京都の映画館とその観客(戦中篇)
――京都市伏見区の映画少年(青年)荒川和彦氏の映画館プログラム・コレクション
                                      

 藤岡篤弘


 和二年生まれで京都市伏見区に住む荒川和彦氏は毎週のように映画館に通う映画少年であった。青少年期に彼が集めた数々の映画館プログラムが京都市文化博物館に寄贈されている。このプログラムは昭和一二年から二五年まで合計五八六点が時代順にファイルされており、廬溝橋事件から太平洋戦争、そして終戦という激動の時期にぴたりと合致している。これは時代の動きに翻弄された映画館経営の実態を教えてくれる記録であると同時に、映画とともに成長する一少年の映画館通いの様子は、当時の観客にとっての映画受容の一形態として非常に興味深い証言でもある。
 川少年のプログラム・コレクションは昭和一二(一九三七)年、一〇歳の時に始まるが、自身のメモにもあるように、「意識的に集め始めた」のは翌年からであるという。その頃のプログラムは自宅近辺の映画館のものが多く、少年の行動範囲は限られている。伏見帝国館では、早期興行として平常二〇銭の入場料金が正午までは一五銭になった。また注意事項として禁煙、脱帽、男女別席が挙げられている。とはいえ、そこからは娯楽としての映画を楽しんでいる、和らいだ雰囲気がまだ伝わってきている。伏見中央館プログラムに「国民精神総動員」と銘打って、「敬神尊王」「心身鍛練」「能率増進」「銃後後援」「防空防火」といった四字熟語が初めて並んだのは、昭和一三年五月一三日号である。さらに翌一四年六月三〇日号には「金を政府に売りませう」、翌週には「金を早く政府に売りませう」と国政への協力を呼びかけるようになる。そして「物資統制により一挙に半裁になる」とメモにあるとおり、伏見の各映画館プログラムの紙面サイズが半分になる。
 の頃からときどきではあるが、新京極、あるいは河原町の映画館プログラムが目につき始める。荒川少年の行動範囲が広がり始めたようである。そして映画法が実際に映画興行に適用された昭和一五年には、少年の映画館通いは新京極あるいは河原町が中心となる。伏見区から新京極までの交通手段としては、戦時中にはほぼ市内中心部全域をカバーしていた京都市電が考えられるが、その真相は本人の確認を取るまでは分からない。ただ市電が荒川少年や他の常連客を連日映画館へ運んでいたとすれば、映画館と市電との根強い関係性を立証するための、新たな証言として興味深いものになるはずである1
 都市都心部(新京極・河原町界隈)の映画館の中でも、荒川少年が特に足しげく通ったと見られるのは、プログラムが三七点も残っている京宝と思われる。プログラムに見られるように、京宝は貸し傘貸し薬というレンタルサービスを提供していたようである。その一方で、積極的に国策に協力していることが窺える。扇動的なスローガンはもちろん、「敵機を再認識せよ」(昭和一八年五月二七日号、同六月二四日号)「少年飛行兵」(同九月一六日号)「応召の心得」(墨塗り有)(同九月三〇日号)と題されたコラムが続く。そしてそのコラムは「切取って保存してください」とミシン目をつけて仕切られている。
 うしたコレクションの数々は、京都市という限られた地域の不定期な資料にはちがいない。しかしこの時代、日本が都市も地方もなく全体でひとつの方向に向かっていたとすれば、これらは京都という一都市の枠を越えた普遍的な記録にもなりうるのである。
 以下はコレクションの寄贈者、荒川和彦氏へのインタビューである。


―― 寄贈されたプログラム五八六点は全て荒川さんお一人の手で集められたものですか。
荒川 中には友人や知人にもらったものもありますが、九割九分までは私が集めました。


―― コレクションを京都市文化博物館に寄贈されたのは、どうしてですか。
荒川 数年前の阪神大震災で世の無常を感じてしまってね。自分が人生でやってきたことは映画を見てきたぐらいで、それを思うと絶やさずに残しておこうと思いまして。昔はニュースと呼んでいたプログラムと本をいくらか寄贈しました。


―― 映画館に通うようになったきっかけは何だったのですか。
荒川 私の家族は皆映画が好きでね。私自身も母親に抱かれて映画館に通っていたこともあって。ただ家族に連れられて映画館に行っていた時期はいつ何を見たか覚えてないんです。今で言う小学校三、四年になって、自分一人で映画を見に行くという時期に入ります。それが昭和一二年くらいです。そこで私はただで配っているニュース、今で言うプログラムを集めだしたんです。


