変転または葛藤する世界

――アンソニー・マン『裸の拍車』の風景表象分析

川本  徹

1.近づくことで、遠くへ
 
あらゆる場所、あらゆる分野において、その端倪すべからざる才能にふさわしいだけの分析を受けていない芸術家がいる。アメリカ映画におけるその筆頭はアンソニー・マンである。かつてジャン=リュック・ゴダールをして、「私はグリフィス以降[・・・]これほど斬新ななにかを見たことは一度もない」(357)といわせた映画作家であるにもかかわらず、マンについての本格的な研究はおどろくほど少ない。むろん概説的な文章や、断片的にではあれマンの映画をとりあげた論考は、これまでにもあふれるほど書かれてきた。ところがマンのさまざまな映画を統一的に、しかも詳細にあつかった論考となると、ほとんど見当たらないというのが現状なのである。
 じっさい本国アメリカで執筆されたマンについてのまとまった研究書は、現在にいたるまでただ1冊しかない。映画学者ジェニーン・ベイシンガー(Jeanine Basinger)の『アンソニー・マン』Anthony Mannである。たしかにベイシンガーのこの著作は、マンの映画の物語構築上、人物造形上、ならびに視覚設計上の基本構造を粘り強くつかみだしているという点で、きわめて啓発的なものである。しかしグリフィス以来の斬新さが、どんなものであれ1冊の書籍におさまりきるはずがないということは、あらためて指摘するまでもないであろう。
 もっともマンをめぐる包括的研究の停滞は、このところ少しずつ改善に向かっている。まず注目すべきは、先述のベイシンガーの『アンソニー・マン』が、初版刊行から30年近くたった2007年になって増補改訂されたということである。またさらに、2009年には映画学者ウィリアム・ダービー(William Darby)の英語圏では2冊目となるマンの研究書が出版予定である。いっぽう日本でも、長文のマン論をふくむ映画批評家・吉田広明の『B級ノワール論 ― ハリウッド転換期の巨匠たち』が2008年に刊行され、我が国におけるマン研究もようやく端緒についた。さらにはこのほかにも、そのほとんどは萌芽的な段階にとどまっているとはいえ、マンを主たる考察対象にすえた論考はゆっくりとではあるが着実にその数を伸ばしている。
 しかしそれにしても、なぜマンは長年のあいだ積極的な論考の対象からもれてきたのか。それはすでに諸家が指摘するように、マン自身の言説がほとんど残されていないからである。マンは生前インタビューを受ける機会が少なかったのだが、そのことがマン研究の活性化をさまたげてしまった[1]。たしかに、作家本人の言説がなければその作家を研究できないわけではないし、場合によっては作家本人の言説をむやみに権威化することで、かえってその作家の実像をゆがめてしまうことさえあるだろう。とはいえ作家の言説が、あるときは直接的に、またあるときは間接的に作品の理解を助けることもたしかであり、そのことに照らせば、マン自身の言説の少なさがそのままマン研究の寡黙さにつながってしまったのは、ある程度はいたしかたないことであったといえる。
 ではそのいっぽうで、そうした困難さにもかかわらず、マンが近年研究者の注目をあつめるようになったのはなぜか。その理由のひとつは、映画研究における男性表象への関心の高まりに求められる。すなわち、マンの映画の最たる特徴のひとつはその特異な男性表象に見られるのだが、映画研究が狭義のフェミニズム批評からジェンダー批評へと移行したとき、マンの特異な男性表象がようやく脚光を浴びるようになり、さらにはそれがマンの再評価につながったのである。そのきっかけをつくったのは映画学者ポール・ウィレメン(Paul Willemen)の1981年の批評、「アンソニー・マン ― 男性を見ること」“Anthony Mann: Looking at the Male”であった。ここでウィレメンが関心をはらったのは、マンの描く男性がしばしば無残なまでに痛みつけられるということである。ウィレメンはそれを観客の視覚的快楽にむすびつけて論じようとしたのだが、これ以降(とりわけ1990年代以降)精神分析の枠組みを採用するにせよしないにせよ、マンの映画における受動的で脆弱な男らしさに眼をむけた論文がいくつか発表されるようになった[2]
 とはいいながら、わたしたちはかかる状況を手放しで喜ぶことはできない。男性表象が明るい場所に引きだされたいっぽうで、マンの映画のいまひとつの特徴が闇に閉ざされたままだからである。その特徴とは、風景表象にほかならない。ここではっきりと記しておこう。アンソニー・マンは、それまでの映画にあっては背景的な地位にとどめられてきた風景を、物語、アクション、人間精神といった諸相にむすびつけてきわめて高度に活用した映画作家である。あるいはこういう言い方をしてもよいかもしれない。マンは風景に近づくことによって、それまでのアメリカ映画から遠く離れたのだと。にもかかわらず従前のマン研究は、男性表象の問題には正面からとりくんでも、風景表象の問題にはほとんど立ち向かってこなかった。それらはマンの風景表象につねに接近しそこねてきたのである。
 誤解を避けるためにいえば、マンの風景表象が従来の映画研究のなかでまったく注目されてこなかったというわけではない。いやそれどころか、それはしばしば言及され、また賞賛されてもきた。しかしながら、そしてだからこそ明記すべきは、それにもかかわらず、マンの風景表象が微にいり細をうがった分析を受けたことは皆無だということである[3]。要するに、マンの風景表象がすぐれていることは周知のことなのだが、そのおどろくべき内実については、いまだ語るべきことが多く残されているのである。だとすれば、わたしたちがなすべきは、まさにこの余白を埋めることにほかならない。すなわち、マンの風景表象の特徴と機能、そしてそのテクスト内の諸要素との動態的関係を微視的なテクスト分析をつうじて照射すること、それこそがわたしたちの企てにほかならない。
 しかるにマンの映画は40本以上ある。そのうちのいずれをテクスト分析の対象にすればよいのであろうか。さしあたりここではつぎの4作を候補として挙げておきたい。『国境事件』Border Incident (1949)、『裸の拍車』The Naked Spur (1953)、『最前線』Men in War (1957)、『エル・シド』El Cid (1961)。これら4作を選んだ理由はふたつある。ひとつはいうまでもないことながら、これらの映画が風景論の地平においてとりわけ興味ぶかく思われるからである。もうひとつは、これらがそれぞれ異なるジャンル(フィルム・ノワール、西部劇、戦争映画、歴史大作映画)に属しているからである。ひとつのジャンルに議論を限定しないことで、マンの風景表象の多様性をいっそう包括的にとらえることができるにちがいない。
 こうしてテクスト分析の候補が定まったわけだが、本稿ではさらに照準を絞って、西部劇『裸の拍車』を集中的にとりあつかうことにしたい。さきの4作を本稿ですべてまとめて論じるのは、不可能ではないにせよ避けるべきことがらである。かりにそうしたならば、わたしたちの分析はあまりに大雑把なものにとどまってしまうであろう。そのほかの3作の分析はまたべつの機会にゆだねざるをえない。その意味においては、本稿は長い旅のほんの始まりにすぎないともいえる。しかしその行き先はマン研究のあらたな可能性を指し示している。

