bplist00?_WebMainResource? ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO?G CineMagaziNet! no.17 有森由紀子 フロンティアで踊る男

フロンティアで踊る男
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』におけるフロンティア・ヒーロー像


有森 由紀子

 

0、はじめに
 1990年代は、すっかり廃れてしまったジャンルとの印象が強かった西部劇映画がアメリカにおいてリバイバルの様相を見せた時代であり[1]、1990年に公開された西部劇映画『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(Dances With Wolves, 1990)の興行的な成功と、作品賞を含めたアカデミー賞七部門の受賞はそれを象徴する出来事であった。この作品は、従来の西部劇映画(以下、西部劇)では大抵の場合、血に飢えた野蛮人として人種差別的に描かれてきた「インディアン」をより人間らしく、より好意的に、そしてより正確に表象していることが最大の成功要因とされた。そのためPC西部劇[2]と称され、政治的正しさが十分か否かという観点からこれまで多く論じられてきた。例えば、主要な登場人物にアメリカン・インディアンの俳優を配し、ラコタ語をかなり正確に用いている点などがある程度評価されるものの、「高貴な野蛮人」や「天性のエコロジスト」といった使い古されたステレオタイプを踏襲していることや、「よいインディアン」としてのスー族と「悪いインディアン」としてのポーニー族の対比、19世紀を舞台にインディアンを「消えゆく人々」として、現代から見れば過去の存在として描いていることなどへの批判がなされている[3]。このような批判はPC西部劇としての本作の限界を示すものだが、PC西部劇とは非インディアンの側から見たインディアン像の見直し、西部開拓史の再検討を行うものに過ぎないという観点から見るならば、前述のような批判を受けるのは当然の成り行きと言えるかもしれない。
 そもそも西部劇とは、白人男性優位の世界における白人男性主人公の物語を扱い、主に非インディアンの男性観客を対象とするジャンルである。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の主人公も、ケビン・コスナー演じるジョン・ダンバーという白人男性である。本論ではこの前提に立ち、本作が描く白人男性主人公のフロンティアにおける物語がいかなるものなのか、またそこから伺える90年代西部劇としての特質を、映画テクストの具体的分析を通して明らかにしたい。

1、インディアン化する白人の系譜
 
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が舞台とするのは、南北戦争中の1863年のサウスダコタである。北軍中尉である主人公ジョン・ダンバーは、負傷した足を切断されるぐらいなら死を選ぶとして自殺行為に出た結果、意図せずして英雄となり、望みの任地へ赴く権利を得て西への移動を始める。失われる前にフロンティアを見ておこうと、まずはヘイズ砦へ、そしてさらに辺境のセジウィック砦へと西進し、その地で出会ったインディアン(スー族)との交流を通して、白人ジョン・ダンバーからスー族の「狼と踊る男(Dances With Wolves)」へと生まれ変わっていく。本作が主に描くのは、フロンティアにおいて白人男性主人公がインディアン化する物語である。
 ダンバーのようにインディアン化する白人は、これまでも西部劇にたびたび登場してきた。古典的西部劇では、インディアンは野蛮で残忍な敵としてステレオタイプ化されて描かれる場合が多く、その表象や物語上の役割に大した重点は置かれなかった。そのため、インディアン化した白人登場人物の多くは、インディアンの言語や風習に通じているらしいというほのめかしと、それによってインディアンとの戦いにおいて有能な戦士たりうる者として描かれた[4]。これに対し、インディアンのより正確な表象に重点を置くPC西部劇では、インディアン化の程度はより高まる。インディアン化した白人主人公は、映画内においてインディアンと白人とを仲介すると同時に、圧倒的に白人の側に位置する観客と映画内のインディアンとを仲介する者として、より大きな役割を担うのである[5]。どのようにしてインディアン化したか、その程度、インディアンへ抱く感情は様々ではあるが、インディアン化した白人は西部劇に数多く登場する。
 インディアン化する白人は、植民地時代より実際に存在してきた。インディアンの捕虜となって長期間、彼らと共に生活することを強制された場合と、自ら望んでインディアン社会へ参入した場合とに大別されるが、いずれの場合もインディアン社会での生活を経験することによってインディアンへ同化するのである。彼らの実体験は、それぞれ虜囚記文学とハンター物語を形成していくが、両者の伝統を受け継ぎ、インディアン化した白人フロンティア・ヒーローの原型を生みだしたのは、ジェームズ・フェニモア・クーパーのレザーストッキング物語―『開拓者たち』(The Pioneers, 1823)、『モヒカン族の最後の者』(The Last of the Mohicans, 1826)、『大草原』(The Prairie, 1827)、『道を拓く者』(The Pathfinder, 1840)、『鹿狩り人』(The Deerslayer, 1841)からなる五部作―である[6]。白人社会とインディアン社会を行き来する主人公ナッティ・バンポー(通称レザーストッキング[7])は、白人とインディアンの美徳を併せ持った人物として描かれる。インディアンの存在と、彼らとの接触とによってもたらされるインディアン化の経験は、ヨーロッパにはないアメリカ独自のものであった。そして、ヨーロッパとは異なるアメリカの自然環境の中で生き抜くために有効な先住アメリカ人の資質を身につけたレザーストッキングは、誰よりもアメリカの地に適応したヒーローとなる。インディアン化した白人は極めてアメリカ的な人物なのである。
 レザーストッキングは、その伝統を受け継いだ子孫を無数に残してきた。彼の後には狩人、わな猟師、開拓者、開拓農民、カウ・ボーイたちが続き、西部開拓時代が終焉した後もビートニクやヒッピーたちがインディアン化の願望を抱き、その系譜に連なる(フィードラー 24-25)。インディアン化の経験はアメリカ(人)とは何かを規定する際に重要な役割を担うものとして、形を変えながら現在にまで受け継がれてきたのである[8]。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、アメリカン・インディアンを祖先に持ちその血を引くことを誇りとして表明する近年の傾向[9] や、インディアン化による自分探しや自己再生を志向するニュー・エイジ・ムーヴメントの影響を受けている。ジョン・ダンバーは、インディアンになりたがる同時代のアメリカ人の傾向を反映した人物であり、レザーストッキングの系譜に連なる子孫なのである。それでは、ダンバーはレザーストッキングの伝統をどのように受け継ぎ、また変容させているのだろうか。