―― 当時、映画館は不良のたまり場のように思われていたと聞きますが。
荒川 大正や昭和の初めは、子供は映画を見るものじゃない、映画を見ると不良になるという素朴な信仰が世間一般の常識でしたね。そもそもはフランス映画の『ジゴマ』とか、アメリカの活劇・冒険映画を見たら、子供が真似をするから全て見るなということですよ。


―― 映画館通いは学校で禁止されていましたか。
荒川 いや、むしろ学校の生徒を映画館に連れて行くという傾向もあったんですよ。作品は限られていましたけど。それは戦時中でもありましたね。『ハワイ・マレー沖海戦』とか『マレー戦記』のような実写版戦争映画、『民族の祭典』とかは学校全体で見に行きました。
 ところが、いわゆる戦時体制になるとね、子供は一人で映画館に行くべきではないと。各学校が補導連盟のようなものを作ってね、各映画館を監視する教師がいたということです。ただ保護者と一緒ならば認められると。私が中学校で言われて強烈に覚えているのが、親と行ってもいいが、ただし男親と行きなさいと。女親では軟弱でいけないと。私は母一人子一人という環境で育ったので、母親と行くしかないんですよ。それは子供なりにショックでね。ただ、いつも補導連盟と対面するかといえばそうではないでんですよ。補導連盟が入っているという噂、脅かしだったかもしれないんです。私が数年間映画館に通った中では、ほとんどなかったですね。


―― 蒐集開始当初は自宅近辺、つまり伏見の映画館プログラムがほとんどです。それが年齢を重ねるにつれて、新京極や河原町の映画館のプログラムが増えてきて、行動範囲の広がりが見て取れるわけですが、それはお母様と一緒にということですか。
荒川 そうです。伏見の学校では母親同伴でも駄目だと言われましたけど、新京極あたりではそれで通ったわけです。
 あと母親が四条通りや河原町通りのデパートへ買物に行くのに付いて行って、ついでに映画を見るという形でした。お墓参りの帰りとか。そういうことで伏見から離れて、自然に新京極・河原町へ行くようになりましたね。


―― そのときの交通手段は市電ですか。
荒川 市電よりも伏見桃山とか丹波橋から三条や四条まで京阪電車で行くことが多かったですね。市電はガッタンガッタンと長い時間がかかるんですよ。


―― ニュース集めは周りでも流行していたのですか。
荒川 なかったように思いますね。友達同士で見せ合いをしたという記憶もないです。一〇歳ころから映画館に入っていること自体が珍しかった。だから変わっていたんですね。ただ新京極の駄菓子屋で各映画館のニュースばかりを集めて売っているところはありました。だから映画を見ずにそれだけを買っていたという人はいたようです。
 太平洋戦争が終わると少し形態が変わってきて、大体において映画館がニュースをあまり出さなくなって、そのかわり豪華な写真がたくさん載っているパンフレットを売るようになったんですよ。私はけちですからね、お金を出してまでは買わなかったんで、戦後はニュース集めは途絶えたんです。


―― プログラム集めの初期の時期、俳優の写真から顔だけを切り抜いたり、「エノケン」「羅門」「阿部九州男」だとか書き込んでいらっしゃるのですが、映画館通いはスターを見に行くという大きな目的があったのでしょうか。
荒川 そうですね、スターを選り好みして見たわけではないですが。当時は子供が五銭という映画館に通っていました。松竹や日活の映画館はちょっと高くて一〇銭とかね。でも松竹や日活の映画は大人の映画という感じでね。わざわざ大人の映画は見ない。伏見には中央館というのがありまして、そこは大都映画とか極東映画とかチャンバラ専門の映画館でして、そんなところに通っていました。


―― 戦意高揚的なスローガンが書き立て並べられるようになったプログラムを手にして、どのような心持ちでしたか。
荒川 別に何も感じなかったですね、それが当たり前になっていましたから。新聞見ても、ラジオ聞いても、町じゅう全体があのようなもので溢れてましたからね。それで特別ショックを受けたことはなかったですね。


―― 映画法が昭和一四年に交付・施行されて、次第に映画興行にも影響を与え始めるのですが、それを実感されたことはありますか。
荒川 フィルム自体が回ってこなくなって、映画が少なくなりました。それから映画館全体を紅白に分けるようになって、松竹とか東宝とか日活とか会社自体の、特に興行系の特色がほとんどなくなってね。
太平洋戦争が始まると、アメリカ映画やイギリス映画は完全に見られない。入ってくるのはドイツ映画やイタリア映画で、それも昭和一八年ごろになると年間一〇本もないくらい。
 劇映画と並んで文化映画やニュース映画もやり始めるようになりましたね。文化映画専門の映画館もありました。文化映画専門館は一回の時間も短いですので、時間つぶしに入ったり、文化映画そのものが好きな人もおりました。


