京都西陣地区映画館の変遷

京都西陣地区映画館の変遷
                                     藤岡篤弘
1.はじめに

 京都の町は映画産業との関わり合いがことのほか強い。シネマトグラフ1を最初に日本に持ち帰った稲畑勝太郎が京都出身であったこともあり、日本初のシネマトグラフ試写上映は一八九七年京都四条河原付近で行われる。因みに一八九六年十一月に神戸で公開された映画は、エジソン発明のキネトスコープ(のぞき型映写専用装置)であり、京都は日本ではじめてスクリーンに「映画」が映されたまちであるとされる2 。フランス留学時の同級生であった横田永之助は、その縁でシネマトグラフの興行権を譲り受け、横田商会として事業展開する。彼は東京の吉沢商会が一九〇八年に設立した日本初の撮影所にやや遅れて、二条城近辺に撮影所を構える。ここで彼は西陣千本座の座主であった牧野省三、さらに牧野が起用した「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を擁して次々に映画作品を生み出していく。京都には歌舞伎など芝居の伝統が根付いていたため、映画という大衆娯楽を受け入れる準備が整っていたといえる。ただ当時彼らが作っていた映画というのは、カメラを固定して歌舞伎をそのまま撮影したようなものであり、のちに時代遅れとされるものになる。  また二条城撮影所設立以降も、太秦地区を中心として撮影所が現れては消えることになる。それはちょうど北野白梅町を起点とする京福電鉄沿線に集まっており、一九三五(昭和十)年には8撮影所が並立するという状況であった。当然撮影所に通う映画人の多くが京都に住んでおり、京都が「東洋のハリウッド」と呼ばれていた由縁になる。  かなり大まかではあるが、以上が定説として知られる映画と京都の関係性である。だが、そこではたいてい映画を受容する観客の存在が見落とされている。製作、配給された映画がたどり着く場所は映画館あるいは小屋であり、それを目にするのは観客たる市民である。その姿を無視して映画都市を名乗ることはできないのではないか。本稿は特に時代を限定することなしに、映画都市を標榜する京都市における映画館とそこに通う市民の映画受容について考察するものとする。

2.映画館街

 京都初の映画常設館(映画を専門に上映する劇場、小屋)は一九〇八(明治四一)年二月、新京極錦上ルにできたといわれる。この辺り一帯の映画常設館はそのほとんどが見世物小屋から転身したものである。つまり種々の演芸の幕間に上映されていた映画が、時代の要請とともに全面的なプログラムになったということであろう。以後、現在にいたるまで新京極通り一帯は京都における映画常設館の中心地、いわゆる映画街となる。


3.西陣地区映画館の衰退

 一方、京都にはもうひとつの映画館集中地域があった。西陣地区である。西陣とは応仁の乱時、西軍の陣が設けられたことから名付けられた土地の俗称(学区名)であり、堀川以西の今出川通周辺一帯を指す。映画館は西陣一帯に点在していたが、特に集中していたのは今出川通から丸太町通にかけた千本通りの東西を中心とする、現在の千本通商店街(せんぼんラブ)辺りである。フランス映画産業の影響を受けたと言われる新京極の劇場群とは異なり、もっと気楽な界隈であったらしい3。 その西陣地区映画館群は現在のところ成人映画館2館を残すのみとなっている。西陣でも新京極同様ほとんどの映画館が芝居小屋からの転身である。経営者が交代したり、戦時中はニュース映画専門館にされたりした映画館もあった中、様々に生まれては消えていった。しかし主要映画館の閉館時期を参照すれば分かるように、昭和四〇(一九六五)年代以降に幕を閉じる館が多い。一九七一年の大映倒産が西陣映画館衰退への引き金になったという推察4もあるが、『羅生門』『地獄門』の国際映画祭連続受賞、座頭市や眠狂四郎といった連続時代劇のヒットにもかかわらず映画館からの観客離れには勝てなかったという推論5がむしろ自然であろう。大映倒産の二年後、一九七三年の千本通り周辺の精密地図には映画館がまだいくらか確認できるものの、一九九八年の同地図には探すのがやっとである。 この時代、やはりテレビの普及が映画興行に与えた影響は甚大であったことは想像に難くない。しかしそれは映画館が全国的(全世界的)に抱える事態である。ここからは西陣地区における映画興行の加速度的衰退に特徴的な背景を考えてみたい。


