7 CineMagaziNet! no.14

河瀬直美における滲出する「私」

植田 真由


はじめに
 日本映画史において、間違いなく後世まで名を残す映画監督のひとりに河瀬直美が挙げられるだろう。それは、今なお男性が優位である日本映画界において、近年増加しつつあるとは言え、他国に比べれば数少ない女性映画監督だからでもなければ、『萌の朱雀』(1997)や『殯の森』(2008)で、カンヌ国際映画祭で賞を受賞したからでもない。河瀬は、その独特な制作スタイルにおいて、極めて異彩を放つ映画作家として語られるべき人物なのだ。
 河瀬直美という監督の作品を分析しようとすると、避けがたい障害に直面してしまう。その障害とは、作品に否応なしに表れている彼女の複雑な生い立ちにより、作品のみを純粋に語れないことである。河瀬には生まれたときから父親がそばにいなかったこと、そして母親の叔母夫婦に奈良という町で育てられた彼女の生い立ちを、父親探しの私的ドキュメンタリー作品『につつまれて』(1992)だけでなくほとんどすべての作品からうかがい知ることができる。たとえば、フィクション作品においては『萌の朱雀』や『火垂』(2000)に見られるように、家族構成の複雑さなどにそれが表れていると考えられるだろう。また、彼女の生い立ちと同様、ほぼすべての作品に「不在」の概念が認められる。つまり、作品に見られるキーワードは同時に、河瀬という人間を表すキーワードでもあるのだ。このように河瀬の作品には、河瀬直美という人間が色濃く投影されているため、作品と河瀬自身を切り離して論じることは困難である。そして、河瀬がこれまで世に送りだしてきた作品は彼女の人生の流れとともに生み出されてきたものであり、作品各々を分断して論じることもまた到底不可能なのだ。『火垂』の主人公あやこが職業としてストリップに身を投じていたように、河瀬自身も映画監督という職業を通じて、自らの私生活や体験をストリップさながら露わにしていき、作品に反映させていると言っても過言ではないだろう。
 映画制作と自身の日常との間に境界を持たないスタイルは、河瀬独特の映画制作スタイルであると言える。そこで本論では、河瀬の特徴のひとつであるこの映画制作スタイルに着目し、公私の間を横断する河瀬の映画制作スタイルを、まずは初期のドキュメンタリー作品から考察する。そして同時期にデビューした是枝裕和との映像の往復書簡『現しよ』(1996)を取り上げ、両者のスタイルの比較検証を行う。その後フィクション作品へと分析の対象を移し、両者をふまえた上で河瀬の映画制作のスタイルを考証し、私生活の変化とともに変容していく河瀬の作品について論じる。

ドキュメンタリーに見る河瀬直美
 ドキュメンタリー作品に見られる河瀬自身を分析する前に、まずは河瀬の特徴であるドキュメンタリーのサブジャンルとでも呼ぶべき私的ドキュメンタリーについて触れておこう。1970年代から80年代にかけて、ドキュメンタリーは小川紳介(1935-1992)や土本典昭(1928-2008)などが牽引した集団制作から個人映画へと変容していった。そして90年代に入ると、社会の変化からそれまでカメラを向ける価値のあった社会や政治にテーマを見出しにくくなり、個人の私生活にカメラを向ける私的ドキュメンタリーが台頭してくる。それが、自分の家族や民族に照準を合わせた河瀬の『につつまれて』や寺田靖範(1964-)の『妻はフィリピーナ』(1994)、松江哲明(1977-)の『あんにょんキムチ』(1999)や土屋豊(1966-)の『新しい神様』(1999)などである。河瀬同様、他のドキュメンタリー作家たちも自身の私生活にカメラを向けていることに違いはない。しかし、他の作家たちの作品には、どうしてもぬぐいきれない社会との関連性が立ち現れる。