サボテンの花というジェンダー論的両義性
――西部劇映画『リバティ・バランスを射った男』

川本 徹

ジョン・フォード論の余白に

 本稿は『リバティ・バランスを射った男』(1962年)と呼ばれる一本のフィルムにテクスト分析を施したものであるが、同時にジョン・フォード再評価の糸口としての役割を担っている。したがって、テクストの具体的な考察に入るよりさきに、いまジョン・フォードを論じるとはいかなることなのかを明確にしておいたほうがよいと思われる。まずは現在、フォード映画を手放しに賞賛するということがすくなからず困難であるということを確認しておかねばなるまい。彼のフィルムにおける人種の表象や女性の表象が、留保つきで評価されるべき点もあるにせよ、[1]問題を抱えていることは見すごせないからである。そして周知のとおりその点については数限りない批判がなされてきた。だが本稿の冒頭においてはっきりとさせておきたいのは、わたしたちは、そういった批判に安易に追従するつもりはないということである。わたしたちがおこないたいのは、これまでの批判の成果を土台としつつも、もう一度別の角度からフォード映画に光をあて、そしてその新しい相貌を手に入れることである。

遥かなる家をめぐって

 いったいどのような角度からフォード映画を見直すべきなのかという問いに答えるまえに、フォード映画とは何か、ということをかんたんに論じておきたい。フォード映画とは端的にいって、家をめぐる映画である。フォード映画には、どのようなジャンルに属するフィルムであれ、家への志向性が通奏低音として響き渡っている。たとえば代表作である『駅馬車』(1939年)。これはインディアンの襲撃、および銃での決闘という西部劇におなじみの題材を扱ったフィルムのように見えるが、フォード映画全体の文脈からすれば、このフィルムを以下のように要約するのが適切であると思われる。すなわちこれは、若くして家族を失ったふたり(ジョン・ウェイン演じる無法者リンゴと、クレア・トレヴァー演じる娼婦ダラス)がふたたび家を築くフィルムである、と。物語中盤で娼婦ダラスは聖母へと変身を遂げる。[2]その姿に心打たれたリンゴは彼女に求婚し、そしてフィルム結尾でふたりは家を築くために走り去ってゆくのである。
 フォード世界のひとびとは家に憧れている。憧れているというのは、彼/彼女がしばしばなんらかの事情によって、家から切り離されてしまっているからである。事情はフィルムによってさまざまである。上記の『駅馬車』のリンゴやダラスのように家族が殺されてしまったのかもしれないし、『幌馬車』(1950年)のモルモン教徒のように、町から追い出されてしまったのかもしれない。ぜひともここで指摘しておかねばならないのは、ときにその事情が、外的なものではなく内的なものであるということである。具体的にいうと、フォード世界のひとびとには、特に男たちには、家に対する郷愁を抱きながらもそこから遠ざかろうとする傾向が認められるのである。じつに奇妙なことに、彼らは帰れるにもかかわらず帰らないのだ。具体例を挙げてみるならば、第二次大戦前であれば『果てなき船路』(1940年)というフィルムが、第二次大戦後であれば『捜索者』(1956年)や『荒鷲の翼』(1957年)といったフィルムがそれに当てはまるであろう。そして本稿で議論の俎上にのせられる『リバティ・バランスを射った男』もその変種であるといってよい。

分断された領域

 家という領域に身をゆだねることを渇望しながらも躊躇する男たち。いったいなにが彼らを家から遠ざけるのだろうか。さきんじて答えを提示してしまうならば、彼らが家に足を踏みいれることができないのは、フォード世界のジェンダー観が、家庭的領域を男たちから遮断してしまっているからである。このことをもうすこし分かりやすく説明するために、フォード映画をつらぬく男性の行動原理ないしは男性性の要求を確認しておかねばなるまい。
 フォード映画において男の美徳とは「すべてを擲って戦うこと」である。この禁欲と自己犠牲の精神はサイレント期の傑作『3悪人』(1926年)にすでに明確に表れているが、これらの精神はフォードが第二次大戦で従軍したのち、軍人精神と結びつくことによってさらに強化される。国家のために自分の命を顧みず戦う兵士、これがフォード世界の男たちの理想的な男性像となるのである。問題なのは、この「すべてを擲って戦うべし」という男性性の要求が、先述した家への希求心と相容れないことである。戦うことに男の証を求める彼らにとって、女性領域に留まることは男としての自己同一性を揺るがしかねない。みずからの信望する男性性を保持するために、彼らは家庭的領域から遠く離れなければならないのだ。
 帰りたいが帰りたくないという家をめぐる両価感情。この感情がフォードのテクストを豊かに織りあげていることはまちがいない。ここでフォード映画を次のように再定義することができる。すなわちそれは、男性性の原理に縛られた主人公たちが、それとは両立しえぬ家への郷愁とのあいだで引き裂かれる映画である、と。女性登場人物を家という領域に囲い込んでいるというところだけに目を向けるのであれば、フォード映画をジェンダー論的に評価するのは困難である。たしかに一見したところフォード映画はきわめて保守的に映る。フォード映画における家の内部と外部のあいだのジェンダーの壁は、同時代のジェンダー観におけるそれよりもさらに高いように思われるからだ。しかしながら、わたしたちがそれとは別の地平に立つならば、具体的には男性登場人物の家に対する両価的心性に着目するならば、そういった見解を相対化することができる。フォード映画は家の内部と外部をジェンダー的に分断しているが、それと平行して、その分断が生みだす矛盾や葛藤をすくなからず顕在化しているのである。そしてフォードが真に天才映画作家たるゆえんは、そういった矛盾なり葛藤なりを、限りなく映画的な手法によって的確にスクリーンのうえに外在化させていることにある。以下に読まれる『リバティ・バランスを射った男』論は、その一端を浮上させる試みである。

