エドガー・G・ウルマー『日曜日の人々』(1929)
小さき人々の(ための)エチュード、
静止画像挿入を巡る歴史的言説と小さき人々の表象可能性



平井 克尚

      「明日の映画は私小説や自伝小説よりもいっそう個人的なものになるにちがいない。告白のようなもの、あるいは日記のようなものに。若い映画作家たちは個人的で日常的なすべての事柄を一人称で描き、自分自身の体験をいきいきと語ることになろう。初恋の思い出からいま進行中の恋愛に至るまで、あるいは政治意識のめざめ、旅行談、病気のこと、兵役のこと、結婚のこと、夏のバカンスの出来事、等々。そういったすべてが観客の心をとらえ、新鮮な感動でゆさぶるはずだ。なぜなら、そういったすべては真実のものであり、これまで映画では語られたことのなかったものであるからだ」(フランソワ・トリュフォー)[1]

      「映画史においては、小さな映画は、創造性、新しいアイディア、大胆な内容、人間的で温かい本物の物語といったものを生み出す源泉でした。小さな映画は思考の貯蔵庫だったのです」(ヴィム・ヴェンダース)[2]

はじめに
 
2003年に出版されたシュテファン・グリッセマンによる初めてのモノグラフにより、[3]エドガー・ウルマーの全体像が概略的にも知られることになる。これまで「B級映画の帝王the king of the B’s」として知られることの多かったウルマーであるが、断片的にしか知られていなかったそれ以外の様々な映画的遍歴(つまり、イディッシュ映画をはじめとするマイノリティ映画を製作していたことなど)が、全体像のもと照らし出されることになる。ここではそのようなウルマーの初期の映画、ロバート・シオドマクらと共同して撮られた『日曜日の人々Menschen am Sonntag』を考察したい。この映画の可能性はどこにあるのか。これまでにもこの映画は様々に論じられてきた。たとえばこの映画には、「小さき人々(無名の人々)kleine Menschen」をその対象とするスナップ・ショットの静止画像が挿入されているが、それはクリティカルなポイントとなり、様々な理論的考察を誘発してきた。しかしそこには時代的限界も見られ、あらためて構造的布置を見直す必要がある。本論においては、このスナップ・ショットの静止画像の挿入を手掛かりに、この映画についてなされた批評を検討すると共に、この映画における「小さき人々」の表象の可能性を現代的批評から再度探るための端緒を目指す。 

1. スナップ・ショットの静止画像の挿入
 
『日曜日の人々』に一人の海浜写真師が忙しく撮影しているシーンがある(shot no. 522以下[4])。三脚のついた写真機を持った海浜写真師自身の映像が、映画の中に現れる(shot no. 522他)。またこの海浜写真師により撮影されたと思われる写真も映画自体の中に現れる(shot no. 527他)。しかもそれは撮られた写真を映画のカメラで捉えて提示するといったものではなく、静止画像(=スティル)として挿入されることになる。[5]
 ところで、この海浜写真師が写真カメラマンではなく映画カメラマンであれば、この映画は自己言及的な構造を持つことになる。では、そのような自己言及的な構造を持った映像上の実験は、『日曜日の人々』独自のものであったのだろうか。実を言えば『日曜日の人々』は、後にウルマー自身がインタヴューでも答えているように、同時代のジガ・ヴェルトフによる『カメラを持った男』(1929)に刺激を受けて製作されたものである。この映画における街頭撮影といい、素人の登場人物を出演させることといい、突然閃いたものではないのである。ボグダノヴィッチによるインタヴューにおいて、ウルマーは、『日曜日の人々』の製作にあたりソヴィエト・ロシアの映画監督ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』という映画を見て、それに魅了されていたと語っている。この「映画がキエフの路面電車の中で、セットではなく本物の家の中で撮影され、俳優ではなく本物の人々によって作られたものだったからだ。デ・シーカが20年後に思いつくアイディアだ」。[6]実際、『カメラを持った男』は1929年1月8日にキエフで初上映され、4月9日にはモスクワで、そして5月19日にはベルリンでプレス上映、7月2日には一般上映されて、[7]7月5日にはドイツのDie Rote Fahne紙にこの映画についての論評が掲載されていることからしても、[8]『日曜日の人々』の製作にあたった者たちがこの映画を見たであろうことが推測される(ここにもやや複雑な事情が介在しているが、そのことについては『日曜日の人々』の製作経緯ともあわせて別稿参照)。時間的な順序として、ウルマーが述べるように、まずウルマーらはヴェルトフの映画に刺激を与えられているわけである。
 そしてヴェルトフの『カメラを持った男』では、この映画を撮影しているという設定の映画カメラマン自身の映像が挿入されている。移動する馬車などを捉えたショットのみならず、その移動する馬車と併走する自動車から撮影しているというところも撮影され、画面に挿入されている。つまりこの映画は、先述したように、自己言及的な構造をも持っているのである。この点からすると、『カメラを持った男』は、観客に今自分たちが見ているものは映画であるということをあからさまに意識させるものとなっている。その意味でブレヒト的な異化効果を持つものである。すなわちこの映画は、単に映画を見るといったことではなく、映画を見ているということはどういうことなのかを問題にするものと言ってよかろう。1930年代から30年ほど経った1960年代であれば、ブレヒト的試行がいく度も反復されたがゆえに、事態はよりわかりやすくなったのかもしれない。しかし1930年頃のこの時点にあっては、まだまだ手探りのところがある。しかしともかくも『カメラを持った男』は『日曜日の人々』に例えば静止画像の挿入をはじめとする多くの影響を与えたわけである。ところが、その映画から刺激を受けて製作された『日曜日の人々』には問題がいくつかある。つまり例えば先にも触れたように、ここにあっては『カメラを持った男』における映画カメラマンが写真カメラマン(海浜写真師)へと変容させられ、自己言及的な構造が回避されている。また『日曜日の人々』にあってもヴェルトフの『カメラを持った男』と同様に、写真の静止画像のショット(shot no. 526, 527他)が挿入されるという類似性も見られはするが、相違点もみられる。つまり『カメラを持った男』においては、動く映像から静止する写真へ、あるいは静止する写真から動く映像へというプロセスのみならず、編集作業の様子などもあわせて提示されていたが、『日曜日の人々』においては編集作業の様子などは提示されることはなかった。さらに例えばこの映画『日曜日の人々』はサイレントということでインター・タイトルが挿入されているが、前半部分は普通の形態(shot no. 1, 2, 3他)のものである一方で、最後のシーンではこれもまたヴェルトフの興味深いインター・タイトル使用からの刺激を思わせる(shot no. 841, 843他)。このように『日曜日の人々』には『カメラを持った男』と類似した試みがいくつか見られる。しかし、「どのようなテクストも様々な引用のモザイクとして形成され、テクストはすべて、もう一つの別のテクストの吸収と変形に他ならない」[9]のであれば、『日曜日の人々』は『カメラを持った男』の単なる模倣とみなすべきではなく、むしろインターテクスチュアルなものと考えられるべきと思われる。つまりいわば、ウルマーらはヴェルトフから影響を受け、ヴェルトフを彼らなりに発見する(ただ『カメラを持った男』のような自己言及的な構造を持った映画は、この映画以前にも、とりわけそれ以後にもあり、それら内部での差異にも自覚的でなければならない)。

