bplist00?_WebMainResource? ^WebResourceURL_WebResourceFrameName_WebResourceData_WebResourceMIMEType_WebResourceTextEncodingName_?file:///Users/uedamayu/Downloads/hirai-article-2011-sample.htmlPO?G CineMagaziNet! no.17 藤原征生 「大映カラー」に関する映画技術史的事実の再確認

「大映カラー」に関する映画技術史的事実の再確認
冨田美香「総天然色の超克―イーストマン・カラーから『大映カラー』への力学」に対する反駁



藤原 征生

 

はじめに
 本稿は、2012年10月に青弓社から刊行された、ミツヨ・ワダ・マルシアーノ編『「戦後」日本映画論』所収、冨田美香氏による「総天然色の超克――イーストマン・カラーから『大映カラー』への力学」(以下、『冨田論文』)に対する反駁を意図して書かれたものである。
 前掲書が刊行された当時、筆者は大学院への進学を控えて卒業論文を執筆している最中であった。その内容は1950年代日本映画におけるワイド・スクリーンの導入に主眼を置いた、映画技術史に関するものであったが、当時の指導教官に知らされて本書の発刊を知り、その中に「大映カラー」の文字を見つけた筆者の感銘は大きかった。2014年現在に至るまで、日本映画の技術的発達を主眼に置いて正確かつ包括的にまとめあげた学術的文献はほぼ無いに等しく[1]、ましてや日本の映画技術史に関する事項、わけても日本におけるカラー映画(天然色映画)の発達史が、日本語で書かれた映画学書籍中に取り上げられるようなことは今まで少なかったからである。
 しかし、期待して『「戦後」日本映画論』を手に入れたものの、冨田氏による「大映カラー」に関する論文は、映画技術史的見地からは必ずしも満足できるものではなかった。結論から述べると、副題として「イーストマンカラー[2]から『大映カラー』への力学」、あるいは本文第3節を「大映カラー誕生のプロセス」と銘打っておきながら、冨田論文では「大映カラー」の誕生に関する映画技術史上の発展がほとんど辿れていない。誤解のないように申し添えておくと、大映カラー以前の日本における天然色映画の発達史は氏の綿密な調査に基づいて詳述されており、その部分は評価に値するものの、いざ「大映カラーの誕生」の記述になると、その歴史的事実の確認が――「大映カラー」以前の記述とは不思議なくらい対照的に――全くと言って良いほどになされていない。筆者はその点に関して冨田論文に大いに問題を感じるとともに、修正の必要性を切に感じたのである。もちろん、筆者が冨田論文に対して修正が必要であると感じようとも、日本語で刊行された映画論集において映画技術史的事項に焦点を当てた論文が登場したことは大いに祝福すべきであり、その先陣を切って世に送り出された冨田論文の意義は非常に大きい。とは言え、論文が「大映カラー」の誕生とその展開を主題に据えている以上、「大映カラー」に関する映画史的事実の確認は当然欠くべからざる作業であり、それらを綿密に確認検証していないようでは、映画技術史を扱った論文としてその価値を大いに減ずることとなる。
 そこで、本稿では、映画技術史論文としての冨田論文の独自性は認めながらも、その映画技術史的誤謬については徹底的に改める事を第一の目的にする。冨田論文を以下の三つの視点から検証して、現在する問題点に対処していく。これら三つの視点は、そのまま本稿の構成に引き継がれる。

I.「イーストマンカラー」はいつ「大映カラー」になったのか
II.「大映カラー=イーストマンカラー」ではないということ
III. 当時高評価を得た「大映カラー・総天然色」映画は何であるか

 まずIであるが、冨田論文は「大映カラーの誕生」について触れることを予見させるようなタイトルを謳っておきながら、いつ「大映カラー」が誕生したのか、すなわち大映が「大映カラー」の呼称をどの時点で使用し始めたのか、ということに関する具体的言及が結尾まで全くなされていない。「『大映カラー』の誕生プロセスを解き明かす」という目標があるのならば、映画技術史的事実確認は当然行われるべきである。大映が当初『地獄門』で採用していた呼称「イーストマン・カラー(システム)」[3]が、いつ「大映カラー」に変化したのかという映画技術史的事実を、冨田論文への反駁と補完を目的にして、先行研究を基にした筆者の調査結果を述べる。
 次にIIに関して、冨田論文を読んだ限り、冨田氏は「大映カラー」を米イーストマン・コダック社のカラー・システム「イーストマンカラー」のヴァリアント(変名モデル)であると前提して論を進めていた。しかしながら、映画技術史をひも解けば、必ずしも「大映カラー=イーストマンカラー」ではないということはすぐに分かる。すなわち、「大映カラー」をイーストマンカラーのヴァリアントとしてだけ認識するということは、映画学的知識としては誤りということになる。冨田氏の「大映カラー」に関するさらなる映画技術史的誤謬を指摘し改める。
 IIIでは、撮影技術および色彩表現に関して、当時いったいどのような「大映カラー・総天然色」作品が高い評価を得ていたか、ということを考える。冨田論文では、独特な色彩表現をなした例として、大映のカラー第8作目で、溝口健二のカラー第2作目『新・平家物語』(1955年9月21日公開)を取り上げているが、色彩表現や色彩技術において当時『新・平家物語』以上に高い評価を得ていた「大映カラー」作品、換言すれば、「大映カラー・総天然色」映画の発達を辿る上で欠くべからざる映画作品の存在を指摘する。
 そして、本稿の結びでは、「大映カラー」の日本映画技術史上における意義の再考を試みる。

