海のように忘れる(ことのない)フィル

――寺山修司「消しゴム」の主題論的分析

川本  徹

物語はすべて、死で終る。
だが海だけは終ることがないだろう。
――寺山修司「断片」[1]

1. 「消しゴム」を映画史から消さないために
 
寺山修司の短編実験映画「消しゴム」(1977年)は長年にわたって映画史から「消された」といってよい扱いを受けてきた。たしかに「消しゴム」の作品論こそ存在しないものの、寺山映画についての少なからぬ批評がこのフィルムに言及してきたのだから、その意味においては「消しゴム」が映画史から「消された」などと評するのはいささか大仰だということになるかもしれない。だが、わたしたちはあえて「消された」という表現を用いておきたい。それというのも、「消しゴム」にかんする従来の論考は、この映画的テクストが抱える豊かな細部を見落としたまま議論をくりひろげてきたからである。換言すれば、こうした細部はあたかも消え去って存在しないかのごとく思われてきたのだ。わたしたちが「消しゴム」を「消された」フィルムと称するのはそのためにほかならない。
 しかし、それにしてもなにゆえ「消しゴム」という映画的テクストの豊かな細部は、映画研究者あるいは映画批評家の関心を惹いてこなかったのか。その理由のひとつは、寺山映画がしばしば受容形態の革新性という点から評価されてきたことに求められるかもしれない。たしかに寺山映画のひとつの特色は、映画館と映画作品と観客の固定化された関係に揺さぶりをかけ、そして観客の能動性を高めることにある。その過程にあっては、ある種のライヴ・パフォーマンスが組みこまれることさえもある。ライヴ・パフォーマンスを取りいれることによって、映画体験を反復的なものから一回的なものへと変貌させるのである。
 近年執筆された寺山映画についてのあるモノグラフも、こうした観点から寺山映画の独自性を同定しようとしている。実験映画研究者・広瀬愛の「寺山修司の映画的実験――『審判』の場合」[2]がそれである。広瀬はこの論考のなかで、「複製化された物件」ではなく「反復不能な事件」を生成するという寺山修司の意図[3]を正確になぞりながら、寺山のフィルモグラフィのなかでもっともライヴ・パフォーマンス性の高い「審判」(1975年)[4]を特権的に取りあげ、この作品がいかに映画を事件へと変容させたかを簡潔に論じている。また考察のなかで広瀬は、映画学者クリスチャン・メッツの『映画と精神分析』を引用しつつ、「審判」のなかで観客がスクリーンに釘を打つ行為を映像受容体験の比喩的再現だと見なし、そこに「審判」の特異性を探りあてている。
 この見解にさしたる異論はない。しかし、受容形態の革新性から寺山映画を論じる視点が、ある種の危険性を孕んでいることにも留意しておこう。その危険性とは、1977年以降の寺山映画の豊かな相貌を闇に閉ざしてしまうというものである。確認しておくと、寺山修司の映画的経歴のなかで受容形態を刷新しようという傾向が顕著なのは、「ローラ」[5]などが製作された1974年、ならびに「審判」などが製作された1975年である。とすると、先述した視点からすれば、こうした傾向の弱まった1977年以降の諸作品[6](たとえば「消しゴム」、「書見機」[1977年]、「草迷宮」[1979年])はさほど重要度が高くないということになるのだろう。じっさい上掲論文のなかで広瀬は、『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)、『田園に死す』(1974年)、「ローラ」といった1977年以前の寺山映画には言及しているが、『ビデオ・レター』(1983年)をのぞけば1977年以降の寺山映画にはひとことも触れていない。
 だが、ぜひとも見逃さないでおきたいのは、1977年以降の寺山映画が受容形態の革新性を弱めるいっぽうで、映画的テクストとしての成熟を遂げているということである。本稿の考察対象たる「消しゴム」は、そのなかでもとりわけ巧緻な視聴覚ネットワークを有するすぐれたフィルムである。わたしたちは「消しゴム」に主題論的テクスト分析をおこなうことでその複雑精妙さを照らしだし、さらにはその作業をつうじて1977年以降の寺山映画の成熟ぶりを立証したいと思う。誤解のないようにつけくわえておくと、わたしたちは寺山映画の受容形態を軽視してよいなどとは考えていない。寺山映画の受容形態については、今後もさらに考察を深めてゆかねばならないだろう。しかしそれと同時に、受容形態の革新性という点ではかならずしも重要視されないフィルムにも、べつの観点から脚光をあててみるべきだと思うのである。要するにわたしたちがめざしているのは、寺山修司映画研究の視界を従前よりも広げることにほかならない。そのことを確認したうえで、テクスト分析に進むとしよう。
(本稿では議論の経済性を高めるためにショット番号を設定している。オープニング・タイトルにつづく本編冒頭のショットがショット1であり、それ以降のショットには登場する順番どおりに番号が割りふられている。)

