bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.15 植田真由「河瀬直美作品における身体と存在確認としての触知」

河瀬直美作品における身体と存在確認としての触知
『かたつもり』、『垂乳女』、『殯の森』を中心に



植田 真由

はじめに

 河瀬直美(1969〜)は、カンヌ国際映画祭で数回に渡る受賞歴を持つ日本を代表する映画監督である。彼女は地元である自然豊かな奈良を舞台にし、アンチハリウッド的なミニマルな物語形式を採用していることで知られる作家であるが、彼女の作品の特徴は決してそれだけにはとどまらない。作品のそこここに散見される「不在」から引き起こされる触覚性と身体性にも、河瀬のオリジナリティを見出すことができるだろう。
 「不在」から誘発される触覚性と身体性を解き明かすにはまず、彼女の生い立ちを振り返る必要がある。幼い頃に両親が離婚し、母親の叔母夫婦に育てられた河瀬には、幼少期から家族の不在を抱え込んでいた。そして、その不在が河瀬を映画制作へと向かわせるのである。彼女の映画制作と私生活は複雑に入り組み、相互に連関しあい成立していると言える。それは、河瀬が私的ドキュメンタリーと言われるドキュメンタリー・ジャンルでデビューしたことからも明らかであるし、彼女の私生活と作品を並べてみるとはっきり見えてくる。後に詳しく述べるように、彼女自身の生活のターニング・ポイントは作品として世に残っているし、同時に、映画制作が彼女の生活を変えることもある。それゆえ、河瀬を論じるにあたって、彼女の私生活に目を向けることは避けては通れない道なのだ。
 では、河瀬が幼い頃から抱える家族の不在はどのように映画における「触覚性」や「身体性」に繋がっていくのだろうか。両親、とりわけ父親が不在であるとはいえ、その存在は河瀬の初期作品『につつまれて』(1992)においても映し出されているように、父親は写真として視覚的に認識可能である。だがしかし、『につつまれて』で父親探しをするまで、河瀬には父親の身体に実際に触れることはできなかったのだ。そのため、河瀬には不在である父親に対し実際に触れたい思いが強かったと考えられる。映画はもっぱら人間の行動や運動の視覚的媒体としての歴史を築いてきたが、彼女の作品においては、見ることはできるものの触れることの叶わない、不在の—非現前の—父親への意識が作品に滲出し、触覚性ならびに身体性が表されていると言える。
 そこで本論ではまず、映画制作と私生活の核となる概念である不在を、作品分析を通して浮き彫りにする。次に、この概念がいかに「触覚性」や「身体性」へと連鎖していくかをあぶり出す。最後に、それらの作品分析を基に従来の映画研究における身体論との比較検証をし、河瀬のオリジナリティを明らかにしたい。