4.西陣織の衰退

 西陣地区は全国的に有名な織物業者の集中地区でもある。だとすれば、当然織物業者の従業員が、この地区の映画館における一つの社会的観客層を形成することになるだろう。戦後まもなく「この地区は何しろ織屋さん地区だから、織屋さんの休みの日は、観の成績もいいとのこと。花時は昼間よりもやはり夜がよく…」という報告もある6。ここで映画館数の減少と西陣織産業の衰退がパラレルな関係にあるのではないかという推論が出てくる。 西陣織の総出荷金額のピークは一九九〇年である。ただ個別に見ると、帯地出荷金額のピークは一九八一年、出荷数量は一九七六年をピークに下降する一方である。また、きものは出荷金額で一九七六年、出荷数量は一九六九年から急激な下降線を辿っている。しかし目を転じると、ネクタイなどは現在でも安定した業績を残している7。このように単純に総出荷数や総売上の動向だけで西陣織産業の衰退時期を確定することは困難である。とはいえ、産業従事者の減少は総組合員数の減少からはっきりと読み取れる。一九六九年の1806人が減少し続け、一九九八年には879人になっている8。やはり業者の移転は繰り返されていたようで、一九七三(昭和四八)年から10年間に、京都市中心地区(下・中・上京区)から中心地区外へ転出した織元は23件、転入してきた織元は13件である。なかでも転入は隣接地区からのものがほとんどで、やはり転出超過であったといえる9一九七三年にはいくつもの織物工場や商店が見られた元誓願寺通や笹屋町通が、一九九八年には、いまだ現存するものもあるが、多くが単身者アパートらしき建物やガレージに変化していることから、視覚的にも西陣織産業の全体的な衰退の様子が見受けられる。 しかしこれは中心地区から郊外への人口流出の一例に過ぎない。驚くべきことに、一九六〇年から30年間で京都市の人口が11.3%増加している一方で、中心地区の人口は45.8万人から25.6万人へと44.1%も減少している10。減少分の人口が右京区の住宅地や西京区のニュータウンに住み変わってしまったと言ってもいいほどである。ただこの人口移動だけが西陣から映画館を消してしまったのか。ここからはその地理的境遇についても考察していきたい。


5.映画館と商店街

 人々の消費行動と映画鑑賞には密接な関係性がある。古くから商店と映画館のタイアップは、特に不景気時期になると全国各地で試みられてきたことであるし、これまで見てきた新京極、西陣の両映画館群はいずれも商店街の中に位置する。現在の我々にしても、買い物のついでにふらっと映画館に立ち寄る(あるいはその逆)ことが大半ではないか。映画だけ見て、わき目も振らずに新京極通を抜けて家路につく人口は少ないはずである。新京極あるいは河原町通の映画館群がいまだに京都市内映画館数の半分を占めている理由のひとつには、付近の商店の恩恵があるといえよう。特に大丸、阪急、高島屋といった大百貨店の存在はどの年齢層にとっても魅力的なものである。また戦後まもなく京都駅前の丸物百貨店(現プラッツ近鉄)内に丸物劇場、丸物小劇場の二館が開場し、近鉄百貨店と合併する昭和五二(一九七七)年まで存在しつづけたことや、京一会館が昭和三五(一九六〇)年に「地元の公設市場が買物客のアトラクションとして」開館させ、昭和六三(一九八八)年に「市場が移転した」ため、惜しまれつつ閉館したといった事実11は、観客の消費行動と映画鑑賞の密接な関係性を大いに物語っていて興味深い。 一方、西陣地区の映画館群の中心は千本通りの今出川から上長者町にかけた長さ約1,700メートルの西陣千本商店街付近に位置する。同商店街の特徴は次のとおりである。 昭和五〇(一九七五)年代、この商店街には買回品店が多く、遠方からの客は限られていた。1km圏内というこの商圏の狭さが交通量の少なさにも結びついているようである。 昭和五一(一九七六)年府中小企業総合指導所のまとめによると、問題点として、商圏の狭さや通行量の少なさはもちろん、消費動向に対応した経営がなされていないことや「ヤング」に不評であることなどを挙げている。逆に利点としては、人口密度の大きさ、織物製造業従業員一人あたりの付加価値の高さ、近隣の右京区や北区に有力商業地がないことなどを挙げているが、織物製造業従業員が減少し、北区に大型商業地が出来上がった現在となっては高年齢化した人口密度の大きさを誇るのみである。 同時期の商店街近代化特別推進総合委員会の報告によると、商店数は多いが核になる店がないため街全体の集客力に欠けると指摘している。西友にしろフクヤにしろ、強力な核店舗には至っていないということである。また、来街交通手段が整備されていないことも挙げられている。市電が廃止された直後の当時、公共交通機関はバスだけで、自動車のための駐車場は街内に180台、100メートル以内に120台収容できるものの不十分であるとしている12。 このようにして見ると、西陣地区に人々を集める魅力が薄れている様子が分かる。テレビが普及やがて定着する時代に、「わざわざ」映画を見るためだけに西陣に出向く人口は減少していくわけである。