2. 「精神的によるべのない」ものとその概念の歴史的限界
 
さて、この映画における様々な「小さき人々」を捉えたこの映像上の工夫(スナップ・ショットの静止画像(スティル)の挿入、shot no. 526, 527他)はどのように解釈されるのだろうか。この映画に寄せられる批評は、同時代からあった。もちろん否定的な評価も数多くあったし、肯定的な評価もあった。この映画が製作された時期は、まさに映画がサイレントからトーキーに移行する時期であったわけであるが、この映画は新しいトーキー市場の中でサイレント・フィルムとして公開されている。そういった中でこの映画の「明るい視覚上の魅力は、サウンド映画のあらゆる効果よりも「ミュージカル」のように見える」[10](Herbert Ihering)とも評された。また数々の映画が公開されているにもかかわらず、「これは最高のドイツの劇映画だ」[11](Heinz Pol)とも言われた。さらには「純粋で明晰で魅力的な映画芸術を信じるもののまれにみる申し開きの一つ」[12](Hanns G. Lustig)ともされた。 その他この映画を製作する上でのインディペンデント的な姿勢についての同時代評は別稿でも触れたとおりである。[13]
 ではこの映像上の工夫に関する批評はどうだったのか。たとえば、同時代に社会心理学的な批評(S・クラカウアー)があった。それによれば、この映像上の工夫において撮影された人々は、活動の最中に突然凝固してしまったかのように挿入されるわけだが、なるほど彼らは動いている限りはただの普通の人々である。しかし静止状態にいたるやいなや彼らは「不意の出来事で生じた滑稽な産物」[14]として現れ、スナップ・ショットの静止画像は「中間層下層の人々には実質がどれほどわずかにしか残されていないか」を明らかにしようとしているかに見えると言う。[15]この時期ドイツはワイマール期であり、しかも1924年から1928年の間に社会的な変動によりホワイト・カラー階層が実際上プロレタリア的存在になっている。それにもかかわらず、彼らはそのような現実を受け入れ難く、自らの古い中産階級状態を維持しようとし、実際に生活している場において「精神的空虚」を感じ「精神的によるべのない」ものとなると言うのである。[16]さらにまたこの映画には、人気のないベルリンの街路や家屋のショットが見られる(shot no. 471以下)。かつてヴェルトフの映画に描出されたモスクワなどと対比されつつ、ルットマンの映画(『ベルリン、大都市の交響曲』)において、そこで描出されたベルリンが綺麗に磨き上げられている点に対して批判がなされたが、『日曜日の人々』でのベルリンも装い磨き上げられているように感じられる。そして街がこのように装い磨き上げられていることに、人々の「精神的空虚」が呼応することになる。このようにこの社会心理学的批評において、スティル挿入は普通には自覚しがたい社会的在り方を自覚させることにあり、その技法を介してこの映画の登場人物である「小さき人々」は「精神的によるべのない」ものと解釈されることになるわけである。ところで、オルタナティヴな社会はどのようなものかという問い自身は存在し続けるだろうが、この社会心理学的批評における答え(共産主義社会)はその意味を失っているかに見える。したがって、「精神的によるべのない」ものとなり「精神的空虚」を感じさせられる事態は、宙吊りになったままわれわれの存在の条件となってしまっている。
 ただこのような社会心理学的批評は、普遍的に批評として容易に受容されるわけではない。たとえばこの映画が製作されてから数十年後(1977年)、[17]或る人物(M・ゾロトウ)にあってはこのようには受容されない。[18]そこにあっては、批評として機能する以前の言説が形成される。彼によれば、上述の社会心理学的批評は、この「楽天的映画」をマルクス主義的見地から分析したものと位置づけられ、その社会心理学的批評は次のように纏められる。『日曜日の人々』は「ドイツの中間層(プチ・ブルジョアジー)の「精神的空虚」と「小さき人々の苦境」を明らかにし」、[19]「登場人物のような人々がプロレタリアートと統一戦線を組むかどうか、中産階級の偏見にしがみついたままでいるかどうかという問いを提起する」。そして彼が纏めた社会心理学的批評への感想は、「或る晴れた日曜の午後に恋しあう男女についての映画を、階級的な角度から書く衒学者の手にかかるとこうなってしまうとは・・・」といったものである。しかしこのような感想的言説においては、批評が批評としての機能を奪われ、この小品の持っている批評性も消し去られるだろう。なるほど彼も彼以前の批評家のようにスナップ・ショットの静止画像の挿入には着目してはいる。[20]しかし、技法への着目が或る批評性を持つためには、内実の孕む批評性が語られなければ不十分な感じは否めないであろう。ここには理念的なものが省みられることもなく、或る技法が表面的に指摘されるという身振りが見られるのみである。[21]したがって次に、この映画におけるこのような技法に関する議論を見なければならない。

3-1. 「中断」:「運動する静止」という普遍性
 
この映画が製作された同時代に、社会心理学的考察の色合いが無い反面、鋭い哲学的省察が見られる批評が存在した。1933年にR・アルンハイムによりなされた批評がそれである。[22]その批評によると、普通のスティル写真は私たちが実際に思っているほど映画から根本的に遠いものではない。もちろん映画とそのスティル=「フォトグラム」というプロブレマティークは、現在のわれわれにとっては疎遠なものではなく、逆にある意味では親しい。[23]アルンハイムの批評によれば、スティル写真はイラスト入りの雑誌や映画館のショウケースのために頻繁に用いられているが、それが上映中の映画の途中に挿入されると、実に「奇妙な印象」を生み出すことになる。つまり「運動する映画のシーンにおいて存在する時間の経過が、途中に編集されたスティル写真のシーンに転換されるために、これは中断する不気味な凝固として機能する」と言う。「時間がそのように転換され、凝固も言わば運動」として評価されることになる。つまり、「運動する静止(Bewegungsstillstand)」として評価されるのである(映画のシーンが経過する中で挿入されるこのスティル写真に、「一瞬のうちに現在を過去に、生を死に変容させることによりショックを与える」機能を見るS・ソンタグのエッセイ的批評(1977年)はここに連なる[24])。他方、普通の写真においてはどうかと言えば、それは凝固の印象を与えることはない。というのは「人は写真を運動の様相で見ないからであるし、人が写真を観察する際の時間は、映像上に転換された経過という意味での時間の経過として人に見られることはないからである」。そして映画の中に挿入されたスティル写真は、ロットの妻(ソドムから逃げ出す途中に後ろを振り返ったために塩の柱にされる)にかけられた神の箴言のように機能するという。実際『日曜日の人々』の中にまさに砂浜で商売をしている海浜写真師が出てくるわけだが(shot no. 522以下)、その彼が写した人々の半身像などが突然スティル写真となって挿入されるのは先に見たとおりである(shot no. 527他)。そしてそこでは「気取り無く動き笑っている人々が、魔法の杖に突然触れられたかのように凝固してしまい、数秒間の間、息苦しいほどの不動性の中にとどまる」。
 このようにアルンハイムの批評では、挿入されるスティル写真は「運動する静止」と解され、普通のスティル写真とは区別される。スティル写真が途中に接続されることにより、特別な効果が招来されることになる。[25]つまり、挿入されるスティル写真はスティル写真への単純な回帰ではなく、そのように挿入されるスティル写真の静止がそこでの運動に独特の様相を付与することになる。このように社会心理学的考察の色合いは希薄ではあるが、鋭い哲学的省察に満ちた議論は当時から存在した。しかもこのような哲学的考察に満ちた議論は、後の時代に再び回帰することになるのである。[26]
 このように普遍的に分析されるスナップ・ショットの静止画像の挿入であるが、この映画『日曜日の人々』におけるスナップ・ショットを可能にした特異な歴史的・物理的背景をもう少し見る必要がある。というのは、そもそも上述のような脱社会心理学的で哲学的省察に満ちた議論は、この映画『日曜日の人々』から刺激されることにより見出されたものであるが、このとき、仮にもこの議論に何らかの普遍性が見い出されるとするならば、それはこの映画の持つ特異性とコインの表裏のように逆接するものと考えられるからである。

3-2. カメラマンのシュフタンによるスナップ・ショットの特異性

      「映画をつくりはじめる以前のぼくにとっての偉大なカメラマンはだれだったかと言えば、シュフタンであり・・・」(J=L・ゴダール) [27]