2. 忘れること、あるいは顔の消失
 
「消しゴム」という映画のタイトルがあらわれるまさにその瞬間、突如として打楽器とピアノが不穏に鳴り響き、わたしたちを驚愕させる[7]。この音響の不吉さは、消しゴムという言葉の醸しだす日常性とはおどろくほど不釣合いである。もっとも、ここでもたらされた齟齬感は、すぐに納得がゆくものとして氷解するにちがいない。この短編実験映画にあって消しゴムという事物は、このあと判明するとおり、じっさいに日常性とかけ離れたかたちで使用されているからである。ともあれ、ここでは映画が打楽器の音とともに幕を開けたことを強調しておきたい。これ以降「消しゴム」の通奏低音として鳴りつづけるこの打楽器の音は、いまはまだ示唆しておくだけにとどめるが、フィルム結尾できわめて重要な役割を演じることになるからである。
 映画のタイトルになっている消しゴムは、ショット4ではじめてその姿をあらわす。このショットは、老婦人が海軍士官(彼女の亡夫)[8]の写真を見つめている姿をクロースアップでおさめたものである。そこへ突然、超越的な手が画面のうえにあらわれ、あろうことか消しゴムでもって老婦人の顔を消去してゆく[9]。つまり「消しゴム」と題されたこのフィルムのなかで消しゴムは、紙のうえの文字を消し去るのではなく、スクリーンのうえの映像を消し去るのである。そして、こうした奇抜ともいえる消しゴムの映像消去がなにをあらわしているかといえば、それは記憶の消去、すなわち忘却にほかならない。べつのいい方をするならば、「消しゴム」では映像の可視/不可視が、記憶の現前/不在とイコールで結びつけられているのである。見えていることは覚えていることであり、見えなくなることは忘れることである。「消しゴム」というフィルムは、こうした視覚をめぐるゲームの規則のもとに進行してゆく。
 いそいで付言しておくと、「消しゴム」のなかで映像消去によって忘却を形象化するものは、消しゴムだけではない。そもそも本編冒頭のショット1において、映像に変化(それとも劣化と称したほうが適切だろうか)をおよぼすのは、消しゴムではなく、画面前景に徐々に広がるシミであった。このシミもまた、対象を少しずつ見えにくくすることによって、忘却を組織している。とはいうものの、消しゴムとシミというふたつの映像消去のあいだに差異がないわけではない。その差異とはすなわち、主体性の有無である。消しゴムが意図的に映像を削除してゆくのにたいして、シミは自動的に映像を腐敗させてゆく。だとすれば、消しゴムとシミによる映像消去は、それぞれ能動的な忘却と受動的な忘却という、ふたつの忘却のあり方に対応していると考えることもできよう[10]。つまり「消しゴム」というフィルムはつぎのように主張しているのである。記憶というものは、画面を消しゴムで消すことができるように意図的に失うことができるものであり、そしてまた画面にシミが広がるように自然と失われるものである、と。
 「消しゴム」における映像消去=記憶消去にかんして、もうひとつ指摘しておくべきことがある。それは、このフィルムのなかで消しゴムあるいはシミが、記憶の対象のみならず記憶の主体までをも消し去るということである。すでに触れたショット4でも、消しゴムは、記憶の対象(写真のなかの亡夫)ではなく、記憶の主体(写真を見つめる老婦人)を消し去っている。こうした演出は一見したところ不可解に思われるものの、じつは記憶とアイデンティティをめぐって生起しうるあるアイロニーを、きわめて的確に註釈したものだと捉えることができる。アイデンティティはいうまでもなく、過去の自分が現在の自分と連続している、一貫しているという認識のもとに成立するものである。そしてこの連続性、一貫性を支えているのは個人的および集合的記憶にほかならない。だとすれば、記憶を失うということはアイデンティティの確証を失うということになる。換言するならば、記憶の対象の消去は、とりもなおさず記憶の主体の消去へと反転する可能性をつねに有しているのだ[11]
 またさらに、記憶とアイデンティティという脈絡からすぐにでも議論のうえに浮上してくる主題がある。それは顔無し(あるいはのっぺらぼうというべきだろうか)の主題である。「消しゴム」ではしばしば顔が失われる。記憶とアイデンティティをめぐるフィルムで顔が消されるのは、むろん顔こそがアイデンティティの最たる指標だからである。顔無しの主題があらわれる一例としては、やはりショット4を取ることができよう。このショットで消しゴムは、老婦人の左目を、鼻を、口を、つぎつぎに消してゆく。そしてショットが持続を終えるころには、はたせるかな老婦人は見事なまでにのっぺらぼうと化している。