I.「イーストマンカラー」はいつ「大映カラー」になったのか
 既に述べた通り、冨田論文のタイトルは「総天然色映画の超克――イーストマン・カラーから「大映カラー」への力学」である。同論文の第3節では「大映カラー誕生のプロセス」と銘打って紙面が割かれてもいる。しかしながら、冨田論文全体において「大映カラー」の呼称がいつどの作品で採用されたという具体的な言及が全くなされていない。少なくとも大映は、カラー第一作目の『地獄門』では「イーストマン・カラー(システム)」と銘打っており、当初から自社のカラー・システムを「大映カラー」と銘打っていた訳ではないから、「大映カラーの誕生プロセス」を辿る冨田論文で、「大映カラー」という呼称がいつ誕生したかという映画史的事実の確認はされて然るべきである。歴史的事実の確認作業を怠っていては、「大映カラーの誕生プロセス」を辿ったことになりはせず、映画技術史研究としての冨田論文の存在意義も大きく損なわれてしまう。
 ともかく、大映が当初『地獄門』で用いていた「イーストマン・カラー(システム)」という呼称を、どこかの時点で「大映カラー」へと変更したことは、映画技術史上の厳然たる事実である。それでは実際のところ、大映は具体的にどの作品から「大映カラー」の呼称を採用したのであろうか。以下に、筆者の調査結果を述べていく。
 調査を始めるにあたり、『カルメン故郷に帰る』(木下惠介監督、松竹大船1951年)以降の日本における初期カラー映画について詳述した数少ない先行研究である、岡田秀則「国産カラーの時代」[4]の中に「大映カラー」の呼称問題について言及した箇所があるので、その部分を引用しておく。

 まず『地獄門』の成功でイーストマンカラーの採用に自信を持った大映は、『千姫』(1954年、木村恵吾)以降、イーストマンカラーによる作品を半ば勝手に「大映カラー」と称し、同社のカラー映画のトレードマークとしている。
(p.7;傍線・傍点は引用者による)

 筆者はこの一文に基づき、『地獄門』から『千姫』に至るまでの大映製作によるカラー作品、すなわち1953年10月31日公開の『地獄門』(衣笠貞之助監督)に始まって、1954年3月21日公開の『金色夜叉』(島耕二監督)、同年9月22日公開の『月よりの使者』(田中重雄監督)、同年10月20日公開の『千姫』(木村恵吾監督)に至る四作品の公開当時に発行された宣伝資料を主に用いて、大映が自社のカラー作品に対して用いた呼称を調査した。今回事実確認のため特に使用した資料は、以下の10点である。

資料No.01.『地獄門』本篇冒頭タイトル・カード【図版1】
     02.『地獄門』パンフレット【図版2
     03.『地獄門』プレス・シート(復刻版)【図版3】
     04.『地獄門』プレス・ブック【図版4
     05.『地獄門』絵はがき【図版5
     06.『金色夜叉』パンフレット【図版6a, 図版6b
     07.『金色夜叉』上映館チラシ【図版7a, 図版7b
     08.『月よりの使者』パンフレット【図版8a, 図版8b
     09.『月よりの使者』上映館チラシ【図版9
     10.『千姫』パンフレット【図版10
     11.『千姫』プレス・シート【図版11a, 図版11b

 これらの資料を調べてみると、大映初のカラー作品である『地獄門』においては、イーストマンカラーは「イーストマン・カラーシステム」(【図版1】)あるいは「イーストマン・カラー」(【図版2~5】)と称されている。続く『金色夜叉』では、その呼称が「大映イーストマン(・)カラー」[5]に変化していることが見て取れる(【図版6b, 7aおよび7b】)。第3作目である『月よりの使者』でも、カラー・システムの宣伝時の呼称は基本的に「大映イーストマン・カラー」を継続して使っていることが伺えるものの、資料08では、表紙などに「大映カラー・総天然色」の表記を発見した(【図版8a】)。岡田論文が「大映カラー」呼称の起源であると記述した『千姫』に先行して公開された『月よりの使者』でも「大映カラー」呼称が使用されており、岡田論文の主張に反する事実が提示されたことになる。
 しかしながら、『月よりの使者』において「大映カラー」呼称が用いられているのを確認したのと同時に、『千姫』の宣伝資料に、以下の文言が記載されていることも確認できた。

 (前略)…前作「地獄門」に於て、カンヌ映画祭のフランスの芸術家たちを以て構成した審査団を三嘆させた大映カラー(イーストマン・カラーを今回より大映で製作するものに限り、かく呼称します)によって桃山末期から徳川初期に至る史上最も豪華絢爛を極めた時代風俗が描き出され…(後略) 
(【図版11b】より文章一部抜粋;傍線は引用者による)

 イーストマン・カラーは全世界に普及し、日本でも東宝、新東宝に於て目下使用中だが、これが公開された暁には、始めて(ママ)、大映の色彩技術の優秀さが誰にもハッキリと判ることだろう。大映が今回イーストマン・カラーの呼称をやめ新(ママ)に「大映カラー」と呼ぶことになったのも、その為で、色彩映画の革命と云われた「地獄門」の驚威的(ママ)な色彩も、大映の優秀な技術あればこそ始めて到達し得た境地なのである。 
(【図版10b】より文章一部抜粋;傍線は引用者による;引用に際し一部仮名遣いを改めた;『ママ』は引用元そのままの仮名遣いおよび漢字表記を表す)