2.映画における風景表象
 
本稿でわたしたちがめざすのは、『裸の拍車』におけるマンの風景表象の画期性を見定めることである。ここでは、その予備作業として、映画における風景表象の歴史と問題点をざっと見ておきたい。ごく簡潔にではあれ、まずは映画的風景表象の全体像をつかんでおいたほうが、マンの風景表象の意義が見えやすくなるにちがいないからである。
 映画学者マーティン・ルフェーヴル(Martin Lefebvre)は、ある映画風景論集の序文のなかで、映画における風景表象は西洋絵画における風景表象とは逆向きの歴史をたどったと述べている(xi)。これは極端ながらも分かりやすい見方である。周知のとおり、西洋絵画史のなかで風景は人間から主役の座を徐々に奪っていったのだが、映画史ではそれとは逆に、人間が風景を主役の座から引きずりおろしたといえるのである。あるいはそこまでいわないにせよ、映画のなかで風景が撮影対象の中心から周縁へと追いやられたことは事実である。
 もう少し具体的に述べよう。映画史初期、風景はそれじたい観客の興味の的であった。つまりは身銭を切る対象であった。そのことは、やはりルフェーヴルがいうように、ヘイルズ・ツアーズの流行からもうかがえる(xi)。ヘイルズ・ツアーズとは、1904年に初めて衆目をあつめた列車旅行を映画的に体感させる装置のことである[4]。それとじっさいの列車旅行との相違点は大きくふたつある。ひとつは、観客=乗客が実質的には空間をまったく移動しないということである(ヘイルズ・ツアーズで観客=乗客は振動はしても移動はしない縦長の部屋のなかに座る)[5]。そしてもうひとつは、観客=乗客の眺める風景が現実のものではないということである(観客=乗客はスクリーンに投影される再現的風景を眼にする)。ともあれこのヘイルズ・ツアーズは、現実に旅行するよりもはるかに安価で見慣れぬ風景を、しかも運動する風景を楽しむことができるという点がうけて、アメリカ各地で絶大な人気を博した。数多くのひとびとがこの映画的風景に魅せられていたのである。
 では、映画史が初期から古典期に移行したのちはどうであろうか。たしかに古典期にあっても、スクリーン上の風景は観客の心を躍らせつづけた。しかしそれが唯一の楽しみであることはなくなった。もっぱらの関心事であることはなくなった。それというのも、映画には風景だけでなく、人間がかならず登場するようになったからである。映画史の初期から古典期への転換は、ひとつには見世物性から物語性への重点の移行であると見てよいが、映画が物語を描くミディアムに変化したのちは、物語の駆動力たる人間が映画にけっして欠かすことのできない存在として再規定されたのである。それからというもの、1本の映画をとおして風景だけが登場するのは、マイケル・スノウの実験映画『中央地帯』La Région Centrale (1971)などごく特異な例にかぎられている。
 もっとも風景が唯一絶対の撮影対象でなくなったとはいえ、そのことはかえって映画における風景表象の可能性を広げたのではないか、という予想も当然あるであろう。つまり風景がそれ以外の撮影対象、わけても人間と豊かに交わる可能性が生まれたのではないかという予想である。しかしながらことはそう単純ではない。そこには映画の物理的制約が関係している。分かりやすくいえば、絵画や小説のなかの風景とはちがって、映画における風景は融通がきかないのである。絵画や小説であれば、風景のありようをほかの撮影対象にあわせて変化させることはたやすい。雨を降らすことも雪を降らすことも太陽を照らすことも、あるいは河を曲げることもまっすぐにすることも逆流させることも、その気になれば小説や絵画ではさしたる努力なしにすることができる。しかし映画ではそうはいかない。またさらに、映画の場合は生身の人間がかかわっている以上、人命を危険にさらすような撮影は厳に慎まれている、ということも想起しておかねばならない。それゆえに風景のなかの人間の行動は制限され、風景と人間の交流は困難になるのである。
 無理もないことながら、こうした事情のために、風景は物語映画の出現以降けっして高いとはいえない地位にあまんじてきた。たしかに風景がない物語映画というのも基本的には存在しない。それなくしては登場人物のしめる座標点をわたしたち観客が知りえないからである。とはいうものの、それと同時に、風景が物語映画のなかでそれを超える役割を果たすことは稀だということも強調しておきたい。畢竟、映画における風景は、往々にして登場人物の背景にすぎないのである。
 興味ぶかいのは、こうした事態と歩調をあわせるかのようにして、映画研究のなかでも風景は副次的な研究対象にとどまりつづけてきたということである。じっさい、たとえば美術研究のなかで風景がきわめて精力的に考察されてきたのとは、懸隔はなはだしいといわざるをえない。さきに挙げたルフェーヴルの序文をふくむ映画風景論集は、そのなかで風景を主たる考察対象とした、どちらかといえば例外的な研究だといえる。やはり例外的にこの問題にとりくんでいる映画学者・加藤幹郎の言葉を借りるならば、「別に映画学にかぎらず、あらゆる議論はつねに開かれていなければならないはずなのに、アニメーションと実写とを問わず、映画における風景の表象の問題は、これまでほとんど閉じられたままであった」(112)のである。
 とはいえ急いで付言しておけば、映画における風景表象の問題はいままさに転換点をむかえようとしている。それは近年のCGIの発達にともなって、映画における風景表象の可能性が物理的に拡大したからである。つまり映画においても、絵画や小説と同じように、風景を自由自在にあやつることが可能となったのである。ただし留意しておくべきは、ご多分にもれず、可能性が広がったからといってそれがかならずしも有効活用されているわけではないということである。あくまで一般論ではあるが、CGIを用いた映画にあって風景は、しばしば見世物性を高めるのに奉仕しているにすぎず、それが映画のほかの諸相とのかかわりにおいて精緻に構造化されていることはほとんどない。アニメーション映画作家・新海誠のように、CGIの風景でもって観客の感情を小さくしかし強く揺さぶる映画作家は、ごく少数だといわざるをえないのである[6]
 逆にいえば、そうした状況下だからこそ、マンの風景表象の研究がいっそう求められているともいえる。なにしろマンは、CGI登場のはるか以前に、すなわち映画的風景のあつかいがまだ極端に難しかった時代に、すでにそれを効果的に駆使していたのだから。それに匹敵する映画作家がいるとすればミケランジェロ・アントニオーニくらいであろうか。こういう言い方が許されるなら、マンのテクストは映画的風景表象の可能性の宝庫である。だとすると、今後のマン研究がとるべき途のひとつは、その宝庫の奥深いところまでさぐりをいれ、そしてそこで発掘したものをCGI時代の風景表象の刺戟剤としてさしだすことであろう。
 ところで、よくいわれるように、風景は狭い定義のなかにおさまることを拒む弾力的な概念である。それはさしあたり、視覚によってとらえられた自然のありようだと見なすことができるが、それが意味するものの範囲は考えれば考えるほど広範かつ複雑になってゆく。まず第一に、風景は視覚を中心としつつも、たとえば聴覚といったほかの諸感覚によっても把握されるものである。(そもそもわたしたちの五感はそれぞれ独立しながらもたえず交流している。「甘いメロディー」といった共感覚メタファーに見られるように。)そして第二に、風景はまっさらな自然環境のみならず、人為環境からも生じるものである。(そもそも自然と人為は連続的に移行する不分明なものである。たとえば庭園という自然と人為の中間領域の存在がしめすように。)だとすれば、映画の風景表象を論じるさいにも、わたしたちは眼に見える風景だけでなく耳に聞こえる風景もあつかうべきであろうし、また自然の風景のみならず都市の景観もとりあげるべきであろう。
 そればかりではない。映画の風景表象を考えるさいには、さらに留意すべきことがある。それは映画にあって風景は、物語、アクション、人間精神といった諸相と不離不即、あるいはこういってよければ相互嵌入の関係にあるということである。映画のなかで風景はそれじたいとして孤立しているのではない。それは物語やアクションや人間精神と交じりあい、折り重なり、そしてそれらの総体として観客の情動に働きかける。いや、正確を期すために、働きかける可能性がある、と言い直していたほうがよいかもしれない。すでに示唆してきたように、かならずしもすべての映画がその潜在能力を実現に移しているとはいいがたいからである。これもすでに記したように、多くの映画において風景はせいぜい登場人物の背景にすぎない。しかしマンの映画はちがう。マンの映画のなかでは風景は、映画の諸相と有機的にむすびついている。これから西部劇『裸の拍車』を例として、そのつながりに光をあてることにしよう。