Ⅰ.滲み出る不在

 まずは、河瀬が抱える不在が作品にどのように表れているのかを、彼女のフィルモグラフィを通して見ていこう。河瀬は、私生活と映画制作の間に境界をほとんど設けていないと考えられる。なぜなら、彼女が私生活で抱える問題はことごとく彼女の作品に立ち現れていると同時に、映画制作によって私生活が影響を受けてもいるからである。それは、劇映画『沙羅双樹』(2003)で出産シーンを撮影したことで自身も妊娠を望むようになり、翌年、出産を経験していることからも見て取れる。このように、河瀬は私生活と映画制作の境界が極めて曖昧なのだ。また、河瀬の作品には幼い頃から抱える家族の不在が含まれており、それはドキュメンタリーにもフィクションにも当てはまる。たとえば、一度も会ったことがない父親を探し求める私的ドキュメンタリーである前述のデビュー作『につつまれて』や、その続編として作られた『きゃからばあ』(2001)は父親の不在を色濃く反映している。また、写真家の撮影現場を河瀬が撮った『万華鏡』(1999)では河瀬と同様父親が不在の三船美佳を、『shadow/影』(2004)でも同じく父親を持たない女優を被写体としており、『杣人物語』(1997)では息子を亡くした夫婦にもカメラが向けられている。劇映画においても、『萌の朱雀』(1997)では父親の不在、『火垂』(2000)では両親や祖父母、子どもの不在、『沙羅双樹』では双子の兄の不在が、『殯の森』(2007)では息子と妻の不在が見られる。さらに、『萌の朱雀』や『殯の森』では、物語設定のみならず音楽によっても不在が強調されてもいる[1]。このように、ドキュメンタリー作品であれフィクション作品であれ、河瀬のほとんどの作品に家族の不在が読み取れると同時に、それが各々の作品におけるプロットの中核を為してもいる。そのため、河瀬作品は不在を抜きには語り得ないのだ。
 河瀬はその複雑な生い立ちのため、常に不在を自身に抱え込んでいたと言える。ものごころがついた頃には存在しなかった父親に対する思いが顕著に表れているのが、デビュー作品『につつまれて』である。父親を追い求め、昔の写真や戸籍を頼りにさまよう姿や、祖母や母親に父親のことを問い詰める河瀬からは、父親の不在が「河瀬直美」という人間の形成に、そして彼女の映画制作のスタートにどれだけ影響を及ぼしているかを窺うことができる。
 河瀬に深く根付いている家族の不在の影響で、彼女は今目の前に存在するものに固執する。そして現前するものを確認するために必要なのが、見ることでも聞くことでもなく、触れることなのである。確かに、写真、あるいはホーム・ビデオなどでかつての存在を認識することはできる。しかし、触れることは眼前に存在しているものに対してしかなされえない行為である。そのため、現実にであれ虚構としてであれ「存在確認」の手段として、彼女は接触という行為に及んでいく。河瀬が行う「存在確認」は、裏返せば内面に抱える不在の反動なのだ。それゆえ、河瀬の作品には観客の触覚を刺激する描写が至る所に見受けられる。もちろん、映画というミディアムの特性上、観客の触覚に直接的に働きかけることはできない。だが、これまでの哲学や美術史における感覚論で述べられてきたように、五感とは必ずしも独立したものではない。これまでの感覚論を振り返ってみると、たとえば、ジョージ・バークリーは幾何学的な形を知覚するのは視覚ではなく触覚だと捉えていたし[2]、美術史家のバーナード・ベレンソンは絵画における様々なもののテクスチュアを鑑賞者に喚起させる「触覚値」なる概念を提唱していた[3]。また、共感覚的[4]な感覚のありようを鑑賞者に想起させようとしたイタリア未来派など、複数の感覚を制作に取り込むことを試みた芸術家たちもいた。これらのことを勘案すると、視聴覚媒体である映画においても視聴覚を通して触覚を体感することはかならずしも不可能なことではないし、実際、これまでの映画研究においても多様な身体論が試みられている。映画における身体論については後に触れるとして、河瀬が触覚性を作品においてどのように表現しているかを次に見ていこう。

