小津映画の空間へそそがれる「精緻な」眼差し
Edward Branigan, "The Space of Equinox Flower"
(in Peter Lehman ed., Close Viewings [Florida State University Press, 1990])


安東 賢太郎

 

 “The Space of Equinox Flower”(「『彼岸花』の空間」)と題された本論文はウィスコンシン大学でデヴィッド・ボードウェルに学んだ映画学者エドワード・ブラニガンによって著され、アンソロジー形式でまとめられた研究書Close Viewingsにおさめられたものである。[1]本論文でおもにとりあげられる映画『彼岸花』は1958年に公開された小津安二郎監督初のカラー作品であり、それを含めた戦後の小津映画は「後期の小津映画」とも表現される。この「後期の小津映画」はしばしば正確さや精緻さという言葉とともに言及され、その「正確さ」は象徴的に現実を再現するという意味に変換されることで、小津安二郎は昭和のさまざまな市民生活の相貌を描写した映画監督であるという評価を一部で受けてきた。たしかに1949年の『晩春』から遺作『秋刀魚の味』まで続く戦後の小津映画が戦後日本の風俗や家族制度の崩壊という社会状況を色濃く反映していることは否定しえない事実であり、『彼岸花』もまた、娘の結婚とそれを受け入れない頑固な父親という構図を中心に展開するホーム・ドラマである。しかしブラニガンはそうした物語の表層をなぞるだけの批評がもつ映画の豊かな表情をとらえることの不可能性を映画の空間に着目したアプローチによって明らかにしてくれる。本論文もまた正確さと精緻さという言葉が出発点となるが、その本意が現実の再現にないことは先述のとおりである。彼の視線は小津映画の空間が画面構成の静謐さや整然さをたたえながらどのように独創的な発展をとげていくかということにのみそそがれる。
 はじめに明かされるのは小津と古典的ハリウッド映画のショット・スケールの相違である。古典的ハリウッド映画は状況設定のヒントを観客に与えるエスタブリッシング・ショットから開始され、カメラは人物やオブジェクトに接近していく。そうしたロング・ショットからクロースアップに至る逆ピラミッド構造をもつ古典的ハリウッド映画に対して小津は移行ショット、全身ショット、ミディアム・ショットという基礎となる3種類のショットを組み合わせながらシーンを形成していく。古典的ハリウッド映画はフェイド・アウトやディゾルヴを効果的に用いることで場面の転換を達成したが、それらの技法は後期の小津映画では全く用いられなかった。代わりとなったのは屋外、屋内の空間や静物をとらえた移行ショットと呼ばれるものである。これはシーン導入、そして映画そのものの導入、終結のためにも用いられ、本論文があつかう『彼岸花』においても全30シーン中、移行ショットに挟まれていないショットは2つのみであることが紹介されている。移行ショットの第一の役割はハリウッド映画の屋外風景ショットと同様、開始されるシーンの空間設定をすることである。しかしブラニガンはそうした前提をふまえつつ、病院の外観のショットが、病院ではなく、その近くにあるアパートのシーンを導入する例をしめすことで単純な空間設定にとどまらない小津の移行ショットの特徴、意図的に観客の理解を遅らせる婉曲的な方法とその独創性を述べる。ここですでに本論文全体にわたって多角的に検討される「空間とオブジェクトの物語からの独立」という問題への意識が垣間見える。『彼岸花』ではオブジェクトだけでなく、会社の清掃員や通行人までもがショット間で消えたりあらわれたりという奇妙な変化をし、観客の理解を妨げてしまう。あいまいな画面を目の当たりにしたものが抱く不可解な感覚が、現実の再生産にとどまらない小津の映画的感性によることが暗示され、これは編集技法のさまざまな事例分析によって解き明かされていくこととなる。
 物語の支配を受けない空間の特権性と映画のリズムを生み出す役割に関連して、ブラニガンの視線はまた移行ショット、ロング・ショットそしてミディアム・ショットという3つの代表的な小津のショット・スケールが生み出すシーンの構造的な対称性という側面に向けられる。ここでは図解によってシーンの導入部と終結部の連続するショットが生みだす対称性、フル・ショットに挟まれることによって強調されるミディアム・ショットなど空間表現の精緻さが一つ一つの画面だけではなくシーンの構造にも表れていることが述べられており、興味深い指摘となっている。さらに移行ショットにおける空間の特権性はロラン・バルトの物語コード理論を引用しながら検討される。バルトがこの手法を用いて実際に分析した『サラジーヌ』をはじめとする古典的テクストや古典的ハリウッド映画では解釈学的コード、行為・行動のコード、意味素のコード、文化的・参照的コード、象徴的コードという5つのコードを組み合わせることで物語の多義性を制限し作品の筋に具体性を加えるが、小津は反対に組み合わされるコード同士を切り離し、独立させる。そのため移行ショットにおけるコードの働きは場所、人物の導入に限られ、続いて起こるシーンのヒントとなる情報はきわめて少なくなる。画面から物語と密接に連関する何かを理解することはほとんど不可能であり、ただ見ることのみが観客には許されるのである。