 この映画『日曜日の人々』の撮影を支えたシュフタンのカメラは、いったいどのようなものだったのであろうか。[28]この映画を評するにあたり、「生活の断片」が切り取られるとかスナップ・ショット的という言葉が使われたりするが、そもそもこれらの言葉は、映画に先行する形態としての写真において使われてきた言葉である。スナップ・ショットと言われるのであるから、それは片手にカメラを軽く握り、手首を捻りシャッターを押して得られるといったものである。しかしこのことが可能となるには、物理的な条件が整っていなくてはならない。つまり、片手で軽くスナップを利かせて写真が撮れるようなカメラの存在である。写真の領域においては、それは1888年に出現する。「ハンドヘルド・ボックス・カメラ(handheld box camera)」の発明である。[29]そうであれば、そのような「ハンドヘルド・ボックス・カメラ」を実際に用いてのスナップ・ショットといったものは、1888年まで見られることはないであろう。
 ではこの映画にあっては、上述のようなカメラが用いられたのだろうか。この映画『日曜日の人々』は、1929年製作のものであるから用いられてもよいはずである。実際映画の領域において「ハンドヘルド・ボックス・カメラ」のような手持ちカメラは、たとえば1920年にフランスのパテ社が9.5ミリ・パテ・ベビー撮影機をフィルム、映写機と共に生産・販売し始める。そしてそのような手持ちカメラを使って撮られれば、まさに文字通りスナップ・ショットが可能となる。しかしこの映画の撮影において、パテ・ベビー撮影機のような手持ちカメラは使われていない。しかもそればかりか、当時製造されている小型カメラも使われていない。たとえば1925年のドイツの映画雑誌Die Kinotechnik[30]には、最小の映画撮影装置としてIca社のキナモ(Kinamo)が製造されたことを示す広告が掲載されているが、そのような装置も使用されていない。[31]つまり1929年の製作時点にあって、実際にはパテ・ベビー撮影機のような手持ちカメラや、あるいは上に挙げたキナモのような小型カメラを使うことが可能であったにもかかわらず、この映画はその低予算性もあってそのようなカメラは一切使われていないのである。
 この映画の撮影に実際に使われたのは、三脚を取り付ける1915年のエクレール製のカメラであった。[32]しかも自由に稼動させることを可能とする、ジャイロスコープ・ヘッドも持たないものである。にもかかわらず、この映画にはいかにも手持ちカメラで撮られたかのような不安定なショットが見られる。なぜか。それはいわば悪条件がいいように作用した結果だったのである。つまり、カメラそのものが自由に滑らかに動かせないということで、なんとか被写体の運動を捉えようとすると、そのすべての運動が不安定な効果を生み出すことになる。さらにカメラマンのシュフタンはカメラを三脚から取り外して被写体を追おうとするが、このカメラは後に技術的に達成される電動によるフィルムの巻上げのものではなく手動によるものである。だから、被写体を追う際にはカメラのクランクを回転させながらそれをしなければならない。幾つかのショットで見られる手ぶれ感はこのためだったのである。まさにこのような負の条件が、逆にプラスに作用し、手持ちカメラであたかも撮られたかのような肌理をこのフィルムに刻むことになったのである。手持ちカメラがないといった過酷な悪条件に強いられた工夫により、独自の瑞々しいスナップ・ショットが可能となったのだ。その意味で手持ちカメラが使用されなくとも瑞々しいスナップ・ショットは可能であり、逆に言えば手持ちカメラを使用していれば必ずスナップ・ショット的な瑞々しいものが得られるわけではないということでもあろう。そして先に見られたスナップ・ショットに関する議論(3-1)に何らかの普遍性を見い出しうるとすれば、それはこの映画におけるこのようなスナップ・ショットを可能にした特異な歴史的・物理的背景とコインの表裏のように逆接するかぎりのものであろう。この映画に見られる映像上の工夫がなされたシーンは、実を言えば特異な歴史的・物理的条件によって可能となったと言いうるのだ。
 このことを踏まえた上で、先に社会心理学的批評により「精神的空虚」を感じる「精神的によるべのない」ものとして析出された、この映画に見られる「小さき人々」を、社会哲学的角度から見てみたい。

4-1. 「小さな現実」という装置と構造的布置の見直し
 
ワイマール期ドイツのベルリンにおける社会状況が踏まえられた上で、「小さき人々」を「精神的によるべのない」ものと捉えるというような批評とは位相を変えた社会哲学的批評(B・バラージュ)が当時(1930年)なされた。[33]それは「小さき人々」を「現代の大都市の小市民」といった位相から見ようとするものである。そしてその批評では、この映画の登場人物でもあり観客でもある<われわれ>によって「大きな現実」を隠すために「小さな現実」とされるものが発見されるという。
 1920年代、世界交通も拡大し地理的遠隔さといったものはロマンティックなものではなくなる。また社会的認識により社会的・歴史的な遠さの幻想も信じがたいものとなる。そのような幻想がまだ信じられる時であれば、「遠さや遠くにありそして遠くにとどまり続けるもの」[34]に意味も見出され、遠さに幻想を見出すロマンティシズムも機能する。しかし時代も推移し、当時の「大都市の小市民」とされるものにとり、「遠いところへ逃亡すること」はますます困難なものとなる。ところが彼らには、そのような現実を見つめることが耐えがたい。ここで既存のロマンティシズムがもはや耐用年数を終えているならば、そこに機能の転換が生じざるをえない。つまりそこに生じるのが、「逆転されたロマンティシズム」とされるものである。そしてこのロマンティシズムの欲求に応じて、「小さな現実」といったものが見出されることになる。この欲求は、映画においては「自然主義」として機能し、その中で「自然主義」は、精妙で真に高度な芸術にまで発展することになる。
 ここにおける「自然主義」の特徴とは、「真実の良い細部」と「説話全体の偽りの偏狭」である。ここには、(a)「新しい、事実に対する狂信」、(b)「小さな生活に密着した観察に対する喜び」、(c)「日常の契機の強調」がある。これらは「全体を離れて個別の中に逃避すること」であり、これもまた「危険な事実を故意に無視する新しい策略」に過ぎないとされる。つまり、「生そのものを見ないですむように、豊富な生の細部」に拘泥することになるというのである。[35]
 精妙で真に高度な芸術にまで発展することになったこの「自然主義」的映画として取り上げられるのが、「普通の人間の現実生活」から出来ていると呼ばれる当時のドイツ映画であり、ここに『日曜日の人々』も含まれることになる。[36]そしてこのような「自然主義」的映画は、「豊富な事実の中に事実の持つ意味を隠してしまう」という。たしかにこの社会哲学的批評において言われるように、「小さな現実」への拘泥は「全体」といったものを考えにくくしてしまうこともあろう。またこの批評には、「個別からは結論を引き出すこと」はできず「全体だけが意味を持つ」といった考えが通奏低音のように鳴り響いている。しかし、個々のエレメントが網状組織的に絡まりあい、「全体」といったものが容易に見通せない状況が存在し、そのような状況のもとなされる戦略(たとえばミクロ・ポリティクス)が必要とされることもたしかであろう。ただこのような社会哲学的批評がなされる社会的・歴史的状況も考えなくてはならないと思われる。この批評は1930年になされたものであるが、「自然主義」的映画に加えて、この映画『日曜日の人々』もそこに含まれうるかもしれないある種のドキュメンタリー映画(さらにはルポルタージュ映画)一般に、この社会哲学的議論が批評的意味合いを持ちえたことも確かなのである。 

4-2. 『日曜日の人々』と週間ニュース映画
 
当時『日曜日の人々』もそこに包摂されうるかもしれない作品群が、「自然主義」的映画とされるものとは別に存在した。Die Duelig-Woche、Ufa-Wochenschau、Fox Toenende Wochenschauなどの週間ニュース映画である。[37]それらは時事ニュースであり、そこには「進水式」、「大火災」、「スポーツ撮影」、「パレード」、「子供や動物の牧歌的風景」といったものが映し出される。そしてこのような週間ニュース映画にあっては、劇映画のように人工的なセットが使用されていないこともあり、あるがままの現実の世界が提示されようとしていると一般に思われる傾向がある。しかしそうではなく逆のこともありうる。つまりそれはその映画を見る者に対して、「どうでもよい観察をいっぱいふりかけ」、「私たちにとって唯一かかわりのある生活への道を遮断する」ことにもなりうる。[38]ここでは<生のままの真実は虚偽以上に虚偽である>という言葉が機能する。なるほどそこに映し出されているものは時局性を持ってはいる。持ってはいながら、しかし、それが何度も繰り返すだけの価値がある出来事でないこともたしかであろう。たとえばそこに映し出されるどのオートバイ・レースも、絶望的に似ている。ここには一方で些細なことへの拘泥が見られるが、他方で個々の映像を組み合わせて「モザイク」にするという考えが欠如しているために、それは単調なものとなってしまうのである。[39]そしてこのような週間ニュース映画との類似は、『日曜日の人々』にも確かに見られるのである。たとえばグラウンドでのホッケーのシーン(shot no. 436-441)や背後に森をひかえた野原で子供たちが戯れるシーン(shot no. 442-446)などがそれである。[40]
 このようにドキュメンタリー・ショット[41]をその構成要素とする、当時見られた映画群(週間ニュース映画など)に対する批評性を、先に見られた社会哲学的批評(4-1)は持っていた。このことからも、当時何故この映画『日曜日の人々』が評されるにあたり社会学的議論がなされたのかが理解しえよう。しかもそのような社会学的議論は、この映画について見られた批評(2節、4-1)においてのみ顕著な特徴ではなかった。この映画は同時代の写真、文学、絵画の領域において言われ、そして先の注にも触れた「ノイエ・ザッハリッヒカイト」といった言葉が指し示すものの近傍に位置するものだったのである(たとえばアウグスト・ザンダーの写真はこの領域において「ノイエ・ザッハリッヒカイト」の文脈で語られることが多いものである)。したがって次に、この「ノイエ・ザッハリッヒカイト」の機能を批判的に見よう。

