加藤泰研究序説
――奥行きを利用した映画の演出について

北浦寛之

0.はじめに

 加藤泰はいくつかの特徴的なキャメラのスタイルを活用し映画を撮った、映画史的に見ても稀有な映画作家といえる。彼のキャメラは、低く(ローアングル)、動かず(フィックス)、途切れない(長廻し)。1941年の記録映画『潜水艦』から81年の『ざ・鬼太鼓座』までの46作品で[1]、加藤泰は自身のキャメラのスタイルを駆使した妥協を許さない映画製作を実践していった。ただ、彼の徹底した映画作りが製作の予算と時間の超過を招き[2]、そのうえ興行的にもいまひとつだったので、彼と会社との関係は必ずしも良好というわけではなかった。しかしそうした商業的な枠を越え映画の美学的見地から述べるなら、彼の映画は同時代の大きな変化に動じない独自のスタイルによって貫かれ、われわれに映画的想像力の豊穣さを見せてくれる。本稿ではその大きな変化によって生じた困難と加藤泰はどう対峙し、どのように卓越した演出を実践していったのかということを論じていく。
 1957年、日本の映画会社はこぞって自社製作のワイドスクリーン映画を公開する。それまでのスタンダードな縦横比1:1.33のフレームが横に拡大し、1:2.35のシネマスコープ・サイズがワイドスクリーンの代表的な規格になり、東映スコープや日活スコープなど、各社とも自社の名をつけたスコープ映画を製作していく。しかし、そうしたスコープ映画は映画演出においてある問題を包含していた。それは奥行きの問題である。
 スコープ映画では撮影と上映のさいにキャメラと映写機にそれぞれアナモフィック・レンズという特殊なレンズを取り付けなければいけないのだが[3]、そのアナモフィック・レンズが奥行きを減退させることになる。撮影のさいアナモフィック・レンズを取り付けたものは、取り付けていないものより、焦点距離が長くなって望遠的な映像になり、望遠レンズ特有の空間の平面化を招きやすくなった[4]。また、アナモフィック・レンズは反射及び吸収で光量の損失が大きいとも言われ[5]、白黒に比べて感度の劣るカラー映画の普及もあって、屋外撮影ならともかく、人工照明を用いるセットでの撮影ではキャメラマンはフォーカスを絞り込むことができなくて、全体的に鮮明な映像を生成するには困難があった。スコープ映画における深度の問題は初期から技術的進歩がなされていったであろうが、それでも1962年の時点で吉村公三郎は「横にひろがったものではなくて縦がせまくなった[6]」と表現し、キャメラマンの北坂清は深作欣二の『仁義なき戦い』シリーズ(1973〜1976)でピント・マンをやっていたときのスコープ映画の焦点深度の問題を指摘し[7]、アメリカでも映画学者デイヴィッド・ボードウェルが1990年代になっても、スコープ映画における焦点の問題が解決していないことを明らかにしている[8]
 ではそうした状況で、加藤泰はスコープ映画にどう対応していったのだろうか。加藤泰はワイドで撮るようになってから35本のうち32本でシネスコサイズの映画を撮っていて[9]、「日本の監督の中では実に見事にシネマスコープを使った[10]」と言われている。そんな加藤泰のスコープ映画における演出について、彼の映画の助監督や脚本家を長年務めた鈴木則文は次のように語る。


最初のシネマスコープについては、僕も分からないですけど、シネスコになって焦点深度が浅いからとすごく困ってましたね。その頃から縦は無限であるようなことを言ってましたからね。つまり縦の構図が加藤演出の基調です。それでぼけてもいいから、やっていくうちにたくさん使えると言っていました[11]


 複数のキャメラのスタイルを活用してきた加藤泰の演出。その彼の演出の基調が「縦の構図」だと言明されていて、スコープ映画になっても焦点の問題に関係なく、空間の奥行きを利用して演出する「縦の構図」を積極的に使っていく姿勢を加藤泰が見せていることがうかがえる。もちろん、批評家も加藤泰の縦の構図に注目して、分析を行っている。ただ、そうした分析は作品単位のもので、また、前述してきたような時代的背景を欠いたままの記述になっていて、加藤泰の縦の構図の内実を明らかにするまでに至っていない。技術的変化が生じれば、後述するような1940年代のパン・フォーカスの派生のような、何がしかの演出の流れが生まれることが予想されるのであり、その視点を欠いたまま加藤泰の縦の構図を語ることは、じゅうぶんだとは言えない[12]。そこで本論文では、スコープ映画を巧みに利用したとされる加藤泰が縦の構図によってどのような演出を実践していったのかを同時代の監督たちの演出と比較しながら検証していく。

1.ワイドスクリーン時代の奥行き
1‐1.困難なパン・フォーカス

 周知のとおりオーソン・ウェルズ、グレッグ・トーランドのコンビが1941年の『市民ケーン』で見せた革新的な技術パン・フォーカスは[13]、前景から後景まですべての面で鮮明な映像を浮かべるもので、多くの映画製作者に衝撃を与えた。『市民ケーン』におけるパン・フォーカスの場面は長廻し、フィックスで撮影されていたが、ウィリアム・ワイラーは奥行きのある演出を編集のなかで[14]、オットー・プレミンジャーはキャメラの運動とともに[15]、自らの作家性に変えて実践していった。
 日本では黒澤明がパン・フォーカスを独自の手法で活用した監督として有名だ。通常パン・フォーカス的な鮮明な映像は広角レンズもしくは標準レンズを絞って生み出すが、黒澤は望遠レンズを絞り込んで奥行きを出していた[16]。黒澤はレンズを絞り込んでも明るさが保てるよう、プログラム・ピクチャーでは考えられないほどの光量を使用し[17]、『生きる』(1952)では映画全体で8から9割、『七人の侍』(1954)では9割、『生きものの記録』(1955)になると100パーセント、パン・フォーカスで撮影したと言われている[18]。これらの数値の真偽はともかくとして、黒澤がパン・フォーカスによる画面作りを絶対としていたことがうかがえる。黒澤映画のキャメラマンを長年に渡って務めた斎藤孝雄は黒澤から「画面に出ている人たちはどんな顔をしているのか、どこを見ようがお客さんの自由だ。どこを見ても絵が分かるようにしなくちゃいけない[19]」と言われ、黒澤がパン・フォーカスにこだわる理由を明らかにしている。だが、前述したようにアナモフィック・レンズを使用するスコープ映画とカラー映画の普及でパン・フォーカスにも陰りが見え始めた1957年以降、黒澤映画にも焦点の問題が顕在化する。
 黒澤のスコープ映画三作目の『用心棒』(1961)でも全編を通じてパン・フォーカスが効果的に使われている。ラストの三船敏郎と仲代達矢の有名な決闘シーン(図1)。前景に吊るされた酒屋の主人(東野英治郎)、中景に卯之助(仲代達矢)率いる一味、そして最も奥に酒屋の主人を助けようとする桑畑三十郎(三船敏郎)が(砂埃で薄く見えているが)それぞれはっきりと画面に姿を見せている。これから決闘が始まるという緊張の「ま」に、黒澤は前景から後景まではっきりと知覚できる空間的な「ま」を加えることで、さらなる緊張感を醸成している。
 その一方で冒頭のシーンでは焦点の問題が露顕する。図2では前景の二人の人物と奥にいる人物に焦点がほぼ合っている。だが、前景の人物がキャメラの方に寄ってキャメラが二人の表情をとらえるために少し動く図3では、後景の人物は完全に焦点を外れてしまう。「どこを見ようがお客さんの自由だ」という黒澤の言葉とは対照的に、図3でわれわれは口論する人物の表情をクロースアップで目撃し、その二人を見ている後景の人物には視線が向かない。後景の人物が、映画内の主人公桑畑三十郎で、映画外のスター三船敏郎であるにもかかわらず。この場面では、少しでも前後に人物が動くと、キャメラは焦点を維持できなくなることがうかがえ、焦点深度(焦点が合う前後の距離)の短さを連想させる。
 こうした焦点の問題があるなかで、予算の関係から黒澤ほど照明を使用できるわけでない同時代のプログラム・ピクチャーの監督たちにとって、スコープ映画でのパン・フォーカスによる演出が困難であったことは想像に難くない。とはいえ、スコープ映画初期から奥行きを利用した演出の必要性を唱えているものは少なくなかった。1957年、松田定次はワイドスクリーン映画を2本撮り終えた時点で「横のひろがりと同時に、奥深いやり方も必要だと思った[20]」と語り、1962年に映画評論家登川直樹は「再び縦の構図を[21]」という見出しにおいて、縦の構図による映画美学の復活を熱望している。
 それでは、こうした声がある中、ワイドスクリーンで監督たちはどのようにして奥行きを表現し、また奥行きを利用した演出を実践していったのかということを見ていく。

