映画のセクシュアル・ポリティクス

スティーヴン・ヒース/加藤 幹郎(翻訳)

 1936年2月25日から26日にかけての夜、雪のふりつもった東京。アメリカ大使館では斎藤実子爵(前首相、現内大臣)を迎えてレセプションが催されている。余興として、ジョーゼフ・C・グルー大使はハリウッドから取り寄せた『浮かれ姫君』(ネルソン・エディー、ジャネット・マクドナルド主演、ヴァン・ダイク監督のミュージカル〔1935年〕)を準備していた。斎藤はこの余興を気にいるだろうか? 彼ははじめて接するこのサウンド・フィルムに喜色満面、おもいのほか長居して最後まで見ると、感謝の念を充分に示して大使館を後にする。この日早朝、斎藤は一団の青年将校たちに流産する反乱中暗殺されるが、これは1930年代の日本の軍国主義伸展の歴史の一部である。
 『愛のコリーダ』(大島渚監督、1967年)は、雪のふりしきる東京にはじまり、1936年の新聞記事をとりあげ、 映画 ( シネマ ) に対して批判的問題をつきつける。その問題は、性的なもの、政治的なもの、および映画的なものの分節と、そのような分節の最中にあらわになるさまざまな不可能性にある。さしずめ以下の覚書は、映画的制度――「想像的シニフィアン」――の問題にはじまって大島の 映画作品 ( フィルム ) の不可能性と限界体験をささやかなりとも再発見し、当のフィルムよりも重要なその問題の有効諸条件を、というかむしろその重要性の核心を、論証しようとするものである。
 たとえば『忘れじの面影』(マックス・オフュルス監督、1948年)のようなフィルム――映画に対する問いかけというひとつのパースペクティヴからすれば、『愛のコリーダ』はこのフィルムの直接的で破産的なリメイクなのだが――を検討してみよう。ジャンルの特性(「女性映画」)と文体上の刻印(「音楽の多用、流麗な長廻しショット」等をあらわす名称としての「オフュルス」)をそなえたこの古典的なハリウッドの物語映画『忘れじの面影』の中心をしめているものは、充全たる 映像 ( イメージ ) 、視線としての 性活動 ( セクシュアリティ ) 捜し求められる映像 である。〔ヒロインの〕リザ(ジョーン・フォンテイン)はモデルを生業とするが同時にまた 雛型 ( モデル ) そのものでもある。すなわち、彼女は上流相手のドレス・ショップで目も綾なる衣裳を身にまとい、照らし出され、身体を旋回させては脈のある顧客たちの視線を浴びるが、それは同時にこのフィルムをために金を支払った観客の視線を浴びることでもある。男たち、このフィルムの観客たちは、リザがそうするように二重に非の打ちどころのない()身体の完璧さに、女性の美の 映像 ( イメージ ) に、女性の 映像 ( イメージ ) に反応する。そしてそれはまさにそのようなものとして、性的なものを映画的に保持するわけである。つまり、欲望されるが触れることのできない映像、終わりをしらない 見(え)ること ( ヴィジョン ) 。ところが、御多分にもれず、この中心化された 映像 ( イメージ ) はその封じ込めの効果がききすぎるあまり、封じ込めるべき異質性――戸惑い――の痕跡をおびた構造を浮かび上らせてしまう。すなわち、『忘れじの面影』にあってはセクシュアリティはまた、視線が黙殺し、視線から黙殺され、そしてたえず視線の不在という形象で回帰してくる「もっと」☆1でもあるということになる。最初のモデルのシーンの後、リザは少女時代からひそかに想いを寄せ、また敬愛してもいた男、ステファン(ルイ・ジュールダン)と一夜をともにすごす。彼らが接吻をはじめると、映像はフェイドし、スクリーンは真暗になり何も見えなくなる。これはあきらかに 約束事 ( コンヴェンション ) であり、その背後にはヘイズ・コード☆2、すなわち何が提示でき何が提示できないかをわきまえさせるものがある。しかし約束事というものはけっしてたんなるフィルム外の事実にとどまるものではない。提示できるものとできないもの、映像と視線の決定的な境界は、ほかならぬ『忘れじの面影』の内部に、そのフィルムのアクションおよびフィルムの意味の一部として存在するのである。フェイド、不在の映像は『忘れじの面影』のたえざる基本的形象である。フェイドはこのときその黙殺=省略のうちにふたつの時間をふくんでいる。ひとつは許諾とその結果惹起される罪の時間であり(リザは映像にというよりは「もっと」にからめとられており、したがってその夜彼女は妊娠し、フィルムは彼女の苦難の道を詳述し、彼女のおかした罪に対する罰をことこまかにしるすことになる)、いまひとつは拒絶とその当然の結果としての無垢の時間である(提示されないものがリザを純粋無垢なままに、 映像 ( イメージ ) 同様損なわれることなく依然として完壁なものにしておく、したがってそもそも彼女はステファンの娘か妹であり、そしてまた彼の母親☆3になるにすぎないのであって、けっしてこのフェイドの正確な機能、このフィルムの約束事の意味、すなわち愛人などではないということになる)。このフェイドの直後、今度はステファンのためにモデルをするリザの映像にもどり、フィルムは 見(え)ること ( ヴィジョン ) のドラマをつづける。それは、ひっきょうステファンが(見)失った 映像 ( イメージ ) と彼が回想する 映像 ( イメージ ) (リザが自分の手紙のなかで回想するように、あるいはまたこのフィルムのわれわれの記憶、ヴィジョン、を秩序づける物語を通してわれわれが回想するように)をつづけるということである。
 われわれのヴィジョンの首尾一貫性を打ちたてるのに貢献する中心化された 映像 ( イメージ ) 、ヴィジョンのドラマ、視線の空間。伝統的に、物語 映画 ( シネマ ) はたがいに結合し、交差し、中継しあう「視線」のきわめて強力な装置を相手にはたらく。つまり、(1)カメラが人物、事物を眺める(映画ならではの隠喩)、すなわち 先映画的 ( プロフィルミック ) なもの、(2)観客がフィルムを眺める、(3)フィルム内の登場人物がそれぞれ他の登場人物や事物を眺める、すなわち 虚構世界内的 ( イントラディエジェティック ) なもの、である。この視線の連鎖には可逆性がある。すなわち、カメラが眺め、観客がカメラの眺めるものを眺め、それによって観客はフィルム内の登場人物が眺めているのを見る。しかし、その反面、観客はフィルム中の登場人物が眺めているのを見、それがフィルムを眺めることであり、それがカメラの眺め、カメラが「眺めたこと」、を発見することでもある(ここで映画が築かれる不在の現前の様態)。さらにいえば、最初と二番目の視線の間ではたえずその「優先性」ないしは「起点性」の交換がおこなわれている。カメラの視線はフィルムを眺めることではじめて見いだされるが、前者は後者の条件、さまざまな条件のひとつである。したがって、この視線の連鎖は今度はさまざまな同一化を多様に中継するパターンの基盤となる(これは本来なら各場合ごとに丹念に検討せねばならないだろうが、さしあたり重要なことはその多様性を強調することである)。すなわち、まず、最初と二番目の視線の転回が観客のカメラへの同一化をうながす(この同一化は、たとえばカメラの運動にたいそうとまどいながらも厳密に構成される)。次に、フィルムへの視線は、写真的映像とその運動、映像に現われる人物、および映像の流れに意味をあたえる導きの糸としてはたらく物語との、観客の諸関係を同定するのにかかわる。最後に、登場人物の視線はさまざまな「視点」の同一化をはかることを計算に入れているというわけである。
 以上のような〔視線と同一化の〕装置の力はそれが提起しかつ制御する作用のうちにある。すなわち、ある種の運動性があたえられ、それが観客をたえずひきつけておくものとして、いいかえれば の首尾一貫性を繋ぎとめるものとして、最後まで辿られ、中継されるのである。バザンがコクトーの『恐るべき親たち』(1948年)☆4のなかのイヴォンヌ・ド・ブレのショットに魅惑されていたことをおもいだすがよい。「このショットの目的は彼女が眺めているものを示すことではない。ましてや彼女の視線を示すことではない。その目的はにある」★1。装置とは、そういう 位置 ( ポジション ) の虚構のための、「眺めているのを眺める」、また「を眺める」ことの総合的な保証のための、機構にほかならない。したがって、おどろくまでもなく、そうした保証の達成が、フィルムにおける映画の制度が、きわめて多くの場合フィルムの実際の物語に、その看過できない問題になるのである。〔『忘れじの面影」のなかで〕一夜の契りをむすんだリザは数年後、『魔笛』の上演会場でもう一度ステファンと再会する。パパゲーノが「恋人か女房があればいいが」を歌うとき(「女性の口がわしに接吻してくれるなら、わしはすぐにまた元気になるよ」)、〔いまや落魄の境遇下にある〕ステファンはリザの顔を捜し出そうと座席のなかからふりかえるが、その女性の顔は――御多分にもれず――もう消えてなくなっている。極端なクローズアップが(あまりに極端なために虚構世界のいかなる時空間の設定にも、フィルムを組織づけるどんな指標にもからめとられずに)彼女を捜し出そうと懸命なステファンの眼を提示する。そしてその映像に手紙を読むリザの声がかさなる(「どこかにあなたのがあって、それから逃れられないということはわかってました」)。リザを迫ってロビーまでやってきたステファンは逃げる彼女に追いすがる(「ぼくはどこかであなたにことがあります、ぼくにはわかるんです」)。そして事態はまさにそのように進展する。つまり、フィルム全体は見ることと知ることの問題、垣間見られたかとおもうと(見)失われ、それから回想される 映像 ( イメージ ) の問題なのである。ちょうどそれが唯一正統なる女性、母親(リザはいつもステファンの過去のうち、彼の――そしてこのフィルムの――欲望の時間のうちにいる)、女神(「ギリシャ人は、自分たちの知らない神の像をつくりましたが、それはいつの日か神が自分たちのもとへやってさてくれることを願ってのことでした。ぼくのは女神像だったのです」)の問題でもあるように。

