新しいアメリカ「初期映画」研究の系譜と地平

梅本 和弘

はじめに
 
テリー・ラムゼイの『百万一夜 1925年までの活動写真の歴史』(1926)以来、アメリカ映画史は映画が本質的に「物語」を伝える媒体(メディア)であると語ってきた[1]。アメリカ映画史において、「映画」は映画という媒体が誕生した19世紀末の原始的段階では「物語」を語るための映画の表現手段を獲得していないが、その媒体は「映画」の本質である「物語」を求めて、その表現手段が発見され、1910年代の半ば頃に「芸術」たる真の「映画」が誕生したと語られてきた。このような「現在」のまなざしから本質的目標を想定する目的論的歴史観に対して異議申し立てし大文字のアメリカ映画史を解体していく動向が生まれた。1970年代以降、多くの研究者たちは映画の誕生から1915年頃までの「現在」の視点から見て「原始的」で「未熟」とされていた映画を再発見し、目的論的歴史観に陥ることのない新たな映画史を叙述し、映画学の領域を越境する新たな地平を切り開いていった。
 30年以上に亘る新たなアメリカの初期映画研究の歴史において、「現在」の研究者たちは、「初期映画」を映画史的形成の「起源」と捉えるのではなく、いかにして「過去」の映画や観客に向かっていき、どのように「初期映画」の歴史を新たに叙述していったかという初期映画研究の問題群を探求することが本論の課題である。そこで初期映画研究の問題群を折出させるために、目的論的映画史に対峙する三つの批判モデルを用意しそれに沿って本論を考察する。

1. 当時の映画制作者や興行者や観客と後の時代の人々とでは映画の理解や解釈の方法が異なっているということ。
2. 当時の「実際」の観客の映画の受容や経験は単一的・受動的ではなく多様的・能動的であったこと。
3. 近代社会の中でシネマが誕生し形成していったということ。

 一つ目の批判モデルに則して、研究者たちは「古典的ハリウッド映画」の様式の「自然な」規範が歴史的に絶対的ではないとして、それ以前の「初期映画」を対象化し、その時代独自のパラダイムを解明していった。1章では、「現在」の観点から期待するように物語を語っていないという理由で「未熟」であるとする思想に反駁した70-80年代前半の「初期映画」の理論的研究と実証主義的歴史研究を概観する。
 二つ目の批判モデルに則して、研究者たちはアメリカ映画史が語るニッケルオデオン(常設映画館)で移民がアメリカ映画を見てアメリカ文化へ受動的に同一化していったという「例外論」的論調に抗い、劇場での観客の能動的経験を強調していきた。2章では、初期映画研究におけるアメリカ映画史が語るニッケルオデオンでの移民の受動的文化変容論に対する批判的研究、新移民(特に女性)が新しい公共圏を形成し多様で能動的な映画経験をしていたことを論じた研究、さらに古典期においてさえ新移民や黒人移住者の多文化主義的映画経験や劇場の経験が行われていたことを考察した研究を見ていく。
 三つ目の批判モデルに則して、初期映画研究者たちは、近代社会のコンテクストの視角を入れることなく「初期映画」から「古典的ハリウッド映画」へと「シネマの本質」に向かって映画の歴史が単線的に進んでいったという目的論的歴史観に対して異議申し立てをしていった。研究者たちは19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカ社会の中で、経済的、技術的、イデオロギーなどの諸力が重層的に働いていて映画媒体が形成されていったという視座を持っている。3章では、映画テクストから同時代の社会的現実や時代精神を反映論的に解釈するのではなく物質性を帯びた映画と20世紀初頭の革新主義時代のアメリカ社会との関係を論じた初期映画研究を展望し、映画テクストと近代社会コンテクストとの交錯点として映画媒体の歴史性・社会性を考察する。

1. 初期映画パラダイム研究(1970-80s)

1‐1. 初期映画表象システムの研究
 70年代後半以降映画史に新たな理論的洞察をもたらし初期映画研究に多大な影響を与えたのは、装置理論を歴史化したノエル・バーチの初期映画に関する唯物論的論考である[2]。1915年以降のハリウッドに代表される「制度論的再現モード」(institutional mode of representation)と呼ばれる一連のコードと慣行を持った物語映画と比較して、初期映画はその当時における映画の理解と解釈のされ方が後の時代と異なる。バーチは「制度論的再現モード」に対抗できるアプローチを「原初的再現モード」(primitive mode of representation)と名付け、初期映画を「原初的再現モード」を持って描く。1906年まで主流であった「原初的再現モード」は、正面からのショットが視点の中心を持たず平面的に構成され、カメラが離れた距離に保たれている。この空間的アプローチは、「原初的外部性」を持ち、その「原初的外部性」は物語の一貫性や線状性や完結が欠如しており登場人物の動きに照準することがなく、視点は登場人物に対して外部にあるとバーチは論じる。「原初的再現モード」は、ひとつの完全なシーンとしてのショットの自律性が強調され、時間の論理よりも空間に優位が置かれている。このような初期映画は後の時代の人々にとって物語の理解・解釈が困難で、70年代以前の映画研究者たちは「未熟」であると見なしたのであるが、バーチはこの「原初的再現モード」の「脱中心的」または「遠心性の」構成を擁護する。さらにバーチはこの「原初的再現モード」を初期映画の観客とレクチャラーの社会的属性であるプロレタリアートの背景と関連づける。バーチによれば、初期映画の表象システムは労働者階級の娯楽の形態から反イリュージョンを学んだものであった[3]。「原初的再現モード」が1915年以降の支配的なブルジョワ・イデオロギーに基づくイリュージョンのコードと慣行を脱神話化させ、ある特定の時代の権力関係の産物を露呈させるところにバーチは初期映画の可能性を見る。
 80年代に入ると、トンプソンとボードウェルは、バーチのように観客の主体構築の装置理論に頼るのではなく、「物語の語り」(storytelling)を用いて古典的システムを解明していく[4]。「原始的映画」(初期映画)は「物語の語り」をすることで変容していき、ヴォードヴィル劇場の観客の外部性を克服し、その外部性は観客が映画の物語空間に没入することに取って代わったとトンプソンは主張する。初期映画が、古典的ハリウッド映画と歴史的に断絶しており、その時代独自の表象パラダイムで初期映画独特の物語を語っているのなら、初期映画は古典期とは異なったどのような「ナレーションの立場」を採用して語っているのか、という問いは初期映画の独自のパラダイムを考えるきっかけとなった。トム・ガニングは、ゴドローの「展示」の概念とバーチの「外部性」の概念を用いて、映画と観客との関係性の観点から、初期映画独自の語りの様態を洞察する[5]。1906年以前に特徴的であった初期映画のジェスチャーが観客の注目への攻撃的な「語りかけ」(address)にあるとし、その特徴的映画を「アトラクションの映画」とガニングは名付ける。アクロバット等のヴォードヴィル演芸映画やトリック映画などの「アトラクションの映画」において、バーチやトンプソンによって表された外部性は、ガニングの提唱する映画自身の外への語りかけ、つまり登場人物のカメラへの視線や観衆に向けられたお辞儀や身振りに対応する。このような映画において、観客は「物語の中への没入するのではなく、露出症=展示的対面」し、その出来事が観客にショックや驚きを引き起したとガニングは主張する。
 70年代から80年代初頭にかけて、このような映画の形式を分析するだけではなく、初期映画時代独特の興行の空間における映画の慣行の様態や観衆の映画受容の様態を描きだす実証主義的映画史研究も隆盛していった。