2、カウンター・イニシエーション
 「自殺を試みて、生きている英雄になってしまった」と語るダンバーは、最初から西部劇のヒーローらしからぬヒーローとして登場する。彼の西部への移動自体も、南北戦争の血生臭い戦場から遠く離れた地への移動であるという点で、戦場からの逃避という軍人らしからぬ行動である。彼はおそらく戦争のトラウマを負っており、そのために戦場から逃避するように西部へ赴くのであろう。冒頭の南北戦争シーンは、血染めのエプロンや手術具、持ち主を失ったブーツの山、足の切断の危機といった、兵士にトラウマを与える戦争の負の側面を(ひかえめにではあるが)描いているからだ。ダンバーは北軍の中尉であり栄誉勲章を受けている点で勝者であるが、敗者のごとくトラウマを負い、自殺の試みによって英雄になったという点では勝者らしからぬ勝者である。軍人ダンバーが見せるこうしたヒーロー像は、60年代後半から70年代に隆盛したPC西部劇のレザーストッキングの子孫たちの姿に通じる。『小さな巨人』(Little Big Man, 1970)や『ソルジャー・ブルー』(Soldier Blue, 1970)といったPC西部劇では、インディアン化した白人主人公は、白人に征服されるインディアンとして敗者のトラウマを負うと同時に、インディアンに非道を行った白人として罪悪感にも苦悩する。彼らは、泥沼化したヴェトナム戦争とそれが残した後遺症に苦悩した同時代のアメリカ人の反映でもある[10]。南北戦争で心身に傷を負ったダンバーの、戦場からの逃避によってはじまるフロンティアにおける物語は、過去のPC西部劇のレザーストッキングの子孫たちのその後を描くものとして位置づけられる。それにふさわしく、フロンティアにおけるダンバーの物語の始まりとなるシーンには、西部劇のラストシーンに典型的なショットが登場する。それは、彼がヘイズ砦から任地であるさらに西方のセジウィック砦へと出発していくシーンであるが、地平線へ向かって旅立つダンバーの姿を、それを見送るファンブロー少佐のいる室内から映した、窓枠に縁どられたショットが挿入されるのである(図1)。このショットは、西部劇のラストシーンに典型的な、ヒーローが地平線へ去っていくショットに類似する。『駅馬車』(Stagecoach, 1939)のラストシーンや、ドア枠に縁どられたジョン・ウェイン演じるイーサン・エドワーズが荒野へと去っていく『捜索者』(The Searchers, 1956)のラストシーンを思い浮かべればよかろう。西部劇のラストシーンからフロンティアにおけるダンバーの物語が始まるのは、ジャンルが終焉した後の西部劇としてもふさわしいものといえる。
 地平線へ消えていったフロンティア・ヒーローのその後の物語として本作が描くのは、インディアン化によるトラウマ回復の試みである。ダンバーの地平線への旅立ちを文明の側から見送るファンブロー少佐が窓枠に縁どられた小さな空間に閉じ込められ(図2)、南北戦争によって堕落した文明社会の内で精神に異常をきたして自殺するのに対し、ダンバーはそこから脱出する。そして、白人文明社会の対極に位置するものとしてユートピア的に描かれるインディアンの領域へと逃避し、インディアン化することによる癒しと自己再生を得ようとするのである。この企て自体は、インディアン化が志向するものとしては、実際に達成されうるかは別としてありきたりなものである。
 白人が文明を象徴するのに対し、インディアンは野蛮を象徴するものとされてきたため、白人のインディアン化には常にある種の退行が伴ってきた。文明よりも自然を愛し、究極的には森を恋人とみなす自然児的人物として描かれたレザーストッキングにとって、この退行は「大人の文明化した世界から未開の土地、自然、荒野へと逃げ出そうとする」カウンター・イニシエーションとして顕れる(渡辺 238)。加えて、彼が同化するインディアンは「高貴な野蛮人」という理想化されたステレオタイプで示される。そのため、インディアン化した白人レザーストッキングは、文明の汚れを免れた無垢な自然児として理想化されたフロンティア人の原型となるのである。レザーストッキングの伝統を受け継いだ者たちも、文明社会の抱える問題から逃れるために、また文明の汚れを洗い落として自身を純化するために、理想化された「インディアン」になりたいという願望を抱いた。そして、インディアンへと変容する過程で自分探しを行い、インディアンとしての新たなアイデンティティを獲得することによって生まれ変わりたいと願った。
 ダンバーのインディアン化も、上記のようなインディアン化の伝統にのっとったものである。彼はスー族の「狼と踊る男」への生まれ変わりの過程において、まず人間から動物状態へ、汚れた大人の世界から無垢な幼児の世界へと極端に退行し、徹底したカウンター・イニシエーションの過程を経る。セジウィック砦において人間社会から疎外されたダンバーの友となるのは、動物(狼と馬)である。「二つの靴下(Two Socks)」と名付けられた狼との交流は、カウンター・イニシエーションの重要な部分を成す行為であり、彼のインディアン名と映画のタイトルの由来となる。また、スー族との初めての遭遇時には裸(文明の汚れも含めたあらゆる汚れを洗い落としたまっさらな状態)で川から上がってくるし(図3)、二度目の遭遇時にはズボンははいているが上半身は裸である(図4)。三度目の遭遇では、英語を解さないスー族の「蹴る鳥(Kicking Bird)」と「風になびく髪(Wind In His Hair)」とコミュニケーションを取るために、人間性の象徴たる言語を捨ててバッファローの身振りをする(図5)。彼自身が動物状態になると同時に、裸であることや言語を介さないことによって幼児へと退行する。そして、カウンター・イニシエーションの最終段階として、自然と調和して生きるスー族の一員「狼と踊る男」となる。このようなインディアン化を経ることによって、ダンバーは無垢を回復し、堕落した白人文明社会が彼に負わせた戦争のトラウマへの癒しを得て、「狼と踊る男」という新たなアイデンティティの獲得による自分探しを行うのである。

