7 CineMagaziNet! no.14

フィクションとドキュメンタリーの融合
『萌の朱雀』に見る越境


植田 真由

はじめに
 日本映画界における河瀬直美の登場は、まさしく日本映画史における転換期であった。なぜなら、河瀬の出現によって初めて、日本の女性映画監督たちは女性監督史のなかでのみ語られることから脱却することができたからである。河瀬は1992年にドキュメンタリー作品『につつまれて』でデビューすると、育ての親である祖母や自分自身にカメラを向けた私的ドキュメンタリーを立て続けに発表し、1996年には初の劇映画『萌の朱雀』を送り出す。『萌の朱雀』はカンヌ国際映画祭カメラドール賞を受賞し、河瀬の名を世に知らしめることとなった。河瀬直美が登場するまで日本映画史には女性映画監督の存在はほぼ無きに等しく、彼女たちは女性映画監督史という限定されたカテゴリー内でしか語られてこなかった。[1]河瀬はそのような不遇の女性映画監督の歴史に終わりを告げ、女性映画監督も日本映画史に名を連ねることが可能であることを証明した貴重な存在であると言えよう。
 また、河瀬が日本映画史において異彩を放っている要因のひとつに、河瀬は劇映画を撮り始めてからもドキュメンタリー映画を休むことなく撮り続け、その制作スタイルにおいてドキュメンタリーとフィクションの間を悠々と行き来することが挙げられる。それは一つの作品のなかにも現れている。つまり、劇映画にはドキュメンタリーの要素が、ドキュメンタリーにはフィクションの要素が含まれていると考えられるのだ。本論文は、その類い稀な文法を解き明かすべく河瀬の劇映画デビュー作『萌の朱雀』の作品分析を行う。ただし、映画史上、河瀬のほかにドキュメンタリーのようなフィクションを撮ったものがいないわけではない。たとえばフランスの映像人類学者、ジャン・ルーシュの作品に代表されるシネマ・ヴェリテである。シネマ・ヴェリテとは、インタビューの手法などを用いて映画から虚構上のトリックを廃止し、映画をより真実に近づけようとした一派を指す。このシネマ・ヴェリテの手法を部分的に用いて作られた劇映画として、ジャン=リュック・ゴダールの『男性・女性』(1966)を挙げることができよう。この作品の随所に見られる撮影者がインタビューをしているようなシーンは確かにシネマ・ヴェリテの手法であり、劇映画でありながらもドキュメンタリーを観ているかのような錯覚を観客に与える。本論文では、同じくフィクションとドキュメンタリーを融合させた『男性・女性』と比較することで、『萌の朱雀』の独自性を浮き彫りにすることを目指す。

1. 映像から見るドキュメンタリー性
 『萌の朱雀』の舞台は奈良県にある吉野杉で知られる林業中心の西吉野村で、この村に持ちかけられた鉄道建設とその工事の中断に翻弄された田原孝三一家の十数年が、古くから村を見守る伝説の神、朱雀の視点から描かれる。田原一家は、鉄道が通ることを夢見て工事に携わった孝三と妻の泰代、孝三の母である幸子と娘のみちる、孝三の姉が置いて行った甥の栄介からなり、本作は村と家族を愛しながらも離散しなくてはならない田原一家の悲話を淡々と描写する。本作の制作の契機となったのは、大阪-和歌山間で施行された鉄道工事中止のニュースを河瀬が耳にしたことだが、[2]作中でもやはり鉄道建設とその中断が物語の要として描かれているため、本作の設定は一定のリアリティを持ちえていると言えるだろう。カメラにおさめられた奈良の荘厳な山々、風と光を目一杯感じることのできる村の景色が美しすぎるがゆえに、用なしになったトンネルの暗さが観客の目を引く。この対比は、日本の原風景の美しさを目の当たりにした観客に、西吉野村に住む人々が抱える思いをよりいっそう喚起させることとなる。
