました。このときは不採用の通知をもらった院生から相談されたわたしが国際版編集責任者本人に問い合わせて事なきを得ました。編集委員のなかには、論文の審査に十分な時間をかけたがらないひとや、編集委員会に参加しないひともいました。そんななかでわたしが痛感したことは、査読委員会で十分に議論をつくし、公正な査読をおこない、その結果をとりわけ不採用になった投稿者にうまく伝えるということがいかに難しいかということでした。
 ところで、わたしの後を継いで編集委員長になったひとは、わたしの在任中、一度も編集委員会に参加しなかった人物でした。ひどい話だと思いませんか。この新編集委員長は、わたしが2年間取り組んだ改革に、編集委員会に名を連ねておきながら、ただの一度も参加しなかったのです。そのため彼には査読規程の公正な運用の難しさがまるでわかっていなかったのです。おまけに彼にはわたしの後をついで改革を続行させる気はありませんでした。これは新編集委員長の責任というよりも、松本会長の後を受けて改革と刷新を続行すべきだった新会長の責任であるはずです。
 そして問題が起きました。アメリカ滞在中に、若い2人のすぐれた投稿者の論文が不採用になったというニュースが届きました。問題は、査読委員会から投稿者に送付される査読結果を記した用紙の内容にありました。念のために補足すれば、査読委員会というのは基本的に編集委員会と同義です。必要があれば、編集委員のほかに外部から査読委員の参加を要請することができるので、ふたつの名称が使い分けられているのです。ともかく査読体制が杜撰であることを示すような査読結果を知らせる用紙が届いたのです。つまりわずか3人の査読委員がそれぞれ数行ずつ、感想を記しただけの用紙です。わたしは前任者として、このような査読体制ではいけないということを新しい編集委員長と新しい会長の岩本憲児氏に伝えました。つまり査読委員は誠意をつくして投稿論文に向かうべきであり、わずか数行の査読結果を記しただけでは、十分な議論をつくさないまま、すぐれた論文を不採用にしたことは誰の目にも明らかであると。そしてその言葉が学会首脳部の気持ちを逆なでしたのです。わたしの異議申し立ては彼らを憤慨させました。何を根拠に査読委員会が不誠実であると言っているのかと言うのです。しかし根拠は目の前にありました。すぐれた投稿論文が2篇と拙い内容の不採用通知が2通です。
 わたしはそれまでの査読経験とみずからの論文執筆経験、それに査読規程そのものをつくった経験から、それら2篇の投稿論文が落とされたのは明らかに査読規程の運用ミスに原因があると思いました。学会のシステムに機能不全の兆候が見出されたなら、それにたいして学会首脳部は迅速に対応しなければなりません。なにしろ自分の投稿論文にたいして不採用通知をもらった会員は、先のふたつの例からも明らかなようにきわめて無力な存在なのです。彼らの抗議の声は弱者の弱音として聞き漏らされてしまいます。ツァラツストラは正義と善意と同情があるところに弱さがあると言っていますが、わたしはそれをもう一度逆転して言い直すべきだと思っています。つまり弱さがあるところに、正義と善意と同情がなされなければなりません。民主主義システムが正しく機能していないとき、システムは弱者を切り捨てずにはおきません。くりかえしますが、不採用通知には、なんとも頼りない感想文が書かれてあるだけなのです。そしてその感想文は投稿論文の水準にまったく釣り合っていないのです。
 こうしてわたしは不採用者の声を代弁し、そして日本映像学会全体の発展のために、学会首脳部に眉をひそめられそうな問題を公然と取り上げたのです。わたしは権威主義者の公式見解に甘んずる者ではありませんし、再検証もなしに事態を受け容れる者でもありません。わたしの異議申し立てが学会首脳部にとって、どれほど身の程知らずのものに映ったとしても、わたしは前編集委員長として学会の査読システムの運用欠陥を是正する会員的義務を担っていたのです。

----難しい問題ですね。現状肯定主義にたいする異議申し立て、学会首脳部との言葉本来の意味でのメロドラマ的対立ですか。

加藤 メロドラマは抑圧があるところに惹起します。そしてひとたびメロドラマに陥ると、対立や矛盾から新たな出発点を見出すことは難しくなります。わたしは学会首脳部から蛇蝎のごとく嫌われました。そのうえで胡座をかいていられるような合意事項に倫理的、合理的見地から異をとなえる者は誰でも嫌われてしまうものです。わたしは彼らの脛傷を思い切り蹴り上げたのです。