 『愛のコリーダ』は、視線と同一化の装置の問題系を記述することで――幾何学的なものいいをすれば、そこに分割線をひく ことで――そうした装置を産み出すとともにそれを打ち砕く。それゆえこのフィルムのドラマはたんなる「ヴィジョンもの」ではなく、例の古典的な物語 転位 ( トランスポジション ) に肩すかしをくわせる 映画 ( シネマ ) のヴィジョンの関係性をめぐるドラマであり、またその関係の(とりわけ女性をふくめた)諸条件を論証するドラマでもある。
 『愛のコリーダ』は一貫して虚構世界内の視線の編制と運動に携わっている。クレジットが終わった最初のショットはいきなり定(松田英子)のつづまやかなクローズ・アップである。横になっている彼女は眼を見開いており、フレームの閾空間へ、すなわちカメラの方へ、眺めるひと=観客の方へと瞳をこらしている。一方、このフィルムの一番最後のショットでは、カメラと観客はその最終シーンであらかじめ確立されていた登場人物/空間システムの外に突然位置をしめ、死んだ吉(藤竜也)のそばに定が身を横たえているのを上から見おろすことになる。そのとき彼女の眼は吉の方へ向けられ、われわれの眼は吉の身体に赤で――彼の切り落された性器の血で――書かれた文字(「定吉二人きり」)に向けられる。そして事件の後日談とそれがいつ起こったかを伝える大島の声が画面の外から聞こえてくる(「定は四日間東京をてんてんとし、彼女の事件には奇妙な同情があつまった。これは1936年に起こったことである」)。スクリーンからそそがれる冒頭の宙に浮いた視線から最後にだしぬけにあたえられる距離および声までの間で、視線こそが、いわば規制化の(「事件」の、ではなく)物語によって、このフィルムの性的空間を規制するのである。はなから性的なものが視線の映像のうちにあたえられる(『忘れじの面影』のようなフィルムの装置がひきうけること)が、しかし視線はそのときまた映像にあらがって、映像の「真実」の外にも、映像の「知」の様態の外にもあたえられるのである(中絶された装置、きれぎれになったヴィジョンの首尾一貫性)。
 〔前述したように〕最初のショットで定は画面の外に瞳をこらしており、これが別の女性が表着を脱ぐ短いショットへと繋がれる。次いで定の凝視にカット・バックし(180度ラインの向こう側、フレーム内の彼女の位置に結びつかない奇妙な逆位置から〔つまり定の背中側から〕)、定のかたわらに身を横たえたその女性が自分の愛撫に応じない定に「ねっ、(見れるわよ)」とうながすまでを示す。そして次のショットで、彼女たちはふたりして雪のちらつく内庭をわたり、ある部屋の戸口のところまでやってくると身をかがめて中をのぞきこむ。ところがこれにつづくショットは、彼女たちが見るものではなく、見ているのを見られる彼女たち、わずかに開かれた引き戸の隙間に枠取られ、のぞきこんでいるその内側から見られる彼女たち、つまりカメラと観客の方を眺めている彼女たちなのである――このショットは、彼女たちが〔愛しあう〕吉とその妻をじっと窺う間五回くりかえされ、このシーンのいっさいの重要性をささえている。こうして「眺めているのを眺める」作用によって、このフィルムの恒常的な形象が打ち立てられる。すなわち、性的なものは見られ、かつ見ているのを見られる、吉と定が愛し合うとき、視線はどこか他所へ、芸者や女中たちの方へ、いつも女性の方へと送られるというわけである。『愛のコリーダ』という作品におけるこの視線の秩序は、窃視症の主題論でもなければ(もとより、視線の主体は男性から女性へ置き換えられている)、古典的な物語処理の拘束的構造でもない(そこでは登場人物の視線は、内容の形式――取り交わされるさまざまな視線の運動における 筋の規定 ( アクション ) ――の要素であると同時に、表現の形式――さまざまな映像とその配列の、その「 調和 ( マッチ ) 」の構成――の要素でもある。)『愛のコリーダ』の 境域 ( レジスター ) は、「折り重なり」という空間的な縫合プロセス(切り返しがそのもっともわかりやすい技法であるが)☆5がフィルムのうちに回収する「フレームの外」、画面外のそれではなく、「見る」に対するあらゆるフレームの、あらゆるショットの、縁取りのそれである。『絞死刑』(1968年)の最後で大島がだしぬけに画面外から語る「あなたも」という言葉も『愛のコリーダ』と同様の問題をかたちづくっている。すなわち、はこのフィルムのどこにいるのか、そしてあなたがいるこのフィルムとは何なのか? ここで「眺めているのを眺める」作用に関連した当初の定式が完成される。性的なものは見られ、しかも見ているのを見られる、そして観客はまさにその見ることにおいて見られるのである(そういう経過を伝えるささやかな梗概が、日本庭園で砂を掃く女性のかたわらで吉と定が愛し合うシーンにある。定が吉の身体の上に腰をおとすと、彼女の赤い長襦袢がスクリーンをおおいつくす。そしてその赤の映像に吉〔原文は定〕の「ひとが見るぜ」という声がかぶさる)。しかしフィルムのになるということ、フィルムのを得るということは、いったいどういうことなのか? そしてこのフィルムの場合は?
 視線と同一化の装置とは、フィルムの眺めとそれを眺めるひと(そうした眺めを得る地点、すなわち視点)にかんする 映画 ( シネマ ) の制度であり、フィルムのヴィジョンの体系のことである。それが映画とフィルムにおける性的なものを根本的に――(これについては後で詳述しよう)――提起するかぎりにおいて、大島のフィルムは、特殊な構築物(自然な再生産、単なる反映ではなく)としての装置とそのヴィジョンの諸条件を有する。映画である以上、『愛のコリーダ』も「あますところなく全てが見える」フィルムにはちがいないが、にもかかわらず、それは「見えるもの」の不可能性をめぐる熾烈なフィルムなのである。そこには統一体、すなわち眺めるひとのための眺めの 位置 ( ポジション ) へとからめとられずにはおかない空間「外」ではなく、どんなに充実した現前の映像もどんな眺めの映像も干上らせてしまう「見える無」が棲みついている。それはこのフィルムが間断なく分割している全と無、視界と視線の戸惑いにおける主体としての観客の場所の分割なのである。このフィルム中、一目瞭然の例(ここで「 一目瞭然 ( モスト・ヴィジブル ) の〔=もっとも見やすい〕」といういいまわしの逆説のうちに分裂の、全と無の、ひとつのあらわれがある)としては、恋人たちの部屋を外側からとらえたふたつのショットがある(それらはいずれも恋人たちの一方が外出からもどってきた際のものである)。そのショットというのは曇硝子戸を(もうひとつのショットでは誰もいない廊下もふくめて)おさめたもので、その曇硝子越しに色の部分とひとのかたちとが見てとれる。しかしこれは、エロティックな場面の宙吊りというなどでは断じてない。全てがあますところなく見えてしまっているのだが、他にも見えるものがあるのである。そして、それこそが、見える以上のもの、おそらくは聞こえてくるものなのである(吉が定のなかに入るときの声、「真っ暗、……何も見えねぇ……何か一面水みてえなものが流れてる……血だ、いや、赤い小さな虫だ、そいつらが、俺の眼のなかに、鼻んなかに、口んなかに……もう何も見えねぇ……いい気持だ」)、そしてまたおそらくそこに色としてあるものであろう(このフィルムの表層をなす赤、色はいつも潜在的に「見えるもの」を越えており、それは「客観的な」映像とその明透な主体とに対する脅威となる)。これと対照的に、充全たる 映像 ( イメージ ) は唯一、 幻想 ( ファンタジー ) の瞬間としてあたえられるにすぎないということは注目に価する(幻想は主体の欲望が充足されるようにおもいえがかれる想像上の脚本である)――定は車中の自分を追いかけるように土手の上を走る吉をおもいえがく。幻想とは、ほかならぬ全体としての 映像 ( イメージ ) の体制、達成するようさしだされた捜し求められるものの包括的な首尾一貫性のことである。さらにいえば、ラカンがブノワ・ジャコ監督の『殺人音楽家』の短評のなかで述べているように、「幻想は真実らしさに根拠をあたえる」★2ものなのである。『忘れじの面影』のようなフィルムはこの根拠づけのしごく典型的な例となる。それはすなわち、このフィルムのために主体=ヴィジョン(主体という 幻影 ( ヴィジョン ) )を確立するであろう装置なのであり、そのときこのフィルムは、そうしたヴィジョンの虚構とその固定化された映像=連関の諸条件をその物語のなかで主題論的に反映し、「精査する」のである。
 大島のフィルムにあっては、「見えるもの」の分裂は観客の分割された包摂の展開いかんにかかってくる。したがって前述したような映像からそそがれる視線、つまりカメラ=眺めるひと=登場人物の中継回路を、「眺めているのを眺めること」の保証を、差し戻し、腰くだけにする四番目の視線が問題となる。したがってまた、このフィルムの空間編制における登場人物の視線の特異な使用法、そのシーンの構築法、が問題となる。このような観点から「婚礼の夜」は考察されねばならない。吉と定は 杯事 ( さかずきごと ) を終えると、自分たちの前で円座を組んでいる芸者たちにうながされるまま床入りして「結婚」〔の真似事〕をまっとうする。そのとき、カメラの方へ向けられる視線(快感をおぼえない定の上にかさなった吉の視線、とふたりを見つめる芸者たちの視線)にしたがってこのカップルと芸者たちの間で部屋を横ぎるカッティングの運動が開始される。そしてそれは、吉と定の愛の行為を見て興奮したひとりの若い芸子を他の芸者たちが山鳥のかたちをした張形でおかすという独自のアクションを構成する段で、「自律的に」つづいていく運動と化す。このとき、一方に、全、性的に満たされる空間、見えないものは何もない全体的なシーンのためにさしだされる部屋の両端〔カップルのいる側と芸者たちのいる側〕があり、また一方に、満たされるまさにその瞬間に打ち砕かれる空間、すなわちシーンの分割された全体とそうした分割のうちにあたえられる観客の眺めがあり、見える(そして性的なものと快楽の循環と喪失となって見えるもののうちに生産される)無がくりかえし侵入する。性を売物にする際のひとつのフィルム的形象は、パン〔全景的効果を得るためカメラを固定して水平に動かす技法〕、積分的な「もっと」、 淫らな ( パルトゥーズ ) パーティ( いたるところに ( パルトゥ ) 眺めるひとのためのカメラ、最高頂に達する充満の秩序)、である。ところが大島のフィルムのそれは、分割としてのカット繋ぎ、どこか他所でいつもおもいおもいに結びつく空間の総計なのである。
 『愛のコリーダ』にはいま一度「婚礼の夜」と同じ形象がはたらくシーンがあり、それは『忘れじの面影』のオペラ会場での再会の場面と構造的にも主題論的にも一致する(破産的リメイクの核心のひとつ)。すなわち、フィルムもなかばをかなり過ぎたあたりで、吉と定はかれらの精力に感嘆の声をあげるひとりの年嵩の芸者に見つめられるまま愛の交換をはじめる。定はその芸者が吉のことを気に入るだろうとほのめかす。吉は芸者に触れ、彼女の上になって性交をおこなう。このシーン中、はじめの感嘆の声とほのめかしのショットは恋人たちの部屋の内側から撮られ、敷居のところにすわっている芸者を提示する。いったんその〔性的〕贈与に同意が得られると、このシーンは部屋の外の廊下の一端から撮られた移行ショットとともに旋回するのだが、その移行ショットはカメラに顔をそむけて寝そべっている老女に触れる、敷居のところにしゃがんでいる吉を提示する(定は部屋のなか、スクリーンの外にいる)。そして次のショットで吉と芸者の足越しに廊下から敷居をへだてて見た部屋のなかの定を提示して、このシーンは180度回転をおえる。それから〔吉と芸者の〕性交をえがくおよそ十個のショットは、定と芸者の顔の間と、定とカメラの方を(つまり定を、「婚礼の夜」のシーンで定の上になって芸者たちを眺めるように)眺めている吉の顔の間で繋がれる。最後に定の唇の極端なクローズ・アップから老芸者の顔(その眼は閉じられ、鬘はゆがんでいる)へ繋がれるクライマックスをへて、足越しの最初の定のショットの構図と角度にもどる。しかしこのシーンは「不完全である」。過去の女〔リザ〕をめぐるステファンの 映像 ( イメージ ) 、フィルムの視線上での映画的連結☆6から、めいめいの映像、イメージを終結させ、フィルムとシネマにおける視線の問題と歴史を提起する〔視線の〕交換(ふたりの女、吉、そして不在、向こう側)まで。つまり、母親は死んでおり(〔老芸者との性交を終えて〕吉「死んだお袋を抱いているみたいだ」)、排泄物は氾濫し、視線はスクリーンからはがれ落ち、フィルムの空間は観客の上で繕いがたく裂けている。リザを捜すステファンの眼は、観客=眺めるひとのためにもうけられた鏡であり、フィルムの物語運動はこの観客の眼に固執しながら展開してきた。ところがその眼がここでは定の唇に、(それ自体もとより分割のために用いられていた)視線上でのカット繋ぎの均衡をやぶるシークエンスの傷に、取って代わられている。大島は「このフィルム全体に死の影をよぎらせたい」★3と語る。