 ショット4における老婦人の顔の消失は、メタレベル(彼女の顔が存在しているよりも上位の映像世界)で生じたものである。とはいえ、「消しゴム」において顔の消失が生じるのはメタレベルに限定されてはいない。たとえばショット16では、砂浜におかれた石に花嫁かつらが被されることによって、顔無しのイメージが創出されている。あるいはショット21では、写真のなかの海軍士官の顔が白く塗りつぶされることによって、のっぺらぼうのイメージが生産されている。ついでに申し添えておけば、いましがた触れたショット16とショット21における顔の消失は、殊更戦慄すべきものだといってよい。なぜならば、これらのショットでは顔が平板化することによって、花嫁衣裳や軍服という儀式的な衣服の画一性ならびに単調さがきわだっているからである。こうした画一性ならびに単調さの突出は、記憶の消失とそれにともなうアイデンティティの消失によって、世界がどれほど豊かさを失うのかを、静かに、しかし雄弁に物語っている。
 ここまでわたしたちは、消しゴムとシミというふたつの主題、あるいはふたつの映像消去=記憶消去装置について考察してきた。じつはこの文脈から取りあげるべきもうひとつの重要な主題がまだ残されている。その主題とはすなわち、海の波の主題である。海の波のイメージは「消しゴム」のなかで特権化されており、冒頭および結尾のショットというきわめて枢要な箇所に登場するだけでなく、それ以外の箇所においても頻繁に姿を見せ、そしてその運動感でもってテクストを活性化している。が、それだけではない。
 ショット22に視線を向けてみよう。老婦人の亡夫であり、記憶の対象である海軍士官の男が、海のなかに膝までを浸したまま、わたしたちに別れをつげようというのであろうか、カメラに向かって手を振っている。そして彼はその手の反復運動を持続させつつ、少しずつ画面後景へと、つまりは沖のほうへと後ずさりしてゆく。勢いづいた寄せ波がときおり彼の背中にぶつかって砕け散るが、その圧力が彼の後進を止めることはない。やがて彼はほとんど全身を海の波に呑まれて、わたしたちの視界から消えてしまう。老婦人の記憶の対象が視界から消えるというこの光景が、忘却という現象の視覚的表出であることはいうまでもない。
 かくして「消しゴム」における海の波の象徴機能が明らかになった。それは興味ぶかいことに、消しゴムやシミの象徴機能と正確に重なりあっている。すなわち海の波は、消しゴムやシミと同様に、対象を視界から消し去ることによって忘却を組織しているのである。海の波、消しゴム、そしてシミといった、一見したところなんらつながりを想像できないものたちに共通の身振りを演じさせてしまうこと。わたしたちはここに、映画作家・寺山修司の独自性、あるいは想像力の冴えを見てとることができよう[12]。しかしながら、じつに奇妙なこととしかいいようがないのだが、「消しゴム」というフィルムに言及した批評のなかで、海の波を消しゴムやシミとの類縁性のもとに論じたものはまったく見当たらない。そもそもこれらの批評においては、海の波自体が存在しないかのごとく論述の埒外におかれている[13]。これにたいしてわたしたちは、「消しゴム」のなかでの海の波の働きぶりを、あえて愚直なまでに丹念に追ってゆくことにしよう。
 ここまでに認められた海の波の象徴機能をさらに敷衍して、陸と海というふたつの領域を、つぎのように再規定しておいてもよい。すなわち「消しゴム」にあって陸と海は、それぞれ記憶の現前と記憶の不在に対応していると捉えることが可能なのである。だとすれば、このフィルムにおける陸から海への空間移動は、その外見よりもはるかに重い意味を持つということになる。ここでその空間移動が見られる一例として、ショット26を取りあげておく。このショットの舞台は浜辺である。椅子に座る老婦人の右隣に、若き日の老婦人が全裸で立っている。突然、若き日の老婦人が、口を大きく開き、身体を前方に折り曲げ、両手を頭のところに振りあげる。そうかと思うと今度は、屈折させた身体を海のほうへとねじりながら起こし、そして砂浜を駆け抜けて海のなかへと消えてゆく。いっぽう椅子に座った老婦人はといえば、彼女の消えゆく姿を微動だにせず眺めている。
 ここでの若き日の老婦人の空間移動、つまり陸から海への移動が、たんなるスペクタルの表出ではなく忘却の表象であることは明白であろう。このショットにおいて若き日の老婦人は、老婦人の記憶の現前から記憶の不在へと移行したのである。かくしてショット26でも海の波は、ショット22の場合と同じく、対象をわたしたちの視界から消し去ることによって忘却を組織している。だが、留意しておくべきことがある。それはここまで消しゴムなどと共謀して忘却を組織してきた海の波が、その機能を一義的にとどめたまま終始するわけではないということだ。具体的にいうならば、海の波は、これまでとは正反対に想起という役割を演じることもある。わたしたちはまもなくその瞬間を目撃しようとしている。