----まるでエドワード・キーンホルツのように攻撃的な身振りですね。

加藤 もともと彼らは長年、白いテーブルクロスのうえでディナーを給仕されながら最高議決機関を運営しているようなひとびとでしたから、わたしのような人間と肌があうわけがないのです。わたしには順応主義的なところがほとんどありませんから。ところで彼らとしてはわたしを羊のように屠場へと引っ張っていったつもりでしたが、わたしとしてはそれ以上とやかく言うことはありませんでした。優柔不断なわたしにも、日本映像学会を見放すときがきました。もはや学会の改革はわたしの管掌事項ではなくなったのです。結局、彼らはわたしのおこなった提案にもかかわらず、学会を改革することができなかったのです。

----だとすれば、それは本当に御愁傷様としか言えません。

加藤 ただし日本映像学会は例外的な存在だということを言っておかなければなりません。自己改革の機会をあれほどみごとに逸する学会もめずらしいということです。たとえば日本映画学会がありますが、この学会は寄り合い所帯の日本映像学会に比べれば小さな学会ですが、それでも査読委員は日本映像学会の3人にたいして5人です。グローバル・スタンダードに照らしても、査読委員3人というのは少なすぎます。日本映画学会の査読結果を伝えるeメイルには、投稿者の論文を熟読玩味したうえでしか出てこない真摯な言葉が記されています。これは日本映画学会誌編集委員長の杉野健太郎氏に負うところが大きいのですが。
 ともかく学会活動おいて、背負いこまなくともいいような苦労をすすんで引き受けるのは、ひとえに学会執行部が若いひとの未来を信じているからにほかなりません。若い論文投稿者が将来すばらしい研究者になるであろうという、ただそれだけの希望を梃子に学会執行部は動いています。映画学が将来も意味のある学問でありつづけられるかどうかは、ひとえに若い研究者たちの創意と熱意にかかっているからです。そのような理念を忘れてしまった学会がどのようなことになるのか、わたしは日本映像学会を見ていてよくわかりました。

京都映画祭

----いやはや、たいへんなことです。弱者の声を代弁して権威主義者に異議申し立てをするというのは、いかにも加藤さんらしいことだと思います。ところで京都映画祭についてはいかがですか。

加藤 わたしが京都映画祭と関わったのは準備段階をいれても10年ほどです。1992年ころ、京都映画祭をどのような性格のものにしようかと中島貞夫監督と鴇明浩さんとの三人で相談したのです。世界中のほとんどの映画祭が新作映画の見本市でしたから、京都映画祭はそうしないで、むしろ旧作映画を中心に上映しようという話にまとまり、わたしはこのポリシーがたいへん気に入っていました。
 御存知のように、日本では映画は主に東京と京都の二箇所で撮影されてきました。アメリカ映画が主にニューヨークとロサンジェルスで撮られるのと似ていなくもありません。京都には映画産業黎明期から撮影所がありましたから、日本映画の伝統をさぐるという意味で、新作映画の見本市という性格を京都映画祭から払拭したことは正解だったと思います。準備段階で『京都シネマップ』(人文書院)という、京都の撮影所とロケ地と映画作品の相関関係を概説した本を出したのも、また第一回京都映画祭の折に公式パンフレットとは別に『時代劇映画とはなにか』(人文書院)という単行本を編集刊行したのも、京都の独自性を打ち出したかったからです。御存知のように、ほとんどの時代劇は東京ではなく京都で撮られていたのです。現代の日本では東京に経済と文化と技術と人口が一極集中する傾向があります。それがきわめて異常な事態であるということを映画史の面からも確認しておきたかったのです。
 京都映画祭では古今東西のさまざまな映画を企画上映しましたが、わたしが任されたのは外国映画部門でした。フリッツ・ラングの『メトロポリス』(1927年)やムルナウの『ファウスト』(1926年)のリュミエール・プロジェクトによる修復版を日本初公開したのは京都映画祭です。そのほかにもドイツやイタリアやフランスや英国の初期映画の特集を組みましたし、マルコ・ベロッキオの新作映画特集も組みました。ビエンナーレですから、毎年、企画や雑務に追われるというようなことはありませんでしたが、京都映画祭企画実行委員を務めることは総じて消耗的な仕事でした。なぜなら京都映画祭の筆頭スポンサーは京都市ですから市役所との交渉があります。これはおよそ創造的な仕事ではありません。第二に、総じて京都映画祭は専従スタッフに恵まれませんでした。その点では山形国際ドキュメンタリー映画祭がうらやましいですね。ヴォランティア・スタッフをのぞいて、質的にも量的にも専従スタッフを欠くということは、映画祭のような巨大なイヴェントにとっては致命的なことです。組織の命運は才覚のある事務局長の手に握られていると言っても過言ではないでしょう。
 その一方で、楽しいこともありました。国際シンポジウムのために多くの外国映画関係者を招待しましたが、わたしが招聘交渉をしたのは世界有数の映画学者=批評家たちでした。ウィスコンシン大学マディソン校のデイヴィッド・ボードウェル、シカゴ大学のトム・ガニング、アムステルダム大学のトマス・エルセサー。彼らは第一級の映画批評家であり、映画学者です。ですから京都映画祭の期間中、彼らといっしょに日本映画の旧作を見て歩くということは幸福な体験でした。それはわたしばかりでなく、京都映画祭に参加したすべてのひとびとにとっても同じことだったでしょう。
 2002年後半から1年間アメリカに滞在していたあいだは、当然、京都映画祭の仕事もできませんでしたが、帰国後、映画祭は大幅に予算が削減され、各種関連事業も中止され、夕張国際ファンタスティック映画祭ではないのですが、いまや風前の灯火です。かつてのように古今東西の映画を再発見しようという気概はまったくありません。何事にもはじまりがある以上、終わりがあります。しかし終わりはまた何物かの新しいはじまりでもあるはずです。