3フロンティア像の変容:荒野から母なる自然へ
 本作のフロンティアは雄大で美しい自然として描かれる。ダンバーのヘイズ砦からセジウィック砦への道中を描くシーンには、雄大な自然の風景の美しさを描くことに専心しているかのようなショットが続く。自然児への生まれ変わりを志向するダンバーにとって、このフロンティアの自然は彼を包み込む母なるものといえる。しかし同時に、このフロンティアの風景は、厳しい自然環境が人間を拒む荒野として言い表すことも可能である。東から西へと荒野を開拓し文明を築くことを「明白な天命」とした従来の西部開拓史観にのっとれば、白人はこの自然を征服していく。白人によって乱獲されたバッファローの死骸は、その不吉な予兆となる[11]図6)。
 ここで、多様な意味と象徴性を帯びた「フロンティア」という語の意味するところを確認しておきたい。西部開拓史の文脈では「フロンティア」は大きく三つの意味でとらえることができる。第一に、それは相対する二項、例えば文明と野蛮、開拓地と自然、白人とインディアンとが接する「境界地」であった。この境界地に生きるフロンティア人がヒーロー足りうるかは、境界線を超えていかに双方の領域を行き来できるかに拠っている。第二に、「フロンティア」は人間社会の周縁部、すなわち「辺境地」を意味する。フロンティア・ヒーローは人間社会が厳格に規定する境界線の横断という一種のタブーを犯すことで、常に辺境地に生きざるをえない人間社会の異端者的存在でもある。第三に、常に境界の一方(白人・文明の側)に重点を置く従来の西部開拓史観によれば、「フロンティア」は文明化や対インディアン戦争の「最前線」でもあった。古典的西部劇のフロンティア・ヒーローたちは、白人文明社会のイデオロギーに積極的に奉仕し、最前線たるフロンティアで戦い、境界の他方(自然とインディアン)を征服する勝者であった。PC西部劇では、フロンティア・ヒーローはよりインディアンの側に共感を寄せ、悪者となった白人と戦い、そして敗北した。いずれにせよフロンティアには境界で接する双方の間の対決という概念が付随し、境界の一方(白人・文明)が他方(インディアン・自然)を征服することによって絶えず西へと移動し、やがては消滅することが歴史の必然とされてきた。そしてフロンティア・ヒーローも、フロンティアの消滅と同時にその役割を終えて消えゆく運命を負ってきた。
 ダンバーにとってのフロンティアは、南北戦争の場から遠く離れた白人文明社会の辺境地である。彼の戦場からの逃避は、ヘイズ砦においてファンブロー少佐の「インディアンと戦うために西部へ来たのか」というもっともな問に対し、ただ「フロンティアを見たい」と答えることによって対インディアン戦争の場としてのフロンティアを拒絶するところまで一貫している。そして、スー族へ同化する過程で軍人であることをやめてしまう。軍服をスー族の服飾品と交換し、セジウィック砦を去ってスー族の集落で暮らすことで軍務を放棄し、スー族の女性「拳を握り立つ女(Stands With A Fist)」[12]?と結婚する。ダンバーはフロンティアにおいて、文明から自然へ、白人からインディアンへ、男性的領域(戦場)から女性的領域(家庭)へと境界線を横断するのである。このようなダンバーの行為は、フロンティア・ヒーロー像からの逸脱であると同時に、時代の流れに逆らうものでもある。ダンバーの母なる自然としてのフロンティアは、レザーストッキングが恋人とみなした森に類似する。自然児レザーストッキングにとってのフロンティアは、今日では地理的東部(ニューヨーク州)に位置する、豊かな自然としての森であった。しかし、この森は時代の流れと共に白人の開発によって破壊されていき、フロンティアはより西部の荒野(グレートプレーンズ)へと移動していく[13]。これに伴いフロンティア・ヒーロー像もまた、豊かな自然に抱かれる自然児レザーストッキングから、耕作には適さない不毛な地で自然と戦うその子孫たちへと変容していく。ダンバーのインディアン化に伴う境界線の横断は、荒野からレザーストッキングの森へとフロンティアを回帰させ、文明人からレザーストッキングのような自然児へと回帰しようとする試みである。
 しかし、フロンティア人は境界の双方を繰り返し行き来することを宿命づけられている。白人がインディアンになるとは、より正確には白人とインディアンとのハイブリッドになり、双方の社会の辺境地を不安定に漂う者になるということでもある。自分探しの意図を持ったインディアン化は、結果的には完全に白人でもインディアンでもないものとしてのアイデンティティのあやうさをもたらすのである。必然的に、ダンバーが白人文明社会から逃れてインディアンのユートピア的領域に没入することは許されないし、彼のインディアン化も完全には達成されえないことになる。

