■書評
リチャード・アレン著「映画を見ること」"Looking at Motion Pictures"
(リチャード・アレン、マレイ・スミス共編『映画理論と哲学』R. Allen, M.Smith, Film Theory and Philosophy (Oxford: Oxford U.P.,1997=1999)に収録)―分析哲学が映画学にできること、または分析哲学の挑戦ー

石田美紀


はじめに
 「アメリカのアカデミズムが誇る人文系の学問領域を挙げてくれ」。こんな質問に出くわすなら、その答えに次の学問領域があがったとしても、多くの人は困難をそう覚えず、納得してくれるのではないだろうか。映画学と分析哲学である。前者の理由はいわずもがなであるが、あえて述べるとすれば、映画はアメリカ文化が真っ先に世界に誇るものであり、アメリカの多くのの大学は映画製作だけでなく、映画を歴史的・理論的に研究する映画学のコースを擁していること。そして後者も、映画と同様極めてアメリカ的である。というのは、難解なレトリックという逃げ道を敢えて塞ぎ、平明な言語を用いる論理実証主義に貫かれた分析哲学は、ヨーロッパ起源ではあるものの、「アメリカ的」な思考様式と絶妙に合致し、アメリカにおいてもっとも豊かな水脈となったからである注1。その結果、リチャード・ローティーやW・V・クワインを始めとする多くの思想家たちを輩出している。
 映画学と分析哲学が交錯すること。それは学際的という言葉が少々古臭く感じられる今でも、異なる領域間に起こりうる触発関係を考えれば、至極必然的なことであろう。またその交錯から更なる実りを期待すること。それは、研究や学問を少しでも信じている人間にとっては、とても魅力的なことである。事実、映画学はさまざまな学問領域からの影響を受け、その歴史を刻み、変化し、層を豊かにしてきた。60年代は構造主義的言語学や記号論、70年代から80年代にかけては精神分析。であるから分析哲学も、記号論や精神分析同様、新しい次元や視点を映画学に与えることができるのではないか。誰しもがそう期待するだろう。

