7 CineMagaziNet! no.15 植田 真由「金沢こども映画教室レポート」

ホームドラマ終焉の一形態として ― 吉田光希監督『家族X』―

山田 峰大

「3.11以降の家族を予知させる家族映画」
 吉田光希監督作品『家族X』(2011)が観客にとって幸福なのは、誇大広告にも見える惹句が、映画の内実をそのまま表している点である。本作の監督である吉田光希は、前作『症例X』(2007)により、第30回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)の審査員特別賞を受賞し、第20回PFFスカラシップによる後援を得て、本作『家族X』でデビューした人物である。PFFスカラシップ作品は、これまでかなり高い水準を維持しており、本作においてもそのクォリティーの高さは保たれている。それでは、いかに『家族X』は、3.11以降の家族像を予知しているのか。いや、むしろ、いかにして3.11以前の映画史的な家族像を破壊しつくしたのだろうか。
 本作の最大の見どころは、次第に精神に失調をきたす母親の表象であり、家庭がその中枢から崩壊していく様子をつぶさに描かれている点である。これまでの日本映画史において、優しく穏やかな良妻賢母を描いた作品が、多数製作されたことは言うまでもないだろう。また、母親という役割を徹底的に拒否することによって印象的なキャラクターを確立した例もいくつか描かれてきた。前者の例としては、『秋日和』(1960)における原節子演じる母親があり、後者の例としては、野村芳太郎監督『鬼畜』(1978)における義母などがあげられる。ただ、『家族X』が新しい点は、この映画の主人公である母親が「良妻賢母」というイデオロギー自体に含まれる欠陥によって、その内面から崩壊していく点である。
 まず、『家族X』をはじめとする日本映画や、それを取り巻く近代の日本社会において、「良妻賢母」とはどのようなものであったかを確認しておく。このイメージの発端は、明治32年の高等女学校令にさかのぼることができる。ここで国家は女性に対し、家族の一員としての役割にとどまらず、家事育児を行う具体的国民としての役割を与えたのである。このイデオロギーの普及は急速に進み、明治後期から大正期にかけての育児熱は急速に高まっていく。その好例として、鳩山春子による『我が子の教育』(1919)があげられるだろう。この書籍において、鳩山は息子の教育に十分に手をかけたことを記録している。このような良妻賢母思想が、これほど急速に普及した理由は、近代社会において母親が自分の能力を発揮する場所が、育児の場に限られていたことに起因している。
 さらに、第二次世界大戦の折には、軍国の母として、未来の兵士を育成し、夫の銃後を守る役割が課せられる。そして、戦後からは西洋から流入した科学的育児法や、『パパは何でも知っている』(1958〜1964)などの海外ドラマに見られる良妻賢母のイメージが広がっていき、加えて、1970年代には受験戦争の激化によって、さらに教育熱が増していくのである。
 このような歴史的背景からわかる通り、良妻賢母思想は歴史的に加熱することはあっても、否定されたことのないイデオロギーなのである。このような状況を反映して、日本映画において多くを占める母親像は、良妻賢母型の母親像を絶えず表象していく。
 しかし、この良妻賢母を推奨するイデオロギーが、成功していたとは言い難く、1960年代には、既にベティ・フリーダンが『女らしさの神話』を著し、社会的に望まれる役割と自分自身のギャップに悩み、精神の不調を訴える女性たちの姿を描いている。ハリウッド映画においても、遅くとも1974年にはジョン・カサベテスが、精神的な不調をきたす母親像を『壊れゆく女』を製作した。専業主婦は、その穏やかなイメージとは裏腹に、非常に多くの危険因子を含む社会的役割である。専業主婦という職業そのものが人格に合わないケースや、子供の教育に対する過度なプレッシャー、さらに、子供を無事に自立させた後にも、空の巣症候群という鬱症状を発症するケースなど、様々な問題をはらんでいる。