1‐2.横幅を生かした演出

 もしスコープ映画で鮮明な映像によって奥行きの深い演出を試みる監督がいたならば、その監督は大抵の場合前景をミディアム・ショット以上に大きくとらえることはしなかった。前景がキャメラから離れるほど、潜在的な奥行きが増すと言われている[22]。ただ、そうした技術的な制約に縛られないで奥行きを表現し、縦の構図による演出を多くの監督たちは実践していく。その代表的な手法が横の空間を利用した演出である。映画はワイドスクリーンになって、横は拡大したが縦は減少した。しかし、その横は縦を新たに生成する。
 観客に奥行きを想像させるために、多くの監督は縦方向に左右一方からもう一方のサイドに対角線の斜めのラインを可視化して提示する演出を行った。畳や建物の壁・屋根など、縦の空間を可視化することができるものは対角線に手前から奥にラインが形成された。また大群が移動する場面、たとえば兵隊が行進するような場面でも、横幅を最大限使った画面手前から奥、もしくは奥から手前への運動が奥行きを意識させる演出であった。スタンダード期からワイド期にかけて美術を担当した松山崇は「画面がヨコに二倍拡がった結果は平板になりがちであるが、この解決策であるかのようにタテの奥行きに変って斜めの奥行きをあらわす斜線の構図がワイドスクリーンで用いられている[23]」と指摘している。もちろん奥への斜線はワイドスクリーンになってはじめて使用されたわけではない。1910年代の日本映画において、奥への対角線的な演出が行われていることをボードウェルは指摘している[24]。だが、そうした対角線的な演出はワイドスクリーンになって頻繁に観察されるようになり、またワイドだからこそ、横幅を利用して以前より奥まで伸びていくラインが表象できるようになったのである。そして拡大した横の空間はただ観客に奥行きを意識させるというだけにはとどまらなかった。それまでのスタンダードのスクリーンではあまり見られなかった前景と後景の関係が見られるようになってくる。
 1965年の『股旅三人やくざ』(沢島忠)という三話から成るオムニバス映画の三話目。そのオープニングは大根を豪快にかじる人物の口元の超クロースアップからはじまる。移動する人物をキャメラが追いかけ、徐々に顔が明らかになり、その人物が中村錦之助であることがわかるのだが、ここでは顔の一部を映した超クロースアップから顔全体を提示したクロースアップまで、約15秒のワン・ショットで撮られている。スタンダード・スクリーンの映画では考えられないオープニングの演出である。スタンダードでは大抵が、これから登場する人物がどんな場所にいるのかという、状況設定のショット(エスタブリッシング・ショット)から映画が始まり、キャメラは比較的引いた状態で撮られ、まず人物のクロースアップが15秒も続くということはない。だが、ワイドスクリーンでは、たとえ人物のクロースアップが15秒続こうとも、その人物の両側の空間から背景を確認できるがゆえに、われわれはどんな場所に彼もしくは彼女がいるのかということを推察することができる。
 こうした画面構成はまさにスクリーンがワイドになって可能になったものであり、60年代以降、人物をクロースアップでとらえることが頻繁に行われていく。ボードウェルの説明によると、アメリカでは映画がワイドで製作されるようになった当初、映画製作者はミディアム・ショット(ウェスト・ショット)やロング・ショットを多用していた。それは広角レンズを用いるなどしてアップで人物の顔を撮ったとき、キャメラに装着されたアナモフィック・レンズの影響で、人物の顔に歪みが生じるという理由からだ[25]。しかしパナビジョン社が鮮明で歪みが少ない高性能なアナモフィック・レンズを市場に導入したおかげで、60年代までにクロースアップや超クロースアップを製作者は使用できるようになる[26]。日本においても顔の歪みの問題があった[27]。ただ日本の場合、経済的な問題からパナビジョン社のアナモフィック・レンズはそれほど普及していなかったようだが[28]、映画製作者が技術的な工夫で歪みの問題を克服していったと言われている[29]。以上のような背景をふまえて、スクリーンがワイドになって、ショットのスケールがどう変化したかをボードウェルは次のように解説している。スタンダードの時代では、多くの監督は膝から上を映したショット(plan americain)からミディアム・クロースアップ(バスト・ショット)までを使って画面に変化をつけていた[30]。だが、ワイドスクリーンになって、plan americainはあまり見られなくなり、ミディアム・ショットから超クロースアップの狭い範囲で映画製作者は仕事をするようになる[31]。つまり、全体的に「寄り」の画面が増えたわけだ。こうした変化が生じた理由に、スティーブン・スピルバーグがシネスコサイズの1:2.35の縦横比で撮影することの困難さを告白し、クロースアップに傾倒する契機になったことを述べていたり[32]、キャメラマンの小林節雄が「クロースアップを撮った時は、すきまなく安定感のある画面が出来て、これはいいと思った[33]」と語っていたりするように、いくらか構図の問題に起因するところがあるだろう。いずれにしても、ワイドスクリーン時代の60年代に頻繁に目撃されるようになってきたクロースアップは縦の構図のなかで大きな前景として機能し、背後の後景と積極的に関係していくのである。
 スタンダードの作品『人生とんぼ返り』(マキノ雅弘、1955)とスコープ映画で撮られた『江戸犯罪帳・黒い爪』(山下耕作、1964)にそれぞれ、男が手前に女が後ろにいて、その男女が直角に座って話をしている場面がある(図4図5)。『人生とんぼ返り』では稼ぎのない男が妻に仕事の話をし、その後、プロットは夫婦愛を感じさせるものに発展していくが、『江戸犯罪帳』では女と別れたいと思っている男が惨劇を引き起こし、最悪な結果を招く。こうして、プロットが真逆の二作品はこのあとの演出の仕方も大きく異なる。
 『人生とんぼ返り』で、男の仕事の話を適当にあしらうように聞いていた女が、今までの結婚生活に対し皮肉をいうのだが、それをキャメラは二人の「寄り」のショットでとらえ(図6)、それから男に背を向けるようにして若干右に動く女をキャメラは追って、ミディアム・ショットで提示する(図7)。カットが切り替り、キャメラは、女の皮肉を真摯に受け止めた男が申し訳ないという思いを吐露する様子を、同じように男のミディアム・ショットの映像で語る(図8)。これを境に夫婦の絆が見てとれる場面へと展開していき、二人を個別に映したショットがプロット上の変化を生成する。その一方、『江戸犯罪帳』のキャメラは二人を図7図8のように個別にとらえることはない。男は別れて欲しいと女に言い、女はそれを拒絶する。するとその二人のやりとりに呼応するかのようにキャメラが二人に接近していく。そして、最終的に男の横顔とその後ろで男を見つめる女の顔が超クロースアップで提示される(図9)。ここでの「寄り」のショット図9は『人生とんぼ返り』の「寄り」のショット図6と比較して、はるかに接近していて、男と女が何を思っているのか、判然と理解できる。男は冷淡な表情を浮かべていて、その男の表情を間近で見た女は、男がいま自分を殺そうと考えていることに気づく。女が声をあげると同時に、男は女の前をさっと横切り、その後カットが切り替って、刀を手にした男が、女を手に掛け殺してしまう。
 こうして、話の筋も違えば演出の仕方も違うスタンダードとワイドスクリーンの二作品を見てきた。話に変化が生じる場面において、スタンダードの『人生とんぼ返り』ではキャメラは男女に「寄り」切ることができずにそれぞれをシングル・ショットでとらえていたが、ワイドスクリーン作品の『江戸犯罪帳』ではキャメラは男女に「寄り」切って、二人を同一フレームにおさめて演出を行っている。「寄り」切ることができたショットはスタンダードからワイドへとスクリーンの拡大によって可能になった演出であり、二人を同一フレームに大きくおさめているため「奥行き」は欠いているが、男の大きな前景とそれに負けない大きさで存在する女の後景という「縦の構図」で演出されている。
 こうしたクロースアップによる演出は役者の演技に変化を及ぼした。アメリカでは、ハリウッドのスタジオが製作、配給、興行を独占していたスタジオ・システムの時代には、役者は体全体の演技を求められていた。だが、スタジオ・システムが崩壊した50年代、ちょうどワイドスクリーンが誕生したころからは、役者の演技では顔が重要になり、目や口や眉などの顔の微細な部分は人物の心理を伝達するのに重要な要素になったと言われている[34]。顔の演技が重要とされたことは『江戸犯罪帳』の演出からもわかる。われわれは、男と女の大きくとらえられた顔の表情を通して、交錯しぶつかり合う二人の思いがワン・ショット内に昇華していくのを看取するのである。
 大きな前景を利用した「縦の構図」は『江戸犯罪帳』では奥行きを欠いたものであった。だが、基本的には大きな前景は後景との遠近感を出すのには適していた。『江戸犯罪帳』の監督山下耕作は、1年後に撮った『花と龍』(1965)でも大きな前景を用いるが、そこには人物の遠近感に加え、人物の配置によって「奥行き」を観客に想像させていた。
 まず前景にこの映画の主人公、玉井金五郎(中村錦之助)がミディアム・クロースアップで大きくとらえられていて、後景には金五郎の妻、谷口マン(佐久間良子)がいて、その後ろにも大勢の人物がいる。前景の大きな金五郎から後景の小さな人物を比較して、われわれは遠近感による「奥行き」を感じることができる。ここで山下は後ろにいた人物を前進移動させることで、金五郎とマンのあいだにレイヤーを生み出し、そして次々に人物を金五郎のそばまで移動させた結果、マンの姿が最も小さく映し出される。さらに、一人の人物が前景の金五郎と中景の三人の人物のあいだにフレーム・インして、新たなレイヤーを形成する。いつしか、前景の金五郎から後景のマンまでいくつものレイヤーが形成され、山下はそこに「奥行き」があることをわれわれに想像させるのである。

