サチーレ、ヴェネチア共和国の庭で無声映画を

今井 隆介

 イタリアのヴェネチアから北東へ約65キロ(鉄路で約1時間)、オーストリアとの国境へ向かう街道の途中にサチーレという小さな町があるのをご存知だろうか。ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ、ナポリなど、イタリアには世界的に有名な都市や観光名所が各地にあるが、サチーレを知る人はそれほど多くはないだろう。
 人口2万人弱。木工家具の生産が盛んで、家具工房からピアノメーカーに転じ、世界最大のグランドピアノ[1]を手づくりしているファツィオリの本社工場があるから、ピアノに詳しい人なら耳にしたことがあるかもしれない。しかし町並みが世界遺産に登録されていたり、有名な芸術作品を展示していたりするわけでもないから、観光でサチーレを訪れる旅行者は少ないにちがいない。豊かな田園と湖水に恵まれ、町の中心に改築なった立派な教会堂がある点でも典型的なヨーロッパの田舎町といってよいが、サチーレは一時的に世界中から「巡礼者」が集まる「聖地」となったことがある。ポルデノーネ国際無声映画祭が開催されることによって、世界中から第一線の映画学者やその卵そして/あるいは無類の映画ファンがサチーレをめざしてやってきたことがあったからである。

世界で一番幸せな祭典
 
ポルデノーネ無声映画祭は、映画がまだトーキー化されていなかった時代、すなわち1890年代ごろから1930年代ごろまでに製作された無声映画だけを上映する国際的な催しである。サチーレの東隣にある2回りほど大きな町ポルデノーネで毎年10月に開かれていたのだが、主要会場の古い劇場が改修されることになり、工事が完了するまでの期間、すなわち1999年から2006年までの間、ここサチーレで無声映画祭は開催されることになったのである。
 筆者がこの国際無声映画祭に参加するためにサチーレを訪れたのは2001年のことで、9月に発生したアメリカ同時多発テロ事件後、予約していた航空会社が倒産に追いこまれ、土壇場で他社に切りかえたことが思いだされる。無声映画祭はサチーレに移って3年目、20周年の節目を迎えており、数少ない現役の活動弁士・澤登翠による「弁士ショー」を含めた日本映画特集と、アフリカ系アメリカ人映画作家の先駆者オスカー・ミショー[2]の特集が組まれていた。無声映画祭に関する予備知識は正直なところほとんどなかったのだが、こんなにすばらしい国際映画祭が他にあるだろうかというのが筆者の第一印象であった。
 上映される作品はどれも世界映画史上貴重な遺産というべきものばかりであり、一流のピアニストによるすばらしい生伴奏は、映画祭が同時に音楽の祭典でもあることを教えてくれる。観客の質の高さも世界一にちがいない。世界一の映画愛好者たちとともに、アドリブで演奏される音楽に酔いしれつつ、連日10何時間も無声映画を浴びるように観る。往年の傑作の復活を祝福し、失われたとされていた幻の映画の発見を喜び、その発見と保存、修復に尽力した人々の功績をたたえあう。そして初期映画学会の年次総会が開かれ、期間中、若い映画研究者たちのシンポジウムが毎日開催される。これがポルデノーネ無声映画祭の醍醐味である。
 映画研究を志した筆者にとって、無声映画祭で見聞きしたことはかけがえのない宝物となっているが、それらはすべてサチーレという町の記憶と一体となっている。そして最初の滞在以来、ポルデノーネ無声映画祭とはまた別に、サチーレの町そのものが恋しくてしかたがないようになってしまったのである。