新作映画あるいはRoger Rabbit Redux

----最近、御覧になった映画でおもしろいものはありましたか。

加藤 ええ、やはりキアロスタミですね。『明日へのチケット』(2005年)という想像力に満ちた佳品で、ヨーロッパ国際縦断列車が物語の舞台となったオムニバス映画です。オムニバス映画というのは、御存知のように何本かの短篇映画を集めて、一本分の上映時間にしてある映画のことですが、この作品は映画史上きわめてめずらしい構成になっています。オムニバス映画でありながら一本の物語映画の首尾一貫性に近い内容をもっているのです。その意味でイェジー・カワレロウィッチの『影』(1956年)に似ていなくもないのですが、あれよりはるかに簡潔で力強い構造をもっており、第一あれよりはるかに傑作なのです。
 『明日へのチケット』は三人の、国籍も映画的文体も異なる超一流の監督(アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ、エルマンノ・オルミ)の手になる三本の短篇映画からなるオムニバス映画です。オムニバスの語源は、いまで言えば「乗り合い列車」に相当する言葉ですから、物語の舞台が同じひとつの旅客列車であることは、三本の短篇映画が相互に連結器でつながれた三輛の車輛を思わせることになります。「乗り合い列車」は列車に乗り込むひとと列車から降りるひとからなるので、そこに物語に欠かせない、ひとびとの出遭いと別れがあり、人生の目的地と出発地が生まれます。物語映画において列車はなによりも映画的分節性のすぐれた装置となります。じっさい一本目や二本目の短篇では通行人にすぎなかった人物群が、二本目の短篇で主役が降車したり別の車輛に移って姿を消したりして、三本目の短篇で突然主役になったりするので、三本の短篇映画は全体としてオムニバスの語源にふさわしく、また欧州統合にふさわしく、分け隔てなく「すべてのひとのための」一貫した車輛編成をもっていることになります。そこでは誰が主役であるとか傍役であるとかといった差別はほとんど消えてなくなるのです。
 とりわけ第二話のキアロスタミ篇はみごとです。観客はあれよあれよと言う間に、光と時間の著しい顕現の瞬間に立ち遭わされます。ケン・ローチとエルマンノ・オルミのパートは、それぞれやや楽観主義的でロマンティックすぎるきらいがありました。もちろん、それでも映画は全体としてみごとな緊張感を最後まで失いません。さてキアロスタミ篇ですが、これは老女と少女のあいだで、逡巡していたひとりの青年が新しい人生の一歩を踏み出す物語ならざる物語です。人間の顔をとらえた切り返しショットの現前と不在の奇妙なブレンディング、そして例のキアロスタミ的長廻しのあいだで、列車は疾走しつづけます。とりわけ感動的な場面は、わがままな老女にふりまわされる青年を通路側からコンパートメントの窓越しにとらえた長いショットです。窓の向こうでは青年が老女に翻弄されています。そしてそれを垣間見せる窓硝子の表面には、目隠しのために横縞の鏡状の細い帯が何本もはいっていて、そのストライプの鏡にカメラの背後の、本来なら観客にも見えなければ、コンパートメントのなかで笑劇のような葛藤をくりひろげている老女と青年にも見えない、列車の外の緑の光景が映っているのです。列車は走りつづけていますから、横縞の細い鏡に映る窓辺の風景も水平方向に飛び去ってゆきます。その緑のイメージと運動を二重に(窓の中と外を)凝視しつづける長い切れ目のないカメラにおいて、観客の目に人生の一瞬、一瞬の貴重な時間の束が閃光のように飛びこんでくるのです。総毛立つような感動的瞬間です。そして青年がわがままな老女を見限るのは、この長いショットの直後です。それは青年にも自分のいるべき場所が薄暗いコンパートメントのなかではなく、車外にひろがる煌めく世界であることを教えているかのようです。