 ここではいったい何が問題となっているのか? 何がここでは記述されているのか? 問題は、曖昧ながらもなんとか大島のフィルムにおける映画という装置の真の問題系を把握しようとすることにある。しかもそれは、そうした装置が獲得し維持するためにはたらく秩序のさまざまな連動的要素(映像、視線、性的なものとそれらの関係)をただちに導入し、いやそれどころか、そうした要素からこそ開始されるものなのである。バザンの「彼女が眺めているのを眺める」という定式が何度か言及されたが、その同じバザンがまた「見ることの擬似的猥褻さ」に対する映画の可能性について語ったのである。実際、『愛のコリーダ』の 境域 ( レジスター ) ☆7にある。すなわち、装置は正統な状態から、そのヴィジョンの引受人から引き裂かれるのであり、視線は分裂し、観客はこのフィルムの唯一正統な眺めを、眺めるひとの単一なる 位置 ( ポジション ) を、(見)失うのである。かくして問題は、見つめることにではなく(見つめるというのは視線と同一化の様態である)、このフィルムをということはいったいどういうことなのかということになる。このような問題こそ、ヴェルトフを政治的にとらえてはなさなかったものである。彼はカメラ・アイと人間の眼のを産み出して、社会的個人の主体(観)=眼を、彼あるいは彼女の現実との操作的な――変換的な――関係に移し換えようと望んだのである。さらにブラッケイジの『自分自身の眼で見る行為』(1973年)のような侵入力、見ることによって侵された視線をもつフィルムにあっても、そのような問題は決定的であり、すくなくとも最初の5分ないし10分が経過すればそれは分明である。ブラッケイジのこのフィルムは、提示されるもの(死体公示所、人体解剖、「正視するにたえなかった」)においても提示するもの(視線の 位置 ( ポジション ) の不在、構図、高さ、動きにおいて意味の構築から切り離されたカメラ)においても、見つめることのできないものを提示し、統合された主体=ヴィジョンの首尾一貫性を剥ぎ取り、それをばらばらに切断する
 ヴェルトフが予見しそして忌み嫌った「演劇的映画」の歴史がつづいた後で、ブラッケイジ・フィルムが、大島フィルム同様、死と直接的にかかわっているというのは偶然ではない。「見ることの擬似的猥褻さ」とは死と性的なものとが通底することだからである(『見る行為』には性的なものも直接的にしるしづけられている、寸断された男の身体)。そうした通底は古典的な映画でもしられていないわけではないが、それはまさに装置と物語が映像上で、最終的には女性の 映像 ( イメージ ) (「彼女が眺めているのを眺めること」)上で、封じ込めることになっている暴力と散乱としてでしかない。『忘れじの面影』がそうしたものをめぐる劇場である以上、ここでふたたびこのフィルムとリザ/ジョーン・フォンテインの照らし出された身体へのその人目を惹く凝視について考えてみなければならない。そのような凝視のための映像が、物語 映画 ( フィルム ) の宙吊りにされた脚本、そのたえず欲望される原光景、の中心であり決定因なのである。つまり、その基盤を保証する装置によって、物語は、認知され拒絶される虚勢、差異、象徴的なもの、失われた対象の運動に、それからそうした運動の、固定記憶、傷つくことをしらない想像的なもの、回復される対象――それによる主体の統御、統一――といった諸項への 転換 ( コンヴァージョン ) に、作用するのである。フェティシズム同様、物語映画とは、記憶=見世物(スペクタクル)の構造、「ある時」についての永遠なる物語、安全な虚構によって永遠にくりかえされる発見なのである。
 以下は、物語が実際反復の秩序にほかならない古典的な映画に特有の反復の経済〔=有機的組織〕の 背景 ( コンテクスト ) である。すなわち、どんなテクストの首尾一貫性もひとえに新しい情報、進展の度合い、それに 前方照応的 ( アナフォリック ) な回想、きつく結ばれた結び目の持続的な均衡のいかんにかかっている。癒着〔シニフィアンを満たすシニフィエ〕、全体化の経済的な稠密性をめざす極端な傾向のために物語を利用するのが古典的な映画のひとつの特徴である。たとえば『忘れじの面影』はおびただしい数の一連の押韻のうちにすっぽりおさまっており、そこでは「形式」と「内容」の諸要素が鏡に映るように見いだされ、移され、そして対称的にもとへ戻される。次のような一目瞭然の押韻の例がある。カフェのシーン(別の女性との先約を取り消しにリザを連れてカフェに入るステファン/ステファンを捜しにひとり入るリザ)、列車の出発(一夜の恋人ステファンに「二週間」の別れを告げるリザ! あの夜にできた息子ステファンに「二週間」の別れを告げるリザ)、階段の上からの眺め(ステファンはまず女友達のひとりを、それからリザを、階上の自室へといざなう)、そしてもちろんこのフィルムの冒頭とラストをループ状に飾る馬車のシーン。物語にかかわり物語を決定している以上、『愛のコリーダ』にもこうしたパターンがないわけではない。物語備給のためにさまざまな要素がフィルムを横断して関連づけられ――消費つくされる――ようあたえられ(吉と定のそもそもの出会いのとき以来いくどとなく現われる刃物――「おまえ〔定〕は刃物握るよりゃ他のものを握った方がいい」〔いうまでもなく、この「刃物」が最後に現われるのは吉の性器切断シーンにおいてである〕)、押韻がさまざまなシーンやシーンの断片の間に産み出される(老芸者のシーンはそれに先行する日本庭園の女中のシーンの残響を響かせ、それに応えている。ちょうどそれが定と性交したがっているが果たせない冒頭の老人のシーンに返っていくように)。しかしこのフィルムにあっては押韻という概念はもはやかなりぎこちないものとなっている。考えうる例にしたところで『忘れじの面影』を構成するさまざまな押韻の例にみられる明瞭性――明証性――はのぞむべくもない。それどころか、『愛のコリーダ』で問題となっているものはそこで漠然と暗示されている押韻をさまざまな要素の連鎖へと散布させる経済〔=有機的組織〕の方なのである。その連鎖とは、冒頭の老人の勃起しないペニスから、「堅い」市議〔兼校長〕といっしょに枕に頭をならべる定へ、屋台の主人(「おれのはもう小便だけの道具だよ」)へ、ふたたび黒装束の市会議員へ、そして老芸者すなわち母親の屍体へとのびる死の影であり、また若い芸子の性器の唇に挿入される山鳥をかたどった張形から、鳥踊りをする唖の老人へ、吉のペニスにおしあてられた定の唇へとつづく短い発作であって、それらはこのフィルムの表層を駆け抜け、オブセッションの構造としての「形式」と「内容」のいかなる分節からも逸脱するものなのである。したがって『愛のコリーダ』における反復はやぶからぼうか、粗野かのいずれかである。シーンはたがいに反復しあう連繋下にあるものの、その連繋からはいかなる統一的記憶も、回想、進展、解決といったいかなるパターンも導き出せない。このフィルムの第一の様態はそうした組織化の様態である(それゆえ節目節目の橋渡し的な部分は欠落することになる。たとえば、階段の後からだしぬけに手がのびてきて足をつかんだり、河の向こう岸を突然人力車が左から右へ走り抜けたりするのが見えてから、新しいシーンがはじめられる)。このフィルムの進行の際の第二の、そして最終的な秩序は、絞殺シーンではたらいているそれである。三度ながながと定は吉の首を絞める。この反復は、くりかえされるごとになにか新しい情報をもたらすわけではなく、ただ正確に死だけをもたらすという意味で、粗野なものである。その死とは、つまるところ、吉の死であり、また主体の(一定のヴィジョン、意味の、そして意味のための、すなわちテクストを通して頭をもたげる主体の)フェイディング☆8である(かくして「退屈」という反応が生起する。時間における目的という、意味をなし、期待に添う〔=眺めに到達する〕という物語協定の破棄)。
 反復とは、欲望の困難な時間とそうした瞬間における免れえない差異の復活とを廃棄するために同一化へと回帰することである。したがって反復の果て――その廃棄の地平、同一と差異の窮極的な崩壊――は死である。フロイトは精神機能にかんする後期の説明のなかで、反復を衝動の本質とみなし、死の衝動に――快感原則を越えて――基本的な場所をあたえる。フロイトのこの説明のうちわれわれの議論と密接にかかわるものがラカンの「精神分析における 言葉 ( パロール ) 言語活動 ( ランガージュ ) の機能と領域」という論文によってもたらされる。それによれば、欲望とは際限のないものであり、それは、歴史的に限定された主体の「絶対的に固有な可能性」として死という限界をつきつける反復のうちに見いだされる。「この限界は、あらゆる瞬間に、そのような歴史が所有する完成された事実のなかに存在する。それは、過去をその現実的なかたちの下に表象する。すなわち、その存在が過ぎさってしまった物理的過去でもなく、記憶が作り上げたもののなかで完璧なかたちとなっている叙事詩的過去でもなく、男と女がそこに彼らの未来の保証人を見いだす歴史的過去でもない。それは反復のなかで裏返しに表明される過去なのである」。要するに「死の衝動は本質的に主体の歴史的機能の限界を表現するものなのである」★4。『愛のコリーダ』は、主体のそうした限界に、そしてまさに機能の喪失としての反復によって――独自のさまざまな過去(叙事詩的、歴史的、等)をともなって――その上に起こされたさまざまな主体= 位置 ( ポジション ) ☆9のうちに忘却された主体の絶対的過去に、接近するのである。ただしそのようなことが可能なのは――たびかさなる精神分析学の無分別に対する問いかけ――ただ歴史的に、ただある歴史(およびここで映画の制度がその一部であるような歴史)を論証することにおいてでしかない。