 これらによって、大映が「大映カラー」の呼称を『千姫』から使用開始することをはっきりと宣言していることが見て取れる。すなわち、岡田が言及しているとおり「大映カラー」呼称の使用開始は、公式には『千姫』が初であると断定することができるだろう。
 それでは、『月よりの使者』における「大映カラー」呼称の使用に関する「フライング問題」はどう解釈すればよいであろうか。筆者はこの問題を、『千姫』における大映の宣言を揺るがしてしまう程の大問題ではないと考える。その根拠として二つのことが挙げられるが、まず一つに、『月よりの使者』の劇場用パンフレットの内部に掲載された(恐らく撮影所発行のプレス・シートから採録されたと推測される)文章において、カラー・システムの呼称について「大映イーストマンカラー」と「大映カラー」で表記ゆれが見受けられること(【図版8b】)、もう一つは、『千姫』の一部宣伝資料に「大映イーストマン・カラー」の呼称を用いたものが存在していること(【図版9】)である。つまり、『月よりの使者』『千姫』二作品におけるその事実を統合して勘案すると、それは両作品の間でカラー・システムの呼称に関して移行期間が存在したことを示すことになる。つまり、『月よりの使者』における「大映カラー」呼称の早まった使用は、公式には『千姫』で「大映カラー」の呼称を使い始めることを宣言はしたものの、それが徹底していなかった結果生じた「誤差」のようなものであると解釈することができるだろう。実際に、『千姫』の「大映イーストマン・カラー」表記があった資料は、「近日公開予定」として『月よりの使者』とともに併記された、『千姫』の公開直前に作られたと推測される、新派劇団(俳優座)の公演チラシの片隅に添え物的に掲載されたチラシである。『千姫』製作中においては、「大映イーストマンカラー」の呼称が採用されていた可能性も伺える。あるいは、両作の封切り日が一カ月弱しか違わないため、「大映カラー」呼称が採用されている『月よりの使者』の劇場パンフレット(【図版8a,8b】)は『千姫』の公開後に作成された可能性も考えられる。しかし、各資料の発行日時が判然としないため、本稿でははっきりと断定することはできない。
 とまれ『千姫』以降、大映は「大映カラー」を自社のカラー・システムの呼称として正式採用する訳だが、ここで、例えば岡田が「国産カラーの時代」で述べているような、大映が「イーストマンカラーによる作品を半ば勝手に「大映カラー」と称し」たという説について再検証する必要があると思う。後の章で詳しく述べるが、大映は自社のカラー・システムを、結果としてイーストマンカラー・アグファカラーなどの区別なく「大映カラー」と称したり、ワイド・スクリーンを導入した際も自社のシステムを「大映ヴィスタヴィジョン」や「大映スコープ」と称した(そしてこの二つのワイド・システムに至ってはオリジナルのロゴマークまで作ってしまった)ため、海外から輸入した方式を――もちろん製造元の許可など得ることなく――何でもかんでも「大映」を冠するものに変更したとしばしば考えられがちである。
 しかし、この説には反駁材料となり得る資料が存在する。当時永田雅一社長直属の技術監督として大映のカラー導入に深く携わっていた映画キャメラマンの碧川道夫(イーストマンカラーの大映への導入、後にはヴィスタヴィジョンの大映への導入を決定したのも碧川この人である)は、イーストマンカラーに「大映カラー」の呼称を用いることに関して、EK本社が予め使用を認める旨を伝えてきたと証言しているのである。

 イーストマン社では、ロチェスターのコルビン先生との間に、私たちへの対策ができあがっていたのです。決まったら、早かったですね。しかも、ずっと後だが、「作品に<大映カラー>という名をつけてもかまわない」と言う、お便りをいただいて、見透かされているようで、むしろあわてました。
(山口猛(編)『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』p.190;傍線は引用者による)

 引用元の文献が「口述筆記による自伝」という体裁を採っているため、史実としての信憑性にはいささか不安があるにせよ、技術監督として大映の天然色導入に最も深く携わった碧川の証言は無視できないだろう。しかしながら、本稿執筆時点で発見できた資料が碧川の証言のみである上、その唯一の資料も、EK本社からの便りが来た時期を「ずっと後」という極めて曖昧な表現で示すに留めており、この問題についてより精密に検討する余地がない。更なる入念なリサーチが必要とされるところであるが、ここでは、「大映カラー」呼称の導入が「半ば勝手」に行われたという認識について再考を促す程度に留めておきたいと思う。碧川の証言を読む限り、少なくともイーストマンカラーについては、「大映カラー」呼称はEK本社の合意を得ていたことになるのである。
 この章の結論として言えることは、次のとおりである。すなわち、「大映カラー」の呼称を公式に用いたのは、カラー第4作目の『千姫』であり、それは当時の宣伝資料の文言から確認できることである。しかし、実際にはカラー第3作目の『月よりの使者』の一部宣伝資料にも「大映カラー」の記述がなされているものがあり、『月よりの使者』では表現が混用状態にあり、『千姫』から「大映カラー」に完全移行したと断定できる。なぜ『月よりの使者』の一部宣伝資料に「大映カラー」の名称が(いわば「フライング」の形で)採用されたのかは判然としないが、公開時期が1ヶ月程度しか違わないため、『月よりの使者』の一部資料が公開後しばらくしてから、『千姫』の資料の製作時期と重なった期間に発行された可能性が考えられる。すなわち、『千姫』において「大映カラー」の名称が正式に導入された直近直後に、遅れて前作の『月よりの使者』の一部資料が製作されたと推測できる。ただ残念ながら、各資料に発行日が明示されていないため、この仮説をはっきりと証明することは困難である。また、「大映が『イーストマンカラー』を半ば勝手に『大映カラー』と称した」という岡田秀則の説は、碧川道夫の証言とは食い違うものであり、再考を要するものである。

