bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.15 フィオードロワ・アナスタシア『「旅する」叙情詩人』

「旅する」叙情詩人
亀井文夫の紀行映画における自己言及性をめぐって



フィオードロワ・アナスタシア

      I always think of documentary as having certain fundamental chapters. The first chapter is of course the travelogue [1].

はじめに
 亀井文夫のドキュメンタリー映画は、そのイデオロギー的な両義性で有名だが、亀井自身の人生や作品に対する社会的、批評的評価もやはり、数々の矛盾を孕んでいる。亀井は一方で、生涯、反戦平和を訴え続けた社会派のドキュメンタリー映画監督として崇拝されながら、そうした公然たる政治的メッセージ性ゆえに、美学の流れを汲んだ映画学の領域においては、扱いにくい監督として敬遠されている。確かに、亀井が日本を代表するドキュメンタリー映画監督であることを否定する者はいない。それどころか、先行研究の多くは、亀井こそは「日本ドキュメンタリー映画の父」と評してきた。しかし奇妙なことに、それらの研究は同時に、亀井文夫をドキュメンタリー映画史上、きわめて特殊で異端的な、日本ドキュメンタリー映画の本流から孤立した存在として捉えている。「父」と呼ばれるからには、その「子」(後世のドキュメンタリー映画作家)との間になんらかの継続性が認められるはずであるが、先行研究は亀井作品の政治性に気をとられて、その点を解明することを怠ってきた。
 亀井以降の日本ドキュメンタリー映画史は、「私的ドキュメンタリー」という概念を中心に論じられることが多い。スタリニズムに代表されるような全体主義的な政治思想の衰退に伴い、作家たちの関心は、社会から個人へと移り変わっていき、最終的には、作り手が自分自身や家族をフィルムに収めるという、いわゆる私的ドキュメンタリーの領域に辿り着いた。こうした「私化」への動きが、日本のドキュメンタリー映画界で顕著になってきたのは、1970年代頃からだと考えられている(佐藤『ドキュメンタリーの修辞学』 14〜44)。しかし管見によれば、私的ドキュメンタリーの最大の特徴たる「自己言及性」は、1930年代後半から1960年前後まで活躍してきた亀井文夫の作品にも潜在する。政治的イデオロギーを重視する監督として名高い亀井文夫の作品は、作家の「存在」を見事に浮き彫りにしているのである。本稿は、このような亀井作品における自己言及性に注目し、左翼的な映画運動家としてではなく、叙情詩的な映画作家としての、新たな亀井像を提示する。文学では一般的に、自然の風景などを写実的・客観的に描く詩を叙景詩、歴史上の事件や人物について客観的に語る詩を叙事詩、そして、作家の心情を中心に詠う主観的な詩を叙情詩と定義するが、本稿では、作家である亀井の存在を明示し、亀井個人の主観を反映しているドキュメンタリー映画作品に対して「自己言及的」や「叙情詩的」という形容詞を用いる。また、本稿は、亀井の活動を日本ドキュメンタリー映画史の一段階として捉え直し、世界や日本の映画史における亀井の業績を再評価する試みでもある。以下、亀井作品の叙情性を解明するために、第一節では亀井作品に通底する問題である、「他者」表象と「旅」の主題について述べ、第二節では、亀井がこれらの問題に関心を抱く契機となった、彼の留学体験に目を向け、第三節では亀井の代表作『小林一茶』(1941)にテクスト分析を施す。

Ⅰ. 「他者」表象と「自己」表現
 亀井文夫の著書に、『たたかう映画 ― ドキュメンタリストの昭和史』がある。この書物が出版されたのは、亀井が亡くなった後で、監督はその編集作業に立会っていない。亀井が書き残した文章を、ドキュメンタリー映画研究家の谷川義雄が一冊の本に纏めたのが、本書である。『たたかう映画』の編集が、亀井の意図をどこまで正確に反映しているかはさておき、その印象的な書名は、映画史における一般的な亀井像を的確に伝えている。戦前はソ連に留学し、戦後は共産党員となった亀井の左翼的な思想と特殊な経歴は、「たたかう」監督にこそ相応しい。亀井の作品は、異なる政権のもとで幾度も上映禁止処分を受けており、彼自身は、戦時中に治安維持法違反で逮捕された経験を持つ。亀井は「たたかう」監督であるという把握は、決して根拠を欠いている訳ではない。本稿ではしかし、亀井の反政府的で戦闘的な姿勢ではなく、その一方で見過ごされてきた「旅」の主題にまず注目してみたい。
  亀井は生涯を通して幾つものドキュメンタリー映画作品を手掛けてきたが、その大半は「紀行もの」として位置付けることができる。亀井が才能ある若手映画作家として注目される契機となった『怒濤を蹴って』(1937)は、日本の海軍省から派遣された軍艦「足柄」がイギリスで行われるジョージ6世の戴冠式へ向かう航海記録であり、亀井の代表作として知られる『上海』(1938)、『北京』(1938)、『戦う兵隊』(1939)、『小林一茶』でもまた、「旅」の主題が物語的構想の中核をなしている。企業PR映画を含む戦後の亀井作品にもやはり、「紀行もの」としての傾向が目立つ[2]
