京都現代劇映画における都市表象
1990年代以降の京都映画テクストにおける水の主題


須川 まり


1.はじめに —同時代の京都を描く京都現代劇映画について—
1-1. 京都映画研究における現代劇映画の位置づけ
 京都映画と言えば、時代劇映画を想像する人が多いはずである。確かに京都は映画史初期から時代劇映画の製作の中心地であった。しかし、京都では現代劇映画(以下、京都現代劇映画)も撮影されてきた。その中には溝口健二の『祇園の姉妹』(1936年)、吉村公三郎と新藤兼人の『偽れる盛装』(1951年)など日本映画史上の傑作もある。もっとも、これらの作品は、京都映画としてではなく、一作家の映画として分析されることが多い。京都では圧倒的に時代劇映画の製作本数が多いため、京都映画の研究書では時代劇映画が考察の中心を占め、現代劇映画は特殊な存在に留まっている。
 主要な京都映画研究書として、『京都映画図絵 ― 日本映画は京都から始まった』(鴇ほか編)と『映画ロマン紀行 ― 京都シネマップ』(中島編)が挙げられる。両書は、主要な京都映画を分析するだけでなく、映画史初期からスタジオシステムがまだ機能していた1960年代までの京都映画産業史を論じている。京都映画産業は撮影所での時代劇映画製作を重宝していたため、研究者がスタジオシステム崩壊後の1970年に増加した現代劇映画に注目する機会は非常に少なかった。『京都映画図絵 ― 日本映画は京都から始まった』には、後ほど本稿でテクスト分析する『お引越し』(1993年)などの現代劇映画への言及も見られるが、全体として議論の中心を占めているのはやはり時代劇映画である。さらに、上掲の研究書を含め、ほとんどの京都映画研究書は1990年代後半までに出版されたため、ここ20年間の京都映画については充分に議論されていない。そのため、スタジオシステムが機能していない1990年代以降の京都映画は、完全に研究対象から外れている 。
 そもそも、なぜ京都では現代劇映画の製作本数が圧倒的に少ないのだろうか。映画史初期から京都が時代劇映画を発展させてきたのに対し、東京は現代劇映画を発展させてきた。この棲み分けは、1912年に京都と東京の映画会社が組んだトラスト、日活の影響が大きい。トラスト以前から京都では牧野省三が時代劇映画をいくつも製作し人気を得ていたことから、日活は京都と東京で製作するジャンルを分けることを決め、これまで通り、京都で時代劇映画を、東京で現代劇映画を中心に製作する方針を掲げた。以降、京都ではスタジオシステムが機能する1960年代まで、時代劇映画を発展させ続けることになる。こういった歴史的背景があるため、京都映画研究では主に京都映画を象徴する時代劇映画を論じてきたのである。
 現代劇映画は、時代劇映画のように明確なジャンルを構成していないため、体系的な考察が困難な領域である。時代劇映画と比べて製作本数も圧倒的に少なく、またジャンルとしても曖昧な現代劇映画が、京都映画研究において見過ごされるのは仕方ないのかもしれない。とはいえ一方で、現代劇映画にはロケーション撮影が時代劇映画より多い分、京都の街並みを瑞々しく表象した作品も多い。
 第二次世界大戦後、時代劇映画の製作が制限されたこと[1]をきっかけに京都でも現代劇映画の製作本数は増加した。しかし、1951年にその制限が撤廃され、さらに黒澤明の『羅生門』(1950年)がヴェネチア映画祭グランプリを受賞したことで、再び大手映画会社は時代劇映画志向に戻ってしまった。結局、京都の現代劇映画は京都映画において特殊な存在であることに変わりなかった。スタジオシステム崩壊後、独立系映画会社が増えたことで、溝口や吉村以外の独立系映画作家たちも京都を描くようになった。それらの作品は、各作家の個人的な視点から描かれ、これまでのスタジオシステムが機能していた京都映画とは異なる都市表象になった。もちろん、明治以前の侍の世界を描く時代劇映画と同時代の京都を描く現代劇映画に大きな違いがあるのは当然である。しかし、1960年代以前の京都映画を占めた時代劇映画の研究は進んでいる一方で、1970年代以降、映画産業の体制の変化と共に増加した京都の現代劇映画の研究はほとんど手つかずの状態であり、その表象の特徴についても充分に議論されていない。多くの京都映画研究書において、京都映画史が1960年代で終焉したと捉えられる傾向にあるのは、このように1970年代以降の京都の現代劇映画の研究が進んでいないためだと推測できる。そこで、京都の現代劇映画独特の表象を取り上げ、京都映画の新たな側面を探ってみたいと思う。本稿では、京都現代劇映画研究の一歩として、特に議論が不十分な1990年代以降の京都現代劇映画の表象について考察する。

1-2. 京都現代劇映画とは何か
 本稿では、1990年代以降の京都で製作された現代劇映画、「京都現代劇映画」を扱うが、先に「京都映画」とその下位区分である「京都現代劇映画」の定義を明確にしておきたい。
 本稿で「京都映画」という場合、それは京都で製作された商業映画全般を指す。時代劇であるか、現代劇であるかは問わない。ただし、「商業映画」であるため、京都の学生が製作した自主製作映画など、大衆性や商業性を全く意識していない映画はここに含まれない。
 では、「京都現代劇映画」とはどのような映画を指すのか。まず、時代劇映画と現代劇映画の違いは、大まかに言うと時代背景である。一般的に、時代劇は、明治維新以前の髪型がちょんまげの時代を描いた作品を指し、現代劇は明治維新後の近代的文化を描いた作品を指す。[2]この定義のもとで明治以降の世界を描いた作品を現代劇映画とする。そして、「京都現代劇映画」という言葉の由来だが、本稿では「京都時代劇映画」という言葉を用いた、鴇明浩と太田米男による考察を参考にした。鴇の「京都時代劇映画撮影史」では、撮影所の美術スタッフがいかに京都の地場産業を支えてきたか論じており、京都の地場産業が支えてきた撮影所やロケ地で製作された時代劇映画を「京都時代劇映画」と称している。一方、太田の「京都時代劇映画 技術の継承」でも同様に、京都の地場産業が京都の時代劇映画の美術を支えてきたことに触れており、そのような環境に恵まれた京都の撮影所で生まれた時代劇映画を京都時代劇映画として扱っている。両者は、明確に「京都時代劇映画」の定義を示していないが、いずれも京都の撮影所と京都の地場産業との関係がいかに密接であるかを論じており、ロケーション撮影も含め京都の撮影所を通して製作された映画を「京都時代劇映画」と捉えていると推測した。本稿では両者の考察を参考にして、商業目的で京都のロケ地や撮影所で製作された現代劇映画を「京都現代劇映画」と定義する。ただし、この定義では、京都を舞台にしていない作品も含むため、本稿では京都を舞台にした現代劇映画に限定する。それは、京都映画研究書である『京都映画図絵― 日本映画は京都から始まった』(鴇)、『映画ロマン紀行 ― 京都シネマップ』(中島)、「『日本映画と京都(別冊太陽シリーズ)』(太田米男)において、京都の現代劇映画を「京都を舞台にした作品」というテーマの中で取り上げているからである。

1-3. 映画都市としての京都
 京都現代劇映画の表象において、特に都市表象に注目したい。京都は古都と呼ばれるように、神社仏閣、花柳界、着物など伝統的建造物や工芸品を多く所有している。京都現代劇映画はシンボリックな建物や工芸品を使いながら、京都独特の文化を描くことが多い。吉村の『偽れる盛装』(1951年)の舞台、宮川町が現在も「ほとんど変わらぬ姿のままのこっているところが、スクラップ・アンド・ビルドを都是とする東京都と古都京都と大きな相違点である」(加藤『映画の領分』103)と記されているように、京都という都市を構成する建造物や名所はあまり変化せず、現在まで維持されてきた。そのため、作家の垣根を越えて、京都現代劇映画という枠組みで論じるにあたり、作中に登場する都市のシンボルは応用しやすい。考察に入る前に、京都映画と都市との関係性を少しおさえておこう。