1‐2. ミクロな映画史研究
 アメリカ映画史の「大きな物語」に抗いミクロな実証主義的研究に従事したダグラス・ゴメリーやロバート・アレンなどの70年代以降の映画史家たちは、映画媒体が、別の大衆文化の形態に密接に絡んでいたこと、そして「メディア‐間テクスト」であること、つまり映画媒体がヴォードヴィル劇場や列車などの別の媒体に連関して機能していたことを提唱する[6]。初期映画期において、今日考えられているような映画を受動的に見るだけで意味が成立するのではなく、初期映画が上映された劇場では様々な興行の様態を持っており、その興行様態の文脈から映画テクストが成立していたことを彼らは証明する。また彼らは、それまでの映画史家ラムゼイやアーサー・ナイトのように歴史叙述の準拠枠を「芸術」や「伝記」にするのではなく、歴史研究の「決定要素」として「経済」や「産業」や「技術」に依拠し、人口統計や特許などの資料を用いて考証する。
 この「修正主義」映画史家たちはアメリカ映画史の神話に反駁していったが、「物語映画の起源」神話批判はその一つであった。アメリカ映画史において、エドウィン・ポーターによって製作された『アメリカ消防夫の生活』Life of American Fireman(エディソン社、1903)が物語映画の起源であると語られてきた。『アメリカ消防夫の生活』が、観客にストーリーを伝えまたサスペンスを出すために、複数の出来事を並行して同時に提示する編集技法であるクロス・カッティングを初めて使用した作品であったとルイス・ジェイコブスは『アメリカ映画の勃興』(1939)の中で述べている[7]。つまり、最後のシーンは屋内で救済を待っている母娘のショットと屋外で活動する消防夫のショットが交互に提示しているとされた。1948年にニューヨーク近代美術館で発見された最後の9ショットを含むプリントは、クロス・カッティングの編集が使われていたので、当分の間ジェイコブスの歴史叙述が正当性を持つこととなった[8]。同じ救出のアクションを屋内と屋外の異なった空間から撮影され時間の重複があった議会図書館のバージョンが新たに発見された後でさえも、ほとんどの歴史家たちはクロス・カッティングが存在するニューヨーク近代美術館のプリントが本物であるとしてポーターを評価してきた。
 1977年に大学院生であったチャールズ・マッサーは、両方のプリントを分析し同時代の大衆娯楽のコンテクストに関する文献資料をも用いて考証することで、議会図書館のプリントがポーターの作品であることを証明し、ニューヨーク近代美術館のプリントは1910年頃の再上映のためにその当時の規範である編集スタイルに合わせて再編集されたものであったことを結論付ける[9]。さらにポーターの映画の編集が古典的技法を目指していたのではなく物語アクションを繰り返す19世紀のマジック・ランタンの慣行に「退歩的」に向いていたということをマッサーは提唱する。映画の歴史は直線的にではなく、重層的にジグザグに進行しているのであり、そのことが露呈しているポーターの作品はマッサーの歴史研究の実践にとって重要なのである。異なった空間から同じアクションを2つのショットに分けることは、後のルールとなる時間の連続性と矛盾し、時間の重複として我々は考えてしまいがちであるが、その編集スタイルは、古典的映画のコードとは異なっており、『不調和な音』(Discordant Note, AM&B, 1903)などの同時代の他の作品でも見られたようにその期間一時的に使用されたものであった[10]。このように、当時の観客の映画の理解の方法を解明するために、初期映画研究において同時代の興行の文脈や間テクスト(小説や演劇や漫画や新聞の三面記事など)の視座を持ち込む必要性が増大していった。
 マッサーの研究事例が示すように、映画史の中でもっとも映画プリントや関連資料が少なく現在ほとんど残されていない初期映画の研究でミクロな映画史を構築する際に、「他のバージョンは存在するのか」、「歴史家はどの映画のプリントを使うか」、「他の大衆文化の形態との関係は」、「どのように映画が見られたか」といった問題に対して初期映画研究者たちは意識的にならざるを得なくなった。さらに「現在」の初期映画研究者たちが「過去」の歴史を新たに叙述するという「歴史の遠近法」の問題も抱え込むことになる。ポストモダン歴史学の影響で、80年代初頭からガニングやダナ・ポーランなどの映画研究者たちは、「いま」の分析者(観察者)自身の立ち位置を認識し、分析者が恣意的に映画プリントや刊行物や新聞記事等の歴史資料を取捨選択し新しく歴史を編みなおすことの問題を提起していった[11]。 20世紀初頭の映画館での様々なエスニシティや階級などの社会的属性を持った当事者(観衆)の映画の経験をどのように歴史叙述するかという問題に直面したときに、次の世代の若手研究者たちは当事者たちの歴史的証拠の言説や歴史社会コンテクストの言説を分析し当事者たちの経験を記述するという構築主義的立場をとることになる。

2. 映画館における新移民・移住者の経験の研究

2‐1. ニケルオデオンにおける新移民の文化変容論とその批判
 アメリカ映画史は初期映画に関していくつかの神話を語っている。ニッケルオデオンにおける新移民の観客に関しての物語もその一つである。19世紀後半からの国民国家の編成に伴って、国民国家からはみ出る人々が「移民」として世界中に流動していった。19世紀末から東・南欧からの多くの「新移民」がアメリカに押し寄せ、それまでの「アメリカ人」の文化とは異質な文化を形成していった。20世紀初頭、大量の新移民の流入に対応するために、主にWASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)による「アメリカ化」運動が行われた[12]。アメリカ史やアメリカ映画史で、人為的「アメリカ化」運動以外に、映画に代表されるアメリカ大衆文化によるアメリカ化の働きも強調されてきた。1905年頃のニッケルオデオンの勃興という「大衆(マス)」メディアの出現の事実から、南・東欧からの多国籍の新移民たちはニッケルオデオンでアメリカ映画によってアメリカ式生活様式や道徳を学びアメリカ市民に変容したという主張がアメリカ映画史で連綿と続けられたし、現在でも「アメリカ映画の民主主義」的様相を帯びた神話は根強く残っている[13]
 ニッケルオデオン期での移民のアメリカ人化神話の「起源」に対する批判的研究がなされたのは、新たな初期映画研究が始まる70年代に入ってからであった。1973年のラッセル・メリットのニッケルオデオンに関する論文(「ニッケルオデオン劇場、1905‐1914:諸映画を求めたオーディエンスを築き上げる」)がその神話批判またオーディエンス研究の先鞭をつけた[14]。メリットは、ニッケルオデオン期に客層が労働者階級だけでなく中産階級にまで広がっていたという史実を提示するだけでなく、当時の多くの映画はパテ・フレール社やゴーモン社などのフランス製のものであり新移民にアメリカの民主主義を教えていなかったことを強調する。さらにメリットは、映画を見るということよりも映画館での移民たちの経験に着目する。メリットによれば、映画館での新移民の観客は映画に単に受動的に入り込む存在でなく、新移民の観衆たちのなかで周りの人々と間‐主体的な活動的参加が行われていた。興行のヴァラエティ・フォーマット(プログラム)には映画だけでなく生の演技やイラストレイティッド・ソングが必ず組み込まれおり、観衆は行き来したり話しをしたりして映画館は騒がしいものであった。
 70年代後半から新しい社会史でこのような移民観衆の社会性が研究対象とされていった[15]。ユーウェンなどの女性史家は女性移民観衆を論じるようになり、アメリカ映画史で記述されなかった歴史的主体を浮上させていった。女性史家は、労働者階級の移民女性が公共の空間に労働者としてだけでなく消費者として出現したことや南北戦争後の産業化・都市化による大規模の社会再編成に伴い女性の社会的役割やアイデンティティが変容していったことに着目し、労働者階級の女性の「労働」よりもむしろ「余暇」の方を照準化して経験主義的研究を行っていった。
 このような女性史の新移民の研究を用いながら、ジュディス・メインは、「移民たちと観客性」(1982)で、特にイタリア系移民で見られるように共同体意識が強い移民の公共生活と家族の結束が強固な私的生活の観点から、ニッケルオデオン期の労働者階級の女性移民と映画との関係を論じる[16]。新たな公的空間における映画館と映画は移民観客にとって「過去」と「未来」を想起させる機能を持っていた。移民たちが家族そろって映画館に行くことで、映画館の空間内で近所に住むエスニシティの共同体の一員であることを確認する一方で、映画はアメリカ社会の新たな消費文化を身に着けさせた。メインは、アメリカ映画史で語られた移民の受動的モデルに抗い、また70年代に旋風した映画理論の観客性の受動的モデルに対抗して、移民たちが能動的に自らの消費文化の空間を築き上げていたことを主張する。メインが新移民たちの観客性を考察する際に、映画だけでなく当事者の記憶や映画館近辺の構造やレジャーの役割までも射程に入れた意義は大きい。初期映画の女性観客の主体性は興行の場における公共性を考慮するためより流動的な歴史的モデルを描くことになる。
 80年代から初期映画観衆の公共性を考察しているミリアム・ハンセンは、『バベルとバビロン』(1991)の中で、フランクフルト学派のハーバーマスやクルーゲなどの公共圏の理論を用いてニッケルオデオンの空間内の身体を持った観客の経験や集団性を理論化し、対照的な精神分析論的視座と経験論的視座を弁証法的に媒介させ新たな観客性の歴史的モデルを提唱する[17]。ハーバーマスの「公共圏」の論において参加者は合理的にコミュニケーションを行うのに対して、ネグトとクルーゲの「対抗的公共圏」において参加者は自身の記憶や無意識を介在させながらコミュニケーションを行う[18]。ネグトとクルーゲは映画を集団的に見ることが「対抗的公共圏」としてのシネマの可能性を開けるものであると主張する。ハンセンは、具体的に、1907年から1910年にかけてのNY市マンハッタンの東下部のエリアで暮らす東・南欧からの女性移民(ユダヤ系新移民)に着目し、移民たちの映画に行くことが新しい公共圏の形成につながっていったことを提唱する[19]。ハンセンによれば、移民たちの観客性の特質はニッケルオデオンの興行の状況や観衆自身と周囲の観衆たちのジェンダーや階級やエスニシティや人種などの社会的属性によっても左右されており、移民たちにとって映画に行くことは社会的で経験主義的な行為であった。
 ニッケルオデオン期以前の1897年にヴォードヴィル劇場で興行されたボクシング試合の実写映画『コルベット対フィッツシモンズの試合』(The Corbett-Fitzsimmons Fight)は「宛て先」が「女性」に向けられたものではなかったにも関わらず実際に女性たちを熱狂させた事をハンセンが『バベルとバビロン』の冒頭で例示しているように、新しい公共圏は偶然性に支配されたものであった[20]。ハンセンによると、ニッケルオデオンに関してもそのことが当てはまった。音楽やレクチャラーの使用や平等の座席やヴァラエティ・フォーマットやプログラムの途中での観衆の出入りなどのニッケルオデオンの興行様態は観衆をコントロールせず、観衆たちに能動的参加の余白を与えた。ニケルオデオンの興行状況が女性移民観衆たちの間‐身体的な参加をもたらし、現状の社会から周縁化された観衆集団の間に理想的な公共圏を形成し、その「オルタナティヴな公共圏」においてアメリカのヘゲモニー的文化に対抗する可能性を持っていたことにハンセンは賭金を置く。

