bplist00�_WebMainResource� ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO�G CineMagaziNet! no.17 有森由紀子 1990年代西部劇研究

1990年代西部劇研究
『ラスト・オブ・モヒカン』におけるアメリカのアダム像


有森 由紀子

 

0.はじめに
 ジェームズ・フェニモア・クーパーのレザーストッキング物語―『開拓者たち』(The Pioneers, 1823)、『モヒカン族の最後の者』(The Last of the Mohicans, 1826)、『大草原』(The Prairie, 1827)、『道を拓く者』(The Pathfinder, 1840)、『鹿狩り人』(The Deerslayer, 1841)からなる五部作―は、強力で持続性のある神話を作り上げ、後の文学作品、ダイム・ノヴェル、ワイルド・ウェスト・ショー、西部劇映画(以下、西部劇)へと大きな影響を与えた作品である[1]。主人公のナッティ・バンポーは白人として生まれながらもデラウェア族のもとで育てられ、インディアンの言語や風習に通じたインディアン化した白人である。彼は「よいインディアン」であるモヒカン族のチンガチグックを友に、ハンター・戦士・スカウトとしてフロンティアで冒険を繰り広げ、「悪いインディアン」と戦い、彼らにとらわれた白人の美女を救出する。そして、文明よりも自然を愛し、文明化の波から逃れるように『開拓者たち』のラストシーンで「大陸を横断して進む国民のために道を拓きつつある、あの開拓者たちの群の先頭に立ち、沈む夕陽の彼方へと旅立っていった」 (Cooper, The Pioneers  456)。このようにレザーストッキング物語は、フロンティア・ヒーローの原型としてのナッティ・バンポーを作り上げ、その特質を受け継ぐレザーストッキングの子孫を西部劇に無数に残してきた。
 レザーストッキング物語自体もこれまでたびたび映画化されてきた。五作品の中でも特に人気の高かった『モヒカン族の最後の者』は、D.W.グリフィス監督によるLeather Stocking (1909)を最初の映画化作品とし、1920年版(クラレンス・ブラウン/モーリス・トゥールヌール監督)、32年版(フォード・ビーブ/B.リーヴス・イースン監督)、36年版(ジョージ・B・サイツ監督)などの映画化作品が有名である。そして、1992年には最新の映画化作品として、『ラスト・オブ・モヒカン』(マイケル・マン監督)が公開され、興行的・批評的な成功を収めた。出版当時は大変な人気を博したレザーストッキング物語は、その後は忘れ去られた観があるが、クーパーの原作を読んでいなくとも映画化作品を見たことのあるアメリカ人は多いようだ。92年版に関しても、クーパーの原作よりも36年版に多くを負っているとされ、マイケル・マンは「覚えている限りの最初の映画の記憶というのは、ランドルフ・スコット主演による36年版であり、実際にフィリップ・ダンによる36年版の脚本は本作の源として引用されている」[2] と述べている。
 36年版と92年版には、主人公ホークアイの恋愛に物語の焦点が置かれている点などの原作からの大きな変更点が見られる。ナッティ・バンポーは、自身を粗野で恋愛にはふさわしくないものとして繰り返し卑下し、異性愛よりもチンガチグックとの同性同士の友情に生き、生涯を独身で過ごした。しかし36年版と92年版では、それぞれランドルフ・スコットとダニエル・デイ・ルイスによって演じられるレザーストッキングの子孫たちは、ロマンスの担い手にふさわしい容姿やふるまいを身につける。このような原作からの変更についてジェフリー・ウォーカーは、ラブストーリーが中心に据えられることによって、ヨーロッパ系入植者と先住民インディアンの対立関係という原作の重要なテーマが損なわれていると批判的である。また、92年版はこれまで主に西部劇におけるインディアンの表象という観点から論じられてきたが、原作では重要な役割を与えられていたインディアンの登場人物たちが白人主人公の恋愛物語の背景に追いやられ、十分な人物表象が行われずに「高貴な野蛮人(よいインディアン)」と「血に飢えた野蛮人(悪いインディアン)」というステレオタイプを踏襲する結果になっていることも指摘されている(Hilger)。本論では、むしろ原作からの変更によって、92年版『ラスト・オブ・モヒカン』がレザーストッキング物語のフロンティア・ヒーローの伝統を受け継ぎながらも、いかにそれを変容させえたかを、映画テクストの分析を通して明らかにしたい。