----『映画とは何か』で列車の映画史を展開した加藤さんらしいお話ですね。キアロスタミの映画については『映画館と観客の文化史』でもふれられていました。

加藤 とにかくオムニバス映画として出色なのです。たとえば同じように錚々たる監督を集めたオムニバス映画『テン・ミニッツ・オールダー』(2002年)の目を覆わんばかりの自堕落さと比べてみれば、『明日へのチケット』のすばらしさがよくわかります。映画史のなかでオムニバス映画というのは、ひとつの水脈を形成していますから、その意味でも重要な作例でしょう。

----加藤さんにとって新作映画とは何なのでしょうか。

加藤 80年代初頭にはすでにお話したようにファスビンダーの新作映画を批評していました。ファスビンダーの最高傑作のひとつ『13回新月のある年に』(1978年)は同時代にパリで見ていました。同時代監督として一番フォローしていたのは80年代のジャック・ドワイヨンです。クールなくせに非常にエモーショナルなメロドラマをつくる映画作家です。いまのアルノー・デプレシャンなどよりはるかにユニークなひとです。当時、映画雑誌各誌が年間ベスト映画選出という行事をやっていたのです(いまでもやっています)が、小川徹編集長時代の『映画芸術』だったと思いますが、ドワイヨンの『ラ・ピラート』(1984年)をベスト・ワンに選んだこともありました。
 新作映画の楽しみ方には三通りほどあります。まずファスビンダーやドワイヨンのような30歳台の若い映画作家が矢継ぎばやに繰り出す新作を楽しむことです。それらの作品には、どれも勢いがあって、毎回驚愕させられます。ふたつ目の楽しみ方は8ミリや16ミリやヴィデオでデビューしたての20歳そこそこの新人監督を発見することです。彼らは35ミリの商業作品を公開するころまでのあいだに凄まじいばかりの化学変化を見せてくれます。たとえば黒沢清監督の8ミリ映画は当時衝撃的な力をもっていましたが、それはいまでも失われていません。最後にフェリーニ(もう死んでしまいましたが)やロメールやキアロスタミやフレデリック・ワイズマンのように、40歳になろうが60歳をすぎようが80歳になろうが、毎回、期待を裏切らない新作を死ぬまで発表しつづけるような大家をフォローすることです。彼らはまるで映画を撮るためにだけ、この世に生を受けてきたようなひとたちです。ただし、いまお話した三通りの楽しみ方は実はどれも「作家主義」的なものです。本当はいきあたりばったりに出遭った新作映画がおもしろければ、それが観客にとって一番幸せなことなのですが、新作映画にはなんらかの宣伝がつきものですから、なんの予備知識もなしに新作映画を見るということはむずかしくなります。
 じっさい新作映画はしばしば商業主義に侵されます。アドルノ-ホルクハイマーの「文化産業」論ではないのですが、新作映画はそれに投資された製作費に応じて、同時代のすべてのメディアによって短期的な宣伝紹介の対象となります。その結果、新作であるというだけで、それは商品価値をもちますし、またもたなければならなくなります。そしてそれが、ひとびとが乗り遅れまいとする最新流行の一部となります。そのとき新作映画それじたいがどのような芸術的事件たりえているかということは、まず問題になりません。新作映画がどのように宣伝紹介され、どのようにひとびとの口の端にのぼるかということだけが問題なのです。
 ですから新作映画をそれが新作であるという理由において短期的サイクルであつかうことは「文化のバーゲンセール」に加担することでしかありません。すべての新作映画には未来の古典作品ないし参照作品になる可能性があるわけですから、新作映画をその定義にしたがって短期的にあつかうことは非常に危険なことです。
 「自分が見ていない映画はすべて新作映画である」という言葉がありますが、けだし名言だと思います。旧作であろうが新作であろうが、すべての映画は長期的パースペクティヴの下で見なければ、その真価はわかりません。映画史が問題となるのは、この意味においてです。以前、毎年のようにポルデノーネ無声映画祭に通っていた時期がありました。ヴェネツィアから北に一時間ほどの地方都市で開催されるこの映画祭で、1890年代から1920年代のサイレント映画を百本単位で浴びるように見ることは非常に刺戟的な体験でした。わたしたちはふだん『タイタニック』(1997年)や『マトリックス・レボリューションズ』(2003年)のように、どんなに新しい外観をもっているように見えながらも、しょせん古典的ハリウッド映画のお粗末な焼き直しでしかないものを新作映画として見せられているわけですから、映画史がまだ古典期を知らない時期の初期作品を見ることは本当に目を開かされる思いがします。無論、初期映画やその近辺の旧作が見られるようになったことについては、過去30年ほどのフィルム・アーキヴィストたちのたゆまざる努力があります。映画学者、フィルム・アーキヴィスト、映画批評家、この三者は今後も連携して、新しい映画史を構築してゆかねばならないでしょう。