 このように多数の欠陥を抱える良妻賢母思想であるが、日本映画において、その欠陥を指弾した映画は存在していない。この事実は、日本映画がいかに男性的な眼差しでもって作られてきたかを証明する事実でもある。だが、吉田光希監督の『家族X』においては、母親がその良妻賢母思想を内在化した母親が、そのイデオロギー自体の欠陥によって、内面から崩壊していく様子が描かれ、その綻びは的確な演出によって表象されている。
 破たんの兆しは、まずコミュニケーションの失敗から始まる。『家族X』の専業主婦である路子(南果歩)は、毎日几帳面に食卓を整えるが、夫も息子も誰も席に着こうとしない。「ごはんは?」という彼女の質問を、きちんと受け取る家族は誰もいない。劇的な事件の起こり得ないホームドラマにおいて、家族のコミュニケーションは、大きな見せ場であるはずだが、本作におけるコミュニケーションは非常に希薄である(あるいは、コミュニケーションがあったとしても言葉の行き違いによって、失敗している)。『家族X』には、小津映画のような穏やかなコミュニケーションも、「男はつらいよ」(1969〜1995)シリーズにあるような、情感豊かでにぎやかなコミュニケーションも存在しない。この希薄な関係が、彼女を徐々にむしばんでいく。
 さらに、受け取られないのは、路子の言葉だけではない。彼女が提供する家事労働は、その受け取り手を失っている。彼女は、非常に丁寧に(あるいは、神経症的に)料理を作り続けるが、彼女以外の誰かが食卓につく様子は、全く描かれない。交換の対象とならない彼女の家事労働は、家庭内で一切の価値を持ち得えない。さらに、夫のリストラや、フリーターの息子など、経済的な苦境がこの家庭を侵食しつつあるが、主婦の労働はこの状況を打破することはできない。このように、主婦という存在が、作品のなかで形骸化し、さらに路子を追い込んでいく。最早、「良妻賢母」を体現する主婦像が、現代社会において何ら有益な機能を果たしえないことが、作品の早い段階で明言されるのである。
 彼女の精神的な危機の発露は、物語上においては摂食障害の発症といったかたちで表象される。あるいは、冷蔵庫の食材を腐らせてしまうなど、次第に散らかってゆく台所を用いて、比喩的に表象される。また、別の比喩として、ウォーターサーバーの巨大なボトルやロールキャベツ、ゴミ袋を用いたものがある。この包みこむイメージをもつこれらの表象は、家庭の比喩であると同時に、包容力のある母親の比喩でもあろう。これらのなかに異物が紛れ込む(ウォーターサーバーのなかに藻が湧く。燃えるゴミの袋のなかに、空き缶が入り込む)ことで、あるいは、ロールキャベツを握りつぶすことで描かれる。
 この食べ物をグロテスクに利用するという演出は、この監督の前作『症例X』においても用いられている。ここでは、統合失調症と認知症を患った母親を介護する息子が描かれており、母親が食事の直前に粗相をしてしまうシーンがある。その後、二人は浴室へと向かうが、カメラは台所に留まって、ハイアングルから食卓に並んだ野菜炒めと、椅子に残った母親の粗相の跡(濡れた染み)を撮影する。この皿と汚物を並置する演出によって、食べ物が最早、食欲を刺激することのない汚物同然のものに失墜したことを示し、同時に食べ物の提供者である母が、最早、その役割を果たせなくなったことを、徹底的に表象するのである。