1‐3.踏襲的な演出

 スクリーンがワイドになって頻繁に目撃されるようになったクロースアップ。それが「縦の構図」において利用されてきたのは前述したとおりだ。その一方で、スタンダード時代から実践されてきた奥行きを利用した演出もワイドスクリーンのなかで継承されていく。『花と龍』で山下耕作が見せた、人物の配列による奥行きの創造も継承された演出の一つであり、なかでも、前景の人物が後景の人物を覆い隠してしまう手法は、そこに何らかのサスペンスや緊張を喚起し、ワイドスクリーンになっても多くの監督が好んで使った。
 『豚と軍艦』(今村昌平、1961)のクライマックス・シーン。主人公でチンピラの欣太(長門裕之)が組内部の抗争から街中で殺されてしまう。運ばれていく欣太の遺体をキャメラがとらえたあと、カットが替って欣太を追いかけようとする恋人の春子(吉村実子)が提示される。泣き叫ぶ春子をキャメラはクロースアップでとらえ、その春子の姿にわれわれは多少なりとも感情移入を果たそうとするのだが、彼女をとらえるキャメラがそれを拒絶する。キャメラは徐々に春子から遠ざかりはじめ、何人かの人物が両端からフレーム・インしてくる。すると、フレーム・インしてきた人物の一人が完全に春子を覆い、そればかりか、前景の人物たちのこのシーンとは関係のない会話が彼女の泣き叫ぶ声をも掻き消してしまう。われわれは後景の春子の存在が気になるが、恋人を失った春子をさらに孤立させるように、冷淡なキャメラがわれわれの視界から彼女を奪い去るのである。
 また後景を覆ってしまう前景はなにも人物に限ったことではなかった。スクリーン内のあらゆるセットが遮蔽幕として利用される。『鯉名の銀平』(田中徳三、1961)では暖簾が人物を覆う遮蔽幕として機能し、見る者に緊張やサスペンスを喚起させる。船大工の銀平(市川雷蔵)にはお市(中村玉緒)という思いを寄せる女がいた。だが、お市を思う男はもう一人いた。銀平の同僚、卯之吉(成田純一郎)がその男であり、お市の父親五兵衛(石黒達也)も二人の仲は認めるところだった。そして五兵衛はお市と卯之吉にささやかな祝言をあげさせる。幸せそうな二人。だがここでキャメラは、幸せの絶頂にいる二人を劇的に表象するために「クロースアップ」でとらえることはしない。その代わり、キャメラは急に右にパンをし、三人の様子を見ていた人物の存在を明らかにする。その人物が銀平であることは察しがつく。ただ、顔は暖簾で覆われ、彼がお市と卯之吉の幸せそうな様子を見てどんな表情を浮かべているのかは看取できない。キャメラは暖簾で顔を隠された銀平をロング・ショットでとらえ、緊張が画面に走る。そしてカットが切り替り、キャメラは嫉妬に満ちた表情を浮かべる銀平の顔を「クロースアップ」によって明らかにするのである。
 スタンダードからワイドスクリーンに継承された奥行きを創造する演出は、他にも存在する。監督たちはスクリーンのフレームのなかにフレームを形成し、その内部に人物などを挿入することで、奥行きを観客に想像させてきた。代表的なところでいえば、建物のドアや窓の枠がフレーム内フレームとして利用され、そこに人物がおさめられた。
 『江戸っ子肌』(マキノ雅弘、1961)の一場面、三人の男が家の玄関を跨いで入ろうとするなか、奥の家の障子窓に人影が映る。すると障子が開き、そこに女が姿を現す。ここで、われわれの視線は前景、中景にいる男たちが振り向いて奥に視線を送るのと同様に、障子窓から顔を出す女へと注がれる。映画フレーム内部に二つのフレーム(手前の家の玄関、奥の家の障子窓)が形成され、われわれは奥行きを感じ取ることができるのである。『赤い殺意』(今村昌平、1964)の一場面においても、重層的なフレームが構築されている。女が洗濯物を掛けている物干し竿によって第一のフレームが形成され、その奥の隣家の窓が開き、第二フレームが誕生する。それにしたがい、われわれの視線は画面の奥に誘導される。こうして、フレーム内フレームの演出は、ただ奥行きを生成するというだけに留まらず、フレーム内フレームの部分を強調し、仮に焦点が合っていなくても、そこに観客の視線を誘導させる役割も担っていたのである[35]
 本章では、ワイドスクリーン時代の監督たちがいかにして奥行きを表現し、奥行きを利用した演出を実践してきたのかを概観してきた。奥へ向かう斜線や大きな前景といったワイドスクリーン特有の演出と、人物の重なり、フレーム内フレームといったスタンダード時代から継承された演出を監督たちは適宜ワイドスクリーンに導入し物語を構成していった[36]。こうした同時代的傾向をふまえたうえで、次章では、加藤泰が縦の構図を利用してどのような世界を構築していったのかを論じていく。