―― それまでは製作会社で映画を見ていたのですか。
荒川 そうです。それぞれにファンがいましたしね。漠然とした好みだったとは思いますが。松竹は女性映画、日活は男性映画、それで東宝は音楽映画とか喜劇でもどちらかといえば近代的なものでね。戦時中にはだんだんとそうしたものが薄れていったような気がしますね。銃後の美談とか、歴史ものとか、現代ものでもスパイ映画のような、説教を盛り込んだ内容が多くなってきます。その頃の映画なんて今見ても興ざめなものが多かったですね。つまらない映画になったように思うんです。映画を見る本数も減りました。


―― 各映画館のプログラム記載の注意書きについてお聞きします。多くの館のプログラムに男女別席に関する注意事項が見られるのですが、実際のところはどうでしたか。
荒川 実際ありました。男子席、同伴席、女性席と三つに分かれていましたね。夫婦は真ん中の同伴席へ行くんです。男性が女性席に行くと注意されるんです。まあ満員なら別ですけど。席に余裕があるときは、割合それを守っていました。ただ子供は自由に座っていましたね。それには抵抗を感じていなかったです。守らなくても罰則とか、そういうものはありませんでしたけどね。
―― 京都は空襲がほとんどなかったですが、警報が鳴った場合は上映中止という記載がありますが。
荒川 京都でも空襲警報より警戒警報は鳴ることがあって。警戒警報では続けて上映していたように思います。空襲警報が鳴った場合は一応映画が中止になります。警報解除後にもう一回上映するか、あくる日やるか。その時にもう一度おこし下さいと。そのために入場券は持ってないといけないんです。
―― 実際そういうことがありましたか。
荒川 私は経験しませんでしたが、あったことはあったらしいですよ。他の都市に比べたら京都は少なかったとは思いますが。


―― お気に入りの映画館はありましたか。
荒川 作品の好き嫌いで見に行くことはありましたが、映画館の好き嫌いはないですね。ただ設備が良いのは、京宝と松竹座でしたね。封切館ではないけれども、朝日会館は観客席が坂になってね、見やすかったですね。インテリ層なんかには好まれていましたね。朝日会館のプログラムを見てもね、ストーリーだけではなくて映画評論が出ていたり、そうした啓蒙的な面もありましたね。映画だけではなくて楽団演奏なんかもやったりね。
 三条通りの階上映画館では古い洋画を繰り返しやっていましたね、新しい作品が入ってこないものだから。


―― 当時の映画館の雰囲気を知りたいのですが。
荒川 今は廊下に売店があるでしょ。例えば伏見なんかの小さな映画館ですとね、場内に売店があったんですよ。
―― 上映中も売っていたのですか?
荒川 そうです。私、売店の息子と友達でね。横から入れてくれるんです。
―― 売店ではどのようなものが売っていましたか。
荒川 駄菓子です。おかき、酢昆布、麩菓子、どんぐりあめとかね。夏になるとかき氷もありました。上映している横でがりがり作るんです。大人も食べないことはないけど、主に子供が利用しておりました。
―― 子供はおとなしく見ているのですか。
荒川 なかなかじっとは座ってないですね。通路をあちこち行き交うんです。スクリーン横の一角に上がったりして、映画を見ているというより遊んでましたね。
―― 注意されたりはしないのですか。
荒川 あんまり怒られなかったね。ただ新京極に行くとお客さんが上流というかね。やっぱり子供が走り回ったら怒られるしね。地方の映画館は気楽でね。大目に見てましたね。
―― 観客同士でおしゃべりをすることはありましたか。
荒川 それほどはなかったですね。割合行儀良かったと思います。
―― 旧ソ連やアメリカでは昔映画を見ながら騒いだり、討論をしたりという話を聞いたことがあるのですが。
荒川 国民性の違いだと思いますよ。戦前の日本人は討論するなんてことはほとんどなかったですね。おしゃべりするといっても雑談程度のものでね。
―― その他覚えていることはありますか。
荒川 便所がスクリーンの横にあるんですよ。水洗ではないですからね、当時の映画館は小便臭い映画館でしたよ。もう一つは冷房というものがなかったでしょ。だから夏の暑いのに閉めきった映画館の中は暑くて暑くて、汗ダラダラ流しながら見てましたよ。天井に大きなプロペラの扇風機がゆっくり回ってるんですけど、そんなものは気休めでね。昔は四、五本立てが普通でして、その映画と映画の間に戸を開けて換気をするんです。ただそれは三流映画館の話で、京宝や松竹座はそんなことはないですよ。
無声映画ですと、スクリーンの下に穴ぐらのようなものがあって、そこで笛とかピアノとかを演奏するんです。子供はその中を覗きに行っていましたね。僕らの頃は松竹や日活はトーキーになっていましたけど、大都映画や極東映画をやっている伏見の中央館なんかでは、そんな名残もありました。それでも僕らの時代はそれがレコードに変わってましたけど。どの映画でも悲しい場面、馬が走る場面、海の場面、チャンバラの場面によって曲が大体決まってるんです。だからいまだに耳に残っています。
当時は映画館同士でフィルムをかけもちするんですね。ロールごとにそれを映画館から映画館に届ける小僧さんがいたと思います。それがよく遅れるんですね。中断して待たされることもありましたよ。それからフィルムを巻き戻すときに、状態の悪い箇所を切るんですよ、3センチとか。そのフィルムの切れ端がくずかごに入れてあるんです。それを取りにいくのが楽しみでね。家に持ち帰って一コマずつ切り取って遊んでました。そんなフィルムを入れて覗くようなおもちゃもありました。そんな切られたフィルムは映画館から駄菓子屋に回って当てものにされてお金になるんです。だから子供がそれを取ったら従業員は怒るんですね。伏見時代の話ですけど。