3.悪夢と殴打
 
第二次世界大戦後の西部劇にはある見逃しがたい傾向がある。主人公の精神がときに大きな危機に瀕しているということである。つまり殺人であれ、失恋であれ、主人公はなんらかの忌まわしい過去をかかえており、その過去が彼の精神からしかるべき均衡を奪い去っているのである。たしかに、それ以前の西部劇においても、主人公がなんであれ耐えがたい過去に苛まれている例は珍しくない。しかしその過去が、彼の精神を切り裂き、捻じまげ、そして彼を悪漢と見まがわんばかりの偏執狂にしているというのは、それまでの西部劇にはまず見られなかった現象だといってよい[7]
 アンソニー・マン監督、ジェームズ・スチュアート主演による一連の西部劇は、そうした神経症的西部劇の典型例として知られている。わけても本稿で論じる『裸の拍車』(1953)は、そのなかでもっとも神経症的な度合いの強い恐るべき映画である。じじつ、ジェームズ・スチュアート演じる主人公ハワードの精神状態はまるで尋常ではない。そのことを確認するには、ハワードが悪夢にうなされるシーンを見ればよい。夢のなかでハワードは、かつての恋人が自分のもとから立ち去ったことを思い出すのだが、そのさいのハワードの激しい錯乱ぶりは特筆すべきである。極限にまで見ひらかれた両眼、驚愕のあまり裏返った叫び声(図1)。誰の眼にも明らかなように、それらはわたしたちが通常のハリウッド映画に期待するものをはるかに凌駕している。
 ハワードの精神的動揺をしめすいまひとつの例として、彼がインディアンを殺害するシーンに言及することもできる。映画中盤、ハワード一行がインディアンと対決したときのこと、銃弾を切らしてしまったハワードはインディアンのうえに飛び乗り彼の頭部を拳銃で殴りつけるのだが、そのさいハワードは、おどろくべきことにインディアンの頭部を一度や二度のみならず数度叩きつける。ベイシンガーも述べるように、それは致死に必要な回数をまちがいなく超えている(92)。このような執拗な殴打が主人公の精神的危機のあらわれでなくてなんであろうか。
 主人公ハワードの神経症の淵源を、さらに具体的に探査しておいがほうがよいかもしれない。ことの次第はこうである。南北戦争に従軍するにあたって、ハワードは自分の保有する牧場の権利を恋人にゆずりわたした。留守のあいだ、彼女が合法的に牧場を経営できるよう気をくばったのである(むろん彼女との結婚を視野にいれてのことであろう)。ところが数年後、戦争から帰還したハワードはある屈辱的な事実を知ることになる。牧場を任せた恋人は、ハワードの従軍中にそれを売り払い、その金をもってほかの男と出奔していたのである。さきに触れた悪夢のなかでハワードが思い起こしていたのは、この苦々しく耐えがたい過去の忌まわしい記憶にほかならない。
 その暗鬱な過去を乗りこえるために、ハワードは、いまやほかの誰かの手にわたってしまった牧場を買いもどそうとしている。そしてその資金を工面する手立てとして、彼は報奨金のかかったならず者ベン(ロバート・ライアン)を追いかけている。要するに『裸の拍車』は、ハワードがならず者のベンをつかまえ、そして町に連行するまでの過程を描いた映画である。そのさい、さらに3人の人物がこの旅にかかわってくる。そのうちふたりは、金鉱探しのジェシー(ミラード・ミッチェル)と騎兵隊の元中尉のロイ(ラルフ・ミーカー)であり、いずれも報奨金の分配を目当てにハワードに協力を申し出る人物である。残るひとりはベンの恋人のリナ(ジャネット・リー)であり、彼女は旅の過程で徐々にハワードと惹かれあうことになる女性である。
 ハワードはかくして、過去の傷を癒すために賞金稼ぎとなっている。しかしここで逆説的な事態が生じている。賞金稼ぎになることによって、彼の精神の安定がいっそう脅かされているのである。ハワードは一瞥したところ冷徹な賞金稼ぎに見えるが、じつのところその役割に完全には同一化できていない。賞金稼ぎたることは(たとえ社会がそれを求めているにせよ)自分とは直接関係のない人物の生命を奪うことである。この事実が主人公を逡巡させ、動揺させる。皮肉なことに、彼は賞金稼ぎになるには良心的すぎるのである。あるいは、この主人公は自分の信念を一心不乱につらぬくことができない人物だともいえようか。いや、信念をつらぬこうとすればするほど自己を破壊せざるをえない人物だと、そう評すべきかもしれない。その自己破壊性に『裸の拍車』のひとつの特徴がある。
 ここまでの議論を整理しておこう。『裸の拍車』の主人公は精神を病んでいる。恋人に裏切られたことがその主たる原因だが、のみならず彼は、その過去を克服せんとしていっそう自分の精神を痛めつけている。つまり彼は冷酷無比な賞金稼ぎとなることを選びながら、その役割と、それに同一化しきれない自分自身とのあいだでふたつに引き裂かれているのである。こうした主人公の精神的動揺は、時を経るごとにその激しさを増しており、いまや限界点に達しようとしている。ジェームズ・スチュアートの凄絶とでもいうべき鬼気せまる演技は、そのことをじつに雄弁に物語っている。
 とはいいながら、この映画にかんして真に注目すべきは、俳優の演技によってあらわされる精神のありようではない。そうではなく、ここでもっとも重要なのは、風景によってあらわされる精神のありようである。結論からいってしまおう。『裸の拍車』の素晴らしさは、主人公の精神的動揺を、これまでにない風景描写によって説得的に視覚化したことにある。まさにその点において、この映画は孤高とでも称すべきたたずまいを呈したすぐれた西部劇となっている。しかしそれにしても、マンはいかにして主人公の荒ぶる精神を風景として描きだしたのであろうか。アメリカ西部の自然にいかなる加工をほどこすことで、その難事業をなしえたのであろうか。