分析哲学vs.大陸系哲学
 そこで本書評がとりあげるリチャード・アレン(注2)の論文「映画を見ること」の登場となるのだが、その前にひとつ踏まえておかなければいけない手続きがある。アレン論文はもちろん、分析哲学と映画学とというふたつの学問領域が、交錯する論文である。だがアレン論文が目指すところは単に、分析哲学的に映画学にアプローチするだけではない。アレン論文は、1997年に初版の『映画理論と哲学』に収録されているが、同書はアレンがマレイ・スミス(Mrray Simith、本書では「内側から想像すること」"Imagining From the Inside"を執筆している) (注3)と編んだアンソロジーである。そしてふたりの編者の共同執筆による序のなかで、60年代―80年代に映画学に影響を与えた「大陸系哲学」とそれを反映した映画理論の関係について批判的な総括がなされている。結果、この序は本書に収録された各論の見取り図だけでなく、分析哲学派による野心あふれる政治的マニフェストたるものとなっている。
 ではこの序が書かれた背景を少し押さえておこう。90年代に入りカルチュアラル・スタディーズが隆盛し、映画学がその一分野として吸収されかねない現状、つまり80年代以前のように映画学の研究の流れをぐいぐい引っ張ってゆくような、生きのいい「映画理論」不在の現状がある。実際、1996年、映画学の大御所デイヴィット・ボードウェルは『理論以後−映画学を再構築すること』Post-Theory: Reconstructing Film Studies(Madison: Wisonsin U.P., 1996)を、彼の本拠地でありアメリカの映画学を牽引してきたウィスコンシン大学出身のオールスター・キャストで編んでいるくらいだ(ちなみにボードウェルの共編者は、分析哲学系映画学者であるノエル・キャロルであり、『映画理論と哲学』にはキャロルの「フィクション、ノンフィクションそして推定断言の映画−ある概念分析」"Fiction, Non-fiction and the Film of Presumptive Assertion: a Conceptual Analysis"も収録されている)。2000年代初頭映画学はアメリカ・アカデミズム界で制度としての地位を確かなものとした一方で(その証拠に日本とは比べようがないほどの多くの大学に映画学のコースがあり、そのポストがある)、学問としての勢いを失っているともいえるだろう。
 さて「大陸系哲学」とは、具体的にはなにを指すのだろうか。アレン=スミスによれば「大陸系哲学」者はとは、ニーチェ、ラカン、アルチュセール、バルト、クリステヴァ、アドルノ、ベンヤミン、デリダ、ハイデッガー、フーコー、ドゥルーズらを指す。60年代以降、上に列挙した哲学者は哲学にかぎらず、とりわけ文学、美術史、そしてもちろんのこと映画学に大きな影響を与えてきた。事実、構造主義的および記号論的テキスト分析は、文学でまず成果を挙げた後、映画学においても大きな実りを与えたし、ラカン派の精神分析は主体論(=映画観客論)の構築の上で不可欠なものであった。そしてアルチュセールの重層決定に代表されるイデオロギー論は、90年代以降のポスト植民地主義やカルチュアラル・スタディーズへとつながるものである。「大陸系哲学」が映画学の主要な理論の成立に大きな役割を果たしてきた一方、分析哲学はとりわけ70年代を通じて映画学者から忌み嫌われ、軽蔑されてきた。その理由は、「大陸系哲学」が大胆であり、政治的にもリベラルであり、思索的だと考えられてきたのに対し、分析哲学は関心があまりも専門的で、非社会的であり、加えて政治に疎いと考えられてきたからである。だがアレン=スミスはあえてこう主張する。現在は分析哲学こそが「大陸系哲学」が映画学に遺していった問題、または解決できなかった問題に対して、有効なアプローチができると。分析哲学とは、アンチ分析哲学派がもつ偏見とはまったく異なり、ドグマではなくまさしく分析ツールのひとつである。しかもその最大の特長は矛盾の存在を決して許さない、明解な論理構築ときている。であれば分析哲学の思考形態は、分析ツールとしてさまざまな分野において応用することができるはずだ。

大陸系哲学が遺していった諸問題
 アレン=スミスは大陸系哲学の影響下にある映画理論をなぜこうまで批判するのか。分析哲学vs.大陸系哲学という図式からは政治的含みはどうしてもぬぐえない。にもかかわらず、アレン=スミスによる大陸哲学の影響下にある映画理論への異議申し立ては、芸術そして哲学を取り巻くすべての言説にまつわる問題が含まれているともいえるだろう。それは新しい哲学理論の受容形態についての批評でもあり、個人的でより卑近な表現をするなら、文献リストにそれこそ大陸系哲学者の著作の英語翻訳が長々と挙げられているような、映画学の研究書を読んだときに感じる、ある種の違和感の源にも関連してゆく。ゆえにここで、分析哲学者たちの異議申してに少し耳を傾けてみることにしよう。


1権威的な思想家に対する及び腰
2実例の虚偽
3曖昧さの戦略的使用

上記の3点が、分析哲学者たちが主張するところの大陸系哲学の悪しき影響下にある映画理論の主たる問題点である。

1権威的な思想家に対する及び腰
 ロラン・バルトによる芸術テクストにおける全知全能の作者を否定は、フィルム分析の際に新しい視点を導入したのは周知の通りである。さまざまな糸によって織物が織られゆくように、芸術テクストも作者の意図以外の要素からも生成するのである。まさにこの点についてアレン=スミスの異論は始まる。そうしたバルトのテクスト理論は皮肉にもバルト本人が否定した「権威的なもの」として映画理論に受容されたのではないか。しかも、バルトを始め非英語圏、つまりフランス語、ドイツ語の著作は、英語版翻訳を通じて、さらには引用者による粗悪な要約によって広まったという経過も考えれば、バルトのテクスト理論が北米で映画学と交錯する際に思わぬ副産物を産み落としてしてしまった。それはロラン・バルトという希有の哲学者・批評家をロマン主義的なヴェールで纏ってしまったことである。そのために、批判を含めた健全な理論受容が行われなかったのだ。