2‐2. 1910年代初頭からの新移民の文化変容論
 ハンセンの『バベルとバビロン』において、20世紀初頭の映画発展の形成期に新移民は娯楽の消費者として貢献し、アメリカ社会にマイノリティ集団の公共圏を形成していったこと、さらに異質なプログラムの寄せ集めであるヴァラエティ・フォーマットの存在や劇場空間での経験そして観客の社会的属性の差異から異なった文化的反応があったことを明らかにする。しかし「一巻もの」から長編映画へとそしてニッケルオデオンから豪華映画館であるピクチャー・パレスへと移行していき、「アメリカン・シネマ」が出現し始める1912‐1913年には女性や労働者や移民たちのアメリカのヘゲモニー的文化に対して対抗する可能性、「オルタナティヴな公共圏」の可能性は終わる[21]。1910年頃から、エディソンを筆頭にトラストを結成した主流映画産業は、西部劇や南北戦争映画などのアメリカのナショナリズムを喚起させるジャンルの映画を生産するなどアメリカ化政策を行い、それまで興行を支配していたパテ・フレール社のフランス映画は影響力をなくしていった[22]。1913年頃から、映画産業は、「一巻もの」の基盤から1時間‐3時間の「長編映画」(feature films)へと徐々に移っていった。「一巻もの」は周縁化され「呼び物の」(featured)映画の付属として上映されるようになった。1910年代半ば頃には、ハリウッドのスタジオ・システムが形成されていった[23]。ユニヴァーサル社やフォックス社などは、一つの会社の中に制作−配給−興行を管理下に置く垂直統合経営に乗り出し、資金はニューヨーク証券市場で賄われ、会社役員会のメンバーとして東海岸融資家が参加し経営の主導権を握るようになった。巨大化した企業は長期的な視野を持って経済の安定性を要求するようになった。映画産業の制度化に伴って興行も規格化され、おしゃべりができない観客の劇場の経験と映画経験も映画を見るだけの受容になっていった。
 ハンセンは、この頃の観客性の誕生と1910年代前半に当時の映画関係者やジャーナリストや社会改革者が主張した「普遍言語」による「アメリカ化」運動の言説とを結び付けて新移民のアメリカ人化神話を再構成する[24]。新移民たちをアメリカの生活様式に組み込ませるためにエスニック・アイデンティティの消失を目的とした「アメリカ化」運動推進の考えを持つ映画関係者などの言説にハンセンは着目した。映画産業は経済的資本確保のために労働者階級の新移民だけでなくすべての観客を呼び込もうとした時、映画産業関係者は、新移民たちの文化の多様性や多言語に直面して、そのような多様性を克服することができるものとして映画の普遍的要素に着目し始めた。小説や演劇などの間テクストや前知識がなくても理解できる映画が「普遍言語」や「視覚のエスペラント」にたとえられ、すべての人にわかる「ユニヴァーサル」な映画が推奨された。その際に、「普遍」が「世界」や「アメリカ性」(Americanness)と結び付けられ、アメリカ社会に同質化しにくい移民に普遍的に語りかけアメリカ社会に融解することが可能であるという「普遍言語」の「メルティング・ポット」の修辞法が使われた。
 「普遍的言語」の修辞法が言われた1910年頃の同じ時期から、映画産業は「語り」(narration)と「語りかけの構え」(address)を標準化していき、古典的物語の語り手の様態によって観客は古典的ハリウッド映画の戦略に則り、それまでの経験的に多様で予測不可能であった受容行為が規格化されていったとハンセンは主張する。ハンセンによれば、1913年頃からのピクチャー・パレスや長編映画の導入によってエスニシティや階級やジェンダーに特定されない「大衆」に普遍的に語りかける「アメリカン・シネマ」(古典的ハリウッド映画)が出現し労働者階級とエスニック集団の文化の強靭さを完全に押しつぶしていった。1910年頃からのこれらの実践によって、映画館の実際の社会的・物理的空間がスクリーンの虚構の世界に従属する映画空間を編制するに至った。
 しかし90年代後半以降の初期映画研究は、近年の移民研究と節合しながら、ハンセンの論のような移民たちのアメリカ映画によるアメリカ社会へのロマン主義的スムーズな統合の「例外論」的文化変容論を否定し、当時の多文化主義の観衆の経験を構築する方向に向かっている。