6.映画館と交通網


 先述したように、京都市には市電が走っていた。今となっては跡形もなく、その事実にただ驚くばかりであるが、中心地区の外周を囲み、またその内側も隈なくリンクされていたのである。日本最初の電気鉄道開通は、一八九五(明治二八)年二月一日に京都電気鉄道(京電)が当時の京都駅南側から伏見までを繋いだものである。一八九五年がリュミエール兄弟によるシネマトグラフ初上映の年であり、2年もおかずに京都で日本初の試写上映が行われたことを考えあわせると、ここにはなんらかの必然性を感じてしまう13。電鉄の第一路線が、市内と当時まだ市外地であった伏見とを結んだことは今となっては不可解であるが、伏見は物資輸送における淀川−高瀬川間の水運拠点として京都の玄関口であったという。のちに路線網がほぼ完成するものの、一九一二(明治四五)年に京電の不足部分を補うような形で運転を開始した市電がいつしか路線拡張を行うようになり、両電鉄の重複区間ができ始め、一九一七(大正六)年には京電が市電に買収されることになった14。 この市電が観客を西陣映画館街へと運ぶ路線は、今出川線、千本線、そして北野線が考えられる。千本、北野線の千本中立売周辺には電停を中心に映画館が6館あったという15。そして北野線は一九六一(昭和三六)年に廃止される。 北野線は京電時代からの狭軌(レールの間隔が標準の1.435メートルよりも狭い軌道)の路線で、京都駅から西洞院通と堀川通を北上し、ターンテーブルのあった中立売通で西に向きを変え、千本通を経て、北野が終着である。これはちょうど「織」の西陣と「染」の堀川通を結び、京都駅につながる京都伝統産業の流れに沿っている。見方を変えると、昭和三五(一九六〇)年の停留所別乗降客数が最大の京都駅前16から西陣地区映画館街へと運んでくれる路線でもある。その北野線が廃止される前年は各映画会社の興行収入が軒並み好調で各々が劇場を増やしていった一方で、映画館入場者数が前年を下回り始めた頃でもあり、まさに日本映画産業のピーク時であった17。代替として市バスが運行するが、そのダイヤグラムの不正確さはプログラム制の映画を見に行く交通機関としては不向きであるかもしれない。そしてプログラムに遅れた観客が次回まで時間を潰すための魅力ある商店街が周辺にあったとは言い切れないことは先に見たとおりである。一九六五(昭和四〇)年になるとついに自動車に軌道敷を開放したため、市電のダイヤグラムも大幅に乱れるようになったことは容易に推量できる。 一九七一(昭和四六)年、つまり四条大宮から西方へのトロリーバスや伏見線が廃止され、いよいよ市内中心部に廃線措置が及ぼうかという時期の交通問題に関する世論調査からは、さらに様々な背景が見えてくる。そこでは京都市を地区別に5層別している。 そもそも市電はなぜ廃止されなければならなかったのか。最大の原因は、高度成長期における自動車の増大である。この頃はもう軌道敷が開放されているとはいえ、自動車運転手にとって市電が邪魔になっていたことは容易に想像できる。市電全廃に関して、全市民では60%以上もの大人数が反対している。ただそれを細かく見ると、自動車所有者では57.4%、逆に非所有者では65.1%の反対という対照的な結果が認められる。賛成者で見ても、所有者で27.1%、非所有者で18.7%とこれまた好対照である。市電の一部廃止については逆に全市民で60%近くが賛成している。市電が自動車中心社会ではいかに存続しづらい交通機関であるかがよく分かる。 また同件で市内中心地区では64.6%の反対者が数えられる一方で、51%と反対者数が極端に少ない山科や宇治を含む地区層もある。市電のサービス地域は東西南北を東大路、西大路、九条、北大路に囲まれた範囲である。したがって、中心地区以外の住民にとって生活上それほどの必要性はないと考えられる。さらに、その反対者の中には「古きよき時代」の郷愁に駆られて票を投じた者もいるのではないか。昭和四六(一九七一)年六月に「四条通り、河原町通りなどの都心部」へ買い物やレジャーに出かけた人口の交通手段は、市内中心地区では市バス43.4%に対して市電39%と拮抗している。しかし他の地区層における市電利用者はいずれも10%台、一方の市バス利用者は高い地区層では63.1%にものぼる。人口が市の周辺地域に流れている状況下で、市電の狭いサービスエリアは交通機関としてあまり役に立たなくなってきていたのである。 ただ、世論によると市民の大多数が市電の運賃を安い(32.5%)、あるいは適性(57.1%)と評価しており、高いとする者は5.2%とごく少数派であり、市民の親しみやすい乗り物として愛されていたことが分かる。しかしその裏ではもちろん莫大な赤字も抱えていた。京都市交通局(市電、市バス)の一日の赤字額は650万円を越すとされ、累積では80億円以上になっていたというが、それは市民の認識をはるかに超えるものであった18。 ほどなく、一九七二(昭和四七)年には千本線、一九七六(昭和五一)年には今出川線、そして一九七八(昭和五三)年九月三〇日で全ての市電が消え去ることとなる。それと並行して、西陣京極とよばれる地区でも映画館が次々と消えていったのである。市電の後を受けた京都市営地下鉄、阪急、京阪電車が行き交う四条、河原町、三条、烏丸各通りで囲まれた地域に今なお映画館が集中している。一方西陣地区には電車の路線が届いていない。