2実例の虚偽
 脱構築系の批評家・理論家たちは、自身の理論を強化したいがために、「実例」(映画学の場合は当然、映画作品)を引き合いにだす。たとえばヒッチコック監督『鳥』(1963)をショット分析し、被害妄想、恐れ、攻撃性などが現れていると結論づける(注4)。しかし被害妄想、恐れ、攻撃性はもともと『鳥』の明らかに意図された主題である。そのような分析は分析者自身の理論を正当化するために、行なわれているものであり、決して映画テクストの脱構築に成功しているわけではない。また『鳥』一作品だけを実例に挙げても、到底論者の理論を支える説得力を持ち得ない。だが、論者はいともたやすく『鳥』という一本のフィルムから「ヒッチコックの映画は…」や「古典的ハリウッド映画とは…」などと結論づけをしてしまう。ここでは、分析という行為の目的と結果が転倒してしまっている。こうした事態は、「実例の虚偽(The Fallacy of Exemplification)」と呼ばざるを得ない。

3曖昧さの戦略的使用
 ある論理モデルを論証してゆく過程で、文彩(語呂あわせ、連想)が論理の飛躍や欠点を覆い隠すために使われがちである。「理論」を始めとする哲学的言説の場合は、芸術的言説に使われる言葉使いには十分な注意が必要である。ジョナサン・クレーリーが彼の著書『観察者の系譜、視覚空間の変容とモダニティ』(注5)において、安易に論理的飛躍を行う点を、アレン=スミスは批判している。

 以上、アレン=スミスが挙げる3つの欠点は、なるほど「大陸系哲学」に影響を受けた映画理論固有の欠点というよりは、すべての系統の哲学、すべての芸術学にあてはまる。2は理論の正当化に偏るあまりに多くの事象を見逃してしまいがちな、精神分析的な芸術理論にあてはまるし、は芸術を扱う学問であればなおさら敏感にならねばいけない倫理的問題であろう。またにいたっては、映画学という特定の学問領域や研究活動に限らず、古今東西の人間のすべての営為に関わる問題だ。
 
 分析哲学的実践
 以上3点からもすでに明らかなように、分析哲学が掲げる克服すべき問題点は非常に真摯なものである。では実際に分析哲学は何ができるのか?高潔な目標を掲げる分析哲学はいかにして自らに課した課題を成し遂げるのか?アレン=スミスのマニフェストを、いかにアレン本人の論文が実践してみせるのか?
 序の後、『映画理論と哲学』の本文は部(第部「映画的表象とはなにか?」、第部「意味、作家性そして意図」、第部「イデオロギーと倫理」、第部「美学」、第部「感情的反応」)に分けられる。アレン論文を始めとして分析哲学色の濃い論考は第1部「映画的表象とはなにか?」にまとめられている。映画的表象というトピックは、とりわけ1968年以降の映画学の核となり、精神分析的記号論の一時代を築く契機となった、クリスチャン・メッツの「想像的シニフィアン」という概念によれば、映画的表象とは自らの表象としての位置を「否定した」表象の一形式である。したがって、表象の内部にいる以上は、それは表象であると受け手(観客)が悟ることができないイリュージョンとしてみなされる。だが、この点こそ改めて論じなければいけない点ではないか。メッツ以下の精神分析的記号論は、表象(=映像)を指示対象(=被写体)と勘違いすることで、映像の身分に関して厳密に議論を試みず、映画表象について説明してきた気になってきただけである。精神分析的記号論が犯してきた誤謬を正すべく、本章は「映像とはなにか」という映画学の原点ともいえる主題に分析哲学的アプローチで取り組む論文が集められている。それゆえいずれの論文も、「当然である」と考えられ、60年代以降数々の映画理論の盛衰の背後に置き去りにされてきた感のある「映像の存在論」、つまり映像を映像たらしめているものとは何かを問うことに焦点を当てている。
 第1部「映画表象とはなにか?」に収録されたアレン論文以外の論考の概略をまず紹介しよう。グレゴリー・カリィ(Gregory Currie)の「決して存在しなかった映画理論、ある神経過敏なマニフェスト」"The Film Theory That Never Was: A Nervous Manifesto"は、認知科学の成果を踏まえて、精神分析的記号論の論敵たろうとする。そこで最初に確認されるべきことは、まず映画とは「運動のイリュージョン」ではなく、文字どおり「動く映像」であること。そして「動く映像」は被写体そのものにたしかに類似しており、非実在的ではあるものの、ある意味で世界に対する知覚的な接近をもたらすがゆえに現実的であること。また視覚的虚構によって私たちはその視覚的虚構が描く事象が生起することを想像するのであって、そうした事象を見ていることを想像したり、信じたりするのではないこと。この点である。ケンドル・L・ウォルトン(Kendall L. Walton)の「絵画と写真について、解決された異論」"On Pictures and Phographs: Objections Answered"は視覚的表象はイリュージョンではないとしながらも、カリィとは若干見解を異にする。視覚的表象ゆえに、私たちは表象が描くものを見ていると想像することができる。写真、ひいては映画はその物理的性質ゆえに、対象それ自体を間接的に見ることと非常に接近すると主張する。またエドワード・ブラニガンの「音、認識論、フィルム」"Sound, Epistemology, Film"は従来映像に従属する要素とみなされてきた音、音声から、観客の認識はどのように行われるかを論じる。

