リアリズムとアヴァンギャルドの狭間で
亀井文夫監督の被爆者ドキュメンタリー『生きていてよかった』


フィオードロワ・アナスタシア

はじめに
 
20世紀は「戦争の世紀」とも「映像の世紀」とも呼ばれ、映画が発明されてから現在に至るまで、大量の戦争映画が世の中に送り出されてきた。核兵器による瞬時の大量破壊、大量殺戮の可能性を世界に知らしめた広島・長崎への原子爆弾の投下も、日本の製作者が頻繁に言及してきた題材の一つである。現在でも毎年8月になると数多くの原爆関係のテレビ番組が報道されるが、それらは映画における原爆表象の伝統を引き継いでいると言えよう。日本特有のジャンルを形成する原爆映画ないし被爆者映画に対しては幾つかの先行研究も存在する。[1]しかし、驚くべきことに、それらの研究は戦後における最初の被爆者ドキュメンタリーである亀井文夫監督の『生きていてよかった』(1956)については殆ど触れていない。[2]新聞や雑誌、あらゆる放送メディアによって称賛され、平和文化賞やブルーリボン賞なども受賞した『生きていてよかった』は、日本における被爆者ドキュメンタリー、そしてもっと広い意味での「戦争被害者ドキュメンタリー」の原型とも呼び得る模範的な作品であるにもかかわらず、これまで余り注目を浴びてこなかった。本稿の目的は、『生きていてよかった』のテクスト分析を行うことによって、この作品で提示される被爆者の表象パターンを解明し、亀井文夫という稀有な映画作家の芸術的特性を一層鮮明に浮き彫りにすることにある。本稿ではまず、被爆者映画というジャンルの確立を生み出した国際関係の在り方や日本国内の情勢を明らかにし、それが亀井の『生きていてよかった』の製作にどのような影響を及ぼしたのかを検討する。その上で、作中における生と死の不可分性や女性被爆者の神格化といった点に注目をしながら、『生きていてよかった』に対してテクスト分析を施していく。本稿の最後では、亀井作品の最大の特徴とも言えるリアリズムの追求と、亀井の作風とは縁遠いように思われがちなアヴァンギャルドの姿勢とが『生きていてよかった』の中で如何にして共存しているのかについて考察してみたい。

被爆者映画というジャンル
 
1945年の8月に広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾は、被爆者映画というジャンルを誕生させると同時に、被爆者映画の製作を妨げるような冷戦体制の確立にも拍車を掛けた。終戦と共に日本はアメリカの占領下に入り、原爆に関する報道はGHQのプレス・コードによって厳しい検閲を受けることになった。原爆による被害の生々しい描写は、「反米的」とみなされたのである(福間 202-03)。占領が終了した後も、日本はアメリカとの同盟関係を維持したが、このことも関係して、戦後日本における「反戦平和」運動の権威と影響力を握っていた日本共産党は徐々に地下活動へと追い込まれていった。無論、共産党がそのような権威と影響力を持ち得たのは、戦争中も非転向を貫き軍国主義に対抗したという歴史的イメージを巧みに利用し、自らが唯一の正しい平和勢力であることを繰り返し主張したからである(道場 263)。共産党の公的な訴えに応えるかのように、大半の被爆者映画もまた、広島や長崎の悲劇を2度と繰り返してはならないと説き、それを実現するには核開発の断絶が必要だと主張するのであった。ところが、戦後の日本において共産党は激しいバッシングに合い、公の政治舞台からはパージされる。これに伴い、反戦平和を訴えるという行為もまた急進的で好ましくないイメージを持つようになった。原爆の投下という出来事を直接的に扱う映画を作ると、その製作者は共産主義者だと見なされ、作品自体も共産党のプロパガンダ政策の産物に過ぎないという厳しい評価を受けたのである。そのため、大手映画会社は、自ら進んで被爆者映画を製作・配給しようとはしてこなかった。実際、日本における被爆者映画の殆どは独立プロで製作されている(リチー 37)。占領期が終了した直後に作られ、被爆者映画の原点となった2つの作品、新藤兼人の『原爆の子』(1952)と関川秀雄の『ひろしま』(1953)もやはり、独立プロの力で製作されている。[3]ちなみに、この作品は2つとも、岩波書店の長田新編『原爆の子』(1951)を原作としているが、原爆表象に対するアプローチはまるで異なっている。新藤兼人は原爆が投下されてから7年が経った広島を叙情的に描いているのに対して、関根秀雄は原爆が投下された「その時」の悲惨さを出来るだけリアリスティックに再現することに重きを置いている。このように、被爆者映画というジャンルはその確立当時から原爆を避けられなかった災いとして「静かに」受け止めるのか、それとも激しい政治批判の対象として描くのかで製作者の意見が別れていたことが明らかである。後に見ていくが、亀井の『生きていてよかった』には上記の2作品で展開されるような対立する態度があい交じっていると言えよう。
 『ひろしま』や『原爆の子』と同じように、本稿の分析対象である『生きていてよかった』もやはり、日本ドキュメントフィルムという独立プロで製作されている。日本ドキュメントフィルムは、ドキュメンタリー映画や教育映画、企業のPR映画など、あらゆる記録映画の専門製作会社として、1955年に亀井文夫によって設立された。その頃、亀井は既に、戦時中の投獄と監督免許の剥奪、GHQによるフィルムの上映禁止処分と東宝争議への参加、東宝からのパージなどを経験しており、反戦平和を訴える映画人闘争者としての地位を確立していた。『上海 ― 支那事変後方記録』(1938)や『戦う兵隊』(1939)、『小林一茶』(1941)などといったドキュメンタリー作品は、映画評論家にも高く評価され、亀井は日本ドキュメンタリー界の第一人者として広く認識されていた。また、『生きていてよかった』の一般公開に先立って、亀井は東京都北多摩郡の基地闘争を記録するドキュメンタリー作品『砂川の人々』(1955)と『麦死なず』(1956)をも発表しており、映画界における社会運動の代弁者という自らの立場を一層明確なものにしていたのである。1955年の8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、それまでの反戦平和・反核運動では余り注目されることのなかった「被爆者の救援」というテーマが掲げられ、被爆者についての記録映画が作られる方針が固まったときに、真っ先に声をかけられた映画監督が亀井文夫だったということは、先述した亀井の社会的評判からしても、決して不思議なことではない。
 亀井を社会派ドキュメンタリー映画監督として有名にした『戦う兵隊』や『日本の悲劇』と異なり、『生きていてよかった』という作品は上映禁止になることはなかった。厳しいバッシングも受けることなく、逆に数々の映画賞まで受賞したのである。原爆映画を論じた最初の英語文献である「『もののあわれ』 ― 映画の中のヒロシマ」を執筆したドナルド・リチーは、その論文の中で『生きていてよかった』に対して、「いきすぎたという点でも優秀さにおいても典型的」(35)といういささか冷淡な評価を下しているが、1961年に書かれたこの論文の中で応用される冷戦特有の二分法的レトリックや、共産主義に共感的であった亀井に対する批判的な姿勢は、戦後における複雑な国際情勢の有り様を反映していると言えよう。[4]このようにして、おおむねは肯定的な評価を受けた『生きていてよかった』であったが、当初はその配給を担当する映画会社や上映を引き受ける映画館がなかなか決まらなかった。大中小あらゆる映画館の支配人たちの消極的な態度の背景にあったのは、先述の共産主義に対する懸念と、原爆映画というジャンルが持つ非商業性に対する戸惑いである。結局、『生きていてよかった』は、1956年の7月6日からの2週間、銀座並木座という小さな映画館で、『夫婦善哉』(1955)や『浮雲』(1955)といった作品と併映されることになったが、これは、亀井と東宝時代から交友関係にあった並木座支配人、佐藤廉夫の協力によって実現したことである。並木座の設立者であった藤本真澄も、当初は『生きていてよかった』の上映に反対であった。[5]
 原爆映画を配給することが決して容易でなかったことは、日本ドキュメントフィルムで作られた『生きていてよかった』の宣伝資料からも伺える。「この映画は決して悲惨な、暗い映画ではありません」と主張するこの宣伝資料には、「原爆映画」というと、「むごたらしいケロイドと、政治的な叫び声ばかりの映画という先入観」があり、「見たくない気持を起こす人」がいるから宣伝をする際は「充分気を付けて」、「カタい表現をさけましょう」と書いてある。[6]原爆が投下された11年後の日本では、原爆を扱うメディアに対する一種のステレオタイプが既に存在していたのである。[7]このような社会状況を予め認識していた亀井は、被爆者ドキュメンタリーを作るにあたって、人道的なメッセージの伝達だけでなく、観客の動員を意識する必要性をも強く感じていたのではないだろうか。「生きていてよかった」という題名を選択したのも、原爆の悲劇ではなく、そこからの復興を強調し、映画作品により明るいイメージを持たせるためであろう。しかし、いくら広島・長崎の悲劇を前向きに解釈しようとしても、それは所詮不可能なのであり、亀井の映画には「生」だけでなく「死」ももちろん共存する。

