横顔の織りなす繊細さ――船橋淳第一回監督作品『echoes』評

 2001・11・1 於渋谷ル・シネマ1
 (第十四回東京国際映画祭「ニッポン・シネマ・ナウ」部門)

大澤 浄


映画のありうべき撮り方などがもはや存在せず、誰もが手探りで映像と音響をつたなくつむいでいくしかない現在にあって、近年稀にみるほど確かで繊細な演出哲学で撮られた船橋淳の長編十六ミリデヴュー作品『echoes』は、われわれをしてこの監督(兼脚本・編集・製作)の将来に十分な希望を抱かせるに足る傑作である。
傍らで寝入っている黒人男性に背を向けて煙草を吸う女性主人公をとらえたファースト・ショットが示しているように、この映画は何よりも横顔(profile)の映画である。それは人と人とが視線をどうやりとりするかという、映画(そして現実に生きていく上で)の最も重要かつ根本的なできごとにたいする表現者の真摯な解答にほかならない。たとえば、彼女が自分探しの旅に出はじめるその瞬間に何が起こったかを思い起こしてみればよい。思いがけなく自分の手に転がりこんできたおんぼろのヴォルヴォを操り、彼女は旅の道連れとなった助手席の男性と、初めて切返しによって感情を交わすのだが、これまで車内に入ってこなかったキャメラが初めて中に入り、二人の横顔をとらえたショットが交互に並置される。ちらっと横を見るか見ないかぐらいでほとんどは前を向いているだけのこのショット群から、われわれは無言の二人が確かに互いの感情を行き渡らせているさまを察知するだろう。とはいっても彼らの無防備ですらある横顔から、その心理を分析すること(profiling)はできない。彼らの視線を十分に受け止める対象が不在であるからであり、通常の意味でのドラマが成立しないからだ。自分の視線に応えてくれる者がいない状態のことを、仮に「孤独」と呼ぶならば、ここではまさに「孤独」そのものがやりとりされているのだ。二人が横に並んで同じ方向を見ることは、「孤独」のやりとりのための必要条件にほかならない。そしてそのような「孤独」の徹底においてこそ、わずかに横に視線を投げかけることが、その人にとって尋常ならざるできごとになってくるのである。実際、この二人が横に並ぶ場面は、映画の後半で何度も反復されることになるだろう。主人公が実家で母と衝突して、泣きながらふたたび車を走らせるところ、モーテルで写真と自分の家族のことについて男に打ち明けるところ、翌朝海岸で海に向かいながらニュー・ヨークへ戻る話をするところ、そしてニュー・ヨークの男の部屋の台所で並んで洗いものをするところ。逆に、この映画において面と向かい合って視線を交わすことは、主人公にとって「孤独」をいや増す以外の結果をもたらさない。ルーム・メイトが散らかった部屋を片づけるよう意見を言いに来る場面の(イマジナリー・ラインを越えた)切返しのやりとり、バーで知り合った男(お金を盗もうとした)の部屋から出ていくときの切返し、そして実家の二階における母とのメロドラマ的衝突が彼女に何をもたらしたか。彼らは彼女にただ向かい合っていただけで、本当に彼女の視線を受け止めてくれはしなかった。この映画が示しているのは、視線を交わさないことで視線を受け止めることができるようになるという逆説である。
しかし同時に、横に並ぶこと(特に三人で)がどうしようもなく滑稽になるというこの映画のもう一つの特徴にもふれておかなくては片手落ちであろう。自転車に乗った主人公が、二人の知人イタリア人男性の乗った車に並んで走るロード・ムーヴィーの始まりを告げる場面のえもいわれぬおかしみはどうか。自分たちの就職の旅に並走する女性の意図がわからず、いぶかしげに顔を見やる二人のイタリア人男性たちの視線のすれ違いぶりがわれわれに心地よい笑いを喚起する。また、あの忘れ難い「アンガス」の説明の場面を思い出してみてもよい。初めて会った義理の娘とその連れを左右に並べて、飼育している「アンガス」牛がいかに素晴らしい品種かマイペースで話し始める親爺のことである。おそらく彼にも止めることができないであろうその語りは、左右を交互に見渡しながらなされることでいっそうおかしさを増している(結局一人が中座するまで話は続く)。積極的に視線を動かすことでますます関係が脱臼していくすれ違いの可笑しさがここでも発揮されている。
かように監督の演出は繊細であり、よく組織化されている。クロースアップをほとんど廃し、ロング・ショットによって人物を丁寧に動かし語らせていく戦略は成功している。周到に作られすぎているといってもよい。贅言をいえば、その分エモーションが突出してこないことへの不満を感じたことも確かである。主人公は、実の母とのメロドラマ的葛藤から逃げた自分の「弱さ」にあまり自覚的でないように見える。そして同様の「弱さ」を持つ男性と愛を交わすのだが、それが最後には別れることになる(他の男たちと同様、普通の切返しショットによって!)のはある意味必然的なことであろう。彼女の問題は何一つ片付いていないのだから。ここから新たな展開=転回を求めるには、また別のアプローチが必要になるだろう。それが何であるかは、もちろん演出者のみが知ることである。次回作へのこのような期待もこめつつ、しかしこの処女作の誕生を素直に祝福したい。

[あらすじ]ニュー・ヨークで時を過ごす若い女性が、ふとしたことから今まで見たことのない家族の写真を手に入れ、旅に立つ。その車の旅の道連れとなるのはイタリア人男性二人、そのうち一人が最後まで彼女に付合うはめになる。彼女はヴァージニアの実家で長く疎遠だった母と再会するが、家族の「真実」を頑として話さない母と衝突し、再び別れてしまう。ニュー・ヨークに戻った彼女は、親しくなった男性と愛を交わすが、翌朝一人で自転車に乗って街のどこかにいるはずの実の姉を探しに行く。



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