 古典的 映画 ( シネマ ) とは、その 作品 ( フィルム ) にあっては反復のある種の均衡、つまり、差異の運動とくりかえされた映像のそうした運動における成就の謂となる(たとえば「同一なるもの」、再発見されずにはおかない統一体としての女性)。 物語化作用 ( ナラティヴィゼイション ) 、すなわち物語としてのフィルムの生産のプロセスは、多種多様な要素を――潜在的な効果、リズム、強度、時間、差異の祝祭を――そっくり首尾一貫性(進展と回想)の線、反復の終局に結びつける均衡の操作なのである。
 達成される物語、プロセスの終結は、歴史的に特定されるものであり、その再生産のために映画的制度が展開され、利用されるの関数である。いいかえれば、小説的なものとは、映画がそこへ後継者をあてがうようにしむけられている小説同様、フィルムにおける物語の特定化のカテゴリーなのである。「ファミリー・ロマンス」☆10(最近のものでいえば『ファミリー・プロット』)というのが小説的なものの 題名 ( タイトル ) である。小説的なものが提起する問題は、現存するさまざまな社会的表象とその決定的な社会関係の範囲内で個人の意味の形式を規定し、個人という虚構を備蓄し維持する問題であり、小説的なものが遭遇する現実は、個人=主体の歴史を回想することによって永遠に解決されるにちがいない自己同一性の永遠の危機である。物語が小説的なものに由来するフィルムにおける記憶を割付けし、法として規定するのは、主体として個人を再想像する行為、つつがなく譲渡され再流用される過去の首尾一貫性としての自己同一性の表象そのものであるが、そのときの過去とは、このフィルム過去(この表象というものにおいてその知が認知し拒絶する性の歴史の断片的な記憶痕跡となってファミリー・ロマンスがそこでそっくり運ばれる回想の一般的主題を有する『忘れじの面影』)とこのフィルム過去(その方向、押韻、恒常的な 映像 ( イメージ ) 、眺めるひとのために眺めの位置づけ、見つめる主体の統一的関係を有する『忘れじの面影』)のことである。こうして『愛のコリーダ』は、主体の歴史的機能の限界に接近しながら、小説的なものに、小説的なものの産業としての映画的制度に、かかわりそしてそれにあらがっており、それこそここに示されているこのフィルム分析が示唆しようとしたものなのである。
 吉と定は、東京は赤坂界隈、花柳界、歓楽街のいまや見かけることのできなくなった時代はずれの人間たちである。『愛のコリーダ』は反復のなかで裏返しに表明される過去をめざし、その核心は絶対的に性的なものである(大島のいう「自分たちだけの快楽を追求できる」恋人たちの部屋、その閉じられた世界のなかでのように)。しかし、ここでいう「絶対的に」とは歴史的なものであり、主体の、映画をふくめた諸制度の、歴史的機能の限界のことである。このとき諸制度は、主体=機能と政治的なもの、すなわちそこで機能、主体、制度が裁定を下された最終審級中にあるような社会関係を規定するのに奉仕する。つまるところ、このフィルムの問題を構成するのは性的なもの、映画的なもの、それに政治的なものの分節である。
 このフィルムには政治的なものがきわだっており、それは〔性的なものがきわだっている〕部屋の外で句読点として機能する。たとえば、老人をこづく日の丸の旗をもった子供たち、端午の節句の鯉幟を背にして定との逃避行をことわる黒装束の市議、日の丸の旗をふる子供たちにみおくられる軍人たち、そしてラストの「これは1936年に起こった」と語る 画面外の声 ( ヴォイス・オーヴァー ) (それはあの二・二六事件の年、軍部独裁政権へと移行する動乱の年であった)。政治的なものが、このフィルム中に、これらの句読点のうちに、短い残響、感触――冒頭の雪、恋人たちの部屋、そして定のうちにおさまっているという吉の声(八紘一宇、全世界をひとつ屋根の下に、30年代の国粋主義のスローガン)――となってきわだっている。しかし、事件が起こった年を伝えるラストの大島の声は、として、やはりこのフィルムからだしぬけに身を引き離す、それはさながら性的なものと政治的なものとの分節の必然性とその不可能性とを告知でもするかのようである。とはいえ、それはやはり文字通り考ええないものなのである。
 もし〔そんなことはありえないことだが〕もしひとが可能なものと考えうるものとを確立する諸装置、表象とイデオロギー的構成物の装置、映画のような諸機械から出発しないとしたら。それゆえ性的なもの、政治的なもの、そして映画的なものが。それゆえ吉と定、また1936年フィルムではなく、映画における性的なものと政治的なものとの諸関係を、フィルムの性的政治学を提起しようと問題に取り組むフィルム『愛のコリーダ』が。このフィルムのラストの声は歴史的過去をドキュメントするのではなく、複合的な歴史的現在を明示する。それは性的なものと政治的なものとの主体存在する歴史の問題なのである。したがってその効果において、ラストの声は、『ブリュメール一八日』の冒頭でマルクスが「 文句 ( フレーズ ) を越える」内容について、「形式」/「内容」という区分そのものの固定的粋組みを粉砕する根本的に新しいものについて語るときにもくろんだものに匹敵しよう。映画は研究(精神分析学的なそれもふくめて)の対象にとどまるものではなく、政治的なものはその認知された諸審級のうちに封じ込められるものではない(「認知されたもの」はなんであれことごとく変革しなければならない)。そして映画と政治的なものはともに性的なものを引き寄せたかとおもうと、今度はその性的なものに取って代わられる。以上が、あの複合的な現在、大島のフィルムの問題である。こうした文脈にあっては、いたずらに困難なシーン(年増芸者の強姦、卵)や、定の描写におけるポジティヴな面やネガティヴな面を論じてみても問題の批判的力を見失うばかりである。というのも問題は、あれかこれかの表象ではなく、表象という事実、映画における表象という事実なのであり、これこそが議論の種々の困難さとその条件をもたらしてやまないものだからである。『愛のコリーダ』は『忘れじの面影』にほど遠いというわけではないということをおもいだすがよいだろう。

 最初の逸話に、つまり斎藤〔内大臣〕、レセプション、暗殺、流産する反乱に話をもどそう。もちろん〔レセプション会場で上映された〕『浮かれ姫君』はそうしたこととは無縁の純然たる逸話にすぎない。とはいえ、それは『愛のコリーダ』という過去(歴史上の諸事件)にかかわるフィルムのパースペクティヴにおいて、映画の距離と現前と呼ばれてしかるべきものについての作品をしあげるためにここに引用されているのである――映画、それは遠くへだたっており、さしたる重要性ももたないが、にもかかわらず本質的で、「われわれ」のきわめて身近に存在する(わたし自身の 見世物 ( スペクタクル ) 、わたしのための映像)。『浮かれ姫君』、斎藤、『愛のコリーダ( 意味=感覚 ( センス ) の帝国)』☆11、現代日本(その今日性とは大島にとって帝国主義の復活にほかならない)――大島の現実的なものはそのどこかに、それによってフィルムと観客の間でなされうるもののうちにある。フィルムにあって映画という制度とは何なのだろうか? その映像の生産条件は? あなた(「あなたも」)の操作は? 歴史は? 大島問題。