 ともかく誰から頼まれたわけでもないのに、映画批評から映画学へ(またその逆)の橋渡しをしてきたことが、わたしの過去四半世紀の仕事だったと言えば仕事と言えるわけで、それは厄介なことではありましたが、いわば恩寵のごとき時間だったわけです。そして一世紀の半分を生き終えて、いまはリダックスした気持ちです。トリプルR(Roger Rabbit Redux 帰ってきたロジャー・ラビット)と言いたい気分ですね。

----加藤さんがフィルム・ノワール=コメディとして評価してらっしゃるハリウッドのパスティーシュ=パロディ映画『ロジャー・ラビット』(1988年)ですね。アニメと実写がみごとに合体した、いまやCGI(コンピュータ作製映像)期の古典とも言える作品です。

加藤 そうです。主人公のロジャー・ラビットじたい、1940年代の人気アニメーション映画のあばれ兎キャラクター、バグズ・バーニーのパスティーシュ=パロディ的存在ですから、映画『ロジャー・ラビット』には二重にパスティーシュ=パロディの対象があることになります。40年代の人気ジャンルたるフィルム・ノワールと同じく40年代の人気アニメーション映画です。そして『ロジャー・ラビット』の物語の舞台も40年代のハリウッドです。80年代に、まったく新しい手法で40年代の人気者たちがよみがえってくるのです。その意味でも『ロジャー・ラビット』はそれじたいRoger Rabbit Reduxなのです。
 ところでフィルム・ノワールの最初のサイクルはオーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958年)で閉じられると言われます。それはまったくその通りなのですが、重要なことはサイクルが閉じられるその同じ年に、もうひとつ別のサイクルがすでにもう開かれているということです。それがフィルム・ノワールの広義のパスティーシュの運動です。そしてその嚆矢が、のちにフランスのフィルム・ノワールの大家となる(この評言じたいに世界映画史のおもしろさが示されているのですが、いまは詳説しません)ジャン=ピエール・メルヴィルが、アメリカでロケーション撮影した『マンハッタンの二人の男』(1958年)です。この映画のおもしろいところは、フィルム・ノワール末期に、およそ真面目にフィルム・ノワールに取り組んでいないということです。ジャンルの定式をなぞっているだけなのです。アメリカのフィルム・ノワールを外国人が定式通りにやってみたら、こうなったというだけの外観のみを追究した空っぽの映画にすぎません。その虚ろさがノワール感をいっそう高めています。言いかえれば、メルヴィルがアメリカのフィルム・ノワールに彼なりのオマージュを捧げ、後年の自分のフィルム・ノワールを準備しているだけなのです。メルヴィルは『マンハッタンの二人の男』において本気でフィルム・ノワールを撮ろうとはしていません。彼が撮ろうとしたのは、いわばfilm noir reduxなのです。
 他方、ドイツ人のヴェンダースはハリウッド映画人となるための通過儀礼ででもあるかのように、『ハメット』1982年)をフィルム・ノワールの正確無比なパスティーシュに仕上げていますし、『ロジャー・ラビット』と同じ年にアンドリュー・ホーンは『摩天楼に抱かれて』(1988年)というフィルム・ノワールの物憂いパスティーシュを撮っています。無論、コーエン兄弟の『ブラッド・シンプル』(1984年)もあります。ですから『マンハッタンの二人の男』にはじまって、少なくとも30年間、フィルム・ノワールのパスティーシュの運動は間歇的につづいているのです。ひとつのジャンルがこのように長いあいだパスティーシュの対象となるということはめずらしいことです。しかしフィルム・ノワールがフランスへと逆輸出されてはじめて命脈を保つように、西部劇も1960年代後半、イタリアに輸出されてスパゲッティ・ウェスタンとして新たな息吹を吹きこまれます。ジャンル映画だけをとってみても、世界映画史の潮流の温度差によって古典期からポスト古典期への移行が微調整されていることがわかります。
 話をもとにもどせば、わたしが言いたかったことは、すべての映画にメニー・ハッピー・リターンズをということです。御存知のように、「フィルム・リダックス」を制度的に保証しようという機関もアメリカで現れました。国立映画保存委員会です。この委員会が設立されたのが、『ロジャー・ラビット』が製作されたのと同じ1988年だということは映画史上意味のあることだと思います。つまり古典期の映画を保存しようという気持ちは、古典期がすでに終焉してしまったという暗黙の了解がなければ生まれません。そして国立映画保存委員会によって映画の殿堂入りをはたすのが、『黒い罠』や『ブレードランナー』や『裏窓』や『ローズ・ホバート』(ジョーゼフ・コーネルの代表作)などなのです。早晩、そこに『ロジャー・ラビット』も加わることでしょう。