Ⅱ.触知的クロースアップ

 河瀬作品における触覚性は、『かたつもり』に顕著に見て取れる。臨床哲学者、鷲田清一も指摘するように[5]、河瀬の触覚性を最も明瞭に確認できるのは、カメラを持った河瀬が、庭で畑仕事をする祖母をキッチンの網戸越しに指でなぞるシーン(図1)(30:00)である。窓越しに見える祖母を愛おしく語る河瀬のナレーションとともに河瀬の指が祖母の姿をなぞる姿からは、視るだけにとどまらず愛するものに触れたいという想いが映像通り画面全体に表れていると言えよう。美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、「触知しながら身体に沿って滑る手の操作に等しい」[6]縁取りという行為に触覚性を見てとるのだが、河瀬にとって窓越しに(いわばスクリーンのフレーム越しに)祖母を縁取る仕草はまさに、触覚的に他者を把捉する行為なのだ。
 河瀬はさらに、窓越しに愛しい祖母をなぞるだけでは事足りず、彼女自身が庭にいる祖母の元へ赴き実際に祖母の顔に触れる(図2)(30:45)。河瀬は先ほどまで窓越しに指で愛でていた祖母の顔をクロースアップでカメラに収めるだけでなく、カメラを回しながら直接祖母の顔を撫でるのだ。存在しているものを確認するために、河瀬は見るだけでは満足できず思わず手を伸ばし触れてしまう。写真に写った父ではなく、河瀬は実際に触れることで存在している祖母を認識したかったのだと考えられよう。
 その行為は映画制作にも反映し、視覚が重視される映画において、彼女は触覚的なものを求めるようになったのである。したがって、河瀬にとって映画をつくることは視覚的な行為だけではなく、触覚的な行為でもあるのだ。
 次に、触覚性とも切り離すことの出来ない、河瀬のドキュメンタリー作品に見られるクロースアップを分析しよう。彼女のドキュメンタリー作品には、身内や他人を問わず被写体の顔をクロースアップで捉えているショットが数多く存在する。それは河瀬が祖母にカメラを向けた初期作品『かたつもり』から見受けられるが、これはひとつには「近づきたい、近づいて触れたい」[7]という河瀬の気持ちの表れだと言えるだろう。この河瀬の触れたいという気持ちが、彼女が向き合っている人物たちの顔のクロースアップに繋がる。ヴァルター・ベンヤミンによれば、クロースアップは「私たちになじみの小道具の隠れた細部を強調し、(中略)そうすることで一面では私たちの生活を支配しているもろもろの必然性をよりいっそう理解させてくれ」るものだという[8]。だとすれば、河瀬の作品に多く見られるクロースアップ・ショットは、被写体に対しての文字通り肉迫的な存在認識行為を意味するのではないだろうか。河瀬は近づいて触れたいと思うがゆえに、カメラを携え被写体に至近距離で迫る。河瀬作品においてクロースアップはまさに、被写体(人間)の存在認識のための手段のひとつだと考えられるだろう。
 そして、『かたつもり』において、このクロースアップはより明確な触覚性を導くことになる。また、クロースアップによって画面全体に映し出されることになる被写体は、肌の質感を観客に感じさせることとなる。その肌理がみごとに描写されているのが『垂乳女』(2006)であろう。本作は、河瀬みずからの出産を軸に、老いゆく祖母と新しい生命を対比させたドキュメンタリーである。本作の冒頭での河瀬の祖母の入浴シーンにおいてもクロースアップが用いられ祖母の乳房や腹部を映し出す(1:23)。乳房や乳首、そして腹部のクロースアップによって、祖母の身体に刻まれた皺の肌理が克明に提示される。いくら年老いているとはいえ、女性の皺々の乳房や皮膚がたるんだ腹部の接写撮影は養女の河瀬だからこそ実現できたことであるが、それと対比するようにして河瀬が次に映すのは、自らの乳房である(27:10)。妊婦であるがゆえに、人生で最も強い張りを保持している河瀬の乳房は、祖母の皺が無数に刻み込まれたそれと対置されている。若く張りのある乳房としわしわの乳房という相反する質感が強調される。ここで河瀬は、対立する二つの肌理をクロースアップによって映し出すことで観客にそのテクスチュアを提示する。河瀬の被写体へ近づきたい、触りたいという欲求によって自然にクロースアップという手法が選択されたのであろうが、それは同時にはからずも被写体の皮膚の肌理を切り取り、観客にそのテクスチュアを感じさせる効果ももたらす。この皮膚のテクスチュアはさらに、水分を含むことで新たな作用を引き起こすこととなる。次に、河瀬作品に頻繁に登場する水分をたたえたしめり気に焦点を合わせた分析を行う。