2.加藤泰の縦の構図
2‐1.雛壇的構図

 ローアングル、フィックス、長廻しの監督でもある加藤泰。そのなかでも、鈴木則文が言うように加藤演出の基調と位置付けることができる「縦の構図」とはいかなるものなのか。彼のスコープ作品を見る前に、加藤泰が満州で四本の記録映画を撮ったあと、実質的な監督デビューを果たした1951年の『剣難女難・女心流転の巻』という時代劇映画を見てみよう。まだスタンダード映画である本作品では先にあげたローアングルやフィックスといったスタイルは顕著に見られないものの、縦の構図は物語の重要な場面で効果的に機能している。
 前景で一人の男が女目当てに、女と一緒にいた男に斬りかかろうとしている場面がある。その女は本作品の主人公新九郎(黒川弥太郎)の恋人千浪(林加壽惠)で、連れ立った男は新九郎の兄重藏(堀正夫)であり、二人は離れ離れになった新九郎を捜して旅をしている。この場面では千浪がある男から狙われ、重藏が千浪を必死に守っているのだが、これだけなら時代劇映画にしばしば見られる光景であるだろう。だが、われわれはその光景が、普通でないことにすぐに気づく。われわれはヒロイン千浪が難を逃れるよう、見守っているわけだが、それでも前景の三人にばかり視線が向けられるかと言うとそうではない。観客の視線は後景で小さく映る三人の人影にも向けられる。そう、その三人の人影のなかに、千浪が捜し求める新九郎がいて、観客は前のショットの流れからそのことに察しがついている。つまりヒロインの危機が前面に押し出されたこのショットは、もう一方で新九郎と千波の空間上の遭遇を実現したショットとして機能していたのである。そして加藤泰は観客の視線をより安全に後景の新九郎に届けるために「縦の構図」を利用する。
 加藤泰は縦の構図を利用して、前景と後景を峻別する。峻別して、観客に後景の存在を意識させる。それでは、どのように観客に前景と後景を識別させるのかと言うと、加藤泰は前景と後景について、ただ前と後ろという前後の関係でのみ定義してしまうのではなく、上と下という上下の関係をも構築することで、後景を前景から空間上分離して創造するのである。そして加藤泰は、前景と後景を上下の関係で語るために土手を使う。土手の下の前景には千浪たち三人が、土手の上の後景に新九郎たち三人が、それぞれ配置される(図10)。それにより二つの重要な空間が見事に二分されたわけであり、この言わば雛壇とも見える縦の構図によって、われわれの視線は千浪と新九郎の両方に向けられるのである。
 この雛壇的構図は、加藤泰がスコープ映画を撮るようになっても繰り返し利用した、「符牒」とされる構図であった。たとえば1972年の映画『昭和おんな博徒』で、江波杏子演じるお藤が、夫の仇を討つため最後の闘いに臨む場面。集まった親分衆を文字通り(映像通り)前にして、お藤が一段高い奥の場所から仁義を切る場面を見たときに、仁義を切るという形式的な身体運動に雛壇的な舞台が備わっていることにわれわれは視覚的な悦びを覚える。加藤泰は雛壇という古くから用いられてきた伝統的構図で、ありふれた光景に視覚的な遊戯性を付与していたのである。
 その雛壇的な構図は加藤泰のやくざ映画で人が横たわっている場面にも見られる。やくざ映画で「登場人物の一人が横たわった姿でフィルムにおさめられたことがあったとしたら、それは瀕死の重傷であるかすでに死んでいるかのいずれかでしかなかった[37]」と蓮實重彦は語っているが、加藤泰のやくざ映画においても、死んでいるか瀕死の重傷を負って横たわっている人物がしばしば目撃される。その見慣れた光景に、加藤泰は雛壇的な構図をあたえる。『明治侠客伝』で木屋辰一家の親分が亡くなったとき、前景には横たわる親分がいて、その背後に側近の浅次郎と親分の息子が座っている。ここまでなら、多くのやくざ映画でも見られる構図である。だが、加藤泰は浅次郎たちの背後にもう一段、区別できる段を用意する。加藤泰は浅次郎の背後に、座っている浅次郎より高さがある屏風を置いてその前後で空間を仕切ると、屏風の後ろに位置する数人の子分が屏風の上から顔をのぞかせる様子をとらえる。こうして加藤泰は雛壇的な構図を形成しつつも、親分を一段目に配置して、その親分とつながりが特に深い者を二段目に、二段目の人物よりもつながりは薄れるが、それでも親分の身近な存在には変わりない人物を三段目にと、親分との関係の深さに沿った人物配置を雛壇を利用して行っていた。あるいは『緋牡丹博徒・お竜参上』(1970) にも同様の構図が見られる。路上で襲撃され瀕死の重傷を負った親分が部屋のなかで横たわっていて、その後ろに子分たちが座って親分の様子をうかがっている。ここで加藤泰は三段目の段を観客に想像させるために、奥の障子を利用する。誰が親分を狙ったのかと子分が怒号していると、後ろの障子が開いて、親分が刺された現場を目撃していた人物が子分たちの上から顔をのぞかせる。障子が開いた空間が同時代に利用されていた「フレーム内フレーム」として機能し、その空間におさまった証人は前景の人物よりも奥深い場所にいることを観客に想像させ、三段目の段が形成されるのである。