II.「大映カラー=イーストマンカラー」ではないということ
 一読したところ、冨田論文では「大映カラー」を一貫して「イーストマンカラー」のヴァリアントであるとみなして論が進められていた。そもそも冨田論文自体が、アメリカと日本という二項対立の図式のもとに論が進められており、「大映カラー」を「技術先進国と近代文化の象徴とも言えるアメリカとその製品に対する憧憬と同一化の欲望であると同時に、それらと表裏一体の極東=東洋のリーダーたる日本という、戦間期とも相通じるアイデンティティの再確立を目指した心象の具現化だったと思われる」と結論付けている[6]
 しかし、「大映カラー=イーストマンカラー」と決めてしまうことは、映画技術史的には全くの誤りである。たしかに、大映はカラー第4作目の『千姫』(1954年10月12日公開)以降、イーストマンカラーに「大映カラー」という独自の呼称を用いて、カラー作品の製作に取り組んできた。しかし、ここで重要なのは、「大映カラー」のその後の展開も見過ごしてはならないということである。
 『地獄門』以降、大映は専らイーストマンカラーを自社のカラー作品に用いていたが、1956年10月31日公開の『午前8時13分』(佐伯幸三監督)で、大映は独アグファ社のカラー・システム「アグファカラー」を採用する。これは大映初の試みであるだけでなく、日本映画で初めてのことであった。なお、今回『午後8時13分』の参考資料として、以下の二点を使用した。

  資料No.12.『午後8時13分』パンフレット【図版12a,12b
       13.『午後8時13分』プレス・シート【図版13

 アグファはEKと並び最初期からカラー・フィルムの開発に取り組んでおり、1939年には世界で初めて映画用35mmカラー・ネガフィルムを発売するなど、カラー映画撮影技術分野における先駆的企業であった。第二次世界大戦中から、ドイツ国内ではアグファカラーを用いた映画作品が製作されており、そのノウハウは戦後(敗戦したドイツを占領した)ソ連に受け継がれ、アグファカラーはソ連映画に広く用いられた。ソ連初の長篇カラー映画で、なおかつ日本で戦後初めて公開されたカラー映画である[7]『石の花(Kammennyi Tsvetok / Stone Flower)』(アレクサンドル・プトゥシコ監督、モスフィルム1946年)も同方式で撮影されている。アグファカラーはイーストマンカラーに比べてやや渋みのある色調が特徴で、コントラスト・彩度ともに高いイーストマンカラーとは異なる美しさをもつカラー・システムであった。日本映画では、小津安二郎がカラー作品を初めて製作するに当たって、イーストマンカラーとアグファカラーとを比較して、小津本人にとってより好ましく発色するアグファカラーを採用した[8]という挿話が有名である。また、稲垣浩は『宮本武蔵』(1954年9月26日公開)で東宝初のイーストマンカラーを手掛けたものの、『柳生武芸帳』(1957年4月14日公開)で東宝初のアグファカラーを手掛けて以降は、アグファカラーを好んで用いていたようである。
 アグファカラーを大映初かつ日本初採用した『午前8時13分』においても、そのカラー・システムは「大映カラー」と宣伝された[9]。つまり、ここに至って「大映カラー=イーストマンカラー」という図式は崩壊し、「大映カラー」の元方式が判然としない状況が生み出されたのである[10]。一読する限り、冨田論文にはこの辺りの事情は勘案されていないように見受けられる。というのも、先ほども述べたように「戦勝国アメリカに対する敗戦国日本の憧憬」というテーマがいわば通奏低音のように論文全体を貫いており、戦勝国アメリカの象徴たるイーストマンカラーを用いて日本独自(あるいは大映独自)な色彩表現をなした例として、1955年の『新・平家物語』が挙げられており、そのため「大映カラーの成立」に関しての追跡調査が1955年で中断してしまっているのである。
 冨田氏が大映カラーに関する調査を1955年で打ち切ってしまったことは、あまりにも早計であると言わざるを得ない。大映がイーストマンカラーのみならずアグファカラーも日本映画で初めて採用したこと、そしてアグファカラーも「大映カラー」と称した事実を明記しておかなければ、「大映カラー」は大映が製作するイーストマンカラー作品だけを指す用語である、という誤解を読者に与えかねない。今述べた通り、「大映カラー」をイーストマンカラーのみに規定する枠組みは映画技術史的に誤りであり、「大映カラーの成立」を主題に置く冨田論文には、そのことを明記する必要がある。もっとも、「大映カラー」が第二次世界大戦の戦勝国アメリカが生み出したイーストマンカラーだけではなく、敗戦国ドイツが生み出したアグファカラーさえも意味するということを明記するならば、現時点での冨田氏の結論はもちろん書き直しせざるを得ない状況に陥ってしまうだろう。しかし、大映はアグファカラーも日本で初めて採用し、採用に際して「大映カラー」と銘打って宣伝しているということは、映画技術史上の厳然たる事実である。

III. 当時高い評価を得た「大映カラー・総天然色」映画は何か
 冨田論文が1955年の『新・平家物語』で大映カラーの一つの完成形を提示したことにして論を締めくくったことの問題性はまだある。『新・平家物語』の色彩表現を冨田氏は高く評価しているが、その色彩表現が公開当時どのような評価を受けたかと言うことを、冨田氏は論文において勘案している様子が見られない。
 公開当時、『新・平家物語』の色彩表現がどのような評価を得ていたのか、一例として朝日新聞1955年9月15日東京版夕刊に掲載された映画評の一部を引用する。

