映画記号論再考
クリスチャン・メッツの大連辞とミッシェル・コランによる「大連辞再考」の射程
森村 麻紀
はじめに
1960年代初期にはじまった言語学と映画の出会いは、映画研究にとってきわめて重要な時であったといえる。フランスの記号学者、映画学者クリスチャン・メッツ1が1964年に「映画――言語体系か言語活動か?」2を書いたのは、その時期であり、それはメッツの言語学と映画との初期の研究成果であるといえる。メッツの研究は後の映画研究に多大な影響を及ぼした。そしてメッツの研究から40年近くたった今、様々な方法で映画研究がされている中、彼の研究は映画研究者によってひき続きなされている。映画が誕生してから100年余り、その中での40年間に、メッツの研究が映画研究者によってひき続き取り上げられる魅力は何であろうか。1965年から1969年という短い期間で発展した、メッツの考案した古典的物語映画における「大連辞」3とその研究に焦点を絞り、その有効性と魅力を本稿で探求してみたい。論文集The Film Spectator: From Sign to Mind4が、1993年に没したクリスチャン・メッツのオマージュとして、そしてまた映画の記号論は終焉したのではなく継承され、それを新しい記号論として発展させようと試みていることを宣言するために、1995年に出版された。この中でメッツの大連辞を研究した特筆すべき論文として、ミッシェル・コランの「大連辞再考」5を挙げることができる。このミッシェル・コランの論文を分析しながら、メッツの大連辞とその再考の有効性を探るのが本稿の目的である。大連辞とその再考の有効性を探る前に、メッツの大連辞そのものを紹介したい。そして次にメッツの映画に対する教育論とミッシェル・コランの大連辞再考の理由とを照らし合わせて考える。最後に大連辞の具体的なミッシェル・コランによる再考とその結果を検証し大連辞とその再考の有効性について考察していく。
メッツの大連辞とは
言語に応用される「範例」や「連辞」といった概念が、言葉以外にも応用できるということは確かなことのようであったが、それらの概念は、言語学を祖とするために、言語以外への適用は、その有効性が懸念されていた。メッツはそうした概念を打破し、記号論的記述を映画へ応用した。その形が大連辞であるといえる。メッツは、まず一つの映画的コードを選びそれを研究した。具体的には、映像の配列、つまり、古典的物語映画におけるショット間の関係の研究であった。その研究が大連辞と呼ばれるものである。大連辞によって、時空間の流れに従ったショットの配列は、非常に厳格な規則によって並べられているということがうちだされた。メッツは、これらのショットの並び方の組合せを八つに分けた。それが以下の図である。
メッツの連辞分類一覧表6
まずメッツは、一つの映画を自律的分節に区切った。自律的分節は、一般に、フェイド・イン/アウトなどといった映画の句読法によって区切られた一つのユニットと定義される。そのユニットは、場所の変化、出来事や行動の終結によって区切られることも一般的である。次に自律的分節は、自律的ショットか連辞に分けられる。自律的ショットは、前後のショットと無関係なショットであり、連辞は、前後のショットと関係があるショットである。上の図で示されているように、自律的ショットには、そこから枝分かれするものはなく、そこで終結し、それだけで独立して存在する。しかしこの点において、メッツ自身が問題点をあげている。それは、自律的ショットは、それだけで終結し、独立したものというよりは、下位類型を持ったタイプであり、必ずしも自律的ショットが終結し、独立したものである必要はないということである7。 自律的ショットの下位類型には、シークエンス・ショットと四種類のショットが含まれていることもメッツは示している8。第一の連辞タイプは非時間順か時間順かによって区分される。 非時間順連辞と時間順連辞は、それぞれ二つの連辞タイプ、前者が並行連辞と括弧入り連辞に、後者は記述連辞と物語連辞に区分される。次に、物語連辞は、直線的に物語るか否かで区分される。直線上の物語連辞は連続的か否かという要素で、シーンかシークエンスに区分される。そして最後に、シークエンスは、組織されているか否かで、挿話的シークエンスとふつうのシークエンスに区分される。このようにして自律的分節は、自律的ショットからふつうのシークエンスに至る八つのタイプに区分される。八つの区分の過程は、演繹的に(上図でいえば左から右の順序)行われる。メッツも言及しているように、この大連辞には未解決な問題が残っている8。しかし、それでもメッツの大連辞は映画の記号論に最も影響を及ぼし、貢献したといえるのではないだろうか。
なぜ大連辞再考なのか