2‐2.男に背を向ける女たち

 ひとまず話を『剣難女難』に戻して、雛壇的構図が活用されていた場面について付言すると、あの場面で更に注目すべきことは、土手の上と下にそれぞれ別れている主人公新九郎とヒロイン千浪が各自、横移動を繰り返し、決して交わろうとしないということである。それはタイトルの「女難」が意味する通り、新九郎は女に振り回され、二人の想いがなかなか交わらないことを示唆している。加藤泰は言う。「二人の人間、それは男と女です。僕は、自分はどんな映画が作れるのか、いや作ろうとするのかを、語り、僕のテーマは何かを考え初めた時から、どんな大チャンバラ映画、大活劇映画、大ヤクザ映画の仕事にぶつかっても、そこに、僕の二人の人間を見つけ出し、その二人を見つづける作業に執着して来たと言へる様です[38]」。そう、加藤泰はデビュー作において、自身の想いを土手の上部と下部に分割された縦の構図のなかで具現していた。そして加藤泰の主題「男と女」は加藤泰がスコープ映画で撮るようになってから、縦の構図のなかでより印象的に表象される。その代表的な例が、「男に背を向ける女」である。
 女はキャメラのほうを向いて前景に位置する。男は女の背後に位置し女に視線を送る。つまり二人ともほぼ正面を向いた状態になっている。そして加藤泰は二人を縦の構図でとらえるとき、同時代的傾向でもある「大きな前景」を利用する。女は前景で大きくとらえられ、女がいつも男との関係について苦悩する表情を浮かべ、何がしか心の葛藤をしている様子をわれわれは目撃する。たとえば『風の武士』(1964)でわれわれは、あえて男の視線を遮ろうとする女の背中から、その女の精神的ショックを推し量ることができる。
 『風の武士』の主人公、名張信蔵(大川橋蔵)は、愛する女ちの(桜町弘子)について、ある誤解を抱いたまま一緒に旅をしている。名張と同様にちのを慕う高力伝次郎(大木実)から、ちのと関係を持ったという嘘の話を吹き込まれたからだ。そして名張が気になっていた話の真偽を恐る恐るちのに尋ねてみる場面がある。後景の名張が前景に位置して正面を向いているちのにその話を切り出すと前景のちのは体を斜めに向ける(図11)。それから話の意味を理解したちのは、体を回転させ名張の方に目を向ける(図12)。通常なら男と女が向き合ったこの状態で、二人の衝突を劇的に見せるために、ショット/リバースショットの「切り返し」と呼ばれる編集が行われるだろう。たとえばAという人物とBという人物が会話する場面で、はじめにAの視点からBが映されたショットが提示され、次にBの視点からAが映されたショットが提示されるというのが標準的なわれわれの映画体験であり、われわれは登場人物の視線を共有することで、スクリーン内の彼または彼女と同一化し、彼または彼女と同様に心理的高揚を味わうことができる。だが、加藤泰は登場人物の視線を観客の感情移入のための道具として使おうとはしない。加藤泰は視線を登場人物の感情表現を豊かにするために利用する。それでは、先の『風の武士』の場面では、登場人物の視線はどのように扱われるのか。加藤泰は切り返しによる視線の交換を行う代わりに、視線の交換を拒否することで、登場人物の感情を表現する。加藤泰は信蔵のほうに向いたちのの体を再び回転させて正面に向け、信蔵の視線をはっきりと拒むちのの身振りを描く(図13)。そして、そのちのの姿から、われわれは彼女の精神的なショックの大きさを感じ取るのである。
 『沓掛時次郎・遊侠一匹』(1966)にも、意識的に男の視線を遮る女の背中が登場し、そこに女の複雑な心境が露になる。沓掛の時次郎(中村錦之助)は一宿一飯の恩義から、何の恨みもない六ッ田の三蔵(東千代之介)を斬ってしまう。せめてもの罪滅ぼしとばかりに、三蔵の妻おきぬ(池内淳子)と子どもの面倒を時次郎は見ていくわけだけれども、いつしか時次郎とおきぬは惹かれあっていく。次第に募る時次郎を思う気持ちに耐え切れなくなったおきぬは、子どもとともに時次郎の前から忽然と姿を消す。そして、われわれが男の視線を遮る女の背中をはっきりと目撃するのは、時次郎とおきぬが再会する場面である。
 宿のなかで別れたおきぬについて女将に語る時次郎は、外から聞こえる三味線の音色と唄にはっとして、外に飛び出す。場面が屋外に替り、空間の奥のほうで、前に子どもを連れたおきぬ、後ろに時次郎という配置で二人とも正面を向いた状態で提示される。後景の時次郎がおきぬを呼び、はっとしたおきぬは立ち止まって振り向き、二人は対面する。だが、ここでも加藤泰は切り返し編集を使わない。おきぬは時次郎の視線を遮るように体を回転させ再び正面を向き、スクリーン前方へと駆け出していくのだが、この場面の演出には『風の武士』における演出と比較して新たな要素が付加されている。おきぬが連れた子どもは父親が時次郎に殺されたことを知らないで、時次郎のことを父親のように慕う。だから時次郎がおきぬを呼び止めたとき、子どもは振り返って、すぐに時次郎のもとへと駆け出していく。純粋に時次郎のことを好きな子どもと純粋には時次郎を愛すことができない、また愛してはいけないと思っているおきぬ。その心理的な落差が、ここでは時次郎までの物理的距離を埋めることができるかできないかの差として顕在化している。さらに時次郎とおきぬのどうしても埋めることができない心理的距離を強調するように、カットが替って、前景に大きく映し出されたおきぬのもとに背後からゆっくりと歩みを進めるも、ある地点まで来たらそれ以上歩み寄ることができない時次郎の姿をわれわれは目撃する。こうして、われわれは時次郎とおきぬのあいだの距離を感じながら、おきぬが苦悩する表情をより切ないものとして受け止めるのである。
 『風の武士』や『沓掛時次郎』のように、一度男の顔を見てから男に背中を向けるという明らかに男の視線を遮ろうとしている女ではないものの、他の加藤泰映画にも男の視線を遮ろうとする女の背中が何度も表象される。たとえば『朝霧街道』(1961)では、昔好きだった男が実は自分のことを好きだったと女が知ったとき、女はその男を文字通り後ろにして、過去にはもう戻れないと後悔を押し殺すような表情を見せながら、男の方には決して振り返ろうとはしない。『車夫遊侠伝・喧嘩辰』(1964)の女は言葉の行き違いから男に川に放り投げられて、その男に不快感を表すよう背を向ける。川に投げられれば、誰だって自然に背を向ける行為ぐらいはするだろう。ただ、その自然な行為が約4分もの長廻しで撮られているという点で不自然であり、ではなぜ、4分ものあいだ女は男に背を向けつづけたかというと、これまた不自然な愛の告白を男が述べ、それからの男の言動が意識せずとも女を振り向かせようとする心的な視線になっているのに対して、振り向くものかという女の意志が彼女の背中に働いて4分もの時間、女は男に背を向けつづけるのである。ここでは結果的に女が男に振り向き、男への愛を表明するのだが、それまでの4分という長廻し、縦の構図のなかに女の背中と男の心的な視線との葛藤をはっきりと看取できる。
 また男の視線を遮る女の背中が加藤泰映画に印象的に見られる一方で、男の視線を感じることのできない孤独な女の背中も存在する。『大江戸の侠児』(1960)のおたか(香川京子)と次郎吉(大川橋蔵)は互いに思いを寄せ合っているものの、次郎吉の優柔不断な行動のせいで、おたかは自分に自信がもてないでいる。ある晩、そんなおたかの心情を知らないで、おたかを放っておいて次郎吉は仲間とともに楽しく飲んでいる。その場面、前景に沈痛な表情を浮かべるおたかが大きく存在し、後景に二人の人物に挟まれて酒を飲んでいる次郎吉が提示されるのだが、ここで前述した作品の男たちと次郎吉が決定的に違うのは、次郎吉は決しておたかに視線を送らないということである。次郎吉は左の方をずっと向いたままで、キャメラがおたかを中心に旋回するあいだも、おたかに視線を送っている気配は見られない。この場面では結局、次郎吉がおたかに視線を送る様子はなく、また送っていたとしてもキャメラは次郎吉に焦点を合わせることが一度もないので判別し難い。いずれにせよ、後景に小さく映る次郎吉に焦点が合っていない時点で、次郎吉がおたかに視線をしっかりと送っていないことは明白であり、おたかをしっかりと見ていない次郎吉は、その後すぐ、おたかと離れ離れになってしまう。こうして加藤泰は縦の構図において、男と女の視線を使って(もしくは使わないで)すれ違いの恋愛を描いて見せてきたのである。