4-3. 「ノイエ・ザッハリッヒカイト」:「美化」=「貧困」の「享楽」化
 「ノイエ・ザッハリッヒカイト」は1920年代半ばのドイツに、それまでのサロンを中心としたセンチメンタルでロマンティックなピクトリアリズムの写真と対照的なものとして現れ、日常的なありふれたものや景観をその対象とした。例えばレンガー・パッチュ(Albert Renger-Patzsch, 1897-1966)がレンズの鮮明な描写力を使った写真を撮りはじめ、『世界は美しいDie Welt ist schoen』という有名な写真集を1928年に出版し、[42]写真だけがもつ客観的再現力により、それまでになかった美を認識させた。[43]そしてこの写真集こそが写真の領域における「ノイエ・ザッハリッヒカイト」の頂点とされた。ところが、写真の歩みをたどると事態はいいようには進まない。というのは、「ノイエ・ザッハリッヒカイト」において、「写真はますます微妙なニュアンスをつけ、ますます最新流行」[44]なものになり、その結果もはやどのような「集合住宅(Mietskaserne)」もどのような「塵芥の山」も「美化(verklaeren)」[45]することなしには写真化しえないことになってしまったからだ。ましてや「ダム」や「ケーブル工場」ともなれば、それは「世界は美しい」ということ以外に何かを表現することなどできなくなってしまうだろう(まさにこの「世界は美しい」といった言葉はレンガー=パッチュの先の写真集のタイトルである)。これは単なる美的な身振りではなく、政治的な身振りであろう。[46]このような事態にたちいたってしまうと、「フォト・モンタージュ」がもたらしたものも、果たして一体何であったのだろうかということにもなってくるだろう。
 このように「ノイエ・ザッハリッヒカイト」にあっては、「対象を最新流行の様式で完璧」に捉えることにより「貧困さえも享楽の対象」としてしまうことになった。そしてこのような批評が、この映画『日曜日の人々』に対しても、当時映画批評としてなされた。「今や、市民は「客観的な事実の記録」や「映画におけるノイエ・ザッハリッヒカイト」という仮面のもとに彼らの虚偽を隠そうとしている」[47](1930.8, Heinz Luedecke)。さらに「ノイエ・ザッハリッヒカイトのレアリスム」が「詩的再生」の道に通じているのは明白であり、それが「ファシスト的な継承者」へと入り込みうるとも後に指摘されることになる。[48]しかし筆者が考えるに、『日曜日の人々』に見られるものは、「ノイエ・ザッハリッヒカイト」ではないであろう。というのはこの映画には「様式化の意図もないし、何ものも装飾的に歪められてはいない」からだ。[49]つまり、ここでカメラマンのシュフタンのやり方で新しく機能しているものは、おそらく「自明の即物性(Sachlichkeit)」とでも言いうるものであろう。[50]
 しかしただここには一筋縄にはいかない事情も存在している。つまりここに見られるのは、ドキュメンタリーについての先の議論(4-2)からもうかがえるように、いわゆる伝統的なリアリズム的な描写でもない。つまり対象の独立性を前提とし、それゆえ「現実的なものと想像的なものとの識別可能性を仮定」するような意味での、伝統的なリアリズム的描写ではない。[51]ここに見られる描写は、一方で「それに固有の対象にとってかわり、対象の現実を破壊して想像的なものの中に移行させ」、他方で「想像的なものあるいは心的なものが言葉と視覚によって創造する現実の全体を、対象から出現させる」という可能性を秘めたものである。つまり、この映画にしても後に展開を見せるネオ・レアリスモ、ヌーヴェル・ヴァーグにしても、そこに見られるのは単に外的対象を模倣したような意味でのドキュメンタリー的なショットをその構成要素としているものではなく、見出された外的対象と呼びうるものをその構成要素とするものである。その意味で、「現実はもはや表象されることも再現されることもなく、ただ<狙われる>」。ここにあって外的対象は<幻視者> により見出された外部といった様相を帯びることになる(そしてこの<幻視者>的姿勢は、この映画の製作者たちの在り方に相応しいものであろう)。この意味でこれらの映画にあって共通して見られるものは、予め存在する外部の模写といったようなものではなく、創造された外的対象であろう。
 本論のこれまでの節では、『日曜日の人々』の登場人物でもある「小さき人々」を「精神的によるべのない」もの、あるいはネガティブな様相を纏った「大都市の小市民」などの批評的概念と共に分析検討してきた。次節ではこのことを受けて、その「小さき人々」をこの映画に様々に見出しうる「貧しさ」といったテーマ(製作条件をはじめ、登場人物たちのおかれた状況など)から見なおす。そして「貧しさ」というこのテーマは、この映画の製作時期や批評がなされた時期から後にも再び見られることになる。

5. 「小さき人々」に「歴史」を返すこと

5-1. 「貧しき人々の仮構作用の機能」
 
この映画『日曜日の人々』がドキュメンタリー・ショットをその構成要素として成立するものであることは、これまでに繰り返し見てきたとおりである。ところで「虚構」を拒否して新しい手段を明示しようとしてきたドキュメンタリー映画において、既存の「虚構」を拒否することで或る「現実」を捉え発見するといったことが、非常に重要であった。なるほどそういう試みにおいては、「現実的なもの」にとって有利な結果になるように「虚構」が背後へ退くように謀られる。とはいえここにはなお「映画的虚構それ自身に依存する真実という理想」が固く保持されている(G・ドゥルーズ)。[52]であれば、仮に断絶といったものが生じるのなら、それは「虚構」と「現実」との間にではなく、両者に共に影響を及ぼす新しい物語様式においてである。するとここから取り出される「虚構」への批判は、「虚構」対「現実」といった枠組みを前提とするような、「虚構」を排して「現実」を見よといったものではない。ここでの「虚構」への批判が意味するのは、「虚構」が「すでに存続している真実というモデル」を示すものであり、このモデルが映画作家により考え出された時でさえも、必然的に「支配的な観念」を表現しているということである。
 仮に可能性を秘めた映画作家が或る実在する人々に顔を向けるとして、それは「虚構」を排除するためばかりではなく、「虚構に貫通している真実のモデル」から「虚構」を解放し、反対にこのようなモデルに対抗する「純粋で、簡潔な仮構作用(作り話fabulation)の機能」を再発見するためである。「虚構」に対抗するのは「現実的なもの」でもなく「真実」でもない。「真実」がいつも「支配者の真実」となっているのであれば、「貧しき人々(pauvres)の仮構作用の機能」こそが「虚構」に対抗する、とドゥルーズは考える。ならば先に言われた、個々の映像を組み合わせて「モザイク」にするという考えの欠如のために単調さに陥ってしまうという言葉も(4-2)、現在にあっては読み変えていかなければならない。つまり個々の映像を組み合わせて「モザイク」にするとは、「支配者の真実」に呼応してなされるものではなく、「貧しき人々の仮構作用の機能」に応じることである。登場人物である「小さき人々」のみならず、その製作者たちの身振りも如何にも「貧しい」この映画は、「支配的な観念」において構成される「支配者の真実」といったものではなく、「貧しき人々の仮構作用の機能」がたえず働き続けることにおいてある「真実」である。たえず働き続けるとは、つまりこの映画に接する者もその作用をなし続けなければならないということでもあろうが、そのことは製作にあたった当事者の一人であるウルマー自身のその後の映画的実践、ディスクール的実践、さらには後の幾人かのシネアストたちの実践において示されることになる。『日曜日の人々』の「歴史」もまさにそういった「後史」を待つことなしに「歴史」となることはないであろう。したがって最後に、このような『日曜日の人々』の「歴史」への「後史」からの或る応答を見たい。 