『あんにょんキムチ』では在日朝鮮人という民族問題、『新しい神様』では政治運動など、社会となんらかの関係を持った自分がどうしても映り込んでしまう。一方、「社会を問題にする以前に自分というものが問題にされていた方がいいと思う」[1]と河瀬自身が述べているように、河瀬には社会問題を自身の映画で扱うつもりはないようだ。河瀬は社会と関係を持った自分を一切画面に映すことがなく、社会と関わる以前の個人としての世界だけをカメラに収めていると考えられる。以下では、徹底して個人として自身にカメラを向けたドキュメンタリー作品を撮る河瀬の作品について見ていきたい。
 ここでは河瀬の人生に転機が訪れた頃に撮られたドキュメンタリー作品三つを俎上に載せ、彼女にとって制作と私生活がいかに密接であるかを分析する。河瀬が自らの生い立ちを作品に反映させていることは、『につつまれて』を観れば明らかだろう。本作は、生まれてまもなく母の叔母に預けられ、父を知らずに育った河瀬による父親探しの私的ドキュメンタリーである。母の叔母夫婦(呼称を簡潔にするために、以下祖父母と呼ぶことにする)に育てられた河瀬はかわいがられ何の不満もなく育ったが、専門学校生時代、映画を作るに当たって「自分にとってのっぴきならないもの」を考えると父親の不在という事柄が彼女の頭に思い浮かんだのだという。[2]祖父母に本当の娘以上に育てられ幸せであったにも関わらず、不確かな存在である父親によって曖昧になっていく自己の存在を突き詰めたいという欲望が、河瀬の映像表現の根源にあるようだ。[3]この父親の「不在」から始まった河瀬の映画制作が、現在に至るまで脈々と「不在」を引き継ぎ、ドキュメンタリー作品のみならずフィクション作品にまで影響を与えていると考えられる。
 『につつまれて』の続編として制作された『きゃからばあ』(2001)では、河瀬は自分の内面にカメラを向ける。『につつまれて』を制作したことで再会できた父親の死から、『きゃからばあ』は始まる。それまでも河瀬にとって不確かな存在だった父親が、本当にいなくなったことを認識し、彼女にとって曖昧だった父親の「不在」は真の「不在」になった。そして河瀬はこの頃プライヴェートでは離婚を経験し、映画をやめようとするほどまで精神的に追い詰められていたのだが、そんな彼女のもとに『につつまれて』の続編制作のオファーが舞い込む。[4]身も心もぼろぼろであった彼女の状態は、作品からも伺い知ることができる。本作には、彼女を産んだ母親や、育てた祖母との激しい口論が収められており、『につつまれて』では「母に捨てられはしたけれど祖父母に育てられて幸せだ」と言っていたにも関わらず、本作では当時の環境ゆえか、自分の存在をネガティブに捉えている河瀬がうかがえるだろう。
 河瀬は生い立ちや精神的苦痛だけでなく、自身の身体をも作品作りの血肉としている。『垂乳女』(2006)には河瀬の出産前後の様子を収められているのだが、出産するに当たって河瀬は自身の肉体を大胆に晒しており、検診を受けるために露わになった乳房や、後半に用意された出産シーンは強烈な印象を観客に与える。ほぼ真正面から画面いっぱいに映し出された性器からは赤ん坊の頭が見え、助産師の手伝いを受け赤ん坊は顔をのぞかせる。そして次の瞬間、羊水とともに飛び出た赤ん坊と、赤ん坊が出てきたばかりで開いている膣をもカメラは捉えているのだ。もちろん、出産の様子を収めたドキュメンタリー作品は、原一男(1945-)の『極私的エロス 恋歌1974』(1974)から2010年に公開された豪田トモ(1973-)の『うまれる』、また河瀬の最新作である『玄牝』(2010)など、少なくない。しかし、『垂乳女』ほど迫真的な映像を収めた作品はないだろう。『極私的エロス 恋歌1974』も『垂乳女』同様真正面から出産シーンを捉えた作品であるが、『垂乳女』に比べると被写体までの距離は遠く、ピンぼけしておりその様子は鮮明であるとは言い難い。