世界を失った男

 『リバティ・バランスを射った男』は最後から二番目のフォード西部劇である。公開当時高い評価を得られなかったこのフィルムが、しだいに再評価され、そして現在ではフォードの代表作の一本に数え上げられていることはよく知られている。わたしたちもこのフィルムを積極的に評価したいと思う。が、それはこれまでに展開されてきた『リバティ・バランス射った男』論とはやや違った視点からの評価ということになる。『リバティ・バランスを射った男』はアメリカが文明化していく道のりを脱神話化したフィルムとしてしばしば論じられてきたが、わたしたちは、すでに指摘した主人公の家に対する両価感情という文脈においてこの西部劇を読み解きたいのだ。
 『リバティ・バランスを射った男』の主人公トム・ドニファンは、これに先行するいくつかのフィルムの主人公(たとえば『捜索者』のイーサン・エドワーズや『荒鷲の翼』のスピッグ・ウィード)と同じく、家という女性領域に参入することを望みながらもそうすることのできない、その矛盾を生きている。いや、事態は『捜索者』や『荒鷲の翼』のときよりもさらに深刻といってよいかもしれない。というのも、彼は女性領域に入ることができないばかりか、自分が帰属していた男性領域をみずから葬り去るからである。彼は世界を失った男なのである。
 このフィルムは、冒頭と結尾の現在時のあいだに長い過去の回想がはさまれるという物語構造をもっている。長い回想の主体はランス・ストッダード(ジェイムズ・スチュアート)である。彼は旧友の葬式に参列するために妻であるハリー(ヴェラ・マイルズ)とともにシンボーンの町を数十年ぶりに訪れている。かつて若き法律家としてこの町に来訪したランスは、当時、無法者として恐れられていたリバティ・バランスを銃で倒したことによって一躍有名となり、いまや上院議員をつとめている。著名な政治家と無名の死者との関係を不思議がるシンボーンの新聞記者たち向かってランスは、トム・ドニファンという名のいまは棺のなかに横たわる男が何者であったのかを語りはじめる。彼こそがリバティ・バランスを射った男なのだ。

キッチンとエプロン

 これから『リバティ・バランスを射った男』を論じるにあたってまず銘記しておく必要があるのは、このフィルムの主要な舞台が、砂埃の舞う荒野ではなく、コーヒーとステーキの香りがたちこめるレストラン(エリクソンの店)のキッチンだということである。西部劇とはがんらい男性観客に訴えかけることを想定したジャンルであり、それは映画館を訪れた男性観客に、荒野に生きる男たちの荒々しい姿を見せることで、彼らの男性性を満足させてきた。その西部劇においてキッチンという女性的・家庭的空間が作品の要となる場所として設定されているということは、まったくもって異例だといわざるをえない。
 ほかのフォード作品と同じく『リバティ・バランスを射った男』においても家庭領域において支配的な役割を果てしているのは女性であり、このキッチンが最初に登場するシーンからもそのことが伺える。ハリーは保安官であるリンク(アンディ・ディヴァイン)を叱責し(「さあ出てってよ、こちとら忙しいんだから!」)、エリクソン夫人(ジャネット・ノーラン)は夫(ジョン・クォーレン)を一喝するのである(「あんた、ズボンをはいておいで!」)。男たちは勝気な女たちの前にただただ屈服するばかりである。
 ということは男性にとってキッチンはいささか居心地の悪い場所ということになるだろう。映画学者ジム・キッツィズの言葉を借りれば、「キッチンにおいて男らしさはあきらかに場違い」[3]なのである。しかしながらその場所になんの違和感もなく溶け込むことのできる男がいる。ランス・ストッダードである。シンボーンへの道中でリバティ・バランスに金銭を奪われたランスは、エリクソン夫妻の家に居候させてもらうことになるのだが、彼はその返礼として夫妻の経営するレストランで皿洗いをすることになる。伝統的には女性的だと考えられていたこの仕事を引き受ける彼は、それを強調するかのように、純白のエプロン(女性的記号)で体を覆っている。このことに最初に注目したのは映画批評家、蓮實重彦である。フォード映画における白いエプロンの意義を考察した論考のなかで蓮實氏は、フォード世界においては女性のみならず男性もがエプロンを纏っていることを指摘し、ここにフォード世界における性的境界線の崩壊を読み取っている。[4]ランスは男性/女性という境界線を軽々と越えて、女性の領域に足を踏み入れた存在なのである。
 蓮實氏の論考の先見性は、こんにち、あらためて評価されるべきである。ジェンダー批評の発展した現在、フォード映画が同時代の支配的ジェンダー観に嬉々として迎合するものでないことを、おおくの論者が主張するようになったが、蓮實氏は遥か昔にそのことに気づいていたのだ。のみならず、フィルムを徹底的に観ることによってしか得られないもの(白いエプロンのイメージ)がその発見の根拠となっているところに、蓮實氏の功績がある。ところが不思議なことに、この蓮實氏の論考を足がかりとして、さらに歩を進めてみようという試みはほとんど見受けられない。だが、わたしたちはもうすこし遠くまで行こうとしている。わたしたちは、これは本稿後半部分の話になるが、ジェンダーの問題にかかわるフォード映画に特徴的なイメージは白いエプロンだけでないと考えるのだ。