2‐3. 新移民・移住者観衆の多文化主義的映画文化
 1970‐80年代、メインやハンセンを除いて、初期映画研究者たちが移民の映画文化に焦点を当てることはほとんどなかったが、90年代以降、初期映画研究において新移民や黒人移住者のオーディエンス研究が興隆していく。80年代末から90年代にかけての初期映画研究の方法論上の転回や研究者たちの問題意識の転換が、その流れを加速させていった。90年頃から初期映画研究は、ハンセンの論考に代表されるように、歴史的社会コンテクストの中でどのように映画が受容されているかという受容のプロセスまた当事者である観衆たちは劇場空間でどのような経験をしたかということに関心が移っていった。すでに68年にロラン・バルトは「作者の死」において、「作者」は作品の意味を最終的に決定づける絶対的な創造主であるという考え方を排除して、「読者」こそが多種多様な意味を絶えず構築し続ける生産者であることを説いていた。80年代にはイギリスのカルチュラル・スタディーズのオーディエンス研究において分析者は「現在」の観衆に対してインタヴューをするなどのエスノグラフィーの方法論を用いた分析を行っていた。これらの受容論やオーディエンス論を視座に入れて、初期映画における「過去」の観衆をどのような「歴史の遠近法」で捉え直すかという問題が浮上していった。
 90年代に入り、初期映画研究において、スタイガーやウリッキオなどが、特定の映画に対する「実際」の観客の反応を見るのではなく、「受容のコンディション」や「階級に拘束された言説編成」や「読解の位置」に焦点を合わせた分析を始めた[25]。 ウリッキオとピアソンは、「受容のコンディションの重要な構成要素」として、すなわち社会的・歴史的文脈におかれた観衆の映画テクストの解釈の可能性として、間テクストや社会的コンテクストに着目し、その重層的に構制されている「言説編成」とその効果を分析することを提唱した。このような「言語論的転回」は、近年の初期映画研究に多大な影響を与えていった。20世紀初頭の新移民の独自の映画文化に関する近年の研究に見られるように、読み書き能力のない移民や黒人移住者の映画文化に関する文献資料は極端に不足しているために、研究者たちは、映画に関連した証拠に限定することなく、移民社会の中で、当事者たちは何を問題としたか、何が問題となったか等の問いの言説やその問いの答えに当たる歴史的証拠の言説を通して移民の映画文化を構築していく方法を取っている。近年初期映画研究において、「オルタナティヴな公共圏」での観衆の経験の考察や「解釈共同体のコンディション」の言説分析や「受容の社会史」(観衆の日常レベルでの歴史的映画受容研究)の記述に見られるように、歴史的受容論はますます重要視されてきている[26]
 このような歴史的受容論の研究や移民史研究の新たな動向から、多くの初期映画研究者は新移民や黒人移住者の多文化主義的映画文化を構築していく。特に、1990年代後半から、初期映画研究において多くのマイノリティの研究者が輩出していることの意義は大きい。「アフリカ系アメリカ人」のジャックリーン・スチュアートが、シカゴ大学でハンセンやガニングの指導の下、20世紀初頭のシカゴにおける黒人移住者の映画文化に関する博士論文(『映画館に移住する−黒人都市映画文化の出現、1893−1920』、1999)を書き、ニューヨーク大学では「イタリア人」留学生ジオルジオ・ベルテリーニが南イタリアからの移民の映画文化に関する博士論文(『南イタリア人の横断−イタリア人とシネマと近代−イタリア、1861‐ニューヨーク、1920』、2001)を執筆し、またジュディス・ティッセンやサビーン・ヘンニはユダヤ系移民の初期映画文化に関する博士論文を書きあげた[27]。この初期映画研究者たちは、19世紀後半からの社会再編やローカル/ナショナル/トランスナショナルな重層的社会空間を考慮した新移民や黒人移住者たちの映画文化を描きだしている。例えば、スチュアートは、シカゴの「ストロール」(Stroll)の通りを中心とした「ブラック・ベルト」の「黒人」の映画館や黒人映画製作会社やカフェやミュージック・ホールなど娯楽が集まっている商業地区全体を「オルタナティヴな公共圏」と捉えて「黒人」の映画文化を考察する[28]。世紀転換期から1919年までに多くの「黒人」がシカゴに移住してきて、「ブラック・ベルト」の共同体を形成し、時間的・金銭的余裕を持つようになった「黒人」たちはそこでレジャーを享受した。スチュアートは、「黒人」の宗教や音楽や政治活動やスポーツなどの都市での様々な文化の経験を視座に入れて、「ブラック・ベルト」における公共の生活としての「黒人」の経験を構築している。またベルテリーニはイタリア系移民のアメリカでの映画経験や受容のコンディションを調べるために移民たちが移住する以前に生活していた19世紀の南イタリアの文化状況を分析しているように、ディアスポラ概念や出身地のトランスナショナルな懐旧の記憶の視角を入れた映画文化研究が行われている[29]
 若手研究者たちは移民や移住者の映画文化や社会コンテクストの言説を分析する際に、それまでの研究者たちが英語で書かれた資料(言説)しか使わなかったことまた観衆の多文化主義や多国籍性を視座に含めていなかったことに疑問を投げかける。例えば、それまでの研究で、初期映画研究者はアメリカの大都市で流通していた「黒人」やエスニシティの新聞等を調査することなく、アメリカ文化・英語という「一文化・一言語」の均質言語的映画受容の研究を行い、記号論や精神分析を特権化させる傾向があった。ハンセンの論にみられるように、そのような研究方法によって「アメリカン・シネマ」による観客のアメリカ人化という「例外論」的考えを支持していることに対して若手研究者たちは反駁していった。若手研究者たちは、当時の観衆の多文化主義の経験を見るために、英語以外の言語で書かれた資料や「黒人」による映画の批評などの資料を利用する。
 ハンセンにおいて劇場の空間の観衆の経験やヴァラエティ・フォーマットが依然アメリカ中心であったものが、若手研究者においては民族の専用の劇場の空間での独自の文化の経験やエスニシティの色調を帯びたヴァラエティ・フォーマットを視角に入れることで脱アメリカの映画文化の論考を展開する。ユダヤ系やイタリアンやアフリカ系アメリカ人の文化である近所のホールやヴァラエティ・ショーから多言語のステージやゲットー劇場にいたる多様で対抗的受容が行われた興行の場に関する研究で、1910年代前半において「アメリカ化」の文化変容が安直に行われていなかったことが解明されるようになる。ティッセンによると、ユダヤ系映画館では、アメリカ文化のヘゲモニーに対抗するために、ユダヤ系移民が望む映画を上映し、民族的ヴォードヴィルの演芸を復活させ、ユダヤ系移民の共同体の結束を強めていった[30]。ユダヤ系移民の次に多数を占めたイタリア系移民の場合も20年代に入るまでアメリカ文化への同化はスムーズではなかった。1910年代前半にアメリカで流通したイタリア歴史映画は、アメリカに移住するまでイタリア統一国家の国体を意識しなかったイタリア南部の周縁地域出身のイタリア系移民たちにとって、イタリアの理想化した過去の見方を提供し「イタリア人」の国民意識を作るのに貢献した[31]。周縁地域出身の移民たちは、アメリカの多文化社会に入るために、まず積極的にイタリアのナショナルなアイデンティティを持つ必要性があった。「黒人」が「白人」に向けられたアメリカ映画を見に行く場合も複雑であった。1917年までに古典的物語のコード化と慣行が完成したとされるが、「黒人」の観客は古典的物語映画に没入することができなかったとスチュアートは主張する[32]。黒人専門の映画館が多く存在したが、一般の映画館は白人と黒人に隔離されていた。「黒人」の映画受容において、映画館の「暗闇でさえも黒人の身体の意識」が消失することはなかった。「黒人観客」が社会的アイデンティティを忘れて完結した物語に入り込むことは困難であった。「アメリカン・シネマ」の「普遍言語」や「民主的芸術」という修辞法は「黒人」の観客性には当てはまらなかったことをスチュアートは強調する。
 近年、マイノリティである若手初期映画研究者たちが20世紀初頭の多文化主義的映画文化の研究で明らかにしているように、「アメリカ映画史」が語ってきたニケルオデオン期において、さらにハンセンが主張する古典的ハリウッド映画のシステムが勃興する時においてすら、移民たちや黒人移住者たちがひとつに融解するという「メルティング・ポット」論は成立しがたい。