 都市映画『ブレードランナー』(リドリー・スコット、1982/92年)を作品分析した加藤幹郎の『「ブレードランナー」論序説 ― 映画学特別講義』)から都市映画史を言及している箇所を引用する。「映画史は元来、手放しの都市礼讃からはじまったことも事実である。」「世界主要都市で撮影される二〇世紀劈頭の一連のパノラマ映画やファントム映画が示すように、シネマ/フィルムはつねに都市の躍動を取り込んできた。」(42)20世紀初期、京都も1911年に、「汽車活動館」なる名称のもと、風景明媚な保津渓をわたる二条駅から亀岡間の沿線風景をとらえたファントム・ライド映画が弁士の説明つきで上映された。(加藤『映画館と観客の文化史』183)京都現代劇映画における列車の表象は別の機会で論じたいが、京都も映画都市史の初期から参加していたのだ。その後、「活況を呈する大都市と歩調を合わせるように映画史もまた一九二〇年代、多様化し、トーキー期到来直前に、「アヴァンギャルド都市映画」とでも呼ぶべき誠に横断的な実験映画が世界流行を見せた。それはリュミエール兄弟からアルベール・カーンにいたる世界都市カタログから完全に訣別し、むしろ都市の映画的構築に映画の真髄を見いだそうとした。」「アヴァンギャルド都市映画が大都市を自在に切り刻んでいたこの時期、大都市もまたみずからの空間を大胆に切り刻んでいた。」「二〇年代、都市と映画は相互嵌入し、」「一九四〇年代から今日までフィルム・ノワールがそこで撮影され」てきた。((加藤『「ブレードランナー」論序説』42-43)
 都市映画は経済発展と共に大きく変貌していった大都市を描いてきた。京都が映画都市でありながら、都市表象を分析される機会が極端に少ないのは、近代化した明治以降、他の都市と比べて都市構造の変化が小さいからだと考えられる。先ほど引用したように、「スクラップ・アンド・ビルドを都是とする東京都と古都京都と大きな相違点」(加藤『映画の領分』103)」があり、京都をスクラップ・アンド・ビルドする都市として描くことは不可能だった。それゆえ、京都現代劇映画は東京とは異なる都市表象を確立させていくのである。
 これまでに京都映画と都市との関係性について論じられてこなかった訳ではない。加藤幹郎は『映画館と観客の文化史』(253-278)において、戦後10年間の映画都市京都を取り巻く環境について論じている。「敗戦混乱期を脱した一九四七年から戦後経済の拡張期に入ろうとする五六年まで…略…この時期、京都市は地元に松竹、大映、東映(東横)など世界に名だたる大手映画撮影所を擁し、最盛期には五〇館以上もの映画館が活況を呈する巨大映画都市だった」(加藤 255)と述べられているように、1960年以前まで京都の映画産業には勢いがあった。その社会的背景として、加藤は「館内設備一般の変化、上映形態と広告宣伝の工夫および言説の再編を中心に考察し、それにともなって都市住人が映画をどのように享受したかを分析」(261)している。上記の広告や記事は地元紙『京都新聞』から引用され、『京都新聞』と京都の映画撮影所との深い関係性が示唆されている。本稿において、特に注目すべき観点は、「一九五四年の夏から五六年秋までの約二年間『京都新聞』に不定期ながら(すくなくとも週一回ほどの割合で)掲載された「きょうのロケ」と題された小欄の存在である」(274-275)。加藤によると小欄には、「撮影中の映画の魅力的な題名とともに、その映画のロケの日時と場所が明記され」(275)ていた。この小欄を通して、地元紙の読者である京都市の定住者たちはみずからの映画都市性を再発見したのである。先ほど、都市と大衆は切っても切り離せない関係だと述べたが、京都は撮影所での映画製作、映画館での快適な上映環境、地元紙による映画情報の提供、そして情報を頼りに映画を消費する京都人の存在によって「生産と消費の文化的サイクル」を成している。加藤は、「住人が都市への帰属意識を高めるのは、こうした生産と消費の文化的サイクルが一巡するときである」(274)と指摘しており、京都が戦後10年間映画都市として機能していたことが本書から確認することができる。
 戦後、京都は映画都市としてさらに発展するだけではなく、都市構造にも変化が生じた。京都市の公式サイトより引用すると、近代までの御池通は、平安京造営以来の三条坊門小路という道幅の狭い小路だったが、1945年に御池通の鴨川西岸から堀川通までの民家に対して、空襲からの類焼防止策のため疎開が実施された。そして、1947年に幅員50メートルの都市計画道路として活用することが定められ、事業の完了以降、京都の市内幹線道路として機能し、沿道には業務系の高層の建築などが建ち並んだ。さらに、昭和30年代には、祇園祭の見物客増加に伴い、山鉾巡行ルートが広幅員の御池通に変更され、祇園祭・時代祭の巡行ルートとなった。
 京都現代劇映画は1930年代に溝口健二によって基盤を築き、戦後、映画産業と都市の変化と共にその変遷を描く機会が増え、大きく発展してくことになる。つまり、本稿で京都現代劇映画が描く都市を分析することは、映画都市としての京都を改めて認識することと同時に、現代の京都という都市と映画の関係性を明らかにすることを意味する。そのため、本稿では、京都現代劇映画の都市表象に着目する。これまで何度も言及しているが、現代劇映画にはロケーション撮影が多く、同時代の京都を意識的にも無意識的にもキャメラにおさめており、都市と京都映画の関係性を論じる上で最適な研究対象である。
 『京都映画図絵― 日本映画は京都から始まった』(鴇)では、「京おんな」というテーマで溝口や吉村の作品を取り上げて、京都という都市を「女性の街」として特徴づけている。そのほか、西陣、花街、寺社、幕末の京都、平安京、青春群像を京都映画の象徴に挙げている。幕末の京都と平安京の項目では時代劇映画が分析されているが、その他の項目では現代劇映画を取り上げている。しかし、本書では時代劇映画と現代劇映画は明確に区別されておらず、また、それらの表象の歴史的変遷については詳細に述べられていない。本稿では、時代劇映画と現代劇映画にはっきりと分類した上で、1990年代以降の京都の現代劇映画における都市表象とその変遷を論じる。

2. 京都現代劇映画が描く京都の象徴について
 具体的な作品分析に入る前に、京都の風土や京都人についてまとめた『町人文化百科論集第6巻 京のくらし』の「関東関西の風俗習慣」で江馬務が京都の特徴を述べた箇所を取り上げたい。江馬は『南総里見八犬伝』の著者である曲亭馬琴の『羈旅饅録』(1802年)から、1719年に京都を視察し江戸上方の人情風俗と比較した箇所を引用し、京都の特徴を論じている。曲亭は京都について「人物柔和にして路をゆくもの争論せず、家にあるもの人罵らず、上図の風俗事々物々自然に備わる。京によきもの三つ、女子、加茂川の水、寺社、あしきもの三つ、人気の吝嗇[けち]、料理、船便」(江間 58)と述べている。江馬は、この曲亭の言葉を用いて、京のよきものを「女、水、寺」(58)にまとめている。本稿では、この中で挙げられている「水」を中心に考察する。
 1930年代から同時代の京都をリアリズムの視点から表象した作品は存在する。それらの作品は京都の象徴として、五花街の花柳界と着物・帯の生産地として有名な西陣を取り上げ、曲亭が指摘した「女子」を中心とした世界を描いている。特に、溝口健二、吉村公三郎と新藤兼人は、女性の街としての京都を描き、京都現代劇映画の発展に大きく貢献した。男性を主人公にすることが多かった黒澤明も、京都大学を舞台にした『わが青春に悔なし』(1946年)では、女性を主人公にしており、京都は女性の街であるという認識が当時の映画界に浸透していたようだ。
 しかし、1960年以降、その表象に大きな変化が現れる。1960年をピークに大手映画会社が衰退しスタジオシステムが崩壊し、京都の撮影所のスタッフと共に京都をとことん描く製作スタイルも失われため、一方で独立プロ作品が増加し、映画作家独自の京都のイメージが作品に反映されるようになった。さらに表象の対象だった花街や西陣にも変化が生じたのもこの時期である。1957年に京都現代劇映画のパイオニアでもある溝口が亡くなり、翌年の1958年には、売春防止法により、花街も縮小化を迫られた。また、西陣も手織職人不足から郊外に生産を委託し始め、これまで京都現代劇映画が描いてきた京都の象徴が失われつつあった。
 スタジオシステムの崩壊をきっかけに、京都でもスタジオでの撮影ではなくロケーション撮影が優勢となる。東映の中島貞夫の『893愚連隊』(1966年)はその移行期の象徴である。それまで時代劇映画を大量製作していた東映も任侠映画に移行し、『893愚連隊』は東映京都初の現代劇映画と呼ばれている。本作では活気のある愚連隊の男性たちが、京都の繁華街、四条を走りまわっている姿が描かれている。以降、京都の象徴は、観光地としての古都京都と『893愚連隊』のような若者の街に変わった[3]。そして1990年代になり、京都現代劇映画の新たな象徴として「水の街、京都」が本格的に加わることになる。「水」もまた、曲亭と江間の挙げる京都の特徴であった。その礎を築いたのが、相米慎二の『お引越し』(1993年)である。『お引越し』で扱われた水の主題は、2000年以降の京都現代劇映画にたびたび登場するようになる。京都映画における水の表象が、京都映画の新たな象徴であることは、従来の京都映画研究では指摘されていない。