リチャード・アレン「映画を見ること」
 そしてアレンの論文「映画を見ること」は映像の存在論はさることながら、このカリィ、ウォルトンらの仕事を素材にして(注6)、知覚経験を分析すること、そしてその際に陥りがちな論理的な罠について詳述してゆく。アレン論文はさしずめ、映画を見ることを語る論文について語るメタ論文とも呼ぶべきものとなる。またその文体は「分析哲学の手法」の実践にふさわしいように、誰にでもわかるよう簡潔なスタイルを採っている。先ほどあげた大陸系哲学の影響下にある映画論の問題点の3を克服すべく、曖昧さや文彩を極力排除するだけでなく、it、this、thatといった代名詞もほとんど使用されない。その代わり、代名詞が入るであろう個所には、真摯というべきかそれとも愚直ともいうべきか、同じ節が律義に繰り返される。しかし、アレンの文章は読みやすいかというと決してそうではない。だがだからといって、このような特殊な文体、言語使用をもつ文章を単に悪文として片づけてよいというわけではない。繰り返すように、分析哲学にとって、言葉の使用それ自体が哲学の重要な営為である。なぜなら、思想は言語を介してしか伝達されないからである。「説明/Erklärung」を分析哲学の代表的哲学者ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(注7)にとって以下である。説明とは言葉の使用について明確な展望を持つこと。また他人に明確な展望を持たせること。ある「目的地」へ到達するために技術を提供すること。つまり蝿壷に入った蝿にその出口を教えることなのである。アレンの文体は、もっぱらウィトゲンシュタイン的な「説明」を目指しているといえるだろう。

知覚の因果論
 「映画を見ているときに私たちが見ているものとは何か?」という問いに対する真摯な答えは、見る行為そのものをいかに理解するかに拠っている。しかしアレンによれば、現在までの映画理論は、この問いをないがしろにし、意識的であれ無意識的であれ、迂回し続けてきた。迂回というある種の逃げのためには、必ず知覚の因果論がひっぱり出されることになる。対象とその知覚が取り結ぶ因果関係で見る行為を理解しようとすること、それが知覚の因果論である。