生と死の不可分性
 
『生きていてよかった』は、僅か52分の中編ドキュメンタリー映画作品であるが、亀井が得意とする三部構成を成している。そのままでは漠然としていて扱いにくい題材を、いくつかの主題に沿って分割し、そうしてできた個々のパートを一つ一つ丁寧に描いてゆく。[8]こうした手法を好んだ亀井は、『生きていてよかった』でも「死ぬことは苦しい」、「生きていることも苦しい」、「でも生きていてよかった」という3つの主題を提示している。第一部の「死ぬことは苦しい」では、白血病で苦しみ死んでいく人々を、第二部の「生きていることも苦しい」では、生き残ったものの、身体や心に重い傷を負った人々を、そして第三部の「でも生きていてよかった」では、苦しい生活の中にも生き甲斐を見つけることが出来た人々を描いている。[9]
 以上のような構成からも一目瞭然だが、『生きていてよかった』という作品では、生と死が常に隣り合わせである。例えば、白血病で亡くなった患者の棺が病院から運び出されるシーンの直後には、食事のシーンが写し出される。原爆で両親を失った兄弟と彼らを育てる祖父が夕飯を食べていると、今日も一人の被爆者が亡くなったというニュースがラジオから流れ、3人は心配そうに顔を見合わせる(08:11-09:27)。ここで亀井は、棺を囲む遺族のショットと、食卓を囲む家族のショットとを交互に映し出すという編集方法を用いている。生命の源である「食」にまつわるシーンを、死を意味するシーンと併置することによって、亀井は両者の不可分性を示唆しているのである。無論、生と死というものは、我々が意識するかどうかにかかわらず常に背中合わせであるが、原爆を自ら経験し、生き残った後も様々な後遺症に悩まされる広島と長崎の人たちにとって、生と死の境目はより曖昧で漠然としているように感じられる。1956年の『新女苑』10月号に記載された「座談会 監督亀井文夫先生にきく『生きていてよかった』のできるまで」の中でもやはり、被爆者が「ちょっと下痢したり、歯グキから血が出たりしても原爆症じゃないかしらとみんな神経をとがらせて心配してる」(123)と指摘されている。瞬時にして十数万人の命を奪った原爆の投下自体もそうだったように、被爆の後傷害である白血病や癌もまた、突然襲いかかる災いであり、被爆者の生活は常にそういった死の可能性によって脅かされているのである。家族と一緒に心中することを幾度も考えたと語る一人の男性が、幼い我が子と病室で夕飯を共にする場面でも、「生」と「死」という対立関係にある概念・状態が一つのフレーム内に収められている(22:49-24:34)。白血病の重症患者であるこの父親は、話し方も身振りもとても弱々しくて、死に限りなく近い。そんな彼と対照的に、子供達は若い生命力に溢れており、父親からご飯を受け取る場面には、彼らが衰え行く親から最後の生きる力や知恵を受け継ぐという意味合いが込められている。
 1989年に製作された今村昌平の被爆者映画『黒い雨』でも、みるみる衰弱していく女主人公矢須子の身体的な弱さと健康の衰えを強調するため、彼女の姿は池の中で元気よく飛び跳ねる鯉のショットと並立モンタージュされている。 今村の演出は、生と死を対立させるという意味では亀井のそれと似ているが、動物を人間よりも強く生命力に溢れている生き物として描くところは亀井と対称的である。『生きていてよかった』の中で亀井は動物も人間も同じ原爆の被害者だという考え方を示しているからである。例えば、映画の出だしのシーンでは、広島の原爆ドームの中で撮影されたショットが続くが、そこではドームの中で餌を探している一匹の怪我した犬が映し出される(1:32-1:38)。人間の被爆者を紹介する前に亀井はまずこの後ろ足が切れている犬を観客に見せるのである。また、アメリカの水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の船乗員の死を扱うシーンでは、亡くなった男性の棺のショットの次に、棺に似た細長い箱に入っている放射能汚染を受けたマグロのクロースアップが映し出される(11:23-11:37)。亀井は、生と死の不可分性を強調しているだけでなく、それが人間にとっても他の動物にとっても共通したことであると主張しているのである。このような亀井の世界観は、彼の遺作となった『みんな生きなければならない』(1984)や『生物みなトモダチ』(1987)の中で受け継がれていると言えよう。