 本稿では、1990年代以降の京都現代劇映画を取り上げ、スタジオシステムの崩壊以後の京都映画における都市表象を考察する。1990年代以降の京都映画の代表として、『お引越し』は京都映画研究書でも取り上げられているが、本作を京都の都市表象という観点のみからテクスト分析した論文は見当たらない。『お引越し』は、水の街、京都の地理的特性を吟味した上で、それを物語展開と連動させることに成功している。それはどこの川でも可能な描写ではなく、京都に流れる川でなければ達成できない描写である。本稿では、1990年代以降の京都現代劇映画における水の表象の分析を通じて、「水」の主題が京都映画の都市表象の重要な特徴であることを明らかにする。具体的には主に『お引越し』を作品分析し、『パッチギ!』(2005年)と『マザーウォーター』(2010年)が『お引越し』から引き継いだ要素を論じる。

3. 『お引越し』における水の表象 —水の街、京都—
3-1. 京都現代劇映画と鴨川
 相米慎二監督の『お引越し』(1993年)は、子供の視点から京都の日常生活をリアリスティックに描いた作品である。『お引越し』には、京都の象徴である鴨川が頻繁に登場する。
 鴨川は、溝口健二の『祇園の姉妹』(1937年)の頃から、京都現代劇映画ではエスタブリッシング・ショットでしばしば利用されていた。吉村公三郎の『偽れる盛装』(1951年)でも使われており、新藤兼人の『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』(1975年)では、冒頭で溝口を京都の映画作家であると紹介するシークェンスに、鴨川のショットが挿入されている。大森一樹の『ヒポクラテスたち』(1980年)では、冒頭で鴨川に架けられた荒神橋を渡る主人公の姿が映される。もちろん、荒神橋の下には鴨川が流れている。荒神橋は、本作の物語の舞台のモデルになった京都府立医科大学の南東にあり、大学から最も近い橋である。荒神橋は京都の学生に縁があり、『ヒポクラテスたち』が製作される10年ほど前には、学生運動に参加している京都大学、同志社大学の学生たちが行き来していた橋でもある。京都の橋は、歴史的背景を持つものも多く、各時代を象徴する建造物として時代劇映画にもしばしば登場する。このように京都映画では川と橋はしばしば対になっているが、なかでも両者を特に効果的に組み合わせたのが『お引越し』である。
 鴨川は、デートスポットとしても有名である。例えば新藤兼人の『愛妻物語』(1951年)には新藤夫婦が鴨川でくつろぐシークェンスがあり、また『ヒポクラテスたち』にも学生カップルが鴨川を散歩するシークェンスがある。同様のシーンは2000年以降の京都現代劇映画にも頻出する。京都現代劇映画では、鴨川をエスタブリッシング・ショット以外に、憩いの場所としても使用しているのである。
3-2. 『お引越し』における鴨川の表象
 映画評論家の北川れい子が「「ションベン・ライダー」、「台風クラブ」などで輝いていた少女と水の世界に相米監督が再び戻ってきた」(13)と述べているように、『お引越し』の主題は水と少女である。少女の表象については、すでに『京都映画図絵』(33)で「『お引越し』の映像、ドラマは京都に服従しない。京都という、固定化されたイメージ(路地、社寺)は拒絶され、少女から女への成長をとげるという面の強いドラマの波動が、京都の細部をドラマに服従させていると言っていいだろう」と指摘されている。そのほかの評論では「家族像」や相米独特のキャメラワークや演出[4]については論じられているが、「水の表象」のみに着目したものは見受けられなかった。そこで本稿では、鴨川やそれに架かる橋、雨、琵琶湖など水に関連した表象から、『お引越し』における京都の都市表象を分析する。
 『お引越し』では、エスタブリッシング・ショットやデートのシークェンスに鴨川を用いず、鴨川の地理的特性と映画内物語をうまく融合させている。その点が、これまでの京都現代劇映画と異なる、鴨川の表象である。
 もう少し具体的に『お引越し』(1993年)における鴨川の表象を見ていこう。『お引越し』は、小学6年生の女の子レンコが、別居が決まった両親の仲をとりもとうと奮闘する物語である。映画の冒頭で、父が別居する前日、三角形のテーブルで食事する親子の姿がある。レンコは、なんとか、二人の仲を取り戻そうと明るく振る舞うが、現状は変わらない。翌日、小学校から飛び出したレンコは父のもとに向かう。父のところまでレンコは走って向かうのだが、その経路が京都人には違和感を覚えさせる。このことについては、『夢の分け前 ― 映画とマルチメディア』(加藤幹郎192-194)で指摘されている。「ヒロインが赤いレンガ造りの京都文化博物館(ここには唯一のフィルム・アーカイヴがある)の角(高倉三条)を西に折れると、[5]つぎに鴨川に架かる(賀茂大橋)のうえを疾走しているショットにつながる。しかるに、この空間編集は現実の地理感覚からすればちょっと無理なところがある。この橋は文化博物館の北東に位置するし、博物館からこの橋まではいくら小学生の体力でも全力疾走できる距離ではない。」(193)もう少し具体的にそのルートを確認していこう。
 四条河原町(御幸町通仏光寺)の小学校(旧開智小学校、現在京都市学校歴史博物館)を飛び出したレンコは三条通りを東に向かって走り、京都文化博物館がある三条高倉角を北に曲がる。次のショットでは、高野川が合流する下鴨神社南の賀茂大橋(今出川通りに架かる橋)を西に向かって渡る。賀茂大橋は賀茂川と高野川が合流する場所である。合流前の東側の川を賀茂川と呼び、合流した後の下流の川を鴨川と呼ぶが、賀茂大橋はちょうど名称が変わる境界点にある。ゴール地点は北山通り北の高野川沿いで、三条高倉からだと北西に進まなければならない。しかし、小学校から北西にある京都文化博物館に向かい、さらに三つ目のショットの賀茂大橋は、三条高倉(京都文化博物館)の北東にあるため、レンコはわざわざ遠回りをしていることになる。この奇妙な経路から、遠回りをさせてでも、賀茂大橋を登場させた監督の意図が感じられる。加藤が「京都の現実の空間の断片のひとつひとつが映画的統一体へと組み込まれていくさま」(『夢の分け前 ― 映画とマルチメディア』193)の一例としてこの奇妙な遠回りを指摘しているように、『お引越し』では相米独特の京都が再構成されている。この奇妙なルートについて「京都の地理事情に暗い者は、ここでこのまま「レンコの世界」に入っていくし、明るい者もまた、その映画の虚構性に心地よく騙されつつ「レンコの京都」に招かれていく」(『京都映画図絵』33)とある。違和感を覚えさせる経路は、相米独特の京都(滋賀を含む)の虚構空間へ誘うためのステップとなり、途中祇園祭や送り火などの日常にある神秘的な光景を提示しながら、ラストで琵琶湖の完全な虚構世界へ引き込むのである。また、この奇妙な経路は、虚構世界への扉としての機能を果たすだけではなく、観客に橋を印象づけ、橋が重要な要素であることも強調している。以降、橋は、母と父の距離感を示すことになる。
 そして、ゴール地点の高野川で父をみつけたレンコは、父とじゃれあう。この時点では、レンコにとって高野川や鴨川は、これまでの京都現代劇映画同様に、憩いの場所になっている。しかし、鴨川は、物語が進むにつれて、レンコにとっての憩いの場所ではなくなっていく。
 その後、父の引っ越しが完了し、父の引っ越し先から母とレンコはトラックの荷台に乗り、橋を渡って帰宅する。このシークェンスは以下に説明するように、母と父の距離が離れてしまったことを如実に示している。
 母はこのシークェンスの始めから荷台に乗っているが、レンコは橋を渡る寸前まで走ってトラックを追いかけ、橋の起点に差し掛かったところで荷台に飛び乗る。このトラックの荷台のシークェンスでは、父と母の距離が離れたことをよく表している。始めからトラックの荷台に乗って楽々と橋を渡る母に対し、レンコは全速力で母のトラックを追いかける。母にとって、父と離れることはすでに決めていた嬉しい出来事だが、レンコはトラックの追いかけっこと同様に、その現実にまだ気持ちが追いつかず、ただがむしゃらに母についていくしかない。父が橋の西側、母が東側に住むことになり、一家が物理的にも精神的にも分散したことを、このシークェンスは示している。レンコが学校を飛び出した冒頭のシークェンスでは、橋の東側から西側に渡ったのに対し、今回は西側から東側に渡っている。レンコは、東側の母と西側の父の仲をとりもつために、ある時は父側につき、別の時には母側につくために、一生懸命に東西を何度も行き来しているのである。かくして本作では、鴨川(賀茂川)あるいは高野川が流れる橋が、単なる京都の象徴から、父と母の距離を示す媒体に転換されている。