文明と女性

 白いエプロンの男、ランスにかんしてさらなる考察を展開しておきたい。彼は西部の町、シンボーンに文明を持ち込む存在であるが、文明の体現者が女性化した男性であるというのはまことに理にかなった設定である。なぜなら西部劇において文明は、女性的なものとして表象されるからである(それに相対する荒野は男性的だということになる)。『荒野の決闘』を例にとってこのことを考えてみると分かりやすいかもしれない。この詩的西部劇では女性の到来と町の文明化のはじまりが連続性を持って描かれている。インディアンが酒場で暴れまわる「野蛮な」町(人種の表象という点においては多分に問題がある)、トゥームストーンに、ある日、東部から淑女クレメンタインがやって来る。するとその翌日、それを待っていたかのようにして、フィルムに建築中の教会(文明の象徴)が姿を現すのである。
 同じフィルムを例にして、文明世界における男性の在り方についても触れておいてよい。『荒野の決闘』のヒーロー、ワイアット・アープは荒野から文明世界に参入する過程で、女性化するとまではいかないものの、男性性の強度を軽減していく。文明社会が女性的なものであるならば、そこに過度の男性性はそぐわないからである。すでに男らしさの象徴である顎鬚を剃り落としているワイアットに、床屋の主人によって花の香りの香水が付与される。映画学者ピーター・ウォーレンはこの場面における香水を文化的な記号と見なしたが、[5]ジェンダーの観点からみればこれを女性的な記号ととらえることができる。それからワイアットは、クレメンタインに誘われて先述の教会へと向かう。教会ではダンスが催されている。しばしためらったのち、彼はクレメンタインをダンスに誘う。クレメンタインは羽織っていた白いショール(もうひとつ別の女性的記号)をワイアットに預ける。ワイアットがそのショールを腕にかける(これは『リバティ・バランスを射った男』でランスの纏う白いエプロンの先触れともいえる)。香水とショール、このふたつの女性的記号を身につけてワイアットはダンスに興じるのだ。
 話をランス・ストッダードに戻そう。ランスの職業は弁護士であるのだが、法律は文明化に手を貸すものであるから、それは男性的/女性的という二項の右側に加えることができるであろう。ここで、ほかの論者がそうしているように、[6]カイエ・デュ・シネマ同人による著名な論考[7]を持ち出してきてフォード世界における法律と女性の結びつきを確認しておいてもよいかもしれない。カイエ論文が『若き日のリンカーン』(1939年)の詳細な分析によって(それが議論の主眼ではないとはいえ)あきらかにしたことのひとつは、リンカーンの法にかんする知の起源が女性にあるということである(リンカーンに法律書をあたえるのは彼の擬似的な母、クレイ夫人であり、彼を法律の世界に向かわせるのはいまは亡き恋人、アン・ラトリッジであり、裁判を勝利に導くこととなる暦を彼に渡すのは彼の擬似的な妹、サラである)。
 ランスにかんしてもうひとつ重要なことがある。ハリーとノラに読み書きを教えはじめた彼は、しばらくするとシンボーンの町のほかの人々にも読み書きを、そしてアメリカの歴史や政治を教えるようになるのであるが、ランスが教師を務めるというのはジェンダーの観点からして非常に興味ぶかい。興味ぶかいというのは、これは西部劇というジャンルのジェンダー的な約束事に照らしてみれば、例外的なことだといえるからである。文明化に寄与する教師という職業は、西部劇の慣習においては女性のものではなかっただろうか。ほかのフォード西部劇にも教師、あるいは元教師、そして未来の教師が登場するが、『リバティ・バランスを射った男』のランス以外は、いずれも女性であった。[8]
 ところで、ランスの授業がおこなわれている教室がどこにあるかというのは気に留めておいたほうがよい。なぜならば、キッツィズが指摘するように、それは説話上まことに理にかなった空間配置だからである。[9]教室は新聞社のオフィスの隣に位置している。そして新聞社のオフィスの外にはランスの「ストッダード弁護士事務所」という看板が掲げられている。すなわち弁護士事務所、新聞社、学校がほぼ同じ場所に集まっているのである。換言すれば、法律・出版・教育という文明化をすすめる三要素が共演を果たしているといえるだろう。そして次節に移るまえに確認しておくべきことは、この文明化に貢献する三要素の共通点である。それらはみな、書き言葉、あるいは文字を基盤としているのである。

文字と暴力

 脱男性化された世界である文明に対抗する要素がある。それは暴力であり、その概念を体現したのが悪漢、リバティ・バランス(リー・マーヴィン)である。トム・ドニファンによると彼は銃の名手であるが、それだけでは満足できないというのか、彼は鞭の使い手でもある。鞭という記号によって、彼を老クラントン(『荒野の決闘』)、あるいはアンクル・クレッグ(『幌馬車』)といったフォード世界のほかの登場人物と結びつけることもできようが、それにしてもリバティ・バランスの陰湿さを感じさせない暴力性は、比較的、暴力の度合いの低いフォード世界のなかで突出している。
 フォードは『リバティ・バランスを射った男』において、暴力が文明化を阻止するその様子を見事なまでに視覚化している。この点については映画学者タグ・ギャラガーの論考にくわしいが、ここでその内容をかんたんにまとめておこう。[10]このフィルムのひとつの特徴は、画面上に書き言葉があふれているということである。たとえばそれはランスが東部から持ってきた看板(「ストッダード弁護士事務所」)であり、あるいはピーボディ(エドマンド・オブライエン)の発行する新聞である。となるとリバティの仕事はそれらの書き言葉を破壊することにある。リバティ一味が新聞社のオフィスでピーボディに暴行を加える場面を見てみよう。[11]彼らは文字を操る人間、新聞記者ピーボディを鞭打ちにするだけでなく、文字を徹底的に破壊する。すなわち、新聞紙を散らし、文字盤を破壊し、新聞社の名前が書かれたガラス窓を椅子を投げて割り、仕上げに新聞社の外に掲げられた「ストッダード弁護士事務所」と書かれた看板を銃で撃ち抜くのである。
 つぎの節に移行するまえに、もう一度ジェンダー的な視点からいままでの話を見直しておいたほうがよいだろう。文明が女性的なものとして表象されることはすでに述べたとおりある。ということはそれにあらがう暴力は男性性のほうに分類できるという推測がはたらくが、その類推は映画記号の観点から保証される。というのも、ここでいう暴力の源が男性性の象徴である銃だからである。ここでランスとリバティには対照的なジェンダーを持つ記号が付与されていることが分かる。すなわちランスにはエプロンという女性的記号が、そしてリバティには銃という男性的記号が付与されているのである。ここまでに登場した二項対立を図式化しておくと、以下のとおりになる。

ランス

女性的

文明

法・教育(文字)

リバティ

男性的

荒野

暴力(銃・鞭)