1.十字架を負ったフロンティア・ヒーロー
 本作は、チンガチグック、ウンカス、ホークアイの三人が森で狩りをするシーンで始まり、イギリス人入植者キャメロン家での夕食のシーンへと続く。前者は自然の中で男たちだけで生きるモヒカン族として、自然(野蛮)・インディアン・男性的領域を象徴する。後者は、その丸太小屋や妻子ある家庭の情景によって文明・白人・女性的領域を象徴する。インディアンのホークアイであり、白人のナサニエルでもある主人公は、このおなじみの二項対立の世界を行き来する。フロンティアとは、これら相対する二項の接する境界地であり、フロンティア・ヒーローは境界の双方を行き来し、両者を仲介する者である。
 インディアンとしてのホークアイは、白人でありながらも実の家族亡きあとはチンガチグックを父とし、その息子ウンカスを兄弟として育ったことにより、服装や髪形、森をかけるその姿全てにおいて彼らに同化した存在として登場する。原作において友人であったチンガチグックがここでは父となることによって、ホークアイはチンガチグック/ウンカスとともに血縁と人種を超えた家族を構成し、モヒカン族のチーフの家系の一員となる。そして、モヒカン族の代表として単身ヒューロン族のもとへ乗り込むことで、原作ではウンカスに割り当てられていたモヒカン族の新たなチーフとしての役割を果たしてみせる。他方、白人としてのナサニエルはイギリス人入植者と友情を結び、彼らの中にあっても血縁を超えた一種の家族を形成する。前述のキャメロン家の夕食の場面において、画面の中央に位置するナサニエルはこの家庭の主人の位置におり、膝に抱いたキャメロン家の子と背後に立つキャメロン夫人は、この構図においてはナサニエルの妻子のように見える(図1)。また、彼は優れたハンター/戦士/斥候であることによって入植者たちから敬意を集め、時にリーダー的役割を担う。つまり、ホークアイ/ナサニエルは境界の双方で家族を形成し、しかも一家の主となるのである。
 さらに彼はこの二つの家族を、キャメロン家で共に食卓につかせることによって仲介し、境界を超えたいっそう大きな家族を形成する。チンガチグックとウンカスもまた、ホークアイ/ナサニエルを仲立ちとして自然の領域から文明の領域へと移動する。蝋燭に照らされたキャメロン家の薄暗い空間の中では、インディアンと白人との服装や肌の色の違いが見分けがたくなり、彼らが食卓につく位置によっても両者の交わりが象徴的に示される。逆に、白人の入植者もホークアイやインディアンと共に屋外でスポーツに興じるときに自然の領域へと移動し、男たちだけの世界で裸の肉体が混ざり合い、人種の区別があいまいになる(図2)。このように、ホークアイ/ナサニエルは自身を主とし、モヒカン族とイギリス人入植者たちに人種の境界を越えた一つの大家族を形成させることによって、インディアンと白人の友好関係の成立という困難な試みを成功させるのである。
 ホークアイ/ナサニエルはインディアンであると同時に白人でもあり、男性的領域と女性的領域を行き来し、卑しい出自でありながら敬意を受ける主となるという点で、人間社会が厳格に規定する人種・性別・階級の境界にとらわれることなく、それらの境界線を繰り返し横断する。ナッティ・バンポーから受け継がれたこのフロンティア・ヒーローの特質を一語で言い表すのは“cross”という語であろう。フロンティア・ヒーローは境界線を横断し(“cross” the border)、境界の双方の特質を併せ持つ一種の「混血(“cross”)」である。ホークアイ/ナサニエルが、白人とインディアンの資質を併せ持つことによってフロンティアにおいて有能さを発揮するように、境界線の横断とそれに伴う交わりはフロンティア・ヒーローたりうるための条件である。しかし、この事実に反してバンポーはしばしば自身を「十字架のない男(a man without a cross)」であると称する。これは一義的には、彼がインディアンの血の交わりのない純潔な白人であることを意味している。また、インディアンの女性との結婚よりは死を選ぶという彼の態度に明らかなように、白人とインディアンの血の交わりを徹底して拒絶するバンポーの信条を表すものでもある。彼の「十字架のない男」であることへの固執は、白人文明社会においては境界線の横断がタブーであることを物語っている。
 交わりを持つものでありながらも「十字架のない男」と自称するバンポーの矛盾は、境界のどちら側にも完全には帰属しえない存在のあやうさという宿命をフロンティア・ヒーローに与えることになる。そのためにレザーストッキングの子孫たちは、ヒーローであるにも関わらず白人文明社会のはみ出し者であったり、完全に白人でもインディアンでもないものとしてアイデンティティの危うさを抱えたり、フロンティアの消滅と共に居場所を失って消えゆく運命をたどらなければならなかった。しかし、ホークアイ/ナサニエルは、このようなフロンティア・ヒーローの宿命を免れているように見える。人種の境界線を横断する家族を形成する彼の行為は、(実際に異人種混交が行われるかどうかに関わらず)人種間の交わりを積極的に推奨する行為であり、彼はバンポーのように「十字架のない男」であることにもはや固執しない。それによって、彼は映画全編を通して繰返し実に容易に境界線を横断することができるし、社会の周縁に位置するどころか家族の主としてその中心をなすことができるのである。