Ⅲ.しめり気がもたらす身体接触

 激しく降る雨は映画史においてもストーリーのクライマックスに用いられてきたが、それは河瀬作品においても例外ではなく、ストーリーの起伏が少ない彼女の劇映画において、雨が降るシーンは最も激しさを感じさせるシーンだと言えるだろう。しかし、ここで注目したいのは雨による見せ場の演出方法ではなく、画面から伝わるその水分/みずみずしさである。河瀬作品には、雨のほかにも川や霧などしめり気を感じさせる要素が多数出現する[9]。また、『萌の朱雀』、『火垂』、『沙羅双樹』では画面が雨に満たされ、『殯の森』では雨によって氾濫する小川や霧に満たされる。そのどれもが多分に漏れずストーリーのクライマックスであることは上記の通りだが、同時に雨は登場人物たちの肌に触れることによって彼らの皮膚の肌理を変化させ、画面に湿潤なテクスチュアを生成させる。さらに興味深いことに、雨や小川、霧は視覚的にみずみずしいテクスチュアを感じさせることで、登場人物同士の身体の接触を引き起こすことになる。
 雨や小川、霧によって画面に充満するしめり気は、いかにして登場人物同士の身体接触を促すことになるのだろうか。しめり気は、これまでの映画においても往々にして性をイメージさせるものとして表現されてきた。たとえば、「体液(血液、愛液/精液、唾液)」[10]はポルノ映画や恐怖映画のイコンでもあったように、しめり気と性に密接に関係してきたことは周知のとおりである。そのしめり気が河瀬作品に充満していることは興味深い。事実、河瀬の作品に登場する雨や川、霧などの水分は性的接触を招いているからだ。
 それではここで、実際に河瀬の作品を見てみよう。『殯の森』では、雨に打たれて弱ったしげきの服を真千子が脱がし、自身も服を脱ぎ捨て身体をあたためあうという裸での身体接触を引き起こす(1:07:58)。また『火垂』では、雨の中びしょ濡れになったあやこと大司が銭湯で再び体をぬらした後、性交という究極の身体接触に及ぶ(52:20)。脱衣の行為を経て、距離が限りなくゼロに近くなる身体の重なりあいへと発展するのだ。また、自身が触れることは触れた相手に触れられることでもある。セイモア・フィッシャーや鷲田清一が指摘しているように、「熱いシャワーで皮膚を刺激したり、(中略)抱擁や愛撫を受ける」[11]ことによって、「自分の身体感覚を揺さぶり、それを自分の身体として再認する」[12]。『殯の森』や『火垂』の登場人物たちは、河瀬同様それぞれに家族の不在を抱えているため、他者の存在確認を求める。彼らは冷たい雨に打たれたことを契機に、他者と皮膚に刺激を与え与えられることで他者の存在を確認すると同時に、自己の存在を再認するのだ。そしてそれは、ドキュメンタリー作品である『かたつもり』においても当てはまる。河瀬は祖母の顔に触れることで祖母の存在を確認したと同時に、祖母の顔に河瀬の手が触れられることによって自身の存在をも確認したのだと言えよう。