4、レザーストッキングを真似た戯れ
 ダンバーが西部へ赴いた動機を「フロンティアを見ておきたい、失われる前に」という曖昧な言葉で語るのは、フロンティアに対して抱く彼のイメージが漠然としたものであることを示しているように思われる。ダンバーはそもそもフロンティア人ではなく、フロンティアについてもインディアンについても直接的には知らない。彼がインディアン化するきっかけも、孤児となってインディアンに育てられたとか捕虜となって彼らと長期間、生活を共にしたなどというのではない。そのため、ここでいう「フロンティア」と「インディアン」は、ダンバーがこうあってほしいと抱く願望の反映と捉えられるのである。この映画におけるスー族の描写自体が、「高貴な野蛮人」や「天性のエコロジスト」という理想化されたインディアンのステレオタイプを踏襲しているという批判にみられるように、非インディアンのアメリカ人の願望の反映と解釈できる。本作が提示するこのようなインディアン像は、物語が基本的にダンバーの視点で語られるために、彼の願望の反映としてのインディアン像に限りなく近いものではある。
 しかし、彼の英語のナレーションや日誌の記述によって、彼が観察し理解したところのインディアン像が示されるのと同時に、スー族の人々にも少なからずラコタ語でダンバーについて語る機会が与えられている。「蹴る鳥」はダンバーがなぜ一人で砦にいるのかを不思議がり、魔力を持っているのかもしれないという考えを部族の会議で述べる。「風になびく髪」はより辛辣で、「そのバカはたぶんはぐれ者だろう」と言い、バッファローになるダンバーを見て「頭がおかしいらしい」とあきれた顔をする。このようなラコタ語の語りをダンバーは解さないが、観客には英語字幕によってその内容が示されることで、スー族の視点が観客にも共有される。そこから伺えるのは、インディアンになりたがるダンバーの行為(動物状態・幼児への退行)は、スー族の人々にとっては不可解なものであり、ダンバーの抱くインディアン像は真にインディアンであるスー族の人々から乖離しているということである。「風になびく髪」の言葉はダンバーに関する客観的事実を言い当てている。ダンバーとスー族の相互交流が成立しにくいのは、英語とラコタ語という言語の違いに加えて、現実とダンバーの抱く理想像との乖離によるすれ違いにも起因しているのである。
 スー族の人々が「狼とのダンス」と解し、ダンバーに「狼と踊る男」の名を与える由来となるシーンにおいても、ダンバーと狼との間に相互交流が成立しているのに対し、スー族の人々は遠くから不思議そうにそれを見つめる(図7)。ダンバーを見るスー族の視線を観客が共有するのに対し、ダンバーは彼らに見られていることも、名付けが行われたこともその時点では知らない。このダンスシーンの直前にはもう一つのダンスシーンとしてダンバーがたき火の周りで踊るシーンが存在する(図8)。野性的な動きと大地を踏みしめ自然と一体化するようなダンス、それを見つめる狼という構図によって、このダンスもまた彼の自然児への変身を表現しようとしているのかもしれない。しかし、別の見方をすればこれは白人がインディアンを真似て踊っているだけのやや滑稽なシーンともいえる。西部劇において、インディアンがたき火の周りで踊るシーンは、彼らの野蛮で異質な文化を強調する典型的なものであったが、それと同様の印象をこのシーンは与えるのである。つまり、二つのダンスはインディアンになりたがるダンバーの戯れであり、「狼と踊る男」はスー族の視点で見れば「インディアンを真似て踊る男」と解することができるのである。
 実のところ、ダンバーが真のインディアンであるスー族の人々に受け入れてもらうには、願望の反映としてのインディアンになるのとは正反対の過程をへる必要がある。インディアン化の願望は、ダンバーを動物状態・幼児へと退行させ、軍人であることをやめさせるが、実際にはスー族との接触を重ねるごとに彼は軍服をきちんと着るようになり(裸→ズボン→着崩した軍服→正装)、それに伴って両者の交流が成立するようになる。また、スー族の人々がダンバーを受け入れ、かつダンバーのスー族への同化の起点となるのはバッファロー・ハントとポーニー族との戦いという二つの戦いである。バッファロー・ハントでは、バッファローを殺し、その生肉を食らうという一種の勝利の儀式を経ることで、ダンバーは狩りの成功を祝うスー族の祝宴の場に迎え入れられる。