リテラシー育成の場としての映画祭

――第15回きょうと国際子ども映画祭

植田 真由  

 1994年に始まったきょうと国際子ども映画祭は、今年で15回目を迎えた。この映画祭は、子どもたちが映画祭に参加し映画を見ることで、世界の文化に触れ、メディア・リテラシーを身につけ、感性豊かな人間になることを目的としている。この映画祭は子どもたちによる子どもたちのための映画祭で、子どもを描いた作品が上映される。映画祭の素地を作るのはもちろん大人のスタッフ(本映画祭での呼称に従って、以下、「大人スタッフ」と記す)だが、実際の準備・運営を担うのは、小学生高学年から高校生で構成されている子どものスタッフ(以下、「子どもスタッフ」)である。子どもスタッフは、映画祭オープニングイベントのための映像制作や、映画祭当日の司会や作品解説、映像上映や音響を担当し、映画祭運営の重要な役割を担っている。映画祭に自ら積極的に関わることで、映画や映像をより身近なものに感じることができると同時に自主性も身に付けることができる。今の日本では、映画に親しみのある子どもはそれほど多いとはいえないだろう。そのようななか、普段では関わることの出来ない地域の友達と映画を通じて交友を持てることも、子どもたちにとっては大きな魅力のひとつであろう。
 この映画祭の最も特徴的な点として、公募で選ばれた10歳から15歳までの子どもたちが「子ども審査員」として映画を鑑賞し、長編・短編それぞれの部門からグランプリを選出することが挙げられるだろう。子ども審査員は最終日の審査員会議で、自分の意見や感想を述べ、議論してグランプリを選定する。そして観客のまえで子ども審査員がグランプリと各々の感想を発表する。

 今回のきょうと国際子ども映画祭で上映されたのは次の作品である。長編は、環境問題について考察する契機を与えるであろう作品として選出されたブラジルの『ジャングルの少女タイナ』(セルジオ・ブロッシ・タニア・ラマルカ監督)、隣国である韓国からは病気を通して再認識される家族愛や友情を謳った『奇跡の夏』(イム・テヒョン監督)、エイズ問題、麻薬や人身売買の危険にさらされたタイ最北端の村に暮らす山岳民族「アカ族」の子どもを追ったドキュメンタリー作品『空とコムローイ』(三浦淳子監督)の3作である。
 短編作品はオランダと韓国のもので、アニメーションも含む全8作である。『元気なお部屋』(ミヒール・ヴァンダイク、シェン・スフッフ監督)、『ヨランダ23』(ビム・ズウィアー監督)、『海底散歩』(エリック・ステーグストラ監督)、『小さなカラスの悩みごと』(ライムケ・フロートハウゼン監督)、『かたつむり』(ジ・ヘチュン監督)、『ジュンイの文法』(ジョ・ハナ監督)、『新石器時代の風景』(イ・キュテ監督)、『いい気持ち』(イム・キュンヒ監督)である。