 ある日、レンコが学校から帰宅すると、ちょうど自分が高野川の土手(実際のロケ地は賀茂川)で父とじゃれたように、母が部下とじゃれ合っていた。その姿を見たレンコは複雑な心境になる。次のショットでレンコはシャワーを浴びる。以後、水は不安を表し、気持ちが不安定な時に登場するようになる。シャワーから出た後、母に「2人のための契約書」という家のルールを読まされたレンコは、気分転換に鴨川に向かう。鴨川に着いたレンコの後ろには、将来夫婦になるかもしれないカップルたちが、皮肉にも鴨川の岸に連なって座っている。デートスポットである鴨川では、この光景は日常茶飯事であり、レンコもまた父と遊んだ憩いの場所である。レンコは、そんなカップルを尻目に、悪態をつきながら小石を鴨川に投げてストレスを発散させる。母もまた、父とレンコが電話する間、シャワーを頭から浴びる。シャワーは雨を連想させる。雨や霧の表象は、古典的ハリウッド映画のジャンルであるフィルム・ノワール(暗黒映画)[6]にも登場する。暗黒未来都市を描いたリドリー・スコット監督の『ブレードランナー』(1982/92年)はフィルム・ノワールであり、本作を作品分析した『『ブレードランナー』論序説』(加藤幹郎)でフィルム・ノワールの都市表象について言及されている。本書から水に関連した考察を一部引用すると、「フィルム・ノワールの冒頭ではしばしば雨が路面を濡らしている。雨に濡れた夜の舗道がネオンやヘッドライトの光を反射し、闇にうごめく人間の愚行を照らしだしている。明滅するネオン、渦巻くヘッドライト、小糠雨、斑霧や水蒸気、そうした一連の映像要素が全体としてフィルム・ノワールの光と闇の「導入トポス」を構成する。」(3-4)『お引越し』にもシャワー以外に豪雨のシークェンスが登場する。両親が離婚している同級生からその現実を聞かされ、レンコは呆然と立ち尽くした際、雨が激しく降り始める。このシークェンスはレンコの不安が頂点にまで達したことを示し、その後の展開がレンコにとってよくない方向に転がることが表現されている。このような場面で雨を用いること自体は全く新しくないが、「夜を湿らすそれらの水分は、フィルム・ノワールの登場人物の心に降る雨を反映する」(15)と述べられているように、水の表象は主人公の不安を反映することが多い。これまで父との憩いの場所だった鴨川(あるいは高野川)は、レンコの不満やストレスを表す場所に変わり始める。ただし、『お引越し』における水の表象には、雨や霧をほとんど使わず、川や家庭の水(シャワー、風呂、トイレ)を効果的に用いており、その点に注目していきたい。
 その後、母と父の仲がなかなか埋まらないことに業を煮やしたレンコは、同級生にアドバイスを受け、抗議のために自分の部屋に籠城しようとする。しかし、家財道具を詰めている途中で母が帰ってきたため、やむなく風呂場に籠城する。渇いた風呂場で、レンコが「なんで生んだん?」と母に文句を言うと、母はガラス戸を突き破って風呂場に侵入する。その後、トイレに行ってひとり泣くレンコだが、トイレはふたをされ、お風呂場の時と同様に、またしても水は現れない。シャワーや鴨川での石投げのシークェンスでは、水は一時的に心を休ませるものだった。しかし、籠城の時には、トイレやお風呂にあるはずの水の描写は避けられ、レンコが泣いたり、母がガラスで切った拳の血を流すことでしか、水の描写は生まれない。この籠城のシークェンスは、二人の家には安らぎの水が無くなり、痛みを伴うことでしか、水を得られない状況にまで追い込まれたことを示唆している。
 その後、レンコがむりやり企画した、家族3人の琵琶湖旅行に父がしぶしぶやってくる。琵琶湖は、疎水によって鴨川に繋がっており、琵琶湖にも鴨川と同様に象徴的な意味合いが込められている。冒頭でレンコが鴨川から高野川に向かうシークェンスとこの琵琶湖旅行には、「逆行」の意味が込められている。鴨川は、上流に高野川(北西)と賀茂川(北東)を持ち、途中で東から琵琶湖の疎水が流れこんでおり、その後、大阪で淀川に変わる。つまり、高野川も琵琶湖も、鴨川の源流である。特に、琵琶湖は京都の生活用水の源であり、京都人にとっては「起点」を表す場所である。つまり、レンコは、冒頭では鴨川の水流に逆らって高野川に向かい、旅行では源流である琵琶湖にたどり着いたのである。それは水の流れに逆らうように、時間を逆行させたいレンコの思いの表れである。また、現実では、父と母が家族になる前の他人に戻ることも意味するだろう。両者は、別居後、父は西側の高野川に、母は東側(疎水、あるいは賀茂川)に別れてしまい、以前の家族の頃のように、合流することはない。鴨川はデートスポットであり、つまり男女を結びつける場所である。母と父は以前の関係に戻るためには、かつて鴨川が合流した頃のように、水の流れに逆らってはいけない。しかし、レンコは逆行してしまい、ついには琵琶湖にまでたどり着いてしまった。
 話を物語に戻そう。琵琶湖旅行はレンコによって強制実行されたが、父は、現地に着いてから旅行には参加できないと拒否する。それを聞いたレンコは、ホテルを飛び出して琵琶湖の湖畔に逃げる。そして、追いかけてきた父と話し合うことになる。父とじゃれ合った高野川では平らだった岸が、琵琶湖ではレンコの身長ほどの段差がある。その段差の上と下に別れて話し合う親子の姿から、父とレンコの関係も離れてしまったことを示している。鴨川は琵琶湖旅行以降、登場しない。そして、このシークェンス以降父も登場しなくなり、家族3人で暮らすというレンコの夢は、非現実的なものになる。
 家族の距離を示す媒体は、単なる京都の150mほどの橋から、もっと大きなスケールのものに変化する。トラックの荷台のシークェンスでは、ワンショットで橋の起点(東側)と西側(終点)を確認できたが、琵琶湖旅行で登場する橋や琵琶湖は、その起点も終点も完全に不可視になり、距離が把握できないほど二人の距離が完全に離れてしまったことを示す。
 レンコは、その後失踪する。夜になり花火大会が始まった頃、母は橋のたもとで花火を楽しむレンコをみつける。しかし、レンコは再び母に反抗して、逃げる。行きついた先は、上流の浅い川だった。そこでレンコは月に向かい、「あ〜」と吠えるように叫ぶ。
 鴨川で小石を投げていた頃のように、川でも不安を解消できなくなってしまったレンコは、人気のない湖畔にたどり着く。レンコは、そこで夢を見る。夢の中では、母と父がお祭り用の大きな龍の神輿と共に湖の沖からやってくる。そこには、家族三人ではしゃぐ自分の姿がある。しかし、湖の中にいるもうひとりのレンコは、徐々に父と母に置いていかれ、距離が開いてしまう。もうひとりのレンコが「どこ行くの?ひとりにしんといて」と呼びとめても、お祭りの神輿と両親たちは笑いながら、さらに沖へ消えていってしまう。一方、夢を見ている側のレンコは、去っていく両親たちに対し、「おめでとうございます」と叫びながら見送る。レンコは置いてきぼりにされたレンコを抱きしめた後も、「おめでとうございます」と叫ぶ。
 京都では、レンコが橋を渡ることで、両親を繋いでいた。しかし、レンコがたどり着いた琵琶湖の湖畔には、橋が無い。夫婦の間に橋がかけられなくなったレンコは、以後、橋を渡ることを諦める。また、両親が沖へ消えたことは、トラックの荷台のシークェンスの時には確認できた両親の居場所を全く把握できなくなったことを意味し、二人を繋ぐことが不可能であることを表す。そして、琵琶湖の水量の多さは、レンコの感情がピークまでたどり着いたことを意味する。琵琶湖の水量は、鴨川のように、底が確認できるような水量ではない。鴨川では容易に悪態をついていたレンコだったが、琵琶湖ではそれすらもあきらめ、大人の対応をする。元の家族に戻るべきだという幼く素直な感情は、琵琶湖ではストレートに吐き出すことはできず、夢で両親が琵琶湖に消えていったように、心の奥底にしまうことになった。両親たちを「おめでとうございます」と叫びながら見送ったレンコは、湖畔で初潮を迎える。「おめでとうございます」は、新たな人生を明るく受け止めるレンコの決意であり、初潮を迎えたことで体も心も大人になったことを示している。その後、鴨川は一切登場せず、学校で一連の出来事を作文に書いて話し、映画は終わる。現実を明るく公言できるほど、レンコが現状を受け止め、気持ちも安定したことを再度示している。しかし、映画の最後のショットで、レンコは少しうつむいてさびしそうな顔をしており、レンコの心の奥底に隠れた感情が垣間見える。あくまでも大人の対応をしているだけであることを最後に強調して物語は終わる。