トム・ドニファンを導入する

 ようやく最重要人物、トム・ドニファンについて論じるときが来た。ランスとリバティがトムに先行して考察されねばならなかったのは、彼がそのふたりを準拠軸として位置づけられるべき人物だからである。では、前節の終わりに提示した図式にしたがってランスとリバティを両極としたとき、トムはどの場所を占めるのか。あらかじめ答えをあきらかにしてしまえば、彼はリバティと同じ世界に生きているにもかかわらず、ランスの世界に対する志向性も持ち合わせる矛盾した存在である。そしてその矛盾が彼の自己破壊を引き起こすことになる。
 トム・ドニファンと無法者リバティ・バランスのあいだの親近性はこのフィルムの論考でかならず触れられることである。[12]彼らが似ているのは、銃という男性性を象徴する道具を基盤として生きているという点である。エプロンの男ランスはトムとリバティの同質性に気づいている。リバティに立ち向かうために銃の購入を勧めるトムに対して、ランスは的確にも「君の言い草はまるでリバティ・バランスと同じじゃないか」と意見を述べるのである。トムとリバティの類似性は視覚的にもさまざまな場面で表現されているが、とりあえずここでは、ふたりが銃を使って同じような方法でランスを侮辱していることを記しておこう。ランスに銃の使いかたを教えるシーンにおいてトムが、ペンキの缶を撃ちランスをペンキまみれにするのに対して、その後の決闘シーンにおいてリバティは、壁にかかったワインの容器を撃ちランスをワインまみれにするのだ。[13]
 かといって、ここが肝要なところであるが、トムとリバティを完全に同一視することはできない。なぜならばトムの文明に対する態度はリバティと違って不明瞭だからである。なるほどトムはリバティが暴れているという情報を教室に持ち寄ることによって、ランスの授業(文明化への手順)を中断させもするだろう(授業を停止させたのは間接的にはリバティだが、直接的にはトムということになる)。しかしながら彼は、準州会議に出席する代議人選挙(文明化へのもうひとつ別の手順)において、自分は指名を断るとはいえ、その進行に積極的に協力するのである。そもそも怪我をしたランス(文明の体現者)を町に運んできたのもトムではなかったか。
 トムの文明化に対する態度が曖昧なら、彼がいま住んでいる世界も曖昧である。彼は町外れの一軒家でポンピィという黒人従者とともに暮らしている。その意味ではトムは『捜索者』のイーサンのような荒野の放浪者ではないのだが、だからといって彼が荒野に対立する場所、家の住人であるともいえない。『静かなる男』(1952年)でヴィクター・マクラグレンが「女あっての家庭だ」と簡潔に表現してくれているように、フォード世界において女性なき家は家として見なされないのであるが、現在のトムの家には女性が欠けているのである。トムはハリーと結婚することを想定して家を増築しているが、彼女がトムの家にくるまでは彼を(荒野に対置された場所としての)家の住人と呼ぶことはできない。彼はイーサンとは度合いを異にするとはいえ、やはりイーサンと同様に荒野の側に属する人物なのだ。
 トムは家庭領域に身を浸したいと願うと同時に、そこに留まることを拒否する。この両価的な心性は彼のキッチンでの振舞いからも読み取ることができる。ランスがキッチンに溶け込むいっぽうで、トムはこの家庭的・女性的な空間に調和することができない。エプロンの男と銃の男、どちらが女性領域にふさわしいかはいうまでもなかろう。たしかに、同じ銃の世界=男性世界の住人であるリバティがまったくキッチンに足を踏み入れないのに対して、トムはたびたびキッチンを訪れる。ところがしばらくすると彼は、せわしなくその場を去ってしまうのだ。キッチンを舞台とするシークェンスは劇中に三度ほど登場するのだが、いずれのシークェンスも、トムがほかの人物をそこに残したままキッチンの裏戸から出て行くところで終わっており、それによってトムがキッチンにおいて異質の存在であることをわたしたちは感じざるを得ない。

サボテンの花

 ここまでわたしたちはジェンダー論的な観点からランスとリバティという人物の対照性を整理し、そのうえでトムは両者のあいだを揺れ動く人物であると同定した。もっともわたしたちが『リバティ・バランスを射った男』を傑出したフィルムとして評価するのは、この人物配置によってではない。『リバティ・バランスを射った男』が卓抜したフィルムであるのは、すでにいくらか示唆しておいたとおり、ジャンルを超えてフォード映画を支配するふたつのイメージないしは記号が、トムのたゆたいと呼応してフィルムを活性化しているからなのだ。
 ふたつのイメージのうち、ひとつは花のイメージである。花はフォード映画に頻出する記号であり、よもやこれを見逃すものはいないだろう(ギャラガーによると花は20以上ものフォード映画に登場する)。[14]そして『リオ・グランデの砦』(1951年)なり『静かなる男』を想起すればわかりやすいであろうが、それが主として男性登場人物と女性登場人物の精神的交流を描くのに利用されていることも自明である。『リバティ・バランスを射った男』では、土曜日の夜、トムがキッチンを訪れるシーンにこのフォード記号が姿を見せる。正装したトムがレストランの裏口からキッチンに現れ、持参したカクタス・ローズをハリーに贈るのである。一見したところこのフィルムにおいても花は、他のいくつかのフィルムの場合と同じように、男女の心の通い合いを視覚的に描出する機能を果たしているように思える。
 しかし、『リバティ・バランスを射った男』における花の機能は、上記のものだけに留まらない。ここでわたしたちは、トムの持ち寄った花が農園の花ではなく、荒野の花だという事実に、ぜひとも注目しておかねばならない。なぜならば花というのは女性的な記号であるにもかかわらず、このサボテンの花が咲く荒野という空間は、前もって説明しておいたように、男性的だからである。この意味においてサボテンの花は両義的である。そしてこの両義性は、すでに論じたトム・ドニファンの両価的心性と照応関係にあり、ゆえにこの花はトムの象徴としての機能を果たしていると考えることができる(この解釈は結尾近くのシーンで整合性を得るだろう)。
 トムはハリーに「カクタス・ローズ顔負けの美しさだ」と告げるが、皮肉なことにサボテンの花と重ねあわされるべきはハリーではなく、むしろトムのほうなのだ。さらにわたしたちは、ハリーに贈られたこの花の空間的移動にも注意を向けておいてよい。この花はそのままキッチンに飾られるのではなく、部屋の外へと運ばれ、そして戸外の庭に植えられる。意義ぶかいことにこの移動は、キッチンに入りながらも再び外へと出てゆくトム・ドニファンの移動と軌を一にするのである。
 このシーンのつづきに目を注いでおこう。トムはキッチンを出てレストランに入り、食事中のピーボディに話しかける。いっぽうで、戸外に植えられたカクタス・ローズを眺めているハリーは、ランスを呼び寄せる。「きれいだと思わない?」と問いかける彼女に、ランスは「本物のバラを見たことは?」と問い返す。ハリーは本物のバラを見たことがない。しかし彼女はランスにこう告げる。「でもダムができたら水も引けてバラも咲くわね」。のちに上院議員になるランスは荒野を農園や庭園に変え、シンボーンの町にも本物のバラを咲かせるだろう。そしてランスとともに東部へ移住したハリーは、本物のバラを見たことがないと告げてからそう遠からぬ日に本物のバラを目にしたことだろう。だが果たしてサボテンの花ではなく本物のバラを選んだハリーの決断は正しかったのか。この問いを頭の片隅に置きつつ、論を進めるとしよう。

