映画学入門書とはいかにあるべきか

――藤井仁子編著『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院、2008年)書評

加藤 幹郎

 本書はおおむね満足すべき水準に達した映画学入門書である。類書が数多く出版されているなかで本書に収録された論文の大半はそれ自体おもしろい仕上がりとなっている。しかしながら30代半ばの若い執筆者たちの仕事にしてはいささか保守的であると言わねばならない。というのは本書においては映画の経験とそれを語る言説が、既存の概念規定や世界史上特筆すべき出来事などとの関連から構成されねばならないとする立場が採られているからである。たとえばCG映画がC・S・パースの記号学と結びつけられたり、2001年以降のアメリカ映画が9・11事件との関連から説明されたりするのだが、新しい「映画講義」の「入門書」がそのような類書の立場を踏襲するのは残念なことである。なぜなら、そのような既存の立場を反復することで、本書は「現代ハリウッド映画」それ自体のおもしろさを説得的に解明しようとはしないからである。それどころか本書でとりあげられるのは『ロード・オブ・ザ・リング』3部作とか『スパイダーマン』シリーズとか『マイノリティ・リポート』といった、有名ではあるが、それ自身では映画史を満足させる質的水準に達していない映画が大半である。
 なるほどガス・ヴァン・サントのリメイク版『サイコ』の存立の不可解さを、F・ジェイムスンのポストモダニズム論に接木して説明する試みは興味深い。しかし、それではリメイク版『サイコ』それ自体のおもしろさを映画史の文脈で語るべき映画学者の責任はどこに行ってしまうのだろうか。映画的テクストひとつひとつの充実ぶりが、外部の一般理論の概念的流用なしに、映画史と映画理論の内部で説明されなければ、映画学はしょせん他領域の理論的成果の補完者として終わるしかない。それでは「映画講義」はいつまでたっても独り立ちできない。独り立ちできないような批評=学問領域に「入門書」など必要あるまい。
 上述のような立場の範例は、本書とは別に、たとえばS・ジジェクの『ブレードランナー』論に見出せる。目のつまった映画的テクストの現実に盲目的な(そして映画史にたいして驚くばかりに無知な)ジジェクの精神分析的読解は、ヒッチコックのような映画史的事件と言うしかない傑作の数々に適用されれば、なおさら牽強付会の謗りをまぬがれない。大文字の理論を映画的テクストに充当するひとびとは金太郎飴のようにつねに同じ結論に達して飽きることがない。映画的テクストひとつひとつの個性はなんらかの「普遍主義的」概念に還元され、すべては同じひとつの顔に塗りつぶされる。じっさい映画学会の大会や論文もしばしば流行の一般理論の流用に汲々とし、その結果、映画史と映画的テクストの双方を満足させられる映画の内的論理それ自体の鍛造はおろそかにされる傾向にある。
 本書に不満がのこるとすれば、それは「映画によって映画史を再記述すること」にも、また映画史によって映画を記述することにも大半の論文が十分成功していないという点にある。たとえば本書収録のある論文は、『ファイト・クラブ』のDVDに付加された監督の音声解説トラックが映画のホモエロティシズムを希薄化させ、観客のホモフォービアを慰撫し、それによって商品の需要拡大を狙い、結果として映画的テクストの多様な解釈を限定していると指摘する。しかしながら「作者の意図」の流布が映画的テクストの多様な読解とは相容れがたいことは解釈史上、周知のことである。重要なことは、「作者の意図」をふくめた複数の読みの妥当性をどのように按排するかということにある。しかるに読みの妥当性を決定する基準は、この場合、映画的テクストと映画史的文脈の相関性のなかにしかないのである。
 映画学入門書とはいかにあるべきかという問いは、編者が映画学者であるかぎりにおいてつねにつきまとわざるをえないであろう。
 なお本書のなかでテキサス大学オースティン校の著名な映画学者がトマス・スキャッツと表記されているが、これはトマス・シャッツとでも表記すべき名前である。本人から直接聞いた発音であるからまちがいない。

小論は『週刊読書人』(2008年5月2日号)に掲載された拙稿の改訂版である。