他に、出産の様子を至近距離から撮影されたスタン・ブラッケージ(1933-2003)の『窓のしずくと動く赤ん坊』(1959)のような映画も存在する。しかし、出産の様子とその前後のショットが目まぐるしく展開されるため実験映画的要素は拭いきれない。『極私的エロス 恋歌1974』は原一男が元恋人の出産を撮影し、『窓のしずくと動く赤ん坊』もブラッケージが妻の出産を撮影したもので、河瀬の『垂乳女』のように、出産する張本人が自分の出産を撮影した作品とはやはり異なるだろう。『垂乳女』は河瀬が自らの出産を、羞恥心を捨て、その性器をも克明に白日の下に晒したという点において、大胆さと生々しさを備えた作品なのだ。
 このように、河瀬は自らの生い立ちや心身共に憔悴している状態、さらには女性であれば躊躇してしまうような部分をもカメラに収めている。このことは、河瀬にとってカメラを回すことが、生活の一部になっていることを表しているのではないだろうか。多くのドキュメンタリー作家は、人間が社会のなかでどのように生きていかなければならないかを作品を通して問いかけることが多いように思われるが、河瀬は社会よりも先にまず自分がどのように人生を歩んでいくのかを映画を通して考えているように見える。つまり、他のドキュメンタリー作家にとって、映画は社会を考えるためのツールであるのに対し、河瀬にとって映画とは、自分を考え再認識するためのツールに他ならないのだ。それゆえ、河瀬のドキュメンタリー作品には自分を構成しているごく身近な日常や自分自身そして家族や友人が映し出されることで、彼女自身の生が色濃く反映されているのだと言えよう。彼女がいかに自分自身の生を作品に投影しているかを、是枝との映像の往復書簡である『現しよ』を頼りに見ていこう。

是枝裕和との比較
 『現しよ』は、河瀬と是枝が8ミリカメラで撮影した映像によって交わした往復書簡である。[5]年齢が近いこともあり、互いの作品を観て惹かれるところがあった二人による映像のやりとりは、二人の映像に対する姿勢や意識の違いがはっきりと見て取れるだろう。ここでは、互いの日常を切り取った映像のやりとりから見受けられる世界への関わり方の違いを分析し、河瀬の特徴である映画制作と彼女の生との密接な関係を浮き彫りにしたい。
 この往復書簡は、河瀬から是枝へ向けた映像から始まる。河瀬が是枝の電話にかけるものの是枝本人ではなく留守番電話に吹き込まれた是枝の声が響き渡ることで、始まってすぐに二人のかみ合わない様子が如実に表れている。その後河瀬は、それまでのドキュメンタリー作品と同様、身のまわりのものをカメラに映していく。撮影日は育ての祖父の命日であり、墓石に掲げられた線香や祖父との思い出のつるし柿など、自分の周りの事物を慈しむようにクロースアップでカメラに収めるのだ。
 一方、是枝は「見つめることが難しい」とつぶやき、8ミリカメラを片手に街に出るものの被写体とある程度距離を保って見つめている。ごく身近にあるものよりも、帰省時や旅先の様子をカメラに収めるばかりで、是枝の日常への接近があまり見えてこない。そして是枝は、しまいには「撮るのが怖い」とまで言い出してしまう。河瀬が自分の身のまわりのひとや風景、友人、そして自分自身に臆することなくカメラを向けるのと対照的に、是枝は自分自身にカメラを向けることをしない。街のショーウィンドウや窓に映った是枝が間接的にカメラに映ることはあっても、彼が直接カメラの前に現れることはない。「カメラは自然と自分に向かっていた」と発言するものの、観客はいっこうに是枝の姿を捉えることはできないのだ。