 日本映画も、遂に、ここまで豪華な作品を生み出すまでになった、永田雅一を中心に大映製作スタッフがイーストマン天然色の研究を続けて来た成果が実を結んだともいえる。天然色作品として、日本映画の一つの頂点である。

 これを読む限りでは、評者の「(純)」こと映画史家の田中純一郎は、同作の色彩表現をかなり高く評価しているように思われる。
 それでは、次に『キネマ旬報 1955年10月上旬秋の特別号』p.116に掲載された映画評の一部を引用してみよう。

 色はリアリズム・カラーで殺して使い、それが一段と技術的な進歩を示したのだそうだが、なるほど特に鮮明な強さでのこらぬのはリアリズム・カラーの成功なのだろう。しかし色の楽しさというのはどういうことなのか。ぼくはむしろ『赤い靴』や『赤い風車』を忘れがたいし『地獄門』の方にいっそう色の楽しさがあったように思う。それらの作品はたしかにいまよりも色彩技術は幼かったかもしれないが、どれにも共通していることはロマネスクな色調ということである。ムーラン・ルージュの煙草の煙にかすんだ画面は、ほとんどロートレックを感じさせたし『地獄門』の夜景の水底のような趣きは、これが平安かとも思った。いまのリアリズム・カラーの良さより、そういう人工的な色を好むのは季節外れの無知といわれるかもしれないが、案外それには絵画のもつ象徴性に通ずる感覚があるのではなかろうか。下品なのはいけないが、いい感覚の色の誇張は楽しい。この点吉川英治の色彩論には不満がある。

 この評において、評者の岡本博は同作の色彩表現に懐疑的な姿勢である。「特に鮮明な強さでのこらぬリアリズム・カラー」も確かに良いかもしれないが、色彩の楽しさや利点を思い起こさせてくれるのは、「いい感覚の色の誇張」でもってなされた「ロマネスクな色調」をもつ映画作品であると言うのである。
 ここに挙げたのはごくわずかな例でしかないが、それでも当時それなりに知名度、影響力ともにあった2つの映画評コーナー(現に、朝日新聞の映画評では、大映ヴィスタヴィジョン第一作目である『地獄花』が、「豪華な失敗作」という実に印象的なコピーでもって酷評され、ヴィスタヴィジョンを推進した大映のワイド・スクリーン政策の出鼻を挫くことに見事成功している)において、『新・平家物語』の色彩表現は、かくも賛否はっきりと分かれていたのである。それにもかかわらず、冨田論文において、少なくとも『新・平家物語』の受容についての記述は見当たらない。
 しかし、筆者は『新・平家物語』の受容を辿ることを怠った以上の問題があると考える。すなわち、冨田氏は当時高い評価を得た「大映カラー・総天然色」映画を考慮のうちに入れていないのである。
 『新・平家物語』公開後2年ほど経ったころではあるが、1957年3月下旬号の『キネマ旬報』誌上では、「日本の色彩映画」という題で、当時日本映画に定着しつつあったカラー映画に関する特集が組まれた。この特集記事の巻頭言はこう記されている。

 去年発表された「夜の河」、最近作「米」「黄色いからす」など、日本の色彩映画にもようやく新らしい(ママ)時代が訪れた。「地獄門」以来、日本の色彩技術は海外でも圧倒的な好評を博しているが、現実はようやく実験期を終えたばかり。質的にも量的にも、今年は本格的な色彩映画の一年目である。本誌はこの転換期をあらゆる面から分析して、表現・技術・企業上の問題点を特集する。
(『ママ』は引用元そのままの仮名遣いを表す)

 この巻頭言において、吉村公三郎の『夜の河』(大映京都、1956年9月12日公開)、今井正の『米』(東映東京、1957年3月4日公開)、五所平之助の『黄色いからす』(歌舞伎座=松竹、1957年2月27日公開)といった作品が具体的に言及されていることに注目すべきである。この中で、「大映カラー」に直接関係があるのは、大映京都撮影所作品の『夜の河』である。なお、ここに挙げられている三作品はすべてイーストマンカラーを用いたカラー映画である。
 また、巻頭言に続くコラム「色彩映画の歴史と現状」において、田口りゅう三郎(「りゅう」は「さんずい」に「卯」)はこう書きはじめる。

 大映の「夜の河」を私は世界有数の色彩美を持った映画だと思う。この映画には各瞬間に色彩の調和があり、場面の流れにしたがって色の流れが感じられる。

 さらに、同特集では映画評論家等各界著名人に「日本の色彩映画は向上したか」というアンケートも行っており、4つの質問項目のうち、最後の「今までの日本の色彩映画で御記憶に残った作品」という項目で、アンケートに回答した岩崎昶、亀倉雄策、武田泰淳、滝口修造、ドナルド・リチー[11]、北川冬彦、金丸重嶺の7人中4人が『夜の河』を挙げている(ただし、7人中金丸は4番目の回答が紙面上に記載されていないため、この項目の実際の回答者は6人である)。撮影を担当した大映京都撮影所のキャメラマン宮川一夫も、同特集掲載のインタヴューに「『夜の河』の成功」と応えており[12]、彼自身その成果を肯定的に捉えていたことも伺える。
 これらの資料を見る限り、『夜の河』は確かに当時専門家たちの高い評価を得ていたようである。そうであるならば、同作は、日本映画におけるカラーの成立を語る上では外せない作品であるのみならず、大映作品であるために「大映カラー」研究にも欠くべからざる作品であるとも言え、当然冨田論文でも取り上げられるべき作品であるということになろう。しかるに冨田論文では『夜の河』については言及されていない。当時高評価を得た「大映カラー」作品について言及しないということは、冨田論文において「大映カラー」を日本映画史上で再評価することが十分になされていないということを意味するだろう。