 水を主題に、鴨川や高野川、その源流である琵琶湖から、人物の距離や感情を描いた『お引越し』は、まさに京都が水の街であることを示した。しかし、意外にも『お引越し』の監督、相米慎二は京都に特別な思い入れがあった訳ではない。高崎俊夫の「相米慎二監督インタビュー 京都というのは、本当に映画的場所だね」のインタビュー記事によると、出資した企業が関西の読売テレビだったこともあり、たまたま関西の中で企画に合う場所が京都だということで製作が決まったようだ。それ以前の京都現代劇映画を製作してきた、溝口や吉村、中島貞夫は京都に精通していたが、相米は京都に無知ながらも、インタビューで京都の神秘性を描きたかったと述べており、その神秘性が水の表象と見事にマッチングし、成功したようだ。『お引越し』以降、京都を描く映画作家たちには、京都に精通していない人が増え、単なる観光映画になってしまう作品も多い一方で、『お引越し』のように成功している例もある。そのため、作品ごとに検討せざるを得ない。

4. 2000年代以降の京都現代劇映画の変化
4-1. 『パッチギ!』以降の「学園もの」の再出現
 『ガキ帝国』(1981年)の不良高校生の演出が高く評価された井筒和幸は、1968年の京都の高校を舞台に再び不良高校生たちを描いた。それが『パッチギ!』(2005年)である。『パッチギ!』以降、大手映画会社による京都現代劇映画の主題に変化が現れた。
 前述したように、京都現代劇映画は京おんなを描いてきた。京都映画史を振り返ると、時代劇映画が男性中心の世界を描く一方で、溝口健二や吉村公三郎が女性中心の世界である花柳界を描き、京都現代劇映画は独自の発展を遂げてきた。しかし、1960年代に花柳界や西陣の縮小化が進んだことで、同時代の京都を伝統的な女性の街として描くことが困難になった。しかし、高林陽一の『西陣心中』(1977年)は衰退した西陣を描き、クロード・ガニオンの『Keiko』(1979年)は普通のOLを主人公に描き、『お引越し』は主人公の年齢を小学生にまで下げることで、女性を主人公とするスタイルを継承してきた。このように女性の街、京都という描写は1990年代以降も残っているが、そのスタイルは曖昧になりつつある。
 『パッチギ!』は女性ではなく男性の視点から京都を捉えた「学園もの」映画である。京都現代劇映画の学園ものは、先述した黒澤明の『わが青春に悔なし』(1946年)、京都の女子学校を描いた木下恵介の『女の園』(1954年)が挙げられるが、いずれも女性が主人公である。また、愚連隊を描いた中島貞夫の『893愚連隊』(1966年)がようやく男性を京都現代劇映画の主人公に据え、さらに大森一樹の『ヒポクラテスたち』(1980年)がそれに続くことになる。こういった歴史を経て、男子学生を主人公とする学園ものが『パッチギ!』以降、京都現代劇映画の新たな特徴として確立されることになる。先述したように、これまでの京都現代劇映画の変遷を見ると、『パッチギ!』が従前の京都現代劇映画の要素を単に寄せ集めた作品だと分かるだろう。しかし、独立系映画ながらヒットしたため、その後の大手映画会社による京都現代劇映画の主題に影響を与えることになった。

4-2. 『パッチギ!』以降の主題の変化
 木下恵介の『女の園』は、女生徒たちが学校に対して不満をぶつける学生運動の前身を描いており、学生が何かに反発する姿を『パッチギ!』は継承している。物語の舞台は、ちょうど二度目の安保闘争の時期で学生運動が盛んだった頃だが、『パッチギ!』には大学生ではなく高校生が登場する。高校生が主人公であるが、学校同士や国籍の対立が喧嘩や暴力によって描かれる。「パッチギ」は韓国語で「突破する」を意味する。関西の不良たちが使う「パチキ」は頭突きを意味し、韓国語の「パッチギ」に由来する。頭突きや突破を意味するように、喧嘩のシークェンスが非常に多い。喧嘩の描写は『ガキ帝国』以降、井筒が得意としているものだが、『女の園』では暴力ではなく言葉や行動による主張が主題だったのに対し、『パッチギ!』では学生の主張が暴力に転換され、アクションも大きくなっている。
 『パッチギ!』は、京都の東山高校を想起させる、府立東高校と朝鮮高校との対立を描く。対立が可視化するのは、府立東高校が仲の悪い朝鮮高校にサッカーの親善試合を申し込むことがきっかけである。主人公の塩谷俊は、そこで朝鮮高校の番長高岡蒼佑の妹沢尻エリカに一目ぼれする。沢尻が吹奏楽部に所属していたことから、塩谷はギターで近づこうとする。しかし、国籍の問題でなかなか沢尻の家族の輪の中に入れずにいた。徐々に沢尻たちと仲良くなっていた塩谷だったが、その思いとは裏腹に、普段から仲の悪かった府立東高校と朝鮮高校は、ついに決闘することになる。決闘は、出町柳近くの今出川大橋の下を流れる鴨川を挟んで行われる。この映画のクライマックスをなすシークェンスの撮影に、井筒監督は丸3日を費やしたという。まさに渾身のシークェエンスである。この決闘を止めたい一心で、塩谷はKBSラジオで当時発売中止になっていたザ・フォーク・クルセターズの『イムジン河』(1968年発売)を歌う。イムジン河は、朝鮮半島を分断する38度線を北から南に流れる川である。ザ・フォーク・クルセターズの『イムジン河』に込められているのは、韓国と北朝鮮が分断されていることの悲しみである。その曲が本作では塩谷と沢尻の断絶、ひいては日本人と在日朝鮮人の断絶を象徴する。塩谷の歌う『イムジン河』が流れ、決闘が始まる。前述したように、出町柳近くの賀茂大橋は、高野川と賀茂川が合流して、鴨川になる場所である。二本の川が合流してひとつになる場所で決闘するという、矛盾しているが、ひとつになってほしいと言う願いが込められたシークェンスである。『お引越し』で用いられた橋が『パッチギ!』にも用いられているのが分かる。『お引越し』以降、鴨川はエスタブリッシング・ショットだけではなく、物語内容に絡むようになったことがここでも確認できる。

4-3. 『パッチギ!』以降の「学園もの」と方言
 『パッチギ!』がその後の大手映画会社による京都現代劇映画に影響を与えたと述べたが、その具体例として『色即ぜねれいしょん』(2009年)、『鴨川ホルモー』(2009年)が挙げられる。どちらも少し頼りない男子学生を主人公とする作品である。結局、『パッチギ!』のような学ランものは、京都では定着せず、やがて舞台を東京に移すことになる。実際、テレビドラマの続編として映画化されヒットした『ROOKIES -卒業-』(2009年)や、三池崇史の『クローズZERO』シリーズなどは、いずれも東京を舞台としている。井筒和幸は『パッチギ!』以降の学ランもののブームについて、「今は暴力をファッションとみなしている映画が多すぎる」、「喧嘩シーンに変なCG使ったりね。結局、こっちが元ダネを作ったみたいなものだけど、(真髄は)分かってくれていないというか、うまく伝染していない。ただ、ああいう風に作れば当たるんだと。エグゼクティヴ達は思うんですね」(増當 23)と否定的に捉えている。
 結局、京都現代劇映画には、不良高校生の学ランものは定着せず、男子学生が主人公という要素のみが定着した。例えば、『色即ぜねれいしょん』では、塩谷が音楽で世の中を変えようとした姿勢を受け継ぎ、目立つことを避けていた冴えない男子高校生が文化祭でロックを演奏する。一方、『鴨川ホルモー』は男子学生を主人公とすると同時に、鴨川で闘うシークェンスを『パッチギ!』から継承しているように見える。しかし『鴨川ホルモー』の鴨川の表象は『パッチギ!』よりも遥かに単純である。京都大学の学生を主人公にしているため、比較的近く広い場所として鴨川は登場し、そこで変わった格闘技の試合をする。その対立の舞台には賀茂大橋は使われず、さらに東西に分かれて鴨川を挟むこともなく、川岸の広い場所で闘うだけである。『鴨川ホルモー』は鴨川を単なる京都の象徴として使用しているに過ぎないことは、他のシークェンスからも確認できる。京都市が全面協力した『鴨川ホルモー』には、平安神宮、新京極、祇園など、京都の観光名所が物語とは無関係に多数登場するが、鴨川も結局その一つに過ぎず、単なる観光映画にとどまっている。
 また、方言にも変化が生じている。『パッチギ!』では迫力があった関西弁は、『色即ぜねれいしょん』ではおっとりした関西弁に変わった。『鴨川ホルモー』ではそもそも関西弁が話されていない。
 これまで溝口や吉村が描いた京都映画には、必ず、花街言葉や京都弁(関西弁)が用いられてきた。発音指導は徹底しており、地元の観客でさえそれに違和感を覚えることはない。『お引越し』でも流暢な京都弁を使っている。しかし、前述したように、京都に精通した映画作家たちが京都を描かなくなり、ここ10年間で関西弁を使わない作品が増えた。その一例が『鴨川ホルモー』である。方言の変化の要因として、配給会社の規模が挙げられる。関西弁を用いた『パッチギ!』と『色即ぜねれいしょん』は独立系映画配給だが、一方『鴨川ホルモー』は大手映画会社の松竹が配給であり、どの観客にも分かる標準語が使われている。他の作品にも、この方言の傾向が表れている。行定勲の『きょうのできごと』(2003年)では、京都の大学院に進学する柏原収史の引越祝いに集まった仲間たちのありふれた光景を描いている。本作の登場人物は、関西弁を使うが、同じ監督でも東宝配給の『クローズド・ノート』(2007年)では、関西弁を話さない。