----古典はつねに回帰してくるというわけですね。

加藤 いや、いわゆるキャノン上の古典だけではなく、権利上、すべての映画が古典作品ないし参照作品として回帰しうるのです。それが映画史というものです。だからこそRoger Rabbit Reduxなのです。
 そもそもジョン・ヒューストンとジョン・カサヴェテスの死後、アメリカの新作映画にどれほどの意味があるというのでしょうか。たしかにアメリカにはロバート・アルトマンがいて(その彼も昨年末亡くなりましたが)クリント・イーストウッドがいてフレデリック・ワイズマンがいてデイヴィッド・リンチがいてコーエン兄弟がいます。しかし80年代末にふたりのジョンを失ったあとは、アメリカ映画が機能不全に陥ったことは誰の目にも明らかです。

なぜ映画について書くのか

----加藤さんの最初の映像の記憶は何でしょうか。

加藤 わたしの一番古い再現動画の記憶は残念ながら映画ではありません。それはふたつあって、どちらがより古い記憶なのかは、いまとなってははっきりしませんが、ひとつはカメラ・オブスクラです。昔の日本家屋にはどこにも雨戸というものがありました。アルミニウム枠の硝子窓という今日の標準仕様が定着するまえのことです。雨戸はとりわけ長崎のような台風の通り道には必需品でした。雨戸は木製の戸板ですから節穴が開いています。ある朝わたしは、雨戸の節穴から朝日が射しこんで、その光線の先の襖にぼんやりと庭の葡萄棚の葉が風にそよいでいるのが映っているのを発見したのです。
 もうひとつの動画も雨戸を閉めきった暗い部屋のなかの記憶ですが、今度はテレヴィです。長崎の「おくんち」という諏訪神社を中心におこなわれる祭りでは朝早くからテレヴィ中継をするのです。おそらくその年の「おくんち」(10月9日)は日曜日だったのでしょう。我が家では家族全員が朝寝坊をして、雨戸も開けずにテレヴィをつけていたのです。テレヴィでは勇壮な蛇踊りをやっていました(1960年ころには、もうテレヴィはたいていの家庭にありました)。近所の諏訪神社の様子を外出もせずに自宅で見られるのが不思議だと思ったのを覚えています。どちらの動画の記憶も雨戸を閉めきった暗い部屋のなかの記憶です。その意味では映画館の雰囲気に似ていて、おもしろいことだと思います。いずれにせよ個人史の堆積物の山から一番古い地層を正確に探しあてるのはやさしいことではありません。

----たしかにそのへんに加藤さんの映画論のマトリックスが認められるような気がします。それにしてもなぜ映画について書きはじめたのですか。

加藤 わたしが20歳のころ、つまりいまから30年ころまえ、日本には映画の美しさについて思考を重ねる習慣がほとんどなかったからです。読むに堪える論考はほとんど例外的な存在でした。まともなことを書く者が誰もいないなら、自分で書くしかないわけです。それがいまでは実に多くのひとびとが映画について粘り強い思考を展開しています。たいへん結構なことだと思います。
 それにしてもなぜ映画なのかと訊かれれば、学問的言説であれ、批評的言説であれ、既成の言説体系----文学とか哲学とか美学とか宗教学とかいったもの----に与することに関心がなかったからだと答えるしかありません。長い伝統を誇る言説体系は多かれ少なかれ旧守的な人間に任せておけばよいのです。
 なぜそう言い切れるのかと言えば、わたし自身、ある時期まで英文学の伝統を担うべき人間だとみなされていたからです。すでにお話したように、わたしは20年前に京大に雇われましたが、そのきっかけは日本英文学会に投稿した論文が新人賞を受賞したからでした。そのときの審査委員のひとりが京大の教授で、わたしのジョイス論を気に入ってくれたのです。しかしジョイスであれベケットであれ何であれ、すでに十分論じつくされ、またこれからも論じつづけられてゆくのが保証されているような制度の枠内にとどまることに、わたしは我慢できなくなったのです。文学もまた言説の持続的生産を保証された文化産業の一部なのです。その意味で、それはつねに堕落の危機にさらされています。今日、英文学が落日の学問であることは誰の目にも明らかです(じっさい石原慎太郎都知事が日本における英文学の最高学府のひとつであった東京都立大学から英文学を制度的に抹殺したことは弁解しようのない歴史的愚行です。芥川賞受賞作家の石原慎太郎氏には文学の重要性など毛ほどにも理解できなかったようです)。
 当時、映画批評や映画学に携わっても将来、何の保証もありませんでした。それゆえそれは世間知らずの若者にとっては挑戦するに値する領域だったのです。純粋に無償の産物です。もっとも20年まえに英語教師として雇われて以来、ずっと京大で映画学の講義を任されたことはラッキーなことでした。いまでは日本映画学会すらできたわけですから、映画学は制度的に盤石の地盤を築いています。それでも映画学が浸透するまでには、最初にお話したように、少なくともあと10年はかかるのですから、いまだ冒険的な領域であることにかわりはないのです。無論、日本映画学会から近い将来、映画以外を、たとえば電子メディアを論じる学者が出現することも歓迎します。学会もまた変化しつづけねばならないでしょう。
 無論、これだけでは「なぜ映画について書くのか」という質問に本当に答えたことにはならないでしょう。いまお話したことは外発的な理由にすぎません。書くことの充足感は別にして、もっと本質的で確固たる理由があるにちがいありません。しかしそれについて説明するためには、幾重にも絡まった糸を解きほぐさなければなりません。そうなれば、インタヴューという枠組みを超えなければならないでしょう。あなたの質問にたいして、たんに映画が好きだからだという答えもありえます。でも、なぜ好きなのかと訊かれたら、それに答えるには、やはりこの場の設定を超えざるをえないでしょう。だから、この質問については留保しておきたいと思います。