7.おわりに

 映画は時代を映す鏡だという意味の言葉はよく聞かれる。西陣地区から機が消え、人が消え、市電が消えた一方で、それを映す映画館までもが消えてしまっていたという事実は悲しいが、まさにそれを体現したひとつの形と言えるかもしれない。


脚注

1.「フランスのリュミエール兄弟が一八九四年に発明したカメラ=映写機。撮影されたフィルムの一般公開は一八九五年であり、現在の映画の誕生の年となった。」(ジェイムズ・モナコ『映画の教科書』[岩本憲児他訳、フィルムアート社、一九九六年]、四〇八頁)。

2 .鴇明浩「日本映画発祥の地・京都とは」『京都映画祭1997年公式カタログ』(京都映画祭実行委員会、一九九七年)、十七頁。

3 .千本鞍馬口下ル東側に存在した芝居小屋時代の千船座では、「汚いのも天下一品だが気楽なことも天下一品」(田中泰彦『西陣の史跡 思い出の映画館』[京を語る会、一九九〇年]、一七頁)であったという思い出が語られている。

4 .鴇明浩他編『京都映画図絵―日本映画は京都から始まった』(フィルムアート社、一九九四年)、二四五頁。

5 .児玉数夫、吉田智恵男『昭和映画世相史』(社会思想社、一九八二年)、二七六頁。

6 .『東映ニュース』(昭和二五年五月一日版)。

7 .『平成10年西陣精算概況』(西陣織興行組合、一九九八年)、一〇−一三頁。

8 .同上、五頁。

9 .片方信也『西陣織と住のまちづくり考』(つむぎ出版、一九九五年)、六一−六五頁。

10 .足利健亮編『京都歴史アトラス』(中央公論社、一九九四年)、一一九頁。

11 .『京都TOMORROW』第10号(一九九四年)、四〇−四一頁。

12 .『商店街振興組合の現状と近代化対策』(京都商店街振興組合連合会、一九八四年)、一五六−一六五頁。

13 .神戸最大の興行街であった新開地では、昭和一一年に私鉄の新開地乗り入れ計画が中止になった後、映画観客の流れを、湊川を挟んだ東側に奪われ、以後急速に映画館数が減ったとされる。(『講座日本映画4』[岩波書店、一九九五年]、九八−一〇一頁)。

14 .足利編、一一四−一一五頁。

15 .沖中忠順他『京都市電が走った街今昔』(JTB、二〇〇〇年)、一二八頁。

16 .足利編、一一四−一一五頁。

17 .児玉、二〇九−二一〇頁。

18 .『交通問題についての京都市の世論』(京都市交通局、一九七一年)。