ここでも彼はバッファローの身振りをしているのだが、それはラコタ語の語りとほぼ同等のものとしてスー族の人々に理解される。また、軍服(白人の服装)をスー族の装飾品と交換することで、彼らへの同化が始まる。ポーニー族との戦いでは、スー族の戦士の留守を預かって彼らの家族を守るために戦うが、これはスー族の人々がダンバーに信頼の証として与えた名誉な役割である。勝利によってそれに応えたダンバーのナレーション(「私のスー族の名前[狼と踊る男]が繰り返し呼ばれるのを聞くうちに、自分が真に何者であるかを初めて理解した」)が、インディアン化による自分探しが完了したことを告げる。そして、この戦いを「領土や富、自由解放のための戦いではない。エゴもない。ひと冬を越すための食料を守り、身近にいる女子供、愛する者を守るための戦いだ。私はこれまで感じたことのないプライドを感じた」と評することで戦うことの意義を再発見し、南北戦争で得た戦争への幻滅から回復する。「インディアンを真似て踊る男」が、真のインディアンに受け入れてもらう過程は、戦場から逃避したダンバーが勝利を得て、戦う男としての自己再生を果たす過程なのである。
 ここで注目すべきは、双方の戦いにおける勝利は銃とライフルという白人の武器や戦法によって達成されており、つまりダンバーの戦う男としての自己再生は常に白人としてなされるということである。ポーニー族との戦い以前に、ダンバーはスー族とポーニー族の戦いへの参加を断られるのだが、それは彼が白人であるためにスー族の戦士としては認められず、同時に白人の戦法はインディアン同士の戦いにおいては役に立たないからだ。ここで彼は白人としてもスー族としても戦う男として不適格の烙印を押されるのであるが、ポーニー族に対する勝利によって、白人としては戦う男であることを認めてもらえるのである。そのため、ダンバーは白人として自己再生を果たすたびに真のインディアンたるスー族へ接近するという矛盾を抱えることになる。スー族は、「インディアンを真似て踊る男」を自然から文明へ、女性的領域から男性的領域へと、さらにはインディアンの側から白人の側へと引き戻す引力となる。
 しかし、これがダンバーにアイデンティティの危機をもたらすことがないのは、白人としての自己再生自体がインディアン化同様の戯れになっているからである。バッファロー・ハントとポーニー族との戦いは、敵がバッファローやポーニー族であるという点で、歴史的にみて白人とインディアンの戦いの場であったフロンティアが排除されている。「悪いインディアン」のステレオタイプを踏襲したポーニー族の描写[14]?も、ダンバーが望む悪役像の反映ととらえることができる。これらはダンバーにとって戦争の代用として機能しているにすぎない。彼はこの戦争を真似た戯れによって、戦う男、男らしい男として自己再生を果たしたいという願望を成就させる。戦場から逃避するためにフロンティアへ赴きながらも、模範的な軍人であることを示そうとするかのようにセジウィック砦で一人、軍務にいそしんだり、軍人意識を持ってスー族へ接したりするダンバーの行動には、戦う男としての自己再生を果たすことによって戦争のトラウマを克服しようとする意図が感じられる。
 つまり、ダンバーは美しい西部の自然の中に自分だけの疑似フロンティアを作り上げ、その中で戯れているのである。この疑似フロンティアでは、境界の一方に彼の願望の反映としてのインディアンがおり、インディアンを真似て踊ることでダンバーはその一員となる。境界のもう一方には白人ジョン・ダンバーがおり、こちら側でも彼は戦争の真似事によって男らしさを回復する。「狼と踊る男」とは、単に「インディアンを真似て踊る男」であるだけでなく、「レザーストッキングを真似て戯れる男」なのである。レザーストッキングを真似た戯れは、アイデンティティの危機をもたらすことなく、ダンバーが無垢な自然児であるスー族の「狼と踊る男」であると同時に、男らしい男である白人のジョン・ダンバーでもあることを可能にする。それだけでなく、ダンバーの疑似フロンティアは90年代PC西部劇としての本作に対して、インディアン化の物語を描くことによる政治的正しさへの配慮と、従来の西部劇を魅力的なものにしていた男らしい男による白人男性優位の世界観を両立させるという困難な試みを成立させる場をも提供する。