 「旅」という非日常的な行動は、人々に新たな体験と出会いをもたらす。亀井の紀行映画も例外ではない。彼の作品を通して、観客は、自らとは異なる、いわゆる「他者」の存在を発見する。「他者」は、20世紀の人文社会諸科学を代表する中心的概念であり、映画学では一般的に、映画作家や観客といった過半数には属さないグループの人々(例えば、異文化圏に属する者や、同じ社会に属しながらも、その内部においては周縁に位置する者など)を指すが、亀井作品における登場人物の多くは、日本社会の周縁に生きる、まさにこういった「他者」である。それは、例えば、日本の植民地体制下における中国人であり、戦後日本における占領軍や被差別部落の人々であり、または、広島・長崎の被爆者やその家族である。GHQによって上映禁止処分を受けた亀井の『日本の悲劇』(1946)は、日本映画特有の「禁忌の他者」である、昭和天皇裕仁の描写も行っている(四方田23)。
 「他者」が「自己」を再確認するために必要な存在であることは、精神分析理論やコミュニケーション論の共通認識である。民族性や国民性といった集団的アイデンティティもやはり、「他者」という存在を認識することで形成されていく。国民に「他者像」を伝達する手段として有効なツールは、例えば、映画に代表されるような大衆娯楽やマス・メディアであろう。世界各地の文化学研究者が、一国のナショナル・アイデンティティについて論じる際に、その国の映画における「他者」表象に着目することが多いのは、その所以である。日本のナショナル・アイデンティティが語られるときもやはり、被差別部落の人々や、在日朝鮮人といった日本社会における典型的な「他者」の表象パターンが引き合いに出される。そして、生涯を通して、日本社会におけるアウトキャストたちを描き続けた亀井文夫の諸作品もまた、そういった文化史研究の題材として人気を集めている[3]
 確かに、亀井作品における「他者」表象は、日本のナショナル・アイデンティティの形成に貢献しうる。ところが、スクリーンのなかの「他者」は、観客にとっての「自己」を映し出す鏡であると同時に、映画の製作者にとっての自己認識のツールでもある。「他者」との交流をカメラに収めることで、亀井は自らの存在を再確認し、それを観客の前に曝け出している。例えば、戦時中に作られた『北京』において、亀井は中国の市民がカメラに投げかける視線や台詞を通して、製作者である自らの存在を明らかにしている。公園を散歩している若い中国人女性は、自分たちが撮影されていることに気が付くと、「何を撮影してるのかしら」、「あのカメラマン日本人らしいわ」という言葉を発して、カメラに背を向け、歩調を早める(0:35:45)。また、中国の庶民が屋台で食事をしているシーンでは、一人の男性が突然箸を止め、カメラに向かって、「撮っちゃいかん!…」、「なんで俺を撮るんだ」と話しかける(0:29:20)。このように、女性たちの恐怖心を刺激し、男性の怒りを挑発することで、亀井は自らの存在をフィルムに刻印している。
 また、戦後に作られた『生きていてよかった』(1956)において、亀井は実際にカメラの前に立ち、被写体と接触することで、自らの存在をフィルムに焼き付けている。『生きていてよかった』は、原爆投下後の広島・長崎を映した映画であるが、この作品に登場する被爆者の人々は、「フレーム内フレーム」というメロドラマに特徴的な技法(加藤 104)によって、一般社会から隔離された「他者」として描かれている。作中を通して、被爆者の姿は、窓や鏡などといったフレーム内に閉じ込められ、原爆の被害を受けていない人々から物理的に遮断される。ところが、長崎で被爆し、下半身が麻痺しているために自分で歩くことのできない被爆者の女性を、監督である亀井が抱き上げてみせるシーン(0:43:30)では、被爆者とそうでない者との間に存在する境界線が抹消される。亀井の関心は、「他者」を表象することだけでなく、「他者」と向き合う自分を描くことにも向けられており、『生きていてよかった』では、「社会的弱者」である「他者」に救いの手を差し伸べる、救世主的な監督像が浮き彫りにされる。画面に映っている男性が監督本人であることは、ナレーションや字幕などで明示されておらず、上記のシーンは、より大胆な自己描写を行う後世の私的ドキュメンタリーとは質が異なるが、1956年当時の試みとしては、やはり突出したものである。