ゆく水清きサチーレ
 無声映画祭が開かれなければ生涯訪れなかったかもしれないヨーロッパの小さな町だが、サチーレには他の町にはない静けさと美しい水の流れがある。サチーレはアルプスから流れ出てアドリア海に注ぐリヴェンツァ川の中流域にあり、教会堂のある町の中心部は川の流れに囲まれて小さな島になっている。豊かに流れる水は清らかで、川底に生い茂った長い水草がゆったりと漂っている。無声映画祭でサチーレにやってきた者は誰もが心の中でこうつぶやいたにちがいない。「まるで『惑星ソラリス』[3]のようだ」と。映画ファンでなくとも川辺をそぞろ歩きし、アーケードをくぐりながらウィンドウ・ショッピングをし、藤棚の下で食事をしてワイングラスを傾ければ、誰もがサチーレの虜になってしまうだろう。都会の喧騒を離れて、ゆるく流れる時間を楽しみたい人にはうってつけの町なのである。
 もともとサチーレの水に「癒し」を求めたのは中世のヴェネチア商人たちも同じだったらしい。サチーレが所属するフリウリ=ヴェネチア・ジュリア州は、1866年にオーストリアからイタリアに割譲された地域であり、州都のトリエステはオーストリア帝国の外港として栄え、第一次世界大戦後にイタリアに編入されたという歴史をもつ。全体的にローマよりウィーンに近い地方といえるが、しかしサチーレはそのなかでも西の端に位置し、他のどこよりもヴェネチアとのつながりが深い。
 中世のヴェネチアはたしかに一大商業都市として栄えていたが、夏には淀んだ水路が悪臭を放ち、蚊も大量に発生する。さすがに耐えがたいものがあったのだろう。ヴェネチア商人たちは、海上の人工島とはちがって澄んだ水が豊かに流れるサチーレに資金を投じ、町を保養地として築きあげた。町中がしっとりと落ちついているのは、豪商たちの別荘地だった伝統が今も息づいているからかもしれない。整備された水路と美しいアーチが並んだ建物のとりあわせはたしかにヴェネチアを彷彿とさせるし、「小ヴェネチア」「ヴェネチア共和国の庭」と呼ばれていたころの風情は今でも町のそこかしこで感じることができる。

切り裂かれる青空
 サチーレは映画上映中、教会の鐘の音が館内にまで聞こえるほど静かな町なのだが、屋外にいるとき不意にジェット機の爆音を聞くことがある。見あげると青空に白い飛行機雲が旅客機の何倍もの勢いで伸びていく。どうやら軍用機らしい。調べてみると、サチーレから北東へ約10キロのところに地中海地方で最大規模の米軍基地があり、ボスニア紛争(1992年〜95年)やコソボ紛争(1998年〜2000年)にNATOが軍事介入したときには、最前線の空爆基地として使用されたという。一機でさえ爆音が響き渡るというのに、爆撃機の編隊が離発着を繰り返したら一体どんな騒音になるのだろうか。無声映画祭の開期中に大規模な空爆が実施されたことはなかったようだが、空軍基地があるかぎり、サチーレの静寂は上空からかき乱され続けるのである。
 隣国で凄惨な民族紛争が勃発し、NATOによる軍事的制裁が行われているときに、無声映画祭の開催だの鑑賞だのと、太平楽にもほどがあると思われる方もあるだろう。しかし、今や貴重な文化遺産となった無声映画をそうした戦火から守り、後世に受け継いでいくこと、無声映画の明かりを点し続けることもまた、文化や芸術や歴史を灰燼に帰してしまう蛮行に対する挑戦なのである。


[1]グランドピアノの奥行きの長さは通常275センチ前後だが、ファツィオリ社の最大モデルは308センチある。
[2]1918年から48年にかけて50本近い「黒人劇場専用映画」の製作にたずさわったアフリカ系アメリカ人映画作家の草分け的存在。その作品と功績については加藤幹郎『映画とは何か』(みすず書房、2001年)に詳しい。
[3]スタニスワフ・レム原作、アンドレイ・タルコフスキー監督作品。1972年度カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞。未知の惑星ソラリスの力によって、自分の意識や記憶を触知可能な物体として突きつけられることになった科学者の苦悩を描く、哲学的SF映画の金字塔。全編に「水の主題系」が満ちあふれ、惑星ソラリスじたい大洋におおわれている。

小論は『人環フォーラム』第22号に掲載された拙稿の改訂版である。