 続く河瀬からの書簡は、河瀬が留守番電話に吹き込んだ是枝へのメッセージと、ベランダにある洗濯ばさみのクロースアップから始まる。その後、河瀬は公園のような場所で戯れる自身の姿を映し出す。一方、次の是枝からの書簡は旅先のヨーロッパでの風景や人々など、彼自身とは関係のないものばかりにカメラを向ける。「撮りたいと思うほど、自分は自分の日常を愛していないのかも知れない」と書簡のなかで是枝が述べるように、日常に対する河瀬とのアプローチの違いから、世界へ向けるまなざしの違いが浮き彫りになってくる。
 最後の河瀬からの書簡は、彼女の友人の顔をクロースアップで捉え、名前を呼んでもらうというショットの繰り返しである。そして曇った窓に書く「ただいま」という文字。対して是枝の最後の書簡は、広場や川の畔で遊ぶ子どもたち、野球をする子どもたち、運動会の様子、公園で遊ぶ女の子とその家族を映し出す。書簡の最後になっても、是枝はカメラを自分自身には向けないのである。
 このように二人の映像を比較してみると、その違いは歴然としているように思われる。河瀬は身近にある対象、つまり彼女にとって日常を形成している事物にカメラを向け、ぶつかるほどに近づいてクロースアップで捉える。それに対し是枝は、自分とは関係のない旅先の街や人々にカメラを向けある程度距離を置きつつ撮影する。専門学生時代から8ミリカメラを手にしていた河瀬と、テレビドキュメンタリーからそのキャリアをスタートさせたため8ミリカメラを手にするのは今回が初めてだという是枝の技術の違いだけが二人の映像の差ではないだろう。もちろん慣れ不慣れの問題は多少存在するだろうが、ここでは、カメラを向ける対象に注目したい。
 『につつまれて』という私的ドキュメンタリー映画でデビューした河瀬にとって、自分自身にカメラを向けることはごく自然な行為である。しかし、社会に目を向けたドキュメンタリー作品を制作していた是枝にとって、自分自身に目を向けることは容易ではなく、周りのものを映してみてもそこから是枝の息づかいはいっこうに見えてこない。『につつまれて』や『きゃからばあ』、そして『垂乳女』で全てと言っても過言ではないほど、河瀬は自身をさらけだしてきた。『現しよ』においてはこれらの作品ほどではないにせよ、自身の日常生活にカメラを向けていることは、並列される是枝の映像と比較すれば鮮明に読み取れるだろう。このような河瀬のありようは、ドキュメンタリーのみならずフィクション作品にも当てはまる。つまり、フィクション作品においても河瀬直美という存在が浮上してくるのである。このことを次節で見ていこう。

フィクションに見る河瀬直美
 河瀬のドキュメンタリー作品にいかに河瀬自身が反映されているかはすでに分析した通りだが、私生活を描く私的ドキュメンタリーであれば、ある程度監督自身の生活が反映されていても不思議ではないだろう。そこで、以下では通常監督の私生活が投影されないと思われるフィクション作品において、河瀬がどれだけ自己を投影しているのかを、劇映画の分析を通して検証したい。
 『萌の朱雀』は崩壊していく家族の物語である。河瀬自身、父の不在が映画制作のきっかけだったと語っているように、家族の崩壊こそ河瀬という人間の根底にあるものだと言える。本作は田原家の複雑な人間関係、そして家族の元を去る父親など、河瀬の生い立ちを想起せずにはいられない物語設定である。河瀬の映画制作の原点である父の不在は、デビュー作である『につつまれて』というドキュメンタリー作品だけでなく、『萌の朱雀』というフィクション作品にまで及んでいるのだ。また、父の不在だけでなく、家族の離散にも河瀬の生い立ちが反映されていると言えよう。河瀬が生まれてすぐに母親が叔母に彼女の面倒を頼んだために、河瀬は幼い頃から母親と過ごすことはなかった。本来家族であるはずの血の繋がった者同士が必ずしもひとつ屋根の下で暮らすわけではないこと、血の繋がっていない者同士でもひとつ屋根の下で暮らせば家族になることは、複雑な環境で育った河瀬にとってはごく当たり前のことであったのだろう。その思想は、『萌の朱雀』に登場する栄介という人物に顕著に表れているのではないだろうか。栄介は孝三と泰代の子どもではなく、孝三の姉の子ども、つまり孝三にとっては甥にあたる。栄介は、本当はひとつ屋根の下で暮らす間柄ではないはずだが、諸々の事情で一緒に暮らし、家族を形成している。そんな栄介の存在はまさに、養母に預けられた河瀬そのものだと言えるのかも知れない。