2‐3.襖の向こうの掟

 縦の構図と男女の関係は、男に背を向ける女という文脈のなかだけで語り尽くせるわけではない。
 加藤泰映画の男と女には、帰属する社会の掟に縛られ生きていくケースが多く見られる。その掟はいつも男と女のあいだに障害となって立ちはだかるか、その障害を生み出す元凶となる。たとえば前述した『沓掛時次郎』では、一宿一飯の恩に報いなければいけないという、やくざ社会の掟が時次郎に恨みのない男を殺すよう要請し、そのことが結果的に男の妻おきぬと時次郎のあいだの障害となる。「掟では許されない恋愛、男と女のいちばん美しい瞬間にどうしても突入してしまう。掟にそむいて、そこへ突入した男も女も苦しんだり悩んだり、それにぶつかってじたばたする。そのとき、いちばん美しい顔をします。僕はそう信じる。いちばんいい姿をします。僕はそう信じる[39]」。加藤泰は障害を抱えながらも、恋に落ちる男女に特別な視線を送り、その二人がいちばん美しい姿を見せてくれると考えていた。以下に論じる『明治侠客伝・三代目襲名』(1965)の男と女もそんな掟に縛られた人間であり、二人は自由な恋愛が許されていない。けれど、二人は惹かれ合っていく。そして、そんな二人が愛し合う場面、加藤泰が美しい瞬間と語る場面を、加藤泰は縦の構図によって描いて見せる。
 この映画の男と女は渡世人浅次郎(鶴田浩二)と女郎の初栄(藤純子)。浅次郎は重症を負った親分の面倒を見て、一家を支えなければならず恋愛には消極的で、初栄もまた自分が女郎であることに負い目を感じ、本当の恋愛なんかできないと考えている。加藤泰はそんな二人が徐々に惹かれ合っていく様子を、クロースアップ、切り返しショットによって表現し、二人が愛し合う瞬間へとわれわれを導く。
 初栄がいる女郎屋で浅次郎は初栄に暴力を振るう男から彼女を助ける。初栄は自分のことを本気で気に掛けてくれる浅次郎に心底惚れ、抱きつく。浅次郎もまた重症の親分を放っておくことはできないという思いはあるものの、初栄と離れることはできない。障害を抱えた二人がこれから愛し合おうとする美しい瞬間である。ここで凡庸な監督ならば男と女が愛し合う瞬間に、二人の内面が表出したような顔の表情をクロースアップで撮って、二人の恋愛がいかに素晴らしいものであるかを伝えようとするだろう。だが、加藤泰は使い古されたクロースアップは使用しない。いや、こういったほうが正確だろう。加藤泰はクロースアップを使うが、男と女の顔はとらえないと。加藤泰が撮ったクロースアップの前面には浅次郎と初栄の顔ではなく、格子窓が存在する。前景に格子窓、後景に浅次郎と初栄という縦の構図で撮られたそのショットでは、二人の前に存在する格子が邪魔になって、二人の顔はほとんど見ることができない。同時代の映画にしばしば観察された、前景が後景を覆う演出。その演出が転落への道を歩む二人を予感させる。それまで建物内部から二人をとらえていたキャメラは、二人が愛し合う瞬間になって、建物の外から格子窓を通して二人をとらえる。その格子越しの二人のショットは、まるで浅次郎と初栄の恋愛は女郎屋のなかだけの幻想的な恋愛で、外の世界では決して成就しない恋愛だと暗示しているかのようであり、理想と現実を取り違えて、愛し合う二人は掟を破るという罪を犯し、囚われているかのような感覚をわれわれに喚起させる。何かこれから二人の未来に不吉な影が迫っていることを暗示させるショットであることは間違いない。案の定、二人が愛し合うその夜、浅次郎の親分は亡くなり、浅次郎は親分の最期に立ち会えないという罪を犯してしまう。初栄も浅次郎を引き留めたばかりに浅次郎に迷惑をかけたという罪を犯す。だが、こうして加藤泰が格子を使って二人の罪を暗示させていたからこそ、ひとときでもいいから愛の悦びに浸ろうとする男女を、罪を犯してまで愛し合おうとする男と女を、われわれは美しくも儚い存在として認めることができ、その二人の恋愛に感動できるのである。それは何の策略もなくクロースアップで愛を語ることしかできない凡庸な監督では、表現しえない美しい瞬間である。
 男と女の重大な場面に二人を引き裂く力(掟)を包含させた演出は『瞼の母』(1962)にも見られる。『瞼の母』では、これまで述べてきたような男と女の正統な恋愛ではなく、母と子の親子愛が焦点となる。
 5歳のときに生き別れてから20年、子である番場の忠太郎(中村錦之助)は母との再会をこのうえない喜びとして待ち望んでいた。だが、そんな子の気持ちとは裏腹に母のおはま(木暮実千代)は料理茶屋の女将として娘とともに裕福で幸せな暮らしを送っていて、今の環境を守るということしか頭にない。二人の愛を邪魔する掟とは女将であり結婚を控えた娘の母であるおはまの身分や立場が要請するものであり、二人の再会シーンにおいて、その「掟」は女将としてのおはまを象徴する「使用人」と娘の母としてのおはまを象徴する「雛壇」によって暗示される。掟を前にした母と子は『明治侠客伝』の男と女と違って思いを通わせることすらできない。加藤泰はその再会の場面を、掟を前にしてどうすることもできない二人の美しくも悲しみに満ちたシーンにするため、その掟を常に二人の背後に提示しつづける。そして、掟は母と子を監視しながら、二人を映像通り縛ってしまうのである。
 すなわち襖で仕切られた畳の部屋に忠太郎とおはまがいる。二人の話が始まると、多くの「使用人」が興味津々に手前の廊下までやってきて、襖越しに話を聞こうとする(図14)。それからキャメラは使用人がいるほうの視点から部屋のなかを映し、縦の構図でもって、前景に対面して座る忠太郎とおはまを、後景にはおはまの娘との幸せな生活を思わせる「雛壇」を提示する(図15)。こうして掟(雛壇、使用人)が忠太郎とおはまの再会の場に揃ったところで、ここから二人を引き裂く力(掟)と二人が近づこうとする力(忠太郎の母への思い)の拮抗をおさめた加藤泰の演出が冴えを見せる。以下の場面でわれわれは、自分が忠太郎であることを何度もおはまに訴えかける忠太郎と、それに取り合おうとしないおはまの激しいやりとりを、わずかなカッティングを挟みながら、約5分30秒もの長廻しで、文字通り途切れることのない映像として享受するのだが、その途切れない映像によって、われわれは二人の後景に存在する雛壇を視界に入れつづけることになる(忠太郎かおはまをシングル・ショットでおさめるなら、雛壇はわれわれの視界には入らない)。つまり忠太郎のおはまに対する20年にわたる思いを打ち消すように、後ろで掟=雛壇がおはまを監視しているのである。その掟=雛壇の監視は、忠太郎が涙ながらの訴えを見せて、それを見たおはまが目の前にいる男は忠太郎ではないかと動揺しはじめても、消え去ることはない。
 忠太郎から涙が溢れる様子をキャメラがクロースアップでとらえると、キャメラは忠太郎の言葉にできない悲しみを彼の背中を旋回することで表現する。約5分30秒の雛壇を後景におさめた長廻しが終わり、おはまが忠太郎に歩み寄るかに見えた瞬間、180度反対の位置まで旋回してきたキャメラが、今度は二人の奥に、襖の向こうにいる不可視な「使用人」の存在をとらえる(図16)。このシークェンスのはじめに二人の話を盗み聞きしにやってきた多くの使用人は、不可視ではあるものの襖の向こうに確かに存在しているはずであり、おはまが忠太郎に心を許し始めているときに、またもや掟を暗示するもの(=使用人)が二人の背後に屹立するのである。まさしく二人のいる空間は掟に支配されているのである。
 さらに使用人には掟を観客に意識させることだけではない、むしろ、それ以上に重要な役割があった。とはいっても、使用人が特別何かをすることはないし、キャメラが使用人の姿をとらえることもない。キャメラは襖を背景に忠太郎とおはまのやりとりをフィックスと約3分つづく長廻しで、ただ撮っているだけである。だが、その不動のキャメラこそが通常ではありえないキャメラの動きなのである。というのも他の映画の類似する場面では、通常カッティングによって部屋(家)の中と外を交互に見せ、中の様子を見るなり聞くなりした人物の反応を観客に認知させるという演出がなされる。加藤泰もまた、四年前に撮った『緋ざくら大名』(1958)で、家の中と外を交互にカッティングで見せる演出を行っている。その場面では家の障子戸に圧力をかけて中の様子を必死にうかがっていた外にいる大勢の人物が、最後には障子戸を破って家の外と中の境界を侵犯してしまうという演出がなされていた。だが、『瞼の母』では加藤泰は、部屋の外にいる使用人の反応を見せることはしない。いや、正確にはこういったほうが正しいだろう。加藤泰は部屋の外にカットを切り替えて、使用人の反応を見せることはしないと。なぜなら、われわれは部屋の中を映した長廻しのショットで襖の向こうから物音一つ聞こえてこないという「使用人の反応」を享受しているからである(縦の構図において、キャメラに映らない場所に人物がいたとしても、その人物に演技を求めたと言われている加藤泰は[40]、この場面では、襖の向こうにいる使用人役の役者に物音一つ立てずに静観しろという演技を求めていたに違いない)。そして、その「使用人の反応」は、ひたすら長廻しとフィックスで撮られる忠太郎とおはまのやりとりが、ひとときも視線をそらすができないほど緊張に満ち溢れていると言わんばかりに、われわれにその場の緊張感を伝達する。また息を凝らしてその場を注視している(であろう)不可視な使用人は自己言及的にこれから迎えるドラマのクライマックスを観客に暗示させ、観客の精神的なクライマックスをそこに誘導しようとしているかのようでもある。
 いずれにせよ、われわれは高まる緊張のもと、忠太郎とおはまが親子でありながら親子には戻れない悲しい瞬間を目撃する。おはまの掟がやくざの忠太郎を息子として認めることを許さなかったのである。この場面の最後、忠太郎が襖を開けて出ていくときに、掟の象徴である使用人が確かに襖の向こうにいたことが明らかになる。われわれは使用人がスクリーンに可視的に再登場するまで、その使用人と同じく、忠太郎とおはまのやりとりを、一瞬も目をそらすことができないほど、息を凝らして見つづけるのであった。