 このように、劇映画において、河瀬は雨や川、霧などの水分を利用し、登場人物同士を身体の接触へと向かわせる。「触覚的知覚は、(中略)身体的な成分を含んでいる」[13]とモーリス・メルロ=ポンティが述べているように、物に触れて知覚するという行為には、身体性が強く作用していると言える。河瀬の作品における触れる行為は、『かたつもり』のような手で触れることから身体全体による接触へと拡大していく。このようなより大きな身体での接触行為は、前述した河瀬の祖母を窓越しに指でなぞる行為、すなわち存在確認の行為をさらに強調したものだと言えるだろう。上記に挙げた身体接触の例はいずれも、互いの身体を接触させることで、それぞれが抱える家族の不在を埋めるための接触なのである。
 身体接触による存在確認の行為はさらに、彼女自身の出産にも見受けられる。河瀬の出産前後を記録した『垂乳女』は、出産時に赤ん坊とともに出てきた赤々しい胎盤のクロースアップから始まる(図3)。あまりの生々しさに冒頭から面食らう観客もいるだろうが、終盤に用意された臨場感溢れる出産シーン(33:25)とその後のシーンを目の当たりにした観客はさらなる衝撃を受けることとなろう。すなわち、出産を真正面から捉えた映像に、そして赤ん坊とともに生まれ落ちてきた自身の胎盤を口にする河瀬の姿に、である(38:12)。産み落とされたばかりでまだ乾きを知らない血のみずみずしさをたたえた胎盤が、一見しただけでは判断できないほどの大きさで再びクロースアップされる。ここでも、生まれ落ちる赤ん坊とともに羊水とそれに混じった血液という水分が登場するのだ。しかしこれらの水分はこれまで述べてきたような身体接触ではなく、「食べる」という行為を誘引することとなる。
 『垂乳女』後半、河瀬の「あなたと私をつないでいた臓器は、すこし血生臭い、ぬくもりのある味がした」というナレーションが入り、その直後、河瀬が箸で胎盤を口に運ぶ姿を目の当たりにした私たち観客は驚愕する。しかし河瀬にしてみれば、子どもと自分をつないでいた胎盤を口にすることは、両者の繋がりを認識し体感すること以外のなにものでもない行為なのである。「食べる」ことは、本質的に触覚性を含意している。対象を口腔内に感じ、自己の身体の内奥に取り込むことは、内臓をも含んだ接触であり、身体で対象を認知することである。それと同時に、両者の距離を完全にゼロにしてしまうことでもあるのだ。河瀬にとって存在確認の手段の一つであった接触は、しめり気からイメージされる性とそれを体現する身体、そして食することへと辿ることができよう。
 ここで改めて着目したいのが、食が河瀬の作品のなかでも重要な役割を担っていることである。それは対象を身体内部に取り込む行為であるがゆえに、思想史的に見ても性と密接に関わりがあると言えよう。同時に、食は人間の生命維持に不可欠な行為であり、食べることと生きることとはほぼ同義でもある。性器を生々しく映し出した出産シーンから見られるしめり気、そして自らの胎盤を食する行為は、『垂乳女』という作品がまさしく、性と生の表現であることを如実に示していると言えよう。そこで以下では、食べる行為が河瀬作品についてどのような機能を果たしているのかを見ていきたい。