「他者」としての被爆者
 『生きていてよかった』における生と死の境目は極めて曖昧だが、被写体である被爆者の人々と彼らを撮影するクルーとの間に存在する境界線は非常に明確に示されている。このことを確認するため、まず作品の冒頭のシーンに注目してみたい。『生きていてよかった』は、原爆で破壊された教会の壁を飾る天使像のクロースアップで始まる。顔の右半分が欠けているこの天使像は、作品の中で幾度も登場し、原爆で外見を傷つけられた被爆者を比喩的に表現するのに使われる。しかし、天使像が作品の冒頭で果たしている役割は、作中のそれとはまた別で、物語の語り手、あるいは人々を見下ろす全能の神のそれに近い。天使のクロースアップが真正面から映され、それに重なるように作品名の「生きていてよかった」という文字が表示されたあと(0:15-0:19)、原爆で壊された長崎の教会が映し出され、それを背景に製作関係者の名前が照らし出される(0:23-0:36)。そして、監督である亀井文夫と助監督である勅使河原宏と山崎聖教の名前が出てくるときには再び天使の像が映し出されるのだが、そのときの天使は、スクリーンの右上の方から何かを見下ろしているように見える(0:37-0:42)。一瞬暗くなったあと、スクリーンには平和大橋や、平和会館、平和大通りなど綺麗に整備された広島の風景が映し出される。『生きていてよかった』の製作者たちは、自らを広島や長崎の街を見下ろす天使と同じ側に位置づけることによって、原爆都市やそこに生きる被爆者との間に明確な線を引こうとする。これから先、作品の中で登場する人達に向けられるカメラの視線は、被爆者の社会の外にあり、被爆者は優しく見守られるべき存在である「他者」として描かれるのだということは、作品の冒頭で既に暗示されている。『生きていてよかった』の製作者達が自らを神と同一視しているなどといった推察はいささか軽率で論理を欠いているようにも受け止められるかもしれない。ところが、亀井の『生きていてよかった』に関する著述には、「被爆者の人たちと毎日接触していると、何とかしたい、この人たちのた めに自分に少しでも力があったらと思って、しまいには自分がキリストにでもなったらこの人たちの一つ一つの願いがかなえてあげられる んじゃないかというような荒唐無稽なことまで考えるほどであった」(『たたかう映画』152)という発言が残されており、これはキリストに対する亀井の憧れ を反映しているように思われてならない。
 それはさておき、ここで再び『生きていてよかった』における「他者」表象へと議論を戻すとしよう。周知の通り、一般的に「他者」とは、映画作家や観客の過半数には属さないグループの人々(例えば、異文化圏に属する者や、同じ社会に属しながらもその内部においては周縁に位置する者など)を指す。そのような他者の表象は、亀井文夫監督の全作品に内在する一貫したテーマであり、『人間みな兄弟』(1960)の中では被差別部落民が、そして『上海』や『北京』(1938)、『戦う兵隊』の中では中国の市民が他者として描かれている。例えば『北京』において、日本人カメラマンと中国人被写体との間に存在する境界線は、被写体の人達がカメラに向ける視線や、彼らが撮影クルーに対して発する言葉を通して提示される。屋台が並ぶ市場で撮影された一連のシーンでは、食事をしている中国の人々が映されるが、彼らはカメラを覗き込むなどして、自らが撮影されていることを非常に意識している。また、男性の一人は突然食事を辞め、カメラに向かって怒り出してしまう。「撮っちゃいかん!!…なんで俺を撮るんだ」という彼の発言は日本語の字幕スーパーとして表示される。北京のとある広場が撮影されるシーンでも、何人かの若い中国人女性がカメラの存在に気付き、「何撮影してるのかしら? あのキャメラマン日本人らしいわ」と言って、早くカメラの前から退こうと、歩調を速める。このように、「映させる」側にある中国の人々は、「映す者」が日本人であることをはっきりと認識した上でカメラの前で行動を起こすため、観客もまたそれに応じるかのように、被写体が「外国人」あるいは他者であることを強く意識する。
 「映す者」と「映される者」との間に非常に明確な境界線を引くという亀井のアプローチは、『生きていてよかった』の被爆者表象においても確認することが出来る。例えば、映画の中で一番最初に登場する被爆者は、病院で点滴治療を受けている青年だが、カメラはベッドに寝ている彼を、病室の外から、ドアに付いている小さな窓を通してまるで隠し撮りするかのように映す(6:07-6:15)。白血病を抱え、寝たきりの生活を続けているもう一人の被爆者の男性もやはり、最初は透明のガラスがはめ込んである障子ごしに撮影される(6:53-6:58)。このような撮影方法は、被爆者たちが他の人々からは閉ざされた小さな世界で生活していること、また、カメラがその世界に侵入する異分子であることを訴えているようである。
 「他者」である被爆者たちの疎外感が最も強調されるのは、孤児院で撮影された一連のシーンにおいてである。カメラは、広島戦災児育成所の子供達をクロースアップで撮影するようなことはせず、逆に少し離れたところから冷淡な傍観者として彼らを観察する。例えば、男の子4人が外で雑談をしている様子は、真正面からでも横からでもなく、少年達が座っている石で出来た階段の左下の方から撮影をされている(17:30-17:35)。子供達が童心寺というお寺に集まって来るところや(17:02-17:07)、施設の玄関や庭を掃除するところ(17:25-17:30)はロング・ショットで撮影される。また、生徒全員がお寺でお経を唱えるシーンでは、生徒の後ろ姿しか映されない。子供達がときおり後ろを振り返って、カメラに投げかける物珍しげな視線は、カメラマンがよそ者であり、彼らの世界には不要な邪魔者であることを訴えているかのようである(17:10-17:19)。子供達がカメラに背中を向けるショットは、他にも印象的なものが2つある。一つ目は、誰もいない部屋で一人、ストーブの前で肩を落として座っている少年の後ろ姿(17:36-17:39)。もう一つは、2人の女の子がしゃがみ込んで洗濯物を手洗いしているところを眺める年下の男の子の後ろ姿である(17:58-18:03)。3人とも顔は全く見えないが、しゃがみ込んで仕事に夢中になっている女の子たちには、更に影が掛かっており、その姿は観客の同情をそそる。亀井文夫は、子供達をロング・ショットで映したり、影に入らせたり、カメラに背中を向けたまま撮影することで、原爆孤児の孤独感を一層引き立たせ、彼らがナレーション通り、大きな夢も持たず、「ひっそりと暮らしている」という悲しい事実を映像でもって証明しているのである。
 ちなみに観客に背中を向ける人物(特に子供)の姿は、『生きていてよかった』における重要な主題系の一つになっているとも言える。亡くなった白血病患者の母親(9:45)やビキニで被爆した男性の遺族(11:19-11:21)、鏡の前に座っているケロイドの娘さん(18:22)やコタツに入っている盲目孤児の女の子など、この人たちはみな背後から撮影されているのである。カメラに背中を向ける人物が『生きていてよかった』の中で一番最初に登場するのは、亀井が日本映画新社から借りてきたフィルムにおいてである。原爆投下から僅か1ヶ月後に占領軍の監視下で撮影・編集されたThe Effect of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki (1945)は文字通り原爆が街や人間に及ぼす影響を科学的に分析するために作られた作品であったが、驚くほど非人間的で冷たいその映像には、放射能のせいで髪の毛が抜け落ちて坊主頭になってしまった小さな子供達の後ろ姿も収めている。亀井はそれらのショットを『生きていてよかった』の前半部分に組み込むことによって(3:46-4:02)、原爆当時の様子と11年経った1956年時点での状況の間に連続性を生み出している。言い換えるならば、カメラに背中を向ける人物像は『生きていてよかった』において、原爆の過去と現在を繋ぐ視覚的イメージの働きを果たしているのである。
 ところで、先述の広島戦災児育成所における3人の子供たちの後ろ姿が映し出されるショットは、ジェンダー論の観点から分析することも可能である。影に隠されている2人の少女と対称的に、年下だと思われる小さな男の子は逆に陽に照らされている。また、彼は少女たちよりもカメラに近いところに立っているため、遠近法が働いて、少女達を見下ろしているかのようでもある。このようなジェンダー表象を通して、亀井は女性被爆者が直面する苦痛と過酷な試練を表現しようとしているのではないだろうか。