 さらに、この作品のなかで最も卓越しているのは、路子がスーパーからの帰り道を歩く、住宅地の場面である。このシーンは、ロングテイクで撮影され、街路を歩く彼女の様子が、切れ目なく描かれる。両脇にはニュータウンの新興住宅が、びっしりと規則的に並んでおり、さらに玄関先には、たむろする主婦や、遊ぶ子供たち、車で出かける人々が絶えず登場する。このシーンの間中、彼らの立てる音(話す声や車のドアの閉まる音)が、絶えず強調され、これら住宅地の全てが、路子の精神を責めさいなんでいることがわかる。それ故に、路子は家に帰った後、家中の窓のカーテンや、ブラインドを閉めて、外部からの情報を遮断せねばならない。さらに、このシーンで効果をあげているのは、通りの向こうに見える巨大な鉄塔である。その鉄塔は、一点透視法で描かれた道路の終着点に屹立し、判で押したように均一な住宅とは、全く異なる印象を観客に与える。住宅が温かな色合いで描かれ、人の気配が濃厚であるのに対して、この鉄塔の持つイメージは非常に硬質である。この住宅地のなかの異質な塔の存在が、路子の象徴であることは言うまでもない。彼女の家庭以外では、良妻賢母が取り仕切る幸福な中産階級の家庭が維持されているのに対し、彼女自身の家庭が既に、この新興住宅地のなかで異質なものに変容しつつあることを、作品は明確に宣言している。
 作品は、主婦が社会の中で、あるいは家庭のなかで疎外される様子を丹念に追っていく。この映画のあらゆるシーンは、いかにして主婦を追い詰めるかというひとつの目的において構成されており、一片の無駄も遊びもなく、ひたすら主婦がその立ち位置を削られていくのである。その執拗さは非常に悪趣味であり、『家族X』は商業娯楽映画にはなりえない。しかし、この試みが、日本映画史において、非常に価値のあるものである。近代的な家族像の崩壊を映画いた作品は多くあるだろう。黒沢清は、『トウキョウソナタ』(2008)において、日本社会の急激な変化によって、その関係性を大幅に変更せざるを得ない家族を描いた。さらに、小林政宏は『愛の予感』(2007)において、娘を同級生によって殺害された父とその加害者の母との関係(と呼ぶにはあまりに希薄なつながり)を描くことによって、ホームドラマという人間関係を描くジャンルの不成立を宣言した。特にこの『家族X』は、『トウキョウソナタ』と、よく似た家族構成をしている。父親はリストラされ、母親の家事労働は、誰からも享受されることはない。しかし、本作が『トウキョウソナタ』よりも、画期的なのは、やはりその主婦表象によるものである。『トウキョウソナタ』においては、小泉今日子演じる母親が、多様な苦難に直面しても、その自我機能を維持し続ける。そして、最終的には、家族は彼女の提供する料理を食べ、彼女が紆余曲折を経て、再び良妻賢母型の人物に収まったことを示すのである。
 しかし、『家族X』は、最終的に主婦は、スリッパとエプロンを身につけた部屋着の姿のまま、屋外へと飛びだしてしまう。いかにも、その服装はいかにも主婦的なものであるにもかかわらず、スリッパで街路を歩く彼女の姿は異様であり、皮肉にもホームレスのように見える。家そのものを体現するはずの主婦が、家そのものの不在を映像的に表現するという、逆説的な事態が作品のクライマックス近辺で発生するのである。こうして、家庭の安寧を目的としたはずの良妻賢母思想が、完全に機能不全に陥っていることが明確に表現されるのである。
 『家族X』のテーマは厳密である。そのため、作品のなかに曖昧な解釈を呼び込むことができず、鑑賞中はある種の息苦しさを覚悟せねばならない。しかし、日本映画おける典型的な良妻賢母像を、その内的な欠陥を明らかにしつつ、彼女が自壊する様子をつぶさに描き切った点は一定の評価に値する。これまでの日本映画において表象されたのは、型的な良妻賢母像か、母親が既に亡くなっており、その人格が神格化されているなどのケースである。しかし、『家族X』においては、これまでの邦画が作為的に見落としてきた母親像を表象することで、皮肉な斬新さを獲得するのである。
 『家族X』におけるXは、匿名性と普遍性を表すXであると同時に、アルファベットの最後の文字でもあるXである。『家族X』は、『愛の予感』などの同時代的な映画が、描いてきた家族像の終焉を、良妻賢母思想を体現する専業主婦の精神的な危機を描くことによって成功させた作例であるといえるだろう。