7 CineMagaziNet! no.15 植田 真由「金沢こども映画教室レポート」

『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』は21世紀型娯楽映画の先駆けとなるか

木本 早耶

 『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(2011)は、世界が愛するベルギーの漫画を、スピルバーグもまたその愛を惜しむことなく注ぎ、最新の映像技術で映画化した、全編CGの作品である。溺愛具合はそのまま、映画に費やされた手間暇と費用、原作の参照度合い、ひいては作品の密度にも反映されており、とんでもない仕掛けがふんだんにほどこされたドミノ倒しを90分間眺め続けるような、きらびやかな作品であった。
 エルジェによる原作『タンタンの冒険旅行』シリーズは、80ヶ国で翻訳されているバンド・デシネである。それをスピルバーグが自身初の3D映画として製作した。この事実だけでも、本作がいかに人を楽しませるのかと期待できるというものである。スピルバーグもまたこの原作に、大人になってからではあるが親しんでおり、映画化の構想には30年も費やしたという。いずれは「今世紀の『ジュラシック・パーク』(1993)シリーズ」のような連作ものにしたいと述べ、長期スケールでの大仕事と考えているようだ。
 全編CGの本作において唯一オープニングシークエンスのみは原作のタッチに忠実なアニメーションであるが、そこからさっそく、監督がいかほどの意気込みを持っているかが見てとれる。そこでは絵本から飛び出てきたような描写のタンタンとスノーウィがアクロバティックな動きをこれでもかと見せてくれる。そしてアニメーション部分最後にタンタンの顔がクロースアップで描かれ、本編冒頭部分のタンタンの「似顔絵」とうまく重なり、見事ななめらかさでアニメーションからCGへと手法が移って、本編が始まる。我々はその世界観に一気に引き込まれるだろう。冒頭部のみではあるが原作に忠実なアニメーション部分を律儀に用いたこと、そして本編のあらすじと関係がないにもかかわらず並々ならぬ完成度のオープニングを用意した監督にはおどろくが、真におどろくべきなのは、それが、いやそれ以上の映像が、以後90分強続くことなのである。
 そもそも原作漫画からして、作中には余すところなくお楽しみが詰めこまれていた。タンタンはしゃれたユーモアを忘れないし、ハドック船長は口を開けばダジャレを発し、刑事のデュポンとデュボンの動きは常に滑稽である。犬のスノーウィはただかわいいだけでなく、冒険のカギとなるお手柄を立てたり、時にはドジをやらかしたりする。タンタンの冒険はわれわれの心を刺激するようなちょっとした仕掛けがいっぱいなのである。
 つまり、原作とそれにほれ込んだ監督との相乗効果によって、本作は濃厚な魅力をたたえているわけだが、なによりも作品の密度を高めているのは、最新の映像技術だ。
 タンタンを始めとする登場人物たちは、陸・空・海とさまざまなトポスで冒険を繰り広げる(本作では原作漫画3冊相当の物語が言及される)。たとえばタンタンと船長が旅する砂漠と、船長の回想の舞台である大荒れの海原とが重なる描写がある。少なくとも実写作品ではなんらかのかたちでカットとカットの編集がなされるところが、驚くべきCG技術でつなげられている。すなわち、文字どおり地平線の向こうから波が浸食し、あっという間に砂漠が海洋となる。そういったトポスを背にし、登場人物たちもまた目に新しい身体運動を繰り返す。タンタンが図書館で本を読むだけといった静的な場面では、図書館の灯り、窓の外の大気、そしてカメラがタンタンのかわりに、ゆらゆらと継続的に動き、目を引きつけて離さない。従来の作品では許されていた観客のひと呼吸をおあずけにすることを、高度なCG技術が可能にしているのだ。
 このことは同時に、観客が情報を整理したり、感情を分類したりすることができないことも意味する。監督自身が言及した『ジュラシック・パーク』と本作が異なるのはまさにその点であろう。
