諸岡俊行訳『グルーチョ・マルクスの好色一代記』(青土社)


加藤 幹郎

 

 本書を読みながらふと思った。映画『我輩はカモである』には英語字幕がふさわしいのでではないかと。グルーチョ・マルクスの早口の地口、絶妙の言葉遊びに追いつく日本語字幕はまずないだろう。畳み込まれる意味の多重秦を短い日本語に置き換えることなどおよそ不可能だし、かといって彼の早口のワードプレイに耳がついてゆくかどうか、いささか心もとない気もする。だから英語字幕があるといい。そうでなければ彼の台詞のおかしさは、その半分も味わえないかもしれないと。
 しかるに本書には、映画字幕のような厳しい字数制限もなければ、きわどい冗談をカットしていた映画製作倫理規定管理局の検閲の目もない。だからここではグルーチョ・マルクスの天才的機知、多産な言葉遊び、皮肉と歓喜が百パーセント開花する。それはまるで柳瀬尚紀版『フィネガンズ・ウェイク』のようだ。グルーチョ・マルクスはジョイスのように早口で、ジョイスのように淫らだ。かれらはともに言葉に淫し、女の子に淫する。
 グルーチョ・マルクスいわく、「さいわい、わたしは一に女の子、二に自分自身のふたつにしか興味がなかった」。「若くて独身だったころ、わたしは夢中で女の子を追いかけた。これはなにも特別なことではない。とくに男の子の場合は、どのみちセックス狂になるのだから」。とりわけあとの方はジョイスの言葉だとしても何の不思議もない。
マルクス兄弟が楓爽と銀幕に登場したのは、映画が音声をもってまだ間もない一九二九年だ。以来、かれらの偶像破壊の笑いは世界を席巻し、かれらの功績は、書き直されつづける映画史においてもいまなお輝いている。
 かれらが笑いのめす対象は、すべての社会的偶像だったから、本書では、かつての名誉劇役者グルーチョ・マルクス本人も、当然のようにみずから笑いの対象と化す。他者にも自分にも向けられた笑いの刃で、グルーチョは自分の生きた世界の澱をそぎおとす。これは痛烈な皮肉と幸福な笑いに満ちた、好色なおとなのための人生指南書だ。

『翻訳の世界』(1994年4月号)