ポストスクリプト

「わたしはどこか他所を違うように眺める、 見るべき物 ( スペクタクル ) とてないところを」
エレーヌ・シクスス★5
 一年余あまりたって小論を読みかえしてみると、執筆時に『愛のコリーダ』によりそいすぎたためであろうが、小論もこのフィルムの問いかけ、「大島問題」同様、ある種の直接性を欠落させてしまっていることがわかる。小論が一貫して問うているものは、あきらかに(かろうじてではあるが)映画における表象と性差の問題全般、大島のフィルムによって痛烈につきつけられた問題である。というのも、それこそがこのフィルムの関心事であり力点だからである(こう強調するのは「愛のコリーダ」の使用価値をささやかながらも示そうとおもうからであって、それが「良いフィルム」だと主張するつもりは毛頭ない。それこそ、まさしく「愛のコリーダ」がフィルムについて、シネマについて、問いただす概念なのである)。さらにいえば、このフィルムのそうした痛烈さに対して実にさまざまな反応があった。『愛のコリーダ』を敵対視するフェミニストもいれば、逆に評価するフェミニストもいたのである。そして商業的に上映されるところではこのフィルムは女性(女性たちがいきおいフェミニストであるとはかぎらないが)の話題の的になることもしばしばであった★6
 小論は『忘れじの面影』の分析を通して次のようなことをあきらかにしようとするものである。すなわち、このフィルムの唯一の想像的なものは「正統なる女性」であり、唯一の意味するものはファルスとしての視線、秩序としての、『忘れじの面影』の(そして複数の視線を中継するシネマとして生産されるフィルムの)装置としての視線であり、そしてそれは、眺められる 舞台 ( シーン ) 、男性の凝視のための女性の劇場、全体的な 見世物 ( スペクタクル ) を際限なくリメイクするのに奉仕するものである。想像的なもの? 意味するもの? 「唯一の」というのはただそこで『忘れじの面影』が中心化され、その象徴的な組織とヴィジョンの物語劇の時間と運動と過剰がそこに結びつけられているあの構造化された布置、固定化された関係のうちに、いかなる差異もからめとられてしまっているということをいっているにすぎない。したがってこのような文脈にあって重要なのは、そうした関係における女性たちの場所、女性たちのための視線の場所の問題、視線における備給の欠如を強調することでしばしば考察されてきた問題にほかならない。イリガレーが述べているように、「視線における備給は女性の場合は男性ほど特権化されていない。視覚は、他の感覚以上にものを対象化し、支配する。視覚は距離をもうけ、それを維持する。われわれの文化にあっては、視覚の、嗅覚、味覚、触覚、聴覚に対する優位は、身体の諸関係の低下をもたらした。視覚は、身体からセクシュアリティを分離するのにあずかったのである。視線が優位にたつ瞬間、身体の物質性は(見)失われる。そのとき身体はとりわけ外在的なものとして知覚され、性的なものは高度に限定され、諸器官の問題にとどまらなくなる(しかも諸器官は生きている全体におけるその集積地から分離されるのである)。男性の性はことのほか 目に見える ( ヴィジブル ) ものであり、勃起は 壮観な見物 ( スペクタキュラー ) であるから、男性の性が唯一正統の性となるのである」★7
 ここで、小論が大島問題として論証し明確にしようとするものがその効力を発揮する。『愛のコリーダ』は小論の結論が強調するように、『忘れじの面影』にほど遠いというわけではないし、このオフュルス・フィルムの問題系の外に位置するというのでもない。それは、むしろ一種の根本的な近接性のうちに発見されるこのオフュルス・フィルムの危機なのである。『愛のコリーダ』は諸限界へ、映画の諸限界へ、そしてこのオフュルス・フィルムの布置における表象と性差の問題へと前進する。それというのも『忘れじの面影』のようなフィルムのなかにいる女性は自分の代わりに男性の欲望を表象することになっているからである――いいかえれば、そうした女性は欲望を社会的に表象する条件項として存在することになっている。そしてその欲望というのは、分割(「男性」/「女性」という社会的な操作)とそうした分割にもとづいた抑圧(一方のカテゴリーがもう一方を支配することは避けられないし、また正当な「権利」でもあるとする差異)の構造によって決定され、さらに逆にそうしたものを再決定するものなのである。大島自身も『愛のコリーダ』について、彼ならではのいくぶん暗示的な口調でではあるが、まったく同じことを述べている。「脚本を書く段では、僕は女をえがくのだけれど、いざ撮影となるともっぱら男をえがいてしまう」★8。大島のフィルムは、小論が示唆するさまざまな方法で『忘れじの面影』をまさに戸惑わせ、効果的に撹乱させている。しかし、にもかかわらず、彼のフィルムはそうした戸惑いと撹乱の基盤――――上で『忘れじの面影』に間断なく再参入するのである。つまるところ問題は、映画という事実の、この19世紀末の機械(「 女性性 ( フェミニティ ) の本質の謎」とフロイトが呼ぶものについて永遠におもいなやんでいる精神分析学と同時期に産声をあげたもの)とある特定の表象機能、男性の欲望の構築におけるその錯綜の問題にほかならない(精神分析学もまたそう? その歴史におけるこれら〔分析者と被分析者との〕決定的な出会い――ブロイアー、フロイトとアンナ・O、フロイトとドラ、ラカンとエメ――はまったくの偶然だろうか?)もちろんこれは映画的実践の多様性を考慮に入れておらず、問題はそれだけで割り切れるものではない(挿入的に精神分析学に向けられた問いかけ同様)。にもかかわらず、そうした問いかけこそが重要なのであり、それは、どんなシーンでもいいからそれを取り戻し、その物質的諸効果のプロセスにおいてフィルムを把握しようとするもの(「構造的/物質的」戦略)であれ、別のシーン、女性たちのための新しい関係、を産み出そうとするもの(たとえばミュジドラ・グループがそのアンソロジー『言葉……それは変転する!』★9を通してくわだてる「新言語」)であれ、他にとるべき実践を告知するにちがいないのである。そして今日、とりわけ『三人の女』〔R・アルトマン監督、1977年〕から『愛と喝采の日々』〔H・ロス監督、77年〕まで、『グッバイ・ガール』〔ロス監督、77年〕から『コーマ』〔M・クライトン監督、77年〕まで、主流映画においてあきらかに女性のイメージとしての女性たちの映像が入念なイデオロギー上の関心の焦点となっている今、この問題が問われているのである。小論が『忘れじの面影』から『愛のコリーダ』にいたる分析の展開のなかで強調したいことは、そうしたことがまさに大島問題、彼のフィルムの関心事と力点にほかならないということである。
 映画という特定の文脈を越える関心事と力点。小論が大島のフィルムを記述する際につかう用語は、たとえば、女性たちの視線における非=備給という概念を展開するイリガレーの次のような一節の残響を多少なりとも響かせている。「見える無が、すなわち視線によって熟視=熟考によって統御できないものが、なんらかの現実性を獲得するかもしれないということが男性にとってはどうにも我慢のならないことなのである。なぜならそれは男性の表象の理論と実践を脅かすものだからである」★10。『愛のコリーダ』は、表象の戸惑いにほかならぬ「見える無」の可能性に横断されている。しかしそうした可能性はある外部からさしだされる類のものなのではなく、逆に、表象の体系、一定の機械の内部そのものに矛盾として生産されるものなのである。したがって、意味のさまざまな 位置 ( ポジション ) と関係の制度が問題なのであって、回復されるべき本質が問題なのではない。そして見える無は、そうした制度の内部から、その抑圧の構造、その特定の構築の核として、またそれにあらがう核として、把握されるのである(ちょうど、イリガレーが言及する女性の性の「不可視性」といういいまわしが、たんに女性を男性の側から定義=限定し、女性を男性の表象と権力の 舞台 ( シーン ) とする秩序の比喩形象にすぎないように)。かくして映画は、どんな直接的な意味でも男たちと女たちで分けられるのではなく、映画の表象とその生産において、映画が引き入れる主体性における「男性」と「女性」の意味の 位置 ( ポジション ) と関係で分けられるのである。したがって、女性に根源的に欠落しているものからではなく、イデオロギー的に認められる女性の視線における備給の欠如によって、女性たちは一種の古代の官能性(彼女たちが男たちに歴史的に収容されてきた場所)へと送り返されるわけである。
 暫定的で限定的な方法でとはいえ、小論は、これら映画、表象、性差といった問題にさかれているが、マックス・オフュルスのフィルム『忘れじの面影』についてはほとんど論じられていない(今日「マックス・オフュルスの作品」に対する関心はアカデミックなもの、 映画 ( フィルム ) 研究および批評の分野以外のなにものでもない)。実情は、あきらかに「オフュルス」というのが当時の標準的なハリウッド映画製作のある種の悪化に対する名称であるということである。そうした悪化がヴィジョンの、また女性のヴィジョンの、真性のマンネリズムであるということもまたしかりである。仮装舞踏会☆12によって、ほかならぬテクストの表面が割付けされ、なる。それは「唯一正統なる女性」の仮装舞踏会(宝石類、毛皮、鏡に囲まれたきらびやかな女らしい女性)であり、「フィルムのなかの唯一正統なる女性」の映画の対象の、追跡され到達される対象の仮装舞踏会である(『たそがれの女心』〔一九五三年〕のなかのその極致における、認知され、漠然と見えもする不可能性へとあたうかぎり接近し、切れ目なく運動量が充当される場に身を置きたいという欲望の、女性の 見世物 ( スペクタクル ) の、視線のための女性の、切れ目のない 追跡行為 ( トラッキング ) の切れ目のない魅惑の切れ目のない言表行為)。ハリウッドのフィルム、オフュルス・フィルム、『忘れじの面影』は、映画のなかで、映画として保持されている女性と視線と物語とシーンの諸関係を論証する際に、典型とはいいきれないにせよ、格好の例を提供してくれる。したがって、それ自体『愛のコリーダ』にたんにほど遠いというわけではないのである。

 本稿はまずWide Angle vol. 2 no. 1 (1977) pp. 48-57に発表され、次いでÇa no. 15 (1978) pp. 9-23に‘D’un regard l’aute’としてフランス語で書き改められ発表された。再録にさいして、冒頭と終わりの部分に若干の変更を加えたほかは、最初の英語版のままである。「ポストスクリプト(追記)」は、1978年、エジンバラ・フィルム・フェスティヴァルでマックス・オフュルスのフィルムの回顧展がひらかれた際発行されたパンフレットに本論を収録するために書かれた。Paul Willemen ed., Ophus (London : British Film Institute, 1978) pp. 85-87.なお、この「ポストスクリプト」で提起される性的表象の問題は、‘Sexual Difference’, Screen vol. 19, no.3 (Autumn 1978) pp. 51-112で詳細に論じられている。