 中国人や被爆者のように、「他者」として描かれる人々は、一般的に少数派であり、社会から隔離されていることが多い。「普通」の人が日常生活において、そういった「他者」と触れ合う機会は限られており、稀に発生する交流を通して「他者」について得られる情報もまた、極めて表面的である。結果として、「他者」は得体の知れない、謎めいた存在として認識され続ける。だからこそ、そういった存在を取り上げる映画は、必然的に仲介者ないしは通訳的な登場人物を必要とする。「他者」に対する映画のスタンスが肯定的であろうと、否定的であろうと、異世界に生きる人々は、その生活様式に精通した第三者によって、観客に紹介されなければならない。そして、「他者」を表象する作品がドキュメンタリー映画である場合、「他者」を取り巻く不可解さのヴェールを剥ぐ役割が課せられるのは、製作者本人である。即ち、ドキュメンタリー映画の製作者は、「他者」との交流を通して、自らの存在をスクリーンに投射する機会を与えられる。言い換えれば、それは、自らの存在意義と社会的任務を映像でもって記録することで、自らの内面性を表現する機会である。亀井を「他者」表象や紀行映画の領域に導いたのは、こういった自己表現への憧れではなかっただろうか。

Ⅱ. 「旅する」ドキュメンタリストたち
 亀井が生涯持ち続けた、紀行映画と「他者」表象に対する強い関心は、紀行映画ブームという、世界的な動きに結び付けて解釈することも可能である。亀井が映画製作を始めた1930年代後半の日本は、大陸への進出に伴い、新たなナショナル・アイデンティティの模索段階にあった。帝国の領土拡大と多民族的な人口の増加は、日本において、紀行映画というジャンルの台頭をもたらしたが、同じような状況は、亀井が留学していた当時のソ連でも確認できる。
 亀井がソ連のレニングラードで映画を勉強していたのは、1929年から1931年にかけてだが、この時期はちょうど、ソ連における文化映画の全盛期にあたる。当時のソ連で発行されていた映画新聞や雑誌には、「文化映画」(Культурфильма)や「政治的啓蒙映画」(Политико – просветительная фильма)といった単語を含む見出しや、そういった映画の生産増量を求めるスローガンが溢れている(図1)。流行の文化映画をスチール写真付きで簡単に紹介するパンフレット的なものから、文化映画のあり方を多極面から分析する専門書まで、あらゆる文化映画関係の単行本が出版され、上記の出版物と平行するように、大都市には、文化映画だけの上映を行なう専門映画館が次々と建設されていった。1926年の10月には、モスクワの「アルテス」が、そして1929年9月には、レニングラードの「クルトゥールフィルム」がそれぞれ開設された(НИИ киноискусства 545, 671〜72)。
 文化映画のなかでも特に目覚ましい発展を遂げたのは、紀行映画である。代表例としては、ウラジーミル・シュネイデロフの『大飛行』、(Великий перелет、1925)、ミハイル・カラトーゾフの『スワネチアの塩』(Соль Сванетии1930)、『極北に進むソヴェート』(Курс Норд、1930)、ヴィクトル・トゥーリンの『トゥルクシブ』(Турксиб1929)などが挙げられる(『極北に進むソヴェート』と『トゥルクシブ』は日本でも公開された)。これらの映画は、非ロシア的なエキゾチックな地域を観客に紹介するという点では、エンターテイメント性を保持し、ソ連の広大さと地理的な多様性、潜在的な開拓・発展の可能性を誇示する点では、政治的プロパガンダの働きを担っていたため、労働者や農民に新たな国家アイデンティティを植え付けるのには、最適のジャンルであった。 
 ソ連での留学中に亀井文夫の関心を引いたのも、まさにこういった紀行映画である。亀井が、留学中に観て、最も感銘を受けたのは、「上海の労働者がどんなに搾取され、圧迫されているかをきわめてリアルに描いた」ヤコフ・ブリオフ監督の『上海ドキュメント』(1928)と、「ドイツのハンブルグをキャメラで探訪する」『幸福の港へ』というドキュメンタリー作品(亀井 「ソヴェト映画の印象 座談会」21)だが、先行研究が注目してきたのは、もっぱら前者の『上海ドキュメント』である。ブリオフの作品は、亀井の代表作『上海』と同じ都市を描いており、二つの作品は比較が行いやすい。一方、『幸福の港へ』は、誰の作品であるのかさえ解明されていない。上記の雑誌記事も、その監督名や製作年は、掲載されていないのである。
 『幸福の港へ』は、なにも幻の作品などではない。1930年にヴラジーミル・エロフェエフ監督によって作られたドキュメンタリー映画であり、現在も、モスクワ郊外にある記録映画・写真国立アーカイヴ(The Russian State Documentary Film & Photo Archive、RGAKFD)に所蔵されている。長年、エロフェエフの名は、ソビエト映画史のみならず、ソビエト・ドキュメンタリー映画史においても忘れられていた。日本でも全くと言っていいほど知られていない。しかし、ロシア国内では、ここ数十年の間、エロフェエフの活動や遺作を新たな視点から捉えなおす動きが顕著となってきている。1920年代から1930年代前半のソビエトにおけるドキュメンタリー映画界を、ジガ・ヴェルトフ、エスフィーリ・シューブ、そして彼らには到底及ばない、芸術的独自性を欠いた他の製作者群の三極に分類するのではなく、むしろヴェルトフの作風をエロフェエフのそれと対照比較するという、新たな見解が確立されようとしている(Дерябин 53〜71, Прожико 62〜81)。