おわりに:大映のカラー政策と「大映カラー」の映画技術史的意義を再考する――冨田論文再検証の総括にかえて
 最後に、大映がカラー映画の導入に際して日本映画に残した功績について再考して、本稿を締めくくりたいと思う。
 松竹大船が1951年に『カルメン故郷に帰る』をフジカラー(外式発光リヴァーサル方式)で製作して以降、国内他社があくまでも国産方式によるカラー映画の製作に拘泥していたのを尻目に、大映は早々と国産方式に見切りをつけ、アメリカの最新鋭方式であるイーストマンカラーを取り入れて『地獄門』を製作した。そして、『地獄門』の大きな成功――国内よりもむしろ国外における成功の方が大きかったのだが――は邦画界へのイーストマンカラー導入の流れを加速させた。さらに、イーストマンカラーのみならず、もう一つの最新カラー方式であるアグファカラーまでをも日本映画に初めて取り入れ、日本映画のカラー方式選択に大きな影響を与えた。大映のカラー政策、すなわち『地獄門』におけるイーストマンカラーの成功と、『午前8時13分』以降におけるアグファカラーの導入は、国内の他社(松竹・東宝・東映・日活・新東宝など)が、カラー映画撮影方式を未熟な国産方式ではなく、より安定した技術を持つ海外の多層発色現像方式の諸システムに移行していく流れを決定づけたのである。
 イーストマンカラーとアグファカラーという、日本のみならず(テクニカラー以降の)世界中のカラー映画製作における2大メジャーとも言えるカラー・システムをいち早く日本に導入したという大映の功績は非常に大きい。松竹は『カルメン故郷に帰る』で国産のフジカラー(ポジ・フィルムで撮影し、ポジ・フィルムに現像する、外式発光リヴァーサル方式)を用いたが、それは必ずしも完全な方式ではなく、また小西六のコニカラーも、初期はフジカラー同様リヴァーサル方式であったし、ネガ―ポジ法が確立してからも、3原色法テクニカラーのように撮影に3本のネガ・フィルムを用いるため、イーストマンカラーやアグファカラーなど、一本のカラー・ネガで撮影可能な方式に比べて簡便性に欠けていたのである。そのような中で大映は、より簡便に撮影でき、しかもより良いカラー画像が得られるカラー・ネガ撮影方式の2大システムを日本映画に導入し、日本映画におけるカラー・システムのその後の流れを決定づけた。これは、日本映画史上「カラー一番乗り」を果たしたものの、その後が続かなかった松竹よりも、遥かに重要な功績を日本映画史に残していると言えるだろう。なお、国産カラー方式が映画界で再興の兆しを見せるのは、富士フイルムが1958年にカラー・ネガ方式のフジカラーを完成させて、それが松竹大船『楢山節考』(木下惠介監督)で初採用されて以降である。
 また、大映はカラー・システムについて独自の呼称を採用した。第一作『地獄門』の製作当初はそのカラー・システムをほぼオリジナル通り「イーストマン・カラーシステム」と称していたものの、続く『金色夜叉』では「大映イーストマン・カラー」、『月よりの使者』では「大映イーストマン・カラー」と「大映カラー」の混用、そして第四作目の『千姫』では「大映カラー」に完全に改称したのである。
 「大映カラー」の呼称はアグファカラーの採用に際しても一貫しており、大映はイーストマンカラーでもアグファカラーでも、全てのカラー・システムを「大映カラー」と称した。同時代の国内他社は、宣伝に際して一応元方式が分かるように表記していたことを考えると[13]、大映の措置は異例であるとも言える。元方式の別にかかわらず、一切を「大映カラー」と纏め上げてしまうことで、多層発色現像方式の2大システムを包含した巨大なカラー・システムを作り上げたのである。この時点で、「大映カラー」は単なるイーストマンカラーのヴァリアントという、具体的なカラー・システムの言い換えを意味する名称といったレヴェルではなく、より概念的で象徴的な存在へと変貌したのである。
 冨田論文の一番の欠点は、「大映カラー」に関する追跡調査を、1955年で打ち切ってしまったことである。翌1956年こそ、アグファカラーの導入や、当時高い評価を得た『夜の河』の公開があり、「大映カラー」にとって非常に重要な年であったと言える。この頃の日本映画界にとって、天然色撮影は技術上の専らの関心事であり、また同時に当時の観客たちを惹きつけるための重要な宣伝手段であった。それゆえに、どのカラー・システムを導入して製作し、どういった宣伝方法を取るかということは、映画各社にとってはほとんど最も重要視すべき事項だったのである。「総天然色」が日本映画にとって一番の惹句でなくなるのは、1957年に大型映画すなわちワイド・スクリーンの波が押し寄せた時である[14]。それまで、カラー映画は日本映画における技術発達の上で専らの関心事だった訳であるから、「大映カラー」の問題について、冨田氏は1957年まででも調査を続けるべきだったであろう。1955年の『新・平家物語』で調査を打ち切っているがゆえに(そもそも冨田論文は大映カラー作品のフィルモグラフィー的調査を放棄してしまっているが)、「大映カラー」はイーストマンカラーのヴァリアントとしてしか理解され得ず、大映がアグファカラーも日本映画で初めて採用したという、日本映画史上重要な事実の確認が抜け落ちてしまったのである。「大映カラー」の特に重要な点は、当時の世界映画におけるカラー映画撮影方式の2大システムを包含した巨大なカラー・システムを作り上げたということであり、それを指摘し得なかった冨田論文は、映画史的リサーチが不足していると結論せざるを得ない。