光と闇、そして水平と垂直

 トム・ドニファンのたゆたいと関連するもうひとつのフォード的イメージに議論の矛先を向けるまえに、済ませておかねばならない考察がいくつか残っている。そのひとつは、これはもうすこし早い段階で指摘しておいてもよかったのだが、このフィルムにおける明暗の対立である。『リバティ・バランスを射った男』を特徴づけている見逃しがたいひとつの要素は、映画学者マイケル・バッドも指摘するように、暗い戸外と明るい室内の対立である。[15]フォード映画には夜のシーンが頻出するが、このフィルムはそれが顕著である。
 その代表例として、キッチンを出て行くトムをハリーが見送るショットを挙げることができる。トムが扉を開いて外に出るとき、カメラは室内に置かれている。画面全体はおだやかな光に包まれている。トムが扉をくぐると、ショットが切り替わる。今度はカメラは戸外に置かれている。前のショットとは対照的に画面の大部分が漆黒に塗りこめられている。トムは暗闇へと消えてゆく。画面中央やや左の部分、扉の開いたところだけが明るい。その光のなかにハリーが立っている。光と闇が演じる鋭い対立は、トムとハリーのふたりが別世界にいるかのような印象をわたしたちに与える。
 この明暗の対立を、すでに考察してきた『リバティ・バランスを射った男』のジェンダー構造のなかに組み込んでみることができる。すなわち、光―家―女性的/闇―荒野―男性的である。(参考までに記しておくと、これもいずれ詳細に論じられねばならない傑作にして問題作『捜索者』は、『リバティ・バランスを射った男』とは正反対の明暗のジェンダー構造を持っている。『捜索者』においては、冒頭のショットに顕著であるが、光は男性的なものと、闇は女性的なものと結びつけられるのである。この明暗の反転性はジェンダーが本質的なものではなく文化的構築物でしかないことの証左ともいえる。)『リバティ・バランスを射った男』における明暗の対立は、のちの重要なシーンにふたたび姿をみせるだろうから、留意しておく必要がある。
 明暗の対立について論じたところで、このフィルムに認められるまた別の二項対立を指摘しておくのも、わたしたちのフィルムに対する理解を深めるのに役立つであろう。これは映画学者J・A・プレイスが指摘していることだが、このフィルムでは人物の姿勢における水平と垂直の対立が巧みに使用されている。[16]フラッシュバックの大部分でランスが、大地に、床に、ベッドに横たわっているのに対して、トムとリバティは大地に足をつけ直立しているのである。具体的な場面をいくつか記しておこう。フラッシュバック冒頭の駅馬車襲撃のシーンでは、地面に寝転ぶランス(水平)に、地面に屹立したリバティ(垂直)が鞭を打ち込む。その後、傷ついたランスはトムに発見されるのであるが、彼は横たわったまま馬車にのせられ(水平)、シンボーンの町に運ばれる。あるいはレストランにリバティ一味が現れるシーン。ここでもやはりランスが床に身体をつけており(水平)、トムとリバティのふたりは立っている(垂直)。しかしながらこの関係は、いずれ転覆を味わうこととなるであろう。

所在なき戦士

 トム・ドニファンは、すでに確認してきたように、家庭領域を思慕しながらもそこに身を落ち着けることができないという矛盾した状況を生きている。そして恐るべきことに『リバティ・バランスを射った男』というフィルムは、この曖昧なる事態を許容しようとしない。ランスによって家庭領域が奪われてしまうことはすでに示唆したとおりだが、トムの悲劇はそれにとどまらない。彼はもうひとつの世界、荒野までをも失ってしまうのである。
 この文脈において、『荒野の決闘』および『捜索者』に言及しておくのはフォード世界の変容を知るうえで有用である。まずは『荒野の決闘』。このフィルムにおいてワイアット・アープは、先述のように男性性を薄めながら文明社会に参入するのであるが、彼はフィルムの締めくくりにおいてクレメンタインのもとを離れて荒野へと走り去ってゆく。もっともここで、ワイアットがクレメンタインに「また町に戻ってくる」と告げていることに注意しておく必要があるだろう。批評家たちはワイアットが本当にクレメンタインのもと(そして非男性的な文明社会)に戻ってくるのかどうかについて議論を重ねてきたが、わたしたちはここでその答えを探るために紙幅を費やすことはしない。わたしたちにとってたいせつなのは、ワイアットには荒野と文明、いずれの世界も残されているということの把握である。ではその10年後のフィルム、『捜索者』はどうか。主人公のイーサンは家(文明)に混乱を引き起こすと同時に、最終的にはそこに秩序をもたらすという複雑で多義的な存在である。姪のデビーを救出したのち、フィルムの結尾でイーサンは家の扉のまえに立つ。最初は家のなかへと踏み入るように思われたが、しばしその場に立ち尽くしたのち、彼は家に背を向け、そして扉の向こうへ、荒野へと歩きだす。扉がゆっくりと閉まる。イーサンの選択肢はワイアットのそれより限定されている。彼は荒野に住むほかない。
 このように『荒野の決闘』から『捜索者』にかけて、男性主人公がみずからの身を置くべき領域を選択する自由が狭まっているわけだが、『捜索者』のイーサンにかんしては以下のようなとらえ方も可能である。つまり、彼にはすくなくとも荒野が残されているのだ、と。なにしろ『捜索者』からさらに6年後のフィルムである『リバティ・バランスを射った男』の主人公トムは、家だけでなく荒野をも喪失するのだ。そして見おとすことができないのは、その由々しき事態の起因となるのが、ほかでもないトム・ドニファン自身だということである。
 ピーボディの新聞社がリバティに襲撃されたあとのシーンのことである。文字の破壊を目の当たりにしたランスは、彼の銃の腕前があきらかにリバティより下であることを自覚しながら、無謀にも、銃を手にリバティとの決闘に臨む。だが銃弾に倒れたのは彼ではなくリバティであった。もっとも、リバティの身体を打ち抜いたのはランスの拳銃の弾ではない。リバティの息の根を止めたのは、建物の脇に隠れていたトムのライフルの弾である。ランスの身を案じるハリーの心情を汲み取り、トムはランスを救出したのだ。
 すでに何人かの論者が、トムにとってリバティを撃つことは自殺にほかならないという見解をしめしているが、[17]この見方は妥当といえよう。その理由は、リバティの死はトムの生きる世界(銃の世界、あるいは文明の秩序に覆われていない世界、つまりは荒野)の終焉を意味するからだ。リバティ亡きいま、ランスが持ちこんだ文明化の波をとめるものはない。荒野は農園と庭園に変わる。そしてそこにトムの居場所はない。これはあまりに皮肉である。文明をもたらしたのは彼であるにもかかわらず、銃の男トムは文明に住むことができないのだ。
 『リバティ・バランスを射った男』は、荒野の文明化には(アメリカという国家を築き上げるためには)暴力が必要だったことを暴いたフィルムだといわれているが、[18]建国神話の見直しというだけにとどまらず、わたしたちは上記の文脈において、このフィルムが現代に直接的につながる問題を突きつけていると考えることもできる。その問題とはすなわち、国家のために暴力を行使した人間が、やがては国家から疎外されるという問題である。戦争を解決するには戦士を要するが、その後の平和な社会に戦う人間は必要とされない。この問題を軸に別のフォード映画を再考することも可能であろうが、ここではそれは提起するにとどめて、テクスト分析に戻るとしよう。

