学生映画における学生とは何か
第12回京都国際学生映画祭に参加して


須川 まり

 2009年11月21日から28日までの8日間、第12回京都国際学生映画祭が京都シネマにて開催された。京都から学生映画の存在とその面白さを世に伝えるのが本映画祭の目的である。私は、第12回京都国際学生映画祭の実行委員として1年間参加した。本映画祭の実行委員会は、大学生(大学院生を含む)のみで構成されており、ほぼ全ての映画祭に関わる業務を実行委員が担っている。ただし、毎年、就職活動、卒業、留学等の理由で実行委員は入れ替わるため、年度によって映画祭のカラーは全く異なる。このようにその年にたまたま集まった学生が運営する学生映画祭は、伝統を引き継ぎながらも、毎年、独自の色を出すのが魅力であり、他方で経験豊富なスタッフの不足という困難を常に抱えている。
 京都国際学生映画祭のメインプログラムは、学生自主制作作品(以下、学生映画と記す)のコンペティションと特別プログラムである。学生映画のコンペティションは、毎年、国内・海外問わず、学生映画を募集し、その応募作品の中から十数本を入選作品として学生実行委員が選出する。そして、ゲスト審査員として3名ほどプロの映画関係者(映画評論家、映画監督、プロデューサー等)を招き、入選作品からグランプリ1本、準プランプリ2本を決定する。コンペティション部門を設けている学生映画祭は他にも国内に存在するが、京都国際学生映画祭は、応募条件が最も緩いことが大きな特徴である。国籍、年齢制限、作品の長さ、アニメーション・実写などの作品形態は、いずれも制約されていない。そして、高校、専門学校、大学、大学院在学中に制作した作品であれば誰でも応募できる。一方、特別プログラムは、毎年決められる映画祭のテーマに沿ったプログラムを提供している。もちろん、具体的なプログラムも、学生実行委員が一から企画し運営している。ちなみに第12回のテーマは「摩擦」で、「普段出会わない映画や人と触れ合い、互いに触発し合えるような熱い映画祭を目指す」という目標が掲げられた。具体的には、加藤久仁生監督の作品上映とトークショー、科学映画(実験映画)特集、活弁といった全く異なるジャンルのプログラムを提供した。
 京都国際「学生」映画祭における学生には、上記で示したように、映画祭の企画運営をする学生と、メインプログラムとして扱われる、「学生」による映画という、2つの学生の意味が含まれている。しかし、企画運営する学生と学生映画を応募する学生には大きな隔たりがある。前者の学生は、一般的に想定される年齢層の若者(10代後半から20代前半)で、作品を見る側の集まりである。一方、後者は、応募条件が緩いため、高校生から50歳まで幅広い年齢層であり、作品を作る側の集まりである。また応募作品の1/3は海外からの出品であるが、その出品者のほとんどが社会人経験者であるため、日本からの応募者と比べ、年齢層やバックグラウンドはさらに多様である。このように、京都国際学生映画祭における学生の領域は幅が広いため、学生らしさというキーワードは非常に曖昧になる。それゆえ、コンペティションを審査したり、特別プログラムの企画を練る際に、毎回、学生映画祭における学生とは何かを実行委員会で議論し合った。もちろん、明確な学生の定義付けはできなかったが、とりあえずは、まだ社会に認知されていない立場として、学生を扱っていたように思う。
 私が担当した活弁企画では、サイレントの学生映画を扱った。ここでいう学生映画は、学生が制作した作品ではなく、学生を描写した作品である。コンペティションの応募作品には、学生を描いているものが非常に多いが、企画で扱ったのは、当時すでにプロとして評価されていた小津安二郎監督が描いた学生ものである。作品は1930年公開の『落第はしたけれど』で、大学生にとって一番の難関である卒業試験を物語の中心として、学生と社会人の狭間に生きる青年達の姿を描いている。あらすじを紹介しておこう。大学生の高橋(斎藤達雄)は4人の同級生と下宿生活をしながら、卒業試験の勉強に励んでいる。他の4人がまじめに勉強する中、高橋は、制服のカッターシャツに解答を書いてカンニングをする。初日はカンニングに成功するが、翌日の朝、下宿のおばさんがそのカッターシャツをクリーニングに出してしまい、高橋は落第する。一方、同級生4人は卒業し、スーツを着て就職活動に励む。しかし、世界恐慌のあおりを受け、日本国内も不景気だったため、職がなかなか決まらない。一方、落第のショックからひきこもっていた高橋だったが、再度学校に通い、新しい仲間と共に応援団員となり、学生生活を謳歌しようとする。小津は当時27歳で、比較的学生側に近い年齢だが、すでに映画監督として社会に身を置いて数年経った頃の作品である。