ミッシェル・コランは「大連辞再考」の論文によって、メッツの大連辞の問題点を挙げ、そのいくつかを解決している。コランによるメッツの「大連辞再考」を具体的に検証していく前に、コラン自身が「大連辞再考」を書くにあたっての意図を示しておきたい。コランは、大連辞がそれ自体に問題があろうがなかろうが、映画を教える道具として今日も使用されていることを指摘している。コランは古典的物語映画における大連辞を教える道具として使用するためには、大連辞の原理のいくつかを説明し、その過程で出てくる諸問題を解くことが求められるのだと述べている。この目的のために書かれたのがコランの「大連辞再考」である。教える道具として大連辞を用いるには、大連辞の見直しが必要であると述べているのであるが、大連辞を見直してまで使用する価値はどこにあるのであろうか。 大連辞の有効性は、「大連辞再考」の結論部において見出されるであろうが、今ここでいえるのは、大連辞の解釈とその諸問題の解決がさらなる映画の教育につながるとコランが考えているということである。メッツ自身も映画の教育について述べており、大連辞作成はメッツの目指していた映画の教育の目的に役立つように思われる。メッツは、「映像の授業」の最大の功績は子供たちに話させるということにあると述べている9。映画の技法の意味を学んだ子供は、その技法がなぜ自分がわかるのかということをさらに理解する。そして物語的映像の自然のままのこれまでの理解に加えて、物語映画の仕組みを理解するようになる。そうした理解によって子供たちは、言語活動である映像について、言語で書かれた閉じられたテクスト以上に、話すことができるようになるとメッツは述べている。映像の仕組みはまさに大連辞で説明できるであろう。メッツの教育の目的は、まず学ぶ者に技法を理解させたうえで、自分の映画に対する理解の仕組みを分析させ、語らせることにある。そしてコランのそれも、大連辞再考、つまり大連辞の問題を解決することで、さらに映像について語ることができるというものである。メッツの目的である、大連辞を通して学生に映像について話させることができるという点は、コランも同意しているようである。それゆえコランは、大連辞を必要とし、再考された大連辞を通して、学生に映像について語らせようとしている。
メッツ大連辞の諸問題
以上述べたように、大連辞の使用や大連辞再考によって学生に映像について話させることができるという点において、大連辞とその再考は有効であるといえる。しかし、それだけでは大連辞とその再考の有効性は強いとはいえない。その有効性を探るために、本節で、コランが「大連辞再考」の中で挙げたいくつかの例を検討していきたい。
コランによると、メッツの大連辞は演繹的に読まれるので、それぞれの連辞タイプの見分けが困難で、そこに問題が生じる。演繹的な大連辞の読み方に対して、コランは帰納的に大連辞を読むことによって、それぞれの連辞タイプの特徴を検討する。メッツの大連辞の樹形図にかわって、コランは、二次元的な表を作成した11。これによってそれぞれの連辞タイプの特徴が鮮明に表され、連辞タイプも見分けやすくなる。コランの「大連辞再考」において演繹的な読み方を帰納的に読み直すこの作業は、大連辞を分かりやすくしただけでなく、映画の分析においても広がりをもたせた。
まず、メッツのシーンとシークエンスの区別を挙げ、次にコランの大連辞の帰納的読み方を検証する。メッツの大連辞においての、シーンとシークエンスの区別は、連続的か否かで区別された。メッツは、この区別を次のように説明している。メッツによれば、シーンは、「現実的」であると未だに経験される一つのユニットを、再構成するものである。「現実的」とは、場所やある時間の中のひととき、そして行動が簡潔にまとまっていることをいう。シーンの中では、シニフィアン(意味するもの)は、断片的に存在する。つまり、そのシーンの中のショット全ては、単に部分的な「側面」(一般的集合体の中から取り出されたもの)である。しかし、そのシーンの中のシニフィエ(意味されるもの)は、統一され、連続的である。たとえばある会話のシーンにおいて、たとえショットが様々に変わろうとも、会話をしている音が連続していることで、そのシーンは連続的だと感じるであろう12。このようにメッツは連続的という概念を説明し、シーンを定義している。コランは、この連続的という概念を、大連辞の帰納的な読み方を用いて、さらに分かりやすく具体的に説明し、シーンとシークエンスの区別を説明している。たとえばシーンとシークエンスの特徴は以下のように示される13。
コランによれば、シーンとシークエンスの区別は含有的か否かで行われている。含有的とは、ある定められた固定した空間の中に対象物が置かれて(含まれて)いるということである。シーンにおいて対象物は、固定された空間内でしか動くことができず、自ら進んで空間を作りだすことはできない。つまり、対象物は空間に支配される。この固定された空間の中では、対象物の動作は連続的に行うことができると解釈できる。メッツが挙げた会話のシーンの例をここにもあてはめることができる。シーンでの会話はある固定された空間で連続的に行われる。たとえ会話のシーンで、会話にまつわる映像(たとえば、フラッシュバックでの過去のショット)がそのシーンに織りこまれていようともある領域内で会話が行われていれば、それはシーンであると定義できる。