5-2. 「歴史のない人に歴史を返したい」
 
これまでにウルマーらによる『日曜日の人々』に歴史的に様々な批判的言及がなされてきたことは見てきたとおりである。しかしそのような批判的言及を踏まえたうえでも、この映画の持つ瑞々しい魅力は失われることはないであろう。最後にあらためてこの映画に出演している「小さき人々(無名の人々)」を捉えた或るシーンに眼を向けてみよう。それはレコード店の店員ブリギッテ・ボルヒャルトとワイン販売業者のヴォルフガング・フォン・ヴァルターの2人が、他の男女の連れ合い2人を加えて、4人で近くの湖畔べりで戯れるシーンである(3-2でも触れられたように、このシーンにおけるショットも特異な歴史的状況におかれたカメラマン、シュフタンにより可能とされるものであるが、たとえばそのショットに見られる瑞々しい手振れ感もそのことにおいて可能とされるものの一つである)。このシーンは以下の幾つかのショットから構成される。[1]砂浜にある草の茂みで女(ブリギッテ)が着替えをする(shot no. 325)。そして[2]水面で男(ヴォルフガング)が女(ブリギッテ)のお腹を支え、支えられた女は手足を動かし泳ぐ練習をする(shot no. 369)。さらには浜から奥まったところにある森林の中で、男(ヴォルフガング)と女(クリステル、ブリギッテ)が追い駆けっこをして戯れる。そして[3]女(クリステル)が枝葉が生い茂る木々の間をひらひらとくぐり抜ける(shot no. 597)。それから[4]じゃれあっていた男(ヴォルフガング)と女(ブリギッテ)とは近づいて見つめ合う。女は男の顔に手のひらを押しつける。手のひらに覆われた男の顔がクロースアップ・ショット(CS)で捉えられる(shot no. 621)。女は手のひらを押しつけながらも引き寄せられ、上目づかいで見上げる(CS)。そして2人はキスをする(CS)。
 これらのショット([1]、[3]、[4])を自らの映画に引用するのが、『新ドイツ零年 Allemagne Annee 90 Neuf Zero』(1991)のJ=L・ゴダールである。[53]しかも引用される際、まさに「中断」という技法がここに用いられる。つまり最初に着目した、『日曜日の人々』に見られる「中断」の技法のシーンがそのまま引用されるのではなく、『日曜日の人々』の別のシーンが「中断」という技法と共に演じられ引用されるのである。しかもこのように引用される際に背後で語られるナレイションまでもが意味深い。着替えをする女(ブリギッテ)のショット[1]が挿入される前にナレイションにより語られるのは、「歴史のない人に歴史を返したい」という言葉である。乱暴な手つきで扱ってしまえば怖じ気づいて隠れていってしまいそうなシューマンの『子供の情景』が背後に流れる中、これら一連のシーンが続く。そして着替えをするショットの後には、幻灯による明かりのショットと「LATERNA MAGICA」の字幕のショットが続けられ、背後では「ドイツへの別の視点」というナレイションがさらに重ねられる。もちろん「ドイツへの別の視点」というのは、ウーファという確固たるスタジオ・システムのもとで製作された絢爛豪華な作品への視点とは「別の視点」ということである。そして先述した2人の男女のキス・シーンへと続けられることになる。「歴史のない人に歴史を返したい」というナレイションとともに、これら「無名の人々(小さき人々)」を登場人物とする『日曜日の人々』の一連のシーンが引用されることからも、ゴダールによってその無名性はさしあたり認識されていると言っていいであろう。[54]

5-3. 「エドガー・ウルマーの旅」へ
 
しかしここにおいて、果たして「無名の人々」である彼、彼女らに歴史は返されることになるのであろうか。F・ジンネマンによる回想で今にあってはいかにも有名なとも思われる人々の名前が挙げられていたが、それ以外にもこの映画の製作には「知られていない」人々が携わっている。ナチスから逃れることを強いられた若き「知られていない」映画への熱い思いを抱く総勢55人の人々である。[55]そんな彼、彼女らが帰るべき歴史は見出され、彼、彼女らは救われることになっているのであろうか。結局歴史の表舞台にあって名声を思うままにしているのは、そんな彼、彼女らをその登場人物にしたウルマーらによる『日曜日の人々』という映画を先のように扱ったゴダールではないだろうか。[56]この疑問にはさらなる議論が必要とされようが、しかしそもそもこの映画『日曜日の人々』が、当時無名の人々らの集団製作によるものであり個人的な製作によるものではないこと、さらにはヴェルトフの『カメラを持った男』らの刺激のもとにあるインターテクスチュアルなものであり、一つの自立した作品でもないことを想起すべきである。そして最も個人的な製作行為と見えるものも、集団的な製作行為の特殊なケースである。[57]ただこのことは、まだ現存しない集団性が製作行為の真の主体であるとか、それにより製作がなされる主体であるといったことを意味しない。或る製作行為は、それが集団的製作行為の条件に先行する何者かにより或る姿勢で引き受けられるときに、映画的な製作行為となる。[58]ウルマーのその後の映画的遍歴が明らかにするように、ウルマーの映画的遍歴はそのような姿勢を引き受ける特異なものである。
 したがって以下に引き続き見られなければならないことは、マイノリティのためのマイナー映画製作などを含むところのウルマーのその映画的遍歴である。ともあれ「小さき人々(無名の人々)」の「エドガー・ウルマーの旅」 [59]はここから始まることになる。

おわりに
 最初にスナップ・ショットが挿入されるシーンを取り上げ、以下そのシーンについてなされてきた歴史的言説と共にそのシーンを検討した。スナップ・ショットの静止画像の挿入(1節)が社会心理学的に批評されることにより、この映画に見られる「小さき人々」は「精神的空虚」を感じる「精神的によるべのないもの」とされた。またこの社会心理学的批評を受けてなされたエッセイ風批評にあっては「小さき人々」は何ら規定を得ることもなく、この映画は「楽天的映画」という否定的な評価を得た(2節)。しかしこの社会心理学的批評には歴史的限界が見られた。転じて、この映画に見られるスナップ・ショットの静止画像の挿入という技法は、美学的批評により「運動する静止」(「中断」)という規定を得た(3-1)。しかし普遍的に導出されたかに思えるこの「運動する静止」という規定であるが、この普遍性はこの映画に見られるスナップ・ショットが撮られるにあたりカメラマン、シュフタンの置かれた特異な歴史的状況に逆接することで導出されたそれにすぎないことがわかった(3-2)。さらに社会心理学的批評により「精神的によるべないもの」と規定されたこの映画の「小さき人々」は、社会哲学的批評によっては「小さな現実」という装置を補完するものであるという否定的な規定を得た(4-1)。しかしこのように否定的に規定されたこの映画であるが、この映画が置かれていた当時の歴史的状況を鑑みると、当時この映画はそれに類似した映画群(週間ニュース映画、ルポルタージュ映画)のなかに存在し、社会哲学的批評はそのような映画群への批評的役割を果たしていたこともわかった(4-2)。同じくこの映画は当時注目されていた「ノイエ・ザッハリッヒカイト」の美学の近傍に位置するものであり、その美学を「貧困さえも享楽の対象」とする批評からこの映画への批判も当時なされた(4-3)。しかしこのことももう少し調べてみると、この映画に見られるものはなるほど非常に類似するものではあるが「ノイエ・ザッハリッヒカイト」などではなく、「自明の即物性」と呼ぶべきものであったこともわかった。
 このようにこの映画には同時代のみならず後世により様々な批評的言説が投げかけられ、この映画が様々な批評的言説の闘争のなかに存在し、この映画を見ることがこの映画を巡る或る支配的言説と等価となっていた。そしてそれだからこそ5節では以下のことが課題とされた。つまりこの映画を巡る支配的な言説に対しては、この映画の肌理を梃子に、「支配者による真実」に対してなされる「貧しき人々の仮構作用」の機能に呼応する言説から、解体・構築的な作業がなされなければならないということである(5-1)。その際ひとつの貴重な試金石を提供するものが、この映画における「小さき人々」に対して「歴史のない人に歴史を返したい」とする言説を投げかける、或る特異な映画的技法をそのスタイルとして生きる映画的応答であった(5-2)。そして仮にその映画的応答が「貧しき人々の仮構作用」の機能に呼応するものであるのならば、少なくともその水準を踏まえあらためてテクスト分析を加え、この映画を見ていくことが課題とされる。