 1920年代、日本の大学の数は急速な勢いで増え、1928年ごろには大学生は6万人を超えた。大学の増加と共に、入学志願者が増えたことで、大学受験の競争も激しさを増していった。当時の大学生もまた、受験競争に勝ち抜いて大学に入学しさえすれば事実上卒業証書を得ることが保証されていた。このような急速な大学の環境の変化に合わせて、1920年代「学生もの」と呼ばれる文学が人気を集めていた。その影響を受けて、小津は1928年から1936年の間に、「学生もの」を度々監督した。小津は、その「学生もの」の中でしばしば扱われる、恋愛や「試験地獄」といったキャンパス生活の浮き沈みの物語を新たに映画に焼き直した。小津の多くの作品は、大衆文化の中ですでに練り上げられた題材や観念を利用しており、「学生もの」もその一つである。デイヴィッド・ボードウェルが「同時代の関心ごとに絶えず言及し、一時的な流行にそれとなく触れ、政治的観念を展開している」と小津作品の特徴をまとめているように、小津にとって、1920年代に急激に増えた大学生の生活は関心のある対象の一つだった。小津の初期の「学生もの」では、大学は無責任が許される場であり、飲酒、スポーツ、恋愛の場である。唯一の難関は試験だが、一夜漬け勉強とカンニングですりぬけようとする。ところが小津の後期の「学生もの」になると、学生は毎日を無為に過ごし、意気消沈のあまり、いたずらをしなくなる。[1]『落第はしたけれど』は、初期の「学生もの」に見られた紋切り型の明るい学生生活(試験勉強、恋愛、野球の応援など)を描きながらも、同時に、後期の作品に見られるような哀愁の漂う学生生活(卒業試験の失敗とその後の無為な日々)も描いている。さらに、誰もが受け取れるはずの卒業証書を受け取り損ねた高橋を、1930年代まで続いた不況の時代に、就職活動の苦労と就職後の失業の恐怖を同時に免れた学生として讃えている。[2]ボードウェルが述べたように、『落第はしたけれど』にも、小津らしい社会風刺が垣間見られる。
 小津のサイレント時代の「学生もの」を上映するにあたり、上映の成否を大きく左右する弁士の役割を、実行委員と同世代である最年少活動弁士の麻生子八咫さんにお願いした。麻生さんは、『落第はしたけれど』を明るい学生生活を描いた作品として解釈し、随所に漫才のような掛け合いも盛り込んでくださった。字幕には書かれていないセリフや効果音まで、活弁の隅々に楽しさが溢れていた。実は、『落第はしたけれど』を選定したきっかけは、本作が現在と同じように、不景気において就職活動も決まらず無気力になっている学生を、ユーモアと哀愁の入り交ざったスタイルで小津安二郎監督が描いていたからだ。哀愁の漂う部分は活弁ではセンチメンタルに表現されるものと予想していただけに、麻生さんの解釈には意表を突かれた。
 本番当日、迫力のある透った麻生さんの声と、武田さんによる伴奏が会場中に広がり、京都シネマは熱気に包まれた。本番前、私は麻生さんと京都について雑談していたのだが、本番中、麻生さんはその雑談を利用して急遽『落第はしたけれど』に登場する大学を同志社大学に見立てたり、京都用のアレンジまで随所につけてくださった。さらに、選曲についても、聞きなれた曲を中心に、ゲームのBGMを独自にアレンジしたものを流すなどして、最後まで会場を盛り上げてくださった。公演後、観客のアンケートを見ると、そのほとんどが活弁自体を初見の方々だったが、「初めて見たけど楽しかった。また見たい」というご意見をたくさん頂いた。麻生さんは、活弁を通して、現代の学生(実行委員も含め)と小津のサイレントの学生映画を結び付けてくださった。80年前に描かれた学生に感情移入した私たちは、『落第はしたけれど』を現在の学生と結び付けて観賞することができた。小津作品の普遍的な面白さと麻生さんによる現代版アレンジの両者が合わさったからこそ、成功したのである。企画運営に不慣れな私に、非常に優しく、熱い気持ちで接してくださった麻生さん、武田さんには、心より感謝を申し上げる。
 本稿を閉じる前に、今回の映画祭を運営する中で、私たち実行委員が考えた「学生らしさ」について再度述べておきたい。ここで思い起こされるのは、コンペティションのゲスト審査員の安岡卓治さんが、実行委員が選んだ入選作品(学生映画)を関係不全という言葉に要約されていたことだ。安岡さんは、思いっきり人と人がぶつかりあわずに終わる作品が多いことから、関係不全という言葉を用いられたようである。そして、学生映画の多くは、身近なものをテーマにすることが多く、学生や未熟な存在を中心に描いていた。その身近なものばかりを取り上げる閉鎖性もまた、作品と共に、学生監督自身の関係不全に集約された。「摩擦」というテーマを掲げて、コンペティション作品を審査していた私たち実行委員にとって、この安岡さんの言葉は衝撃的だった。ゲスト審査員の方々(伊藤高志さん、熊切和嘉さん、安岡卓治さん)にとって、学生映画の登場人物は、最後の最後で衝突を避けて、現状に戻っていく姿に見えたようだ。しかし、私たち実行委員は、最終的には現状に戻っても、最後の最後まで現状から脱出しようともがいている姿に、力強さや共感を覚えていた。他方で、特別プログラムで扱った『落第はしたけれど』もまた関係不全を主題とした映画であった。落第後の高橋は、同級生とほとんど交流することなく、また恋人のような存在である喫茶店の娘(田中絹代)には落第したことさえ告げることができずに、下宿でひきこもりの生活をする。情熱的な過激派の学生が幅を利かせていた80年前に、当時27歳の小津は、社会に出ていこうとする学生よりも、高橋のような学生を讃えていた。[3]このように、『落第はしたけれど』や今回のコンペティション作品の多くが、学生たちの必死にもがく姿を描いているのも事実である。国内・海外問わず、コンペティション作品には、全体的に抑制された演出が多かったため、余計に学生たちのもがく様子は小さく見えた。しかし、まだ社会に身を置かず、限られた狭い世界に生きている学生にとって、それは彼らなりの精一杯のもがきだった。その小さく見えて大きなもがきこそが、私たち実行委員の見つけた一つの「学生らしさ」であった。



[1]デイヴィッド・ボードウェル著、杉山昭夫訳『小津安二郎 ― 映画の詩学』(青土社、2003年)、62-64、347頁。
[2] 前掲書、66頁。
[3] 前掲書、63頁。