2.二つの境界地
 本作は、フレンチ・アンド・インディアン戦争中の1757年を舞台としている。ヨーロッパで行われた七年戦争と並行し、1754年から63年にかけてイギリスとフランスの間で行われたこの戦争は、北米大陸における両者の覇権争いであった。また、両者は戦争を優位に進めるためにインディアン諸部族を自陣営に引き入れようとしたため、インディアンの部族間の対立も付随した。この史実をベースとする原作では、イギリスとフランスの対立関係が中心的位置を占めていた。元来の敵対部族として描かれたモヒカン族とヒューロン族の対立関係もまた、イギリス陣営(モヒカン族)とフランス陣営(ヒューロン族)の対立であった[3]。ホークアイ/ナサニエルには、史実に基づくこれらの対立関係への本質的な無関心さが伺える。白人としてのナサニエルにはイギリスへの忠誠心もイギリス人としてのアイデンティティもなく、イギリスが行う戦争には全く無関心である。モヒカン族としてのホークアイにも、敵対部族であるはずのヒューロン族への敵意は明確ではない。また、この戦争にはフランス側についたヒューロン族によるイギリス側白人の襲撃という形でインディアン対白人という人種間の対立が付随してくるのであるが、友好的な交わりが行われる人種の境界ではこの対立関係も曖昧なものとなる。そのため、当初、ホークアイ/ナサニエルはこの戦争に参加しようとはせず、チンガチグック/ウンカスと共に狩りをしながら西へ向かおうとすることによって、戦場からの逃避というヒーローらしからぬ行動をみせるのである。
 しかし実際には、ホークアイ/ナサニエルは極めて男らしい男である。男根象徴的な長いライフル(ヒューロン族のチーフは彼を“Long Rifle”と呼ぶ)とその素晴らしい命中率は、彼がホークアイの名にふさわしい戦士であることを示している[4]。そして、彼に戦う理由を提供するのは家族であって、イギリス対フランス、モヒカン族対ヒューロン族という史実に基づく争いや、インディアン対白人という西部劇に典型的な人種間の対立関係に基づくものではない。ナサニエルがイギリス人入植者(彼の白人の家族)の代表として対立する相手は、フランス軍よりもむしろイギリス軍である。民兵として参戦するイギリス人入植者たちも、戦争よりも家族を守ることの方を重視し、イギリスの利益を優先するイギリス軍と対立する。イギリス陣営に属する白人同士の間に対立が生じるのである。ヒューロン族を率いてイギリス陣営を攻撃し、インディアン対白人、ヒューロン族対モヒカン族の戦いをもたらすマグワに関しても、彼を突き動かすのは白人やモヒカン族への敵意というよりも、自身の家族を奪ったマンロー大佐への個人的な憎悪と復讐心である[5]。そのため、ヒューロン族による襲撃の対象は白人全般というよりもイギリス軍と、その中心的人物であるマンロー大佐、彼の二人の娘コーラとアリスへ限定される。ヒューロン族による一度目の襲撃の対象となるのは、ウィリアム・ヘンリー砦へ向かう道中のダンカン・ヘイワード少佐とコーラ、アリス、彼らに同行するイギリス軍である。二度目の襲撃となるウィリアム・ヘンリー砦の虐殺では、直前に一部の入植者民兵がマンロー大佐と衝突し、ナサニエルの手引きで脱走していることによって彼らが襲撃対象から除外される。これらの襲撃シーンにおいてナサニエルとウンカスがマグワと対峙するのは、コーラとアリスとそれぞれ恋に落ちるためであり、それは将来の家族を守るための戦いとなる。これにより、家庭という女性的領域と戦場という男性的領域が両立し、戦争の正当化が実現するのである。
 イギリス人入植者とイギリス軍、ヒューロン族とイギリス軍の対立は、アメリカとイギリス(ヨーロッパ)の対立と言い換えることができる。キャメロン一家をはじめとするイギリス人入植者は、イギリス本国に忠誠心を抱く「イギリス人」から、「アメリカ人」としての新たなアイデンティティを確立する途上にあり、彼らの「英国の法治主義はもはや機能していないのか。独裁制に取って代わられたのか」という批判は、明らかに後の独立戦争を連想させるものである。ここに、人種の境界とは別の境界、アメリカとイギリス(ヨーロッパ)というナショナリティの境界を見出すことができる。「アメリカ」の領域に属するインディアンと、「イギリス」から「アメリカ」へと境界を横断する途上にある入植者は共に、「イギリス(ヨーロッパ)」の領域に属するイギリス人と対峙する。境界を超えた家族が形成される人種の境界に対し、ナショナリティの境界では暴力的な対立が起こって両者の亀裂が深まり、やがて独立戦争へ向かう。そのため、チンガチグックの異人種同士はわかりあえないという教えは、マンロー大佐とヘイワード少佐に対峙するホークアイによってイギリスとアメリカはわかり合えないと言い換えられる。
 ナショナリティの境界における対立は、アメリカ人とイギリス人が映像表現の点で明確に対比されることによってさらに強調されている。先住アメリカ人であるインディアンは、母なるアメリカの自然の子(自然児)として描かれる。本作が舞台とするフロンティアは豊かな自然としての森であり、アメリカ社会の環境保護への関心の高まりやエコロジー・ブームを反映して、フロンティアの美しい自然の描写が観客への一つのアピール・ポイントとなっている。生い茂る草木や、川や滝の豊かな水量によって自然の豊饒さが示され、それらはアメリカの母なる自然としてその子であるインディアンを包み込む。森は自然児にとっての家となるため、キャメロン家の丸太小屋の内部と同じぐらい、そこは閉鎖的な空間となり、西部劇に典型的な地平線の見える開けた空間とは対照的なものとなる。木々によって頭上が覆われるために空は見えず、昼間でも薄暗い森の中では、ホークアイらの服や肌の色調は周囲の森と一体化しやすい(図3、4)。実際、彼らの姿は森の木々に覆われてほとんど見えないことがしばしばある。しかしながら、彼らを覆い包む周囲の自然によってその動きが妨げられることはない。オープニング・シーンも含めて、ホークアイらが森の中を自在に駆けるシーンでは、彼らの身体の運動や姿勢は同様に森を駆ける鹿の姿に類似する。チンガチグックが鹿に対して 「兄弟(Brother)」と呼びかけ敬意を示すことにも明らかなように、彼らと鹿とは共に森に生きる自然児として兄弟関係を取り結んでいるのである。
 「悪いインディアン」の役をあてがわれたヒューロン族に関しても、森に潜む見えない敵という類型化された描写そのものによって、彼らもまたアメリカの自然に一体化する自然児であることが示される(図5)。彼らはあまりにも自然と一体化するので、森の木々としてしか見えないほどなのだ。そのため、先述したヒューロン族による二度のイギリス軍への攻撃は、ヒューロン族に一体化したアメリカの自然によるイギリスへの攻撃でもある。イギリス軍は、自然の緑と際立った対比をなす赤い軍服や、隊列を組みマスケット銃を掲げて行軍する集団的・垂直的・機械的な運動といった描写によって、アメリカの自然への異質な侵入者であることが強調される(図6)。アメリカの母なる自然はその子を包み込む一方で、異質な侵入者であるイギリス軍を拒絶し激しい攻撃を加えるのである。