集合的な被爆者像としての「原爆乙女」
 純潔で日本的で、美しく儚い「原爆乙女」は、多くの被爆者映画に共通する女性表象の典型であり、彼女たちの描写だけに焦点をあてた先行研究も存在する。例えば、ミック・ブロデリック編『ヒバクシャ・シネマ ― 日本映画における広島・長崎と核にイメージ』では、マヤ・モリオカ・トデスキーニが今村昌平監督の『黒い雨』(1989)とNHKの人気テレビ・ドラマ『夢千代日記』(1985)を取り上げ、文化的ヒロインとしての女性被爆者像を分析している。トデスキーニは、日本の原爆映画の全体的な傾向として、若い女性被爆者が物語の中心的人物となり、「原爆と放射線被曝の恐怖の痛ましい象徴」(205)として描かれることを指摘している。「無限の忍耐力と禁欲的な受容力を持ち、逆境でも「明るく」生き続け、他人を教養し助ける能力を称えられ、どんな残虐行為を受けようとも、最後の最後まで英雄らしく静かに苦しむ」(222)運命にある日本映画における若き原爆乙女たちは、原爆(西欧文化)がもたらした汚染に対抗する純潔さ(日本文化)を表すのだという。[13]
 女性被爆者の現実を美化する劇映画のアプローチは、亀井文夫のドキュメンタリー作品にも顕在する。『生きていてよかった』の主要な登場人物の殆どは女性である。額に指が3本入る傷を受けた掃除婦の山口さんや、腰から下の神経が切れてしまって10年以上も自宅で寝たきりの生活を続けている渡辺さん、盲目孤児の世話をすることに生き甲斐を感じているケロイドの娘たちや、被爆者でありながら幸せな結婚生活を築き上げることができた主婦などであるが、彼女たちは皆、良き娘や母として描かれている。山口さんは、自ら恐ろしい傷を負っていながら、白血病の末期患者である深田さんを励まし、その子供たちにも食べ物を分け与える。渡辺さんは、下半身が不自由であるにもかかわらず、上京して大学で学んでいる弟のために毎日深夜まで織物の仕事を続けている。盲目孤児を世話するケロイドの保母さんたちも、「代理」とは言え、両親を亡くした子供たちにとって母親的存在となっている。保母さんたちが、教え子と一緒にピクニックをする場面では、目が見えない子供にご飯を食べさせる保母さんの様子が、まだ一人で立つことも出来ない子羊とそれを支える親羊との愛らしいショットとモンタージュされ、原爆乙女の母性が強調されている(30:19-30:40)。
 山口さんが第一回原水爆禁止世界大会で泣きながらスピーチをするシーンや、渡辺さんが被爆後初めて長崎の街を見学しに行くシーンは、映画のクライマックスとも言うべき、非常にインパクトの強いものである。しかし、スクリーン上に何度も登場するにもかかわらず最初から最後までその名前を明かされない女性も数人いて、彼女たちもまた、『生きていてよかった』における「原爆乙女」の集合的なイメージを形成する過程において、極めて重要な役割を担っている。例えば、「ケロイド娘」の一人が広島の町中を通り抜ける路面電車に乗り込み、その窓の中から、原爆ドームを見上げるという『生きていてよかった』の有名なシーンがあるが(19:01-19:39)、このシーンに登場する被爆者の女性(村戸さん)は作品の前半部分でも、原爆から立ち直ったかのように見える広島でときたま見かける「傷跡が盛り上がっている、いわゆるケロイドの娘さん」として(4:59-5:13)、そして後編では「原爆被害者の国会申請団」一員として(42:53-42:56)再び現れるが、その名前は一貫して伏せられている。掃除婦山口さんの同僚だと思われる、もう一人の被爆者の女性もやはり、数回に渡ってスクリーン上に現れるが(27:45、34:22)、彼女もまた、その名前を明かされることはなく、声を出して自己主張をすることもない。亀井は、多くの著述の中で、自分は観客を「考えさせる」映画作りを目指しているのだと語っているが(「亀井文夫 大いに語る」 32-45)、カメラに目線を向け、無言で訴えかける被爆者女性の映像は、まさしくそうした観客を「考えさせる」ための材料である。作品に時たま登場する被爆者女性を謎めいた脇役として描写することで、亀井は、観客の関心を目覚めさせ、被爆者女性の経歴や心境を探り当てようとする気持ちを起こさせようとするのである。これを裏付けるかのように、『生きていてよかった』が銀座並木座で上映された際に作られたパンフレットには、「みんなで言える日を」と題した亀井文夫の言葉も添えられており、その中で監督は「この映画に出ている被爆者たちが、どのような思いをこめてカメラの前に立っているのか、どうか観客のみなさんは察していただきたい」(『NAMIKI-ZA Weekly』)と語っている。
 映画の中で原爆乙女の孤立が最も強調される2つの場面は、先述の村戸さんが路面電車に乗るところと、下半身が麻痺している渡辺さんが車に乗って長崎観光をするところである。この2つのシーンの演出方法には、注目すべき類似点が幾つか含まれている。広島を代表する村戸さんも、長崎を代表する渡辺さんも乗り物の中で撮影される。そして、2人とも自らが被爆した街を見て涙を流すのだが、彼女たちが目にする広島・長崎は窓越しに映っており、「乙女」たちの手の届かないところにある。村戸さんの場合は路面電車の窓が、渡辺さんの場合は乗用車の窓が、原爆投下後の広島・長崎を遮り、原爆乙女たちを戦後の新しい世界から孤立させている。作品の前半部分で登場する白血病の患者たちも透明のガラス越しに撮影されているが、彼らと撮影クルーとの間に置かれている透明のガラスが被爆者とそうでない一般の日本人との間に存在する「見えない壁」を現しているのに対して、乗り物の中にいる原爆乙女たちと広島・長崎との間に置かれている透明の窓は、被爆都市内における原爆乙女の孤立を暗示している。村戸さんや渡辺さんに代表される被爆者の人々は、戦争や原爆がもたらした破壊から復興し、目覚ましい経済成長の路を歩み出した新しい日本を、車や電車の窓からしか見つめることが許されない。所詮「他者」でしかない被爆者の人達は、透明な壁で新しい世界から隔離されているのである。
 乙女たちの疎外感がより率直に伝わってくるのは、亀井が切り返しショットを応用し、乙女たちへの感情移入を誘おうとするからである。村戸さんや渡辺さんが窓の外へ視線を向けると、次のショットでは彼女たちが見ている広島・長崎の景色が映される。先述の孤児院のシーンとは対称的に、車内から街を眺める村戸さんや渡辺さんは、クロースアップで撮影され、乙女たちの感情は、ナレーションや主人公自らの語りを通して明示される。渡辺さんは母親と一緒に市内観光に出かけるため、彼女が長崎の街から受ける印象は、母親との会話を通してあらわになり、村戸さんが原爆ドームを見つめる映像も、『広島詩集』の一節である「「…見ないで私を!」うつむいて噛んだ唇に、あなたはじっと耐えようとする。人ごみの無遠慮な視線のなかに涙ぐむ。一瞬エスプリのように脳裏をかすめる閃光! ああ、あの日…」というナレーションと字幕と共に流れ、観客には村戸さんの気持ちを理解するためのヒントが与えられる。村戸さんと渡辺さんの描写における根本的な違いを挙げるならば、それは村戸さんが包括的な「ケロイドの娘さん」像としての役割を果たしているのに対して、渡辺さんが明確なバックグラウンドを持った一個人として位置づけられているところであろう。
 渡辺さんの描写と対照的に、村戸さんの名前や経歴が観客に明かされないのはなぜだろうか。もちろん、社会の目や差別の激化を気にして、村戸さん自身が自らの名前を伏せようとしたということも大いに考えられる。しかし、『生きていてよかった』のパンフレットには、路面電車のシーンに登場する彼女の発言も記録されており、[10]その前向きなコメントは名前付きで公開されているので、村戸さんの名前を隠すという選択は、やはり亀井監督の判断によるものだったように思われる。村戸由子と呼ばれるこの被爆者女性を「村戸由子」としてではなく、「ケロイドの娘さん」として登場させることによって、亀井文夫は彼女の存在を一般化し、一個人である彼女を全ての「原爆乙女」を代表する総体的な象徴へと変革させるのだが、このような表現方法は、徹底的な取材を基に収集された、あらゆる個人の経験や心情に関する情報全てを、実在しない架空の人物像に統一させるというものであり、亀井文夫という作家の全作品に共通する「リアリズムの追求」を根底に持つ。