3. 近代社会におけるシネマの形成に関する研究

3-1. 映画テクストと社会的コンテクストの関係(近代性論とその批判)
 90年代以降、新移民や黒人移住者の映画社会史以外にも、映画の文化史や「近代性」(modernity)の視覚を論じるなど「近代」を視座に入れた初期映画研究が主流になってきている。アリソン・グリフィスの『驚異的な差異:シネマと人類学と世紀転換期の視覚文化』(2002)やメアリ・アン・ドーンの『シネマ時間の出現‐近代、偶然性、集積庫』(2002)やベン・シンガーの『メロドラマと近代:初期のセンセーショナルな映画とそのコンテクスト』(2001)など近年に上梓された初期映画に関する書物を見てもわかる通り、現在の初期映画研究は、映画自体のテクスト分析よりも歴史社会的コンテクストの分析に重点を置いて映画テクストを吟味する文化研究が主流を成しており、アメリカの映画学において特異な学問領域を形成してきている[33]。近年のこれら一連の映画文化研究の書物で通底しているのは、初期映画研究者たちが、「古典的リアリズム」に単線的に向かっていく進化論的・目的論的映画史観を排除して、近代の社会的コンテクストから映画が誕生し形成していったという論理、また19世紀末から20世紀初頭にかけてのアメリカ社会の中での経済的、政治的、技術的、文化的などの複数の歴史社会的力が重層的に働いて映画媒体は形成されているという論理を持っていることである。 このようにガニングやシンガーなどの初期映画研究者たちは映画のコンテクストを興行の場の文脈を越えてより広範囲な「近代」にまで拡大していった[34]。初期映画研究者たちは、「近代性」という言葉を19世紀後期の産業化・工業化してからの交通やコミュニケーションの発達や都市化の文脈で捉え、「都市近代の感覚的環境や19世紀後期の空間と時間の技術との関係の中で」、また「発達した資本主義の新しい視覚文化」の中で、映画が誕生したという事実を視座に入れて、近代社会と映画との関係を検討する[35]。初期映画研究者たちは、映画と近代社会の関係を考える上で、ベンヤミンやクラカウアーやジョナサン・クレーリーなどの論考を参照するのだが、初期映画研究者の「近代性」の論考が隆盛しているのは、「アトラクションの映画」の着想によるところが大きい。90年代半ばから、ガニングは「アトラクションの映画」と「近代」を結びつけて、初期映画と観客の関係をより広い近代社会のコンテクストから捉え直す[36]。その際に、ガニングは、近代社会における都市化や新しい技術の出現が人々の経験を急速に変容させ、その新しい技術の一つである映画の技法(急速なモンタージュやスロー・モーションなど)は人々を大いに驚かせた、というベンヤミンの論を援用する。ガニングによると、初期映画の簡潔性やトリックや爆発のような驚きやギャグの多用や劇場の興行状況によって、当時の人々は速いペースや予期できないことや神経を逆なでするといった近代の経験を持つに至った。
 このような観衆が近代性を経験したという論考は、ボードウェルやチャーリー・ケイルによって90年代半ばから論争を引き起こす。ボードウェルやケイルが初期映画研究の「近代性」論に対して問題にするのは、映画学の領域において、映画テクストや製作者や技術や製作や興行の制度の分析を越えて、研究対象を「近代」や「近代社会」という広範な歴史社会的コンテクストまで極端に広げて、それらを映画テクストの分析材料とすることは妥当であるのか、ということである[37]。ボードウェルは、映画の受容の様相に関して、初期映画の時期を過ぎても「近代」は連綿と続いており、都市化や産業化といった近代化は一層加速しているにもかかわらず、「アトラクションの映画」の攻撃的な「語りかけ」の構造と都市での近代の経験がいかに結びつくのかと「近代性論」に対して疑問を投げかけ、「複数の文化研究」(カルチャル・スタディーズ)が大文字の理論となって歴史的システムの間に存在する映画様式の変容や歴史的システムの中での映画様式の詳細な分析を蔑ろにしていると批判する。またケイルは、都市の労働者階級の観衆はパラレル編集による同時進行のレースの時間のリズムを見ることによって都市で生活する際の時間の感覚を発見することができたという文化的ニュアンスを帯びたパラレル編集に関するガニングの解釈に対して異議を唱える。
 この論戦は近代の複数の歴史社会的力がシネマを形成しているという想定を持つ初期映画研究者と形式主義的な立場を取るボードウェルらとの映画史叙述の方法論の齟齬にある。初期映画研究者たちと異なってボードウェルは、映画様式が変容する際に経済的な要因よりも映画産業の美学的な要請の方が重視され、同時代の社会経済的な変化は美学的な規範やそれらの変容にほとんど影響がないという論を展開する。ボードウェルは、「シネマの歴史の詩学」(1989)の中で、歴史社会的コンテクストを排除した形式主義的なシネマの歴史の生成のプロジェクトを描く[38]。ボードウェルの映画史の詩学は、「映画の配給の経済的パターンや10代のオーディエンスの増大」などの社会的現象を考慮に入れないで、映画の形式の規範の説明と記述に重点を置くものとする[39]
 ボードウェルとトンプソンらの主著である『古典的ハリウッド映画』もその方法論が反映されている。『古典的ハリウッド映画』の中で、「原始的映画」から「古典的映画」への移行していく際に、標準化したスタジオの組織が規範を実行していくだけでなく、1913年ごろからの一巻ものから長編映画への変容やスター・システムの出現や言説の遂行性を持つ刊行物の批評やマニュアル本の中の古典主義的規範などをトンプソンは挙げて深く考察しているが、広範な歴史社会的コンテクストである同時代のアメリカの社会的・政治的要素を括弧に入れた[40]。またケイルは、広範囲な近代の複数の力を用いるのではなく、「近似値的諸力」(proximate forces)として、業界の刊行物や映画に関する記事や映画市場のシェアーを取り上げ、「近似値的諸力」の範囲を最小限に抑えることで移行期の映画様式の変化の詳細な分析をすることができた[41]

3‐2. 「近代」の歴史社会的諸力による映画形式の変容
 ガニングは、D.W.グリフィスの1908年から1913年までのバイオグラフ社時代の作品に関する一連の研究で、ボードウェルやケイルが排除した「実際」の観衆や当時の社会状況に巻き込まれた映画産業を考慮に入れて映画形式の変容を洞察していく。ガニングがそのような映画史叙述の方法論を持ってバイオグラフ社時代のグリフィス作品の分析をしたのには、クリスチャン・メッツの目的論的映画史観に対する批判が念頭にあったからである[42]。メッツは、『映画言語』の中で、「シネマが複数のストーリを語るというミッションを発見したときにシネマは真に現れた」と述べた[43]。この「映画の形式」と「物語のミッション」とが自然に合致しているというメッツの目的論的想定に対して、ガニングは疑問を投げかける。グリフィスの初期の作品は「進化の結果でも、また映画の本質の漸次の発見」でもなかった。      
 グリフィスや同時代の映画制作者は映画の「本質的性質」(古典的リアリズム)を発見したというよりもむしろ「歴史においてまた経済と社会の力の交差の中で」映画を「再定義」することに従事した。ガニングは、『D.W.グリフィスとアメリカ物語映画の起源‐バイオグラフ社の初期』(1990)で、1908年から1909年のバイオグラフ社の初期のグリフィス作品の分析をする際に、それ以前の1907年頃まだ映画製作(生産)が「家内工業」の段階であるときにニッケルオデオンでの興行(消費)が急激に拡大していったが、その経済的不釣合いに対して「映画産業を統制しようとする経済的再組織化」の変容過程の中で、「物語」が形成されていったことを提唱する[44]。ガニングによれば、物語映画の形成に検閲や配給のコントロールや興行の様態や中産階級を引き寄せるといった経済的要因や技術的要因や映画産業の要因や社会的要因を含んだ様々な歴史的要素が絡んでいた。
 「アヘンの巣から道徳の劇場‐初期アメリカ映画の道徳のディスコースと映画のプロセス」(1988)や『D.W.グリフィスとアメリカ物語映画の起源』(1990)では、シネマへの規制の懸念が映画の形式に与えたこと、つまり映画形式の形成の際に、ニューヨーク市の検閲と映画産業の自主検閲局の検閲が、生産的な役割を果たし、グリフィスやバイオグラフ社に道徳の規範を意識させ、潜在的ないかがわしい内容を全体的道徳効果を呈する枠組みの中に入れさせたことが具体的に論じられている[45]。1900年代後半から、映画への規制運動の中心を担った社会改革者や中産階級のエリート集団は、ニッケルオデオン映画館と映画が移民たちの観客(特に女性と子供)に非行や性的不道徳といった様々な反社会的な行動を引き起こすものと見なし、映画や映画館に対して攻撃をし始めた。このような急激に勃興した映画文化に対するエリート集団の映画追放の改革運動やイエロージャーナルの弾劾を受けて、映画産業は映画を見ることが観客に反社会的な行動を引き起こすというマイナスの影響を与えるものではなく、プラスの効果を持ったものであると世間に対して証明しようとした。1908-09年から、バイオグラフ社やグリフィスによって観客に道徳的な効果=影響を与えるものであることを「語る」映画が製作され始めた[46]。ガニングによると、1909年に自主検閲機関である映画検閲全国委員会の第一回目の会議で審査パスしたバイオグラフ社のグリフィス作品『飲んだくれの改心』は、その道徳的効果が最も顕著に表われた作品、つまりアルコールの危険性を観客に教えるだけでなく、「観客になる行為を通して映画の他の欠点を補う可能性」を教えるイデオロギー効果を持った作品であった。
 『飲んだくれの改心』におけるパラレル編集やライトニングや視点ショットなどを利用したドラマの肯定的な「心理的影響」の表象は、映画が悪影響的に観客の心理に働くとされたことに対しての映画製作会社やグリフィスの異議申し立てであったとガニングは言う。『飲んだくれの改心』のアルコール中毒の父親と娘二人でお酒に溺れている男性を描いた演劇を見る自己言及性を持ったシーンで、酒場の演劇舞台とそれを見ている父親の反応を交互にカットする20のショットは、視点ショットと切り返しショットのパターンを形成し、父親は演劇舞台の男に同一化させられる。この映画を見て登場人物に感情を移入する映画館にいる観客は二次元的な舞台空間から映画の三次元空間へと導かれる。ガニングだけでなくピアソンも述べているように、厳密に父親の視点と視点ショットが一致していないが、構図と父親のリアクションの演技様式によって当時の観客は登場人物により感情移入することができた[47]。『飲んだくれの改心』は、アルコールに関する教訓を観客に教えただけでなく、パラレル編集や視点ショットと切り返しショットやライトニングなどの「映画のディスコース」を利用して、「映画が道徳的可能性を持っている」ことや「教化ドラマを見ることが観客に変容する影響の可能性を持っている」ことといった「道徳のディスコース」を提示し、「教育的メディアとしての映画」を表象した。