4.風景と人間精神
 『裸の拍車』にかぎらず、マンの西部劇が描きだす風景にはある決まった特徴が見出される。映画批評家・蓮實重彦もいうように、そこには見通しのきく砂漠や平原がほとんど姿を見せないのである(68)。そのかわりに登場するのは、視界をさえぎる山岳や丘陵である。さらには、マンがその山岳や丘陵を遠景ではなく近景でおさめていることも見すごせない。その度合いは非常に強く、同様にしばしば斜面へのこだわりをしめしたラオール・ウォルシュでさえ、マンほどには斜面に接近してはいない。
 かくしてマンの西部劇のなかでは、山岳や丘陵が画面上で少なからぬ存在感を放つことになる。さて、それではこうした山岳や丘陵の顕在性は、マンの西部劇における主人公の精神状態とどのような関係にあるのだろうか。わたしたちはその関係を、どのように語ることができるのだろうか。論じ方はいくつかある。まずはごく単純に、山岳や丘陵が視界を閉ざしていることをふまえて、その不可視性が主人公の人生の見通しの悪さを象徴しているということができる。あるいは、山岳や丘陵のラインがしばしば画面を斜めにつらぬいていることに眼をとめて、その傾斜線が主人公の精神の不安定性をしめしていると述べることもできよう。または主人公の危険と隣りあわせのロッククライミングを、彼の精神的な危機の高まりと重ねあわせてみることも、あながち不可能ではない。さらには映画学者・武田潔のように、登場人物がしばしば斜面に身を寄せていることを指摘したうえで、その密着性を登場人物の執着心の強さにむすびつけてみることもできよう(139‐45)。
 ここまで山岳や丘陵ばかりに視線を集中してしまったが、マンの西部劇を特徴づける印象ぶかい風景として、急流河川の存在も見落としてはならない。じっさい『怒りの河』Bend of the River (1952)や『裸の拍車』を一度でも眼にしたことがある者なら誰しも、そこに登場する急流河川をその轟音とともにすぐに想起できるにちがいない。重要なのは、こうした河川もまた象徴的な機能を帯びていると見なせることである。たとえば映画学者ジム・キッチェスのように、『怒りの河』と『裸の拍車』の結尾でならず者が河川に流されることに着目して、河川はいわば悪を浄化するものだと述べてもよい(160)。あるいは『裸の拍車』にかんしていえば、河川の水かさが物語が進むにつれて増幅することをふまえて、その増幅ぶりが主人公の精神的動揺の高まりと軌を一にしていると考えることもできるであろう。
 しかしこれらの見解はいずれも十全ではない。すなわち、ここまで列挙してきた一連の見方をもってしては、『裸の拍車』における風景と人間精神の対応関係を論じきることはできない。ではなにが必要とされているのか。必要とされているのは、これまでよりもいっそう複合的に、そして力動的に風景をとらえることである。つまり山岳なり河川なりを、それぞれ別個に切り離して考察するのではなく、むしろそれらの相関性に視線をむけることがたいせつである。山岳や河川だけではない。風景を構成するありとあらゆる要素がひとつのショットのなかで、あるいは複数のショットのあいだで、どのような動態的関係をとりむすぶのかに注目せねばならない。
 そうしたとき、『裸の拍車』の風景の最たる特徴があらわになる。その特徴とは、風景が変転し葛藤しているということである。むろんここでいう変転なり葛藤なりは、アメリカ西部の自然のなかにア・プリオリに存在していたものではなく、むしろマンがあらたに発見し、あるいは場合によってはあらたに創出したものである。だが、いかにしてそのようなことが可能になるのか。それは映画が本源的にそうであるように、自然をしかるべき場所と距離と角度から切りとることによってである。さらには、その自然のなかに俳優を適切に配置し動かすことによってである。その映画的手腕は驚嘆に値するものであり、じっさい『裸の拍車』に見られるほど予期せぬ変化や対立にあふれた風景は、ほかの西部劇にはまったく見られないといってよい。
 そしてその点に眼をとめたことで、ようやくつぎのように主張できる。『裸の拍車』では、風景のかたちづくる変化や対立が、すでに指摘した主人公の精神的動揺と精妙に重なりあっているのだと。つまりこの映画では、外面世界と内面世界が、ともに不安定で葛藤に満ちあふれているのである。あるいは、風景が揺らぐように主人公の精神が揺らいでいると、また逆に、主人公の精神が揺らぐように風景が揺らいでいると、そう記してもよいかもしれない。わたしたちがさきに、この映画は主人公の精神的動揺を、これまでにない風景描写によって視覚化していると述べたのは、以上のような意味においてである。
 ところで、じつはベイジンガーも、『裸の拍車』における風景の葛藤あるいは変転に触れている。ベイシンガーは映画冒頭のショットに着目して、そこに変化と対照性があらわれていると説いているのである(92)[8]。具体的に記しておこう。映画の幕開け直後にわたしたちが眼にするのは、ロング・ショットでおさめられたアメリカ西部の穏やかな自然である(図2)。ところが、しばらくすると突然カメラが素早くパンして、それとは対極的な映像をクロースアップで提示する。主人公の履いたブーツと、そこに取りつけられた鋭敏な拍車を、カメラは映しだすのである(図3)。こうした遠景から近景への、そして穏やかさから鋭さへの激しい振幅は、わたしたちに力強い不意打ちをくらわすことになる。
 だが、ベイジンガーの挙げるこの事例は、映画全体のなかでは比較的些細なものにすぎない。『裸の拍車』のなかには、風景の諸要素があわただしいまでに変化や衝突を織りなすシーンが、これとはべつに存在しているのである。それは映画終盤のよく知られた決闘シーンである。つまり西部劇にある程度通暁している者なら誰もが知っている、あの渓流沿いの岩山での迫真的な決闘シーンである。しかし奇妙なことに、その印象的なシーンに微視的な分析をほどこそうとした者はこれまでいなかった。ベイシンガーでさえ、それには一瞥をくれるにとどまっているのであり、要するにその息を呑む素晴らしさの理由については、まだなにも語られていないも同然なのである。これにたいしてわたしたちは、すでに示唆してきたように、風景と人間精神の照応という点からこの決闘シーンを精読することにしたい。
 そのまえに、誤解がないよう言い添えておくと、『裸の拍車』は風景すなわちアメリカ西部の自然を、ただたんに象徴的な水準でのみ利用しているわけではない。『裸の拍車』はそれをなによりもまず物語とアクションの舞台として徹底的に利用している。あくまでそれに付随して、この映画はさらにそれを人間精神の象徴としても駆使しているのである。これはおどろくべきことである。なぜならふつう、風景を物語とアクションの場として大がかりに用いると、それに象徴性を担わせるのが難しくなるし、また逆に風景に複雑な象徴性をあたえると、それを物語とアクションの場としていきいきと利用するのが至難になるからである。ところが『裸の拍車』は、このふたつの水準での風景利用をともに高い水準で両立させているのである。つまるところ、わたしたちがこれから目撃するのは、映画的風景の困難ではあるが不可能ではない複合的表現の達成である。