3. 忘れられないこと、あるいは波の逆襲
 
問題のショットは全編20分あまりの「消しゴム」が14分近くまで進んだときにあらわれる。それは本編冒頭から数えて32番目に位置するショットである。このショット32では、めずらしく浜辺が正面からではなく斜めから捉えられ、波打ち際が画面のなかに対角線をかたちづくっている。その対角線のちょうど中間に、ふたりの人物が位置している。ひとりは(おそらく溺死したのであろう)波打ち際に身体を水平に横たえている。そしてもうひとりは、その溺死体のすぐそばに直立したまま、足元の死者に視線を落としている。
 このようなショットは「消しゴム」における象徴機能の体系を追いかけてきたわたしたちを少なからず動揺させる。なぜなら、ここでは海の波が、さきほどまでとは逆の役割をはたしているからである。「消しゴム」において海の波は、対象を陸から海へと、つまりは記憶の現前から記憶の不在へと連れ去るはずであった。ところが、ここにあって海の波は、その瞬間こそ描かれていないものの、対象を海から陸へと、つまりは記憶の不在から記憶の現前へと連れ戻してしまっているのだ。どうやら海の波は、対象を消し去っているというよりはむしろ、対象を覆い隠しているにすぎないらしい。要するにここにおいて海の波は、忘却の一時性、あるいは忘却がふたたび想起へと循環する可能性をあらわにしてしまっている。
 ところで、これは本稿の射程外のことではあるが、今後、寺山映画にかんする研究を進展させるにあたっては、水の主題について包括的に検討することが必要不可欠であろう。じつのところ「消しゴム」における海の主題は、寺山映画における水の主題のひとつの変奏例にすぎない。とりあえず思いつくままに列挙しておくだけでも、『田園に死す』で父無し子を母親から奪い去ったかと思うと雛壇を運んでくる川、『草迷宮』で脱走兵と少女を沖へと連れ去ったのち少女だけを溺死体として浜辺へと連れ戻す海、『上海異人娼館/チャイナ・ドール』(1981年)で溺死体とともにピアノを浮かびあがらせる川など、寺山映画のなかでは水の主題が、あるときは美しく、またあるときは不気味に奏でられている。
 こうした水の主題が、生と死、あるいは記憶と忘却といった主題と密接に結びついていることは指摘するまでもない。おそらくより重要なのは、寺山映画における水のイメージが、しばしば人間の意志のおよばないものとして現出していることであろう。もう少し具体的にいうならば、寺山映画に登場する水は、おおむね強い運動性をかねそなえており、そしてその運動性でもって人間の意志に逆らう働きをするのである。「消しゴム」のなかで、海の波がだしぬけに対象を記憶の現前へと連れ戻してしまったのは、その典型的な例といえるかもしれない。ほかのフィルムについても同様の視座から再検討をおこないたいところだが、それは本稿の枠におさまることではないので、ここでは議論を「消しゴム」のテクスト分析に戻しておこう。
 つづいて述べておかねばならないのは、ショット32のなかで水平と垂直の構図を織りなしているふたりの人物が、いったい誰なのかということである。この問いにたいする解答は、これにつづくショット33とショット34で得ることができる。ショット33では、くだんの溺死体が俯角のフルショットでおさめられている。波に弄ばれているこの溺死体は、うつぶせになっているために誰なのかはっきりとは識別しにくいのだが、市松模様の衣服から判断するにおそらくは老婦人だろう。いっぽうショット34では、溺死体を見下ろす人物が仰角のクロースアップでおさめられている。おどろくべきことにこの人物も、かの老婦人にほかならない。ということはつまり、いま議論している一連のショットでは、老婦人が自分自身と邂逅しているのである。
 ここで確認しておくべきことがある。それは、老婦人がこれまで幾度となく記憶を消失し、またそのことをつうじて自分自身を消失してきたということである。にもかかわらず彼女がショット32でふたたび自分自身に遭遇しているのだとすれば、かりに先述した海の波による忘却の一時性を考慮にいれなくとも、このショットは忘却の一時性を露呈させていることになる。とはいえ「消しゴム」という映画的テクストは、こうした忘却の一時性を前景にせり出したままにしてはおかない。ショット35では、ふたたび消しゴムが画面のうえにあらわれたかと思うと、記憶の現前へと復帰した亡霊(老婦人の亡骸)を少しずつ消し去ってゆく。さらにそれにつづくショット36でも、やはり消しゴムがあらわれて今度は老婦人の顔をのっぺらぼうに変えてゆく。
 だが、いま少し踏みこんで考えてみると、そもそも消しゴムやシミによる映像消去=記憶消去が一時的なものにすぎないのではないかと疑うこともできる。さきほどわたしたちは、海の波は対象を消去しているというよりはむしろ隠蔽しているにすぎないと述べたが、同じことは消しゴムやシミについてもいいうるのではあるまいか。なぜならば、消しゴムやシミによる映像消去は、あくまでも画面の表面にとどまっているからである。換言すれば、消去作用と消去対象とのあいだには、いつでも絶対的で安全な距離が保たれているのだ(じっさい消しゴムによって消されたものは、かならずといってよいほど後続するショットに再登場する)。それにしても、消しゴムやシミが対象を消そうとすればするほど、その消去作用の表面性、消去作用と消去対象のあいだの距離が強調されてしまうのは、なんとも皮肉だとしかいいようがない。
 もちろん、こうした消去作用と消去対象のあいだに認められる乖離を、「消しゴム」製作当時の技術的な限界として合理化することはたやすい。たしかに、今日のCGI時代であればかくごとき事態は生じなかったかもしれない。だが、わたしたちは「消しゴム」における映像消去の不完全性を、仕方のないものとして了解すべき欠点ではなく、積極的に思考に組みこむべき長所として捉えようと思う。誤解がないように述べておくが、こうした発想の逆転は、CGIに依拠しない時代のフィルムを懐かしむ回顧主義に由来するものではない。そうではなく、「消しゴム」における映像消去=記憶消去の不完全性は、テクストを構成するほかの要素と有機的な連関を結びうるのであり、それゆえに長所として見なされるべきなのである。
 いま述べたことを念頭におきつつ、これまで言及を保留してきたある主題に接近してみてもよい。その主題とは、目隠し鬼の主題である。「消しゴム」ではしばしば目隠し鬼が興じられている。じっさい目隠し鬼のイメージを内包するショットはフィルム中に4つあり、「消しゴム」のショット総計が40に満たないことを考慮すると、量的な側面においてこの遊戯がいかに重要なものであるかが分かる。しかしより肝要なのは、この遊戯の質的な側面である。いうまでもなく、目隠し鬼は視覚を喪失する遊びである。「消しゴム」というフィルムは対象を視界から消すことに主眼を置いてきたのだから、その意味において目隠し鬼という視覚喪失の遊戯がこのフィルムのなかで演じられているのは、まことに理にかなったことだといえよう。だが、看過してはならないのは、目隠し鬼における視覚の喪失があくまでも一時的なものだということだ[14]。だとすれば目隠し鬼は、対象を視界から消去するという点だけでなく、その消去があくまでも一時的なものであるという点においても、ここまで見てきた「消しゴム」というフィルムの特性と合致していることになる。
 いささか議論が込みいってきたので少しばかり話を整理しておくとしよう。考察を進めるなかでわたしたちが解明しつつあるのはつぎのことである。それは「消しゴム」というフィルムが、忘却すなわち忘れることを描きつつも、同時に忘却の一時性、あるいは忘却が想起へと循環する可能性を露呈させているということである[15]。忘れること、忘れようとすること、にもかかわらず忘れられないこと。見方をかえれば、こうした両義的な旋律こそが「消しゴム」という映画的テクストをより魅惑的なものに織りあげているともいえようか。さてフィルム本編はあと3つショットを残すばかりである。はたして「消しゴム」において忘却は完遂されるのだろうか。それとも忘却はどこまでも一時的なままにとどまり、途絶えることなく想起へと反転してゆくのだろうか。