3.新しいアメリカのアダムとイヴ
 ホークアイ/ナサニエルは、インディアンであり白人でもある者、イギリス人を祖とする者であり先住アメリカ人(チンガチグック)を父親代わりとする者である。この点で、彼は人種の境界だけでなくナショナリティの境界をも横断する存在である。彼の恋愛対象となるコーラもまた、劇中においてイギリス人からアメリカ人への変容を最も劇的に体現する人物であり、ホークアイ同様にナショナリティの境界を横断する者である。アメリカの自然を背景に描かれる血なまぐさい戦闘シーンが、ナショナリティの境界におけるアメリカとイギリスの対立を示すものであるならば、その戦闘のさなかに挿入されるホークアイとコーラの恋愛シーンはアメリカとイギリスとの交わりを表すものである。
 黒髪と黒い瞳を持つダークレディとして描かれるコーラは、基本的に原作の人物像を引き継いでいる。彼女は女性に似つかわしくないとされる知性や勇敢さ、男性を誘惑する性的魅力を備えているという点で、性別の境界を横断する者である[6]。彼女にはもともと境界を横断する素質が備わっているのであり、女性でありながら男性的資質をも備えていることによってコーラはアメリカの地に適応することができる。アメリカの自然の中で直面する、想像していたものとは異なる厳しい現実は、コーラを恐れさせるどころかその血を沸き立たせる。彼女は男性同様に銃を構えてヒューロン族の戦士と対峙することもできるし、父マンロー大佐やヘイワード少佐に面と向かって刃向い、父親も認めるヘイワード少佐との結婚を拒絶することで、ヨーロッパの父権的な家族制度や階級制度、植民地政策に反抗する。こうしてイギリスからアメリカへとナショナリティの境界を横断していくコーラは、同様にこの境界を横断するホークアイにふさわしい伴侶である。両者の関係が深まるにつれ、ホークアイを仲立ちとしてコーラはアメリカの自然に迎え入れられていき、完全なアメリカ人へと生まれ変わっていく。映画後半の滝のシーンでは、ホークアイと抱き合うコーラの姿は背後を流れる滝の水しぶきに覆われ、アメリカの自然とホークアイ、コーラの三者が一体化する(図7)。直後に滝の中へ飛び込み消えるホークアイは自然と一体化するアメリカの子であり、彼に抱かれることでコーラもまたアメリカの自然に抱かれるのである。
 二人が最後まで生き残り結ばれることによって、ナショナリティの境界にも家族が形成される。ホークアイが人種の境界を横断するものでもあるために、この家族は二つの境界を横断するより一層大きなアメリカの大家族となる。ホークアイによって白人とインディアンとが交わり、ホークアイとコーラの結合によってアメリカとヨーロッパが交わる。この二重の交わりから新しい人間、新たな「アメリカ人」が生み出されたのである。本作は植民地時代の1757年を舞台としており、「アメリカ」という国家と「アメリカ人」という国民の誕生の先駆けとなるホークアイとコーラは、いわばアメリカの新しいアダムとイヴである。
 この結末は、フロンティア・ヒーローたるレザーストッキングの子孫たちが負ってきた 宿命を覆すものである。原作において、子孫を残しアメリカの未来を担うことができるのは純粋な白人たる(人種横断の意味における十字架のない)アリスとヘイワード少佐であった[7]。これに対しバンポーをはじめとしたフロンティア・ヒーローたちは、人間社会が厳格に規定する境界線の横断というタブーを犯すがために人間社会の周縁部(フロンティアには「辺境地」の意味もある)に追いやられ、フロンティアの消滅と同時に消えゆく運命を負ってきた。本作がベースとする36年版もまた、ホークアイの恋愛(ダークレディとなったアリスがその伴侶となる)、イギリス人入植者とイギリス軍の対立という原作からの大きな変更がすでに加えられていながらも、フロンティア・ヒーローの宿命を転覆することはない。ナショナリティの境界が本作ほど明確に描かれない一方で(ホークアイとヘイワード少佐は最終的に和解する)、性別・階級・人種の境界線はラストシーンにおいて横断不可能なほど厳格に引かれている(図8、9)。最後まで生き残って恋愛を成就させながらも、軍隊と共に新たな任務へと旅立つホークアイとそれを見送るアリスは、戦場という男性的領域と家庭という女性的領域に隔てられる。騎乗した士官ヘイワードが中央に位置し、その脇に斥候のホークアイが徒歩で付き従う構図は、両者の階級間の上下関係を示す。また、ヘイワード少佐に隔てられたホークアイとチンガチグックという構図と、終始白人の服装で登場するホークアイとインディアンの装いをしているチンガチグックの外見の違いが人種間の別を明確に表している。36年版の結末を特徴づけるこうしたショットは、ホークアイがやがて境界の一方(白人社会の側)へと組み込まれていき、境界の横断を許されなくなることを意味しているといえる。