非含有的であることは、シークエンスの要素である。これは固定されている空間の中に対象物が置かれて(含まれて)いないことを意味する。シークエンスにおいては、対象物の動きによって空間が作りだされる。対象物が動くとその空間も動くので、空間は固定されているのではなく、対象物の動きによって無限に広がりうる。つまり、対象物が空間を支配する。固定されていない広がりのある空間では、対象物の動作は断続的になる。コランは逃亡のシークエンスを例にあげて、空間と断続性の関係を説明している14。逃亡と追跡において、対象物の動きが空間を作りだし、その空間は固定されていない。逃亡は追跡の一部分であり、逃亡と追跡の違いは、前者は対象物が追われる者で、後者はそれが追う者である。逃亡を示すには追跡を示す必要があるが、逃亡者だけに注目すれば、逃亡者の行動は、追跡者の行動と混じって、断続的に映し出されることがわかる。このように、逃亡者が、断続的に領域の定められていない空間でうつしだされるのは、シークエンスであるといえる。
コランは、メッツの考案した連続的か否かという要素を、空間を使用することでより分かりやすく説明し、シーンとシークエンスの相違を示したといえる。そして、そうすることでメッツの提案にさらに広がりをもたらした。観客は自然と古典的物語映画を見ることに慣れてしまって、一連の映像が連続的か否かということはあまり意識してない。しかし実際に、ある映像を連辞にあてはめてみることで連続的であるとは、どういうことかを考えることができる。コランの示したように、連続的の概念は、空間と照らし合わせることで説明できる。メッツが「歴史的には、…このコード[大連辞]の有効性は、私が『古典的』映画と呼ぶものをそっくり包括することになる」と述べているように15、大連辞を考察すること自体、古典的物語映画の考察につながり、私たち観客がいかに古典的物語映画に慣れてしまっているかということを感じさせるのである。このようにして大連辞を再考することで、古典的物語映画の分析にさらなる広がりが得られる。
帰納的に大連辞を再考することによって、連辞タイプの特徴をさらに明確にしたコランの論点をもう一点ここで検討しておきたい。メッツの定義した非時間順か時間順かという要素で判別する並行連辞と交替連辞があるが、この要素に一般的か特定的かという要素を加えればさらに両連辞の判別が容易になるとコランは指摘する。非時間順で、特定的であるのが並行連辞で、時間順で、一般的なのが交替連辞である。コランはここでも分かりやすい例をあげているのでそれを紹介する16。あるテレビ番組の例である。あるラグビー選手を紹介する際に、その選手が参加していた授賞式のシリーズと、その翌日に行われたであろうラグビー試合のシリーズが交替でうつしだされる。これらの二つは、違う場所で同人物について語っているという点で、お互いに関連していて、一つの連辞タイプになっている。この連辞タイプが表している、二つのシリーズの交替は、ラグビー選手の社交的な夜の生活と、日曜の午後の厳しい運動の練習との対照を表すのが目的である。しかし、この二つの行動は両立できないと普通は考える。このことは、次の二つの連辞タイプが示していることである。一つは、並行連辞であって、物語世界内を要素に持たない連辞であり、そのラグビー選手には、ラグビー(真剣なスポーツ活動)と夜の社交的な生活は両立不可能であるという概念で関連づけられている連辞である。もう一方は、交替連辞であり、時間順でかつ物語的要素を持っているとメッツが指摘している連辞である。交替連辞では、二つのシリーズをこれらの要素で、そのラグビー選手は二十四時間以内に夜の社交的な場への参加とラグビーの試合の二つをこなしたのだと関連づけることができる。ここでコランは次のように指摘している。この二つの連辞は、メッツの示した非時間順か時間順かという要素より、むしろ一般的か特定的かという要素で決定づけられる。ラグビーの試合前に夜の授賞式には普通は参加しないという一般的な要素で、二つのシリーズを並行連辞だと決定づけ、もう一方は、ある人は試合前夜でも、夜の授賞式に参加するのだという特定的な要素で、二つのシリーズを交替連辞だと決定づける。確かにコランの指摘した一般的か特定的かという要素は連辞タイプの分別に役立つが、この要素だけでは不十分である。コランの指摘した要素は、メッツの非時間順か時間順かという要素を確認するのに適しているようである。メッツの非時間的か時間順的かという要素に加えて、コランの一般的か特定的かという要素で、連辞タイプはさらに分別しやすくなるであろう。
大連辞の帰納的分析結果の一つとして、コランは、大連辞を再考するうえで、メッツが具体的に示さなかった連辞タイプの下位分類を表している17。