4. 結尾へ、あるいは冒頭へ
 
ショット37の舞台は浜辺である。学生服を纏った少女が波打ち際で輪まわしをして遊んでいる。見るものすべてを郷愁へと誘う美しいイメージだが、それにしてもなぜ輪まわしなのだろうか。輪まわしのイメージがスクリーン上にあらわれるのは、「消しゴム」のなかでこれが最初で最後である。ということはつまり、このイメージは一見したところ余剰とも思われるのである。もちろん輪まわしのイメージを、遊戯性という共通項のもとに目隠し鬼のイメージに引きあわせることもできる。だが、残念ながらそうしてみたところで、解釈に広がりがもたらされることはない。となると、やはりこのイメージは論じるに足らない瑣末なものなのだろうか。
 そうではない。わたしたちが眼をやるべきは、少女の転がす輪の形態である。ここに注意を払ったとき、輪まわしのイメージは突如としてある主題論的な響きを奏ではじめる。それはいうまでもなく、円環の主題の響きである。ここまであえて指摘してこなかったのだが、じつは「消しゴム」というフィルムには、そのほとんど冒頭から円環状のものがあらわれている。ここでショット2に立ち戻ってみるとしよう。ショット2では、丸机のうえの写真を眺める老婦人の姿が俯角でおさめられている。俯角が採用されたのは、一義的には机のうえの写真の中身(老婦人の亡夫である海軍士官)を観客に見せるためであろう。が、それと同時に、俯角であることによって、副次的に机の丸い輪郭が強調されていることも見逃さないでおきたい。この丸机は、後続するショットにあらわれる柱時計の丸い文字盤、あるいは壁に架けられた丸い笠などと連繋しながら、「消しゴム」のなかで円環の主題を構成してゆく。
 つづいてショット15に視線を送ってみてもよい。ショット15では、くだんの丸机がショット2のときよりもさらに極端な俯角でおさめられており、その円環性をひときわ輝かせている。しかし、そればかりではない。ショット15には円環がもうひとつ登場している。ここでは子どもたちが目隠し鬼をして遊んでいるのだが、意義ぶかいことに、その子どもたちの運動の軌跡までもが円を描いているのだ。このショット15における子どもたちの旋回運動は、わたしたちの脳裏で、さきに述べたショット37における輪の旋回運動へと連なってゆくだろう。
 さらに踏みこんで考えてみると、「消しゴム」に登場するさまざまな円環のなかでも、ショット37の円環(少女が転がしている輪)はひときわ重要なものだといえる。その理由はふたつある。第一に、この円環が波打ち際(陸と海の境界線上)で旋回運動をおこなっているからである。すでに論じてきたとおり、「消しゴム」というフィルムで陸と海は、それぞれ記憶の現前と記憶の不在に対応している。だとすれば、この境界線上で円環が回転しているということは、「消しゴム」における想起と忘却の循環を象徴的にしめしているともいえよう。そして第二の理由は、輪の運動が、海の波の運動に共振していることにある。すなわち、途絶えることなく転がりつづける輪の旋回運動と、やはり途絶えることなく引いては寄せる波の往復運動が、絶妙に重なりあっているのである。とすれば、ここでの旋回運動と往復運動の組みあわせには、永遠ないしは無限という意味がこめられているのかもしれない。
 いまショット37のなかに永遠ないしは無限を読み取ってみたわけだが、これはかならずしも過剰解釈ではない。なぜかというと、「消しゴム」のなかにはこれ以外にも時間の循環もしくは時間の停滞を示唆する指標がいくつか認められるからである。そのひとつは老婦人の姿勢である。ショット2で最初に画面にあらわれたとき、老婦人は椅子に座って写真を眺めている。興味ぶかいことに、いくつかの例外をのぞけば、彼女はフィルム全編にわたってこの姿勢のまま静止している。それは本編結尾のショット(ショット39)でも変わらない。彼女の姿勢が冒頭から結尾まで変化していないのだとすれば、それは「消しゴム」のなかでは時間が進行していないということを暗示する。くわえて注目しておきたいのは、ショット18およびショット38における柱時計の様態である。これらのショットのなかで柱時計は、文字盤のところを縄で縛られたまま、波に揺られて前後に往復運動している。こうした時計の往復運動は、誰の眼にも明らかなとおり、時間の行きつ戻りつを含意している[16]
 ここで、今後の寺山映画論のために少しばかり議論を迂回しておきたい。前節においてわたしたちは、水の主題が「消しゴム」以外の寺山映画にも登場することを述べたが、同じことは円環の主題についてもいいうる。すぐに脳裏に浮かんでくるだけでも、『田園に死す』のいくつかの場面で風に吹かれて回転する風車、『上海異人娼館/チャイナ・ドール』のクレジット・タイトルで階段から転がり落ちる檸檬、『さらば箱舟』(1982年)で主人公が回転させる携帯用電気の把手など、寺山映画における円環のイメージは枚挙に暇がない。わけても注目すべきは中篇映画『草迷宮』であろう。概略的にいってしまえば『草迷宮』は、円環のイメージの乱舞によって構成されたフィルムである。ここでは手毬にはじまり、西瓜、生首、月といったさまざまな事物が円環のイメージを連鎖させてゆく[17]
 ではこうした円環の主題は寺山映画のなかでどのように機能しているのか。それを簡潔にいいあらわすのは難しいのだが、やはりなんらかの循環性あるいは反転性を象徴的にしめしているということだけは明白である。じっさい「消しゴム」における円環の主題は、このフィルムにおける時間の循環、ならびに想起と忘却の循環と対応関係にあると見なして差しつかえない。すでに論じたとおり、このことはショット37における輪まわしのイメージに顕著なのだが、のみならず「消しゴム」における円環の主題が、全体として時間の循環、ならびに想起と忘却の循環を集約的にあらわしているということもまた可能なはずだ。ともあれ、ほかのフィルムについてはべつの機会に検証することにして、わたしたちは「消しゴム」の結尾のショット(ショット39)の分析に移行するとしよう。
 ショット39の舞台はまたしても浜辺である。砂浜には丸机が置いてある。老婦人がこの丸机のまえに座って机のうえの写真を眺めている。老婦人の背後の波打ち際では、海軍士官と若き日の老婦人が目隠し鬼をして戯れている。まもなく、画面前景に超越的な消しゴムがあらわれて、画面を消し去ってゆく。ここでまず注目すべきは、記憶の主体(老婦人)と記憶の対象(海軍士官と若き日の老婦人)が、同一画面で視界から奪い去られているということであろう。すでに述べたとおり「消しゴム」のなかでは、記憶の対象のみならず記憶の主体までもが消しゴムによって消去される。が、これまでのショットでは、両者が同時に消されるということはなかった。それがここではじめて同一画面で消されようとしている。また、少々観察しにくいのであるが、海軍士官と若き日の老婦人が画面後景で海の波に呑まれてゆく(記憶の不在へと移行してゆく)ことにも留意しておきたい。
 となると、ショット39では忘却が完遂したのだろうか。ここまで幾度となく想起と忘却がくりかえされてきたが、ついにその循環が終結したのだろうか。だが、そうとはいい切れない。テクストのある要素が、あくまでこの見解に逆らおうとするからだ。その要素とは、おどろくべきことに打楽器の音響である。フィルム本編が幕を閉じようとしているまさにその瞬間、つまりエンド・タイトルへと移行しようとしているまさにその瞬間、ほかの楽器いずれもフェイドアウトしてゆくなかで、打楽器だけが突如としてその勢いを強める。わたしたちは、この打楽器の音響が「消しゴム」の通奏低音だったことを知っている。音量にこそ起伏があったものの、打楽器は「消しゴム」のなかでほとんど途絶えることなく鳴りつづけてきた。だとすれば、ここでの打楽器の音響の高まりは、わたしたちにつぎのような効果をもたらすだろう。すなわち終息感ではなく持続感を、忘却が完成したという印象ではなく忘却が未完成だという印象を、わたしたちにあたえるのである。
 解釈の可能性をさらに開いてみることもできる。ここで想起したいのは、フィルム冒頭でも打楽器が鳴り響いていたことである。つまり「消しゴム」では、フィルム冒頭の音響とフィルム結尾の音響が重なりあっている。だとすると、ここに音響によってフィルムの頭尾がつながりあう可能性が生まれる。もっと分かりやすくいえば、「消しゴム」というフィルムは打楽器の音によって円環を閉じうるのだ。それはちょうど夢野久作の傑作探偵小説『ドグラ・マグラ』(1935年)が、冒頭と結末でくりかえされる時計の音によって円環を閉じるのに似ている。もちろん、フィルムの冒頭と結末で同じような音響設計がなされているという例は珍しくないだろうし、ましてやそれらすべてについていま述べた解釈が成立するわけでは断じてない。だが、さきに論じたとおり、そもそも「消しゴム」では時間の循環がべつの相においても示唆されているのだから、そのことを踏まえれば、ここでフィルム全体が循環しうると主張するのはあながち突飛なことではあるまい。かくして「消しゴム」は、その内部に円環のイメージをたくさん抱え込んでいるのみならず、それ自体が円の形をかたちづくることとなる。そしてそれにともない、消しゴムがいかに画面の表面を消しつづけようとも、想起と忘却の循環運動は永遠に続いてゆく。