 エロフェエフ(1898〜1940)は、映画監督になる前から映画評論家として活動しており、1920年代の前半は、映画雑誌『キノ』のなかで度々ヴェルトフと討論を繰り広げていた。18歳の頃から既に共産党員となっていた彼は、1925年からソ連の在独通称事務所の一員としてドイツに渡り、そこで初めて「文化映画」たるものを間近で観察する機会を得た。ドイツの文化映画のなかでも、エロフェエフの関心を引いたのは、コリン・ロス(1885〜1945)の紀行映画であった(Дерябин 56)。エロフェエフはこの時、文化映画は商業映画のように観客の動員を目指すべきであり、文化映画の魅力を最大限に引き出すのは紀行映画であると考え、ドイツからソ連へ帰国するや否や、紀行映画の製作に乗り出した。1913年に撮影された北極探検のフィルムを再編集した『極圏を越え』(За полярным кругом、1927)でデビューし、その後も『世界の屋根(パミール)』(Крыша мира [Памир]、1928)や『コンスタンティノープル』(Константинополь、1928)、『アジアの心臓(アフガニスタン)』(Сердце Азии [Афганистан]、1929)など、「紀行」に特化した作品を発表してきた。エロフェエフの作風はしかし、「旅」することへのこだわりだけに依拠している訳ではない。
 エロフェエフは、高速モンタージュやイデオロギー的色彩を強く帯びた字幕の使用を意図的に避け、カメラのプレゼンスを余り感じさせないロング・テイクを採用した作品を多く作り出した。それらの作品は、当時の映画批評家たちからイデオロギー性の欠如を指摘され、『幸福の港へ』もやはり、公開当時はイデオロギー的立場の不明確さを批判されたようである。ところが、興味深いことに、エロフェエフの作品が海外で公開される際、それらは逆に、社会主義的過ぎるとの批判を受けることが多かった(Дерябин 66〜67)。亀井もまた、『幸福の港へ』をハンブルグの階級的な社会構造に重点をおいた政治的な映画として記憶している(亀井 『ソヴェト映画の印象 座談会』21)。
 エロフェエフと亀井の映画的経歴が幾分重なり合っていることは、これまでの説明からも明らかだが、二人の作家に共通するのは、留学の体験や左翼的な思想、作品のイデオロギー的な曖昧性だけではない。「文化映画」や「政治的啓蒙映画」といった、ノン・フィクション映画を指す、ありとあらゆる名称が飛び交うソビエト映画界において、エロフェエフは一貫して自らのことをドキュメンタリストと称していたが、これは、「文化映画」に関する空虚な議論が氾濫していた盧溝橋事件以降の日本で「記録映画」という単語にこだわり続けた亀井文夫を想起させる。また、1928年に撮影された『世界の屋根』を始め、エロフェエフは自らの作品のなかで、他の映画スタッフと共にカメラの前に立つことを一つの習慣としていたが、これにも、亀井の製作スタイルに通じるものがある。ちなみに、エロフェエフは、紀行映画の撮影で探検に出かけていないときを除けば、基本的にモスクワを中心に活動していたが、1930年だけは、例外的に一年を通じてレニングラードのソフキノ撮影所に所属し、文化映画部長という重要なポストを担っていた(Roberts 83)。これは亀井がレニングラードに滞在していた時期と見事に重なっており、二人はなんらかの形で対面を果たしていると思われる[4]
 世界ドキュメンタリー映画史研究の金字塔として知られるエリック・バーナウも指摘している通り、(亀井が映画製作を始めた)1930年代は、世界各地のドキュメンタリー映画が「平行して発達を続けた」時期であった(Barnouw 131)。日本を含む世界各国では、いずれも帝国主義とナショナリズムの台頭、左翼的なシネ・クラブの閉鎖、無声映画のトーキー化といった共通する政治的、社会的、技術的条件が揃っていた。各国におけるドキュメンタリー映画の同時的発達はまた、多国間を自由に移動する「旅するドキュメンタリスト」たちの存在によっても支えられていたという(Barnouw 131)。バーナウはヨリス・イヴェンスの例を挙げているが、世界中を旅し、ヴァイマル共和政時代のドイツにおける紀行映画の普及に身を捧げたコリン・ロスや、ドイツにおける紀行映画の台頭をソ連にも波及させようと試みたエロフェエフ、そして、そのエロフェエフの作品に深い感銘を受けた亀井もまた、「旅するドキュメンタリスト」として位置づけられるべきであろう[5]
 亀井の紀行映画へのこだわりは、上述の世界映画史の文脈と切り離して考えることはできない。とはいえ、本稿が注目したいのは、ドイツやソ連で育まれてきた紀行映画の伝統を、亀井が単に日本で継承させたという事実ではない。日本での製作活動において、亀井は紀行映画というジャンルに潜在する新たな可能性を引き出すことに成功している。亀井は、「旅」の主題や「他者」表象に秘められた自己表現の可能性を活用することで、紀行映画という、至ってシンプルな形式を持つ映像媒体を、より複雑で芸術的な段階へと発展させることができたのである。次章では、亀井の最高傑作として知られる『小林一茶』を取り上げ、亀井が紀行映画というジャンルにもたらした革新性を解明していきたい。亀井が、旅先で出会う「他者」との交流を通して、自らの存在を記録に残そうとしていることは、『北京』と『生きていてよかった』の事例を用いて既に明らかにしてきたが、以下に論じる『小林一茶』における「他者」と「自己」は、交流をするどころか、互いに折り重なることで、表裏一体の関係を成している。