 審査員会議での子どもたちの議論は非常に興味深いものであった。子どもは大人が見逃しているものに気づいて反応したり、大人が過小評価しがちな部分からも意味を感じ取っていたようで、私の予想をよい意味で裏切るような感想を持っていた。子どもは子どもの視点で物を見ており、その視点は大人が考えつかないようなアングルのもので、しかも多様なものであった。子どもは大人とは異なった感性で映画を見ていることが顕著に見られたのだ。
 今回グランプリを受賞したのは『空とコムローイ』である。例年ドキュメンタリー作品は子どもたちに人気がなかったのだが、今回は長編3作品のなかで唯一のドキュメンタリー作品であるこの作品がグランプリに選出された。
 エイズや麻薬問題、人身売買など重いテーマをひとりの少女の成長を通して描いたこの作品は、やはり一回鑑賞しただけでは子どもには難しかったようだ。しかし、同じ作品を短期間で二回見ることで、子どもたちの理解度は深まり、印象が変わっていったように見受けられた。一回目の鑑賞では、「難しかった、よくわからなくておもしろくなかった」といった感想がほとんどであった。ドキュメンタリー作品を見慣れていないことに加えて、テーマ設定も子どもにとっては理解しやすいものとは言えない内容であることが大きな要因であろう。だが、興味深いことに、二回目の鑑賞を終えると子どもの意見が変化を見せる。同じ作品を、時間をあけずに見ることで、より注意深く鑑賞することができ、新たな事実を発見したり、感情移入しやすくなることで、同じ物語に対して異なる印象を持ったようだ。最初はテーマの重さに戸惑いを覚えていた子どもたちも、二回目の鑑賞で自分なりの見方を発見し、そこから日本との文化の違いに気づき、母親をエイズで亡くしても周りの人と支え合って力強く生きていく少女の姿に共感するようになった。
 さらには、子どもたちにとって、この作品がドキュメンタリーであったこともグランプリ決定の大きな要因であったと思われる。フィクションではなく、この世界のどこかで実際に起こっていることだという事実が、子どもたちにとっては新鮮で評価につながったようだ。
 同じ作品を短期間に二度見ることは、映画祭の審査員ならではの体験と言えるだろう。たしかにお気に入りの映画であれば繰り返し見ることはあるだろう。だが、一度目の鑑賞であまり良い印象を抱かなかった作品を自主的に二度見ることはまずないはずである。審査のために二度同じ作品を見ることで、一回目では理解できなかった映画ももう一度見れば理解度が深まり、感じ方も異なることを子どもたちは身をもって経験したはずである。
 今述べたようなことから、子どものための映画祭の作品選定の難しさも浮き彫りになるだろう。「大人が子どもに見せたい映画」と「子どもが見たい映画」というふたつの条件を満たした映画を、上映作品として選択することは困難である。子どもたちの第一印象からもわかるように、『空とコムローイ』は後者ではないからである。そのほか今回の映画祭では、子どもには理解できないのではないかと懸念される実験映画も含まれていた。子どもが日常生活では見ることのないであろう実験映画を見て、どのような反応を見せるのかは私にとって非常に興味深いところであった。子どもが日常では触れることのない、一見敬遠されるようなテーマの作品を扱うことで、子どもたちの考える力を促し、異文化への興味を刺激できることが、本映画祭に参加してわかった。子どもは大人が思っているほど子どもではない。大人が子どもには難しいと思うようなことでも、子どもは自分たちなりに感じて考えているのだ。

 今後ますます増加すると思われる子ども映画祭は、どのような姿であるべきか。それは、何よりもまず映画を見る機会を提供する場として機能するべきものだろう。街中の映画館で子どもが見る映画は、特撮ヒーローやテレビアニメの劇場版、宮崎駿のジブリシリーズなど、限られたものでしかない。しかしながら、子ども映画祭では、そのようなものとは趣の異なる映画が上映される。普段とは違う映画を見ることで、映画の幅広さを身をもって実感することができる。 
 また、子ども映画祭は教育的役割を担ってもいるはずだ。社会見学で美術館を訪問したり、音楽の授業でいわゆる名曲の鑑賞をしたりすることはあっても、映画について教えてもらえる場は今日の教育現場には多くない。名画や名曲に触れ、絵を描き、曲を演奏することはあっても、映画の名作について触れられることはなく、映画をどのように観るのかを教えられることはない。映画をどのように観て、楽しめばいいのかわからない子どもも少なくないだろう。学校教育に映画を持ち込むことが容易ではないなか、学校以外の場で子どもたちに映画の魅力を伝え、映画の見方を教えることに子ども映画祭を開催する意義があるのではないだろうか。きょうと国際子ども映画祭ではそれに加え、鑑賞した映画について子どもたち自身が議論する。感想や意見を自分の言葉で人に伝え、文章におこすことは子どもたちのとっても貴重な体験であると同時に、映画批評の技術や映画の鑑賞眼を身につける第一歩となるにちがいない。

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