5.変転と葛藤
 これから『裸の拍車』の決闘シーンにおける風景の変転、あるいは葛藤をあぶりだしてゆくにあたって、まずはこのシーンの大まかな特徴を指摘しておきたい。その特徴とは、映像と音響の構成要素が極端なまでに切りつめられていることである。マンの映画ではしばしばそうした簡素化、ないしは還元化がなされているのだが、これはそのなかでももっとも顕著なものだと称してよいであろう。
 さしあたり映像についていうと、この決闘シーンでは映像の構成要素が(登場人物をのぞけば)ほぼ岩石と空と河の3つだけに削ぎおとされている。またさらに、これら3つはほとんどの場合、岩石と空、岩石と河という一定の組みあわせで画面上に登場する。この組みあわせは重要である。この組みあわせによって、ふたつの二元的な対立が生じているからである。ではその対立とはどのようなものか。ひとつは運動性にかかわるものである。つまり岩石と河が不動/流動という対立をなしているのである。そしていまひとつは色彩にかんするものである。つまりは岩石と空が褐色/青色という対立をなしているのである。これら2種類の二元的対立は、シーン全般にわたってほとんど倦むことを知らず、そしてそうであるがゆえに、わたしたちはつねに不安的で分裂的な気分を強いられることになる(こうした二元的対立はほかの西部劇にも見られるものだが、これほどの徹底性と持続性はきわめて稀である)。主人公ハワードが常日頃味わっているであろうその気分を、わたしたちもまたこの場の特権的な風景をとおして味わうことになるのである。
 音響についても概説しておこう。この決闘シーンを耳にした誰もが気づくとおり、ここでは映画音楽がいっさい使用されておらず、そのうえ台詞も極端に切りつめられている。しかしそのかわりに、あるいはそうであるがゆえに、環境音がことさらきわだっている。ではどのような環境音がわたしたちの耳に響いてくるのか。解答はふたつある。ひとつは河の濁流の轟音であり、もうひとつはライフルの銃声音と着弾音である[9]。ここにも二元的な対立があらわれていることは明らかであろう。つまり激流の音とライフルの音が、連続性/断続性という対立をなしているのである。河の流れる音のつらなりをライフルの音が断ち切る。強烈に、不規則に、暴力的に。かくしてわたしたちは、映像面のみならず音響面においても安定感を得ることができず、神経を苛立たせられることになる[10]
 ここからさきは、この決闘シーンをさらに細かく吟味してゆきたいのだが、とはいえ議論の経済上、まずはここまでの物語展開を略述しておくべきかもしれない。ハワード一行がベンを町に連れて帰る途中、ベンがジェシーをそそのかし(ベンはジェシーに自由とひきかえに金鉱の場所を教えるとささやく)、リナとともに逃走をはかる。その後、ベンはジェシーからライフルを奪って彼を銃殺し、そして岩山にのぼってハワードとロイを待ち伏せる。ライフルの音に導かれて、ハワードとロイがその岩山に駆けつける。
 ハワードとロイが岩山にたどりついたとき、ショットはまだ映像と音響の両面において雑然としたありさまを呈している(図4)。そこには岩石と河だけではなく樹木や草むらもが見えており、さらには河の音だけでなく映画音楽もが聞こえているのである。しかるに、ここから映像と音響の簡素化がはじまる。じっさいそのふたつさきのショットでは、映像の構成要素が岩石と河だけに切りつめられる(ショットサイズがそれ以前よりも大きくなり、樹木や草むらがフレームからはずれる[図5])。さらにその4つさきのショットでは、音響の構成要素が河の音とライフルの音だけに切りつめられる(ベンのライフルの銃声音を合図にするかのようにして映画音楽が鳴りやみ、濁流の轟きと銃声音と着弾音だけが現前する)。そればかりか、その後リナがフレームからはずれ、ベンとロイが岩石にぴったりと身を寄せると、画面からはさらに余剰物が消え、映像の二元的対立はことさら激烈なものと化す。
 つづいて、隣接するあるふたつのショットのあいだに生じる変転、あるいは逆転現象を見てもよい。ふたつのうち前者のショットは、ロイの銃撃をよけようとして、ベンがうつぶせのまま岩盤をあとずさるものである(図6)。一言でいって、このショットの特徴は垂直線にたいする水平線の優位にある。すなわち、画面前景および中景の水平線(うつぶせになったベンとリナ)が、画面後景の垂直線(斜面にそびえたつ樹木)を圧倒しているのである。ところがこの関係はつぎのショットですぐさま逆転を味わう。つぎのショットとは、切り立つ岩肌に身を寄せるハワードをおさめたショットのことなのだが、そこではさきほどとは逆に垂直線が水平線よりも優位を占めているのである(図7)。そのショットでは、画面前景の垂直線(縦に切りたった岩石)が画面後景の水平線(平らな頂面をもつ岩石)をその存在感において凌駕しているのである。映画にのみ可能な世界の急転がここで密やかに達成されている。
 いま言及したふたつのショットのうち、後者のショット(図7[既出])を例として、さきに触れた色彩の対立も見ておこう。このショットは右半分ならびに左下部が岩石におおわれているのだが、いっぽうの左上部には青空が広がっており、それゆえに褐色(岩石)と青色(空)があざやかなコントラストを生成している。たしかにこのショットには、岩石と空のみならず登場人物(ハワード)も映されてはいるが、しかしハワードのその存在は、色彩のコントラストを弱めるどころかむしろそれを強調してさえいる。一目で分かるとおり、ハワードの服が岩石と同系色であるがゆえに、彼はあたかも岩石のなかに塗りこめられているかに見えるからである。
 こうした褐色と青色のするどい対立は、この決闘シーンのいたるところに認められる。それに大きく関与しているのは、俯角と仰角の交互利用である。つまりこの決闘シーンでは、高低差のある決闘シーンがふつうそうであるように、俯角と仰角がかわるがわる使用されているのだが、そのことによって俯角ショットに見られる岩盤の褐色と、仰角ショットに見られる空の青色が、再三にわたって激しく衝突しているのである(たとえば図8図9)。むろん先述したショットの場合のように、褐色と青色がひとつの画面のなかでいちじるしい対照性を織りなすこともある。その最たる例は、拍車で岩石を削って岩山をよじのぼるハワードをミディアム・クロースアップでおさめたショットであろう(図10)。このショットでは岩石が画面を斜めに二分している。そしてショットサイズが比較的大きいこともあいまって、そこにはハワードと岩石と空をのぞくものはまったく映りこんでおらず、いきおい岩石とハワードの衣服の褐色と空の青色の対立性がきわだっている。
 いま触れたミディアム・クロースアップのほかにも、岩山をよじのぼるハワードをおさめたショットはいくつかある。これらのショットはいずれも、岩盤と河を俯瞰でおさめたショットと交互に配置されているのだが、ここでのショットの並び方にはぜひとも敏感になっておくべきであろう。かかるショットの配置によって、上昇運動と下降運動の対立が生まれているからである。すなわち、あるショットにおいてハワードが画面を斜めに上昇すると(図11)、つぎのショットでは河が画面を斜めに下降しているのである(図12)。あるいは、こういう言い方をしてもよいかもしれない。ここでは人間と自然が傾斜軸上で激突しているのだと。
 ハワードが岩山の頂上へと近づく。そのとき、ハワードと彼を待ち構えるベンを同一画面におさめたロング・ショットがあらわれる。このショットでは画面の左側と右側をそれぞれ岩石と河が支配しており、両者が不動/流動の対立によって例のごとく分裂的な雰囲気を醸しだしている。のみならず、画面の左側では直角に切りたった岩石が、垂直/水平の対立によってその雰囲気をさらに強めている。ここでいう垂直/水平の対立はまさに字義どおりのものである。この垂直線と水平線のうえには、じっさいに対立するふたりの人物(ハワードとベン)がそれぞれ位置しているのだから。
 しかしそれにしても、この光景はわたしたちの知っている西部劇の典型的な決闘シーンのそれからどれほど遠く隔たっていることであろうか。大地に屹立した男たちの威風堂々とした果たしあいは、いったいどこに行ってしまったのであろうか。とはいえ、本稿がなすべきは西部劇の決闘シーンの歴史を比較検証することではないので、次節においてわたしたちはあくまで事態のなりゆきと、風景の奏でる変転ならびに葛藤をていねいに追ってゆくことにしよう。決着のときは近い。