5、フロンティアからの逃亡
 レザーストッキングの伝統を本来の意味で引き継いでいるのは、ダンバーよりも「拳を握り立つ女」である。白人のクリスティーンとして生まれながらも、幼少時に家族をポーニー族に殺され、スー族のもとで育てられた彼女の生い立ちは、レザーストッキング的人物の典型である。スー族が境界の一方をなすのに対し、ダンバーはもう一方をなす白人の一人であり、「拳を握り立つ女」は通訳を務めることで両者の交流を仲介するフロンティア人である。レザーストッキングの真似事をするダンバーは、彼女の手助けによってインディアン化することで、真にレザーストッキング的なものへと近づいていくことができる。逆にインディアンへ同化したものとして登場した「拳を握り立つ女」は、ダンバーとの交流を通して白人の資質を回復していく。白人であった頃の幼少期の記憶を取り戻し、英語も上達し、インディアンの夫の死を嘆く妻から白人ダンバーの妻になるのである。インディアン化しながらも白人同士の理想的なカップルと称される二人は、結婚によってアイデンティティのあやうさというレザーストッキング的人物の宿命を共有するに至る。
 ダンバーが久しぶりにセジウィック砦に戻ると、アメリカ軍の兵士たちは、見た目は完全にスー族へ同化したダンバーを最初はインディアンとして攻撃し、次には白人の脱走兵として捕える。そして、アメリカ軍とダンバーを救出しようとするスー族との間に、実際の暴力的な衝突が起こる[15]。白人社会では、インディアンになったダンバーは裏切り者とみなされる。スー族の人々にとっては、白人である「狼と踊る男」はインディアンに脅威をもたらすものである。「蹴る鳥」が、白人はどれぐらいやって来るのかと繰り返しダンバーに尋ねるのは、ダンバーがやがて押し寄せる白人開拓者たちの最前線に位置する白人であるからだ。ダンバー自身も、白人脱走兵である自身が引き寄せるアメリカ軍がスー族へ脅威を与えることを、ひいてはスー族の「狼と踊る男」が白人のジョン・ダンバーでもあり続けていることを自覚せざるを得なくなる。完全に白人でもインディアンでもないものとなったダンバーは、どちらの社会においてもはみ出し者となる。
 ダンバーの望むフロンティアとは彼以外の白人が取り除かれた地であったから、上記のように他の白人たちの進出がきっかけとなって彼の疑似フロンティアが破綻に至るのは理にかなっている。彼はセジウィック砦へ向かう道中、ラバつかいのティモンズの汚らしい風貌や粗野な振る舞い、インディアンに対する偏見に眉をひそめ、「この男さえいなければ」と願う。ティモンズはフロンティアにおける白人側の醜い現実を代表するかのような存在なのである。この願いは一時的に実現し、ティモンズがセジウィック砦からヘイズ砦への帰路に死んだ後、セジウィック砦へ軍隊が駐屯するまでダンバー以外の白人は一切登場しない(インディアン化した「拳を握り立つ女」は例外であるが)。
 こうしてフロンティアの厳しい現実に直面した時、ダンバーは「拳を握り立つ女」と共にスー族のもとを去ることを選ぶ。ラストシーンで二人が去っていく、雪に覆われた山と葉の落ちた木々の情景は、実りの秋からはじまったダンバーの物語が不毛な冬で終わりを告げたことを示している。この物語の終末は、二人の人生の終わりを、つまりは二人の死者の領域への旅立ちを思わせる。だとすれば、自殺を図りながらも奇跡的に生き残った結果として西部へやって来たダンバーは、実際は既に死んでいるのであり、彼の西への移動は最初から死者の領域への旅立ちであったのではないだろうか[16]。本作のフロンティアは、草原の白骨死体、セジウィック砦から消えた兵士たち、川の中の動物の死骸、消えゆく運命を負ったインディアンらの「死者」たちで満たされている。フロンティアそのものもまた、ダンバー自身の言葉によって失われる運命にあるもの、現代の観客にとっては失われたものであることが示される。ヘイズ砦から旅立つシーンにおいて、ダンバーは生と死の境界を超えた。この時点で彼の人生は終わりを告げている。窓枠に隔てられた境界のこちら側にいたファンブロー少佐も、ダンバーの出発を見送りながらまもなく拳銃自殺をし、彼のあとを追う。
 そのため、ヘイズ砦を旅立った後のダンバーの行動は、西部開拓の歴史に何の足跡も残すことはない。スー族のもとを去り、死者の領域へと消えていくダンバーは、最後に字幕で示されるその後の13年間にスー族の人々に起こった出来事(白人へ降伏し、消えゆく運命をたどったこと)に関わることを拒絶している。ラストシーンでは、ダンバーとスー族を追うアメリカ軍のショット(図9)と、ダンバーと「拳を握り立つ女」を見送るスー族の人々のショット(図10)、彼らのもとを去っていくダンバーらのショット(図11)がクロスカッティングされる。これらは、迫りくる白人たち(白人側の最前線としてのフロンティア)、それに対峙すべくとどまるスー族の人々(白人とスー族との衝突が起こる境界地としてのフロンティア)、両者から逃亡するダンバーと捉えることができる。レザーストッキングを真似た戯れへと逃避したダンバーは、過酷な現実からの終始一貫した逃亡者としてフロンティアからも逃亡するのである。
 もっとも、スー族の人々もやがて押し寄せる白人開拓者との衝突を避けるように移動し、ダンバーを追うアメリカ軍がスー族の集落にたどり着いた時には文字通り画面上から消えてしまっている。これにより、白人とインディアンとの暴力的衝突は字幕のなかでほのめかされるにとどまっている。本作自身が、西部開拓史の醜い事実を伴う白人とインディアンの境界地を描くことを回避しているのである。そして、美しき自然、ダンバーのような良心的白人、高貴な野蛮人としてのインディアンと彼らのユートピア的社会が、現代では失われた古き良きものに対する郷愁に包まれて、ダンバー同様の美しき疑似フロンティアにおける戯れを観客にも提供する。これはPC西部劇としての本作の限界を示すものであり、「『ダンス・ウィズ・ウルブズ』は、痛みのない、気分の良い、遅ればせながらの償いの儀式として機能したようだ。どれほど遅きに失し、うつろなものであったとしても」 (Berg 217) といった批評が支配的である。しかしならが、ダンバーの疑似フロンティアは一時的なものであり、その破綻に際し逃亡することによってしか対処しえないというのは、インディアン化のファンタジーの欺瞞を暴いてもいる。それは一時的にしか効果を発揮しないし、現実と乖離した戯れでしかありえないのである。西部開拓の歴史が美しいものではありえないという事実から逃避することによって、本作は逆説的にその事実を露呈する。そして、厳しい現実に向かい合うことのできない者は死ぬほかないのである。