原註
★1 André Bazin, ‘Théâtre et Cinéma’, Qu'est-ce que le cinéma ? vol. Ⅱ(Paris : Cerf, 1959) p. 87.
★2 Jacques Lacan, ‘Faire mouche’, Nouvel Observateur no. 594 (29 March-4 April 1976) p. 64.
★3 Oshima, Interview, Cinéaste vol. Ⅶ, no. 4 (1977) p. 35.
★4 J. Lacan, Écrit (Paris : Seuil, 1966) p. 318.〔ただし引用にさいしてヒースは若干の変更を加えている〕
★5 Hélène Cixous, ‘Entretien avec Françoise van Rossum-Guyon’, Revue des sciences humaines no. 168 (1977) p. 487.
★6 『愛のコリーダ』を評価するものとしては、たとえばCinéaste vol. Ⅶ, no. 4 (1977)中のRuth McCormickによる論評、およびLes Cahiers du GRIF no. 13 (October 1976)中のFrançoise Collinによるものを見よ。『愛のコリーダ』に終始論及するものとしては、Marie-Françoise HansとGilles Lapougeがインタヴューと証言を集めて編算したLes Femmes, la pornographie, l'érotisme (Paris : Seuil, 1978)を見よ。
★7 Luce Irigaray, in Les Femmes, la pornographie, l'érotisme, p. 50.
★8 Oshima, quoted in Cahiers du Cinéma no. 285 (February 1978) p. 72.
★9 Des femmes de Musidora, Paroles…… elles tournent ! (Paris : des femmes, 1976).
★10 L. Irigaray, Speculum : de l'autre femme (Paris : Minuit, 1974) p. 57.
 なお訳出にさいして、既訳のあるもの(バザン、小海永二訳『映画とは何か』、ラカン、佐々木孝次他訳『エクリ』)はそれを参考にしそれにしたがったが、文脈上既訳書から離れたところもあることをお断わりしておく。


訳註
☆1 「鏡像段階」の逸話からもあきらかなように、映像が想像的なものをしるしづけ、「主体」という虚構を準備する場であるとすれば、不在の映像、視線の黙殺は象徴的なものがたちはたらく場となるであろう。想像的なものが調和のとれた中心、無媒介的な同一化を可能にする一方、象徴的なものはたえざる差異の運動として「もっと」を要請せざるをえない。それは失われた対象へたどりつこうとする無限の運動だからである。
☆2 フィルムにおける性描写や犯罪者のあつかい等に対する自主規制コード。30年代のハリウッドに成立し、改正されながらなお今日に影響をおよぼしている。
☆3 「その夜」できた子供は父親の名をとってステファンと名付けられる。したがってリザはステファンの母親であるわけだが、真に母親(永遠なる女性)を欲しているのはステファンSrの方である。
☆4 原文は「コクトー(とジャン=ピエール・メルヴィル)の『恐るべき子供たち』(1950年)」となっているが、これはヒースのおもい違いである。あたかもヒースにあって法(父親、ファルス、制度、文法)とは戦略的かつ意識的にだけ回避されるべきものではなかったかのように。
☆5 「新しい映画のために」参照。
☆6 『忘れじの面影』のような古典的フィルムを見るとき、そのヒロイン、男の登場人物、そして(男性の)観客の三者間には欲望の円環といったものが成立する。フィルムのなかで生起するいっさいのものは、男性の視線と、その対象(ヒロイン)の現前と不在(というのも不在こそが「唯一正統なる女性」の 映像 ( イメージ ) を生成させる装置だから)の構築にささえられている。そうした欲望の円環が個々のフィルムを映画的制度のうちに位置づけるのである。ところが『愛のコリーダ』にあって事態は逆転する。男性の視線は定のそれ(と唇)に取って代わられ、その性的な対象(老芸者)は吉と定の視線のやりとりの中で分断されている。
☆7 古典的なフィルムにあっては視線と視界とはいわば同義語であり、視線のむかうところには必ず視界があった。両者は共働して観客が首尾一貫したヴィジョンを、「主体= 位置 ( ポジション ) 」を、獲得するのに奉仕したのである。いいかえれば、観客がいま自分がどこにいて何を見ているのかがたちどころに理解できるのは、様々な視線(カメラの、登場人物の)が明瞭な視界を構成するよう経済的に組み合わされていたからである。たとえば「切り返し」とは、まさにそうした視線と視界との幸福な結婚を約束する映画話法にほかならなかった。登場人物の視線は、それが送り届けられるべき対象空間、すなわち登場人物の(そして観客の)視界へとカッティングされたのである。一方、非古典的フィルム、『愛のコリーダ』の、たとえば冒頭部の定の画面外への視線は、いかなる視界を有するというのか?
☆8 ラカンによれば、ひとは本来的な自己(とやはり呼ぶべきであろう本質的な部分)とそこから永遠に隔たってある意識的な文化的主体とに分裂している(傷のあるところに主体がある)。その結果、ひとの本来的なものは疎外されたかたちでしか、代用のかたちでしか姿をあらわさない。こうした象徴界における主体の分裂、あるいは無意識の発生という意味で、「主体のフェイディング」は去勢と呼ばれる父の介入を契機とする。
☆9 「新しい映画のために」参照。
☆10 「フロイトによって創られた表現で、主体が両親との関係を想像上で変更する幻想を示す(たとえば自分を棄て子と想像する)。このような幻想はエディプス・コンプレックスにもとづいている」。――ラプランシュ/ポンタリス、村上仁監訳『精神分析用語辞典』より。
☆11 意味=感覚 ( センス ) の帝国」とは『愛のコリーダ』のフランス版(というかオリジナル・ヴァージョン)の題名である。
☆12 「女性がフェミニティの本質的な部分を、つまり仮装舞踏会におけるその装身具を、投げ棄てようとするのは、ファルス、すなわち<他者の>欲望のシニフィアンであろうとするためである。女性が、愛されると同時に欲望されようとするのは、彼女の本質ではないもののためである。しかし彼女はみずからの欲望のシニフィアンを自分の愛の要求が向けられる男性の身体のうちに見い出すのである」(J・ラカン)。
 「精神分析学者たちは仮装舞踏会が女性の欲望に照応するという。これは、しかし、わたしには正しい見解だとはおもえない。それは、女性たちがなにがしかの欲望を回復するために、男性の欲望に参画するために、自分自身の欲望を投げ棄てるという代価を支払っておこなうこととして理解されねばならないはずである。仮装舞踏会にあって、彼女たちは欲望の支配的経済にあまんじ、みずからを『売り』に出しておくようにする。仮装舞踏会なるものによってわたしは何を理解するか? とりわけフロイトが『フェミニティ』と呼ぶもの。たとえば、ひとは女性に、しかも『普通の』女性になるべきであり、その一方で、男性ははなから男性である、ということを信ずること。男性は自分が男性であることを完遂しさえすればいいのだが、女性はといえば、普通の女性にならなければならないのである。それは、つまり、フェミニティという仮装舞踏会に加わらねばならないということである」(L・イリガレー)。


訳者附記
 
本稿はStephen Heathの“The Question Oshima”の全訳である。ただし邦訳題名は全体の文意から「映画のセクシュアル・ポリティクス」と改めた。著者のスティーヴン.ヒースは――おそらくこれが日本で最初のまとまった翻訳紹介になるとおもうのだが――今年39歳になるケンブリッジのフェローである。著書にはここにその一章を訳出した『映画の諸問題』(1981年)の他、『転移の眩暈』(74年)、『セクシュアリティ』(82年)等がある。イギリスの『スクリーン』誌の常連執筆者のひとりであり、いまやよくもわるくも英米の映画理論の指導的役割をになっている。


新しい映画のために――フェミニスト・エッセイ

加藤 幹郎

【1】縫合
 ラカンにしたがうなら、自我とは 映像 ( イメージ ) のことである。わたしが最初に獲得する自我(統一的全体)は鏡像という外的な反映のうちにしか存在しない。映像へのこの全幅の信頼、想像的同一化なくしては統一体たるわたしもまたありえないというわけである。
 一方、スクリーンというもうひとつの鏡(銀幕)の上にはもはや同一化すべき自己の姿はない。代わりにわたしを待っているのは登場人物のあのおなじみの姿である。とはいえ、映画館を訪れたわたしが同一化するのは厳密にいって登場人物そのものではない。わたしはスクリーンを眺める。そのかぎりでわたしの同一化の対象は登場人物の視線であり、カメラの視線である。わたしの視線はそれら二種類の視線と共犯関係を結ぶ。そして最終的にわたしが同一化するのは、すでにメッツが指摘しているように、それら複数の視線をひとつに束ね、視線の連鎖にひとつの方向=意味をあたえる者としての「わたし」である。さながら銀幕を前にしたわたしは(いながらにして世界のどこへでも出かける)遍在者であり、(万事お見通しの)全知者である。この超越的な主体になるということが、わたしが映画の観客になるということなのである。もしそうした同一化がおこなわれなければ、どんなフィルムもわたしには理解不可能なものとなるだろう。
 「切り返し」と呼ばれるひとつのありふれた映画話法がある。これを例にとって映画的言説がどのように「観客」を生産しているかおさらいしてみよう。
 「切り返し」は、すくなくともふたつのショット――登場人物(顔のクローズ・アップかバスト・ショットで)の画面外へそそがれる視線(S1)とその視線の対象(S2)――から構成される。映画を見るということは、たとえばこのふたつの異質なショットをひとつの有意味な単位へと擦り替えることにほかならない。つまり登場人物はいまある対象を見つめているのだと了解するとき、わたしは映画の「観客」となっている。無論、その擦り替えを容易にするのが虚構世界の連続性という概念である(この下位コードがなければ物語映画に物語は存在しないことになるだろう)。S1がわたしのために想像空間を切り開き、S2がその傷口にわたしを縫い取ってくれる。この縫合プロセスはS1/S2間の亀裂を埋め、わたしは映画の想像界と象徴界の接合のうちに映画の観客となるのである。
 このふたつのショットの順序が前後している場合はさらに事態は明白である。まず何者かの視線がそそがれている(であろう)対象のショット(S1)があり、次いでそれを眺めている(はずの)登場人物の顔のショット(S2)がつづく。このとき重要なことはS1にはそこに示されている対象を眺め、そしてまさにその眺めることにおいて対象を支配する「見る主体」が欠落しているということである。ところがこの不在の主体は次のS2でみごとに補填される。S1の不在者の視線はS2の登場人物の視線に置き換えられるわけである。くりかえしいえば、わたしが映画の観客になるのはまさにこの瞬間である。この「切り返し」において、わたしはS1に棲まう徹底して異質な視線、いかなる意味でも同化不能であったはずの不在者の視線をS2の登場人物の視線という代用のかたちでみずからの視線と誤認することができるからである(ラカンによれば縫合とは「擬似同一化」のことである)。こうしてショットのすみずみまでわたしの視線は滲透し、わたしはフィルムに統一的意味をあたえる超越的な主体となる。いいかえれば、S1 のカメラの視線(言表行為の水準)をS2の登場人物の視線(言表の水準)へと擦り替えるとき、わたしは想像世界へと縫い取られるばかりか、不在者の視線=登場人物の視線=わたしの視線という誤認による一連の視線のサーキットを通して文字通り断片的なフィルムに秩序をもたらす「観客=主体」となるのである。〔関連→【3】【4】