 方言の問題は、時代劇製作制限が撤廃される2年前の1949年に、すでに指摘されている。「日本映画の断面」というテーマで当時の中堅監督が語り合っている記事がある。(キネマ旬報1949年7月下旬号 12-17)時代劇製作制限によって京都現代劇映画が増えた[7]時期だったにも関わらず、この座談会では京都で現代劇映画を製作しにくい内情を語り合っている。特に、松竹京都に入社し戦前は時代劇、戦後は現代劇を中心に製作してきた大曾根辰夫が、一度東京で製作した経験から、京都の撮影所の印象について語っている。一部抜粋すると、「言葉の関係もあるし、いわゆる現代劇は東京のものでしょう」(17)「関西をバックにすると関西弁にする、それをいやがるのです。東北へいったらわからないそうです。関西を舞台にしたら成るべく標準語に近い関西弁でやってくれということになる。ところが向こうの言葉でやったら面白いのですがね」(17)と、言葉の問題が京都で現代劇を描くことを妨害する要因のひとつとして指摘している。京都現代劇映画の傑作とされる、溝口の『祇園の姉妹』(1937年)や吉村と新藤の『偽れる盛装』(1951年)は、関西弁をうまく使いこなしており、その点も評価されている。作品をリアリスティックに描く場合、方言は必要不可欠である。このように戦後に指摘された言葉の問題は、2000年代になった現在でも残っている。
 関西弁を使った『パッチギ!』には、当時はまだ無名だった、沢尻エリカや高岡蒼佑が出演している。『パッチギ!』のヒットにより、彼らはテレビドラマや映画にひっぱりだこになった。井筒が述べたように、『パッチギ!』以降再び不良高校生もののブームが訪れ、高岡は不良高校生役で映画やテレビドラマに出演するようになる。沢尻エリカは、『パッチギ!』以降、『天使の卵』(2006年)と『クローズド・ノ−ト』(2007年)で、京都で暮らす女性を演じており、恐らく、ここ数年の京都現代劇映画に最も出演している若手女優と思われる。しかし、残念ながら、『パッチギ!』以降、沢尻も作中で関西弁を話さなくなった。『天使の卵』は松竹、『クローズド・ノ−ト』は東宝が配給しているため、やはり映画会社の規模が関連しているようだ。2000年代の京都現代劇映画は、関西弁に慣れていない観客に対し、リアリズムを重視する独立系映画と分かりやすさを重視するブロックバスター映画に二分化している。
 1990年代以降、水の街としてリアリズムに描く作品がある一方で、言葉の問題が映画内容にまで影響を与えるようになった。宮藤官九郎脚本の『舞妓Haaaan!!!』(2007年/東宝配給)は、特に顕著な例である。東京在住のサラリーマンが京都の舞妓に憧れて、どうにかして京都(祇園)に染まろうと奮闘するコメディ映画である。不慣れな京都弁や舞妓遊びを愉快に楽しむ男性の姿を滑稽に見せるため、祇園が非日常空間に変貌する。彼らの京都の印象は秋葉原の「メイド」のように、祇園の「舞妓さん」をキャラクター化させ、京都弁は祇園というテーマパーク内の言語のように扱っている。つまり、関西圏以外の人が関西弁を使うこと自体が滑稽なことであり、非現実的な現象であることを全面に押し出している。それゆえ、関西弁を使わないことが逆に日常性を生むという逆説的な状況が起きている。このように関西弁の使い方次第で京都の表象に大きな影響を与えるため、この言葉の問題は、京都現代劇映画の今後の課題になるだろう。しかし、関西弁を使わずに、外部から見た京都をリアリスティックに表象した作品も存在する。それが『マザーウォーター』(2010年)である。

5. 水と暮らす人々を描いた『マザーウォーター』
 『マザーウォーター』(2010年)は、京都で暮らす人々を淡々と見せる映画である。登場人物のほとんどが京都の外からやってきた人間だが、水と人間が共生する姿が穏やかに、美しく描かれている。ちなみに、『マザーウォーター』の主要な登場人物は女性だが、男性も登場しており、その人間関係は平等であり、性別を全く意識させないため、一概に京都を女性の街として表象しているとは言えない。
 『お引越し』でレンコが父と団欒する場所として鴨川を使ったように、『マザーウォーター』にも鴨川が憩いの場所として登場する。しかし、前述したように、登場人物は京都人ではないため、関西弁を話さない。これは『鴨川ホルモー』のように観客に対する配慮ではなく、登場人物が京都人ではないことを明確にするためだと考えられる。さらに、彼女たちは京都に住みながらも、京都に定着するつもりはないとはっきり述べる。『マザーウォーター』は、観光地ではない京都の魅力を、外部の人間の目線から確認する映画である。そのため、関西弁を話さないことで京都らしさが失われる訳ではない。京都の象徴である「水」を題材に、現在の京都らしさを描いている。監督自身が主人公たちと同様に京都人ではないため、キャメラは監督自身の目と同化し、京都の風景を一定の距離を置きながら見つめる。全体的に、フルショットやミディアムショット、固定ショットが多く、登場人物に感情移入させない構成になっており、ひたすら京都で暮らす人々とその風景を楽しませる。それでは、具体的な分析に入ろう。
 鴨川(賀茂川)沿いで母親と赤ちゃんが横並びに座ってたたずむ姿がある。二人は背中をキャメラに向けて顔を見せない。ここで登場する母親は、映画の終わりで声のみで出演する以外、冒頭以降一切本編に姿を現さず、母親に関して全く説明されない。つまり、タイトルの前半にある「マザー」らしき人物が、不在のまま物語は進行する。後ほど考察するが、タイトル後半の「ウォーター」が、この映画の主題である。
 二人の姿を映した後、キャメラは空に向かってティルトする。そして、場面が変わり、小林聡美が庭に水をやるショット、小泉今日子が窓を拭くショット、市川美日子が豆腐を用意するショットに順番に切り替えられる。この時には、三人は知り合いでもなく、それぞれ別々の作業をしている。しかし、この三人がいずれ知り合いとなり、共通点を見出していくことを、この後の一連のショットが示す。豆を入れたバケツを洗う市川美日子、洗い終わって濡れたコップを布巾に置く小泉今日子、そして、グラスを乾いた布巾で拭く小林聡美。これらの作業は、食器を洗う一連の過程を三回に分けている。洗っている対象は異なるものの、一連の作業を完了するのに必要な工程を三人で「分担」していることが分かる。もちろん、食器を洗うという行為には、水が使われている。以後、このような日常的な水の描写がしばしば登場する。
 この三人とも、ひとりでお店を切り盛りし、水を主に使った飲食を提供している。先ほどの食器類を洗う行為は、各々のお店の準備だった。小林聡美はウィスキー専門のバー、小泉今日子はコーヒー専門の喫茶店、市川美日子は豆腐屋である。各店舗の営業時間は極端に短い。豆腐屋は朝のみ、喫茶店は昼のみ、バーは夜のみである。各々が運営するお店に三人の誰かが客として訪れることが営業時間の短さを裏書きしている。また本作は一日を必ず朝、昼、夜の三つのシーンに分割して提示するという特徴を持つ。そしてそれぞれのシーンで中心人物が入れ替わる。朝は市川美日子、昼は小泉今日子、夜は小林聡美という具合に。ここで重要なことは、夜のシークェンスには、絶対に人々が眠る姿が含まれていない点である。そして時々、夜のシークェンスには、闇に包まれた川が流れているショットが挿入される。もちろん川は夜になっても流れが止まることはない。水は止まると腐ってしまい、水の流れの停止は死を意味する。つまり、夜の川の流れを見せ、寝る姿を見せないことで、観客に休息する瞬間を一切見せないのである。この演出では、毎日毎日、止まらず動き続ける川を意識させる。そして、そこで暮らす人々は、川のようにのんびりとした雰囲気を見せつつも、停滞しないことも表している。