 しかしブラニガンの興味は画面上に現れ、我々に提示される映像をただ観察することのみにとどまらず、小津が空間をどのようにフレームに収めたかという問題を明らかにする能動的な試みへと漸進していく。後期の小津映画においてはパンやティルト、移動撮影によって空間に変化がもたらされることはほとんどなかった。そのため隣り合う画面に起こる変化のほとんどはリフレーミングという技法によるものとなる。『彼岸花』における実際の具体例をあげるなかで、ブラニガンは同一シーン内の母親の3種類のミディアム・ショットの画面構成を精緻に分析し、母親の心境の変化がリフレーミングによるショット間の変化によってもたらされていることを明らかにする。母親が娘の結婚を支持する契機となるこの場面では、最後に提示される3番目のミディアム・ショットの画面端に新たなオブジェクトがあらわれ、それまでは平面的だった背景がアングルの変化にともなって線遠近法の構図をつくりあげる。リフレーミングという技法によって人物の心理的状況は物語だけでなく空間によっても語られることがしめされるのである。さらにわれわれは小津のオブジェクトがかすかではあるが、自由に空間内を移動しているという事実にも気づかされる。テーブル上の灰皿、茶わん、フルーツの盛られた皿、バーのランプや赤い電話など物語の進展とは別の自立した体系を持っているかのように画面の端から端へと移動する(しているようにみえる)のである。オブジェクトが不可思議に移動する空間という独特な映画的感覚はすなわち小津映画のなかに流れる「時間」と一般的な日常生活の時間の概念との差別化の指摘へといたる。そこでなされる小津映画における時間の感覚がアラン・ロブ=グリエのそれと類似しているという考察は冒頭で述べたような「昭和の市民生活描写における正確性」という小津評を根底からくつがえす。つまり小津の後期作品の背景となる戦後から昭和30年代という連綿とつづく直線的な時間の経過と小津映画の内部に存在する「時間」はまったく異なるのである。それは戦後という時代背景から考えて当然あるべきはずの戦争に関する描写、言及が欠如しているということではない。小津映画の画面における神出鬼没ともいえるようなオブジェクト、本論文がとりあげる『彼岸花』の娘たちが乗るボートのショットにおける画面構成の不可解さが証明するように映画内のさまざまな要素が不可視のプロセスをもつ変わりやすさをもち、矢印ではなくマトリクスの中で存在と不在が繰り返される点に注目しなければならない。小津映画は直線的に経過する通時態の内部には存在せず、画面上に点在するオブジェクトや人物の視覚的な情報を集積することで観客が能動的に推察するほかに小津映画に流れる時間を把握する手がかりはないということをわれわれは理解する必要があるのだ。
 そしてこの時間の感覚についての考察はすなわち離れたショット間の分析とシーンにおけるショット構造の対称性という問題を導く。隣り合う二つのショットの移り変わりに着目したノエル・バーチに対して、ブラニガンはそうではなく隔たったショット同士に連関がみられると指摘することで読者に新しい発見をもたらしてくれる。『彼岸花』において最も重要なシーンのひとつである家族旅行のシーンは平山家の廊下のショットが旅行先である箱根の芦ノ湖畔に生える木々のうちの一本とその枝葉をとらえたショットへと切り替わるところから開始され、次に二本の木がうつされる。この一連のショットにおける樹木がつくる垂直の線は、直前のシーンの終結部(平山家の廊下のショット)の窓枠による垂直性と類似、重なりをみせることで画面構成の連接性を見るものに感じさせる。そして同一シーン内でのショット構造の対称性という点からこれらの導入部は、その終結部とも画面構成が類似しており、導入部における二本の木をうつしたショットがシーンの終結部ではドアによって同じく垂直性をもつ会社の廊下ショットへととってかわられることで省略され、新たなシーンが導入される。こうして小津はあるシーンの終結部と次のシーンの導入部、同一シーン内の導入部と終結部を類似させることによってショット構造に対称性をもたせ、離れたショット間でも精緻な画面を達成する。