―― このプログラム蒐集は昭和一九年七月を最後に終戦まで途切れていますが、その頃はもう映画どころではなかったのでしょうか。
荒川 そうですね。その時期は映画会社も映画をほとんど作ってないでしょ。空白ですね。工場動員や召集されたりして映画館には行ってませんね。
―― 終戦の頃は。
荒川 敗戦でそれまでの価値が一八〇度変わって、混乱の時期があったと一般に言われるわけですが、私にはそれがあまりなかったんです。というのは、戦前から映画を見ているとね、その映画を通して外国の様子なんかよく分かっていたんです。それと戦前は割と自由な雰囲気があってね。自由さを知っているから価値転換に悩まされずにすみました。だから終戦がどれほど嬉しかったことか。また戦前の文化が戻ってくるという感じでね。ただ京都は焼けなかったとはいえ、映画館はさびれていましたね。


―― 戦後数少なくなったプログラムの中で、公楽小劇場のものが目立ちますが。
荒川 今の高島屋のところですね。同じ場所に公楽劇場というのもあったのですが、小劇場のほうは古い映画の上映をやっていて値段も安かったし利用していましたね。いろいろな催しをしていましたね。集いを持ったり、映画に関するクイズ大会があったりね。


―― 現プラッツ近鉄の丸物百貨店の中に映画館があったようですが。
荒川 デパートの上のほうにありましたね。丸物劇場と丸物小劇場と。丸物劇場のほうは洋画を小劇場のほうは日本映画をやっていたんです。今でも覚えているのは、両劇場は隣り合って真ん中を壁で仕切ってあるんですけれども、その壁が薄くてね。お互いに音が聞こえ合っているんですよ。ひどいなと思ってね。戦後はテレビが出てくるまで、映画館が筍のようにあちこちにできましたね。