3‐3. アメリカ革新主義時代の社会におけるシネマの形成(90年代以降の研究)
 ガニングによるD.W. グリフィス作品における「道徳のディスコース」の分析で示されたシネマの規制の問題は、1990年代以降、初期映画研究においてさらなる展開を見せた。ガニング同様に、1900年代後半から1910年代前半にかけての古典的ハリウッド映画への形成が古典的リアリズムへの希求によってではなく、その当時の社会的な規制や道徳的価値観が映画の形式や映画の規範形成に深く関わっていたことを研究者たちは洞察していく。
 ウリッキオとピアソンは、『文化を再び構成する−ヴァイタグラフ社の良質映画のケース』(1993)の中で、主流の映画産業は20世紀初頭のアメリカの社会改革運動と映画に対する規制に対処するために、映画文化の社会的地位が上がるように努力していたことを論じる[48]。主流の映画産業は、規制を回避し社会的向上を目指すためだけでなく、経済資本の獲得のために、裕福な中産階級の観衆を引きつけるためにも、1907年ごろから1913年までに、シェイクスピア作品やモーセの物語などを題材にした多くの「良質映画」(quality films)を製作した。30分程度の二巻ものの映画で難解なシェイクスピア作品やモーセやワシントン大統領を扱った作品をどのように当時の労働者階級の新移民などの観衆は解釈・理解できたのかという問題に対して、ウリッキオとピアソンはその当時の社会コンテクストや間テクストに着目して、それら歴史的証拠の言説から「良質映画」の諸作品の受容のコンディションを分析した。19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期において、例えば、シェイクスピアの文学作品は、WASPの「アメリカ化」運動の下でアングロサクソンの文化また英語教育の手本として利用され、学校教育や広告やポストカードなどで幅広く知識が広まっていたことをウリッキオとピアソンはその当時の言説から示す。シェイクスピアの文学作品を元にして制作されたヴァイタグラフ社の『ジーザス・カエサル』(Julius Caesar, 1908)は、正統的劇場のスペクタクルを持つ「ジーザス・カエサル」の舞台演技を借用して、ハイブラウの色調を付け加えて中産階級の志向に合わせる一方で、当時学校などで流通していたイメージや鍵となるフレーズが使われることで労働者階級の人々にも向けられたものであった。映画産業にとって、中産階級と労働者階級の人々に向けられた「二重の宛て先」を持つ「良質映画」は、それまでの新移民や労働者階級の客層を排除することなく、中産階級へと客層を広げようとする理想的な方法であった。このような「良質映画」を多く製作することで、映画産業が検閲や規制を回避しながら中産階級の観客を引き寄せるために映画をブルジョワ化し徐々に映画は社会的尊重を獲得していくようになった。
 1990年代以降、フェミニスト初期映画研究者たちは、当事者が中産階級の自己定義をする際の「社会的尊重」や「立派さ」という概念がジェンダー化されていた点に注目する。1993年のコンスタンス・バリデスの『集積庫の中でほこり(混乱)を作る−フェミニズムと歴史と初期アメリカ映画』を皮切りに、スミコ・ヒガシの『セシル・B. デミルとアメリカ文化−サイレント期』(1994)やシェリー・スタンプの『映画に夢中の少女たち:ニケルオデオン以後の女性と映画文化』(2000)などの当時のシネマと女性の規制を扱ったフェミニズム初期映画研究が多く刊行されていっている[49]。こうした書物から、中産階級に沿う映画の道徳のディスコースの形成が20世紀初頭のジェンダーの社会的道徳規範と結び付けられていたことが明らかとなる。研究者たちは、「古典的ハリウッド映画」が形成されるまでの期間、シネマへの規制が強まる中で、逆に問題のあるセクシュアリティやジェンダーを語っている映画が多く製作されていたことに着目する。主流の映画産業は、「白人女性奴隷映画」(the White Slave films)や「女性参政権促進映画」(Women’s Suffrage films)を「新しい女性」に向けて製作していた。映画産業はこれらの映画を教育的かつ道徳的に製作することで、既存の女性観客を失うことなく、さらに客層を中産階級女性へと広げようとしていた[50]
 スタイガーは、『悪い女性−初期アメリカ映画におけるセクシュアリティの規制』(1995)の中で、20世紀初頭のアメリカ社会で人々が「新しい女性」の概念を構築する際に、「新しい良い女性」と「新しい悪い女性」との二元論的に捉えていたことに着目し、映画産業は映画の中にどのように「新しい悪い女性」を導入していったかを論じる[51]。スタイガーによれば、1906年頃まで女性の裸を露出するなどの性的な映画が多く製作されていたが、1906年頃以降、エリート社会運動集団の非難や規制によってヌードを描く性的な映画の製作が困難となっていった。しかし映画産業はこのようないかがわしい映画を別の形で製作していった。映画製作会社は革新主義時代の規制の戦略に対応した中産階級の道徳規範に合った形で、売春婦などの逸脱したセクシュアリティのイメージである「新しい悪い女性」を「メロドラマ」と「リアリスト美学」の物語の構造の中に入れることで全体的道徳・教育的効果のある映画を製作した。中産階級の人々は映画が心的に影響を与える媒体であると捉えたが、一部の中産階級の人々のなかには道徳的枠組みのある「新しい悪い女性」が表象された物語は社会的教訓を与えるものと考えるものもいて、このような映画がその一部の人々に受け入れられた。20世紀初頭のアメリカ改革社会において、現実に社会で頻繁に起こっているとされた多くの移民が売春婦にさせられるという白人女性奴隷の問題を科学的合理的に解決していこうとする社会的風潮が起こったときに、一部の市民団体やエリート改革運動家たちは、道徳的・教育的プラスの効果の可能性があるとされた映画媒体に着目し利用した。道徳長編映画会社(Moral Feature Film Company)は、『白人奴隷売買の内情』The Inside of the White Slave Traffic (1913)という準ドキュメンタリ映画(quasi documentary)を製作し、IMP社/ユニヴァーサル社は、「ロックフェラーの白人奴隷のレポートとD.A. ホイットマンによって実施された大陪審調査」の事実に基づいた『魂の売買』Traffic in Souls(1913)というメロドラマの構造を持ったフィクション長編映画を製作した[52]。実際にニューヨーク市とテキサスのエル・パソ通りで売春婦が実際に呼び込みをしているシーンを使った『白人奴隷売買の内情』は、メロドラマと登場人物の働きを避けて、売春婦の原因となる社会科学的要因や「社会的構造の説明」を提供するものであった。しかし「現実」を再現=表象する「白人奴隷映画」は論争の的となり、規制の対象となっていった。
 2000年代の初期映画研究では、映画への規制が移民・移住者オーディエンスの人口の統治に結びついていたことが強調され、映画と観衆の規制や法律の言説実践が映画媒体の規範を構制していったことが論じられている。20世紀初頭、アメリカ社会には、急速な工業化に伴う都市の貧困や政治腐敗や売春問題や映画や移民観客などの不安材料である社会問題を社会改革運動家などのエリート集団が見つけて、それらの社会問題を合理的に解決していこうとする「革新主義」の運動が興隆した。ニコラス・オランドが『ホワイトウォッチング−革新主義時代のアメリカにおけるシネマと人種と規制』(2006)の中で述べているように、アメリカ社会において大量に流入する移民への不安・恐れと危機感が増幅されていった時、映画に関しての規制は20世紀初頭の移動する人口集団の統治に関しての懸念と結びついていた[53]。映画媒体が教育的効果のあるものと捉えた一部の運動家たちは、映画を排斥するのではなく、新移民たちを啓蒙するために映画を利用し、新移民たちをアメリカ白人社会に同化させるために努めた。しかし南部ではアフリカ系アメリカ人を排除するなど運動家たちの映画における新移民の教育政策が人種化された統治であったとオランドは指摘している。
 グリーブソンは、『シネマを取り締まる』(2004)の中で、映画が社会の再配置と人口の統治に密接に結びつき、国家や州の規制やその言説が映画媒体に多大な影響=効果を与えていったことを論じている[54]。1910年代前半に、映画に対する法律の施行が映画の社会的機能を定義=限定しそれまでの映画産業の教育的・道徳的まなざしを徐々に希薄化させていったことそしてそれが古典的ハリウッド映画の規範の形成上重要であったことをグリーブソンは主張する。
 1910年ごろから1915年にかけて、連邦法による映画の定義づけそして映画に対する法実践によって、映画と報道との関係が変容していった。1912年には、「シムズ法」(Sims Act)によって、映画が「営利事業」(commerce)として定義され、州際のボクシング映画の流通が禁止され、連邦政府の管轄下に置かれることとなった[55]。公共の領域における映画の社会的な役割が規定されていき、映画産業は害のない文化的に肯定的な娯楽をビジネスとして商業的に製作するようになっていった。『魂の売買』や『白人奴隷売買の内情』などの白人奴隷の長編映画は社会問題さらに市当局の検閲を引き起こし、1914年に映画産業の自主検閲局は、商業的映画は教育や政治とは異なると述べて、白人女性奴隷映画の生産の禁止を呼びかけた[56]。1913年にミューチュアル社は州際の配給の規制に対して映画の報道の自由で訴えたが、そのミューチュアル社の訴訟に対して、1915年に合衆国最高裁判所は棄却した。その判決の際に、映画は「単純なビジネス」で「国の報道の一部と見なされるべきではない」、さらに映画は「邪悪な能力」を持っており、「考えの媒介物」や「スピーチ」として定義するのではなく「娯楽」として定義されるべきであると述べられた[57]。映画は合衆国憲法修正一条の中の「表現の自由」の保護下に置かれなかった。1952年のパラマウント判決で覆されるまで、アメリカ史の中で、映画は「公の検閲に服従する唯一のコミュニケーションのメディア」になった。報道から主流映画が切り離され、害のない「単なる娯楽」(mere entertainment)としての映画が製作されていくこととなった。映画への規制と法律の言説実践がアメリカ映画のアイデンティティ形成に重要な役割を果した。1910年代に、ノン・フィクション映画と肉体的コメディ映画は長編物語映画の付属となってジャンルの重要度が階層化するが、1915年頃から、映画プログラムのジェンルの重要度はより階層化していった。1910年代前半までにあった様々な映画の潜在的様態はアヴァンギャルド映画やプロパガンダやドキュメンタリや教育映画などの主流映画の周縁的ジャンルとなっていった[58]。1916年から1918年にかけて、映画産業は、経済的損失を防ぐために政治的なメッセージや問題の多い映画を避けて、ハリウッドを「神話の王国」(mythical kingdom)として構築していき、「実際」の政治・社会問題のレファランスを排除した「単なる娯楽」としての長編物語映画を提供する国際的な産業になっていった[59]