[1]François Truffaut, Vous êtes tous témoins dans ce procès: Le Cinéma français crève sous les fausses legends, Arts No. 619 ( 15. -21. Mai 1957), p. 1, 3-4. Zitiert nach: François Truffaut, Die Filme meines Leben: Aufsaetze und Kritiken, Verlag der Autoren, 1997, S. 34. (山田宏一『増補 友よ映画よ、わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』、平凡社、2002、318-319ページ)
[2]Wim Wenders, The act of seeing : Essays, Reden und Gespraeche, Verlag der Autoren, D-Frankfurt am Main, 1992. (瀬川裕司訳『夢の視線』、河出書房新社、1994、166ページ)
[3]Stefan Grissemann, Mann im Schatten. Der Filmemacher Edgar G. Ulmer, Zsolnay-Verlag, 2003.
[4]以下、shot no. は、Martin Koerberの作成によるエクセル・シートに従う。エクセル・シートの閲覧に関しては、SDK, Fachhochschule fuer Technik und Wirtschaft BerlinのMartin Koerber氏の協力を得た。
[5]なるほど『日曜日の人々』における海浜での人々の顔の撮影のシーンにおける静止画像の挿入は、ヴェルトフが先行する。しかしスティル挿入は1920年代のソヴィエト・ロシア映画にヴェルトフと同じく刺激を与えたA・ドヴジェンコに見られるものである。
[6]Peter Bogdanovich, Edgar G. Ulmer, Interview in: Film Culture, Nr. 58-60, 1974; deutsch in: Filmhefte, Nr. l, Sommer, 1975 (u. a. über Murnau). in: Who the devil made it, Alfred A. Knopf, 1997, p.565. ただ別のインタビューにあっては、The Salvation Hunters (1925, J. v. Sternberg)の刺激のもと撮られたことが語られる。Luc Moullet, Bertrand Tavernier: Entretien avec Edgar G. Ulmer. in: Cahiers du Cinéma, No. 122, August 1961, p. 5. ただウルマーはここでデ・シーカもそこに含まれることになるであろうイタリアのネオ・レアリスモに触れているが、この映画『日曜日の人々』における現実は、なるほどネオ・レアリスモとよく似たドキュメンタリー・ショットをその構成要素として組み入れ構成し、何かしらネオ・レアリスモに通じることを感じさせる。ただ、とはいえ持っている意味合いが少々異なると思われる。ネオ・レアリスモにおいては日常とはあまりにも異質な状況、人々がそうは容易にはリアクションを返すことができないようなある種の「限界状況(situation-limite)」が言われた。それはたとえば第二次大戦下において爆撃により破壊された街である。それは「突き刺す苦痛のような非常に強烈な美」である(Gilles Deleuze, Cinéma 2, L'image-Temps, Les Editions de Minuit, 1985, pp. 7-37; dt.: Gilles Deleuze, Das Zeit-Bild; übersetzt von Klaus Englert. 1. Aufl. Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.11-40.)ただ「限界状況」は何もそのようなものばかりではなく、同時に「全くありきたりな何か」、単なる工場や空き地でもある。そして『日曜日の人々』を支えるのは、「限界状況」といっても「全くありきたりな何か」に近い平凡で何気ない日常と思われる。したがって外的状況をドキュメンタリー的に描くということでは、『日曜日の人々』とネオ・レアリスモは似ているが、それを指摘するのみでは何かを言ったことにはならないであろう。またネオ・レアリスモほどの「限界状況」といったものを描出するのでもなく、どちらかというと小津の映画に近いが、かといってありふれた日常性を描出するといったわけでもなく、ただ日常の何でもないものを描出しつつも人物たちがそう容易にはリアクションを返さないという特徴のものにあっては、後のヌーヴェル・ヴァーグが考えられる。実際にヌーヴェル・ヴァーグは以前の歩みを繰り返すとドゥルーズは言う。そしてヌーヴェル・ヴァーグの多くがウルマーから刺激を受けていることは知られるとおりである。
[7]Thomas Tode, Alexandra Gramatke (Ed.): Dziga Vertov. Tagebuecher / Arbeitshefte, Konstanz : UVK Medien, 2000, S.227.
[8]Material zur Retrospektive Proletarischer Film - Proletariat im Film. in: Juergen Berger u. a. (Red.), Erobert den Film!. Berlin : Neue Gesellschaft fuer Bildende Kunst/Freunde der Deutschen Kinemathek, 1977, S.125-126.
[9]Julia Kristeva, Semeiotike : recherches pour une semanalyse, Paris : Seuil, 1969, p.146. (原田邦夫訳『記号の解体学』、せりか書房、1983、61ページ)
[10]Herbert Ihering in : Berliner Boersen-Courier, Nr. 60, 5. 2. 1930; Ndr. in: Von Reinhardt bis Brecht. Vier Jahrzehnte Theater und Film. Band 3. Berlin/DDR: Aufbau, 1961, S.300.
[11]Heinz Pol in: Die Vorssische Zeitung , Berlin , Nr. 61, 5. 2. 1930.
[12]Hanns G. Lustig in: Tempo, Berlin , Nr. 30, 5. 2. 1930. zit., Wolfgang Jacobsen, Hans Helmut Prinzler ( Hg.), Siodmak Bros: Berlin-Paris-London-Hollywood , Berlin : Stiftung Deutsche Kinemathek / Argon, 1998, S.12
[13]「エドガー・G・ウルマー『日曜日の人々』(1929)−小さき人々の(ための)エチュード、その製作経緯を中心に」
[14]Siegfried Kracauer, Von Caligari zu Hitler. Eine psychologische Geschichte des deutschen Films (Schriften. Band 2), Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1979, S. 199. 静止画像の挿入については後の著作にあっても着目される。Siegfried Kracauer, Theory of Film. The Redemption of Physical Reality, New York ; Oxford University Press, 1960, p.44f.; dt.: Theorie des Films. Die Errettung der aeusseren Wirklichkeit(Schriften. Band 3), Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1979, S.75.
[15]ただこのシーンには「中間層下層の人々」ばかりが登場しているわけではない。「無名の人々」を登場人物とするこの映画ではあるが、たとえば当時は比較的知られた女優Valeska Gertもこの砂浜でのシーンに登場している。それに触れるものとしては以下。Frank-Manuel Peter: Valeska Gert. Taenzerin, Schauspielerin, Kabarettistin. Eine dokumentarische Biographie. Berlin: Froelich und Kaufmann, 1985, S.61. 彼女はここに5秒だけ登場する。肖像写真のために、実にエレガントに髪を後ろに撫で上げ、気取った姿勢をとっている(shot no. 531)。彼女の出演している当時の映画としては以下。Die freundlose Gasse (1925, G. W. Pabst), Nana (1926, J. Renoir), Tagebuch einer Verlorenen (1929, G. W. Pabst), Die Dreigroschenoper (1930/31, G. W. Pabst)など。
[16]Siegfried Kracauer, Von Caligari zu Hitler, S.141-142.
[17]クラカウアーによる映画批評も同時代からなされており、後に書物に纏められることになる。ただ『日曜日の人々』に関しては、後の時代になされたものほどに詳しくなされていない。同時代になされたバラージュらによる議論からの刺激が大きいものと考えられる。
[18]Maurice Zolotow, Billy Wilder in Hollywood ; foreword by Jack Lemmon. London : Pavilion, 1988: Originally published: New York : Putnam, 1977, p.42f.
[19]したがってジョン・R・テイラーはこの作品を「ブルジョア・リアリズム」のパイオニアともする。John Russell Taylor, Strangers in paradise : the Hollywood emigres, 1933-1950, London : Faber and Faber, 1983, p.46. さらには「小市民的環境」を指摘するものとしては以下。Ulrich Gregor, Enno Patalas, Geschichte des Films, Guetersloh: Mohn, 1962, S.75. ただ「小ブルジョア的傾向」という指摘は当初からあったものではある。Durus, Alfréd Keményi, Ein interessanter Filmversuch Menschen am Sonntag, Die Rote Fahne, Nr. 32, 7. 2. 1930. in: Juergen Berger u. a. (Red.): a. a. O.,S.183.