2‐4.前景と後景の齟齬

 男に背を向ける女に見られる「男の視線」や、忠太郎とおはまの再会に見られる「使用人の視線」など、加藤泰は縦の構図のなかで、登場人物の視線を利用して劇的な演出を行ってきた。こうした縦の構図における登場人物の視線は男と女の文脈から離れても物語上重要な役割を果たす。
 不可視な人物の視線を描いた『瞼の母』の翌年に撮られた映画、『真田風雲録』(1963)を見てみよう。本作品にも従来の加藤映画と同様、男と女の恋愛が描かれ、縦の構図はその二人をフレームにおさめる。だが、本作品の縦の構図は男と女の恋愛を劇的に表象するために用いられるのではない。縦の構図は、加藤幹郎が合戦場面について「ミュージカルの機械的振付をことさら強調し、本来的に荒唐無稽な忍術戦をリアリズムを度外視した手法で描きだした[41]」と語るように、どこまでも荒唐無稽を推し進めたような映画の軽快なリズムを強調するために利用され、そして、そこに登場人物の視線が有機的に機能する。
 大阪城で豊臣家の重鎮たちに混じって真田幸村(千秋実)が戦略会議に参加する場面がある。前景に幸村がいて、後景では重鎮たちが白熱した議論を展開させる。ただし白熱した議論といっても、それはうわべだけのもの。幸村は画面手前で、そうした重鎮たちの体裁だけを意識したような議論にあきれ果てる。幸村は「自分たちのために戦う」、「かっこよく死にたい」ということを標榜して徳川との戦に望んでいて、幸村の悩める表情は、後景で小さく映る重鎮たちの発言をより軽薄なものとして、われわれに印象づけている。だが本作品の荒唐無稽さは、そうした体裁だけを重んじる重鎮たちに向けられるのではない。重鎮たちの発言に悩める表情を浮かべ、「かっこよく死にたい」と語る幸村にこそ荒唐無稽さは依拠するのであり、加藤泰はそれを登場人物の視線によって強調する。
 豊臣家の会議では前景に位置し存在感をはなっていた真田幸村。その幸村は、自らの家臣である真田十勇士の前で戦への決意や戦略を語るときには、後景に追いやられてしまう。物語序盤で、真田幸村隊が結成された場面を見てみよう。加藤泰は前景に横たわって正面を向いた主人公佐助(中村錦之助)を大きく提示し、後景に幸村と家臣を配置し、佐助に思いを寄せるヒロインのお霧(渡辺美佐子)を佐助と幸村のあいだに配置する(図17)。後景の幸村はこれからの戦を分析して、家臣に解説しているのだが、その発言がわれわれの印象にあまり残らない。というのも前景で存在感のある佐助は目を閉じて、聞いているのか聞いていないのかわからない状態だし、佐助の後ろにいるお霧は話をしている幸村ではなく前景の佐助のほうばかりに視線を送っていて、お霧の視線が前景の佐助へとわれわれの視線を誘導するからだ。こうして生じる、前景(佐助)と後景(幸村)の齟齬はこのあとさらに顕著になる。
 物語中盤で幸村が戦略を説いている場面では、前景に佐助とお霧がいて、後景に幸村がいる(図18)。幸村の話が始まると、二人は顔を合わせ、何か話し込んでいる雰囲気を醸成する。目を合わせたままの二人は、幸村の語る言葉には全く関心を示さない。佐助は人の気持ちを読むことができる荒唐無稽な能力をもっているので、ここで二人は発話によってではなく心で会話しているわけなのだが、観客は前のシークェンスの流れから、お霧が佐助の子を身ごもったという事実を知っているだけに、お霧が話をしているであろう妊娠の事実に佐助がどのような反応を示すのかを興味を持って見つめる。向かい合った二人の視線はこの映画でも切り返しショットによって回収されるのではなく、スクリーン内にその存在を強く残したまま、われわれの視線が後景の幸村に伸びていくのを妨げるのである。
 幸村がどれだけ「自分たちのために戦う」、「かっこよく死にたい」と宣言してみたところで、主役二人からも、われわれ観客からも無視される幸村には滑稽さだけが強く印象付けられる。じっさい、「かっこよく死にたい」と願った幸村は、徳川の兵士から「これが真田幸村か」と嘲笑され、あげくのはてには、死体の足に躓いてその死体が握っていた刀に刺さって死ぬというあまりに惨めな死に方をする。佐助とお霧の視線が、「かっこよく死にたい」と願っていた幸村の荒唐無稽な願望と現実の死との落差の大きさをアイロニカルに描き出していた。

3.まとめ

 パン・フォーカスが困難になったスコープ映画で、多くの監督は焦点の問題に関係なく、奥行きを利用した演出を実践していった。代表的な演出のなかでまずあげられるのが、スコープ映画になって新規に見られるようになった「大きな前景」である。その大きな前景は後景との遠近感を出すのに有効であり、同時に人物の表情によってその人物の心理を表現するのにも適していた。また、スタンダード時代に用いられてきた「人や物の重なり」や「フレーム内フレーム」といった演出もスコープ映画で観客に奥行きを想像させるのに欠かせない演出だった。人、物の重なりはサスペンスや緊張を観客に喚起させ、フレーム内フレームはそのなかにおさまった何かに観客の視線を導く役割も担っていた。つまり、以上の三つの演出(大きな前景、人や物の重なり、フレーム内フレーム)は、ただ単に奥行きを創造するだけでなく、物語を効果的に語るのにも機能していたのである。
 そんな複数の特長を持ち合わせた三つの同時代的演出を加藤泰もまた利用してきた。なかでも、加藤泰の「大きな前景」を用いた演出は、そこに加藤泰的と見られるオリジナリティーが内包されていたという点で特筆すべき演出である。人物の表情で物語を語る傾向にあった同時代の監督たち。だが、加藤泰は縦の構図で大きな前景を用いながらも、人物の表情だけで物語を語ろうとはしなかった。加藤泰は人物の身振りや視線を積極的に活用した。特に「人物の視線」は、女の背中に遮られる男の視線や男と女を見つめる不可視の視線、後景の人物をさえぎる前景の人物の視線などさまざまな用途で使われ、その都度、物語上効果的に機能していた。また、加藤泰の「視線」への追求は、映画内の人物だけに留まらず、映画外の人物、観客にも及んでいた。加藤泰は観客の視線をいかに楽しませるかということも意識して演出していた。他の監督の映画でもしばしば目撃されるようなありきたりの場面を、彼は雛壇的な意匠を施した縦の構図で変奏し、観客に視覚的な悦びを享受させていたのである。
 こうして加藤泰は、映画の内と外の人物の視線に関心を向けてきた。そして、加藤泰は映画内の奥行きのある空間のなかで登場人物の視線をいかに張り巡らすかという、視線の設計によって、人物の複雑な心情、物語の性格を精緻に描ききったのである。