【2】イデオロギーと主体
 ヒースによれば、物語映画は 模倣の力 ( ミメーシス ) 虚構世界 ( ディエジェーズ ) の一貫性によってわたしをひとつの場所に位置づける。わたしがスクリーンに認める「現実」の精確な反映(映画ほど「現実感」に満ちた表象物も他にないだろう)とわたしの得心のいくように物語を展開する虚構世界の連続性の論理(これがカット割りやカメラの移動による視点のたえまない変更を回収する)とが、わたしをひとつの特権的な視点に位置づけ、フィルムの首尾一貫した意味の生産者にしたてあげる。したがってここで映画的言説は二重の表象に貢献していることがわかる。すなわち主体の表象と主体への表象である。観客とは意味の受け皿としてフィルムのいいように鋳造された者のことをいい、フィルムとはそうした受け皿のために、そしてそれによってしか「完成され」ないもののことをいうのである。
 かくして映画を見るということはその映画的言説を支えるイデオロギーの担い手になることを意味する(イデオロギーとは、それと認められる「劇場のイドラ」であるというよりは、いつもなにかしら「自然な」、ごく「普通の」おなじみの観念のことである。というのも、そこで世界はひとつの完結した意味に満たされ――イデオロギー的活動はいつも完結文とともにやってくる――いかなる疑問もさしはさむ余地のない明透な均質空間――真理の場所――として成立するからである)。アルチュセールが示したように、イデオロギーはまずわたしを既成秩序の枠組の中に、その特定の位置に固定する。そしてその場所でわたしはある一定の役割を引き受けることになる。その役割とは、みかえりも大きいが、つまるところそのイデオロギーの延命に奉仕することである(わたしの言動は首尾一貫したものでなければならない、さもないと制度はわたしに秩序と安寧をもたらしてはくれまい)。主体とはひとつの場所のことである。したがって同時にいくつもの位置を占めるなどということは悪魔の仕業だということになる。矛盾しながら平然としていられるのは狂人(あるいは同性愛者?)なのである。
 鏡像段階の逸話は、銀幕が統一的全体という幻想を準備する場であることを示している。観客=主体とは、フィルムの意味生産とともに練り上げられる虚構であり、それは映画を含めた諸言説によって、そしてその中でのみ構成されるイデオロギー的操作の効果なのである。だから映画とその観客の間には、軋みをたてるもの、ひびの入ったもの、要するに異質なものは入り込む余地がない(観客=主体はそうした傷をかばうための擬態である)。ところがわたしはかねてより生きた矛盾でありたいと願っている。いかなる言説にあってもそのイデオロギーの埒外にありたいと(そうした夢/現実をかなえてくれるフィルムにわたしは熱をあげる)。〔関連→【5】

【3】映像の反フェミニズム
 
たとえばそうブニュエルの『欲望のあいまいな対象』。この奇妙な恋愛映画が魅力的なのは、それがほかならぬ映画の観客についてのフィルムだからである。ラカンの影響がその誕生に一役買ったであろうこのフィルムは、映画の観客がスクリーンの中の女性と伝統的にどのような関係を結んできたかなぞらえてみせる。女優の二人一役という尋常ならざる演出法で話題をまいたこのフィルムは、しかし、たとえば『サイコ』でシャワーを浴びながら凶刃に倒れる裸身がジャネット・リーのそれではないといった水準での二人一役を問題にしているのではもちろんない。
 主人公のマチゥ/フェルナンド・レイは自分の熱愛するコンチータという娘が二人の女優によって演じ分けられているということに最後まで気づかない(一方、このフィルムの観客で彼女たちを見分けられなかったひとなんて本当にいるのだろうか)。理知的で痩型の女(キャロル・ブーケ)とどちらかといえばラテン的な豊満さを誇る女(アンジェラ・モリーナ)の二人がそれぞれ演じるのは映画が飽くことなく女性たちにふりわけてきた天使/娼婦というふたつのタイプである。マチゥに従順ではあるが最後の一線だけはゆずらない女(C・ブーケ)と、彼をさんざんじらしたあげく他の男に身を任せてしまう女(A・モリーナ)。マチゥは結局コンチータという一人の分裂症気味の娘にいいようにふりまわされることになる。誰もが彼の見ることの無能さ(とその必然の結果としての性的不能)に失笑を禁じえない。
 しかしマチゥの滑稽さとは、つまるところ(男性の)観客の滑稽さにほかならない。しかもこの滑稽さは二重化されており、その二重性ゆえに『欲望のあいまいな対象』はすぐれて 性の政治学 ( セクシュアル・ポリティクス ) の場となるのである。まず確認しておきたいのは、女性の身体、とりわけその顔はいつも男性の視線のために存在してきたということである(『バス停留所』の主人公の、ナイトクラブの客全員の視線を無理やりショー・ガール/マリリン・モンローの一点へと集中させることになる。わたしもまた右にならえだ)。このことをふまえた上で、滑稽さの第一は、そもそも恋する男性に相手の女性の顔を見分けさせることなどできない相談だということである。単論理的で偏執的な恋する男性が見るものは、ただひとつの投射されたイメージ、ひとつの想像的なもの、ひとつの「全体」だからである。そうした恋する男性マチゥの滑稽さが「恋愛映画」を見る(男性)観客の滑稽さに通底する。誰が恋愛物語のヒロインを演じようとわたしにとっては同じことである。わたしが見とれるものはただ彼女の美しいイメージだけなのだから(ドミニク・サンダとデルフィーヌ・セーリグの美しさの差異を彼女たちの 映像 ( イメージ ) と切り離して論じることはできるのだろうか)。「美しい」という伝統的に女性たちのためにとってきておかれたようにおもわれる唯一最大の形容詞が彼女たちの「本当の」顔を塗りつぶす(恋は盲目という諺は映画館の中の闇のことをいっているのではなかろうか)。滑稽さの第二は、精神分析学上の逸話(去勢の不安)に起因する。イリガレーによれば、男性には見えるもののファルス的体制というものが存在する(「勃起は 壮観な見物 ( スペクタキュラー ) である」から)。そしてペニスを欠落した女性とは、つまるところ無を所有している(したがってファルス的体制からすれば女性などあって無きがごときものだということになるのであろうか)。しかし、男性にとってはその無(去勢の痕跡)が脅威の対象となる以上、それをことはできない。それで男性は女性の無に蓋をするという防禦策を講ずる。彼は彼女に「仮面」をつけ(仮装させ)、無を、この異質なるものを封じ込めようとするのである。その結果、女性は毛皮と宝石を身にまとい「仮装舞踏会」に登場することになる。光り輝くものに身を包んではじめて女性は男性のファルス的体制、 見る ( ヴィジョン ) ことの体制に参列することを許されるのである。彼女はもはや「見えない無」ではなく、それどころかひときわ人目を惹く 「美しい」顔=仮面=映像をもった存在であり、男性の視線の明確な対象となるのである。そして銀幕というものが(精神分析学と同時代に産声をあげたイデオロギー的装置が)この見られるためにだけ存在する光り輝く女性にとって恰好の棲家となったことはいうまでもない(映画が長年培ってきた「女性のイメージ」)。したがって『欲望のあいまいな対象』の中でマチゥが盲目なのは彼が恋をしているためばかりではない。男性はそもそも(恋をしていようがいまいが)女性が見えないのである。これが滑稽さの第二である。わたしがコンチータを見分けられるとすれば、それは彼女を虚構世界の人物として、銀幕を通して眺めているからである(銀幕とは自己同一性を保証する装置ではなかったか)。しかしひとたびマチゥ同様、映画的制度という「現実」の中に引き込まれると、わたしはジョーン・フォンテインとカトリーヌ・ドヌーブとの区別すらつかないであろう。
 さらに、いうまでもないことだが、二人の女優が演じ分けているはずの天使/娼婦という二項も、実際は共犯関係によって貼り合わされた一枚の「女性のイメージ」の表裏にすぎない(「天使」というのは男性の意のままにならぬ女性の名称であろうか)。女性は男性に対していつもこの偽りの二項対立の原則を遵守しておかねばならず、それ以外の何者か、第三項であることは禁じられてきたのである。したがって映画のヒロインは、ジョーン・フォンテインによって演じられようとも(ヒースが指摘しているように、『忘れじの面影』の彼女はステファンの愛人/母親――娼婦/天使のヴァリエイション――である。一方、彼女が『面影』、『断崖』、『レベッカ』等を通じ一貫して妻の座に安住できない女性を演じていることはさらに下位の問題系を構成しよう)、カトリーヌ・ドヌーブによって演じられようとも(『欲望……』が『哀しみのトリスターナ』のリメイクであることは明白である)、とにかくただひとつのイメージとして生産されてきたにすぎない。そして男性はそうしたイデオロギー的操作の内にもっぱら恋する(そして見る)主体として位置づけられてきたのである。
 心に開く傷口をもった恋するわたしは、そうした映画的言説の論理の内に縫い取られながら、自己を偽りの姿のままに縫合するしかないのであろうか。「欲望の対象」は、その償えない不在によって永遠の遁走劇を産み出す。それはマチゥにとってばかりではなく、わたしにとっても曖昧なのかもしれない。〔関連→【1】