亀井のリアリズム観
 亀井のリアリズム観は『生きていてよかった』のラスト・シーンの演出にも反映されている。この最後の場面では、カトリック信者が多いことで知られる長崎の浦上で生活する被爆者の母娘が紹介される。原爆で夫を奪われ、顔を傷つけられた母親は、原爆で歪められ使えなくなった娘の手をロウ制の模型にして、親戚の反対を押し切って、それを原爆記念館に出品したという。『生きていてよかった』の最後のシーンでは、仕事が終わり家に向う母親と、彼女を迎えに走ってきた娘が、肩を組んで一緒に帰宅する様子が映され「このお母さんこそ、不幸を幸福に転換する素晴らしい英知を持った日本のお母さんだと言えるでしょう。」というナレーションが流れる。ここでもまた、被爆者親子の名前は明かされず、2人は「母親」と「少女」として登場する。先述の「ケロイドの娘さん」と同様、一人の母親の体験は一般化され、彼女はあらゆる災難を乗り越える力を持つ、強い女性として、また総合的な「日本の母親像」として表象されるのである。
 興味深いことに、このシーンに登場する母子は、実は血が繋がっていない。『生きていてよかった』が高知県で公開された際に作成されたパンフレットには、高知新聞放送部長(堀家和夫)の次のような発言が記載されている。「この映画には殆どフィクションはありません。ただひとつ、ラスト・シーンだけは『明るくする』ためのフィクションとなっています。被爆のため手の指がまがってしまった少女の父は、市会議長で、画面に出て来るその模型も、同氏がつくったのですが、母親は別な人であるそうです」(「高知市民劇場、原水爆禁止対策協議会、高知新聞社共催『生きていてよかった』」)。つまり、亀井は最後のシーンを演出するために事実を自由自在に再構築していたのである。自分の娘の手をロウ制の模型にして出品した人がいたということは確かな事実で、原爆で夫を失い、顔を傷つけられながらも、我が子を必死で育てようとするキリスト教の母親がいるということもまた一つの事実である。そして、亀井はこの2つの個別の事実を関連づけ、一つの出来事とし再提示し、ラスト・シーンの中で纏めている。亀井自身の母親もやはり熱心なキリスト教徒であり、亀井は上記のシーンを組み立てる際、自らの母親を意識していたのかもしれない。また、伝統的に女性の解放というテーマに強い関心を示していた社会主義リアリズム芸術の影響も感じられる。
 事実の再構築を主とする「リアリズムの追求」に基づいた亀井の映画作りに対する姿勢は彼の著述の中でも明らかにされている。1939年の『映画評論』5月号で亀井は、「キャメラが、真実を構成するのではない。編集が、真実を、構成するのだ」(41)、「記録映画の本質は、現実の中に現実を求めて行って、それをフィルムに再現するところにある」(45)と語り、「先ず僕らの仕事の仕方は、現象の本質を正確に見極めることだ。次に、対象を映画的に支配して、現実性を歪めずに注意深く再現して、撮影する」(45)、「再現の方法としては、出来るだけ現実の境遇を利用すべきである」(45)という様に記録映画監督の役目を、事実の再提示のための情報の収集及び再編集として定義づけている。戦後も、1957年のキネマ旬報4月下旬号で、「真実のためのフィクション」という論文の中で「ぼくたちがリアルな芸術をつくろうとした場合、まず現実をしらべ、それを理解したのちに、芸術として再構築する」(45)、「問題は記録性を重視するか、フィクションを重視するかということではない。いかにしたら現実を正しくつかむことができるか、ゆがめないで伝えることができるかという、その態度である」(46)と主張し、1958年の『シナリオ』5月号では、「リアリティとフィクションが対立するみたいな俗説があるから混乱する」(30)、「真実を発見して、そいつをフィクションをもって組み立てていくということは矛盾していない」(32)と指摘している。
 個々の事実をひとつの場面に統合させるというアプローチは、亀井の劇映画にも顕在する。例えば、『女ひとり大地を行く』(1953)は、女性炭坑夫のサヨがたくましく生きていく様子を描いた独立プロ作品であるが、これには次の様なストーリーラインが存在する。戦争中、捕虜だった中国人レイが炭坑の見張り役に虐待されるが、サヨの恋人である金子という若者はレイを助けようとする。終戦とともに中国に飛び立つことになったレイはサヨにお礼を言いに来る。そしてサヨが亡くなった直後中国から彼女のところへレイ等中国労働者の旗が届く。このような旗を中心とした物語展開に対して、作品公開直後に開かれた『新日本文学』5月号の座談会「映画におけるリアリズム」で文芸評論家の佐々木基一は「例えば中国人の捕虜が礼に来たり、最後に中国から旗を送ってくるというような書き方ですね。ああいうのはリアリズムと遠いやり方じゃないか」(86)と言う様に亀井を批判するのだが、これに対して亀井は、戦時中に中国人捕虜が虐待を受けていたことも、映画の支援に携わった夕張の炭坑に中国からの労働旗が届いたのも事実であるから、ただそれを一つの出来事として纏めただけだと反論している。繰り返しになるが、亀井のリアリズム観は、事実にまつわる情報を収集し、それを一つの事件として再編集することが基軸となっていると言えよう。