6、終わりに
 ダンバーのフロンティアにおける物語は、過去のPC西部劇と比較しても美しいものである。テッド・オホラは『ダンス・ウィズ・ウルブズ』について、『小さな巨人』との類似点をあげながら、次のように述べる。

[『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の]ストーリーは、『小さな巨人』(1970)の驚くべきクローンである。双方の映画はラコタ族とシャイアン族の歴史的戦争を背景として使用している。両者ともラコタ族とシャイアン族に、共通の大敵である騎兵隊と「あの忌々しいポーニー族!」の犠牲となる英雄的部族というお決まりの役を振り当てる。しかし、反ヴェトナム戦争のメッセージに浸っている『小さな巨人』とは違い、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』はこうした欠点の埋め合わせとなるような社会的なメッセージを欠いている。むしろ、政治問題には関わり合おうとせず、平和と母なる地球についての単純なニュー・エイジのお説教を唱えることで潜在意識下にその魅力を積み上げていく。
 (Jojola 17)

政治問題に関わり合おうとしない姿勢は、90年代のハリウッド映画(少なくとも商業映画)においては自明のこととして指摘される(Jon Lewis 5)。この傾向は、ヴェトナム戦争の後遺症に苦しんできたアメリカに二つの勝利を与えることによって幕を開けた90年代アメリカ社会の世相の反映であろう。つまり冷戦と湾岸戦争という二つの戦争における勝利である。ベルリンの壁の崩壊と東西ドイツの統一や、東欧諸国の共産主義政権が次々と崩壊し民主政権へ移行したことは、アメリカの自由や民主主義といった理念の劇的な勝利の証とみなされた。そしてソ連の崩壊によって長年の敵が消滅したことで、アメリカは唯一の超大国としての地位を得た。1992年1月の一般教書演説において「冷戦は終わったのではない。勝ち取られたのだ」と述べた第41代ブッシュ大統領は、冷戦の勝利に高揚するアメリカ人の心理を適切に表現していたといえる。さらに、1991年の湾岸戦争は、ヴェトナム戦争の苦い教訓をもとに戦争を遂行し勝利を得たことで、ヴェトナム・シンドロームをついに克服したのだという熱狂をもたらした。そのため、90年代においては、ヴェトナム・シンドロームとの葛藤やその克服といったテーマにはさほど関心が払われなくなったのである。
 その結果として、90年代のアメリカ社会は内向き傾向になっていった。国民の外交への関心は低下し、景気の回復や失業率の改善、犯罪の抑止、教育や社会福祉制度の充実などの国内の課題により関心が向けられた。それによって生活の質を向上させることが、長く続いた冷戦の終結による恩恵として望まれたのである。同時に、第二次世界大戦のメモリー・ブームにみられるような、ヴェトナム以前の古き良き時代への郷愁がかきたてられた。冷戦終結の恩恵として現実の戦争を戦う差し迫った必要を感じなくなった余裕が、国民を未来よりも過去へと向き合わせたのである。このようなアメリカ社会の傾向が一つの要因となって、本来は西部劇のヒーローに似つかわしくないダンバーが美しき自然の中でレザーストッキングを真似た戯れに逃避することが許容され、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』が90年代西部劇として成功しえたのではないだろうか。

 


[1]西部劇は60年代以降、急速に衰退し、80年代にはほぼ消滅する。90年代におけるリバイバルについては、加藤(『映画ジャンル論』)、バーグ(“Fade-Out in the West: The Western’s Last Stand?”)を参照。

[2]PCとは「政治的正しさ(Political Correctness)」の略である。PC西部劇という呼称の他に、修正主義西部劇という呼称もしばしば用いられる。PC西部劇は、『折れた矢』(Broken Arrow, 1950)と『流血の谷』(Devil’s Doorway, 1950)をその先駆けとし、特に60年代から70年代にかけて注目を浴びたタイプの西部劇である。当時のアメリカは、公民権運動やレッド・パワーといったマイノリティ集団の権利拡大を求める運動、カウンター・カルチャーやヴェトナム反戦運動などの体制批判が盛り上がりをみせた時代であった。アメリカという国のあり方に見直しを迫ったこれらの運動は、荒野に文明をうちたて、白人がインディアンを征服することを「明白な天命」としてきた西部開拓史観の正当性を揺るがし、西部劇が急激に衰退していく要因ともなった。そのため、PC西部劇は時代の要請とジャンルの衰退要因に対処すべくつくられたものという性格を帯びている。

[3]『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のインディアン表象については、キルパトリック(Celluloid Indians: Native Americans and Film.)、ヒルガー(From Savage to Nobleman: Images of Native Americans in Film.)チャーチル(Fantasies of the Master Race.) 、阿部(『アメリカ先住民 ― 民族再生にむけて』)などが論じている。