 本作は、さながら西吉野村に降り立った朱雀が田原一家を上から見ているような角度から台所にいる泰代と幸子を捉えた固定ショットから始まる。その後も物語終焉まで一貫してカメラは対象と一定の距離を保つことで、フレームの中には人物だけでなく背景や風景が映り込んでいる。このようなカメラワークが、フィクションである本作にドキュメンタリーの要素を加味している一因と考えられるのではないだろうか。というのも、登場人物を中心としたカメラワークはどうしても作り込みすぎた印象を与えリアリティに欠けてしまうが、西吉野村の自然とそこに暮らす人間とが共存する姿を描き、我々人間は自然がなくては生きていけないというごく当たり前の事実を切り取ることで、本作のリアリズムが深化しているからである。さらにそれは、撮影監督である田村正毅の技量に大きく因っていると言えるだろう。田村はドキュメンタリーカメラマンとして1960年代後半より活躍し始め、70年代からは劇映画にも進出し、若手新人監督と組み多くの作品を世に送り出してきた。その田村が劇映画に関しては初心者の河瀬と組んで臨んだ本作では、田村自身が「空間でも風景でもものでも、人物とともに一緒に関係し合って、そこに時間が加わって構図だと思っている」[3]と述べているとおり、人と自然、そこに共存する時間、本当にそこに存在するかのような空間を作り出す。もし河瀬自身が撮影していたならば、本作以前の作品に見られるように被写体を比較的大きなサイズで映し出すことが多かっただろうと推測されるが、田村のカメラは人物だけでなく空間や風景やそこに流れる時間をも捉えることで、あたかも日常の一部を収めたようなドキュメンタリー的な生々しさが生まれるのだ。
 田村が劇映画に及ぼす影響をさらに明確するために、他の作品を取り上げてみよう。田村が撮影監督として関わった諏訪敦彦監督の『2/デュオ』も、フィクション作品でありながらもシネマ・ヴェリテ的なインタビューの手法を用いたことによってフィクションとドキュメンタリーの融合をなしえている。そして、『2/デュオ』に見られるカメラワークの特徴は、主に二人の男女しか登場しないにも関わらず、常に一人の顔しか映し出されないところにある。二人の姿が捉えられていたとしても、一人はカメラに背を向けたり物に遮断されており、観客はどちらか一方の顔しか見ることができず、二人の顔が同時に画面に収められることがほとんどない。[4]この作品が一人の顔がかけたショットから始まることで、すでに一組のカップルが破滅へと向かっていく様を暗示しているのは、田村の撮影技術の賜物であろう。このように、河瀬以外の監督の作品を例にとってみても、撮影監督田村が作品に与える影響が甚大であることが理解される。その意味で、自然と人間との調和を重視することによって生まれた『萌の朱雀』でのドキュメンタリー要素の表出においてもやはり、田村の役割は小さくない。しかし、本作がフィクションでありながらドキュメンタリー要素を持っていることは、もちろんカメラワークの問題だけではない。『萌の朱雀』の物語を追っていくと、河瀬の演出によって際立っている省略の技法と音楽の独特な使用法という二つの特徴が浮かびあがってくる。以下、それらについて詳しくみていこう。

2. 省略によるリアリティの現出
 物語導入部では、幼いみちると栄介のいる田村一家が描かれているが、唐突にカメラが流れる雲を映し出したかと思うと、次に描写されるのは十数年後の田村一家である。雲の流れによって十数年の月日が一気に省略されるのだ。そして物語が展開して行くにつれ重要になってくる複雑な家族関係、本作の核と言える鉄道建設工事の状況などは登場人物たちによって明言されることなく、観客は彼らの数少ないセリフから情報をくみ取るしかない。登場人物たちの感情が表面に露呈することもなければ、物語の転機といえる孝三の消失の理由さえも描かれない。つまり、物語の背景を説明するようなセリフやシーンが、まったくと言っていいほど用意されていないのだ。説明的なセリフやシーンが最小限に抑えられることによって、物語は劇的な展開を回避したアンチハリウッド的な運びとなっている。河瀬は、「セリフよりも映像の方がリアリティをもつ場合が多い」[5]と語っているのだが、映像の問題以前に圧倒的に少ないセリフがかえってリアリティを際立たせていると言えるのではないだろうか。シーンが過剰なセリフで埋められることがないために、実在する家族の日常風景を切り取ったかのような生々しさが漂い、実際に家族がそこで生活しているかのような間が生まれるのだ。たとえば、キッチンで幸子と泰代が食事の支度をするシーンでは特別な会話がなされるわけでもなく、カメラが淡々と支度をする二人の姿を捉えるのみである。食事のシーンでもぽつりぽつりと会話がなされるだけで、わざとらしい賑やかな食事場面が仕立て上げられるようなことは決してない。また、泰代が孝三の代わりに働きに出ることを栄介に伝えるシーンでは、「働くし」と一言発するのみで、その他の説明がなされることは一切ない。