おわりに
 
1970年代に大文字のアメリカ映画史に対して異議申し立てをしてさらに映画理論が初期映画期の歴史に妥当かとの問いから始まった初期映画研究は、当初映画理論が主流を占めていたアメリカの映画学において「歴史的転回」をもたらし歴史化の流れを作っていった。80年代、初期映画研究の隆盛によって映画学において「初期映画」研究の領域が形成され確立していくと同時に、既存の映画学に収まらなくなった。2章と3章で見てきたように、90年頃に初期映画研究者たちの歴史認識と問題設定と方法論において決定的な転換が起こってから、初期映画研究が女性や移民の新たな歴史像を提示した社会史や文化史と交錯して学際的に取り組む傾向が強まっていった。さらにアメリカにおける最近の初期映画研究は、多くの留学生や外国教員がアメリカにおけるマイノリティの劇場の初期映画経験や帝国主義/植民地主義時代の移動の視座を入れた初期映画文化の研究に従事するなど脱ナショナリティの傾向にあり、アメリカ映画史が前提とする「アメリカ例外主義」の一国的認識枠組みを批判的に解体してきている[60]。このような動向を持つ初期映画研究は、今後、映画理論と社会史や文化研究などと交錯しながら新たな横断的地平を切り開いていくであろう。


[1]Terry Ramsaye, A Million and One Night, A History of the Motion Picture through 1925 (New York: Simon&Schuster, 1926); Benjamin Hampton, History of the American Film Industry (New York: Dover Publications, 1970); Lewis Jacobs, The Rise of the American Film (New York: Teacher’s College Press, 1939). アメリカ映画史の諸書物が60年代から70年代にかけて再出版された。ラムゼイの『百万一夜』(1926)が1965年にペーパーバックで上梓され、ベンヤミン・ハンプトンの『映画の歴史』(1931)の名が改め『アメリカ映画産業の歴史』が1970年に、またルイス・ジェイコブスの『アメリカ映画の勃興』(1939)が1968年に再出版された。
[2]Noel Burch, Life to Those Shadows, trans and ed. Ben Brewster (Berkeley: University of California Press, 1990).
[3]Burch, Life to Those Shadows, p.241.
[4]David Bordwell, Janet Staiger and Kristin Thompson, The Classical Hollywood : Film Style and Mode of Production to 1960 (London: Routledge, 1985).
[5]アンドレ・ゴドローは、構造主義的物語理論を通して初期映画の構造を分析し、物語を語るシネマ装置である語り手(narrators)とものを展示する展示者(monstrators)とを区分した。Andre Gaudreault, “Film Narrative, Narration: The Cinema of the Lumiere Brothers,” in Thomas Elesaesser and Adam Barker, eds. Early Cinema: space-frame-narrative (London: British Film Institute, 1992) pp.68-75.
[6]Robert C. Allen, Vaudeville and Film, 1895-1915: A Study in Media Interaction (New York: Arno Press, 1980); Douglas Gomery, Shared Pleasures: A History of Movie Presentation in the United States (Madison: University of Wisconsin Press, 1982). アレンやゴメリーなどは実証主義的方法論を確立していこうとするが、その一方で、2章で述べるように、社会史と節合しながら、当時の観衆の「記憶」や「経験」を映画史に取り入れようとする経験主義的視座を入れた研究も興隆していく。Robert C. Allen and Douglas Gomery, Film History Theory and Practice (New York: Knopf, 1985).
[7]Jacobs, The Rise of the American Film,p.35.
[8]Allen and Gomery, Film History, pp.34-36.
[9]Charles Musser, ‘The Early Cinema of Edwin Porter,” Cinema Journal 19 (fall 1979) pp.1-35. ; Charles Musser, ‘The Early Cinema of Edwin Porter,” in Cinema 1900-1906: an Analytical Study, ed. Roger Holman (Brussels: FIAF, 1982).
[10]Before the Nickelodeon: Edwin S. Poter and the Edison Manufacturing Company (Berkeley: University of California Press, 1991).
[11]Dana Polan, “La Poetique de l’Histoire: Metahistory de Heyden White.” Iris (2/2 1984); Andre Gaudreault and Tom Gunning, “Le cinema des premiers temps: Un defi a l’histoire du cinema?” in Jacque Aumont, Andre Gaudreault, and Michel Marie. Eds. L’histoire du cinema: Nouvelles approaches (Paris: Publications de la Sobonne, 1989).
[12]「アメリカ化」とは、「アメリカ合衆国の国民またアメリカ社会の構成員としての資格を規定すること」であり、新移民(特に子供)をWASPにとって望ましいアメリカ市民に変えることが、公共機関や地域の社会改革活動グループによる教育プログラムなどを通して実施された。Desmond King, Making Americans: Immigration, Race, and the Origins of the Diverse Democracy (Harvard University Press, 2000) p.110.
[13]Garth Jowett, The Democratic Art (Boston: Little, Brown and Company, 1976).
[14]Merritt, Russell, “Nickelodeon Theaters, 1905-1914: Building an Audience for the Movies,” AFI Report (May 1973) now in The American Film Industry, ed. Tino Balio (Madison: University of Wisconsin Press, 1985) pp.83-102.
[15]Elizabeth Ewen “Immigrant Women in the Land of Dollars , 1890-1930,” Diss. State University of New York at Stony-Brook. 1979. now in Immigrant Women in the Land of Dollars: Life and Culture on the Lower East Side, 1890-1925 (New York: Monthly Review Press, 1985); Kathy Peiss, Cheap Amusements: Working Women and Leisure in Turn-of-the-Century New York (Philadelphia: Temple University Press, 1986); Roy Rosenzweig, Eight Hours for What We Will: Work and Leisure in an Industrial City, 1870-1920 (Cambridge: Cambridge University Press, 1983).
[16]Judith Mayne, “Immigrants and Spectatorship,” Wide Angle. (5/2 1982) pp.32-41.
[17]Miriam Hansen, Babel and Babylon : Spectatorship in American Silent Film ( Cambridge , Mass. : Harvard University Press, 1991).
[18]ネグトとクルーゲは、ハーバーマスが主張する「市民的公共圏」における個人間の差異を消去したブルジョワ的民主主義を批判し、その古典的公共圏によって排除されてきたプロレタリアートの「対抗的公共圏」を構築する目標を掲げる。Oskar Negt and Alexander Kluge, Public Sphere and Experience: Towards an Analysis of the Bourgeois and Proletarian Public Sphere (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1993).
[19]Hansen, Babel and Babylon, pp.101-114.
[20]Ibid., pp.1-2.
[21]Ibid.,pp.76-89.
[22]Richard Abel, The Red Rooster Scare: Making Cinema American, 1900-1910 (Berkeley: University of California Press, 1999); Abel, Americanizing “The Movies-Mad” Audiences:1910-1914 ( Berkeley : University of California Press, 2006).
[23]Richard Koszarski, An Evening’s Entertainment: The Age of the Silent Feature Picture, 1915-1928. (New York: Charles Scribner’s Sons, 1990) pp. 69-77.
[24]Hansen, Babel and Babylon, pp.76-89; “Universal Language and Democratic Culture: Myths of Origin,” in Early American Literature: In Honor of Hans-Joachim Lang Erlanger Forschungen, series A. Vol 38( Erlangen: Universitat of Erlangen-Nurnberg, 1985) pp.321-351.
[25]William Uricchio and Roberta E. Pearson, Reframing Culture: The Case of the Vitagraph Quality Film (Princeton: Princeton University Press, 1993); “Constructing the Mass Audience: Competing Discourses of the Morality and Rationalization during the Nickelodeon Period,” Iris 17 (autumn 1994); Janet Staiger, Interpreting Films (Princeton: Princeton University Press, 1992); Janet Staiger, Bad Women: Regulating Sexuality in Early American Cinema (Minneapolis: University of Minnesota Press, 1995).