 目前に一輪の花がある。花という事物から、それを見る者は知覚経験をうけ、その花を知覚する。それが目前の一輪の花を見ることである。

 上述の一連の現象が成立するために、対象の花とその花の知覚の間に必然的な因果関係が想定されなければいけない。つまり花の知覚は、花という対象の因果作用の結果として説明されるのである。ではこの関係はどうしたら明記(Specify)することができるのか。自明の理としてまた映画理論の前提として考えられてきたこの関係は実は多くの難点をクリアしなければ、証明されたことにならないのだ。知覚の因果論が内包する矛盾は大きく三つある。第一に、心的現象である<対象Xの知覚>を外的対象である<対象X>から区別して同定しなければいけないこと。第二に、対象=原因、知覚=結果としても、両者の関係は物理的な因果関係ではないので、さまざまな逸脱的な因果作用の可能性を考慮しなければいけないこと。第三に、<対象X>が知覚の原因であるとともに、志向対象でもあることを説明するには、外的対象から知覚を受けるという因果作用とは逆のベクトル、すなわち人間の心から行われるの対象の側へ投射することについても明らかにしなければいけないこと。そしてとりわけ<対象X>が実在物でなかった場合、子どもの落書きであれ、巨匠の絵画であれ、報道写真であれ、娯楽映画であれ、つまり映像(image)であった場合、論証手続きは一層複雑なものになってゆくのであろう。一輪の花が描かれた絵画を見る場合、観者はほんとうは何を見ているといえるだろう? 花の絵なのか?、それともキャンバスの上に乗せられた絵の具を見ているのか? それでは、絵画でなく一輪の花の写真であればどうだろか? 絵画と写真という媒体の性質の差異はどんな風に知覚に関わってくるのだろう? では映像が動く映画は?…というように、論証すべき点が際限なく生まれてくるのである。

映画理論の4つの流派
1 イリュージョン理論派
2 透明理論派
3 想像理論派
4 認知理論派

 アレンは従来の映画理論を、「映像を見る行為」をいかに説明するかという観点から、上記の4流派に分け、それぞれの理論が内包している矛盾点をひとつひとつ突いていく。とりわけ「知覚の因果論」を克服するために、見落としてはならないのは、どうすれば対象Xの知覚は対象Xから独立して明確化できるかということである。

1 イリュージョン理論派
 イリュージョン理論とは70年代−80年代、想像力を形作る映画の特殊な能力を説明しようとした、メッツらの精神分析的映画理論を指す。イリュージョン派の根底にあるのは、「映像は実物を見ているときと同じ知覚をもたらすので、結局、観者は映像が描写するものを見る。その行為は実物を見るときと同じである」という前提である。だが像を見ているとき、観者は「私が見ているものは映像である」ということをはっきりと認識しつつ、何かについての映像かを見るのである。その際、観者は「Xを見る」とは言わず、「Xのように見える」または「わたしが見ているものはXらしい」と言うはずだ。ゆえに、Xを見る行為とXの映像を見る行為は、決して同一のものではない。またXの像を見るとき、実際にXを見ていることを想像しているわけでもない。つまり想像力は、映像を見る行為の必要条件ではない。となれば、想像力という言葉を賭金にして、映画に普遍的な精神分析という物語を当てはめ、すべての観客の経験を一様化して語る精神分析的映画理論は、観客が行う複雑な認知プロセスをあまりにもないがしろにしていることになる。

2 透明理論派
 「映像」という言葉で一括りにされていても、絵画と写真は根本的に異なる。媒体としての質の違いが、透明理論の要をなしている。つまり写真は、絵画に比べて圧倒的に実際の対象に近い。そして写真に動きが加わった映画も基本的にそうである。アンドレ・バザン同様、ウォルトンは「写真や映画で見ているものは単に対象の表象ではなく、対象そのものである」と結論づける。写真・映画の映像は、眼鏡や望遠鏡を通して見ることと同列にならべることができる。写真・映画の映像は、「対象Xがどんなものであるか」と「観者にとってどのように立ち現れるか」の間に無理のない妥当性(アレンは推定の反事実的従属と呼ぶ)を保持する。つまり二者の関係は透明といえよう。アレンはイリュージョン理論派が無視してしまった対象の質的差異と知覚の関係を、透明理論に頼らず掬いあげている点を高く評価する。しかし、一方で対象Xが実在か否かという質的差異から、一直線にそれらを「見る行為」にまで敷延してしまった点に問題がある。『スタートレック』でキャプテン・カーク演じる俳優ウィリアム・シャトナーを例にとってみよう。映画『スタートレック』の描かれたポスターのシャトナーを見るときに観者が行う報告と、映画『スタートレック』を見るときに観客が行う報告はまったく違うのだろうか。そうではなく、双方の場合とも、「キャプテン・カークを見た」という報告がなされるだろう。