Ⅲ. 自らの苦難を詠った叙情詩
 長野県からの依頼を受けて、東宝で作られた『小林一茶』は、当初、信濃の「観光宣伝映画」として企画されていた。しかし、数々の先行研究が指摘するように、完成した亀井の作品は、一般的なPR映画とは程遠い内容のものに仕上がっている。これまでの研究のなかで培われてきた、『小林一茶』に対する一般的な評価は、それが農民の生活苦を詠った社会主義的な作品であるという認識のもとに成り立っている。100年以上も前に生きた俳人、小林一茶(1763〜1828)の句を自由に解釈することで、亀井は、農民の悩みや不安を一茶の言葉を通して表現し、信濃の貧しさや後発性が100年経っても全く改善されていない事実を浮き彫りにしているのだという(佐藤『ドキュメンタリー映画の地平』173〜179、196〜202)。亀井自身、本作品では「一茶を通して、郷土の人々の類型的な心を語ろうとした」と述べている(亀井「[一茶]について」71)。ところが、亀井の発言には、映画的テクストとの内実と食い違う部分がある。作中における一茶は、現代を生きる信濃農民の典型なのではなく、むしろ彼らとは正反対の人生を送った人物として表象されている。一茶は、農民コミュニティーの一員としてではなく、それに馴染めないでいる「他者」として描かれており、信濃の人々は逆に、観客の同胞や仲間として位置づけられている。
 一般的な紀行映画は、電車や船などが目的地に到着するシーンから始まる。カメラが辿り着くロケーション地は、観光の眼差しの対象となり、そこで出会う人々は異質な「他者」として認識される(Pratt 27-50)。ところが、亀井の作品には、このような到着のシーンが不在であり、観客は映画の冒頭部分から既に、これから発見するはずの景色の「なか」にいる。『小林一茶』のオープニングにおいて、カメラは、どこまでも連なる山々の帯と、山の麓に建っている数々民家を映しながら右へパンするが、その際、ナレーションで読み上げられるのは、信濃から静岡に出稼ぎに行き、そこで初めて海を見たという、幼い少女の手紙である(0:1:15)。「お母さん、海はどこまでも平で、目の届く限り水ばかり。なんだか、見ていると怖くなります。」画面に映っている偉大な山脈ではなく、山を超えたところに存在する(らしい)海に感動した少女の言葉を引用することで、亀井は作品の冒頭から、観客の地理的・精神的な所在地を信濃に定めている。その「信濃の住民」たる観客にとって、「他者」として認識されるのは、決して信濃の農民などではなく、人生の大半を旅しながら過ごし、50歳を過ぎたときに初めて信濃に戻ってきた一茶である。
 作中における一茶の疎外感は、一茶の俳句(「これがまあ終のすみかか雪五尺」、「ふるさとやよるもさはるも茨の花」など)や、一茶本人の目線を通して強調される。例えば、一茶の生い立ちが説明されるとき、画面には室内から撮影された信濃の光景が映し出される。このとき、障子の骨組みと、破れた和紙の残りが、逆光のために黒いシルエットとなり、外にある景色を部分的に遮る(図2)。このショットを目にした観客は、視界を遮る邪魔な黒枠がないところへ抜け出したいと欲するだろう。この衝動は、自らの故郷にいながらも、精神的な落ち着きと安定を見出すことができなかった一茶の心情にも似たものである。上記のショットにおいて、カメラの視線は、信濃の貧しき農夫の長男として生まれ、14歳のときに故郷を残し江戸へ旅立った俳人一茶の外向的な視線と重なる。また、若き一茶の江戸への旅立ちが説明される際、画面には家の上がり口で休憩をとっている男性三人の姿が映し出されるが、カメラは彼らがいる空間には入り込まず、家の周りに設置されている木造の囲いの外側から男性たちの団欒の風景を眺め続ける(図3)。小林一茶が信濃の人々に受け入れられなかったように、カメラもまた、男性たちのプライベートな空間に入っていけない。
 そもそも、作中における信濃の農民は、無垢で、粘り強くて、美しい存在として、肯定的に描かれているものの、その描かれ方は同時に、農民の素朴さと浅薄さをも感じさせる。『小林一茶』に登場する農民の身体運動は、至って単調である。農民が行なう種蒔きや畑の耕作、善光寺詣でや排尿、髪の毛のコーミングといった動作は、そのどれもが落下・下降の運動を伴う。土に蒔かれる種、振り下ろされる桑、善光寺の賽銭箱に落ちる小銭、排尿され下へこぼれ落ちる液体、髪の毛を下にスライドする櫛。これらは全部、一つのパターン化された動きの繰り返しであり、農民の生活が、至って単調であることを暗示している。土地を耕しながら生涯を送る人々は、重力に勝てないようである。善光寺詣でのシークェンスでは、お寺の住職が持ち歩く数珠に、少しでも触れたいと願い(善光寺で伝統的に行なわれる「お数珠頂戴」の儀式)、農民たちが一生懸命住職の通り道に近付こうとする。しかし、神聖なる数珠が信者の頭に触れるのは、ほんの一瞬であり、救いはたったの一秒で得られる。農民は、何事においても、分かりやすさを求めている。だからこそ、信濃の人々にとって、地元を遠く離れて俳句の修行を行なった一茶は、不可解な「他者」に思えたのだろう。