[26]90年代末からメルヴィン・ストークスや リチャード・マルトヴィによって「受容の社会史」(the social history of reception)の「オーディエンス研究」プロジェクトが始められている。American Movie Audiences: from the Turn of the Century to the Early Sound era, eds. Melvyn Stokes and Richard Maltby (London: British Film Institute, 1999); Identifying Hollywood’s Audiences: Cultural Identity and the Movies, eds. Melvyn Stokes and Richard Maltby (London: British Film Institute, 1999); Hollywood Spectatorship: Changing Perceptions of Cinema Audiences, eds. Melvyn Stokes and Richard Maltby (London: British Film Institute, 1999); Hollywood Abroad: Audiences and Cultural Exchange, eds. Melvyn Stokes and Richard Maltby (London: British Film Institute, 1999); Going to the Movies: the Social Experience of Hollywood Cinema, eds.  Melvyn Stokes, Richard Maltby and Robert Allen( Exeter : University of Exeter Press, 2007).
[27]Jaqueline N. Stewart, “Migrating to the Movies: The Emergence of Black Urban Film Culture, 1893-1920” (Ph.D. Diss., University of Chicago, 1999); Giorgio Bertellini, “Southern Crossings: Italians, Cinema, and Modernity: Italy, 1861-New York, 1920” (Ph. D. diss., New York University, 2001); Sabine Haenni, “The Immigrant Scene: The Commercialization of Ethnicity and the Production of Publics in Fiction, Theater, and the Cinema, 1890-1915 (German-American, Yiddish, Italian-American, New York City)” (Ph.D. diss., University of Chicago, 1998); Judith Thissen, “Moyeshe Goes to the Movies: Jewish Immigrants, Popular Entertainment, and Ethnic Identity in New York City (1880-1914)” (Ph.D. diss., Utrecht University, 2001).
[28]Stewart, Migrating to the Movies.
[29]Bertellini, “Southern Crossings.”
[30]Judith Thissen, “Jewish Immigrant Audiences in New York City, 1915-1914,” in Stokes and Maltby, American Movie Audiences, p.23.
[31]Bertellini, “Italian Imageries, Historical Feature Films and the Fabrication of Italy’s Spectators in Early 1900s New York ,” in Stokes and Maltby, American Movie Audiences.
[32]Stewart, Migrating to the Movies.
[33]Alison Griffiths, Wondrous Difference: Cinema, Anthropology, and Turn-of-the-Century Visual Culture ( New York : Columbia University Press); Mary Ann Doane, The Emergence of Cinematic Time: Modernity, Contingency, the Archive ( Cambridge : Harvard University Press, 2002); Ben Singer, Melodrama and Modernity: Early Sensational Cinema and Its Contexts ( New York : Columbia University Press, 2001).
[34]Tom Gunning, “Now you See it, now you Don’t: The Temporality of the Cinema of Attractions,” in Silent Cinema, ed. Richard Abel (Bew Brunswick: Rutgers University Press, 1995) pp.71-84; Mirriam Hansen, “Benjamin, Cinema and Experience: The Blue Flower in the Land of Technology ,” New German Critique 40 (Winter 1987) pp.179-224.
[35]Singer, Melodrama and Modernity, p.102.
[36]Gunning, “Now you See it, now you Don’t”; Gunning, “The Whole Town’s Gawking: Early Cinema and the Visual Experience of Modernity,” Yale Journal of Criticism, 7/2 (Fall 1994) pp.189-201.
[37]Bordwell, On the History of Film Style, pp.139-149, 301-302; Charlie Keil, ‘“To Here from Modernity”: Style, Historiography, and Transitional Cinema.,’ in American Cinema’s Transitional Era: Audience, Institutions, Practices, eds. Charlie Keil and Shelley Stamp ( Berkeley : University of California Press , 2004) pp.51-65. 
[38]David Bordwell, “Historical Poetics of Cinema,” in The Cinematic Text , ed. R. Barton Palmer (New York: AMS Press, 1989) pp.369-398.
[39]Ibid., p.372.
[40]Bordwell, Staiger and Thompson, The Classical Hollywood .
[41]Charlie Keil, Early American Cinema in Transition: Story, Style, and Filmmaking, 1907-1913 ( Madison : University of Wisconsin Press, 2001).
[42]Gunning, “Now You See It, Now You Don’t,” p.72.
[43]Christian Metz, Film Language: A Semiotics of the Cinema (New York: Oxford University Press, 1974) pp.44-45. Cited in Ibid., p.72.
[44]Tom Gunning, D.W. Griffith and the Origins of American Narrative Film: The Early Years at Biograph (Urbana: University of Illinois Press, 1991).
[45]Tom Gunning, “From the Opium Den to the Theatre of Morality: Moral Discourse and Film Process in Early American Cinema,” in The Silent Cinema Reader, eds. Lee Grieveson and Peter Kramer ( New York : Routlegdge, 2004) pp.145-154; Gunning, D.W. Griffith.
[46]Ibid., p.151; D.W. Griffith, p.162.
[47]Roberta Pearson, Eloquent Gestures: Transformation of Performance Style in the Griffith Biograph Films (Berkeley: University of California Press, 1992) pp.140-143.
[48]Uricchio and Pearson, Reframing Culture.
[49]Constance Balides, “Making Dust in the Archives: Feminist Archaeologies of Vice, Thrift, and Management in U.S. Silent Cinema” (Ph. D. diss., 1993); Sumiko Higashi, Cecil B. DeMille and American Culture: The Silent Era (Berkeley: University of California Press, 1994); Janet Staiger, Bad Women.; Lauren Rabinovitz, For the Love of Pleasure: Women, Movies and Culture in Turn-of-the-Century, Chicago (New Brunswick: Rutgers University Press, 1998); Shelly Stamp, Movie-Struck Girls: Women and Motion Picture Culture after the Nickelodeon (Princeton: Princeton University Press, 2000).
[50]映画産業が女性観客を取り込もうとした反面、躊躇するところもあった。道徳の保護者としての母性が理想化され「女性は家庭」という近代的ジェンダーの規範があったので、それらの映画はその伝統的気品に合わず、参政権運動映画だけでなく反参政権運動の映画も多くあったように、映画文化の中に女性を取り込むことがスムーズにいかなかったとスタンプは述べる。Stamp, Movie-Struck Girls, p.9.
[51]Staiger, Bad Women. pp.54-85.
[52]Stamp, Movie-Struck Girls, pp.41-101; Staiger, Bad Women, pp.116-146.
[53]Eric Nicholas Olund, “Whitewatching: Cinema, Race and Regularion in the Progressive-Era United States” (Ph.D. diss., The University of British Columbia , 2006).
[54]Lee Grieveson, Policing Cinema: Movies and Censorship in Early-Twentieth-Centuray America ( Berkeley : University of California Press, 2004).
[55]Ibid., p.122.
[56]Ibid., pp.186-191.
[57]Ibid., p.202.
[58]Ibid., p.35.
[59]1919年までにヨーロッパで興行されている映画の90%そして南米ではほとんど100%がアメリカ産となった。外国でのハリウッド映画の規制がハリウッド映画の規範に影響を与えたことをヴェイセイは論じている。Ruth Vasey, The World According to Hollywood, 1918-1939 ( Madison : University of Wisconsin Press ) p.34, pp.13-62.
[60]1985年に発足した初期映画研究の国際学会ドミトール(Domitor)の2006年度のミシガン大学における学会シンポジウムでは、帝国主義/植民地主義の観点から諸初期映画(マジック・ランタン・ショーも含む)が上映され「“ナショナル”の概念」や「ネーション」の主題を中心に発表・討議された。

本稿は2007年度京都大学大学院人間・環境学研究科に提出された修士論文の一部の改訂版である。