3 想像理論派
 では絵画像を見る場合はどうか。ウォルトンによると、絵画を見る行為は写真・映画の像を見る行為とは異なり、想像力を要する。水車が描かれた風景画を見るとき、実際は絵の具とキャンバスを見ているのだが、想像力のおかげで、水車を見ていることになる。だとすれば、絵画を見るときも、想像力を介することで、写真・映画の映像を見るときと同じ見る行為が得られることなり、堂々巡りに帰してしまう。

4 認知理論派
 以上、イリュージョン理論派、透明理論派、想像理論派のつとも、見る行為を明記することに成功していない。そこで、認知理論派は対象の質的差異を考慮せず、すべてを「映像を見る」行為として捕らえる。見ることによって何かを認識することである。つまり読むことでも、聞くことでもない。だが次の段階で、その映像が絵画像か写真・映画の映像かの判断がなされるはずである。しかし残念ながら、その過程を認知理論もまた整合性をもって説明できてはいない。
 
 かくして4つの流派はすべてそれぞれが致命的な欠点をもつ。アレンによればそれらの欠点は、観者が行う報告を心理的要素と対象の物理的要素に引き裂いて考えることと関係する。

論理の袋小路
 ではアレンは4つの流派が論じ損なったこの問題に対する答えを持っているのだろうか。残念なことに、本論文では彼自身が提案すべき新しい理論には筆はおよばない。各流派の論理的欠陥を事細かに検討批判したわけであるが、それぞれの検討批判が相互にかみ合わず、論文全体として批判の焦点が曖昧になっているのが問題である。もちろん、アレンの批判を貫く縦糸は知覚の因果論であるが、知覚の因果論それ自体も、各流派の批判の際に場当たり的に引用されている感も否めない。なぜならアレンは、知覚の因果論の克服のために、対象Xの知覚(心理的要素)を対象X(物理的要素)から独立して明確化する方法を模索しているはずであるのに、4つの流派の論理的欠点は心理的要素と物理的要素を引き裂くことであると結論づけているからだ。アレン論文は結局のところ、知覚の因果論克服という、自らが課した課題を論証途中で放棄してしまったといえる。アレン=スミスが序で批判した隠喩をそのまま使うなら、アレン論文はつの精巧な細部がつなぎ合わされたキマイラにほかない。知覚の因果論という大きな論理的矛盾と関係をもちつつも、写真・映画像に透明性を見る透明理論派、絵画像特有の想像力を媒介とした「見る」を主張する想像理論派など、それぞれの流派には見るべきところがある。
 最後にアレンはウィトゲンシュタインを援用しつつ、「見る(see)」という動詞の多様性について言及するが、まさにその多様性こそがまず最初に問題にすべき点であったのだろう。アレンは論文タイトルを「映画を見ること(Looking at Motion Pictures)」としつつも、本論中一貫して「見る(see)」という動詞が使われている。それは「see」が一般的に見る行為を示す言葉だからであろう。しかし、語の分析哲学的な運用を徹底するならば、もっと厳密に「見る」行為の中での質的差異を区別すべきであろう。実際さまざまな「見る」行為があり、そのヴァリアントには見る対象の質的差異(写真か絵画か、または実際の対象か映像なのか)も当然含まれてくるからだ。さらには、「見る」行為が行われるシチュエーションも考慮すべきだろう。絵画や写真の観者や映画観客の場合、対象に目を凝らす「凝視(gaze)」方が圧倒的に多いのではなかろうか。その結果、皮肉にもアレン論文が示しえたことは、「見る(see)」という非常に一般的かつ抽象的な動詞を使用して、この「見る」という複雑な行為を論じきろうとしたことの理論的限界である。論理的矛盾を排除することに傾注するあまり、逆に論理の袋小路で迷ってしまうのならば、序で高らかに謳いあげられた分析哲学の目標は虚しいものになってしまうだろう。
分析哲学の明解な論理構築が真の分析ツールとして機能し、映画学をリードする次なる理論になりうるには、より広いコンテクストへの目配せと、抽象的な例に加え、より具体的かつ多数の資料体の結合が不可欠である。そうでなければ、序でアレン=スミスが批判した実証の虚偽に傾いた精神分析的映画理論が犯した失敗をふたたび繰り返してしまうことになるだけだろう。