 それに対して、92年版においては、むしろ人種とナショナリティの境界線を横断できる ホークアイとコーラこそがアメリカのアダムとイヴとなる。この関連において注目すべきは、「消えゆく人々の最後の三人」という本作品冒頭の字幕である。これは、単純に考えればホークアイ、ウンカス、チンガチグック、すなわち日本語字幕が示すように「消えゆく先住部族[モヒカン族]の最後の三人」を指している。しかしホークアイは、フロンティアと共に消えゆくべきフロンティア・ヒーローの宿命に反して最後まで生き残り、アメリカの未来を担うアダムとなる。だとすれば、「最後の三人」とはいったい誰を指すのだろうか。まず本作を通してアメリカの地から一掃されるのは、ヒューロン族に襲撃されるイギリス人である。その中心人物たるアリス、ヘイワード少佐、マンロー大佐の三人はヒューロン族によって死に追い込まれる。同時に、ウンカスとマグワも死を迎え、ホークアイとコーラと共に生き残るチンガチグックでさえ自身がモヒカン族の最後の一人であることを宣言することにより、消えゆくものとしての運命を甘受する[8]。映画テクストに従う限り、本作における「消えゆく人々」とは、イギリス人(アリス、ヘイワード少佐、マンロー大佐)とインディアン(ウンカス、マグワ、チンガチグック)を表していると考えられる。
 イギリス人が消えゆく運命を負うのは、彼らがナショナリティの境界を横断することがないためだ。ダークレディとしてのコーラとは対照的に、フェアレディとしてのアリスはブロンドの髪と青い目を持ち純真で上品、そして常に男性に守られるか弱い女性である。女性らしい女性として十字架を負わない彼女はアメリカの地に適応できない。また、ホークアイとコーラの恋愛が成就するのとは対照的に、ウンカスとアリスが互いに抱く好意はほのめかされるにとどまっているし(むしろ36年版の方がこの異人種間の恋愛を明確に描いていた)、最終的にマグワを拒んで自ら死を選ぶことでアリス自身がアメリカとの交わりを拒絶する。同様に、マンロー大佐やヘイワード少佐もイギリスへの頑なな忠誠心ゆえにアメリカの地に適応できず、ヒューロン族の攻撃にも無力である。イギリス人である三者が白人であることから、アメリカとの交わりの拒絶は、必然的に異人種(アメリカ人であるインディアン)との交わりの拒絶にもなる。ナショナリティと人種の境界を横断できないイギリス人の三人は、アメリカの自然に拒まれ、消えていくことになる。
 それでは、インディアンに関してはどうだろうか。既に述べたように、彼らは人種の境界を横断してイギリス人入植者と交わる。しかし、ナショナリティの境界に関しては、アリスへ惹かれながらもその恋愛を成就させることなく死を迎えるウンカスは、彼女と同様にその境界を横断することがない。一方のマグワは、ヨーロッパ(イギリス)をアメリカの地から一掃するためにヨーロッパ(フランス)と手を結び、ヒューロン族の生き残りと繁栄のためにヨーロッパ人の手法を真似ようともする。しかし、結果としてホークアイからヨーロッパ的貪欲さに冒されたと非難を受け、致命的結果に至る。ナショナリティの境界の横断によって新たな「アメリカ人」へと変容するための資質を得ることができるのは、白人であるホークアイとコーラであって、インディアンではない。ウンカスのようにヨーロッパと交わらない「よいインディアン」として、又はマグワのようにヨーロッパと交わる「悪いインディアン」として、インディアンは消えゆく運命をたどるのである。
 インディアンとイギリス人の消えゆく運命は、境界の一方をなすものの消滅を意味する。つまり、アメリカ独立以前に人種とナショナリティの境界(フロンティア)は消滅するのである。しかし、最後まで生き残るチンガチグックは、次代を担うホークアイにインディアンの遺産を託すことによって、アダムとイヴたるホークアイとコーラの「父」となる。消えていったインディアンとイギリス人の遺産は、アメリカ人のアイデンティティを成す重要な要素として、ホークアイとコーラによって継承されるのである。