 河瀬の初の恋愛映画となった『火垂』においては、主人公のあやこが河瀬の分身であると言えよう。この作品の制作時期、河瀬は一度目の結婚をする。『火垂』の主人公のあやこもまた両親をなくし、全くの他人である恭子に育てられ、劇中で多くのものを失うが、大司という恋人を得る。つまり、複雑な家庭環境で育った河瀬が伴侶を得たように、多くのものを失い孤独に生きてきたあやこが大司という伴侶を得るのである。実際、あやこに河瀬を見たという人も少なくなく、[6]それは河瀬自身がカメラを回していることにも関係しているだろう。主な撮影は諏訪敦彦の即興演出作品として名高い『M/OTHER』(1990)でも撮影監督を務めた猪本雅三であるが、客観的な部分は猪本が、主観的な部分、つまりあやこの感情が爆発するシーンでは河瀬が、というように状況に応じて柔軟に撮影を分担していた。[7]河瀬自身「カメラの後にも前にも自分が見えた[8]と述べているように、あやこの感情が噴出する瞬間を河瀬が担当しているがためにあやこには河瀬が投影され、あやこに河瀬を見てしまう観客が出てきてしまうのではないだろうか。また、デビュー後唯一の恋愛物語である本作[9]が、河瀬の結婚と無関係であるとは言い難いように思われる。それまで家族を中心に描いてきた河瀬が恋愛物語に意欲を示したことの背景には、他でもなく自身の人生において決して小さくはない結婚という出来事が影響していることは、留意しておくべきであろう。
 河瀬を育てた祖母が認知症を患ったことが制作の契機になった『殯の森』は、認知症の主人公しげきを中心に描かれた物語である。しげきが日常を過ごすグループホームでのシーンに河瀬の祖母である河瀬宇乃が出てくることによって、観客は河瀬の私生活を見ているような気持ちになるだろう。また、『につつまれて』から祖母を見知っている理想的観客[10]であれば、時の流れを感じさせる彼女の容姿に、河瀬の私生活の変化を感じずにはいられない。当時は生き生きと庭仕事をこなしていた祖母も、今では認知症の症状が現れ介護が必要になってしまった。河瀬はそんな日常の変化をも映画制作の原動力に変えてしまうのだ。それは、河瀬にとっていかに祖母の存在が大きいものであるのかを証明することでもある。ドキュメンタリーに携わる他の多くの監督が社会情勢を嘆き憂いながら映画を制作しているのに対し、河瀬は正反対の立場に立っていると言える。ドキュメンタリー作品だけでなくフィクション作品においても、河瀬にしてみれば映画制作とは社会に目を向けるためのツールなのではなく、あくまでも自分を見つめるためのツールだと考えられよう。つまり彼女にとっては、日々を生きることと映画を撮ることが同義なのだ。そのため、ドキュメンタリー、フィクション問わず、河瀬の作品からは河瀬自身が浮かび上がってくることとなる。

写真から読み解く不在、そして死生観の変化
 このように、「不在」は河瀬という人物の最も核となる部分が反映されていると言えよう。自身を振り返る上で無視することのできない父親の不在という事実が、作品の至る所に散りばめられており、デビュー作である『につつまれて』で既にその不在をつきつけられた理想的観客は、それ以降の劇映画における不在に河瀬自身を重ねずにはいられない。