----ノマディックな加藤さんが20年ものあいだ京大に奉職されているということは、よほど居心地の良い職場だということですね。

加藤 職場としては申し分ありません。同僚の大半は大変すぐれた学者=批評家ですし、実験的な試みにたいして鷹揚な校風もあります。事務職員も優秀です。しかしわたしが京大に長居している本当の理由は、教え子たちを途中で抛り出すことができないからなのです。わたしにはまだこどもがいませんから、教え子と言えば我が子も同然なのです。東大をはじめ多くの大学から声をかけられましたが、教え子の教育を中途放棄して他大学へ移る気が起こらなかったのです。しかしながらたしかに京大には長く居すぎました。

----加藤さんは過去四半世紀のあいだ、平均すれば、ほぼ1年に1冊の割合で著訳書等を刊行されてきました。これはけっして少なくない仕事量だと思います。しかも非常に高い質を維持しつづけてこられました。ふだん、どういった環境で執筆されているのでしょうか。

加藤 東京でまだ原稿用紙とウォーターマン(万年筆)とオリヴェッティ(英文タイプライター)しかなかったころは、執筆と改稿(加筆訂正)にずいぶんと手間取っていました。執筆媒体が思考の速度に追いつかないので、空いた時間をブライアン・イーノのBGMで埋めるようにして書いていました。編集者に原稿を手渡すため喫茶店で待ち合わせするのですが、改稿は編集者の前でもつづけられました。京都に移ってしばらくして初期型のラップトップ・コンピュータが出たあとは、休暇になると資料を宅急便で送っておいてから、マック(コンピュータ)をかかえて海の見えるところ(八重山地方や神戸や鎌倉)まで出かけていって執筆していました。2002年から1年間アメリカに滞在したときも、引っ越しのたびに海が臨めるアパートを借りていました。まだコンピュータのインターフェイスとレスポンスがそれほど良くなかったころですから、コンピュータを宥めるあいだ海を眺める必要があったのです。ところが、いまではコンピュータの性能が向上し、思考の速度よりも早い速度で書けるようになりましたから、もうイーノを聴いたり海を眺めたりする必要はなくなりました。せいぜい書斎の窓から空を見上げる程度で、あとは集中してコンピュータのキーをたたけるようになりました。もっとも電子錠のかかった部屋で司書の監視下でしか閲覧できない資料(電子複写できない貴重資料)もありますから、その場合は昔はノートと鉛筆を、いまはコンピュータをもちこんで資料を書き写します。そんなときはBGMや海などとは言っておれません。