4.フロンティアの消滅とアメリカの罪
 ラストシーンでホークアイとコーラは夕陽に向かい、アメリカの山々を見渡す(図10)。二人は西に向かって、この自然を切り拓きながらアメリカの未来を築いていくことだろう。西部開拓時代以前(1757年)の、現在でいえば地理的東部に位置するニューヨーク州を舞台とする本作において、西方にはホークアイとコーラが前進すべき広大な空間が広がっている。そこは、自然と人間とが戦う新たなフロンティアとなり、ホークアイは無垢な自然児から文明化の担い手へと変容する。そのため、オープニング・クレジットとエンド・ロールには同じアメリカの山々が映されるのだが、ホークアイが置かれた位置は映画の最初と最後では大きく変わってくる。映画冒頭において森の中を駆け巡っていたホークアイはアメリカの自然と一体化する自然児であり、森に包まれていた(図4)。しかし、ラストシーンではコーラと共に切り立った崖の上に立ち、頭上には空が広がる開けた空間にいる(図11)。そこから森を見下ろすことで彼はアメリカの自然と切り離された存在となるのである。
 西部開拓が本格化するのは19世紀に入ってからである。1803年のルイジアナ購入によって西方に広大な領土が加わったことと、翌年より行われたルイス・クラーク探検隊の調査報告は、人々の西への関心を大いにかきたてた。1804年のグレート・プレーンズを舞台とするレザーストッキング物語の第三作目『大草原』では、開拓者たちの先頭に立ってミシシッピ川以西の地へと足を踏み入れ、わな師として暮らすバンポーの晩年が描かれる。西部開拓の先陣をきったのは、彼のように文明社会から逃れ、家庭や法に縛られることなく自然の中で生きようとしたハンターやわな師などの男たちであった。後に続く開拓者の大群は、彼らによって拓かれた西への道をたどっていった。1812年戦争以降の交通網の発達や、1848年のカリフォルニアでの金の発見に代表されるような貴金属・鉱物資源の発見は、西斬運動を加速させた。さらに、南北戦争中に制定されたホームステッド法(1862年)や大陸横断鉄道法(1862年)は、戦後にミシシッピ川以西の開発が急速に進む重要な要因となった。『大草原』において、耕作には適さない不毛な地として描かれたグレート・プレーンズにも牧畜業者が進出し、公有地(「開放牧地」)での牛の放牧が盛んに行われるようになる。1870年代半ば以降には、品種改良や農業の機械化が進んだことで、農業開発も進められた。バンポーの後を継いだ開拓者たちは、厳しい自然環境と戦いながら牧畜や農業に従事し、土地に根ざした生活の中で家庭を築き、西部の荒野に町を発展させていったのである。彼らは自然の征服者、文明化の担い手としての役割をより積極的に担った。消えゆく運命を転覆し、コーラと結ばれるホークアイは、モヒカン族と共に森に生きるハンターから、土地を耕し家庭を築く開拓農民へとフロンティア人としての役割を変えていかなければならない。
 アメリカの自然から切り離されたラストシーンのホークアイとコーラは、楽園を追放され、罪を負ったアダムとイヴである。二人の父となるチンガチグックの名の意味するところが「大きな蛇」であるという点は示唆的である。本来、アメリカのアダムとは、堕落したヨーロッパに対して無垢なアメリカを象徴する存在であった。ナッティ・バンポーが自称した「十字架のない男」という呼称は、スロットキンが主張するように、「汚れなき無垢を保ちたいというバンポーの願望」をも表していた。すなわちバンポーは「負うべき罪の十字架のない男、原罪を免れた男、つまり新しいアダム」であった(Slotkin, Regeneration Through Violence 505)。これに対し、ホークアイとコーラはアメリカのアダムとイヴとなるために罪を犯さざるを得ない。注目すべきことに、ホークアイとコーラの結合は、実際には血の交わりを全く伴わない。コーラは原作では黒人と白人の混血であったが本作にはその言及は無く、純粋な白人であると考えられる。また父チンガチグックと子ホークアイも血縁関係になく、インディアンと白人の血が交わることもない。このアメリカの家族は真の意味での血の交わりを全くもたないのである。それにも関わらず人種とナショナリティの交わりを得ようとするホークアイとコーラは、インディアンとイギリス人に消えゆく運命を負わせ、その遺産をある意味では奪い取るという罪を犯すのである。この罪はアメリカの歴史に必然的に伴うものである。イギリスからの独立は、父権的権威への反抗、自らのルーツとの決別を意味した。それは、「公的なレベルにおいても私的なレベルにおいても、うきうきさせられる経験であった。しかし同時に、なしてしまったことへの罪悪感と、不確定なものとなった未来への恐れを伴う、大変な不安ももたらしたのである」(McGregor 154-55)。インディアンに対して犯した罪については、これまでも多くのフロンティア・ヒーローが背負ってきたものである。アメリカのアダムとイヴは歴史に先行するかたちで、これらの罪を背負い、後に続く西部開拓時代を生きていかなければならない。
 しかし実際には、ラストシーンのホークアイとコーラは崖の淵に立ち、前進することができずにいる。新たなフロンティアとなるはずのアメリカの自然が眼前に広がっていながらも、行き場を失った二人にとっては目の前の空間は閉じられたものとなる。それは、19世紀末に起きたフロンティアの消滅という事態に類似していないだろうか。1890年の国勢調査がフロンティア・ラインの消滅を宣言し、それを受けて1893年にフレデリック・ジャクソン・ターナーが発表したフロンティア学説は、開拓の波がついに太平洋にまで到達し、フロンティアが消滅したことを宣言した。これにより、常に西方へ開かれていた空間が閉じ、アメリカの一時代は終わりを告げたのである。
 フロンティアの消滅は、世界の終わりへの不安をあおる世紀末という時代とも相まって、当時のアメリカ社会に大きな衝撃と不安を与えた。この危機にアメリカが対処しえたのは、西部に代わる新たなフロンティアを見出すことができたからだ。騎兵隊を模した義勇軍ラフ・ライダースを率いて1898年の米西戦争へ参戦したセオドア・ローズヴェルトにとって、キューバは男らしさを証明する戦いの場、西部に代わる新たなフロンティアであった。この戦争も含め、以後「フロンティア」という語はアメリカの海外への帝国主義的な領土拡大の野心を表す時に用いられた。あるいは他国の領土への軍事力行使を正当化する方便として「自由のフロンティア」という語も用いられた。宇宙は20世紀後半を通してアメリカの「次なるフロンティア」であったし、1970年代以降には手つかずの自然と豊かな石油資源とによってアラスカが「最後のフロンティア」として脚光を浴びた。鉄道や無線電信といった当時最新の科学技術が西部開拓を支えたように、進歩の象徴であり、その推進力たる「科学と技術」もまた「はるかなフロンティア」と表現された[9]。フロンティアはアメリカの未来を築いていく場であり、また進歩やアメリカン・ドリームを象徴するものとして、アメリカが発展を続けるためにはなくてはならないものとなったのである。
 これに対し、前進することのできないホークアイとコーラは、もはや新たなフロンティアを志向しないかのようだ。彼らが眼下の自然に見出すのは、新たなフロンティアではなく、失われた過去のフロンティアであろう。そこは、ウンカスとアリスが死を迎えた場所である。生き残ったホークアイとコーラがアメリカの自然から切り離されたのに対し、ウンカスとアリスは死と引き換えにアメリカの自然へと迎え入れられる。致命傷を負って崖から落下するウンカスの体は、アメリカの山々を背景に宙を舞うとそのままフレーム・アウトして消え、山々が残される(図12、14)。彼は無垢な自然児として、冒頭シーンで一体化していた森へと再び帰っていったのである。アメリカの地とは相いれなかったアリスでさえ、崖から身を投げて消えていき、死によってアメリカの自然へと迎え入れられる[10]図13)。消えゆく運命を負ったインディアンとイギリス人を代表する二人の死は、人種とナショナリティの境界の一方を成すものの消滅を告げるものである。これが意味するのはフロンティアの消滅であり、アメリカが無垢だった時代の終焉を告げるものでもある。ホークアイとコーラが眼下の自然に向かって行う祈りは、ウンカスとアリスの死を悼む行為であると同時に、アメリカが犯した罪に幾分かの償いを行おうとする行為でもある。さらには消滅したフロンティアに対する追悼行為でもある。彼らは眼下の自然に、罪を負って生きざるをえない新たなフロンティアでのその後の人生ではなく、アメリカが無垢だった時代の失われたフロンティアの記憶を見出すのである。それは、罪の重みに耐えて立ち尽くす二人に幾分かの慰めを与えてくれることだろう。