扉あるいはジェンダーの境界

 愛する女性のために身を引くとうトムの自己犠牲精神はきわめてフォード的である。西部劇というジャンルにまで視界を広げてみても、女性から身を離すというのは適切な生きざまだといえる。だがそのいっぽうで『リバティ・バランスを射った男』が、男性主人公の造形において、従来の西部劇とは異なる側面を呈していることも、わたしたちは見逃すべきでない。トム・ドニファンが凡百の西部劇の主人公たちと違うのは、彼が失恋の痛手に耐えられないということである。[19]リバティを撃ったのち酒場で酩酊した彼は、店内で暴れる。そしてポンピィに連れられて家にもどると、あろうことか家に火をつけ自殺を図る。彼は西部劇の主人公の必須条件である銃の腕前は持ちあわせているかもしれないが、同時に必要とされる精神的屈強さを帯びてはいない。
 トムが自宅に火を放つシーン、ここでようやく彼のジェンダーの揺れと饗応するもうひとつのフォード的イメージが現れる。彼が家のなかに入ったとき、カメラは室内に置かれている。彼はアルコールランプに火をつけ、それを持ったままカメラのほうに接近する。それに応じてカメラは後退し、扉をくぐって別の部屋に入る。だがトムはその部屋に入らずに、部屋と部屋の境界線のうえに立ち止まる。扉が彼を枠取っている。開かれた扉。これこそがわたしたちが言及を保留していたもうひとつのイメージにほかならない。
 このショットを便宜的に扉のショットと呼んでおくことも可能だろうが、これに類似するショットがフォード映画に頻繁に登場することをわたしたちは知っている(そのもっとも有名な例はまちがいなく『捜索者』の冒頭および結尾のショットである)。映画用語を使えば、これは二重フレームという技法が使用されたショットということになる。[20]二重フレームとは扉や窓を利用することによって、スクリーンというフレームのなかにもうひとつのフレーム(フレーム内フレーム)をつくりだすことである。ジョン・フォードは二重フレームを頻繁に利用した映画作家であった。プレイスによると、現存するフォード最古の作品であるハリー・ケリー主演の西部劇『誉の名手』(1917年)にすでに二重フレームのショットがいくつか現れている。[21]サイレント映画、トーキー映画にかかわらずフォード作品のいたるところにこの技法を確認することができるが、フォードがとくに好んだのは室内に置いたカメラから扉をフレームとして外景を捉え、内景と外景を同一画面に収めたショットであった。[22]
 フォード映画の二重フレームのショットはわたしたちを息が詰まらんばかりの昂揚へと誘うほど美しい。だがここで考えておきたいのは二重フレームの視覚的美しさではなく、その機能なのだ。こういった作業はいままでなされてきていないようだが、フォード映画における扉のショットの重要性は、ジェンダー的な観点から再考されねばならない。二重フレームという技法は、ふたつの異なる世界を別々にではなく同時に描き出し、そしてそのことによって双方の対照性を際立たせる。フォード世界のなかで二重フレームはさまざまな形で現れるが、先述のとおり、ことに支配的なのは室内に置かれたカメラが扉に枠取られた外景をとらえるショットである。この場合ふたつの世界とは家とその外部であり、ジェンダー的にいえば女性領域と男性領域である。すなわちフォード映画における二重フレームとは、このふたつの領域をめぐる登場人物の葛藤を的確に視覚化する、斬新で独自性あふれる装置なのだ。
 意気消沈したトムを収めた上記のショットにおいて、フレーム内フレームの内側に映された部屋を部屋1とし、外側に映された部屋を部屋2としておこう。このつぎのショットではカメラの位置がかわり、部屋2の内部が映し出される。部屋2がハリーとの同居にそなえて増築中だったものであることが判明する。部屋2はハリーのために用意されていたという点において、女性領域である。こののち画面は、さきほどわたしたちが目にしたばかりの二重フレームのショットに回帰する。トムは部屋2に足を踏み出すことができない。『捜索者』の結尾のショットにおけるイーサンと同様に、トムは女性領域に憧憬の視線を投げかけながらも、そこに踏み入ることをみずからに禁止する。
 トムがアルコールランプを部屋2に投げつける。燃えさかる炎で部屋2が光に満ちる。トムは部屋1に後退し、ソファに沈み込む。カメラはいくぶん前に寄るが、部屋2をくぐって部屋1に入ることはなく、二重フレームは崩されない。炎によって部屋1と部屋2のあいだで明暗が強い対立を織りなす。皮肉なことに、トムが火を放ったことによって、映画的テクストは光をめぐる象徴機能の一貫性を成就する。それはすなわち光―女性的/闇―男性的である。トムが光から排斥され、闇に埋め込まれるということは、彼がハリーから、家という女性領域から遠ざかってしまったという事態と対応している。このシーンにはそういった解釈が与えられてしかるべきなのだ。
 炎に気づいたポンピィは家に飛び込み、トムを引きずり出す。そして彼はトムを馬車の荷台に横たえる。ここでわたしたちは、すこし前のシーンでは銃弾に倒れたリバティ・バランスがやはり荷台に横たえられていたこと(水平)を思い出してよい。レストランのシーンにおいて地面に身体に横たえていたランスを挟んで屹立していたふたり(垂直)が、いまや横たわる側にまわっている(水平)のである。さらに現在時のシーンにおいて、トムが死者となって棺のなかに横たわっていること(水平)も忘れてはならない。世界はすでに取り返しがつかないほど変わってしまったのだ。もはや大地に屹立するトムの姿をわたしたちが目にすることはない。

鎮魂

 ここまで論じてきたように、『リバティ・バランスを射った男』は『捜索者』や『荒鷲の翼』と同じく、家に憧れながらそこに入ることをみずから拒否した男の悲劇である。だが『リバティ・バランスを射った男』には『捜索者』や『荒鷲の翼』では果たされなかった、たいせつな仕事がのこされている。その仕事とはトム・ドニファンの鎮魂である。そしてそれは『リバティ・バランスを射った男』という映画的テクストを超えて、イーサン・エドワーズ(『捜索者』)、さらにはスピッグ・ウィード(『荒鷲の翼』)の魂を鎮めることにもつながるだろう。
 鎮魂の仕事はハリーによってなされる。長いフラッシュバックのシークェンスが終わり、現在時に戻る。ランスは新聞記者に自分の語った物語(リバティ・バランスを射った男がランスではなくトム・ドニファンであったということ)を記事にしないのかと問う。記者は有名な台詞でその可能性を否定する(「ここは西部です。伝説が現実になった今、その伝説を記事にします」)。ランスはトムの遺体が安置された部屋に戻り、ハリーに帰ることをうながす。部屋を去るとき、ランスはトムの棺のうえにサボテンの花が飾られているのに気づく。ハリーが置いたのである。フィルムはハリーが本当に愛していたのはトムであったということを示すことで、荒野にしか咲けなかった花、トム・ドニファンの魂を鎮めるのである。