 画面構成に密接に関連する空間の分節への着目もまた本論文における重要な部分を占める。「分節」とは一つに融合した構造をもったものが分化し、相互に関連する組織的な構成部分を形成することを意味する。小津映画の空間における分節とは個々の隣接するショットのかすかな重複によってもたらされる結びつきとそれによってシーンが構成されることであり、ここではシーンの空間とカメラ位置をしめす見取り図を用いて、具体的に空間の分節が解説される。人物、オブジェクト、その動作など空間の分節を達成する要素はさまざまであるが、特にヤカンをはじめとする赤いオブジェクトが空間を視覚的につなぎとめる重要な役割を果たしていると言及されている点が興味深い。小津が空間に作用する赤いオブジェクトの視覚的な効果を好んでいたことは、『彼岸花』にかぎらず他の小津のカラー作品に配色されるさまざまな「赤さ」からまず推測できる。そして本論文の注釈部分における古典的ハリウッド映画と小津映画のオブジェクトの扱われ方の違いへの指摘は、われわれに『彼岸花』において「赤さ」がもつ深い意味を認識させる。古典的ハリウッド映画の題名のなかにオブジェクトが含まれている場合(ここではジョン・フォード監督の『黄色いリボン』[She Wore a Yellow Ribbon, 1949]が挙げられている)、オブジェクトが物語のなかで大きな役割を果たすだろうという観客の期待は裏切られることはない。しかし『彼岸花』においてはその題名にもかかわらず彼岸花が物語を左右することがないどころか春分や秋分、花を参照するものすら登場しない。われわれは全体を通して一度として「彼岸花」を目にすることはないのである。不可視の「彼岸花」を画面にもとめるとき、得られるものはオープニング・クレジットにおける「花」の文字の赤さ、そして平山家のヤカンやバーの電話というような、あらわれては消え、画面内をかすかに移動し、空間をつなぎとめる赤いオブジェクトである。映画のタイトルや内容には何ら関係性のないように見える「彼岸花」がオブジェクトの「赤さ」というかたちで婉曲的に暗示される。この点は観客の映画的感性を刺激する小津映画の独創性であるといえよう。
 また先ほど確認したような「分節」という言葉の意味に注目すれば、小津映画の空間におけるオブジェクトは物語とは独立したかたちの特権性をもちながら、新しい空間を定義する。それは母と娘が食卓を取り囲み会話するシーンに見てとることができる。例によって小津映画の会話はミディアム・ショットの切り返しによるが、ここでは母、娘どちらのミディアム・ショットでも卓上のフルーツとピーナッツ缶の画面上の配置が変わらない。会話の切り返しとともに反転するはずのオブジェクトが画面内の同じ位置にとどまってしまうことによって、空間内でオブジェクトが移動しているような感覚を観客に与えることになる。現実の空間把握のように小津映画の空間を理解しようとすることはやはりきわめて難しいのである。具体例を用いてしめされたとおり、小津映画では空間的な整合性が排除され、視覚的な連続性が画面に新しく導入されるため、従来の物語映画における三次元空間とは異なるものとして小津映画の空間が検討される必要がある。ブラニガンが試みるように、われわれはフレーム全体への細心を意識することで小津の画面が均質で完全な連続体としてではなく、二次元の一面が幾重に折り重なるようなかたちで存在するという感覚を理解することができるであろう。
 ロラン・バルトの物語コード理論は小説をその対象としながらも、映画の物語コードの分析へと応用可能なものであったが、小津映画のようにカメラ技法や編集によって物語とは独立した視覚的な要素への探求をふくむ映画を分析する際にはブラニガンが本論文において繰り返すように空間への着目が不可欠である。文字によってのみ紡ぎだされる小説の空間はわれわれの経験的知覚、すなわち文化的コードがその受容を左右するが、映画においては新たに別のコードを参照する必要がある。それが最後に紹介される「空間のコード」という概念である。映画のスクリーンに立ち現れる空間はカメラ技法や編集に支えられたものである以上、コード化された構造を持つ。空間のコードは小津映画にのみ適用される用語ではないが、小津は現実世界を正確に切り取っているように見せかけながら、今まで確認してきた移行ショットやリフレーミング、カメラ位置など、独創的な空間のコードによって映画というミディアムのなかの空間を大胆に変容させてしまう。そうした優れた技巧によって生み出された小津映画に視線を注ぐとき、現実とは似つかないまったく新しい世界がわれわれを待ち受けているのである。以上、小津が「精緻さ」の映画監督であると評される所以が昭和という時代において日本人が経験した市民生活の映像化にないことは筆者エドワード・ブラニガンの精緻なまなざしによってすでに明らかにされた。本論文を契機とし、蓮實重彦やドナルド・リチーの先行研究と照らし合わせながら読み進めていくことで小津のもつ画面構成や構図、空間についての独創性への理解をさらに深め、われわれはさらなる未知の小津を画面にもとめることができるかもしれない。


[1]Edward Branigan, “The Space of Equinox Flower.” Close Viewings: An Anthology of New Film Criticism. Ed. Peter Lehman. Tallahassee: Florida State University Press, 1990. 73-108.