二〇〇一年三月三〇日(金)京都市伏見区にて


 のインタビューは四時間にも及び、遠い過去の記憶はときに曖昧な部分も見られたが、十分に情景が伝わってくる内容であった。その中でも特に印象的な点を思い返してみる。
 川少年の映画館プログラム蒐集場所は伏見近辺から新京極や河原町といった都心部の映画館に移行する。これは「半ズボンを履いた」少年期から青年期に差しかかった荒川氏の行動範囲が広がっただけのことではなかった。近隣学区の補導連盟が子供一人ではもちろん、女親との同伴すら許さなかったことから、母子家庭の荒川氏は近所の映画館に通いづらくなったという事情があったようだ。それ以来専ら母親と行動を共にするようであるが、四条や河原町のデパートで買い物をするついでに映画を見て帰ったという証言は非常に興味深い。プログラムの年月日からは、荒川氏が毎週のように映画館へ足を運んだ様子がうかがえる。推測ではあるが、伏見から都心部まで母親が買い物に出かけるとしても、週に一回か多くて二回であるとすれば、買い物のたびに映画を見に行っていた計算になる。ここからは映画と消費行動の密接な結びつきとともに、気楽に足を運べる安価さ、映画の大衆性が見えてくる。
 して伏見から都心部映画館への交通手段としては京阪電車、いわゆる郊外電車を利用していたという。京都の交通手段としてはまず市電が思い出される。しかし市電は主に上京、中京、下京という市内中心地区居住者の乗り物であったことは、後の調査で明らかである2。伏見線で京都駅さらに四条河原町界隈まで速度の遅い市電で出かけるのは不便であったようだ。
 川氏のように映画館に通ってプログラム蒐集をしていた子供は少なかったらしいが、各館のプログラムがある場所でまとめ売りされ、映画を見ずにそれだけを買っていた子供もいたようである。また映画館は切り落としたフィルム(検閲とは無関係)を駄菓子屋に回して商売にしており、さらにその断片を見るためだけのおもちゃがあったとも言う。荒川氏は「スターを選り好みしてみたわけではない」と述べるが、「映画館は不良のたまり場」という世間一般の風潮や補導連盟という脅しで、一般の子供が映画館にますます近づけなくなっていた時期、子供達の専らの関心事はスターの顔が映っているプログラムやフィルムの一コマを手元に持っておくことではなかったのか。いずれにせよ映画興行は映画館だけではなく、街の至るところに様々な形で存在していたようである。
 和一四年に交付、施行された映画法は主にフィルム不足によって生み出されたものである。その結果、製作会社が松竹、東宝、大映の三社に統合され作品数は減少する。また興行時間あるいはその回数も制限され、やがては全国の映画館が紅白二系統に分けられようになる。すると、それまでの製作・配給会社と各映画館のつながりが崩れ、荒川氏が残念がるように「興行系の特色がほとんどなくなって」しまう。その時期のプログラムを注意深く観察するとその影響が見て取れる。いくつかのプログラムの館名周りにキャッチフレーズが付けられるようになるのである。「最低の料金と最高水準の映写状態」(京都座)、「完備せる設備、近代的雰囲気、行届いたサービス」(松竹座)、「外国優先上映館」(河原町映画劇場)、「京都で一番綺麗な!」(帝国映画劇場)、「静かな雰囲気あかるい映画」(弥栄会館)といった具合である。それぞれに共通するのは、上映内容ではなくその設備やサービスの特徴を謳っていることである。荒川氏が言うように、製作会社ごとに漠然としたファンがいたとすれば、各作品を決まって上映できる映画館は安泰であったと考えられる。ところが紅白分けでその繋がりが断たれると集客できる保証が消えてしまったのである。逆に映画ファンにとって、映画館の設備やサービスに力が注がれることは歓迎されたことであろう。
 時の映画館の雰囲気に関する荒川氏の記憶からは時期区分がはっきりとはしないが、伏見の三流映画館で短期間のうちにそれほどの設備的変化があったとは考えにくいため、証言は当時日本の場末の映画館の様子を概説するものになりうるであろう。場内に売店があって上映中も販売する。スクリーン横にトイレがありばたばたと出入りする。子供は走り回っている。おしゃべりはそれほどなかった3とはいえ、とても集中できるような環境ではなかったようである。もちろんそれで注意されることもなく、気楽なものであったという。また同時に設備不足のために、夏は観客皆で汗を流し、トイレからは異臭が漂ってくるという決して衛生的とはいえない環境のようでもある。ただそれがまさに映画館という場所であったということになろう。
 戦後の混乱はしばしば同時代を生きた人間の共同体験のように語られることがある。しかし、映画を通して外国の様子あるいは自由な空気を戦前から知っていた荒川氏が、敗戦による世の価値転換に惑わされることがなかった、終戦が本当に嬉しかったとは嘘のない言葉である。
 拠となる資料のない思い出話は頼りないものであるが、逆に蒐集資料だけを眺めていても全てが見えるわけではない。その意味で今回蒐集家の荒川氏と実際に会って話ができたことは非常に意義深いものであった。



1.太平洋戦争期には11館を数えた東京・文教地区のほとんどの映画館が都電沿線にあったが、都電廃止とともに映画館がその姿を消していったという記録が、両者の結びつきの強さを物語っている。(『本郷座の時代―記憶のなかの劇場・映画館』[文京区教育委員会、一九九六年]、五五−五七頁)。

2 .『交通問題についての京都市の世論』(京都市交通局、一九七一年)。

3 .質問中、筆者が言及した諸外国の観客のおしゃべりや討論について、とりわけアメリカに関しては、ロバート・スクラー『アメリカ映画の文化史(上)』(鈴木主税訳、講談社、一九九五年)、三〇一−三〇二頁を、旧ソ連に関しては、中村秀之「飛び散った瓦礫のなかを――『複製技術時代の芸術作品』再考」(内田隆三編『情報社会の文化2 イメージの中の社会』[東京大学出版会、一九九八年])、二一三−二一八頁を参照されたい。それはともにサイレント期、地方の小規模な映画館で特に見られた事象であることをここで確認しておきたい。


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