 我々が生きる現実の日常生活には必要以上に説明的な会話は存在しない。その事実を改めて確認するかのように、本作では説明的なセリフは省かれ、実際に西吉野村で生活している田原一家の日常をカメラが切り取ったかのように見える。この省略の技法がリアリズムの追求、ひいては劇映画のなかにドキュメンタリー的要素を垣間見せるひとつの要因になっていると言えよう。「フィクションとドキュメンタリーの狭間を撮りたい」[6]と河瀬が述べているように、この作品は一般の劇映画とは趣が異なり、セリフや演出がそれほど作り込まれていない。キャストは孝三役の國村隼以外は素人俳優[7]で、作中に登場する村人は、実際に西吉野村で生活する住人たちである。キャストは撮影が始まる以前からスタッフと共同生活に入り、村での生活にとけ込み、家族のように過ごす俳優たちのなかに自ずと感情が宿ってくるのを河瀬は待つ。つまり、河瀬は家族のように過ごす俳優たちのなかで、徐々に役柄と自身の距離が近づき、役柄と俳優自身の境目が曖昧になるのを求めているのだろう。そうすることでフィクションのなかに即興的な要素が生まれ、役柄になりきった素人俳優の虚構世界内での日常がリアリティをもって構築されるのである。
 ここで比較のために、本作同様にフィクションとドキュメンタリーの融合に成功しているジャン=リュック・ゴダール監督の『男性・女性』を、セリフやシーンに注目して見てみよう。『男性・女性』でも本作と同じように説明的なシーンは省かれているが、シネマ・ヴェリテの手法であるインタビュー形式を採用していることから、登場人物たちが交わすセリフは『萌の朱雀』に比べ多い。『男性・女性』は古典的ハリウッド映画の文法とは異なり切り返しも少なく、[8]登場人物たちが見たものや物語の展開に欠かせないシーン[9]が観客に提示されることがない。観客は主人公であるポールの墜落死すら観ることなく、マドレーヌとカトリーヌの証言によってその事実を知ることになる。つまり観客の知りたい情報がスクリーンに提示されないのである。さまざまなショットが省かれている一方で、登場人物たちは恋愛やセックス、政治について各々の思想を大いに語り合う。インタビュー形式と言っても、実際にインタビューらしいインタビューを行っているのは、ポールが仕事で「ミス19歳」に選ばれた女性と対峙しているときのみである。ただし、このシーンにおいてポールの姿は画面に一切映らないのだが、編集者の仕事をしているポールがインタビューをしているだろうと観客はかろうじて推測できる。ポールは政治や戦争、恋愛について女性に質問し、女性はその質問に答える。その間中固定カメラはずっと女性を捉えたままで、あたかもドキュメンタリー映画において被写体が監督の質問に答えているかのように見えるのだ。
 今挙げたシーン以外は、一見ありふれた会話シーンのように見えるが、注意深く見るとまるでインタビューのように進んでいることがわかる。つまり、質問する人物はカメラに捉えられず、質問に答える人物だけが画面に映されているのである。ポールがマドレーヌと同じ職場で働くようになり、トイレで会話をするシーンもその一例である。カメラが一度マドレーヌを捉えると、カメラはマドレーヌ以外の人物を捉えようとしない。そして奇妙なことに、本物のインタビューさながらポールが質問しマドレーヌが答え、質疑応答が繰り返されるのだ。その後カメラがマドレーヌからポールを捉えるようになると、今度はマドレーヌが質問を始め、ポールが答える。そしてまたカメラがマドレーヌを映し出すと、ポールが彼女に質問をし始める。画面に映っていないもの、つまりカメラのこちら側にいる人物が質問し、画面に映し出されている人物が質問に答える、という構図がここで確立されるのである。