5.寺山修司映画研究の活性化をめざして
 
ここまでわたしたちは、「消しゴム」が築きあげている複雑精妙な視聴覚ネットワークに身を委ねつつ、分析的な眼でもってそのネットワークの細部と全体の有機的関係を解き明かしてきた。その過程をかんたんに振り返っておくとしよう。第1節で本稿の目標を述べたのち、第2節では「消しゴム」における忘却表象の基本構造をくわしく記述した。「消しゴム」のなかでは映像消去と記憶消去が重ねあわされており、そしてその映像消去は消しゴム、シミ、および海の波によって遂行されている。わたしたちはこのことを確認しつつ、さらには忘却における対象と主体の反転の問題、ならびに顔の消失の問題についても論じた。
 第3節と第4節では、第2節で整理した忘却表象がじつはさまざまな相において裏切られているということを明らかにした。まず第3節では、海の波の主題についての考察を深め、海の波による忘却が一時的にとどまっていることを検証した。そしてこのことを踏まえたうえで再度、消しゴムとシミの主題に議論の矛先をむけ、それらによる映像消去の表面性に気をくばり、ここにも忘却の一時性があらわれていることを指摘した。それにくわえて今度は目隠し鬼の主題を取りあげ、この主題にも映像消去の一時性が認められることを述べた。かわって第4節では円環の主題に視線をそそぎつつ、「消しゴム」における想起と忘却の循環、ならびに時間の循環について論じた。そして最後には、打楽器の音響に分析の光をあてることによって、先述した循環性をべつの角度から再検討に付した。
 本稿においてわたしたちが試みたのは、畢竟、「消しゴム」と呼ばれる映画的テクストの細部をあたうかぎり思考の枠内に組みこむことであった。ここには消しゴムやシミだけでなく、海の波が、目隠し鬼が、輪ころがしが映っている。打楽器が鳴り響いている。そしてそれらは深く錯綜しながら「消しゴム」という映画的テクストを重層的に織りあげている。この重層性にひたすら寄り添ってみたとき、おのずと明らかになったのが「消しゴム」における忘却の一時性であった[18]。過去「消しゴム」に言及した論考はいずれも「消しゴム」は忘却を描いたフィルムであると見なしてきたが[19]、そうした見解はあまりに単純すぎるのではあるまいか。むしろ「消しゴム」は忘却を描きながら同時にその困難さを露呈させたフィルムではないのだろうか。海のように忘れつつ、海のように忘れることができないフィルム。こうした両義性こそが「消しゴム」のきわだった特色なのではないだろうか。
 本稿は「消しゴム」の作品論であるが、それだけで議論が閉じてしまわぬように、いくつかの箇所では作家主義的な視点を取りいれている。具体的にいえば水の主題、円環の主題にかんする考察がそれにあたる。わたしたちは今後、こうした主題論的考察を視野にいれつつ、寺山修司映画研究を活性化してゆかねばなるまい。ともあれ、つぎのことを述べてから論考を閉じるとしよう。寺山映画の魅力のひとつが受容形態の革新性であることは確かだとしても、そこだけに魅力が尽きてしまうわけではけっしてない。映画的事件はテクスト外だけでなく、テクスト内でも生起するものなのである[20]