[20]これは映画における静止画像の最初であろうとここで指摘されるが、『日曜日の人々』におけるこれも、ヴェルトフの『カメラを持った男』の刺激のもとなされたものである。また先にも触れられたように、これは同じくソヴィエト・ロシアの映画に刺激を与えたA・ドヴジェンコにあって遡行的に見いだされる。そしてそのようなドヴジェンコに失われた可能性を見出すものとして、『ヴェトナムから遠く離れて Loin de Vietnam』(1967)におけるゴダールがある。そこではドヴジェンコ的なショットが挿入される。
[21]ただ興味深いことにも触れてくれている。つまり、ワイルダーが写真カメラマンが公園にいる人々のスナップ写真を撮っているシークエンスを書き、そこから撮影を担当したシュフタンがスティル写真を映画の運動の中に編集で接合するという考えを得たという。
[22]Rudolf Arnheim, Films as Art, Faber and Faber Limited, London , 1958; dt.: Film als Kunst. Frankfurt am Main : Fisher, 1979, S.140.
[23]われわれはロラン・バルトによる「フォトグラム」についての魅力的な議論を知っているからである。Roland Barthes , L'obvie et l'obtus , Paris : Seuil, Collection "Tel quel"; . Essais critiques ; 3, 1982 (沢崎浩平訳『第三の意味 ― 映像と演劇と音楽と』、みすず書房、1998), Roland Barthes , La chambre claire : note sur la photographie , [Paris] : Gallimard, 1980(花輪光訳『明るい部屋 ― 写真についての覚書』、みすず書房、1997). 前者にあって彼は、逆説的なもの言いではあるが、ある意味で「映画的なもの」は「動きの中」の映画では捉えられず、「フォトグラム」という静止するもののなかでこそ捉えられると言う。
[24]Susan Sontag, On photography, New York : Farrar, Straus and Giroux, 1977; dt.: Ueber Fotografie. Fischer Taschenbuch, 1980, S.72-73. 本論で引用された箇所の前の部分は以下。「日曜日の行楽の終わりに、労働者階層の幾人かのベルリンの人々が写真を撮ってもらう。一人ずつ街頭写真家の暗箱の前に立ち、笑ったり、神経質な印象を与えたり、おどけた顔をしたり、レンズをじっと見つめたりする。カメラはクロースアップにより各々の顔の表情の動きを享受させる。しかし、それから私たちは最後の表情で顔が凝固して、スティル写真の中で防腐処置されるのを見ることになる」。なるほどこのエッセイ的批評では、公園における街頭写真家による撮影シーン(shot no. 413-434)と砂浜における海浜写真師による撮影シーン(shot no. 522以下)とは区別されずに論じられ、先にみられた社会心理学的な方向に開かれた解釈も見られることはない。そうであればこのような身振りの評価は、ただ表面をなぞっただけの単なる過去の繰り返しのそれなのか。それとも危機的状況にあって見出された可能性を回復=反復しようとしつつも、自らのおかれた時代状況を配慮しての戦略的な身振りのそれなのか。この批評家なりの戦略とみればいいのか、それとも後退とみればいいのか。
[25]それはたとえば、俳優が運動を突然中断したりじっと静止したりすることによっては埋め合わせられることはない。理由は、まず第一に「意図的に演じられた停止」と「映像の完全な凝固」との間には差異があるからであり、第二に「俳優は在る特定の抜群の動きの点に停止することはできるであろうが、撮影されている対象の意志や運動の法則に従うことのないスティル写真がそのことを可能にするようには、不合理な瞬間相に固執することは決してない」からである。
[26]Gilles Deleuze, Cinéma 1, L'image-mouvement, Les Editions de Minuit, 1983; dt.: Gilles Deleuze, Das Bewegungs-Bild; übersetzt von Ulrich Christians und Ulrike Bokelmann. 1. Aufl. Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989, S.118.
[27]Jean-Luc Godard: Jean-Luc Godard par Jean-Luc Godard, Editions de l'Etoile-Cahiers du cinema, 1985 (奥村昭夫訳『ゴダール全評論・全発言Ⅱ 1967−1985』、筑摩書房、1998、678ページ)
[28]オイゲン・シュフタンはブレスラウ出身のユダヤ人であるが、ベルリンではラングの『メトロポリス』(1927)に協力している。また「シュフタン効果」でも有名である。そして1933年にはシオドマクと同じくフランスに亡命し、フランスにおける詩的レアリスムを支え、さらにはM・オフュルスと共に製作に携わりもする。さらに1940年には、これもまたシオドマクと同じようにアメリカに移動することになるが、ウルマーとはもちろんのことD・サーク、G・フランジュ、R・ロッセン(『ハスラー』)のカメラマンをもつとめることになる。PRC時代のウルマーとの共同作品としては次のものがある。Bluebeard (1944), Strange Illusion (1944/45), Club Havana (1945)。さらにPRCのものではないが、The wife of Monte Cristo (1945/46), Carnegie Hall (1946/47)がある。
[29]vgl. Jeannene M. Przyblyski, Moving Pictures: Photography, Narrative, and the Paris Commune of 1871 in: Leo Charney, Vanessa R. Schwartz (ed.), Cinema and the invention of modern life, Berkeley : University of California Press, 1995, p.258.
[30]Die Kinotechnik, 17/ 1925, S.429.
[31]このカメラを使用して撮影されたものとしては例えば以下。Im Sonneck. Bilder aus dem Kinderleben, Regie und Kamera: Emanuel Goldberg, Zensur: Ica AG, Dresden , 5. 12. 1924. Zeltleben in den Dolomieten, Regie und Kamera: Emanuel Goldberg, Zensur: Ica AG, Dresden , Filiale Berlin , 21. 11. 1925. Unbekanntes Filmfragment - Alpenwinterurlaub, Regie und Kamera: Emanuel Goldberg, Drehorte: Engadin (Schweiz), Sils Maria, 1925-27. Die verzauberten Schuhe. Eine heitere Kinamo-Tragoedie, Regie und Kamera: Emanuel Goldberg, Zensur: Zeiss-Ikon AG, Dresden , 9. 3. 1927. Ein Sprung.... Ein Traum. Eine Kinamogeschichte aus dem Studentenleben, Regie und Kamera: Emanuel Goldberg, Drehzeit: Ostern 1927. Baumbluetenzeit in Werder, Regie, Kamera und Buch: Wilfried Basse, Drehzeit: Anfang Mai 1932. Fliegende Haendler in Frankfurt am Main, Regei, Kamera, Schnitt und Buch: Ella Bergmann-Michel, Drehzeit: Sommer 1932. いずれも見る機会を頻繁には得られるものではないが、実に興味深い瑞々しいものとなっている。そして、これらエマヌエル・ゴルドベルクの作品に対しては、近年ようやく顧みられるようになり、彼についての著作も、著されるようになってきている。Michael Buckland, Emanuel Goldberg and his Knowledge Machine. Libraries Unlimited, 2006.
[32]ただこういったことが後々のフィルムの修復において、オリジナルの素材における深刻な欠点をもたらすことにもなる。つまり伝統的な技術を使っても解決不可能な事態に遭遇することになるのである。例えばこの映画の製作は低予算のそれであるが、映像の不完全な質は古いカメラで使われるそのオリジナル・ネガに原因がある。また例えばこの映画のオリジナル・ネガは重たい感じの肌理であるが、それは現像が手を抜いたことにより引き起こされているのではないかと推測されている。さらにまた例えばシュフタンは屋外撮影にあたって普通の光だけを、つまり十分なレフではなくわずかなレフだけを使用しているが、これも低予算の条件が強いるものであり、それゆえに日陰におけるシーンでのショットの映像は、相対的に感光の良くないフィルムにそのような条件が重なるため、不満足なものしか得られていない。Martin Koerber: MENSCHEN AM SONNTAG: a restoration and documentation case study. in: Mark-Paul Meyer, Paul Read, Restoration of Motion Picture Film, Butterworth and Heinemann, Oxford , 2000, p.237.
[33]Béla Balázs, Der Geist des Films, Wilhelm Knapp Verlag, Halle 1930; Ndr.: Frankfurt am Main : Suhrkamp, 2001, S.156-157.
[34]Béla Balázs, a. a. O., S.150. 具体的にはたとえば「海賊の物語、マハラジャの伝説、犯罪者の地下世界、大富豪の上流世界」といったものであるが、これもイデオロギーとされる。Béla Balázs, a. a. O., S.156.
[35]ところでここで言われることになる「新しい、事実に対する狂信」であるが、これはこの時代に言われた「ノイエ・ザッハリッヒカイトNeue Sachlichkeit」のことである。そしてこの「ノイエ・ザッハリッヒカイト」にはもちろん批評的態度が要請されることになる(これについては4-3で触れられる)。
[36]他に以下。So ist das Leben (1929, Carl Junghans)