Ⅳ.食という確認行為

 映画と「食べること」が蜜月を過ごしてきたことはしばしば指摘される通りであり[14]、今なお受け継がれている関係である。食べることを主だって掲げていなくとも、あらゆる映画に食事のシーンや食卓が映し出されており、それは河瀬とて例外ではない。河瀬作品にも初期からドキュメンタリーやフィクション問わず、食事や食卓のシーンが度々登場する。衣食住ということばがあるように、日常生活には食という行為が不可欠なため、それが自然と映画に組み込まれるのはごく当然の流れであり、日常と映画制作を線引きせずに制作に取り組む河瀬にとって、食が格好の描写対象であることは間違いないだろう。しかし、河瀬の場合、食べることは一般的な食事の描写のレベルにとどまることはない。もちろん、食事をしたり食卓を囲むシーンは彼女の多くの作品でもしばしば見受けられるが、それだけでなく、既に述べたように彼女は『垂乳女』において長男出産の際に赤ん坊と一緒に出てきた自らの胎盤をも口にすることさえも厭わないのだ。そこで以下では、食べることが生、すなわち存在確認の方法のひとつとなって表現されている『殯の森』に注目してみたい。
 『殯の森』には、住職としげきの次のようなやりとりがある。しげきの「私は生きているんですか」との問いに対して、生きていることを実感するのは「触れて暖かいこと」、そして「食べること」だと住職は答える(10:55)。生きることは自身の存在を認識することとほぼ同義であり、住職の言葉が象徴するように、それに必要なのは触れることと食べることであることが窺えよう。既述したとおり、河瀬作品において存在確認は、触れるだけでなく食べるという究極の接触行為によっても成されるのだ。『殯の森』における住職の言葉を踏まえ、以下では存在確認のひとつの方法である「食べること」に着目し分析しよう。
 実際、『萌の朱雀』では一家団欒の風景として、『火垂』では登場人物たちが心を通わせる場として、河瀬作品において食べることは様々な形で挿入されてきた。そこで注目したいのが『殯の森』で、前述の住職としげきの会話のあと、しげきと真千子が追いかけっこの末にスイカを食べるシーンである(45:40)。住職の言葉を踏まえて二人がスイカを食べるシーンを見てみると、この生きている実感としての食べることをここで二人は共有しており、「食べること」が生きることの本質であることが強調されていると理解できよう。彼女にとって、「食べること」もやはり、存在確認の行為だと言えるのだ。
 以上のことから、河瀬の作品には抱える不在の裏返しである存在確認のための接触として、身体・性・食が結びついていることがわかるだろう。これらは互いに深く結びついている。なぜなら、接触とは身体を通してなされることであり、身体抜きには語り得ないものであるし、性と食は色濃く関係しているものでもあるからだ。性と食はその直接的接触という観点からも類似しているし、性は食に関する言葉で表現されることが少なくないことからも浅からぬ関係にあると言えよう。同時に、この二つは人間が生きていく上で欠かせないものでもあるのだ。食べなければ生を維持することはできないし、性行為がなければ子孫を残すことができない。人間にとって性と食は存在していくために必要不可欠なものなのだ。そしてもちろん性も食も接触なしにはなしえないものである。その意味で、接触とは、人間にとって非常に重要なものなのだ。
 ここでもう一度、『殯の森』の住職の言葉を振り返ってみよう。生きていることを実感するのは「触れてあたたかいこと」、そして「食べること」という言葉に象徴されているように、河瀬にとって生とは観念的なものではなく、あくまで身体的なものである。河瀬は「触れてあたたかいこと」と「食べること」という身体的生を、身体的接触へと還元して描いているのだ。そのため、河瀬の作品では接触が様々な形で表現されていると言えよう。触れることと食べることは、直接的身体接触という点からすればほぼ同義である。そのため、接触を重視する河瀬作品には、接触という概念を内包する性や食といった行為までもが表現されているのではないだろうか。