【4】四番目の視線
 
演劇と映画を隔てる一本の境界線が視線に沿って引かれている。舞台の俳優は平土間の熱い視線に応えてそこに直接、視線を返すことができるが、映画の俳優には観客と視線を交わす瞬間はないというわけである。しかし改めて指摘するまでもなく、そうした境界の神話にはいかなる正当性もない。わたしは映画の中でまれに登場人物の視線にさらされることがある(それはヒースによって「四番目の視線」と名づけられる)。映画を通してわたしははじめて登場人物の顔を発見する。クローズ・アップというすぐれて映画的な技法が、わたしをひとの顔の間近に、その眼差しの下におくのである(すでに別のところで、『1900年』や『イワン雷帝』の主人公たちの眼差しがどのようにわたしにそそがれていたかを詳述したことがある)。
 映画の見ることの体制がそこに全精力をかたむけてきた顔のクローズ・アップ。『イノセント』(ヴィスコンティ)の超クローズ・アップが切り取るG・ジャンニーニの重たげな瞼の線とけわしい鼻梁の線は、いわば顔の中に書きこまれたもうひとつの顔を浮かび上がらせてしまう。顔の上のもうひとつの顔、これこそメロドラマの奇跡ではないか! ベルイマン映画ではすべてはリヴ・ウルマンの長い静かな凪のような瞳の中で生起する。アル・パチーノの醜怪な顔に輝く瞬間が訪れるとすれば、それは彼の眼差しが自分にむけられる人物のそれをかすめて、どこかあらぬほうへとさまよいだすときをおいてほかにない。あるいはジェーン・バーキン(『ラ・ピラート』、『ガラスの墓標』、『ジュ・テーム……』)が「いい女」であるとすれば、それは彼女にとって相手に見つめられることと相手を見つめかえすこと、話しかけられることと話しかけること、そして愛されることと愛することとがいつも同じひとつの行為だったからではないか。とまれ顔のクローズ・アップの類型学は他にゆずるとして、いまはその下位コードたる視線の問題にもどらねばならない。
 ヒースは、メッツにならって、映画が三つの視線の回路からなることを指摘する。すなわち、虚構世界内での人物たちの視線のやりとり、それを眺めるカメラの視線、そしてさらにそれを眺める観客の視線、である。これら三つの視線が結局は観客の視線に収斂するのに対して、そうした同一化の回路を御破算にする「四番目の視線」の存在をヒースは暗示する。すなわち登場人物の画面外へ、カメラの方へ、つまりわたしの方へとふり向けられる視線のことである。無論、この第四の視線は伝統的な「切り返し」のように虚構世界内へ回収されたりはしない。普通の「切り返し」の場合、登場人物の画面外への視線は必ず画面内にその視界をもっている。登場人物の見る対象がスクリーンからこちら側にこぼれ落ちるようなことはないのである。ところがヒースが「婚礼の夜」と呼ぶ『愛のコリーダ』中の一シーンはどうであったか。そこでは性的な場面がカメラへ(わたしへ)と向けられるふたつの視線に沿って 分割=接合 ( カッティング ) されていた。つまり定と吉の性行為にそそがれている(はずの)芸者たちの視線は、定の上に重なった吉の視線――芸者たちにそそがれている(はずの)彼の視線――に切り返される。したがってわたしがスクリーンに認めるものは充全な性行為などではなく、ただ芸者たちと吉の顔にすぎない。わたしには芸者たちが見ているであろう性行為の全体が見えない。そもそも肝心の定はどこにいってしまった のか? このセクシュアリティの中心を占めているはずの彼女は消えてしまっているのである。わたしはこの錯綜する視線の交換の中にわたしの唯一の欲望の対象である女性のイメージを見失う。彼女はこの独特なやり方で分割=接合された一連のショットの内にかぎりなく後退していき、いかなる視線と同一化の装置からも逃れ出てしまう。そしてそこに「見える無」が侵入するのである。もはや女性の無は隠蔽されていない(彼女の内部の黄身は卵からとび出している)。わたしの視線は同一化の対象を見い出せぬまま宙に漂いはじめ、わたしの視線は繋留されそこなう。そこにはわたしのために、そしてわたしの代わりにリザを捜すステファンの眼がない。ステファンの視線を通してリザの身体は男性の見ることの体制の前に開かれていた。ところが「婚礼の夜」には定の不在を繕う視線が見あたらない。たしかにステファンの眼の代わりに芸者たちの眼がある。しかし彼女たちが見つめているものは定のセクシュアリティというよりはむしろわたしの顔なのである。
 こうして『愛のコリーダ』は『忘れじの面影』の「破産的リメイク」となる。典型的なハリウッド映画にあってはセクシュアリティと視線は等式化されずにはおかなかった。ところが『愛のコリーダ』のようなフィルムにあって、女性は、とりわけセクシュアリティ下にある女性は男性のための視線の対象であることをやめてしまう。彼女はもはや「仮装舞踏会」の招待客の中にはいない。わたしは画面の中の彼女の不在と向き合わねばならない。わたしはしかも女性たちのひりひりするような視線にさらされているのだ。わたしはもはや超越的な見る主体などではない。
 フェティシズムが表面(たとえば下着)への執着、閾での足踏み、それ以上奥へと踏み込むことに対する躊躇であるとすれば、映画(「リュミエールの閾」、距離の光学装置)は、三つの視線をひとつの回路に組み込み、スクリーンに亀裂を入れる四番目の視線を封殺することで女性のペニスの不在を隠蔽することに腐心してきたのである(フェティッシュとは母親の身体の上に投影されたペニスのことである)。ところが「婚礼の夜」の第四の視線は、その分割的カッティングは女性の無(いかなる述定作用も拒絶するもの)をわたしに発見させる(それを発見したときのヒースのうろたえぶりをみよ、彼の文体は吃り、何をいっているのか曖昧になってしまう)。この「見える無」を前にしてわたしはもはや恋に恋してなどいないことに気がつく(わたしはこのときはじめてマチゥと一線を画す)。『愛のコリーダ』には女性の 映像 ( イメージ ) が存在しないのである(フェミニストたちがこのフィルムを評価するとしたら、この点しかあるまい。もっとも、少なからぬフェミニストたちにとって問題はいまだに女性の「正しいイメージ」とそうでないものとを峻別することにあるようだ――そういうひとびとにとっては『愛のコリーダ』は女性の「悪しきイメージ」の宝庫なのだろう)。〔関連→【1】/【5】

【5】声と映像
 
スクリーンの見る対象の、とりわけ女性の表象の、男性のための「女性」の生産システム、とそれにしたがって分節化される男性の欲望。しかし縫合は映像(色も響きもない光の戯れ)の線に沿ってばかりおこなわれるのではない。映画的言説が映像と音の織物である以上、音が映像に対してとる関係によって縫合の様態も変化する(ヒースが大島の画面外からの声を引き合いに出すこと、視覚中心主義のイデオロギーを転覆させる重要な契機として「聴くこと」に注目することは正しい)。
 ゴダール、ファスビンダー、ロブ・グリエと並んでマルグリット・デュラスが問題系に浮上するのはこうした文脈においてである。たとえば彼女の『インディア・ソング』では登場人物たちは互いに話をかわすことがない(動かない唇)。聞こえてくる話し声は、画面の外から、しいていえば映像のこちら側からやってくる。そしてその複数の声がアンヌ=マリーの愛の物語を紡ぎ出す。しかしそれらの声が語るアンヌ=マリーという女性がはたして本当にわたしがスクリーン上に認める赤毛の女性(デルフィーヌ・セーリグ)を指すのかというとそれは曖昧なままにとどまる(たとえば声は白いドレスを着たアンヌ=マリーのことを話しているのに、わたしが画面に認めるのは黒衣の女性である)。声と映像がゆっくりと解離し、 見ること ( ヴィジョン ) にはいかなる特権もあたえられない。ときおり声と映像は同じひとつの指示対象をもち、同じひとつの愛の物語を提示する。しかし声と映像がそれぞれ切り開く相容れぬふたつの想像空間は、そうしたたまさかの融和にも結局は無関心をきめこんでしまう。わたしが縫い取られるべき空間は声の側と映像の側のいずれかにあるのか? そもそもこの画面の外から聞こえてくる女性たちの声の起源はどこにあるのか? 彼女たちは過去の 映像 ( イメージ ) についてコメントしているのだろうか? 彼女たちはいまわたしがすわっているようにどこか別のところにすわってやはりこの映像を見つめているのだろうか? この不在の声の主が病魔のようにフィルムの肺臓をむしばんでいる。いったいわたしは何を見ているのか? わたしは自分がもはや充全なる意味の担い手ではないことに軽い敗北感を味わう。が、だからといってこの声の主たちがフィルムの正統な意味の引き受け手であるという保証はどこにもない。アンヌ=マリーは正装して大使館で催されている舞踏会に出席している。しかし彼女はもはや「仮装舞踏会」の内に招かれてはいない。彼女は鏡と写真と宝石に囲まれながら、わたしが見知っているはずのイメージの内にはいない。彼女にはそこにあるはずのもの、自己同一性=ファルスが欠落しているのだ。ここにも『愛のコリーダ』とはまた別の方法で女性の無が侵入している。そしてわたしはといえば、このフィルムとともにさまざまな矛盾の渦中にあり、どうやら伝統的な「観客=主体」の結審にはいたらずにすんでいるらしいのだ。〔関連→【2】【4】

『GS』2½号(1985年)より。

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