注1・分析哲学と呼ばれる哲学運動は、20世紀初頭、イギリスのバートランド・ラッセルとジョージ・エドワード・ムーアにまで遡る。19世紀末、イギリスの思想界の主流を占めていたのはヘーゲル主義であったが、ラッセルとムーアにとって、ヘーゲル主義の議論は間違った言語の運用の上に築かれたものであった。明解かつ正しい言語を用い、語の運用を厳密化することを哲学の第一歩とすること。それがラッセル=ムーア哲学、つまり分析哲学の基礎でなった。最初の成果はラッセルの論理と経験を基盤とした「言語分析」、前期ウィトゲンシュタインの哲学としての「言語批判」である。その後大陸の経験主義的科学論や新論理学と溶け合い、ルドルフ・カルナップらに代表されるウィーン学団の「論理実証主義」となる。またもう一人の始祖ムーア的系譜は、後期ウィトゲンシュタインやギルバート・ライルらのオックスフォード哲学を貫く「日常言語哲学」にある。

注2・リチャード・アレン 現在ニューヨーク大学映画学学科長。著書として、精神分析的映画理論を批判的に論じつつ、イリュージョンの性質を錯覚、だまし絵、スーパーリアリズム絵画、映画など幅広い題材をつかって論じた『イリュージョンを投影すること−映画の観客性と現実感』 R. Allen, Projecting Illusion: Film Spectatorship and the Impression of Reality(New York: Cambridge U.P., 1995)がある。現在、映画理論史について執筆中。

注3・マレイ・スミス ケント大学芸術学科映画学およびイメージ・スタディーズ講師。著者に『登場人物を引き付けること?フィクション、エモーションそして映画』M. Smith, Engaging Characters: Fiction, Emotion and the Cinema(Oxford: Clarendon Press, 1995)がある。

注4アレン=スミスがここで批判しているのは、ジャクリーン・ローズの論文「パラノイアとフィルム・システム」J.Rose, "Paranoia and Film System" (Screen,17:4,Winter 1976/7に収録)である。

注5・ジョナサン・クレーリー、『観察者の系譜、視覚空間の変容とモダニティ』(遠藤知巳訳、十月社、1997年)

注6・アレンが論ずるカリイ、ウォルトン両者の論文は以下である。
グレゴリー・カリイ、『像と精神−映画、哲学、認知科学』G. Curry, Image and Mind: Film,Philosophy,Cognitive Science(Cambridge:CambridgeU.P.,1995).
ケンドル・L・ウォルトン、「透明な写真−写真的リアリズムの性質について』K. Walton, "Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism " (Critical Inquiry, 2:2, 1984に収録).
――――、『見せかけとしてのミメーシス−表象芸術のよりどころについて』K. Walton, Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts(Cambridge: Harvard U.P.,1990).

注7ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン(18891951)。当初、航空工学や数学を志すが、論理学に興味を移す。フレーゲの紹介でラッセルのもとで学ぶ。哲学的言明の論理学や日常言語分析を含む広義の言語批判を哲学の基本的営為と考えた分析哲学最大のスター。


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