5.終わりに
 主に19世紀後半の西部開拓時代を舞台とする西部劇は、アメリカ独特のジャンルとして発展してきた。しかし、60年代に入ると急激に衰退し、80年代にはほぼ消滅する。60年代に盛り上がりを見せた公民権運動やレッド・パワーといったマイノリティ集団の権利拡大を求める運動や、カウンター・カルチャーやヴェトナム反戦運動などの体制批判は、アメリカという国のあり方に見直しを迫ることで、西部劇の衰退要因にもなった。従来の西部劇は、文明が自然を、白人がインディアンを征服することを「明白な天命」とした西部開拓史観に立脚した、白人男性中心主義的な世界観を抱いていたからだ。これに対し90年代の西部劇には、人種や性別の観点から政治的正しさ(Political Correctness)への配慮をみせ、西部開拓史の見直しを行おうとする姿勢を共通する傾向として指摘することができる。例えば、『ラスト・オブ・モヒカン』と『ジェロニモ』(Geronimo:An American Legend, 1993)は、これまで血に飢えた野蛮人として人種差別的に描かれてきたインディアン表象の見直しを行っている。また、『バッド・ガールズ』(Bad Girls, 1994)と『クイック&デッド』(The Quick and the Dead, 1995)は女性ガンマンを主人公に据え、『黒豹のバラード』(Posse, 1993)と『許されざる者』(Unforgiven,1992)はその存在自体がほとんど無視されてきた黒人を主要な登場人物に据えている。フロンティア・ヒーローが罪を負ったアダムとなる『ラスト・オブ・モヒカン』の結末もまた、同じ文脈でとらえることができる。ホークアイの罪は、西部開拓の過程でアメリカがなした罪(自然の破壊やインディアンに対する非道)に重なるからだ。相次いで公開された上記のような90年代西部劇は、ジャンルの一時的なリヴァイバルをもたらした。
 しかし、『ラスト・オブ・モヒカン』の結末は、ジャンルの再生よりも終焉を思わせるものだ。アメリカのアダムとイヴが罪を負って生きるその後の人生を直視することができないように、本作自体もその後に続く罪に満ちた西部開拓の過程を描くことができない。フロンティアの消滅によって行き場を失うフロンティア・ヒーローと共に、フロンティアを舞台とする西部劇もまた行き場を失う。だとすれば、断崖に立ち尽くすホークアイとコーラらの追悼の身振りは、フロンティアのみならず、西部劇というジャンルに対して向けられたものと読めないだろうか。