 そして、河瀬の諸作品から立ち上る「不在」は、初期作品(『につつまれて』や『きゃからばあ』)においては写真から読み取ることもできる。『につつまれて』のなかで、河瀬はアルバムから持ち出したと推測される古い風景写真と、その写真に写る場所の現在の姿とをカメラで映し出す。彼女は昔の写真を翳し、今の場所と昔の場所を比較するのである。かつて父がいた過去と、父がいない現在、すなわち誰も写っていない空白の風景とを並置することで、父の不在が醸し出す虚無感がよりいっそう引き立つ。写真が、ロラン・バルトの指摘する通り<それはかつてあった>という過去の記憶へとさかのぼる志向を持っているとすれば、映画は<現在ここにある>現在性へ踏みとどまろうとする志向を持っていると言えよう。[11]写真と映画という時間性の異なる二種類のメディアを用いて、父の不在を示す河瀬の表現力を見ることができる。
 また、本作に度々出てくる父親の若い頃の写真にも注目したい。過去を志向する写真は、写真機を通して写し取られた瞬間に永遠に固定化された不動の刻印として歴史的存在となる。つまり、佐藤真が指摘する通り、あらゆる写真は潜在的に遺影だと言えるかもしれない。[12]だとするならば、『につつまれて』で数多く登場し、実際に河瀬が父親と対面するラストシーンで挿入される若かりし頃の父親の写真は、本作の続編として制作され、父親の死を告げられる留守番電話から始まる『きゃからばあ』を暗示する遺影として機能していると捉えることも可能だろう。しかし、河瀬の作品に度々登場する写真は徐々にその意味を変えていく。そしてこの変化は、河瀬のプライヴェートの変化に重ね合わされるのだ。つまり、『につつまれて』や『きゃからばあ』では不在の意味が強かった写真はその様相を変え、『沙羅双樹』制作以降、命の連鎖や繋がりを紡ぎ出しているように見える。以下ではその変化の様子を追ってみたい。
 ドキュメンタリー作『追憶のダンス』(2002)では癌に冒され余命二ヶ月の写真評論家・西井一夫にカメラが向けられ、写真はこの時点ではまだ不在や死を連想させるものとなっている。しかしながら、『沙羅双樹』の撮影準備のために畳の上で行われる自然分娩での出産の様子を河瀬が見学したことで、写真の持つ意味は変わっていく。『沙羅双樹』が不在(死)と生命の誕生という相反する二つの事柄を内包していることから推察できるように、『沙羅双樹』が死から生へと変化する転機となっていると考えられる。『沙羅双樹』の制作がきっかけで知りえた自然分娩を通して命に関心を持った河瀬は、ほどなく妊娠する。そしてその出産の様子が収められた『垂乳女』では、それまで不在を、もっと言えば死をもイメージさせた写真が生命力溢れるものへと変わる。写真家百々俊二によって写し取られた一枚の写真は、乳房を露わにし傍らに赤ん坊を抱く河瀬、そして赤ん坊の手を握る祖母の皺々の手が映っている。この写真からは、祖母から河瀬へ、河瀬から赤ん坊へと紡がれていく生命というものの強さが読み取れるだろう。
 『につつまれて』における写真は父の不在を、そして『きゃからばあ』や『追憶のダンス』において、写真は死をもイメージさせるものとなっていたが、河瀬が出産を経験することで、河瀬作品のなかで写真の持つ役割は大きく変化する。写真はもはや不在や死を連想させるものではなく、『垂乳女』という作品のテーマと同様「命の結び目」[13]を意味するものへと変容したのだ。このように、河瀬の諸作品において、写真は小さくない役割を果たしていると言えよう。
 さらに、河瀬作品における写真の持つ意味を変化させるきっかけになった『沙羅双樹』という作品は、彼女に死生観の変化さえもたらしたように思われる。『萌の朱雀』での父親の死、『火垂』での多くの人間の死、『きゃからばあ』での河瀬の実父の死、『追憶のダンス』での写真評論家の死など、『沙羅双樹』以前の作品には多くの死を見ることができる。しかし、『沙羅双樹』以降、「死」そのものは見られるものの、その捉え方が大きく異なっているのだ。『沙羅双樹』にも双子の兄の死など「死」は見られるのだが、後半に出産シーンが挿入されているように「死」だけで終わることはない。また、『殯の森』にもしげきの妻の死や真千子の息子の死など「死」は存在するものの、それ以上に死者を弔う行為に照準が合わせられている。この「死」の描写の変化からは、「死」をただの終わりと見なすのではなく、次の命へつながる円環の一部に過ぎないことを表していると見なすことができるのではないだろうか。『沙羅双樹』撮影のために見学した自然分娩での出産を目の当たりにし、自身も出産を経験することで、河瀬はそのことを強く感じたのであろう。