作家論への拡張

 冒頭で示唆しておいたとおり、本稿は『リバティ・バランスを射った男』というフィルムの作品論でありながら、同時に、新ジョン・フォード論序説としての側面を兼ねそなえている。今後のフォード映画研究は、その女性表象の保守性をあげつらうだけのものであってはならない。必要とされるのはそれとは別の水準からのジェンダー批評である。具体的にいうならば、わたしたちがフォード晩期の傑作西部劇を例にとって示してきたように、男性表象の在りかたに関心を向けることが必須なのだ。[23]あるいは、分断された世界に住まう男女がいかに心を通わすことができるのかという、その可能性に目を向けることも忘れてはならない。本稿ではトム・ドニファンという人物にジェンダー批評の眼差しを注ぐというもくろみがあったため、女性登場人物(とくにハリー)についてはじゅうぶんな議論が与えられていないが、今後、フォード映画の女性登場人物を男女の交流および相互作用という視野から再検討する必要があることを、ここで提起しておきたい。
 本稿においてわたしたちは、フィルムを観ることに重点を置いた。その帰結として強勢を置かざるを得なかったのが、花のイメージと扉のイメージである。ジェンダー論的視点からフォード映画の隠れた特性をあぶりだす試みはすでに幾人かの論者がおこなっているし、フォード映画において花や扉が特権的なイメージであることを指摘した論文も目新しくないのだが、花や扉のイメージをジェンダーと結びつけ論じるという方向性を明瞭に打ちだした論考は本稿が最初であるように思われる。最後に言い添えておかねばならないことがある。本稿は議論の必要上、テクスト分析に専念するあまり、フィルム産出の経済的、社会的、政治的諸条件を確認するという作業を忘れてしまっているかと思われるかもしれないが、それはいずれ書かれるであろう大部のジョン・フォード論に譲ることとなる。フォード映画における人物造形の変容、あるいは特権的イメージの使用法の変化を論じる機会があるならば、そのときは上記のような作業が徹底されねばなるまい。

附記
本稿は2006年度に東京外国語大学外国語学部に提出された卒業論文の一部を大幅に改訂したものである。執筆時、懇切丁寧な指導をしてくださった鈴木聡教授(東京外国語大学)と、改訂版投稿論文に目をとおし、貴重な助言をくださった本誌査読委員各位に御礼申しあげる。