[1]例外的に、『カルメン故郷に帰る』(木下惠介監督、松竹大船1951年)以降の日本映画における天然色の導入を取り上げた、岡田秀則「国産カラーの時代」(『NFCニューズレター』No.25所収)や、日本映画テレビ技術協会が、機関誌『映画技術』ならびに『映画テレビ技術』掲載記事を中心に纏め上げた『日本映画技術史』という文献が存在する。しかしいずれにしても、岡田論文では『カルメン故郷に帰る』以降の日本の初期カラー映画の表から『月よりの使者』(田中重雄監督、大映東京1954年)が欠落しているし、『日本映画技術史』に至っては、掲載されている技術史年表が1955年という実に中途半端な年代――日本映画において漸く天然色映画が普及し始めたもの、ワイド・スクリーンの導入には至っていない時期――で年表作成が中断してしまっているから、体系的・包括的に日本の映画技術史をまとめた文献というものは今まで無かったと断言してしまっても、あながち間違いではなかろう。

[2]本稿では、米イーストマン・コダック社が開発し、『地獄門』以降数多くの日本映画に採用されたカラー・システムを「イーストマンカラー」と表記する。冨田論文では、当該方式を一貫して「イーストマン・カラー」とナカグロ付きで表記しているが、本稿ではナカグロを省いた形で表記を統一する。第一の理由として、本方式と競合するその他のカラー・システムを日本語カタカナ表記した際に、例えば「テクニカラー」「アグファカラー」「フジカラー」「コニカラー」などといった具合に、ナカグロを省いて表記するのが一般的であるということがある。ナカグロを用いないのは、原語表記では、例えばテクニカラーはTechnicolor、アグファカラーはAgfacolorといったように、連続した一語で表記されることが主な理由と考えられる。イーストマンカラーの場合、英語表記にはEastmancolorないしはEastman Colorといった二通りがあり、文献によって表記にバラつきがあるため、忠実な日本語表記にナカグロが必要か否かが判然としない。そこで、本稿では、イーストマンカラー以外の競合方式がナカグロ無しで日本語表記されていない現状を鑑みて、表記上の釣り合いを採る意図もあり、ナカグロを省いた表記を採用した。

[3]『地獄門』映画冒頭のタイトル・カードでは「イーストマン.カラーシステム」と表記されているが(【図版1】)、同作の宣伝資料(パンフレット、プレス・シートなど)には「イーストマン・カラー」と表記されている(【図版2~5】)ため、「システム」を丸カッコ内に収めて表記した。なお、本稿においては、「.」と「・」は同等の記号であるとみなした。以降、『地獄門』で採用されたカラー・システム表記について、本稿では「イーストマン・カラー(システム)」と表記することがあるが、この書き方について、登場各箇所で触れることは省略する。

[4]岡田秀則によるこの論文は、日本映画における天然色の導入を克明に記述したものとしては数少ない日本語学術文献であり、調査内容も詳細で学術的価値の高いものである。しかしながら、唯一にして最大の欠点は、先述したとおり日本の初期カラー映画のフィルモグラフィから、大映のカラー第3作目である『月よりの使者』の記述が欠落してしまっていることである。

[5]公楽会館のチラシの表面のみ、「大映イーストマンカラー」とナカグロ無しで表記されていた(【図版7a】)ため、ナカグロを丸カッコに収めて表記した。

[6]『戦後日本映画論』p.327。

[7]同作の日本初公開は1947年11月である。

[8]小津は『彼岸花』(1958年9月7日公開)以降、途中ホームグラウンドである松竹大船撮影所を離れて製作した『浮草』(大映東京、1959年11月17日公開)『小早川家の秋』(宝塚映画=東宝系列、1961年10月29日公開)の2本を含めて、遺作『秋刀魚の味』(1962年11月18日公開)に至るまで、全ての作品で一貫してアグファカラーを用い続けた。

[9]もっとも、同作の宣伝資料においては、「大映カラー・総天然色」と銘打ってはいても、「日本映画で初めてアグファカラーを採用した」という説明もきちんと書かれているため、大映がアグファカラーを用いていることを秘匿して「大映カラー」を押し通そうとしたという意図は見受けられない。この事実を考えてみても、岡田が主張する「半ば勝手に」という説の信憑性はやや薄いと考えられまいか。

[10]ただし、「大映カラー」の元方式がイーストマンカラーであるかアグファカラーであるかの判別方法が全く無い訳ではなかった。当初、アグファカラーはその現像を東京現像所のみで扱っていたため、クレジット・タイトルに「現像・東京現像所」の文字が出れば、その作品はアグファカラーである可能性が高かった。また、作品によっては、パンフレットなどでは「大映カラー・総天然色」と表記する一方で、映画本篇ではクレジット・タイトルに「アグファカラー」と追記されることも少なからずあった。大映は東映・松竹などと同じく東京と京都に撮影所を置いていたが、現像所の所在地の理由などから、大映では京都撮影所作品にはイーストマンカラーが多く、東京現像所作品にはアグファカラーが多い傾向にあった。また、目の肥えた映画鑑賞者であれば、アグファカラー独特のやや緑味の強く渋みのある色彩を判別することは困難ではない。他にも、時代劇、特撮あるいはスペクタクル性の高い作品にはイーストマン、文芸作品や現代劇にはアグファが好まれる傾向があったようである。ただし、これらのことに関しては筆者の検証にまだ不十分な点があり、必ずしもそうと断言できるものではないことをご留意いただきたい。