 このシーンでは、インタビューに答える人物の発言が果たして脚本なのかアドリブなのか判断できず、観客はフィクションとドキュメンタリーの狭間をさまようことになる。さらに、ポールと「ミス19歳」のインタビューらしいインタビューシーンもあれば、一見ありきたりな会話シーンに見えながらも実はインタビューのような形式を導入したシーンもあるために、フィクションとドキュメンタリーの境界を曖昧にする効果が生まれているのではないだろうか。主人公の男性ポールが編集者であるという設定や、マドレーヌがレコーディング終了後に記者のインタビューに答える出来事は、シネマ・ヴェリテ的手法を用いている本作では自己言及的な技法だと言えるだろう。
 このように『男性・女性』の場合は、登場人物たちの会話にシネマ・ヴェリテの手法が採用されることで、フィクションの中にある種のドキュメンタリー性を潜り込ませているのだが、一方の『萌の朱雀』では説明的なセリフやシーンが省かれ、日常のリアリティがスクリーンに再現されることで、ある一家の十数年を追ったドキュメンタリー映画のような雰囲気が醸成されている。『萌の朱雀』と『男性・女性』はともにフィクションとドキュメンタリーの融合を果たしているように思われる。しかしながら、『男性・女性』におけるフィクションとドキュメンタリーの融合は、「ドキュメンタリー的な手法」をフィクションに導入するという直接的な技法によるものであり、『萌の朱雀』があくまでもフィクションとして成立しているのとは決定的に異なると言えるだろう。『萌の朱雀』は徹底した省略の技法を用いることで、巧妙にフィクションとドキュメンタリーを融合させているのである。無論、フィクションとドキュメンタリーの融合の土台になるのはセリフやシーンの省略の技法のみではない。『萌の朱雀』においてさらに重要だと考えられるのは、全編に渡って散りばめられた音楽が果たす役割である。

3. 越境する音楽
 『萌の朱雀』における音楽の使用法の大きな特徴のひとつとして、劇中に使用される音楽数の少なさが挙げられるのだが、このことによって逆説的に説明的なセリフが排除され、登場人物たちの感情が表立って現されない本作において音楽の重要性が際立つ。また、『萌の朱雀』における音楽は虚構世界外・虚構世界内・劇中劇という三つの世界を越境することで、それぞれの世界の境界線を曖昧にし、そのことが『萌の朱雀』のフィクションとドキュメンタリーの融合に大きく関係していると考えられる。以下、音楽が果たすこの多大な役割について論じる。
 劇中に流れる音楽は大きく三曲に分けられる。ひとつは、孝三が好んで聴いているヨーロッパ映画のサウンドトラックをイメージして作られたメインテーマ曲で、劇中最も多く流れる音楽である。そして二つ目は劇中で三度流れるテーマ曲「萌の朱雀」、三つ目は劇中で歌われる童謡で、これも三度流れる。これら三つの音楽は、虚構世界外から音楽として観客によって聞かれる音楽であると同時に、虚構世界内で登場人物たちに聴かれる音楽でもある。使用頻度が少ないために、時折流れてくるこれらの曲は観客の耳にいやおうなく浸透していき、また、淡々とした映像や演出とともに流されることで叙情的作用を引き起こすのだ。
 ここからは、反復される三つの音楽が観客や作品そのものに与える影響について精密に分析していきたい。まずは、本作で最も頻繁に観客が耳にするメインテーマ曲を取り上げる。この曲が初めて流れるのは、鉄道建設工事の中断によって働く意欲をなくした孝三の代わりに一家の家計を支える栄介と、栄介の職場で働くことになった泰代が、二人でバイクに乗って帰って行くのをみちるが目撃した夜に、自室にいる孝三が一人でメインテーマ曲のレコードをかけるときである。このとき、ショットは孝三の自室から泰代のいる寝室、みちるの自室へとつながれる。そして、音楽は異なった空間を隔てて登場人物たちと観客の耳に届く。ここで音楽は、三つの空間をつなぐ役割を果たしているのである。さらに、孝三の自室、泰代のいる寝室、みちるの自室をつないだ音楽は一瞬途切れたかのように思われるが、みちるがおもちゃのピアノで同じ楽曲を弾くという行為によってつなぎとめられる。そのことは、このメインテーマ曲が三つの空間をつなぐだけでなく、この音楽が三人の登場人物にとって意味深いものであることを示唆しているのである。