 ナレーションの告げる通り、「信濃の農民の血を受け、農民の心を詠って一生を過ごした小林一茶は、実に二万余の俳句を我々に残していった」が、そうした彼の業績は、当の農民に全く評価されなかった。このことは、一茶の子孫である小林弥太郎を取材したシークェンスのなかで明示されている。一茶の四代目の孫にあたる小林弥太郎は、農業を営む傍ら「ささやかな一茶記念館とも言うべき店」を経営している。カメラはまず、店の中でパイプを吸っている子孫の姿(0:25:20)を捉えたあと、棚に飾ってある一茶の肖像画を映し、次に、絵のなかの一茶が手に持つ、パイプのような、黒くて細長い棒(実際、それはパイプではなく、巻物であるが)を映し出す。亀井は、一茶とその子孫の外見的な類似をほのめかした後、それがあくまで表面的なものであることを明らかにする。パイプを口にくわえた子孫の顔のクロースアップが表示され、「俺は一茶さんの子孫だが、俺は俳句は作らないが、米作る」という台詞が流れる。この言葉を一茶の子孫に言わせることで、亀井は、一茶とその他の農民の間に存在する深い溝を浮き彫りにする。一茶の血を受け継いだ子孫の関心が向けられているのは、詩作ではなく稲作である。
 作中において、一茶は自らの俳句を通して農民に語りかけるが、農民は聞く耳と、見る目を持たない。善光寺で必死に祈る女性たちや、一茶の子孫のクロースアップに見られるように、農民たちの眼は、涙で曇っているか、さらに言えばカメラに向けられてさえいない。また、農民たちは作中において、自らの意思を表明することが一度も無く、農民の心を詠うのは、常に「継子一茶」である。一茶の子孫は、「俳句は作らない」と発言しているが、その際、彼はパイプをくわえており、その口元は動いていない。農民(大衆)は、コミュニケーション上の三大障壁である唖・聾・盲目の全てを患っており、彼らを表象しようとする作家(「他者」)とは永遠に交わらない運命にある。作家と大衆が、永遠に交わらない平行線を歩み続けているという事実は、映画のなかで繰り返し登場する直線模様のイメージによっても強調される。
 上述したような、作中における一茶の描写は、もう一人のインテリ作家の受難を連想させる。言うまでもなく、亀井文夫その人である。映画作品の登場人物を監督の分身的存在と見なす議論は、場合によっては安易なものになりかねないが、『小林一茶』における一茶と亀井の親近性はやはり見逃すことができない。亀井と一茶を結びつけるのは、放浪の過去だけではない。一茶が故郷の人々に拒絶されたように、亀井もまた、その左翼的な価値観や、ソビエト留学の経験ゆえに、しばしば偏見と疎外の対象となった。また、一茶の子供たちの余りに早すぎる死に対する作中の言及は、亀井がソ連を発って以降二度と会うことがなかった幼き息子との別れを想起させ、1946年に起きた長男の爆死という恐ろしい事件を予言しているようでもある。『小林一茶』が製作されたのは、『戦う兵隊』が上映禁止になった翌年であり、その時点で亀井は既に、検閲の厳しさも、自らの作品が生き埋めになることの無念さをも充分に思い知っており、自らの心情を一茶が経験した疎外感と容易に重ね合わせることができたのだろう。『北京』や『生きていてよかった』における亀井は、「他者」と観客の間を取り持つ仲介人としてのみ登場しているが、『小林一茶』における彼は、自らの存在を、「他者」として描かれる小林一茶の存在と重ね合わせることで、作品の真の主人公となっている。亀井の最高傑作として知られる『小林一茶』は、従来の研究が指摘してきたような、反政府的な作品である以前に、極度に自己言及的で叙情詩的な映画なのである。

おわりに
 亀井文夫が亡くなったのは1987年2月。彼の絶筆となった論文が雑誌に掲載されたのは、1986年4月のことであった。最後となったこの論文のなかで、亀井は自らの映画人生を総括し、自らの製作スタイルを「代書屋」という言葉で説明している。「誰のために映画を作るか」という項目のなかで、亀井は「発言したくても発言できない人が多いでしょう、そういう、小さな声だが大事な声を代書屋のつもりになって発表したい」と述べている(亀井「代書人を目指す私の映画づくり」96)。死ぬまで共産主義者であり続けた亀井にとって、「運動家」あるいは「代弁者」は、作家のあるべき姿であり、揺ぎない理想であった。だからこそ、亀井は、内心抱いていたはずの、自己表現への意欲を素直に口に出すことができなかったのであろう。本来、作家であれば、他人をひたすら代弁するだけでなく、自らの不安や苦痛や葛藤をも表現したいと思うのは当然であるが、そういった気持を認めることは、亀井にとって、自分は真の作家(=運動家)ではないと公言するのに等しかった。