[37]Siegfried Kracauer, Der heutige Film und sein Publikum, Furankfurter Zeitung vom 30. 11. und 1. 12. 1928 , Kleine Schriften zum Film Band 6. 2 1928-1931, S.165.
[38]Siegfried Kracauer, Der heutige Film und sein Publikum, a. a. O., S.154-155.
[39]そのようなものにはならない週間ニュ−ス映画としては、「映画芸術国民同盟 Volksverband fuer Filmkunst」による週間ニュ−ス映画。この同盟は、当時フィルム・アーカイブの素材から先鋭化された内容を伝達する独自の週間ニュ−ス映画を編集していた。Siegfried Kracauer, Der heutige Film und sein Publikum, a. a. O., S.155.
[40]しかし後者の背後に森をひかえた野原でのシーンなど、こういった自然をフィルムにうまく定着させている点で、ウルマーによる後の『グリーン・フィールド Grine Felder』(1937)などを思い出させる。
[41]この言葉はこの映画を特徴付ける際に幾度も使用される。たとえば以下。Ulrich Gregor, Enno Patalas, a. a. O., S.75. Rainer Rother in: Michael Toeteberg (Hg.), Metzler Film Lexikon. Stuttgart , Weimar : Metzler, 1995, S.371.
[42]Albert Renger-Patzsch, Die Welt ist schön. Einhundert Photographische Aufnahmen. Herausgegeben und eingeleitet von Carl Georg Heise, Kurt Wolff Verlag, München, 1928.
[43]Meyers grosses universal Lexikon : in 15 Bänden mit Atlasband und 4 Ergänzungsbänden, hrsg. und bearb. des Bibliographischen Instituts .Mannheim : Bibliographisches Institut, c1981-1986, Bd. 10. S.45. Brockhaus Enzyklopädie : in 30 Bänden. -- 21., völlig neu bearbeitete Aufl. Leipzig : F.A. Brockhaus, c2006, Bd. 19. S.540-541. u.s.w.
[44]Walter Benjamin, Gesammelte Schriften Ⅱ・2, herausgegeben von Rolf Tiedemann und Hermann Schweppenhaeuser, Suhrkamp Verlag Frankfurt am Main, 1977, S.693.
[45]「複製技術時代の芸術作品」(1936)における「政治の美学化」に呼応する。
[46]ここでは「写真」の持つ機能として[1]「経済的機能」と[2]「政治的機能」の2つが挙げられているが、「政治的機能」とは「現在のあるがままの世界を内側から―言葉を変えて言えば最新流行の様式で―修正する」ことである。
[47]Heinz Luedecke in: Arbeiterbuehne und Film, Nr. 8, August 1930. zit., Wolfgang Jacobsen, Hans Helmut Prinzler ( Hg.): a. a. O., S.13.
[48]Georg Lukács: > Groesse und Verfall < des Expressionismus. in: Probleme des Realismus. Berlin , 1955, S.182. zit., Ulrich Gregor, Enno Patalas, a. a. O., S.70-75. このような「ノイエ・ザッハリッヒカイト」の運命はルットマンの道において実現されたとG・ルカーチはみる。
[49]Lotte H. Eisner: L’Ecran Démoniaque. Influence de Max Reinhardt et de l’expressionisme. Paris : Editions AndréBonne, 1952; dt.: Die daemonische Leinwand. Frankfurt am Main: Fischer, 1980, S.335-336. またウルリッヒ・グレゴール、エンノ・パタラスもNeue Sachlichkeitの章でこの映画を論じてはいるが、「sachlichな視点」がこの映画の個々のシークエンスで随時中断すると指摘し、「ノイエ・ザッハリッヒカイト」とは区別する。Ulrich Gregor, Enno Patalas, a. a. O., S.75.
[50]Lotte H. Eisner, a. a. O., S.335-336. この映画にしばしば誤って使用されている「ノイエ・ザッハリッヒカイト」ではないと注意も喚起される。
[51]Alain Robbe-Grillet, Pour un nouveau roman, Paris:Editions de Minuit, 1963, p.127 (平岡篤頼訳『新しい小説のために』、新潮社、1967、162-176ページ)
[52]Gilles Deleuze, Cinéma 2, L'image-Temps, pp.195-197; dt.: Gilles Deleuze, Das Zeit-Bild, S.196-198.
[53]さらには、Histoire(s) du cinéma (Jean-Luc Godard , 1988-1998)
[54]Histoire(s) du cinéma の第3章2Aに批評家セルジュ・ダネーとの対話がみられる。そこでは歴史家の仕事とは「起きなかったことの明確な記述」をすることが述べられる。
[55]Curt Siodmak, Wolf Man's Maker: Memoir of a Hollywood Writer (Filmmakers Series), Scarecrow Pr; Revised, 2001, 写真挿入部分.
[56]果たして映画監督ゴダールはそのような引用の身振りにおいて、『日曜日の人々』の登場人物らを、それに接するものに運動を誘発するほどに運動させえているのであろうか。仮に映画にも表現のフォルム(たとえば或る映画監督)と映画が語っている内容のフォルム(たとえば或る登場人物)という二重性が保持されており、映画の欲求が運動を、映画が語っている内容のフォルムへと転移させること、つまり表現のフォルム(映画監督)にあらゆる「実在的な運動」をさせないようにする「外見的な運動」を、映画が語っている内容のフォルムに割り当てることにあるのであれば、これはまさに実際に生身の身体を移動させることなく眼をつぶって想像のなかで旅をするというボードレール的な旅を反復するものとなる(ここで言われる表現のフォルムは映画的な「言表行為(énonciation)の主体」、内容のフォルムは映画的な「言表(énoncé)の主体」であるが、「言表」の前の「映画的」という修飾語句は煩雑になるので省略。Gilles Deleuze, Félix Guattari, Kafka : pour une litterature mineure, Paris : Editions de Minuit, 1975, pp.55-57; dt.: Gilles Deleuze, Félix Guattari, Kafka : für eine kleine Literatur; aus dem Französischen übers. von Burkhart Kroeber. 1. Aufl. Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1976, S.43-44.)。生身の身体をもったジャン・リュックという表現のフォルムは、実際に移動することができないほどに、映画が語っている内容のフォルムである『日曜日の人々』の登場人物たちを生き生きと運動させえているのであろうか。しかも『日曜日の人々』はウルマーらによるものであり、ゴダールの身振りはまさに引用の身振りである。ただそのような疑問も拭いがたいものではないであろうが、それはゴダールの試みを受け取るわれわれの姿勢にも送り返されてくる。つまり政治的に正しいやり方で映画を撮るためには「抑圧された人々、抑圧に耐え、その抑圧と闘っている人々」に結び付けなければならないと言い製作を行っていたゴダールにわれわれは送り返される。Jean-Luc Godard: Jean-Luc Godard par Jean-Luc Godard, (前掲書、58-79ページ)
[57]vgl. Gilles Deleuze, Félix Guattari, op. cit., pp.149-151; dt.: Gilles Deleuze, Félix Guattari, a. a. O., S.115-116.
[58]これは<独身者>的姿勢と呼びうるものであるが、しかしこの独身者も主体ではない。現実に存在している独身者と潜在的に存在している共同体は、「集団的なアンサンブル(agencement)」の部分である。そしてそれら製作されたものはそういう「アンサンブルの(効果や生産物としてではなく)連結」としてのみ存在するのであれば、この映画『日曜日の人々』の登場人物であるブリギッテ・ボルヒャルトやヴォルフガング・フォン・ヴァルターといった実名を持つ彼女、彼に、映画的運動の強度の審級が求められるべきでもない。製作されたものが決して一つの主体に還元されないのであれば、製作する主体もなく、製作が差し向けられる対象になる主体もない。ここにあって登場人物は匿名の文字で表示されればよく(ブリギッテ・ボルヒャルトはアルファベット文字Bで、ヴォルフガング・フォン・ヴァルターはアルファベット文字Wであってよい)、その匿名の文字がもはや映画の語り手も映画内の登場人物も指示するものではなく、一人の個人(たとえばエドガー・ウルマー)がその「貧しき」「孤独」につながれていればいるほど、それらの文字は一層「機械状のアンサンブル」を言い表すことになる。エドガーの「孤独」な旅、そしてウルマーの映画的遍歴(そしてジャン・リュックの(動かないことも含めての)「孤独」な旅、ゴダールの映画的な遍歴)。ここで言われる「孤独」については以下を参照。Gilles Deleuze, Trois questions sur Six fois deux, Cahiers du Cinéma, No.271, Novembre 1976, pp.5-12. Gilles Deleuze, Drei Fragen zu six fois deux (Godard) in: Unterhandlung 1973-1990, Suhrkamp, 1993, S.57-69.
[59]Detective (Jean- Luc Godard, 1985)


付記
 本稿は日本映画学会会報第20号(2009年12月号)の論稿(http://jscs.h.kyoto-u.ac.jp/nl0912.html)を大幅に増補改訂したものである。