 二度目は、慣れない仕事の疲労と風邪が重なって仕事中に倒れてしまった泰代を看病した翌朝、自らが職についていないために泰代に迷惑をかけてしまい自責の念に駆られている孝三が自室でレコードをかけるときに流れる。その後、孝三は8ミリカメラを携えて家を出たきり帰らぬ人となる。この孝三の消失というストーリー上転換点となる重要なシーンでこのメインテーマ曲が流れることで、全体としては感情の抑制されている本作に束の間の情緒的な趣がもたらされるのだ。そして同時に、淡々とした物語のなかで最も大きな転機である孝三の消失と、このシーンにおける音楽の様々な変化は対応していると言える。虚構世界内から聞こえてきていたはずの音楽は、孝三が家を出る頃には虚構世界外から聞こえてくるようになり、さらに、虚構世界内から虚構世界外への移行には独特のノイズの入ったレコード音からきれいなピアノ音への変化という音質の移行も伴う。つまり、音楽はショットの切り替わりと同時に虚構世界内から虚構世界外へと変わり、音質もレコード音からピアノ音へと切り替わるのだ。
 三度目にメインテーマ曲が流れるのは、栄介と泰代が帰宅するのが遅くなった日の夜、家を出て行ったみちるを栄介が迎えにきて一緒に家に帰るシーンである。ここで音楽は虚構世界外から流れてくるが、このシーンで注目したいのは虚構世界内から聞こえる環境音である。最初は環境音が大きく音楽は小さめだが、そのうち環境音が小さくなるにつれて音楽が大きくなり、やがて環境音は消え音楽のみとなり、バランスが入れ替わるのだ。虚構世界内から聞こえる環境音が虚構世界外の音楽に取って代わられるのである。
 四度目は、みちるが栄介に気持ちを伝え、実家に帰る母とともにこの家を出て行くことを告げて、久しぶりにふたりで遊ぶシーンである。ここでのメインテーマ曲の使われ方が独特なのは、おなじみのメインテーマ曲がレコード音でもなく、きれいなピアノ音でもなく、一度目にみちるが自室で弾いたおもちゃのピアノ音で演奏されている点だ。虚構世界外から流れてきているにもかかわらず、このおもちゃのピアノの音は以前みちるが弾いていた場面を観客に想起させ、虚構世界内から響いてくるような錯覚を与える。虚構世界内と虚構世界外の両方から聞こえてくることで、おもちゃのピアノ音という特徴的な音質がその境目を移動していると言えよう。
 五度目にメインテーマ曲が流れるのは、孝三が遺した8ミリカメラの映像を家族が見たあと、泰代がレコードをかける場面である。レコードプレーヤーから流れるメインテーマの曲を虚構世界内で孝三が聴いていたのを観客はすでに二度目撃している。一度目は、鉄道建設工事の中止によって働く意欲をなくしてしまった自分のせいで栄介と泰代に迷惑をかけてしまっている状況のなか、孝三が部屋でこの曲を聴いていたとき。そして二度目は、働きに出た泰代が倒れてしまった翌日、孝三が二度と戻ってくることのない家を出ていく直前に聞いていたときである。この曲が流れる五度目においてはすでに孝三は登場しないが、孝三が愛した音楽、村の風景、村の人々が同時に流れることで、孝三が愛する村の過疎化を引き止めるために鉄道建設工事に託していた夢、そしてその夢を断たれたことで孝三が感じたであろう絶望に、観客は思いを馳せずにはいられない。
 さらにここで注目したいのは、音楽が虚構世界内から虚構世界外へ移動するだけでなく、音質も変化する点である。音楽は虚構世界内から虚構世界外へと移動し、音質はレコード音から綺麗なピアノ音に移行する。しかも、虚構世界内から虚構世界外への音楽の移動と、レコード音から綺麗なピアノ音への音質の移動という二つの移動は同時に行われているのではなく、ずらされているのだ。音楽が虚構世界内から虚構世界外へと移動すると同時に音質がレコード音からピアノ音に変化するのではなく、音楽が虚構世界内から虚構世界外へと移動し、孝三の撮った8ミリカメラが映し出す対象が吉野村の自然風景から村の人たちへと変わるときに、音質がレコード音からピアノ音にシフトする。音楽が虚構世界内から虚構世界外へと移動する時点と、音質がレコード音からピアノ音に移動する時点がずれている事実は、虚構世界内と虚構世界外、レコード音とピアノ音のような異質なもののあいだをいとも簡単に往来する河瀬の特徴が明瞭に見て取れる。