 しかしながら、本稿が明らかにしてきたように、亀井が作ってきた作品には、自己言及的な姿勢が顕在しており、彼の叙情詩的な作品を支えているのは、まさしく彼の自己表現に対する意欲である。亀井は、ドイツやソ連で台頭した紀行映画を自分なりに再解釈し、そのジャンルが持つ自己表現の可能性を、自作のなかで活かすことができた。そうした亀井の業績は、後世の日本映画における「私的ドキュメンタリー」の伝統のなかで生き続けている。1993年に作られた、原将人の『百代の過客』は、その紛れもない証拠である。監督の原が息子と二人で、松尾芭蕉の『奥の細道』の舞台となった名所を旅するこの映画は、その内容においても、形式においても、亀井の『小林一茶』を想起させる。旅中に撮影された映像は、芭蕉や原自身が詠った俳句の字幕とモンタージュされ、原の俳句がそのまま歌詞となっている映画の主題歌も、原自らによって歌い上げられる。『百代の過客』のなかで、原は「1993年の夏私は芭蕉だった」と発言するなど、芭蕉のキャラクターとの同一化を図りながらも、原自身の問題でしかない、我が子との関係修復にも力を注ぐ。今は亡き先輩作家との架空のダイアローグを通して、極めて個人的な自分探しを行う原将人の『百代の過客』は、『小林一茶』における亀井の実験的な試みなしには、存在し得なかった作品である。


[1] ロバート・フラハティと並んで、「ドキュメンタリーの父」として知られている、ジョン・グリアソンの言葉(Sussex 29)。
[2]ロバート・フラハティーの『アラン島』(1934年)を思わせる、亀井の『荒海に生きる』(1958年)は、漁民の厳しい生活を丹念に描いた作品であるが、映画の中心部分は、漁師たちのクリスマス島付近への長期出漁の様子を物語っており、原水爆禁止日本協議会の支援のもとで作られた『ヒロシマの声』(1959年)は、日本各地から広島を目指して平和行進をする人々を描いている。亀井文夫の戦後の傑作として名高い『人間みな兄弟 ― 部落差別の記録』(1960)も、一つの部落に焦点をあてるのではなくて、実に52もの路地を訪れ、取材しているのだ。1960年を境に、亀井は劇場公開用の本格的なドキュメンタリー映画製作の現場から離れ、自ら立ち上げた日本ドキュメント・フィルムという会社で企業用PR映画の製作を手掛けるようになった。亀井が製作担当した『JAL空の旅シリーズ』作品や伊藤忠商事のPR映画などはやはり、とある地理的ロケーションを訪れ、それを紹介するという内容の作品で、「旅」することを物語の基軸としている。
[3]例えば、黒川みどりは、亀井の『人間みな兄弟』(1960)を分析することで、被差別部落の問題を論じている(黒川73-102)。
[4]では、自らの留学体験を語るとき、亀井はなぜ『幸福の港へ』という作品名だけを挙げ、その製作者であるエロフェエフの名前は明かさなかったのだろうか。これには、第一に、エロフェエフのドイツ滞在が関係している。1930年代に入り、ソ連でスターリンの独裁体制が確立されるにつれ、エロフェエフのように海外での生活体験を持っていた者は、スパイ容疑をかけられるようになった。実際、エロフェエフは1933年から1937年の間、映画製作の仕事を全く与えられなかったのである。1940年にコーカサスでの撮影中に亡くなった後も、エロフェエフの名前はソビエト映画史から忘れられており、戦後の日本にも、エロフェエフに関する情報は全く入ってこなかった。このことから何かを察した亀井は、あえてエロフェエフの名前を伏せたのではないだろうか。同じような政治的な理由から、亀井自身の存在もロシアでは忘却の彼方に追いやられている。1931年の満州事変の直前にソビエトを訪れた日本人に関して当時の関係者は誰も語ろうとせず、亀井のソ連滞在の記録は全く残っていない。筆者は、サンクト・ペテルブルグの国立映画・テレビ大学SPBGUKIT(旧映画技術学校)やレンフィルム撮影所(旧ソフキノ・レニングラード支部)のアーカイヴ、ロシア連邦保安庁FSB(旧ソ連の国家保安委員会KGB)のアーカイヴなど、複数の施設に問い合わせてみたが、亀井のソ連滞在に関する情報は一つも得ることができなかった。
[5]紀行映画というジャンルの台頭が、20世紀の前半においては、ともに全体主義的な後進国であった日・独・ソの三国で特に著しかったことや、この三国が第二次世界大戦を前に同盟の結成を検討していた事実(Молодяков 303-349)は、「旅するドキュメンタリスト」が果たしていた多様な役割を考える上で、注目に値する。ロス、エロフェエフ、そして亀井の三人が、ともに何らかの政治組織と密接な関係にあったことも興味深い。エロフェエフと亀井の略歴は既に述べた通りだが、ロスは第一次世界大戦の頃から諜報活動を行っており、1930年代にはナチス党に入党し、第二次世界大戦の暮れには妻とともに自殺をしている(Baumunk 85-94)。戦前・戦中期における紀行映画製作と諜報活動の両立の可能性は、今後の研究のなかで議論されるべき重要な問題である。