[11]本誌では「ドナルド・リチイ」と表記されている。

[12]同号p.44に、「「夜の河」の成功は、衣装に負うところが多いでしょう」という記述がある。宮川は同作の成功を「衣装に負うところが多い」と述べてはいるものの、色彩表現に関しては一定の肯定的評価を下しているようである。

[13]例えば東映は「イーストマン東映カラー」「アグファ東映カラー」などと称しており、松竹も同様に「イーストマン松竹カラー」「アグファ松竹カラー」と表記していたことが、当時のポスターなどから窺い知れる。また、東宝は単に「イーストマンカラー」「アグファカラー」と表記していた(一部文献:島崎清彦の「色彩映画の種類」にはイーストマンカラーを「トーホーカラー」と称しているという記述があったが、現時点で筆者は実際の作品における使用例を確認していない)。なお、新東宝・日活は1950年代を通じてアグファカラー作品を製作しなかったと推測される。また本題から少しずれるかもしれぬが、映画技術の命名に関して、東宝は自社開発方式にのみ「東宝」の銘を冠する傾向があったようである。戦前に開発された二原色法カラーの「東宝カラー」、あるいは自社開発の優れたアナモルフィック・レンズを搭載した「東宝スコープ」などがある一方で、海外から輸入したカラー・システムは、そのまま「イーストマンカラー」「アグファカラー」と称していたのである。

[14]裏付けとなる具体的なデータは存在しないが、日本映画のどの会社でも、ワイド・スクリーン導入以降は、カラー作品であればカラー・システムの別に関係なく「総天然色」という表記に留められることが多くなっていったように思われる。

参考資料
<映像作品>
・『地獄門』(衣笠貞之助監督、大映京都1953年)DAXA-4164、角川書店、2012.4(Blu-ray)
・『月よりの使者』(田中重雄監督、大映東京1954年)TND9221、大映、出版年不明(VHS)
・『新・平家物語』(溝口健二監督、大映京都1955年)DABA-0655、角川書店、2009.11(DVD)
・『夜の河』(吉村公三郎監督、大映京都1956年)DABA-90903、角川書店、2012.11(DVD)

<書籍>
・『日本映画技術史』日本映画テレビ技術協会、1997.5
・山口猛(編)『カメラマンの映画史 碧川道夫の歩んだ道』社会思想社、1987.8
・石川英輔『総天然色への一世紀』青土社、1997.8
・岡俊雄『世界の色彩映画』白水社、1954.5

<論文・雑誌記事>
・冨田美香「総天然色の超克――イーストマン・カラーから『大映カラー』への力学」、ミヨ・ワダ・マルシアーノ(編著)『「戦後」日本映画論』pp.306-331、青弓社、2012.10
・岡田秀則「研究ノート 国産カラーの時代」『NFCニューズレター No.25』pp.5-7、東京国立近代美術館、1999.5
・「特集・日本の色彩映画」『キネマ旬報 1957年三月下旬号』pp.36-50、キネマ旬報社、1957.3
・島崎清彦「色彩映画の種類」『キネマ旬報 1958年10月下旬号』pp.58-59、キネマ旬報社、1958.10
・岡本博「日本映画批評 新・平家物語」『キネマ旬報 1955年10月上旬秋の特別号』p.116、キネマ旬報社、1955.10
・田中純一郎(記事署名は「(純)」)「群衆撮影の迫力 「新・平家物語」(大映)」朝日新聞1955年9月15日東京版夕刊p.2

<映画作品関連資料>
・『地獄門』パンフレット、発行元不明、c.1953
・『地獄門』プレス・シート(復刻版)、『地獄門』Blu-ray封入特典(品番:DAXA-4164)(オリジナル:「大映京都作品案内380 地獄門第二輯」、大映京都撮影所宣伝課、c.1953)
・『地獄門』プレス・ブック、「DAIEI AD BOOK No.404」、大映本社宣伝部、c.1953
・『地獄門』絵はがき、発行元不明、c.1953
・『金色夜叉』パンフレット、京橋出版社、c.1954
・『金色夜叉』上映館チラシ、「KRK・WEEKLY V No.12」、公楽会館、1954.3
・『月よりの使者』パンフレット、京橋出版社、c.1954
・『月よりの使者』上映館チラシ、発行元不明、c.1954
・『千姫』パンフレット、ウイーリクー(「ウイークリー」の誤記か?)出版社、c.1954
・『千姫』プレス・シート、発行元不明、c.1954
・『午後8時13分』パンフレット、発行元不明、c.1956
・『午後8時13分』プレス・シート、「大映東京撮影所ビルボールド」、大映東京撮影所宣伝課、c.1956

<WEBサイト>
・東京国立近代美術館フィルムセンター 所蔵映画フィルム検索システム
http://202.236.109.20/index.php
・日本映画情報システム
http://www.japanese-cinema-db.jp/
・日本映画データベース
http://www.jmdb.ne.jp/
・国産カラーの時代 ※『NFCニューズレター』誌に掲載された岡田秀則氏の同名論文がオンラインされている
http://www.ea.ejnet.ne.jp/~manuke/zatsu/eiga/kokusan.html


 

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