 最後に流れるメインテーマ曲は、エンディングの直前に流れる8ミリの映像とともに虚構世界外から聞こえてくる。孝三が撮ったと思われるこの映像は、『萌の朱雀』という虚構世界内に存在する人物がカメラを廻すことで、そのなかにさらに劇中劇とも言える世界を造り出している。『萌の朱雀』という虚構世界内のなかにさらに劇中劇をつくりだし、その劇中劇の映像に虚構世界外から音楽が流れてくる。上記のどれよりも複雑な入れ子状態になっているこのシーンからも、河瀬の越境の手法が鮮明に見ることができよう。
 映画音楽は通常、心理描写を際立たせる補助装置として用いられることが多いが、本作ではそうした効果のみならず、音楽が虚構世界内・虚構世界外・劇中劇の三つの世界を行き来することでそれぞれの世界の境界を曖昧にし、そのことによってフィクションとドキュメンタリーの境界をも不明瞭にしているのだ。

 次にメインテーマ曲とは別のもう一つの音楽、テーマ曲「萌の朱雀」を検証しよう。まず最初は、幼い栄介の下校時に、トラックを運転する孝三とみちるを迎えに行く泰代の映像とともに虚構世界外から音楽が聞こえてくる。物語は中盤の孝三の消失を発端に家族の解散を描いているが、このシーンでは孝三はトラックに乗り鉄道建設工事に精を出し、泰代とみちると栄介の三人は下校をともにし、幸子は家でくつろぐという田原一家の幸せだった頃の日常が描き出されている。では、この曲が二度目に流れるとき、家族はどうなっているのだろうか。この曲が再び流れるのは、孝三の8ミリカメラを確認するために四人が警察署へ訪れたあとのシーンである。警察署を出て行く四人の姿を捉えた後、田原一家と同じように西吉野村に暮らすいくつもの家族が、かつての田原一家のように幸せそうに生活している様子をカメラは映し出す。しかし、その幸せそうな村の人々のショットの間に挟まれるように挿入される田原一家を捉えたショットはそれとは対照的に描写されている。映し出される家のがらんとした佇まい、そして孝三のいない食卓は村の人々とは反対の空虚さを帯びている。幸福そうな村人たちの間に田原家がはさまれていること、そして以前この曲が使用されたのが田原家の幸せの絶頂であったことの二つと対比されていることで、田原家にただよう喪失感がより強調されている。
 この村の人々を捉えた映像はさらに、『萌の朱雀』と同じ村を舞台としたドキュメンタリー作品である『杣人物語』につながる。『萌の朱雀』にも登場した西吉野村の人々にカメラを向け、幸せとはなにかを河瀬自らが問いかける『杣人物語』はまさに、ドキュメンタリーとしてよみがえった『萌の朱雀』だと言えるだろう。村の人々を映した『杣人物語』は、『萌の朱雀』という虚構世界内のさらになかにある劇中劇と重なることで『萌の朱雀』にドキュメンタリー的色彩を濃くしていると考えられる。村の人々を映した映像の間に虚構世界内の田原一家を挟み込むことで、音楽は虚構世界内と劇中劇の世界を横断することになる。『萌の朱雀』というフィクション作品のなかにプレ『杣人物語』とでも呼ぶべきドキュメンタリーが挿入されることによって、音楽が入れ子構造内を縦横無尽に行き交い、結果として虚構世界内・虚構世界外・劇中劇という三つの境界が曖昧にされているのだ。

 本作中に流れる三つの音楽の最後は童謡であり、これは劇中三度流れる。一度目は、前半部分で子どもが雄大な自然に抱かれて遊んでいる映像とともに子どもが歌う童謡が聞こえてくる。注意深くこのシーンを見ると、この歌声は画面が捉えている子どものものではないことがわかる。子どもたちが遊んでいるところをカメラが映し出しているのだから、彼らが歌っていてもおかしくない状況でありながら、童謡を歌っているのはそこにいる子どもたちではない。歌声は虚構世界外から聞こえており、ここに奇妙な映像と音のズレが生じている。二度目は、エンディング間近に幸子によって歌われ、そのあとすぐに三度目の童謡が虚構世界外から聞こえてくる。一度目から三度目を通して、この童謡もメインテーマ曲とテーマ曲「萌の朱雀」同様、虚構世界内と虚構世界外という異なる空間を横断しているのである。
 これまで見てきたように、虚構世界内・虚構世界外・ドキュメンタリー的劇中劇という異質の空間を往来する本作における音楽は、フィクションとドキュメンタリーの領域を行き来するボーダレスな河瀬の特徴を表現している。それでは、同じくフィクションとドキュメンタリーの融合を果たしている『男性・女性』の音楽の使用法はどのようなものであるのかを見てみよう。