6.岩山から河へ
 
急流の音にもかかわらず、岩肌に打ちつけられる拍車の音でハワードが近づいていることに気づいたベンは、ハワードを狙い撃ちしようと身がまえる。ハワードがすぐそこまで接近したところで、彼はライフルを撃つために岩盤からとっさに身を起こす。すると、それを察知したハワードが手にしていた拍車をベンめがけて放り投げつける。拍車がベンの頬につきささる。叫び声をあげて、ベンは拍車を頬から抜きとる。そのとき、下方にいたロイがベンむけて銃弾をはなつ。一度、二度、三度、四度と、つづけざま銃弾がベンの身体をつらぬく。ベンはもはや直立の姿勢をたもつことができず、空中に弧を描いて岩山から落下し、河に着水する。
 マンが落下にただならぬ執着をしめしていたことは周知のとおりである。じっさい、この種の運動がまったく姿を見せない映画は、彼のフィルモグラフィにあってはごく少数だといってよい。もっとも、ひとくちに落下といってもマンの描く落下はさまざまである。たとえば『ひどい仕打ち』Raw Deal (1947)では、デニス・オキーフにつきとばされたレイモンド・バーが窓ガラスをやぶって二階から地面へと落下する。あるいは『西部の人』Man of the West (1958)では、ゲイリー・クーパーの銃弾をうけたリー・J・コッブが急峻な山肌をゆっくりと転がり落ちてゆく。また『テレマークの要塞』The Heroes of Telemark (1965)では、レジスタンス一味のはなった巨大岩石が斜面を転がり落ちてナチスの戦車にぶつかる。そればかりか、今度はその戦車が炎をあげながら巨大岩石とともに下方へと落ちてゆく。
 マンの描いたこうした種々のすぐれた落下の主題のなかでも、『裸の拍車』の落下はひときわ輝いている。なぜか。そこには二重の逆転が生じているからである。ひとつはいうまでもなく、ベンとハワードの上下関係の逆転である(ハワードにたいして上位をしめていたベンがハワードの下方に落下する)。見逃してはならないのは、この逆転が、いまひとつの思いがけない逆転に誘発されたという事実である。すなわち、本来ならば人間身体の下部(踵)についているはずの拍車が、人間身体の上部(顔)につきささるという逆転。この見落としがちな小さな、しかし過激な逆転こそが、ベンの墜落という大きな逆転の発端となったのである。かくしてここでは、あたかも風景の激しい変転ぶりが波及したかのように、そのなかの人間や事物までもが眼の覚めるような変転を遂げている。いやむしろ、ここでは風景に包まれているすべてが、風景とともにひとつの大きな変転を果たしているというべきであろうか。
 さらにいえば、『裸の拍車』では落下する人物が大地ではなく河に着水するというところも特徴的である。意外なことだが、あれほど落下が頻出するマンの映画のなかでも、液体にむけての落下は『裸の拍車』にしか見られない。『仮面の女』Strange Impersonation (1946)にせよ、『ウィンチェスター銃‘73』Winchester '73 (1950)にせよ、『ローマ帝国の滅亡』The Fall of the Roman Empire (1964)にせよ、マンの映画のなかで落下する人物はかならず地面にむかって下降するのである。もっともわたしたちは、その例外性を云々したいわけではない。ここで重要なのは、アクションの舞台が岩山から河へと移ることによって、ここまで風景が織りなしてきた対立が持続し、さらには増幅しているということである。
 ベンの死体は猛スピードで下流へと押し流されてゆくが、その後すぐに窪地にはまりこむ。そのことに気づいたロイが、ベンの死体を捕獲するために(生きていようが死んでいようが彼の身体を町まで運べば賞金が手にはいる)、向こう岸にロープをかけて急流を横断する。この河をわたるという行為はつごう3つのショットでおさめられている。ここで肝腎なのは、それぞれのショットのなかで、前後移動と横移動が激しく衝突しているということである。またさらに、3つのショットのなかで前後移動と横移動の対立はつねに保たれつつも、その運動の方向性がショットごとに変化しているということも看過してはならない。ではなぜそのようなことが生じたのか。理由は明白である。それはこれら3つのショットが、同一のアクションをそのつど異なる位置からおさめているからである。
 具体的に述べよう。最初のショットでは、カメラは河の下流におかれている(図13)。それにともなって、濁流は画面後景から前景へと前後移動しており、いっぽうでロイは画面左側から右側へと横移動している。かわって2番目のショットでは、カメラはさきほどロイがロープを投げた位置にすえられている(図14)。その結果、今度は濁流が画面左側から右側へと横移動しており、かたやロイは画面前景から後景へと前後移動している。さらに3番目のショットでは、カメラは最初のショットから180度回転した位置(つまりは河の上流)におかれている(図15)。したがって、ここでは濁流が画面前景から後景へと前後移動しており、ひるがえってロイは画面右側から左側へと横移動している。こうした撮影は少しばかり手間を要するものかもしれないが、その効果は絶大である。こうした撮影をおこなうことで、それぞれのショットに内在する前後移動と横移動の対立が、そのたびごとに新鮮なものに更新されているからである(もし同一のショットが3度反復されていれば、対立の印象は徐々に弱まっていたにちがいない)[11]
 河をわたりきったロイは、ベンの死体をロープにむすびつけるために、もう一度河のなかにはいる。そのとき突然、リナが大声をあげる。河上に流木があらわれたのである。その流木はかなりの速度でロイとベンのもとに迫ってくる。ロイは必死にそれをよけようとするが、結局なすすべはなく彼は流木とともに河下へと流されてしまう。いっぽうベンの身体はといえば、ロープでつながれているがゆえに、流木とともに流されることはない。ハワードはロープを引いてベンの死体を自分のもとにたぐり寄せる。そのとき、ハワードの隣にいるリナが、彼にたいして非難の視線を投げかける。リナはハワードに好意を覚えつつも、それと同時に、死体を持ち帰ってまで賞金を得ようとする彼の執念には反感をいだいている(べつの見方をすれば、リナはハワードの良心を形象化した存在だといえる)。リナの視線を感じたハワードは、すさまじい形相で彼女を睨み返す(むろんそれは彼の良心が痛むためである)。
 ここにおいて、ハワードの精神的葛藤は一段と高まっている。ロイとジェシー亡きいま、ハワードはベン逮捕の賞金を独り占めすることができる。そしてその賞金で自分の牧場を買いもどすことができる。それこそ彼が求めてきたことではないか。しかしハワードはここにきてふたたび逡巡している。個人的な復讐のためにいわば他者を売り飛ばすことにたいして、ふたたびためらいを感じている。ハワードのなかに残る一抹の倫理観が、そしてそれの具現たるリナの視線が、彼を復讐心と良心とのあいだで引き裂いている。
 注目すべきは、この主人公の精神的葛藤の高まりに呼応して、風景の織りなす葛藤もその激しさを増しているということである。前節に記したとおり、このシーンにおける映像の構成要素はその全般にわたってほぼ岩石と空と河だけからなっているのだが、ハワードがリナの視線を意識したショット以降は、興味ぶかいことにその傾向がいっそう強まるのである。つまりそこでは、映像の構成要素が岩石と河だけにばっさりと削ぎおとされるのである(しばらくのあいだそれ以外の要素はいっさい画面上に登場しない)(たとえば図16)。その結果、画面がこれまで以上に不動/流動のあいだで分裂的な雰囲気を醸しだすことになり、そしてそうした葛藤する風景の表象をつうじて、わたしたちは主人公の精神の振幅をじつにありありと理解することになる。
 とはいえ風景の演じる二元的葛藤は、映画が終幕に近づくと、今度は逆にその響きを弱めてゆく。岩石と河以外のものがふたたび画面上にあらわれだすのである(たとえば図17)。とすると、ここまで風景と人間精神の照応関係を見てきたわたしたちには、つぎのような予想がはたらくであろう。風景のありようが穏やかになっているのならば、それはハワードが良心のささやきを受け入れつつあることを示唆するのではあるまいか。たしかに、この時点でハワードはまだベンの死体を持ち帰ることを主張しているが(「興味があるのは賞金だけだ」)、しかしその気持ちは彼から遠ざかりつつあるのではあるいまいか。その予想はまちがっていない。ハワードは果たせるかなベンの死体をその場に埋葬することになるのである。
 『裸の拍車』の最後を飾るショットは、画面の奥へと遠ざかるハワードとリナをおさめたものである。新しい未来を見つめて、ふたりはカリフォルニアへと旅立つ。とはいえ、そこでわたしたちが眼にする風景は、奇妙といえば奇妙なことにハワードとリナの明るい未来を指し示してはいない。むしろそれは、ふたりの暗澹たる過去(ならず者の娘であるリナもまたハワード同様、清算すべき過去を背負っている)を指し示している。なにしろそこでは、いたるところに枯れ木が倒れているのだから(図18[12]。ふたりの未来に希望がないというのではないが、しかしつぎのことはいえる。その風景が彼らの過去の重さを、その苦汁を、その傷痕を、わたしたちの脳裡にあらためて刻印せずにはおかないことである。映画の結末におけるこの楽天性の回避を、西部劇の変容のいまひとつの証左と見るかどうかはともかく、それがわたしたちに、なんとも言い知れぬ忘れがたい印象をあたえるということはたしかであろう。そこにもマンの映画的才能の一端がある。