リアリズムの限界とアヴァンギャルドへの挑戦
 これまでも見てきたように、『生きていてよかった』では亀井が従来提唱してきたリアリズム観があらゆるシーンにおいて実践されている。ところが、作品が完成した直後の亀井の著述からはリアリズムという演出方法に対する一種の失望が感じ取れる。原爆というテーマを映画で取り上げることついて、彼は次の様に語っている。「ぼくが映画をつくるとき、作品として完成させるよりも観客の感じ方を計算に入れる。こうやったら感じるだろう、うまく受け入れられるだろうと考える。表現自体は古くてもいい、観客のこれまで身につけたことばや感じ方を頼りにして、通俗的な意味で計算してずるくつくることがある。しかし、原爆というものは、それまでの生活体験や概念にはないものだから、こういった方法で訴えるには限界があるのではないか。リアリズムではとらえきれない、記録映画作家が具体的に提示できる限界を超えたものではなかったのか。」(『たたかう映画』153)。
 亀井が感じていたリアリズムという手法への物足りなさとそれをどうにか打開しようとする思いは、作品の中からも読み取ることが出来る。最初に注目してみたいのは、渡辺さんの長崎観光のシーンである。先述の通り、村戸さんと渡辺さんが乗り物の中から原爆都市を目にする2つのシーンは、被爆者の孤独感をストレートに感じさせる重要な場面であるが、村戸さんがリアリズムの手法でもって集合的な原爆乙女像として表象されるのに対して渡辺さんは逆に経歴と名前を持った一個人として描写されている。また、渡辺さんのシーンでは、村戸さんのシーンでは考えられないような驚くべき展開も用意されている。渡辺さんが長崎の観光を一通り済ますと、撮影クルーは彼女を街全体が見下ろせる展望台まで連れて行くのだが、そこで監督である亀井文夫は自らカメラの前に立ち、自分で歩くことの出来ない渡辺さんを抱きかかえるのである。2人が一緒に長崎の街を見下ろすこのシーンにおいて、渡辺さんは初めて窓越しにではなく、自分の目で生まれ変わった長崎を見る。また、これまで被爆者世界の外から渡辺さんたちに視線を向けていた亀井が、渡部さんを抱きかかえるという演出は、少なくともスクリーンに映っている男性が亀井だと分かっている人間にとっては、被爆者とそうでない者との間に存在する境界線の抹消を意味するはずである。しかし、渡辺さんを抱きかかえる男性が監督自らであることを知っていた観客はそう多くはいなかっただろう。渡辺さんと亀井のシーンが生み出す「映す者」と「映される者」の連帯性は、監督を直接知っている人間、あるいはこれまでに監督を写真などで見たことのある人間にのみ伝わってくるのである。亀井が主張する他者との連結は、被爆者を密接に取材してきた監督自らのみが有する特権なのであり、そのような連結の可能性は、観客など映画製作に携わっていない一般人には閉ざされている。
 亀井が渡辺さんを抱きかかえるシーンの斬新さは、知る人ぞ知ると言った具合にカモフラージュされているものの、1956年当時のドキュメンタリー映画としてはやはり大変突出したものである。今でこそ、監督自身やその家族が撮影対象となるような「私的ドキュメンタリー」は主流となってきているが、亀井文夫が映画製作者として最も活発であった1930年代から1950年代のドキュメンタリー映画界において、映画撮影を通して「自分探し」を行うことなどは認められていなかった。監督の身体がカメラのフレーム内に収められることは、劇映画だけでなくドキュメンタリー(1960年代までの日本では文化映画や記録映画と称された)でもタブー視されていたのである。そのことを端的に示しているのは、『戦う兵隊』の中国でのロケーション撮影中に生じた亀井監督と三木茂カメラマンとの間の意見対立である。とある中国の少年を見かけた亀井は、彼の脅えた顔のクロースアップを撮影したく思い、少年を後ろから羽交い締めにし、三木茂に少年の泣き顔は撮るように指示した。しかし、そこで三木は「亀井君、手が入るよ」と言い、カメラを回さなかったのである(安井『亀井文夫特集』11)。三木茂や日本映画界の過半数を占める人々にとって、撮影対象となる世界と撮影スタッフが生きている世界とは、両立し得ない異なる次元に位置するものであり、監督の身体(あるいはその一部)がカメラに映ることは、2つの次元が共存不可能であるという前提を覆すような映画製作上のルール違反だったのである。
 アメリカの学者ビル・ニコルスは、映画製作者が自らスクリーン上に現れたり、他の登場人物と交流したり、映画製作のプロセスを作中で公開したりするようなドキュメンタリーの手法を、「対話方式の」(interactive mode)あるいは「内政的な」(reflective mode)様式に基づいたドキュメンタリーとして定義づけ、そのような作品の典型として、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929)や、エドガール・モランとジャン・ルーシュの『ある夏の記録』(1960)、ロス・マケルウィーのSherman's March(1986)などを挙げている(Nichols 44-75)。また、日本における私的ドキュメンタリーの出発点としてしては、自らの恋愛事情を赤裸裸と語った原一男の『極私的エロス・恋歌1974』(1974)が挙げられることが多い(佐藤 14-44)。もちろん、『生きていてよかった』の中で亀井が登場するシーンは、時間的に占める割合も僅かであるし、徹底的な自己言及性に基づく後の私的ドキュメンタリーとは質が異なるが、映画製作者の存在を隠そうとしないというその試みは当時としては極めて先駆的であり、再評価に値するのではないだろうか。