 ここで比較のために『男性・女性』に再度言及しておきたい。『男性・女性』では、実際に歌手であるシャンタル・ゴヤが歌手役のマドレーヌを演じているため、虚構世界内・虚構世界外で彼女が歌う曲が流れることはある。しかし、ミシェル・シオンなどによって議論されてきたイン・オフ・スクリーン外という概念[10]があるように、虚構世界内と虚構世界外で同じ曲が流れることは珍しいことではない。『男性・女性』はシネマ・ヴェリテ的なインタビューの手法を用いることでフィクションにドキュメンタリーの要素を持ち込むことに成功しているが、音楽によって虚構世界内・虚構世界外の境界をかき乱すことはしていないのである。この点が、音楽を虚構世界内・虚構世界外・劇中劇の三つの世界を越境する手段とし、フィクションとドキュメンタリーの融合をなしえている『萌の朱雀』との差異である。
 加えて、『萌の朱雀』は虚構世界内・虚構世界外・劇中劇と三つの世界を有しているが、『男性・女性』が有するのは虚構世界内・虚構世界外の二つの世界にとどまっている。ポールとマドレーヌが出会うカフェで、二人の後ろで言い争いをするカップル、電車のなかで口論をする三人組、カフェでマドレーヌにプロポーズを申し込むシーンにおいても、大声で官能小説を読み上げる老人や、女性を口説く男性など、物語とは直接関係のない人物が、主要登場人物たちの近くで各々の世界を繰り広げるオムニバス映画のようなシーンは存在する。しかし、それらのシーンは主人公たちの主観ショットで描かれているため単なる一環境にすぎず、『萌の朱雀』のような独立した劇中劇とは言い難い。
 つまり、『男性・女性』は『萌の朱雀』と同じようにフィクションとドキュメンタリーの融合をなしえ、省略の手法において類似した特徴を内包しているものの、音楽によって虚構世界内と虚構世界外の境界を越境どころか不明瞭にされることもなく、劇中劇のような第三の世界を有してはいない。一方、『萌の朱雀』は、虚構世界内・虚構世界外・劇中劇の三つの世界を持ち、音楽がその三つの世界を曖昧にし、行き来しているのだ。このように、類似した特徴を持つ『男性・女性』と比較検証することで、『萌の朱雀』での河瀬の音楽の使用方法が一歩先へと進んでいることが理解されるだろう。

おわりに
 以上、河瀬直美監督の『萌の朱雀』をフィクションとドキュメンタリーの融合という観点から読み解いてきた。まず『萌の朱雀』における田村正毅撮影監督のカメラワークがいかにドキュメンタリー要素の表出に貢献しているかを述べ、次に本作におけるセリフとドキュメンタリー性の問題を、ジャン=リュック・ゴダール監督の『男性・女性』との比較のもとに論じた。そして『萌の朱雀』ではセリフの限定あるいは省略によってリアリズムが生み出されているのに対して、『男性・女性』では大量のセリフが使用されながらも、脚本かアドリブか判断不能なインタビュー形式の挿入によって、ドキュメンタリー作品のような風合いが作り出されていることを明らかにした。加えて、『萌の朱雀』の音楽の使用方法を再び『男性・女性』との比較のもとに詳細に分析し、映像面だけではなく音響面からも河瀬の独自性を浮きあがらせた。『萌の朱雀』が『男性・女性』と明らかに異なるのは、『男性・女性』では音楽が虚構世界内・虚構世界外を往来することはなく、劇中劇も存在しないのに対して、『萌の朱雀』は音楽が虚構世界内・虚構世界外・劇中劇の三つの世界を有し、その世界を横断している点である。『萌の朱雀』における音楽の使用方法の独自性こそが、フィクションとドキュメンタリーの融合という一見至難に思われる偉業を成し遂げている大きな要因だと考えられる。河瀬の初の劇映画『萌の朱雀』は、ドキュメンタリー作品を多く手がけた撮影監督田村の力を借りたカメラワークと、省略の技法、そして特異な音楽の使用法によって、フィクションとドキュメンタリーの融合という地平をさらに開拓することに成功しているのである。



[1]日本の女性映画監督には、坂根田鶴子(日本初の女性映画監督)や女優の田中絹代などがいるが、女性であるという事実のみが強調されることが多く、そのテクスト上の特徴が日本映画史という大きな枠組みで男性監督と同列に論じられることはほとんどない。
[2]河瀬直美、福田和也「世紀末の対話(第5回) ― カンヌに通じた思い」、『Voice』239号、PHP研究所、1997年11月による。