7.そして風景はつづく
 
アンソニー・マンは風景に近づくことによって、それまでのアメリカ映画から遠く離れた映画作家である。本稿は『裸の拍車』をとりあげてその接近と離反のありさまを一部照らしだす試みであった。くりかえしになるが、もう一度だけ述べておこう。『裸の拍車』の素晴らしさは、常軌を逸した主人公の精神世界を、めざましく変転し葛藤する風景によって隠喩的に描きだしたことにある。わたしたちはそのことを、あるときは空と岩石のするどい色彩的対立におどろかされながら、またあるときは激流と人間の容赦ないぶつかり合いに眼を奪われながら、じっくりと検討してきた。
 マンはこの映画以降も1960年の『シマロン』Cimarronまで西部劇を撮りつづけた。そのなかには『ララミーから来た男』The Man from Laramie (1955)や『西部の人』といった西部劇史上けっして見落とすことのできない秀作もふくまれているが、とはいいながら、ひとつ風景表象の斬新さということになると『裸の拍車』を超えるものは残念ながら見当たらない。どの西部劇の風景も『裸の拍車』のそれにくらべると緻密さにおいて、あるいは力強さにおいて、少しばかり引けをとるといわざるをえないのである(そもそも『裸の拍車』はマンの西部劇のなかでもっとも屋外のシーンが多い映画である)。しかしだからといって、マンの風景表象の豊かさが『裸の拍車』に尽きるというわけでは断じてない。マンは西部劇以外のジャンルにおいても、西部劇のときとはちがった、しかしそれに劣らぬ光彩をはなった風景を創出しているからである。ジャンルの臨界を更新するのみならず、映画そのものの可能性をも再検討に付すそれらの風景については、またあらためて論じる機会があるであろう。


附記
 
本稿は筆者が2008年度に京都大学大学院に提出した修士論文の一部を改訂したものである。指導教員の加藤幹郎教授からはテーマ設定の段階からつねに的確な助言を賜った。ここであらためて感謝の意を記しておきたい。また映画学ゼミの先輩である梅本和弘氏には資料収集の面で大変お世話になった。同氏のご好意にお礼申しあげる。なお本文中で言及したウィリアム・ダービーの研究書はAnthony Mann: The Film Careerというタイトルで2009年夏に出版された。