炸裂する細かい線と異様なオブジェ
 リアリズムを打破するための工夫は、『生きていてよかった』の風景描写においても施されている。広島・長崎の景色や被爆者の人々を取り巻く自然は、人々の心情を表現するための効果的なツールとしての働きを担っている。例えば、葉っぱのない枯れた木のイメージは、作品を通して繰り返し引用される。荒れ地に細々と生えている木の様子が、一番最初に登場するのは、広島の町中にある「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」のスチール・ショットにおいてである(1:06)。殉難碑を取り囲むように植えられた木々は弱々しく、その高さは精々殉難碑に及ぶくらいである。殉難碑と同じように地面から垂直に伸びている木々は、その大きさや形、生えている場所などは違えども、作品の中で何度も現れ、広島・長崎やそこに生きる人々に降り掛かった悲劇を象徴している。言い換えるならば、『生きていてよかった』において、葉の落ちてしまった裸の木々は、人々の苦しみを象徴するモニュメントと化し、作中における記念碑あるいは殉難碑の働きを果たしているのである。
 枯れた木のメタファーが特に強調されるのは、原爆で失明をした少女、福富清子が広島の記念公園で演説の稽古をしている場面においてである(30:49-31:53)。原爆の後、目元が左右不対称になってしまった福富さんの背景には葉のない木が数本映っている。スクリーンの手前の方に生えていて、観客の視界に最も入りやすい3本の木は、高さも、幹の太さも、樹木の種類もばらばらで、それらが形作る風景は非常にバランスが悪い。福富さんを映すアングルもまた、彼女の肩が左右不対称の高さになるように選択されている。お世辞にも「揃っている」とは言い難い木々の配置や、その幹や枝の歪みは、原爆が少女の身体にもたらした歪みと心の傷とを比喩的に表現しているのである。[11]
 細かく枝分かれをしている樹木は、映画の前半で登場する「ケロイドの娘たち」の傷跡をも思い浮かばせる。母の肝いりで三度の整形手術を受けてもケロイドに悩まされ続ける一人の若い女性が紹介されるが、彼女は座鏡の前で正座をしているところを撮影される。このとき鏡に映っている彼女の顔ははっきりとは見えず、彼女を苦しませているケロイドも直接カメラには収められない。ところが、彼女がいる部屋の窓は、ちょうど座鏡の真後ろにあるため、観客には窓の外に生えている葉の無い細かく枝分かれをした木が見える(18:22-18:30)。亀井は若い女性の傷跡を直接見せる代わりに、それを木の枝を通して比喩的に表そうとしているのである。村戸さんが路面電車に乗っているシーンでも、フレームの左半分には村戸さんの横顔が、そして右半分には細かく枝分かれをした木が映し出され、ケロイドの傷と木の枝の類似性が暗示される(19:36)。陶器にヒビが入ったときに生じる、細かい炸裂した線の編み目のような模様は、ケロイドの傷や、木々の枝の先だけでなく、被爆者の部屋に張ってある壁紙や(21:36)その被爆者の家で使用されている小皿にまで登場し(21:34)、映画全体を通して引用され続けるモティーフであると言えよう。聖書にも登場する「生命の樹」あるいは「命の木」のイメージは、あらゆる芸術分野において頻繁に言及されるシンボルの一つであり、咲き誇る木は伝統的に生を象徴し、枯れた木は死を意味する。枯れた木のイメージを巧みに利用している作品としては、例えばアンドレイ・タルコフスキーのデビュー作とも言える『僕の村は戦場だった』(1962)と同作家の遺作である『サクリファイス』(1986)が挙げられる。このように、枯れた木を生命の終わりを表現するシンボルとして描くこと自体は、恐らく亀井独自の発想ではなかった。しかし、亀井が共産主義というイデオロギーに対して強い信念を持っていた監督だったことを思えば、彼が『生きていてよかった』の中でキリスト教のサイン・システムを応用するという事実はやはり注目するのに値するだろう。
 日本における前衛映画の第一人者であり、映画評論家でもある松本俊夫は、著書『映像の発見 ― アヴァンギャルドとドキュメンタリー』の中で、アヴァンギャルド映画製作の経験を持つ、ルイス・ブニュエルやルネ・クレマン、アンジェイ・ワイダやアンドレ・カイヤットといった映画作家の映画には、「もの」としか呼びようがない異様なオブジェが入り込み、それが主人公たちの複雑な心境を巧みに表現しているのだと言う(24-27)。松本は、ブニュエルの『忘れられた人々』(1950)におけるいざリの身体やクレマンの『海の牙』(1946)における潜水艦、ワイダの『灰とダイヤモンド』(1958)におけるゴミの山や、カイヤットの『眼には眼を』(1957)における砂漠のイメージなどをそういった「もの」の例として挙げている。「もの」としての働きを果たしているゴミの山や壁、鉄ごうしや棍棒、地面や石ころなどは人間の表面的な振る舞い(「外界」)と、言葉や身振り手振りで表現することが極めて困難な人間の内面性(「内界」)とを結びつける「へその緒」(27)なのであるとい。亀井は、決してアヴァンギャルド精神で知られている映画監督ではないが、先述した葉のない歪んだ木々を含め、『生きていてよかった』には、幾つかの「もの」あるいはオブジェが登場し、それらは被爆者の複雑な思いを表現している。
 例えば、映画の始めの方に登場する、広島の象徴、原爆ドームは、それが何の建物であるのか分からなくなるほどの微妙な角度とクロースアップで撮影され、断片化される(1:39、1:42、1:45、1:52)。また、映画の冒頭とラストに登場し、作品の最初と最後を結ぶ働きを担っている長崎の教会もやはり、断片化をもたらすクロースアップや撮影アングルの転位を用いて描かれている(0:24、0:30、40:18、40:21-40:33、44:37、44:40、45:39、45:34、45:42-45:52)。渡辺さんが長崎観光をする際に目にする棍棒やコンクリート、ドラム缶などを寄せ集めた瓦礫の山(41:20、41:40、41:52)、1945年8月以来あえて整備されずに残されている原爆落下中心地の周辺(39:55)、目を疑うほどクネクネに曲げられた本来は垂直に立っているはずの見張り台(40:03)など。これらは、この先一生歩くことも普通の生活を送ることもない渡辺さんの辛くて悲しい運命を象徴しているようである。映画の中で継続的に映し出される身体のあらゆる部分が欠けている聖人像のイメージもまた、原爆で健康と美しさを奪われた人々のメタファーとして利用されていることは、言うまでもない。