引用文献リスト
加藤幹郎『鏡の迷路 ― 映画分類学序説』(みすず書房、1993年)。
亀井文夫「「信濃風土記」製作の動機」、『文化映画研究』1940年11・12月合併号、672-73。
−−−「ソヴェト映画の印象 座談会」、『ソヴェト映画』1950年2月号、18-22。
−−−「代書人を目指す私の映画づくり」、『社会評論』1986年4月号、83–99。
黒川みどり編『〈眼差される者〉の近代:部落民・都市下層・ハンセン病・エスニシティー』(解放出版社、2007年)。
佐藤真『ドキュメンタリー映画の地平 世界を批評的に受け止めるために(上・下巻)』(凱風社、2001年)。
−−−『ドキュメンタリーの修辞学』(みすず書房、2006年)。
四方田犬彦「総論 あなたに似た人」、黒澤清/四方田犬彦/吉見俊哉/李鳳宇編『日本映画は生きている 第四巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店、2010年)1-37。
Barnouw, Eric. Documentary: A History of the Non-Fiction Film. Oxford: Oxford University Press, 1974.
Pratt, Mary Louise. “Fieldwork in Common Places.” Writing Culture: the Poetics and Politics of Ethnography: a School of American Research advanced seminar. Eds. James Clifford and George E. Marcus. Berkeley: University of California Press, 1986, 27-50.
Roberts, Graham. Forward Soviet! History and Non-fiction Film in the USSR. London: I.B. Tauris Publishers, 1999.
Sussex, Elizabeth. The Rise and Fall of British Documentary: The Story of the Film Movement Founded by John Grierson. Berkley: University of California Press, 1975.
Дерябин А. «Наша психология и их психология – совершенно разные вещи». «Афганистан» Владимира Ерофеева и советский культурфильм двадцатых годов. // Киноведческие записки. 2001. № 54, c. 53-71.
Молодяков В. Несостоявшаяся ось: Берлин-Москва-Токио. М.: Вече, 2004.
Прожико Г.Летописцынашеговремени.М.: Искусство, 1987.
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НИИ киноискусства. Летопись Российского кино, 1863-1929. М.: Материк, 2004.
Baumunk, Bodo-Michael. Colin Ross: ein deutscher Revolutionär und Reisender 1885-1945. Triviale Tropen: exotische Reise – und Abenteuerfilme aus Deutschland, 1919-1939. Redaktion, Jörg Schöning. München: Text + Kritik, 1997, 85-94.
『生きていてよかった』、亀井文夫監督、日本ドキュメントフィルム製作、1956年(DVD、岩波書店、2010年)。
『小林一茶』、亀井文夫監督、東宝製作、1941年、テレビ放映(チャンネルNECO、放映日不明)。
『北京』、亀井文夫構成・編集、東宝製作、1938年、山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー所蔵。
『幸福の港へ』(К счастливой гавани)、ヴラジーミル・エロフェエフ監督、ソフキノ製作、1930年、RGAKFD所蔵、№2744。
『百代の過客』ダイジェスト版、原将人監督、1995年、テレビ放映(読売テレビ、1995年12月10日)。
 
本稿は執筆者が2010年度に京都大学大学院に提出した修士論文の一部を改訂したものである。

 

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