 ちなみに、夜に寝る姿は見せないが、昼に寝る姿は見せている。それは、冒頭で登場した赤ちゃんが昼寝する時と、大人たちが、桜が咲く鴨川沿いにポツンと置かれた椅子に座って昼寝する時だけである。大人たちは、この鴨川の椅子に座る時だけ眠る。『パッチギ!』や『お引越し』では、鴨川は、良い意味でも悪い意味でも感情が高ぶる場所になっていたが、『マザーウォーター』は一般的に認識されている憩いの場所になっている。ただし、デートスポットとしての鴨川ではなく、あくまでも休息の場所である。つまり、デートで気持ちを昂揚させたり、『お引越し』のレンコのように小石を投げ付けてストレスを発散させたり、『パッチギ!』のように喧嘩したりするような、感情の起伏がある場所ではない。『マザーウォーター』では、ただ眠ることで感情を落ち着かせ、大きな変化も現れない場所である。この鴨川の用い方は、今までの京都現代劇映画と異なる。京都の象徴である鴨川は、これから物事が起きる前に挿入されるエスタブリッシング・ショットや、デート、喧嘩など、印象的なシークェンスで用いられてきた。しかし、『マザーウォーター』では、登場人物はみな静止してしまう。一般的に、映画はフレーム内のモーションによってエモーションを揺さぶるものだが、『マザーウォーター』は何かが動く場所であるはずの鴨川で、人物の動きを封じる。しかし、鴨川のシークェンスは、その桜の美しさに観客をはっとさせ、登場人物ではなく観客の心のみを揺さぶるシークェンスとも言える。
 『マザーウォーター』は、鴨川で登場人物を静止させる代わりに、背景の風景を前面に押し出し、人物よりも風景を強調する。従来の映画は鴨川を何らかの事件が生起する場所として利用してきたが、『マザーウォーター』は鴨川自体を重視している。鴨川のシークェンスを筆頭に作品全体を通して、京都を美化しすぎている印象は否めない。それは、京都の名所として有名な鴨川を生活空間の一部としてではなく、憩いの場所としてのみ描いていることからも確認できる。鴨川に対する神秘的な印象のみを重視する点では、観光映画に含まれてしまう可能性が高いが、『マザーウォーター』の優れた点は外部の人間から観た京都であることを強調する点である。関西弁を話すか否かに関わらず、これまでの京都現代劇映画は京都にいくらか精通したという設定の登場人物を使ってきた。そのため、京都人が観たら、一目で京都人ではないことを見破られるリスクを常に背負っていた。一方、『マザーウォーター』は、京都に精通していない人間から観た京都像という新たな視点から描写しようとしている。そして、単なる名所として鴨川を登場させる訳ではなく、他の水に纏わる場所(銭湯、喫茶店、豆腐屋など)を散りばめながら、あくまでもその一例として扱う。京都を美化する場合、着物や神社仏閣などの伝統を使うことが多いが、それらの要素を一切排除し、完全なる水の街として描いた点は、1990年代以降の京都現代劇映画における京都の表象(水の表象)を最大限に押し上げたと考えられる。しかし、あまりにも京都定住者が登場しないため、多くの京都の観客は違和感を覚えるかもしれない。京都を舞台に描きながら、厳密には京都人を描くつもりはないという本作の姿勢に気付きにくいからである。それに気付かなかった観客が、『マザーウォーター』が京都人になるための生活を提示しているように感じた場合、本作で描かれる京都はあまりにも神秘的で美しさばかりを見せた現実味のない映画になるだろう。しかし、実際には単なる京都を美化した映画ではないことは、関西弁を使わないことや、移住者であると登場人物たちが話すことから確認できる。
 本作は、『かもめ食堂』(2006年)、『めがね』(2007年)の製作スタッフと、本作デビューの松本佳奈(元々このシリーズに関わっていた制作スタッフのひとり)によって作られた。このシリーズは、のんびりとした時間の中で生活する人物を描いてきたが、本作でものんびりとした時間が過ぎていく。冒頭の鴨川のショットで示すように、本作の主題は水である。登場人物は、鴨川の流れのテンポに合わせて歩き、自転車や車や電車などの速い移動手段を一切使わない。徹底して、のんびりとしたリズムを維持する。『パッチギ!』のような激しさは無く、『色即ぜねれいしょん』の主人公のようなおっとりさが表れている。昨今の京都現代劇映画では、ゆったりとした時間を京都の特徴に挙げている。
 本作では、京都のシンボルとなる有名な建物や風景などは登場しない。もちろん、通り名の表記や建物の看板を提示することもない。そして、会話の中でも、京都という直接的な言葉は使わず、徹底的に、「ここ」という呼び方をする。一般的に認知されている京都らしさは排除することで、外部から見た京都らしさを描こうとしている。本作のパンフレットにも、観光名所はわざと外したと書かれている(平井ほか7)。また、豆腐を除き、京都らしい食材や工芸品が一切登場しない。ただし、豆腐屋のロケーション撮影には、有名な大徳寺豆腐店が使われているが、物語の設定上、よその土地から来た女性がひとりで切り盛りする歴史の浅いお店に変えられている。この豆腐屋には少し違和感を覚えるが、その他の二人が営むお店(小泉今日子の喫茶店と小林聡美のバー)はどこにでもありそうなお店で、もたいまさこのふとした行動で、彼女たちの店に小さな進化が起きる。例えば、豆腐屋では店で豆腐を食べたいという老婦人の要望で、飲食可能な豆腐屋に変わる。近所で顔なじみの老婦人を演じるもたいまさこは様々な場所に現れ、人と人を結びつけるきっかけをつくる。老婦人を伝統や歴史の象徴と捉えると、彼女たちは伝統によって新しいインスピレーションを得た若者と言えるだろう。京都には、伝統工芸品である着物を使って、今風の雑貨や洋服にリメイクする店が多く、前述した、川の流れのように「停滞しない、進化を続ける京都」という意味合いは、ここでも表されているように思える。そして、もたいまさこによって、新しい関係やサービスが生まれる過程が、現在の京都らしさと言えるだろう。
 小林聡美、小泉今日子、市川美日子は全員、居場所を探して場所を転々としてきた結果、京都にたどり着いた。前述したように、制作スタッフと同じく、彼女たちが見てきた京都は、外部から見た京都である。『お引越し』の相米慎二のように、京都に何か魅かれるものがあってやってきた人物たちである。京都に住んでいない人々が観光名所を使わず、さらに大きな物語展開も持たせずに京都を描くということは、面白い試みである。そして、それを成功させることもなかなか難しいだろう。一度「神社仏閣、古都、観光名所、伝統文化」という紋切型の京都のイメージに目が行ってしまうと、京都をリアリスティックに表象することを忘れてしまいがちだからである。ただし、『マザーウォーター』のポスターには京都を示す東寺の塔が背景に使われている。これにより、観客は京都が舞台であることをあらかじめ認識した上で、この作品を観ることになる。『マザーウォーター』は、舞台が京都だと把握した上で、京都で流れる時間を味わうことを観客に促しているのである。前述したように、『マザーウォーター』は、観光名所を疑似体験できる作品ではなく、日常生活になじんだ水の街としての京都を、外部から見た登場人物たちと共に見つけていく作品である。そして、標準語を使うことで京都人の生活を疑似体験させる作品ではないことを示した上で、『お引越し』の監督相米慎二が語ったように神秘的な街として京都を捉える。そのシンボルとして鴨川(水)を用いるのである。

6. まとめ —現在の京都映画の都市表象—
 今回『お引越し』、『パッチギ!』、『マザーウォーター』を取り上げたが、いずれも鴨川を印象的なシークェンスで使っていることを指摘した。1990年代以降の京都現代劇映画の登場人物たちはみな、鴨川の近くに住み、日常生活の中でしばしば鴨川に訪れる。新藤兼人の『愛妻物語』や吉村の『偽れる盛装』にも鴨川(あるいはその付近)でたたずむシークェンスが登場するが、それは閉鎖的な空間や現状から一時的に解放され、束の間の休息の場所として登場する。これから起きる大きな出来事に備えるために、充電する場所とも言えるだろう。一方、今回取り上げた作品は、いずれも物語の根幹に関わるような形で登場する。『お引越し』では父と母の別離、『パッチギ!』では日本人と在日朝鮮人の大きな衝突、『マザーウォーター』では水の主題を強調するために用いられている。『お引越し』は冒頭の奇妙な経路、そして父と母の別居を印象づけるトラックの荷台のシークェンスで、橋の上から鴨川を確認する。そして、『パッチギ!』は、映画のクライマックスに鴨川での決闘を使っており、さらに、その場所が『お引越し』でも使われた賀茂大橋付近だった。高野川と賀茂川の合流地点という地理的特徴を、両者はそれぞれ物語の主題に絡ませて描いている。すなわち両者は鴨川を単なる京都の目印として使用しているのではなく、京都の町の特徴を把握した上で物語上、効果的に使用しているのである。
 1990年代以降、溝口や吉村・新藤が描いてきた、花柳界や西陣の女性中心の閉鎖的な空間は排除され、現在の京都人は開放的な空間で暮らしている。もちろん、『パッチギ!』のような国籍の問題は今も残っているが、見えない壁に囲まれて自由に行き来できなかった花柳界の女性たちと異なり、現在、壁で囲まれた女性中心の世界は京都にはほとんど存在していない。もし存在していても、それは過去の残滓に過ぎない。