本当に「生きていてよかった」のか(おわりに)
 果たして本当に「生きていてよかった」のだろうか。原水爆禁止協議会の支援のもとで製作された亀井文夫の被爆者ドキュメンタリーは、この問いに対して明確な答えを出していない。本作品の楽観的な題名や物語展開、人道主義的なナレーションとは裏腹に、『生きていてよかった』の映像自体からは未来への展望の無さと全体的な絶望とが感じ取れるからである。原爆を体験した人々の恐怖や不安を上手く伝えるには、「これまでの芸術の手法やテクニックでは追いつかない」と感じた亀井は、自らが従来提唱して来た「リアリズムの追求」から一歩離れて、アヴァンギャルドとも捉えうる亀井にとっては全く未知の表現方法に挑戦をする。そのような新たな試みとは、即ち、上でも明らかにしたような、枯れた木とその枝のモティーフの反復、原爆による被害を受けた建物のクロースアップや断片化、監督自らのスクリーン上への進出などである。『生きていてよかった』の中で繰り返し現れる「カメラに背中を向けている人物」のイメージも、被爆者の人々が実はカメラの前では全てを話していないのだということを暗に示す重要な主題系ではないだろうか。
 亀井が従来持っていた世界観や映画製作に対する考えは、『生きていてよかった』の撮影を通して、その正当性を試されることとなった。しかし、『生きていてよかった』を製作し終えた亀井は、リアリズムという芸術手法を完全に放棄したわけではなかった。彼が1957年に担当した『世界は恐怖する ― 死の灰の正体』は、『生きていてよかった』に引き続き放射能の怖さを訴える作品であるが、これはどちらかと言うと科学的なデータの解析を中心に議論を進めていく作品である。1960年に製作した『人間みな兄弟 ― 部落差別の記録』もまた、階級的な闘争心に火を付けるようなリアリズム思考の作品に仕上がっている。『生きていてよかった』に見られるような、抽象的なイメージで物事を訴えるというアヴァンギャルド精神は、亀井にとって一回限りの実験に終った。
 結局亀井は、リアリズムという手法への忠実を貫くのだが、それは彼にとって映画製作の舞台そのものから退くことを意味していた。『人間みな兄弟』を作って以降、亀井はもっぱら企業のPR映画製作に従事するようになった。1984年に『みんな生きなければならない』を作るまで、亀井は25年近く本格的な映画製作には携わってこなかったのである。そのような亀井の長い沈黙は、一般的に日ソの関係悪化などを理由とした共産主義に対する失望と関連づけられることが多いが、実はむしろリアリズムという手法の衰退と関係するのではないだろうか。原爆の恐ろしい破壊力に直面して、亀井の世界観はマルクス主義的な理解を遥かに超え、哲学でいう実存主義の領域へと到達したのではないだろうか。



[1]たとえばブロデリックや奥村を参照。
[2]原爆の実態を記録する最初期の一般公開映像としては、『朝日ニュース』363号『原爆特集』(1952)と短編記録映画『原爆の長崎』(1952)も存在する。しかし、これらはいわゆるニュース映像であり、作家の主体性を感じさせる芸術的なドキュメンタリー作品として製作された被爆者映画としては、亀井文夫監督の『生きていてよかった』(1956)が最初であった。
[3]『原爆の子』は近代映協と劇団民芸、『ひろしま』は日教組の支援のもとで製作されている。
[4]亀井文夫は、英語圏における日本映画研究の基礎文献、Joseph Anderson and Donald Richie, The Japanese Film: Art and Industry でも分析対象から除外されており、このことは、『生きていてよかった』一作品だけでなく、亀井文夫の映画監督としての業績そのものが海外で殆ど知られていない要因の一つである。2001年度山形国際ドキュメンタリー映画祭の特別カタログ安井喜雄編『亀井文夫特集』で阿部マーク・ノーネスが指摘している通り、アンダーソンとリチーが上の本を執筆したのは、赤狩りの真っ最中であり、彼らが左翼による映画製作に懐疑的な姿勢を示さなければいけない立場に置かれていたことは、言うまでもない(44)。
[5]ところが、『生きていてよかった』は、観客から絶大な支持を得て、10月の初旬まで続いたその「無期限上映」は、並木座始まって以来のロングランとなったのである(嵩元 61-65)。
[6]『生きていてよかった』のパンフレットや宣伝資料などの閲覧に際しては、日本ドキュメントフィルムのスタッフのお世話になった。
[7]戦後日本における原爆文学・原爆映画の社会的受容については、福間の第四章を参照。
[8]『砂川の人々 ― 基地反対斗争の記録』(1955)、『砂川の人々・麦死なず』(1955)、『流血の記録・砂川』(1956)の3本は一般的に砂川シリーズと呼ばれており、戦時中に作られた『小林一茶』は、「信濃風土記」という3部作の1作品として企画されていた。また、亀井の遺作となった『みんな生きなければならない ― ヒト・ムシ・トリ“農事民俗館”』(1984)と『生物みなトモダチ〈教育編〉 ― トリ・ムシ・サカナの子守歌』(1987)の次には、本来はもう一つの作品が製作されるはずであり、親族によると亀井は亡くなる直前に3作目のシナリオまで書き始めていたという。
[9]日本映画研究家のドナルド・リチーは、「『もののあわれ』 ― 映画の中のヒロシマ」という論文の中で『生きていてよかった』の三部構成について言及しているが(35)、リチーが提供する作品の要約には若干の誤りが含まれている。このことからも、これまでの先行研究が『生きていてよかった』の本格的な分析を実現してこなかったことが伺える。
[10]「私はこの映画で、電車の中のシーンに出たのですが、はじめはいやでいやでたまりませんでした。原爆ドームが走っている電車の窓ごしにうつり私のケロイドが出るところです。私の心に痛くしみて、みじめな気持をおさえられず涙ぐんでしまいました。そのとき亀井先生は「こういうシーンが原水爆禁止の気持を強く起こさせる大切なところなんだ」と何回も言われました。そしてどんなに温かく激励して下さったことか。出演しているうちに、やらないなどと言った気持を後悔しました。昨年の世界大会以降、立ち上がろうという気持を強く持った筈なのに、まだまだ自分は弱いなと反省させられました。あのシーンは、「平和のため」という一心で出たのです。」(『NAMIKI-ZA Weekly』)。
[11]幼い子供達の失明は、『生きていてよかった』を含め、実に多くの戦争被害者ドキュメンタリーが共有する中心的なテーマの一つである。最近の例を言うならば、イラク戦争の被害を物語った『リトルバーズ』(2005)が挙げられる。綿井健陽監督のこの作品でも、物語の主人公となるのは、クラスター爆弾の破片が右目に刺さって視力を著しく傷つけられた少女ハディールである。日本の劇映画における「盲人」の描き方については既に、四方田犬彦『日本映画と戦後の神話』の中でも言及されているが(61-80)、ドキュメンタリーにおける盲目の表象を分析することは、これから先の研究者に残された課題の一つである。


引用文献リスト

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