 河瀬の作品には自然が多い。河瀬作品の舞台となる奈良県には海がないかわりに豊かな緑がある。河瀬はその緑を通して四季を映し出す。四季に敏感な日本人は「終わりと始まりを知っている」[14]と河瀬が述べるように、終わりと始まりはそのまま人間の生き死にを意味する。死を否定するのではなく、生命の営みの円環の一部として肯定するというように、河瀬の死生観は変化していったのではないだろうか。

おわりに
 このように、河瀬は『につつまれて』に見られるように生い立ちなど私的な領域を作品にしていくばかりではなく、『沙羅双樹』制作によって私生活や考え方にも影響を受け、河瀬自身も変化していく。この事実が、河瀬の作品分析の際、避けがたく表れる河瀬自身を立ち上らせ、分析する者を混乱に陥れるのだ。「私にとって映画制作はストリップだ」[15]と彼女自身が表現しているように、彼女にとって映画制作とは自身を晒すことであり、同時に生きることそのものでもある。つまり、映画制作と河瀬直美という個人は切っても切れない緊密な関係にあるのだ。公私に渡り相互連関的に影響を受け合っていることが、河瀬直美という映画監督の特色のひとつであると言えるだろう。



[1]山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局、『ドキュメンタリー映画は語る ― 作家インタビューの軌跡』、未来社、2006年、382頁。
[2]同書、366頁。
[3]同書、366頁-367頁。
[4]内藤裕子、塚田恭子編「河瀬直美、是枝裕和対談」『紡ぐ』、組画、2008年。
[5]この往復書簡は、横浜美術館の企画によって実現したものである。
[6]山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局、前掲書、381頁。
[7]猪本雅三「撮影報告『火垂』」、映画撮影148号、日本映画撮影監督協会、2001年。
[8]「カメラの前と後ろに二人の“私”がいる ― 映画『火垂』をめぐって」、『広告批評』248号、マドラ出版、2001年4月、131頁。
[9]河瀬はデビュー前に『白い月』(1993)という短編の恋愛物語を作っている。
[10]『映画とは何か』において、加藤幹郎は理想的な観客を「初見でありながら、一本のフィルムのすべてのショット、すべてのシーンの視覚的、聴覚的相関関係に高度に自覚的な実践家」と定義づけている(加藤幹郎『映画とは何か』、みすず書房、2001年、18頁)。本論ではこの概念を端緒にし、一本のフィルムのみならずひとりの映画作家の全作品について同様の実践を行っている観客を意味することとする。
[11]佐藤真『ドキュメンタリー映画の修辞学』、みすず書房、2006年、139頁。
[12]同書、140頁。
[13]河瀬直美オフィシャルサイト『垂乳女』作品紹介
http://www.kawasenaomi.com/ja/works/documentary_film/tarachime/(最終アクセス日:2011年1月22日)。[14]河瀬直美「足元から世界へ ― 映画表現を通して今、想うこと」(講演)、さいかくホール、2010年11月1日。
[15]「カメラの前と後ろに二人の“私”がいる ― 映画『火垂』をめぐって」、131頁。