 


[1]レザーストッキング物語が後世に与えた影響については、カウェルティ(『冒険小説・ミステリー・ロマンス ― 創作の秘密』)、スミス(『ヴァージンランド ― 象徴と神話の西部』)、スロトキン(The Fatal Environment, Regeneration Through Violence)等に詳しい。

[2]Roger Ebert. September 25, 1992. rogerebert.com.
 <http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19920925/REVIEWS/209250302/1023
 (アクセス日:2013年3月29日)

[3]史実をベースとするクーパーの原作は、歴史小説とも称される。フランス人のモンカルム将軍やイギリス人のマンロー大佐をはじめとして実在の人物が複数登場するし、後述するウィリアム・ヘンリー砦の虐殺も実際に起きた出来事である。一方で、史実の意図的な改変や誤認(モヒカン族とモヒガン族を混同していること等)も見られる。原作における史実との相違についてはMcWilliams (“The Historical Contexts of The Last of the Mohicans.”)を参照。

[4]「ホークアイ(Hawkeye)」というインディアン名は、ナッティ・バンポーが『鹿狩り人』において、ヒューロン族の戦士との戦いに勝利し、勇敢な戦士であることを証明することによって獲得される。それまで「鹿狩り人(Deerslayer)」というインディアン名を名乗っていたバンポーは、この初めての人殺しによって、ハンター(鹿殺し)から戦士(人殺し)へのイニシエーションを果たす。

[5]マグワのマンロー大佐への復讐心は、マンロー大佐率いるイギリス軍に子供を殺され、マグワはイギリス側についたモホーク族の奴隷にさせられ、妻は彼が死んだと思い込んで他の男と再婚したことが原因であると語られる。原作では、飲酒への罰としてマンロー大佐から鞭打ちの刑という辱めをうけたことが原因であった。

[6]原作のコーラは「女性的な繊細さと、男性的な現実主義と勇気を併せ持つ」人物として、性別の境界を横断する(十字架を持つ)者と解釈されている (Slotkin, The Fatal Environment 89)。

[7]本作ではコーラに想いを寄せるヘイワード少佐は、原作ではアリスと結ばれる。『大草原』には二人の孫ダンカン・ウンカス・ミドルトンが登場する。また、コーラはウンカスと恋に落ち、マグワもコーラを妻にしたいと欲望する。しかし、三者は死に至り、異人種間の恋愛が成就することはない。

[8]『ラスト・オブ・モヒカン』には二種類のディレクターズ・カット版が存在する。DVDに収録されたディレクターズ・カット版では、さらに以下のセリフが追加されており、消えゆく者としてのインディアンの運命が強調されている。また、その後を継ぐホークアイら白人がフロンティアと共に西へ移動していく未来が示唆されている。

Chingachigook: “The frontier moves with the sun, and pushes the Red Man of these wilderness forests in front of it until one day there will be nowhere left. Then our race will be no more, or be not us.”
Hawkeye: “That is my father’s sadness talking.”
Chingachigook: “No, it is true. The frontier place is for people like my white son and his woman and their children. And one day there will be no more frontier. And men like you will go, too, like the Mohicans. And new people will come, work, struggle. Some will make their life. But once we were here.”

これらのセリフは、BDに収録された最新のディレクターズ・カット版では再びカットされている。なお、本論で引用している画像の経過時間は、BD収録のディレクターズ・カット版にもとづく。

[9]「自由のフロンティア(frontiers of freedom)」という表現は、例えば1963年のケネディ大統領の一般教書演説で「われわれはヴェトナムから西ベルリンに至るまで、自由のフロンティアを維持していくのだ」というように使用された。また、「科学と技術のはるかなフロンティア(the far frontiers of science and technology)」という表現は、クリントン大統領による2000年の一般教書演説で用いられた。

[10]ウンカスとアリスが崖から転落するのに対し、ヨーロッパ的悪徳によって堕落してしまったマグワは崖の上で死ぬ。

 

参考・引用文献リスト
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・カウェルティ、J.G.『冒険小説・ミステリー・ロマンス ― 創作の秘密』鈴木幸夫訳(研究社出版、1984年)
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・亀井俊介『アメリカン・ヒーローの系譜』(研究社出版、1993年)
・紀平英作編『新版世界各国史24 アメリカ史』(山川出版社、1999年)
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