附記
本稿で筆者が展開した「消しゴム」論の原型は京都大学大学院の映画学講義「動態映画文化論1」(2007年度)を通じてまとめられたものである。講義を担当された加藤幹郎教授にこの場を借りて御礼申し上げる。また京都大学大学院映画学ゼミの諸氏からは本研究についての貴重な意見を賜った。記して感謝申し上げる。


[1]寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫、1977年)、160頁。
[2]広瀬愛「寺山修司の映画的実験――『審判』の場合」、西嶋憲生編『映像表現のオルタナティヴ――1960年代の逸脱と創造』(森話社、2005年)、173-183頁。
[3]寺山自身の実験映画構想については、寺山修司『寺山修司イメージ図鑑』(フィルムアート社、1986年)、84-101頁を参照されたい。
[4]「審判」はふたつの部分から成る。第一の部分では、映画のなかの人物たちがさまざまな事物に釘を打ち込んでゆく。第二の部分では、それまで映像を見ていた観客が、なにも映っていないスクリーン(板でできた特殊スクリーン)に釘を打ち込んでゆく。
[5]「ローラ」は観客がスクリーンのなかへと侵入する映画である。映画がはじまると、映画内の三人の女性が映画外の観客を挑発する。しばらくすると観客のひとり(じっさいは観客に扮した役者)がその挑発に応じて立ちあがり、スクリーン(切れ込みのはいった特殊スクリーン)のなかへと飛び込んでゆく。
[6]寺山映画の上映方法については『寺山修司――青少女のための映画入門』(ダゲレオ出版、1993年)、127-131頁を参照されたい。ここに記載されていることによると、1977年のフィルム「一寸法師を記述する試み」および「二頭女――影の映画」でも上映空間にいくらかの工夫がほどこされていたようである。しかし工夫とはいっても、映画内で起こっていたことを映画外で部分的に再現するという程度のことであり、「審判」の場合のように観客に創作過程への積極的参加を求めるということはない。つまり受容形態の革新性という点では、1977年以降の寺山映画は少しばかり後退を見せているのである。なお本稿の考察対象たる「消しゴム」については、特殊な上映がなされたという記録は見当たらない。
[7]「消しゴム」の音楽担当はJ・A・シーザー。
[8]煩雑さを避けるために本文では言及しなかったが、「消しゴム」における登場人物の関係はいささか不明瞭である。「消しゴム」のイメージ・ノート(『寺山修司イメージ図鑑』、178-191頁)によると、海軍士官は老婦人の亡夫、花嫁姿の女性は若き日の老婦人として設定されているようである。が、フィルムを見るかぎりでは海軍士官を老婦人の息子、花嫁姿の女性をその妻と判断する可能性も完全には捨象できない。じっさい詩人=映画作家=映画評論家の鈴木志郎康は、海軍士官を老婦人の息子と見なしている(「官能装置としての寺山映画」、『イメージフォーラム』1983年9月号、50頁)。とはいうものの、老婦人の記憶対象として自然なのは、亡子とその妻よりも、亡夫と若き日の自分自身であろう。いずれにしても本稿の主張には影響ないのであるが、人物関係を規定しないことには議論をしにくいので、本稿はさしあたり海軍士官を老婦人の亡夫、花嫁姿の女性を若き日の老婦人と見なすことにする。
 さらに申し添えておけば、上述した人物関係を踏まえつつ伝記的批評の見地から「消しゴム」を論じることももちろん可能である。しかし本稿はそうしたテクスト外への言及をあえて自制している。それというのも本稿の企図は、「消しゴム」のなかに伝記的事実と対応する部分を探ることではなく、「消しゴム」の映画的テクストとしての独自性を見定めることだからである。むろんテクスト内を精査したうえでなら、テクスト外へと向かうこともまた意味を持つだろう。
[9]参考までに記しておけば、この超越的な手は漫画アニメーションを思わせるところがある。無声期の漫画アニメーションでは、しばしば超越的な手が画面にあらわれてはキャラクターに生命を吹き込んでゆくのだが、場合によってはその超越的な手がキャラクターを消し去ることもある。漫画アニメーションにおける超越的な手については、アニメーション研究者・今井隆介の論考「描く身体から描かれる身体へ――初期アニメーション映画研究」、加藤幹郎編『映画学的想像力――シネマ・スタディーズの冒険』(人文書院、2006年)、58-95頁を参照されたい。もうひとつ付言しておくと、寺山映画における人物の運動様態も漫画アニメーション的だということができる。すなわち寺山映画における人物の動きは、しばしばアニメーションでいうところのサイクル(ひと連なりの絵を循環させてキャラクターに同じ動作を反復させること)に類似しているのである。「審判」のなかの釘を打つ運動はその好例であろう。
[10]映画研究者マリア・ロベルタ・ノヴィエッリは、消しゴムが現在のシーンの消去に、シミが過去のシーンの消去に対応していると記述している(押場靖志訳「映像を犯す」、『寺山修司――青少女のための映画入門』、118頁)。だが、これは正確な把握ではない。たしかにそうした傾向はあるものの、たとえばショット28では老婦人(現在の人物)がシミによって消去されているし、あるいはショット39では海軍士官と若き日の老婦人(過去の人物)が消しゴムで消去されている。