 1960年代以前の京都現代劇映画については別の機会に論じるが、1990年代以降の京都現代劇映画は、街の中心に川が流れる穏やかな空間として京都を捉えている。その空間では、『お引越し』のように家族の問題を抱える者もいたり、『パッチギ!』のように国籍による偏見の問題にぶつかる者もいる。開放的で穏やかな空間に、あえて閉鎖的な問題(家族問題、国籍の問題)を描いた両作品は、開放的な憩いの場所であるはずの鴨川を変形させ、感情を吐き出す場所、東西に人を引き離す場所として描いている。『お引越し』も『パッチギ!』も、みなが知っている鴨川を異質な空間に変えたことで、京都の都市表象に新たな要素を付加したのである。
 一方、『マザーウォーター』は、誰もが認識している憩いの場所として鴨川を描いている点で、『お引越し』に比べれば単純である。しかし、あくまでもその鴨川は外から見た京都であることをはっきりと示す潔さがある。『マザーウォーター』にも、京都に長く暮らしている人物が一言、二言のセリフで登場するが、ほとんど主要な登場人物には関わりを持っていない。つまり、付け焼刃の知識で京都人を描くことを拒否しながら、観光地以外の京都らしさを探ったと言えるだろう。そして、京都に精通していない監督が描いた『お引越し』も『マザーウォーター』もいくらか京都人に違和感を覚えさせる。しかし、他の観光映画と異なり、その違和感は神秘性を増すために有効的に用いられている。
 すでに『京都映画図絵』(33)から引用した箇所に「京都の地理事情に暗い者は、ここでこのまま「レンコの世界」に入っていくし、明るい者もまた、その映画の虚構性に心地よく騙されつつ「レンコの京都」に招かれていく」と記されていたように、レンコの違和感を覚えさせるルートは「レンコの世界」という奇妙な世界へ観客を誘導している。『お引越し』は、冒頭の奇妙なルートを使って観客に非日常性を慣れさせたことで、ありふれた日常の描写から琵琶湖の神秘的な神輿のシークェンスへの移行を成功させ、日常性と非日常性を絶妙なバランスで融合させている。
 一方、外部から見た京都という前置きはあるが、『マザーウォーター』は物語の展開が極端に少なく、それがかえって全体的に違和感を覚えさせるため、日常性と非日常性の融合のバランスがいくらか不安定である。そのため、京都人を虚構世界へ誘導する描写力は『お引越し』に劣る。しかし、その違和感によって神秘的な水の街、京都へ引き込ませていく演出は、明らかに『お引越し』から継承されている。『お引越し』も『マザーウォーター』も、登場人物のごく普通の日常生活を中心に物語を進めながら、時々挿入される鴨川(や琵琶湖)の表象から観客に違和感を生じさせ、神秘的な水の街、京都へと誘う。こういった違和感を覚えさせる鴨川の描写は、1990年代以降の京都に精通していない映画作家たちの出現によって生まれたものであり、京都現代劇映画の新たな表象として注目すべきである。そして、1990年代以降、新たな京都の表象を確立させた『お引越し』が最も評価されるべき作品であることは言うまでもない。
 前述したように、曲亭は「京都に良きもの三つ、女子、加茂川の水、寺社」と述べたが、これは京都と江戸を比較した上での意見であり、その意味でやはり外部からの京都観だと言える。『マザーウォーター』は他の観光映画と違って、外から見た京都であることを認める点が真摯である。溝口は、東京都出身だが、関東大震災をきっかけに京都に住み、徹底的に京都を調べ上げた上で、花柳界を描いた。吉村は、滋賀県出身で京都のことは知っていたものの、途中東京の松竹で製作し、しばらしてから京都に戻ってきている。吉村の著書『京の路地裏』を読むと、謙遜しながらも京都人をよく観察していたのが分かる。両者は、徹底して京都を調べ上げることで、一般の京都人には分からない花柳界や西陣の世界を描くことに成功した。京都の路地裏のように奥に入り込み、一見さんを排除した閉鎖的な世界を映画の題材に引っ張り出してきたのである。彼らは、京都を徹底的に研究し、東京と比較することでその世界の独特さに気付き、「女子」を京都の象徴に選んだと考えられる。
 一方、1990年代以降の京都現代劇映映画作家たちは、すでに他府県の人にも認識されている京都のシンボルを用いた。ただし、観光地や古都としての京都は完全に避け、その代わり「水」を題材にした。目に見える分「水」の表象は、鴨川のエスタブリッシング・ショットのように一般的な京都らしい描写になりやすいため、そこに工夫を加えうまく物語と融合させた時に、リアリズムな京都現代劇映画と定義づけることができる。1990年代以前の京都現代劇映画は、溝口や吉村・新藤など特定の映画作家が京都を徹底的に描いたため、特定の映画作家の作品を分析することで京都映画における都市表象を解明できるが、1990年代以降になると、京都に精通していない映画作家が描くようになり、外部から見た京都の象徴を見つけ、その表象に成功するか否かに関わり作家論や映画会社の枠組みで論じることができなくなった。現在の京都現代劇映画を特徴づけるには、曲亭の「京によきもの三つ」がどのように描写されているか、作品ごとに検討していかなければならない。
 「京によきもの三つ」は、京都という都市の特徴である。これらの要素を京都の都市表象の特徴と捉えれば、今後の京都現代劇映画を都市表象論から作品分析することができるだろう。京都現代劇映画の都市表象論はまだ議論が進んでいない分野であるため、本稿はその出発点として、1990年代以降の京都映画のみを論じた。今回、特に主張したかったのが、京都現代劇映画の特徴として、水の表象が挙げられること、また当該映画の京都表象の革新性を測る指標として、鴨川の描写の分析が有効であることである。
 今後の京都映画を考察する上で、水の表象の分析はさらに必要になってくるだろう。今回、1960年代以前の作品には部分的にしか言及しなかったが、これについては機会を改めて詳細に考究することにしたい。

(本稿は京都大学大学院人間・環境学究科に2010年度提出された修士論文の一部を改稿したものである。)


[1]戦後の時代劇映画製作制限の詳細については、加藤厚子の『総動員体制と映画』、(新曜社、2003年)を参照されたい。
[2]両者の定義は、日本映画の作品情報を1年ごとにまとめた『日本劇映画作品目録』や、あいうえお順に作品情報をまとめた『日本映画作品辞典 戦前篇』、『日本映画作品辞典 戦後篇』で用いられている。
[3]1970年代から1980年代にかけて、優れた京都現代劇映画には、ATG作品(独立プロ作品)が多い。特に、京都出身の高林陽一は、『西陣心中』(1977年)や『金閣寺』(1979年)など京都を舞台に狂気的な人間を描いている。他に、クロード・ガニオンの『Keiko』(1979年)、大森一樹の『ヒポクラテスたち』(1980年)などが挙げられる。
[4]『お引越し』の家族像については、高橋洋の「失われた家族イメージをめぐる映画なのか ― 相米慎二『お引越し』を批判する」(『月刊イメージフォーラム』1993年8月号50-51頁)を参考にされたい。また、相米独特の「長回し」や編集によって生まれた『お引越し』における虚構空間については、佐々木敦の「相米的「映画=世界」の「移動」の欲望」(『キネマ旬報』1993年3月号70-71頁)で指摘されている。
[5]実際には、北に折れている。
[6]フィルム・ノワールについては、加藤幹郎の『映画ジャンル論 ― ハリウッド的快楽のスタイル』(17-69)を参考されたい。
[7]1949年の京都撮影所の製作本数を見てみると、東京を含めた会社全体の製作本数に対して、松竹が45本中19本、大映が38本中15本である。京都撮影所での時代劇製作本数の内訳は、松竹の京都作品19本中4本、大映は京都作品15本中9本 である。この数値は、「日本映画データベース」と「キネマ旬報映画データベース」の統計データから算出した。
 時代劇映画の黄金期だった1935年には、京都の撮影所で製作された現代劇映画の本数は、第一映画は10本中9本、松竹は31本中0本、日活は35本中1本、新興キネマは46本中8本 で、第一映画以外は時代劇映画を重視していた。戦前と戦後で比較してみると一目瞭然だが、戦後以降圧倒的に京都現代劇映画の製作本数が増えている。ちなみに、1935年の数値は、飯島正(編)『映画年鑑  1936年版』のデータから算出した。

引用文献リスト
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