7 CineMagaziNet! no.15 Battleship

ユニヴァーサル映画百周年記念作品『バトルシップ』(2012年)を見る

加藤幹郎

 ハリウッド映画産業の確固たる映画会社ユニヴァーサルの百周年記念作品としてCGI映画『バトルシップ』が現在(2012年5月)日本で公開されている。
 ユニヴァーサル社と言えば、1930年代の『フランケンシュタイン』(ジェイムズ・ホエイル監督、1931年)、『フランケンシュタインの花嫁』(ジェイムズ・ホエイル監督、1935年)、『フランケンシュタインの復活』(ローランド・V・リー監督、1939年)の恐怖映画三部作の圧倒的すばらしさが世界映画史上屹立している(詳細については拙著『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』[平凡社、1996年]、第7章を参照されたい)。そしてハリウッド・ポスト古典期最初の映画となるアルフルレッド・ヒッチコック監督の最高傑作『サイコ』(1960年)もまたユニヴァーサル社によって製作配給されている(詳細については拙著『映画とは何か』[みすず書房、2001年]、第1章を参照されたい)。あるいはフィルム・ノワールの最高傑作たるオーソン・ウェルズの『黒い罠』(1958年)もまた暗い宇宙で自転する地球の姿を過去100年間リメイクしながらも一貫して自社のアイコンとして使用しつづけるユニヴァーサル映画の冒頭ショットに呼応するかのように(回転する地球と形態的かつ動態的に相似する)、3分20秒後に爆発設定される円形時限爆弾のクロースアップではじまる『黒い罠』は(詳細については拙著『鏡の迷路 映画分類学序説』[みすず書房、1993年]、第2章を参照されたい)、とりあえずユニヴァーサル社の文字通り(映像通り)アイコン映画として世界映画史に屹立する意味ももちうるだろう。
 そしてユニヴァーサル映画百周年記念作品『バトルシップ』(2012年)が地球と宇宙(謎の惑星)とのあいだの非交流と圧倒的交戦で成立するのも、ユニヴァーサル社のアイコンが自転する地球画像(他者を威圧する理想的自我)にあることの画然たる象徴となる。
 わたしは長い山腹に両端をおおわれたがゆえに波のたたない長崎港の一角にある三菱重工業長崎造船所(明治期に成立)を見下ろす山の上で育った。この造船所は凄惨な15年戦争中は、巨大戦艦武藏などを建造し、軍需産業国家アメリカによって原爆投下された戦後は自衛艦(イージス艦など)をはじめ、巨大クルーズ客船などを建造している。幼いころ故郷を失ったわたしは、それゆえ世界中で、この幼少期の記憶を活性化する場所と光景をさがしてきた。標高200メートルくらいの小高い緑の丘から蒼い海と大小の船を眺め降ろす、そういう場所をである。
 今回、ユニヴァーサル百周年記念作品『バトルシップ』(2012年)を見たのは、以上のような理由からであった。映画『バトルシップ』はハワイ、オアフ島沿岸でのアメリカを中心とした日本をふくむ世界10数か国の軍事演習時に正体不明の宇宙船が突如飛来してきて湾岸に着水し、文字通り洋上でのバトルシップ交戦を開始する映画である。
 海と船の繊細かつ広大な光景を楽しみたかったのだが、映像編集的には近年のハリウッド映画のワン・ショットの平均持続時間が4秒ほどと極端に短いがゆえに、瞬発的に切り替わるショットのために、広大な海と巨大な船をじっくりと眺めることはできない。そのかわり、いかなる根拠もなく、ひたすら早急な戦闘、殺戮、破壊に終始する本作『バトルシップ』は軍需産業国家アメリカの大いなる宣伝映画となる。洋上で地球の戦艦と戦う宇宙船の異星人乗組員の顔も表象されるが、かつて欧米人による奴隷貿易で苦役を強いられてきたアフリカ人のステレオタイプ的表情を想起させずにおかない非人間的描写となっており(つまりなぜ頭脳明晰な科学的宇宙人が地球を襲うのか、いかなる妥当な解釈の余地もあたえないまま)、映画の物語は、地球の戦艦よりも圧倒的戦力をもっているはずの遠い宇宙から飛来してきた宇宙船を破壊したアメリカ海軍人への楽しげな勲章授与式で終わる。物語には人間(生物)精神の多様性はいっさい省略され、地球の安全を保持すると称するアメリカ軍需産業の自画自賛映画となっている。それは本作の原型が、かつての映画が秀逸な小説や演劇や写真にもとづいていた歴史とは異なり、コンピュータ・ゲームにもとづくためである。主流コンピュータ・ゲームを興ずる人間(子供)たちは、ひたすら戦闘シーンで勝敗を決するのを楽しむだけである。そこに人間精神のあわだちを表象することは皆無である。 
 したがって現代の日本映画作家として優秀な黒沢清や青山真治の映画に出演することの多い俳優浅野忠信が本作『バトルシップ』においてはまったく別人のような演技を呈することになる。1930年代後半、古典的ハリウッド映画『ミスター・モト』シリーズは日本人探偵を主人公に設定した映画(主演俳優はかつてフリッツ・ラング監督のドイツ映画で秀逸な演技力を発揮していた亡命ユダヤ人ペーター・ローレー)としてそれなりに人気を博したが、これはどことなく滑稽な日本人をアメリカ人観客のために想定していると思わさずにはおれない映画でもあるのだが、『バトルシップ』における浅野忠信もまた同様に、日本映画出演時の静謐なたたずまいをいっさい剥奪され、戦闘の勝利にしか人生の意味を見いだせない単純素朴闊達な軍人として表出されるだけである。
 古典的ハリウッド映画産業が終焉し、実験映画期も終焉し、アメリカン・ニュー・シネマ期も終焉し、スティーヴン・スピルバーグとジョージ・ルーカスに代表されるブロックバスター期とCGI期にはいったアメリカ映画産業において、もはや芸術映画は完全に姿を消し、善悪二元論を仮想した戦闘映画が支配的な時代になった二一世紀において、人類はまだ世界平和を成就できず戦争をつづけてゆくしかないのだろう(そしてコンピュータ・ゲーム・プレイヤーと現代ハリウッド映画の観客は日常生活で他者との葛藤を解消する術を学べないままである)。

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