Ⅴ.静的身体

 『かたつもり』での祖母への接触、『火垂』での性行為、『垂乳女』での出産や入浴、胎盤を食すシーンなど、これまでの作品分析で河瀬作品において、身体がいかに重要な役割を占めているかが明らかになった。では、河瀬作品に見られる身体とは、映画史に置いていかなる独自性を持ち得ているのだろうか。
 そこでまず、これまでの映画研究において、身体がどのように議論されてきたのかを振り返りたい。映画における身体論の代表的な論者のひとりが、リンダ・ウィリアムズだろう。彼女は「映画の身体たち—ジェンダー、ジャンル、過剰」[15]において、ホラー、ポルノグラフィ、メロドラマを身体に訴えかけるジャンル[16]として挙げている。そこでは暴力や恐怖を引き起こすホラー、セックスによるオーガズムを喚起するポルノグラフィ、涙によって感情移入させるメロドラマが身体のスペクタクルとして提示されており、想定された観客層や彼らの性的倒錯についても触れられている。また、スティーヴン・シャヴィロも『映画的身体』[17]で映画における身体について扱っている。シャヴィロは、『映画的身体』において、ジル・ドゥルーズやフェリックス・ガタリなどを辿りながら精神分析に見られる快楽の概念でなくそれ以前の身体性を見出そうとしている。
 ウィリアムズの身体に関する見解からも明らかなように、ホラーやポルノグラフィ、メロドラマだけでなく、スリラーやコメディ、ミュージカルなどは身体の運動に重心が置かれているため、これらのジャンルにおいて身体は作品を論じる際に避けがたいものである。また、海外の文献のみならず、国内の身体論研究書である『映画の身体論』おいても、カンフー映画や殺陣など身体の運動性が中心であるジャンルにしか言及されていない[18]
 それでは、河瀬はどうであろうか。河瀬の作品の場合、ホラーでもポルノグラフィでもないし、ましてやコメディでもミュージカルでもない。この六つのジャンルにあえて河瀬の作品を当てはめるとすれば、最も近いのはメロドラマと言えるが、仮に河瀬の作品がメロドラマであるとして、河瀬の作品に見られる身体性は主にウィリアムズが述べているように恍惚とした苦悩(ecstatic woe)やむせび泣く(sob)行為に見られるような身体的スペクタクルとは異なるように思われる。それでは、河瀬の作品に見られる身体性とは一体どのようなものなのだろうか。
 ウィリアムズやシャヴィロ[19]に代表されるこれまでなされてきた映画における身体の議論はあくまで動的なものであったと考えられる。たとえば、ホラーであれば暴力という身体アクションにおいて観客の恐怖を煽ってきたし、ポルノグラフィはセックスによってオーガズムを表現してきた。またメロドラマは登場人物の感情が高まったがゆえに涙することによって積極的に観客の感情移入を促してきたと考えられる。それゆえ、これら三つのジャンルにおける身体は動的なのだ。
 しかし河瀬の場合、ドキュメンタリーやフィクションを問わず積極的に感情移入を促しているわけではない。彼女は恐怖や暴力に訴えるでもオーガズムに頼るでもなく[20]、涙に訴えるわけでもなく、あくまでも淡々と物語が運ばれるなか接触や食といった日常の行為によって身体性を浮き彫りにする。河瀬は流血や射精、涙なしに、それを表現するのだ。その意味で、河瀬の作品における身体性はこれまで言及されてきた三つ(あるいは六つ)のジャンルに見られるような動的な身体性とは異なった静的な身体性と言えるだろう。

おわりに

 本論で何度も述べてきたように、河瀬の作品を分析する際に不可避なのが「不在」の概念である。というのは、この概念はいくつもの作品散見されるのはもちろん、彼女のひとつの作風の要にもなっているからだ。
 河瀬は、幼少の頃から父親の不在を抱えて生きてきたため、作品にそれが色濃く表れてしまうことは、プライベートと映画制作に明確な線引きをしていない彼女にとってなんら不思議なことではない。一時として一緒に過ごしたことのない父親を、河瀬は写真でしか確認することができなかった。つまり、写真でしか存在を確認できない父親は、彼女にとっては触れることのできない遠い存在であったのだろう。父親とは、本当に存在しているのかどうかわからない、不確かな存在だったのだ。そして河瀬が長らく抱えていた不在は、裏返った形で作品に姿を表す。不在の絶え間ない表出は同時に、眼前の存在への固執でもあったのだ。そのため、彼女にとって他者の存在を確認するために重要なのは、実際に触れることのできるモノだったのだ。触れてぬくもりを感じることのできるもの、それこそが河瀬にとっての存在を意味すると同時に、認識する方法なのである。
 自身の私生活にカメラを向けた私的ドキュメンタリーをはじめ、劇映画にさえも、彼女は存在の確認を求めている。「近づいて、触れたい」思いを抱き、存在を確認するために、河瀬はカメラを持って極限まで被写体に近づき、クロースアップで捉える。そしてそれだけにとどまらず、実際に触れもする。彼女は接触することで、ようやくその存在を確認し、安心することができるのだ。クロースアップによって強調される肌のテクスチュア、画面に満ちたしめり気、それに誘発されるように行われる登場人物同士の身体接触はどれも河瀬の存在確認欲求に基づいていると言えよう。さらに、河瀬は食という身体内部をも使った接触行為も重視しており、接触に含まれるあらゆる行為を、彼女は存在確認の手段にしている。
 暴力や過剰な性行為、劇的な感情の起伏を体験する以前に、河瀬にとって身体とは、ただ存在するものなのであろう。彼女の作品における身体は動的である必要はなく、ただ静かな接触によって存在確認できることが求められるのだ。この静的身体こそが、彼女の作品において決して見逃してはならない特性のひとつだと言える。