(本稿は京都大学大学院人間・環境学研究科に2006年度提出された修士論文の一部を改稿したものである。)

[1]46作品という数値は『剣難女難』二部作を『剣難女難・女心流転の巻』と『剣難女難・剣光流星の巻』を別けて数えたものである。また加藤泰の遺作について、『ざ・鬼太鼓座』は『炎のごとく』の前にクランクインし、クランクアップされたが、完成したのは『炎のごとく』の後になるので、『ざ・鬼太鼓座』を遺作とする。
[2]こうした問題が引き起こされる理由として、真っ先にあがるのが加藤泰のローアングルである。彼のローアングルは穴を掘ってそのなかにキャメラを据えるため、時間もかかり、またコンクリートの地面ではなく土の地面を必要としたため、スタジオの回転率の悪さから予算をオーバーする結果となった。詳しくは、筒井武文「加藤泰の撮影術あるいはローアングルの戦い」『加藤泰 女と男、情感の美学』(ビターズ・エンド、1994年)、25頁を参照。
[3]アナモフィック・レンズは、撮影では撮った映像をフィルムに合うように圧縮縮小し、上映では圧縮した映像をワイドスクリーンのサイズに合うように拡大する。スティーブ・ジェラード、バリー・キース・グランド、ジム・ヒリヤー、杉野健太郎他監訳『フィルム・スタディーズ事典』(フィルムアート社、2004年)、15頁に詳しい。
[4] David Bordwell, On The History of Film Style (Harvard University Press, 1998), p. 237.
[5]『映画技術』69号、17頁。
[6]吉村公三郎「スタンダード映画から大型映画までの可能性」『キネマ旬報』1962年12月上旬号、48頁。
[7]山口猛編『映画撮影とは何か―キャメラマン四〇人の証言』(平凡社、1997年)182頁。
[8] Bordwell, pp. 238-239.ボードウェルは前景がクロースアップの場合について言及している。
[9]ワイドスクリーン第一作目の『源氏九郎颯爽記・濡れ髪二刀流』(1957)はアナモフィック・レンズを使わない、普通に撮って拡大映写するスーパースコープと呼ばれるもので、縦横比は1:2でシネスコサイズとは異なる。
[10]「生誕八十周年記念 監督加藤泰」『映画芸術』1996年夏号、112頁。
[11]同上。
[12]加藤泰の縦の構図とは、はっきり記されていないが、加藤泰の奥行きを利用した演出について、渡辺武信「ヒューマニストの活動屋魂」『加藤泰研究・第一号』(北冬書房、1972年)や山根貞男「心情の破綻と主人公の転倒」『加藤泰研究・第二号』(北冬書房、1972年)は、作品の一場面を取り上げ、詳しく分析している。だが、加藤泰の縦の構図の全貌を明らかにするまでに至っていない。
[13]あまり知られていないが、『市民ケーン』以前に、溝口健二がパン・フォーカスによる演出を行っている。吉村英夫「『祇園の姉妹』と溝口健二の先駆性」『溝口健二集成』(キネマ旬報社、1991年)、204頁に詳しい。
[14] Bordwell, pp. 226-228.
[15] Ibid., pp. 233-235.
[16]黒澤明の望遠レンズを利用したパン・フォーカスの演出については山口、40頁や都築政昭『黒澤明と『用心棒』―ドキュメント・風と椿と三十郎―』(朝日ソノラマ、2005)、40頁などを参照。
[17]パン・フォーカスを実現するには、通常の照明の8倍もしくはそれ以上の16倍もの量が必要だったと言われている。詳しくは塩沢幸登「撮影・斎藤孝雄」『KUROSAWA・撮影現場+音楽編』(河出書房新社、2005年)、230-231頁を参照。
[18]同上、232頁。
[19]同上、227頁。
[20]松田定次「大型映画・その魅力はあとへ退けない」『キネマ旬報』1957年6月下旬号、50頁。
[21]登川直樹「伝統の重みとスタンダードの魅力」『キネマ旬報』1962年12月上旬号、40頁。
[22] David Bordwell, Janet Staiger and Cristin Thompson. The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960 (Columbia University Press, 1985), p. 361.
[23]松山崇「大型映画における映画美術の考え方」『キネマ旬報』1957年6月下旬号、45頁。
[24] Bordwell (1998), p. 178.
[25] David Bordwell, The Way Hollywood Tells It: Story And Style in Modern Movies ( University of California Press, 2006), p. 133.
[26] David Bordwell, Figures Traced in Light: On Cinematic Staging ( University of California Press, 2005), p. 27.
[27]常石史子「シネマスコープの時代(下):作り手の眼 キャメラマン・高村倉太郎氏インタビュー」『NFCニューズレター』(東京国立近代美術館フィルムセンター、2001年10−11月号)、6頁。高村はスコープ映画の一番の悩みが画面の歪みだと述べていて、ロングのときはいいが、アップで撮るとき、画面の歪みが顕著になることを告白している。
[28]同上。高村の話によると、日本ではパナビジョンのアナモフィック・レンズを買い取ることができなくて、すべてレンタルする仕組みになっていた。ただ、そのレンタル料が高騰だったため、予算の大きい、ごく一部の作品でしか、レンタルできなかった。
[29]同上。ここでは、プロクサーという機械をレンズの前につけたり、レンズの前につけていたアナモフィック・レンズを後ろにつけたりといった技術的工夫が高村の口から紹介されている。
[30] Bordwell (2006), p. 133.
[31] Ibid.
[32] Roger Ebert and Gene Siskel, The Future of the Movies: Interviews With Martin Scorsese, Steven Spielberg, and George Lucas (Andrews and McMeel, 1991), p. 73.
[33]小林節雄「スタンダード映画から大型映画までの可能性」『キネマ旬報』1962年12月上旬号、49頁。
[34] Bordwell (2006), p. 134.
[35]ここで述べた、フレーム内フレームをボードウェルは“aperture framing”と呼び、そのaperture framingは人物の動きや、中心化といった演出の助けを借りて、観客の視線を誘導したとボードウェルは指摘している。Bordwell (1998), p. 180.を参照。
[36]継承されてきた奥行きを観客に想像させる演出について他に、ピント送りという技法がある。ピント送りとはワン・ショット内である地点から別の地点に焦点を移動させる技法のことを言い、1941年のパン・フォーカス以前から見られたものだが、パン・フォーカスが困難なワイド、カラー映画時代に、ピント送りは多くの映画製作者に積極的に活用された。前景から後景、後景から前景に焦点が移動することで、観客はそこに奥行きを想像することができた。
[37]蓮實重彦「加藤泰の『日本侠花伝』」『シネマの記憶装置』(フィルムアート社、1979)、222頁。
[38]加藤泰「ヤクザ映画について」『遊侠一匹 加藤泰の世界』(幻燈社、1970年)、89頁。
[39]加藤泰(1994)、204頁。
[40]鈴木則文「人間 加藤泰」『世界の映画作14 加藤泰・山田洋二編(改訂増補版)』(キネマ旬報社、1975年)、52頁。
[41]加藤幹郎「殺陣の構造と歴史」『時代劇映画とはなにか』(人文書院、1997年)、177頁。