[11]寺山は「消しゴム」のひとつの主題が「消しゴム自身の摩擦」だと述べている(『寺山修司イメージ図鑑』、179頁)。ここでいう消しゴム自身の摩擦は、記憶を消去する主体自身の消失を換喩的に表現したものなのかもしれない。
[12]「消しゴム」における消しゴムと海の波の類縁性はこれだけにとどまらない。たとえば消しゴムのつくりだす白い軌跡は白い波頭を連想させる。また消しゴムの画面上の往復運動は海の波の往復運動と見逃しがたく同調している。
[13]ただしノヴィエッリは例外的に海に言及している(「映像を犯す」、118頁)。とはいえあくまでも言及にとどまっており、海の波と消しゴムの類縁性が指摘されるということはない。
[14]文芸評論家=映画評論家の川本三郎はあるエッセイのなかで、寺山修司の母親にたいする両面価値的感情を指摘したうえで、寺山好みの主題「かくれんぼ」を鬼=母親からの一時的かつ遊戯的な逃避だと見なしている(『寺山修司メモリアル』[読売新聞社、1993年]、48-50頁)。寺山修司当人の心性というのは本稿の射程外のことであるが、ここで川本がかくれんぼにおける逃避の一時性、遊戯性に注目していることは言及に値する。この見解は、「消しゴム」の目隠し鬼(かくれんぼと類似した遊戯)における視覚喪失の一時性、遊戯性に着目する本稿の見解と同一の方向性を有しているからである。
[15]寺山自身が「時間の経過を通して一人の老女のさまざまな過去がよみがえってくる」と記しているのだから(『寺山修司イメージ図鑑』、179頁)、このフィルムのなかで想起の運動が生じているのは作家の意図の範囲なのだという意見もあるだろう。しかし問題とすべきは、本文中でさまざまな角度から検証しているように、その想起の運動がいささか過剰すぎるということだ。見方を変えていえば、「消しゴム」のなかには、忘却をめざしたフィルムにとっては余剰ともいえる要素が少なからず認められるのである。そうした余剰を分析のなかに取りこんだときに、それでも「消しゴム」は忘却を描いたフィルムであると単純にいい切れるのか、というのが本稿の問いである。
[16]註12で指摘したように、消しゴムの画面上の往復運動は海の波の往復運動に対応している。だとすると皮肉なことに、消しゴムによる映像消去=記憶消去の運動自体がこのフィルムにおける循環の印象を強化しているともいえよう。
[17]寺山修司の映画『草迷宮』における円環の主題は、原作である泉鏡花の同名小説『草迷宮』(1908年)における円環の主題をそのまま継承したものである。くわしくは同作DVD(紀伊国屋書店、2003年)付属の冊子(木全公彦の「『草迷宮』解説」、および寺山修司の「映画『草迷宮』の出来るまで 鏡花美学のディスクール」)を参照されたい。しかし見逃さないでおきたいのは、これは従来指摘されていないことのようだが、本文で述べたように寺山映画では『草迷宮』以外でもしばしば円環の主題が認められるということである。
[18]忘却あるいは記憶の修正をめざしつつそれが不完全におわるという点において、「消しゴム」は『田園に死す』に通底している。周知のとおり『田園に死す』は、主人公が記憶の修正をもくろみながらもそれをはたせない物語である(過去の母親を殺害しようとしながら結局は殺害できずにおわる)。
[19]ただしノヴィエッリは(ふたたび)例外的に「思い出は記憶のなかに生き延びる」と述べることで、「消しゴム」における忘却の一時性を示唆している(「映像を犯す」、118頁)。この示唆は貴重である。しかし残念ながらその論拠として挙げられているのは、「消しゴム」に登場する写真が引き裂かれたうえでふたたび繋ぎあわされているということだけにすぎない。本稿でくわしく検討してきたとおり、「消しゴム」のなかでは忘却の一時性がじつに多様な水準において露呈しているのであり、そこにこそ「消しゴム」の映画的テクストとしての充実がある。
 付言しておくと、映画評論家トニー・レインズもまた写真が引き裂かれたうえでふたたび繋ぎあわされていることに着目し、そこに寺山映画の「二重性」を読み取っている(「新宿詩人日記」、『寺山修司――青少女のための映画入門』、105頁)。またこのことに関連してレインズは、寺山の映像観をつぎのように要約している。「映像に対する寺山の挑戦は攻撃的で破壊的な性格が強いが、破壊すること自体、破壊されたものの価値を具象化するための手段に過ぎないということを、思い起こさずにはおかない」(同頁)。これはおおむね的確な見解だが、「消しゴム」にかんしては、すでに本文で論じたとおり、映像が破壊されているというよりも、映像が破壊されつつもその破壊がつねに表面的な水準にとどまっているといったほうが適切であろう。
[20]「消しゴム」にはいまもって説明しつくせぬ部分も残っているが、本稿での議論によって「消しゴム」の映画的テクストとしての精緻さは立証されたはずである。なるほど観客に金槌と釘を持たせて映画の創作過程に参加させる「審判」はたしかに面白いフィルムかもしれないが、はたしてこのフィルムが「消しゴム」ほど緻密な視聴覚ネットワークを築きあげているかは疑問である。なお寺山映画には「消しゴム」以外にもテクスト分析が待ち望まれているフィルムが存在する。わけても日本を代表する映画作家=映画評論家の松本俊夫をして「妖しいまでに珠玉の実験的な幻想映画」(『ユリイカ』1983年6月号、40頁)といわせた中篇映画『草迷宮』は、一刻も早く周到なテクスト分析がなされてしかるべきフィルムであろう。