 かつて劇場でわれわれが『ジュラシック・パーク』をみたときに感じたような、圧倒的なスペクタクルに酔いしれる機会は、本作ではあまりに少ない。作中人物が自分たちの目にした光景に強く心動かされる描写も本作においてはなかった。例えば『ジュラシック・パーク』に、ローラ・ダーン演じる恐竜博士が、はじめて本物の生きた草食恐竜を目にして感動し、しばし立ち尽くすという描写がある。呆然となるのは観客も同じことで、図鑑でしか見知ったことのない恐竜が、実在するトポスと俳優とみごとに共存しているのを見るのは、たとえ恐竜が目立ったアクション(空を自在に飛ぶ、人間を噛み殺すなど)をとっていなくとも、うっとりする体験であった。このような人物の感情の高ぶりが本作では言及されていないが、かわりに何が追及されていたかと言えば、話は冒頭に戻る。つまり、ドミノ倒しのように絶え間なくアクションを配置することである。
 さらに言えば、原作漫画と映画化された本作との性格の差も、まさにこの点に表れている。すなわち、漫画でも映画でもタンタンの冒険は、その1コマ1コマが動きに満ちており、1秒1秒が全て新しい情報に満ちているという点は共通だが、われわれがそれをいかに享受するかという点が異なるのだ。漫画なら、1コマにどれほどの情報が詰め込まれていようとも、しかとその情報を消化して次の物語の進行へと頭が進むまで、いつまでもコマを眺めることが許されている。
 例えば、日本のホラー漫画家・楳図かずおの『洗礼』の濃度を思い出してみよう。そこでは、常に誰かが絶叫し、血がほとばしり、背景が歪み、台詞の一字一句が強調され、1コマがとんでもない濃度であったことを。しかし我々は、1コマの隅から隅まで、恐怖におののく美少女の黒髪の一本から、あけっぴろげに描かれる脳みそのシワまで、心行くまで眼で確認してからページをめくれはしなかったか。膨大な情報を与えられても、自分で時間を管理して物語をすすめる自由があった。タンタンのバンド・デシネにおいても、目まぐるしく与えられる冒険の手がかりやハドック船長の古典的なダジャレに、都度消化する時間が与えられていたはずである。
 しかし、本作ではどうであっただろうか。素晴らしい最新の技術や原作への有り余る愛情からくるオマージュは、確かに我々を飽きさせることはない。だが、タンタンが事件の手がかりをやっとつかんだ時も、スノーウィが愛しいご主人さま(タンタン)とドラマティックに再開した時も、次の瞬間にはスクリーンには新しい出来事が描かれていた。タンタンたちの気持ちはいつも次の行動に向かっていてなかなか描写される契機をもたないし、仮にタンタンたちが感情を揺さぶられていようとも、それを感じ取り深く共感するだけのゆとりが、我々になかったのである(観客と登場人物を瞬時に同一化させるような強力な感情も本作では描かれていなかった)。
 このように、本作はいささか観客の情報処理能力を上回るスピードで物語が展開し続ける冒険譚である。なにしろ、連射されるハドック船長のギャグ(「びっくりフジツボ」など、原作で発明された名作ギャグには最大限の敬意が払われており、本作でもふんだんに用いられている)にうっかりいちいち笑っていては、もう物語は文字通り次の舞台、つまり時間的にも空間的にもずっと遠いところへ移ってしまうのだから。ただしこの過剰なまでの盛り込み様は、全てスピルバーグが、愛するタンタンと観客のためにと、サーヴィス精神を尽くした結果なのである。
 素材となる原作の面白さと、CG技術の進化、そしてただならぬ監督の愛によって、本作では情報が90分止まないスコールのように降り続けることが可能になったわけだが、その雨を爽快だと感じる人もいるだろう。出来事の連続に面食らう人もいるだろう。両者の差は、物語の進行に欠かせない情報だけでなく、登場人物にまつわるちょっとした感情やギャグを、等身大のものとして咀嚼する時間的余裕がなくても映画を娯楽として楽しめるかどうか、というところではないか。今後シリーズが続くのだとすれば、それらは前者にとってだけの娯楽となるのだろうか。それとも後者にもやがてこの種の映画を楽しむ術が身につき、みんなの娯楽となるのだろうか。そうなったとき、本作は本当の意味で新しい娯楽の先駆けとなる。