[3]北浦和男、田村正毅「「EUREKA」の撮影 ― 田村正毅カメラマンにきく」、『映画テレビ技術』581号、2001年1月、14頁。
[4]以下の講演における加藤幹郎の指摘。「映画史を解体する映画 ― 諏訪敦彦の映画史的インパクト」、講演、神戸映画資料館、2010年5月2日。
[5]「私にとっての映画、シナリオとは:特集河瀬直美の映画世界」(河瀬直美へのインタビュー)、『シナリオ』57号、シナリオ作家協会、2001年4月、22頁。
[6]『シネ・フロント』252号(特集:萌の朱雀)、シネ・フロント社、1997年9月、19頁。
[7]みちる役の尾野真千子やみちるの子ども時代の子役、栄介の子ども時代の子役は西吉野村で河瀬が見つけた村の子どもで、幸子役、泰代役はオーディションで演技経験のない和泉幸子と神村泰代が選ばれた。栄介役の柴田浩太郎は河瀬のビジュアルアーツ専門学校の教え子である。
[8]電車内で三人組が言い争っているのを主人公ポールが眺めていると、ふいにポールが目を見張り「危ない!」と忠告する。その間カメラはポールを捉えたままで、観客はポールが一体なにを見、何を危ないと判断したのか理解できない。しばらくすると、白人女性が黒人男性に銃を向けていることがわかる。古典的ハリウッド映画であればすぐ銃を切り返しによって観客に提示するはずである。
[9]道端でポールが貸したマッチで男性が焼身自殺するシーンは観客に提示されず、映画終焉での事情聴取で初めて観客はマドレーヌが妊娠していることを知るが、セックスシーンやそれを暗示させるシーンもない。
[10]ミシェル・シオンは『映画にとって音とはなにか』でインは画面内にその音源が見える音、スクリーン外とは音源は画面内に見えないが、画面に隣接する空間にあると推測できる音、オフは、画面で示される場面とは別の時空間からの音のことと定義している。


参考文献リスト

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  • 河瀬直美「私の映画づくり ― 紡ぎだす表現」、『三田文学』77号、慶應義塾大学、1998年2月。
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  • ---「「EUREKA」の撮影 ― 田村正毅カメラマンにきく」、『映画テレビ技術』581号、2001年1月。
  • 佐々木昭一郎「河瀬直美式リアリズム」、『シナリオ』53号、シナリオ作家協会、1997年11月。
  • シオン、ミシェル『映画にとって音とはなにか』(川竹英克、J・ピノン訳)、勁草書房、1993年。
  • ---『映画の音楽』(小沼純一、北村真澄監訳)、みすず書房、2002年。
  • 筒井武文「特集:2/デュオ シナリオなしに成立したスリリングな映画の過程」、『キネマ旬報』1229号、キネマ旬報社、1997年。
  • モナコ、ジェイムズ『映画の教科書 ― どのように映画を読むか』(岩本憲児、内山一樹、杉山昭夫、宮本高晴訳)、フィルムアート社、1993年。
  • 山口泰代「トンネルに込められた場所愛」、『地理』44号、古今書院、1999年。
  • 吉田真由美、林冬子、松本侑壬子、高野悦子、大竹洋子、小藤田千栄子『女性監督映画の全貌』、パド・ウィメンズ・オフィス、2001年。
  • 四方田犬彦「電影風雲 ― 日本映画の新鋭たち」、『世界』645号、岩波書店、1998年2月。
  • 『キネマ旬報』1238号(特集:萌の朱雀)、キネマ旬報社、1997年。
  • 「作品特集:M/OTHER」、『キネマ旬報』1295号、キネマ旬報社、1999年。
  • 『シネ・フロント』252号(特集:萌の朱雀)、シネ・フロント社、1997年9月。
  • 『萌の朱雀』劇場版パンフレット、ビターズ・エンド、1997年。
  • 「私にとっての映画、シナリオとは:特集河瀬直美の映画世界」(河瀬直美へのインタビュー)、『シナリオ』57号、シナリオ作家協会、2001年4月。
  • 「私なりの世界の見え方を確かめる」(河瀬直美へのインタビュー)、『広告批評』275号、マドラ出版、2003年10月。