創造的映画批評 

――蓮實重彦著『映画崩壊前夜』(青土社、2008年)書評

加藤 幹郎

 「映画崩壊前夜」というなにやら不穏な空気につつまれた題名をもつ本書は、しかし映画の漸進的崩壊を預言している書ではない。それどころか本書もまた従前の蓮實重彦の映画批評とたがわず、映画の現在形をして映画史を刷新させようとする断固たる決意のもとに著されている。著者はすでに20年以上も前に『映画はいかにして死ぬか』という過激なタイトルの書物を世に送りだしながら、映画史がつねに刷新可能な可能態の産物であることを証明している。
 映画の発明者とみなされているリュミエールが「映画は未来のない発明である」といった言葉をのこして、20世紀初頭、早々と映画界を引退するが、映画は遅くとも1930年代初頭には巨大産業に発展している。本書『映画崩壊前夜』の冒頭で言及されるゴダールが1960年代初頭、自作映画のなかで上述のリュミエールの言葉を引用するときにすら、映画産業はテレヴィ産業との競合において存亡の危機が囁かれていた。しかるにテレヴィにとってかわってインターネットが普及した21世紀においてもなお「映画は未来のない発明である」という映画史最初期の命題は試されている。
 インターネット上のサイトにおいてはアマチュア映像作家の手によって膨大な動画が時々刻々オンラインされつづけているが、それはまるで映画史最初期を思わせるような活況ぶりである。映画史最初期においては映画を製作する者は誰でも否応なくアマチュア映画作家であった。しかしこの2種類のアマチュアは明らかに大きな質的差異をかかえこんでいる。前者はあくまでも後者に(これまでの映画史の展開に)大きく依存しているからである。
 たしかに映画史は幼年期を終えたが、そこに未来の兆しは宿さないのだろうか。仮に映画館が歌舞伎座やオペラ座のように稀有な存在になったとき、映画の命脈は閉ざされるのだろうか。
 蓮實重彦が過去40年間、映画史上における旧作映画の再定位、映画史の再分節のみならず、つねに同時代の最新作映画を批評しつづけてきたことは周知の事実であり、そのことについてあらためて贅言をつくすにはおよばないだろう。彼は神なき世俗社会のなかで映画芸術の意味の震えについてつねに斬新な見方を提示しつづけてきた。
 映画史にかかわるためには不断に新作映画を論じながら、同時にそれを梃子に旧作映画の読み直しをはからねばならない。新旧両映画の並行回路をつくること。それが1世紀以上の歴史を閲した現在進行形の文化商品にたいしてとるべきひとつの態度である。『映画崩壊前夜』は基本的に新作批評の体裁をとっているものの(50本以上の新作映画を論じながら)、よくある時評とは似ても似つかぬ創造的な批評集となっている(批評とは本来、創造的なものである)。
 それにしても40年もの長きにわたって、旧作映画の発掘と再評価を進めながら、同時に同時代の新作映画の表層と肌理をまさぐりつづけてきた映画批評家とはいったい何であろうか。おそらく既成の映画史にたいする彼の抵抗は敬意に値すると言うだけでは不十分であろう。映画の現在を長期間見すえてつづけてきた結果、彼が独自の映画史観を養ってきたことをこそ評価すべきであろう。
 むろん映画批評家と映画史家とは異なる。しかしながら、あらゆる種類の映画史は1本の映画作品から出発する以上、1本の映画作品の軽重をはかる映画批評家の仕事は重大である。映画作品の不可思議な肌理を徹底して究明すること。それが映画批評家に課せられた任務であり、そこから長大な映画史がゆっくりと立ちあがる。そしてここに映画史の輝かしい未来の里程標を打ちだした比類なき映画批評家がいる。わたしは蓮實重彦という名のその映画批評家を賞讃したいというよりも、彼と同時代に生まれた幸運をこそかみしめたい。

小論は『週刊読書人』(2008年9月5日号)に掲載された拙稿の改訂版である。