[4]『西部の王者』(Buffalo Bill, 1944)における実在の西部の英雄バッファロー・ビル、『アロウヘッド』のエド・バーノン、『ワイルド・アパッチ』(Ulzana’s Raid, 1972)のマッキントッシュなどが例として挙げられる。彼らはインディアンの言語や風習に通じていることによって、対インディアン戦争において活躍できる斥候である。

[5]『折れた矢』のトム・ジェファド、『小さな巨人』(Little Big Man, 1970)のジャック・クラブ、『馬と呼ばれた男』(A Man Called Horse, 1970)のジョン・モーガンなどが例としてあげられる。

[6]インディアンと共に生活し、彼らへ同化した白人の実体験は、『メアリー・ローランソン夫人の虜囚と救済の物語』(A Narrative of the Captivity and Restoration of Mrs. Mary Rowlandson, 1682)をはじまりする虜囚記文学と、実在の西部の英雄ベンジャミン・チャーチとダニエル・ブーンの伝説化された物語をそれぞれ描いたEntertaining Passage (1716)と『ケンタッキーの発見と植民と現状』(Discovery, Settlement, and Present State of Kentucky, 1784)を原型とするハンター物語を形成した。レザーストッキング物語は、虜囚記文学の伝統を引き継ぎ、ダニエル・ブーンを主人公ナッティ・バンポーのモデルとしている。これらについてはスロトキン(Regeneration Through Violence)に詳しい。

[7]「レザーストッキング」は、ナッティ・バンポーの服装(革脚絆)にちなむあだ名として『開拓者たち』に登場する。これをとって、ナッティ・バンポーを主人公とする五作品はレザーストッキング物語と称される。

[8]20世紀のアメリカにおいてインディアン化が、ヨーロッパ系アメリカ人のアイデンティティ形成に果たした役割や、産業資本主義の興隆がもたらすモダニティの病理とアメリカン・インディアンの軍事的制圧の完了がもたらした罪悪感をどのように癒そうとしたかについては、Huhndorf (Going Native)に詳しい。

[9]アメリカン・インディアンの血を引くことを公言する者は著名人にも多い。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』の製作・監督・主演を務めたケビン・コスナーもその一人であり、彼はチェロキー族の血をひいているとされる。

[10]『小さな巨人』や『ソルジャー・ブルー』といったPC西部劇は、それぞれ史実に基づくワシタ川の虐殺とサンド・クリークの虐殺を、ヴェトナムにおけるアメリカ軍の非人道的行為を批判する意図をもって描いている。また、インディアン化する白人主人公は、人種問題やヴェトナム戦争によって混迷したアメリカ社会から逃れるために、インディアンのライフスタイルを真似たヒッピー文化に代表されるように、インディアンになりたがる同時代のアメリカ人の反映でもあった。このようなカウンター・カルチャーと同時代のPC西部劇の関連性についてはカウェルティ(『冒険小説・ミステリー・ロマンス ― 創作の秘密』)、スロトキン(Gunfighter Nation)を参照。スロトキンは特に1969年から72年に製作されたPC西部劇(『小さな巨人』等)を “counterculture Western”と称している。

[11]『ダンス・ウィズ・ウルブズ』には、約三時間の劇場公開版の他に、四時間拡大バージョンが存在する。四時間版には、白人による自然の破壊の描写が追加されている。例えば、セジウィック砦に残された動物の死骸を見せるシーンや、それをダンバーが処理するシーンは劇場公開版よりも長くなっている。また、ダンバーと「蹴る鳥」がインディアンの聖地を訪れ、白人が残していった残骸(廃屋、動物の死骸、空き瓶など)を見つけるシーンが追加されている。なお、本論で引用している画像の経過時間は、劇場公開版にもとづく。

[12]後述するが、「拳を握り立つ女」は実際にはインディアン化した白人である。

[13]レザーストッキング物語は五作品が出版された順序と、物語の時系列が一致していないことで有名な作品である。それぞれの作品が舞台とする年代は以下のとおりである。時代的に最も遅い『大草原』のみが西部のグレートプレーンズを舞台とし、その他の四作品はニューヨーク州を舞台としている。『開拓者たち』では、白人の開発によって森が破壊される様が描かれ、ラストシーンでナッティ・バンポーが西へと旅立つひとつの要因となる。

『開拓者たち』(1823年刊行)、1793年、
『モヒカン族の最後の者』(1826年刊行)、1757年
『大草原』(1827年刊行)、1804年、
『道を拓く者』(1840年刊行)、1758年から59年頃、
『鹿狩り人』(1841年刊行)、1740年から45年の間、



[14]逆立ったヘアスタイル、ペイント、上半身裸といったポーニー族の描写は、西部劇が「悪いインディアン」を描くときの典型として指摘される(Hilger 252-53)。

[15]バッファロー・ハント前夜の祝宴は、劇場公開版では狩りの成功を祈願するためのものであったが、四時間版ではバッファローを乱獲した白人を殺したことのお祝いとして描かれ、白人とスー族の暴力的衝突がより早い段階で(間接的に)描かれている。

[16]フィードラーによれば、西洋文明において西の方角は古来より死者の領域を意味してきたとされる(フィードラー 35)。

参考・引用文献リスト
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