 本稿は、京都大学大学院の映画学講義「動態映画文化論」(2011年度)に大きく示唆を受けている。講義を担当された加藤幹郎教授に、この場を借りて御礼申し上げる。

 


[1]たとえば、『萌の朱雀』においては、物語中盤で父親が不在の存在となってしまうのだが、彼がまだ存在していたときに好んでいた音楽が数回に渡って用いられていた。この音楽が、彼が不在となった物語後半でも流されることで、父親の不在が観客に印象づけられることとなる。また、『殯の森』においても、主人公の亡くなった妻が幻影として現れたときの音楽が後の場面で繰り返し用いられることによって、妻の不在が際立つ。このように河瀬は、ストーリーや視覚的方法だけでなく、音楽によっても不在を強調していると言えよう。

[2]ジョージ・バークリー『視覚新論』(下條信輔、植村恒一郎、一ノ瀬正樹訳)、勁草書房、1990年、104頁。

[3]絵画についての議論であるため、あくまで視覚との関係で触覚が捉えられている。

[4]共感覚とは複数の感覚が同時に喚起される状態のことである。

[5]鷲田清一「遇うて空しく過ぐる勿れ—河瀬直美『沙羅双樹』に寄せて」、『沙羅双樹パンフレット』、日活株式会社、2003年。

[6]ハインリヒ・ヴェルフリン『美術史の基礎概念』(梅津忠雄訳)、慶應義塾大学出版会、2000年、34頁。

[7]山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局『ドキュメンタリー映画は語る—作家インタビューの軌跡』、未来社、2006年、370頁。

[8]ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』浅井健二郎監訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫、618頁。

[9]このことに鑑みれば、初めて奈良から飛び出した作品『七夜待』の舞台にタイを選んだのも、その湿った気候に依拠するのだろう。

[10]加藤幹郎『映画ジャンル論—ハリウッド的快楽のスタイル』平凡社、1996、227頁。

[11]セイモア・フィッシャー『からだの意識』(村山久美子、小松啓訳)、誠信書房、1979年、54頁。

[12]鷲田清一『モードの迷宮』中央公論社、1989年、25頁。

[13]モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(中島盛夫訳)、法政大学出版局、1982年、514頁。

[14]蓮實重彦『監督 小津安二郎』、筑摩書房、2003年、32頁。

[15]Williams, Linda Film Bodies:Gender, Genre, and Excess” Film Quarterly Vol.44:4, Summer 1991.

[16]さらにスリラー、ミュージカル、コメディも身体に訴えかけるジャンルとして触れられている。

[17]Shaviro, Steven The Cinematic Body, Univ. of Minnesota Pr.,1993.

[18]『蘇る相米慎二』における大澤浄の「「過程」を生きる身体—相米映画の子どもたち」論でも、身体の運動性を中心としたジャンルには当てはまらない作品を対象にして分析されているが、それでも、身体を論じる際は運動性に注意が向けられている。

[19]シャヴィロも『映画的身体』において、デヴィッド・クローネンバーグ(1943〜)について述べているが、あくまで暴力性に焦点をあわせたものにとどまっている。

[20]『火垂』にはセックスシーンが存在するが、オーガズムを強調しているわけではなく、また河瀬の作品に多く見られるクロースアップではなくロングショットで撮っていることからも、ポルノグラフィとは違い極めて静かなセックスシーンだと言えよう。


 

 

Ytext/htmlUUTF-8 (7N`v����"�, �2