加藤幹郎『映画の領分 — 映像と音響のポイエーシス』(フィルムアート社)


蓮實 重彦

 

「映画学」を説く必読の一冊

 映画などことさら大学で学ぶべきものでもなかろうと思っている人に向かって、『映画の領分—映像と音響のポイエーシス』の著者加藤幹郎は、では、あなたはこの事態をどう説明するかといくつもの問いをつきつける。おそらく、わが国のほとんどの大人はそのどれにもまともな説明を加えることはできまい。だから、映画学が大学に必要なのだと説く著者の姿勢はまったく正当である。
 実際、「溝口健二論の余白に」と題された「視線の集中砲火」の章で詳細に分析されている『残菊物語』の「ただごとでない雰囲気」に「打ちのめされた」記憶のある日本人が、いま、どれほどいることだろう。だが、20世紀の芸術史に燦然と輝くこの傑作を知らずにいることは、夏目漱石を読まずにいること以上に恥ずかしいことだ。その自覚はほとんど共有されていないのだから、映画学は必要だと主張する加藤幹郎は決定的に正しい。
 序章の「映画学とは何か」は、20世紀の「すぐれて文化的な表象ミディア」としての映画が、いかにして「人文社会科学における新しい領域」たりうるかをきわめて説得的に語りきっている。実際、「ヒトラーやローズヴェルトや東条英機は映画をどのように政治に利用しただろうか」(スターリンを加えるべきだろう)と書かれているように、映画に言及することなく20世紀の歴史を語ることなど不可能である。その自覚を促しているだけでも、これは必読の書物といってよい。
 欧米の優れた大学ならどこにもある映画学の講座が日本でもようやく充実し始めており、著者はその充実に大きく貢献している国際的な研究者である。だが、世界的にみれば後発のこの研究領域において加藤幹郎は後追いの研究に自足してはいない。映画が単なる「研究」の対象に陥りがちな諸外国の映画学の感性麻痺にも自覚的な彼は、あえて批評家であり研究者であろうとする。その意味で「風のような女たち」として語られている女優論のアイダ・ルピノをめぐる短文など、ふくよかさにあふれた批評として広く推奨したい。

産経新聞(2002年7月13日)