[1]フォード映画における女性表象ならびに人種表象を部分的にであれ評価しようという試みは、たとえばGaylyn Studlar and Matthew Bernstein eds., John Ford Made Westerns: Filming the Legend in the Sound Era (Bloomington: Indiana University Press, 2001)に収められたゲイリン・スタッドラーの論文“Sacred Duties, Poetic Passions: John Ford and the Issue of Femininity in the Western” (pp. 43-74) や、チャールズ・ラミレズ・バーグの論文“The Margin as Center: The Multicultural Dynamics of John Ford’s Westerns” (pp. 75-101) に見られる。
[2]赤子を抱えたダラスのショットが聖母のイメージを喚起させることはしばしば指摘されることである。たとえばフォードをふくむ四人のアメリカ映画監督の映画に、カトリック信仰がどのような影を落としているかを論じたLee Lourdeaux, Italian and Irish Filmmakers in America: Ford, Capra, Coppola, and Scorsese (Philadelphia: Temple University Press, 1990), p. 120を参照されたい。
[3] Jim Kitses, Horizons West: Directing the Western from John Ford to Clint Eastwood ( London: BFI Publishing, 2004), p. 122.
[4]蓮實重彦「ジョン・フォード、または翻える白さの変容」『映像の詩学』(筑摩書房、1979年)、5−25頁。本稿との関連においては、とくに19−25頁を参照されたい。
[5]ピーター・ウォーレン(岩本憲児訳)『映画における記号と意味』(フィルムアート社、1975年)、108頁。
[6] Kitses, Horizons West, p. 124.
[7]集団執筆(カイエ・デュ・シネマ同人)(荒尾信子訳)「ジョン・フォードの若き日のリンカーン」岩本憲児、武田潔、斉藤綾子編『「新」映画理論集成2――知覚/表象/読解』(フィルムアート社、1999年)、256−301頁。
[8]たとえば『荒野の決闘』(1946年)のクレメンタイン、『捜索者』のジョーゲンセン夫人、『シャイアン』(1964年)のデボラを想起されたい。
[9] Kitses, Horizons West, p. 123.
[10] Tag Gallagher, John Ford: The Man and His Films (Berkeley: University of California Press, 1986), pp. 384-413.
[11] Gallagher, John Ford, p. 402.
[12]たとえばJ. A. Place , The Western Films of John Ford (Secaucus: Citadel Press, 1974), p.225を参照されたい。
[13] Robert B. Ray, A Certain Tendency of the Hollywood Cinema, 1930-1980 (Princeton N.J.: Princeton University Press, 1985), p. 237.
[14]フォード映画における花の役割についてはGallagher, John Ford, p. 281を参照されたい。もっともギャラガーの議論には書き込むべき余白が残されている。ここでその一例として『荒鷲の翼』におけるスピッグ(ジョン・ウェイン)とミニー(モーリン・オハラ)の夫婦再会シーンを見ておいてもよいだろう。夫婦再会のシーンはふたつある。前者において、花はあからさまな形で画面に現れ、夫婦の精神的交流を彩る。重要なのは、ギャラガーは言及しそこねているが、後者においても花が変奏された形で姿を見せているということだ。それは驚くべきことに壁にかけられた絵のなかにある。ふたりの背後にある壁にはそれぞれ一枚の絵がかけられているが、どちらの絵のなかにも花が描かれているのである。そしてこのフィルムは夫と妻、それぞれのショットを順次つなげることによって花という記号を交換させ、夫婦の心の交わりを画面に描き出す。これが作家の意図かどうかは知る由もないが、この細部こそがフォード映画のなかでももっとも感動的な再会シーンのひとつをつくりあげていることは記憶しておくべきことだろう。
 『荒鷲の翼』における花という記号にかんして、もうひとつ指摘しておきたいことがある。それはこの記号がホモソーシャルな欲望を突き崩しているということである。このフィルムは一見したところ、典型的なホモソーシャル体制を築き上げているかのように思われる。階段から転落し、身体が不自由になったスピッグは、妻のミニーの看護を拒否し(女性の排除)、男友達であるカースン(ダン・デイリー)に看護を任せるのである(男性同士の緊密な関係の形成、同時に同性愛は周到に回避されている)。しかしフィルムは女性的なものを完全に放逐することができない。捨て去ったはずの女性的なものは、花という姿で回帰するのだ。スピッグがリハビリテーションをおこなうシーンにおいて彼を奮い立たせるのは、かならずしもカースンではない。彼の回復への意志を鼓舞するのは、病室に飾られたミニーからの花であり、そしてその花が象徴するミニーなのである。
 『荒鷲の翼』はフォード映画の研究者からも軽視されがちなフィルムである。先述の再会シーンは素晴らしいが、それでもフィルム全体を考えた場合、いたるところで調和に欠けているという感は否めない。端的にいって『荒鷲の翼』は、荒々しい男の物語としてはなんとも中途半端なのである。しかしわたしたちが重視したいのは、まさにその中途半端さなのだ。『荒鷲の翼』に内在する不調和感はおそらく、このフィルムがホモソーシャルな欲望を現出させつつ、そこに浸りきれなかったということに由来する。『荒鷲の翼』はジェンダー論的に見て考察すべき点をおおく備えており、とくに1950年代中盤以降のフォード映画を論じるさいに積極的に言及されるべきフィルムである。なおホモソーシャリティについてはすでにジェンダー批評の古典となりつつあるイヴ・K・セジウィック(上原早苗、亀澤美由紀訳)『男同士の絆』(名古屋大学出版局、2001年)を、それを映画研究に応用した試みとしては四方田犬彦、斉藤綾子編『男たちの絆、アジア映画――ホモソーシャルな欲望』(平凡社、2004年)を、それぞれ参照されたい。
[15] Michael Budd, “A Home in the Wilderness: Visual Imagery in John Ford’s Westerns” in Jim Kitses and Gregg Rickman eds., The Western Reader (New York: Limelight Editions, 1998), p. 146.
[16] Place, The Western Films of John Ford, p. 218.
[17] たとえばPlace, The Western Films of John Ford, p. 226.
[18] Kitses, Horizons West, p. 125.
[19]映画学者ゲイリン・スタッドラーもこの点に注目している。Gaylyn Studlar, “Sacred Duties, Poetic Passions: John Ford and the Issue of Femininity in the Western” in Gaylyn Studlar and Matthew Bernstein eds., John Ford Made Westerns: Filming the Legend in the Sound Era ( Bloomington : Indiana University Press, 2001), p. 63を参照されたい。
 上記のスタッドラーの論文は、西部劇にかんする先行研究を丁寧にたどりながら、フォード西部劇の女性登場人物および男性登場人物たちがいかに西部劇の規範から逸脱しているかを証明しようというものであり、ジェンダー論的観点からフォード映画を論じようとする者にとって示唆的である。だが、この論文にはわたしたちが賛成できない点も散見される。たとえばスタッドラーは『捜索者』のイーサン・エドワーズを、その過激な暴力性ゆえにフォード西部劇の平和主義的主人公(西部劇は基本的に暴力のスペクタクルを肥料に生きるジャンルであるがゆえ、フォード映画における暴力を好まない男性登場人物は西部劇の規範から外れている、とスタッドラーは主張している)の系譜における異端児とする。この議論はかならずしも的外れではないが、わたしたちは同意しないでおこう。なぜならば、わたしたちが展開してきた家にたいする両価感情という視座のもとでは、イーサンは決して異端児などではなく、『リバティ・バランスを射った男』のトムを含む他のフォード西部劇、および非西部劇の主人公たちと同じ系譜に名を刻まれるべき人物だからである。むしろこの見方のほうがフォード映画の本質に迫ってはいまいか。スタッドラーはフォード西部劇をジャンル一般との偏差から位置づけるという作業に夢中になるあまり、フォード映画に内在する重大な葛藤を見すごしているように思えてならない。
[20]フォード西部劇における二重フレーム(および疑似二重フレーム)のショットの機能については、すでに触れたBudd, “A Home in the Wilderness” にくわしい。
[21] Place, The Western Films of John Ford, p. 14.
[22]ピーター・ボグダノビッチに「初期の頃から、あなたは同一ショットのフレームの中で、暗い室内からまばゆい光の外景を撮るのがお好みのようですが」と聞かれて、フォードは「そうだ。しかし、それがカメラマン泣かせなんだ。露出を決めるのがむずかしいからな。彼の歩み従って、外界の明るさにゆっくり露出を合わせなければならん。観客がそれと気づかぬよう、細心の注意を払ってやらねばいかんしな」と答えている。ピーター・ボグダノビッチ(高橋千尋訳)『インタビュー、ジョン・フォード――全生涯・全作品』(九藝出版、1978年)、82−83頁。
[23]映画における男性のジェンダー問題を議論した重要な文献として、加藤幹郎の仕事の以下の箇所が挙げられる。加藤幹郎『映画のメロドラマ的想像力』(フィルムアート社、1988年)、7−19頁および97−108頁、『映画ジャンル論――ハリウッド的快楽のスタイル』(平凡社、1996年)、172−196頁、そして『映画の論理――新しい映画史のために』(みすず書房、2005年)、57−122頁。加藤氏はこれらの映画論において、女性の弱さではなく男性の弱さに照明をあてた「男性メロドラマ」の映画史的意義を、先駆的に論じている。本稿は加藤氏が提出したこの論題を敷衍する形で書かれている。わたしたちは、すでに本文で示唆してきたように、フォード映画もある種の「男性メロドラマ」としてとらえることができるのではないかと考えるのである。
 『映画ジャンル論』において加藤氏は、アイダ・ルピノやR・W・ファスビンダーの「男性メロドラマ」と、ニコラス・レイの「男性メロドラマ」とを、男性の戦う姿勢という観点において区別している。ルピノ映画やファスビンダー映画の男たちが戦いをあらかじめ放棄しているのに対して、レイ映画の男たちは「男性戦うべし」という社会の要請に応えようとしているのである(そして彼らはその要請の重圧につぶされ、悪夢を見る)。わたしたちは「戦うこと」を鍵言葉に、さらにレイとフォードの差異を考察することもできる。レイ映画の男たちが社会の要請する「戦う男」という男性像に同一化しようとして苦難を味わうのに対し、フォード映画の男たちはその男性像をかんたんに自分のなかに取り込むことができる。フォード映画の場合の問題は、戦う男になることではなく、戦う男になってしまったことにあるのだ。すでにくわしく論じてきたように、彼らは、戦うことと、それとは相容れない家への郷愁とのあいだで引き裂かれるのである。