(1)では、ある連辞が、連辞であるか否か、そして物語世界内か否かという下位分類を持っているというのを示している。(2)では、(1)の連辞は直線的か否かという下位分類があることを示す。(3)において、(1)の物語世界内には、それが特定的か否か、物語的か否か、含有的か否かという下位分類があると示している。この下位分類はメッツの樹形図では表すことが不可能な分類であり、樹形図よりも多くの連辞タイプの特徴を表す事ができる。たとえば、コランは次のような連辞タイプを挙げている18。
連辞<連辞、物語世界内、非特定的[一般的]、非直線的>
非直線的であるという要素は並行連辞と交替連辞がもっているが、並行連辞は非物語世界内という要素を持ち、交替連辞は特定的という要素をもつので上のような連辞タイプはメッツの樹形図にある八つの連辞のいずれでもない。このことは、大連辞がいかに広範囲にわたっているかということが理解できるとコランは指摘しているが、一方でこの表示が全ての連辞タイプを網羅可能だとはいえないとも指摘している。しかし、この表示は、コランがメッツの大連辞を帰納的に再考した結果を簡潔に表現したことを示しており、大連辞の特徴を知るのに適しているといえるであろう。
コランによる映像区分
C爆弾の爆発がクロース・アップで挿入される。D二人が爆発現場に向かう。
1 Christian Metz(1930−1993)―フランスの記号学者・映画学者。彼は映画研究を当時現存していた記号への研究へと発展させながら、映画学を正当な学術分野として強固なものへと位置づけた。彼の主な著作の邦訳に、鹿島茂訳『映画と精神分析:想像的シニフィアン』(白水社、1981年)、浅沼圭司監訳『映画記号学の諸問題』(書肆風の薔薇、1987年)、樋口桂子訳『エッセ・セミオティック』(勁草書房、1993年)がある。
2クリスチャン・メッツ「映画――言語体系か、言語活動か?」(森岡祥倫訳、岩本憲児、波多野哲郎編)『映画理論集成』(フィルムアート社、1982年)、212-262頁。
3 本稿ではgrand syntagmeを大連辞と呼ぶ。
4Warren Buckland, ed., The Film Spectator: From Sign to Mind (Amsterdam: Amsterdam UP, 1995).
5Michel Colin, “The Grande Syntagmatique Revisited,” trans. Claudine Tourniare, in The Film Spectator: From Sign to Mind (Amsterdam: Amsterdam UP, 1995), pp. 45-86. なお1980年代後半に研究されたミッシェル・コランの論文はこの論文集のために再印刷されたものである。
6ジェイムズ・モナコ(岩本憲児、内山一樹、杉山昭夫、宮本高春訳)『映画の教科書
どのように映画を読むか』(フィルムアート社、1993年)、187頁。
7 Christian Metz, A Film Language: A Semiotics of the Cinema, trans. Michael Taylor (Chicago: UP of Chicago, 1974), p. 133.
8 Metz, A Film Language, p. 146.
9クリスチャン・メッツ(浅沼圭司監訳)『映画記号学の諸問題』(書肆風の薔薇、1987年)、305頁。
10同書、218頁。
11 Colin, p. 73.
12 Metz, Film Language, pp. 129-130. を参照されたい。
13 Colin, p. 73. なお本稿ではdiegeticを物語世界内、specificを特定的、narrativeを物語的、linearを直線的、inclusiveを含有的と訳した。
14 Colin, p. 71.
15『映画記号学の諸問題』、299頁。なお引用文中、[ ]内は引用者による補足(以下同様)。
16 Colin, p. 64.
17 Colin, p. 74.
18 Colin, p. 75.
19 境界表示的―言語学の分野においても境界表示的と呼ばれる技法がある。諸言語を構成する音声的素材上のある部分は、聞き手による継起的単位への言表の分析を容易にする機能(場合に応じて、唯一の機能であったり、他の諸機能の中の一機能であったりする)を、つまり常に知覚しうる休止によって分けられているわけでなく、同一の言表の中に次々に線的に並ぶ語(または形態素)を、より明確に相互に区分することを聞き手に可能にする機能を持っている。…ローマン・ヤコブソンが「形状表示的」と名づけているのがこの機能である(『映画記号学の諸問題』、197頁 )。なおコランは「大連辞再考」において、境界表示的をヤコブソン同様に、形状表示的と読んでいるが、本稿では前者を使用した。
20 Colin, p. 77.
21 Ibid., p. 79.
22 Ibid.
23 『映画記号学の諸問題』、300頁。