----京都市は山に囲まれて海がないので、長崎市生まれの加藤さんにはちょっと息苦しいところかもしれません。

加藤 ええ、しかし海はわたしの頭のなかをつねに流れています。

----ところで奥様は加藤さんの御著書を読まれて、何かおっしゃられますか。

加藤 妻はわたしの本など読んだりしません。彼女たちには本を読んだり書いたりするよりも、もっと楽しい時間があるのです。それは書物の余白で彼女たちに献辞を捧げたとしても同じことです。じっさい、わたしは映画や書物といった表象装置など歯牙にもかけない女性たちが羨ましくてなりません。たとえばおしゃべりです。言い間違いや勘違いなど気にかけず、全体の構成などに気をつかうこともなく、『トリストラム・シャンディ』のように延々と脱線をつづけ、論証や検証の義務から解放されて、呆けたようにいつまでもおしゃべりの悦楽に身を任せることのできる能力、ほとんど無責任と言ってもいいほどの言葉の放列、間然とするところのない早口の放談、反証可能性をもたない言いぱっなし、口角泡を飛ばす議論、呼吸同然のおしゃべり、無償の饒舌、それをたいへん羨ましく思います。おしゃべり好きのひとは「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という格率から無縁でいられます。彼らに「語りえぬもの」など存在しないかのようです。彼らは四つ星レストランの評価から絶滅収容所の悲惨まで、エピキュリアニズムからカニバリズムまで一息でしゃべり通すことができるのです。すごいことだとは思いませんか。彼らはおしゃべりしながら、膨れあがった空胞になってゆくのです。
 浅田彰氏は京都で育ち京大に進学し京大に就職した有名な論客ですが、彼の書いたもの(単著)は彼の活躍ぶりに比べて少なすぎると思いませんか。わたしのものなどより、ずっと少ないはずです。これはどういうことかというと、彼は本を書くよりも、座談会のようなおしゃべりの方が性に合っているのです。おしゃべりというのは、いまのあなたとわたしの関係のように、自分たちが現前する場所に全幅の信頼をおいた言語活動です。本を書くことや読むことのように不在を前提とした言語活動とは正反対のものです。浅田氏は東京弁(標準語)も外国語も話しますが、基本的に自分が生まれ育った関西弁のおしゃべり文化のなか、つまり自分がいまいる場所を空気のように感じることができるポジションから言語活動を営んでいます。ノマディックではないのです。
 一方、わたしの父は幼いころから耳が悪かったので、おしゃべりとは生涯無縁の人生を送りました。書物に囲まれて暮らしていたのです。その意味で健常者の住む世界でミュート(聾唖者)に近い一生を送ったわけで、さながらメロドラマの登場人物のようなものです。わたしも幾分かそれを受け継いでいるのかもしれません。

----その加藤さんが、映画の映像のみならず音響にも早くから着目してきたというのは興味深いことだと思います。

加藤 四方田犬彦氏も書いていましたが、映画を見ることは孤独な作業ですし、映画について書くこともまたそうです。もっとも近年、わたしはひとりで映画館や試写室に行くということが少なくなったように思います。良い映画を一緒に見たあと、親しい者たち同士で映画についておしゃべりをするというのは楽しいことです。

----最後に今後の加藤さんの研究=批評プロジェクトについてお話を伺えればと思います。

加藤 日本映画史全体を主題単位、作品単位、作家単位で展望するための座標軸の標定にかかわる仕事になります。時間はかかりますが、やりがいのあるものになるはずです。

----いままで外国映画を論ずることの多かった加藤さんが、本格的に日本映画に取り組まれるということですね。お仕事の完成をとても楽しみにしています。今日はお忙しいなか長時間おつきあいいただき、本当にどうもありがとうございました。

加藤 いえ、こちらこそありがとうございました。

2007年4月5日 京都大学大学院加藤幹郎研究室にて

加藤幹郎の著訳書

主要著書
『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社、1988)
『愛と偶然の修辞学』(勁草書房、1990)
『鏡の迷路  映画分類学序説』(みすず書房、1993)
『映画ジャンル論』(平凡社、1996)
『映画 視線のポリティクス 古典的ハリウッド映画の戦い』(筑摩書房、1996)
『映画とは何か』(みすず書房、2001、吉田秀和賞受賞) 
『映画の領分 映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社、2002)
『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』(筑摩書房、2004)
『映画の論理 新しい映画史のために』(みすず書房、2005)
『ヒッチコック「裏窓」 ミステリの映画学』(みすず書房、2005)
『映画館と観客の文化史』(中公新書、2006)

主要編著
『時代劇映画とはなにか ニュー・フィルム・スタディーズ』(人文書院、1997、共編著)
『週刊百科 世界の文学 第44号 ハリウッドの時代』(朝日新聞社、2000)
『映画学的想像力 シネマ・スタディーズの冒険』(人文書院、2006

主要訳書
スティーヴン・ヒース『セクシュアリティ』(勁草書房、1988、共訳)
コリン・マッケイブ『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』(筑摩書房、1991)
タニア・モドゥレスキー『知りすぎた女たち ヒッチコック映画とフェミニズム』(青土社、1992、共訳)
ジャック・サリバン編『幻想文学大事典』(国書刊行会、1999、共監訳)
スーザン・レイ編『わたしは邪魔された ニコラス・レイ映画講義録』(みすず書房、2001、共訳)