[1]現在残されているマンのインタビューはつぎの4本である。“Interview with Anthony Mann”、“Now You See It”、“Action Speaks Louder Than Words”、“A Lesson in Cinema”。またこのほかにマン自身が『ローマ帝国の滅亡』を論じた文章“Empire Demolition”がある。しかし原著で250頁、翻訳版で400頁を超える講義録『わたしは邪魔された』I Was Interruptedが出版され、さらにはヴィム・ヴェンダースによるドキュメンタリー映画『水上の稲妻/ニックス・ムーヴィー』Lightning Over Water (1980)まで残されているニコラス・レイとは作家自身の言説の現存量は雲泥の差だといえよう。
[2]たとえばマンの西部劇を1950年代に興隆した男性メロドラマ映画のなかに分類したPye、『Tメン』T-Men (1947)におけるホモ・ソーシャルな欲望を分析したWhite、『スパルタカス』Spartacus (スタンリー・キューブリック、1960)(なお本作はもともとマンが監督予定であった)と『エル・シド』における男性身体のスペクタクル性を考察したHuntなどがある。
 ところで本文中で言及した吉田広明のマン論は、俯瞰的に見るならばウィレメンの論文(あるいはそれに派生するパイなどの論文)の流れに位置づけられるものであろう。吉田がマンを論じるさいに鍵言葉としている「受難と情念の両義を持つパッション」(179)は、つまるところ、ウィレメンやパイが論じたマン映画の主人公の受動性をより広くとらえたものだと見なせるのである。そのなかにおける吉田の独自性は、そうした男性の受動性をジェンダー批評につなげるのではなく、そこからベイシンガーやキッチェスの同定したマン映画のさまざまな物語的、視覚的特徴を整理しなおし、さらにはそこに不動の身体、旅=移動といった新しい視点を付与したことにある。
[3]たとえば映画学者ジム・キッチェス(Jim Kitses)が「アンソニー・マン ― 限界を超える者」“Anthony Mann: The Overreacher”のなかでマンの風景表象をあつかっているが、とはいえその部分は現行版で5ページ足らずにすぎない(159‐62)。じっさい『裸の拍車』についてキッチェスが述べているのは、映画中盤あらわれる山林が緊迫感を高めるのに効果的に利用されているということ(159)、および映画結尾にあらわれる河川が悪を洗い流すという一種の浄化作用を担わされているということくらいである(160)。もっともキッチェス論文は1969年に刊行されたものであり、その先駆性はあらためて評価せねばならない。
 マンの風景表象を議論の一部ではなく、主だった考察対象としてとりあげた論文もひとつだけある。映画学者トム・コンリー(Tom Conley)の「風景と知覚 ― アンソニー・マンについて」“Landscape and Perception: On Anthony Mann”である。コンリーは映画学者クリスチャン・メッツや哲学者ジル・ドゥルーズの概念を引きながら、『ウィンチェスター銃‘73』Winchester ‘73 (1950)と『ララミーから来た男』The Man from Laramie (1955)をくわしく論じている。
 これに付帯していっておくと、キッチェスにせよ、コンリーにせよ、マンの風景表象を論じるものは考察範囲をもっぱら西部劇に限定するきらいがある(もっともキッチェスの論考は西部劇作家論集におさめられているものなので、それは当然といえば当然ではあるが)。本稿もまた西部劇をあつかうものであるが、しかしながら第1節と第7節で提起しておいたとおり、マンの風景表象の多様性をあますとこなく見定めるためには、ほかのジャンルにも眼をむけるべきだと考えている。たとえば、マンはしばしば山岳地帯での撮影を好んだ映画作家であると、また山岳を至近距離からとらえることで視界から空を奪い去った映画作家であると、そのように見なされているが、西部劇以外の作品にも視線を送ればそうした見方が一面的なものにすぎないと分かる。それというのも『雷鳴の湾』Thunder Bay (1953)、『戦略空軍命令』Strategic Air Command (1955)、『エル・シド』といった映画のなかに、きわめてすぐれた空景や海景がふくまれているからである。とりわけ『エル・シド』のラストシーンにおける青一色の空景と海景は素晴らしい。もっともその素晴らしさの理由を語るのは、べつの機会を待たねばならない。
[4]ヘイルズ・ツアーズについての記述にさいしては、加藤「列車の映画あるいは映画の列車」132‐36、ならびに加藤『映画館と観客の文化史』173‐85を参照した。
[5]ただし、ヘイルズ・ツアーズは当初はじっさいに円環上の線路を走る装置として構想されていた(加藤「列車の映画あるいは映画の列車」133、加藤『映画館と観客の文化史』174)。
[6]アニメーション映画作家・新海誠の風景表象については加藤「風景の実存」に詳しい。
[7]神経症的西部劇の例はマンの監督作品以外にも枚挙にいとまがないが、とくに分かりやすい例として、グレン・フォードが殺人の衝動に苛まれる元大佐を演じた『コロラド』The Man from Colorado (ヘンリー・レヴィン、1948)が挙げられる。もっとも『コロラド』と『裸の拍車』の差は歴然としているといわねばならない。どちらも主人公の精神的危機を描いているが、そのさい『コロラド』がもっぱら俳優の演技と台詞に頼っているのにたいして、『裸の拍車』は風景に重要な役割を担わせているからである。たしかに『コロラド』にも村が炎につつまれるシーンがあり、その燃えさかる炎が主人公の激昂と一致しているということもできるが、それくらいの演出はほかの映画にいくらでも見出せるものであろう。かたや『裸の拍車』では、本文でくわしく論じたように、風景が思いがけないかたちで変転または葛藤しており、さらにはそれが主人公の精神の揺らぎと複雑精妙に呼応しているのである。
[8]ベイシンガーはまた、本章第3節で触れたハワードが悪夢にうなされるショットについても、これと同様のことを指摘している(92)。このショットでも初めはアメリカ西部の静かな風景が映しだされるのだが、しかしその風景のなかに突然、悪夢にうなされたハワードが画面下部からフレーム・インしてくるのである。ここでも観客は突如とした風景の変化におどろかされることになる。
 さらに付言しておきたいことがある。それはベイシンガーがこうした激しい映像の変化(あるいは視覚的風景の変化)を見出しているのは、『裸の拍車』の場合にかぎらないということである。ベイシンガーは、さまざまなマンの映画について、そこに急激な映像の転換があらわれていることを述べ、さらにはそれが観客に不安をもたらすと論じている。たとえばベイシンガーは、マンの処女作『ドクター・ブロードウェイ』Dr. Broadway (1942)の冒頭シーンにスウィッシュ・パンが使用されていることに眼をとめ、そのさい生じる映像の急変がわたしたち観客を不安にさせるとしている(18)。またさらに、『最前線』のあるシーンでロング・ショットからクロースアップへの飛躍的な移行がなされていることについても、そうした移行がわたしたち観客に緊張感をもたらすと説いている(175)。
 とはいうものの、だからこそ明記しておきたいのは、ベイシンガーのいう映像の急変とその劇的効果は、彼女が見るよりもさらに広い範囲に認められるということである。じつはその最たる例が、『裸の拍車』の決闘シーンなのである(彼女がこのシーンに詳細な分析をしていないことは本文ですでに述べた)。もちろんベイシンガーが『アンソニー・マン』の初版を出版した時点(1979年)では、このシーンに仔細な分析をほどこすことは困難であった。それにさいしては、VHSやDVDといった映像を反復再生できる装置が必要となるからである。ひるがえって現在では、VHSやDVDで『裸の拍車』を容易に見ることができるのだから、その機会を活用にしてすぐにでもベイシンガーの考察を深化発展させてみるべきであろう。本稿はそのひとつの試みである。
[9]このシーンの途中からは拍車が岩石にぶつかる音があわわれるが、この拍車の音はその硬質性と断続性においてライフルの音のヴァリエーションと見なすことができる。なお本稿でくわしく論じる余裕はないが、マンは音響論の脈絡においても再評価されるべき作家であろう。
[10]煩雑さを避けるために本文では述べなかったが、映像の場合とは異なり、音響の二元的対立はシーン後半において沈静化する。すなわちライフルの音がやみ、河の濁流の轟音だけが聞こえるようになるのである。とはいうものの、いっぽうの映像の二元的対立はシーン全体をとおして見られるので、音響のそれが弱まったからといってわたしたちの受ける分裂的な印象が消え去るわけではない。
[11]わたしたちは『裸の拍車』における風景の葛藤が、主人公ハワードの内的葛藤とむすびついていると主張してきた。とはいえそこであつかった風景には、ロイが河をわたる箇所のように、ハワード自身がそこにいないものもふくまれており、それらをハワードの内面とむすびつけることには異論が出てくるかもしれない。しかし第一に、少なくともそれらがハワードを内包する風景の葛藤を間接的に補強しているということはできるし、また第二に、百歩譲ってそれらを議論からはずしたとしても、風景の揺らぎとハワードの精神の揺らぎの対応関係を証する事例はまだじゅうぶんに残っている。そしてまた、ロイが河をわたる箇所についていえば、そこにハワードがいないとしても、その風景を見ているのはまさにハワードなのだから(ロイが河をわたる様子を見ているのはハワードなのだから)、それをハワードとむすびつけるのはあながち不合理なこととはいえまい。
[12]映画批評家のロバート・ホートン(Robert Horton)もまた、マンとスチュワートの映画が往々にしていささか居心地の悪い終わり方をすることを論じるなかで、ここで枯れ木が倒れていることに注目している(46)。


引用文献リスト

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