岸松雄と1930年代映画批評の隘路――批判的な評伝

大澤 浄

0. はじめに
 岸松雄(1906-85)といえば、現在では映画作家山中貞雄を「発見」した映画批評家として一般にその名が知られているように思われる。「われわれは此の映画によって、山中貞雄という一人の傑れたる監督をば新しく発見し得た」(1)。処女作『磯の源太 抱寝の長脇差』(1932)を目の当たりにして、同時代の天才の出現を確信する和田山滋(岸が当時借用していたペン・ネーム)の声である。この「発見」は、確かに映画史上きわめてまれな作家と批評家との幸福な遭遇であり、昭和七年の日本映画における特権的な出来事であったと言えるだろう。実際、山中のその後の活躍ぶりを見れば(現在のわれわれが山中の作品を完全に近い形で見ることができるのは三本だけではあるが)、岸の判断が少しも間違っていなかったことは明白である。一人の映画監督の初監督作品を傑出したものとして賞賛することほど、批評家として面目躍如たる瞬間はないだろう。この意味で岸は非常に有能な映画批評家であった。
 しかし岸の残した批評文をあたうかぎり眺めていくと、1932年のこの『抱寝の長脇差』論を境にして、岸の批評が後戻りのできないステージに突入してしまったことが了解される。『抱寝の長脇差』論は単に作品論・監督論であるだけでなく、日本映画批評の新しい時代的枠組みそれ自体をも投げかけた象徴的なテクストであるのだ。以下ではこのテクストの読解を主眼として、岸によって切り開かれた映画批評の新たな段階が何であるのかを検討してみたい。またそれによって、岸がたどることになる批評家としての道程の意味を考えてみたい。

1. 「愛活家」とマルクス・ボーイ
 岸の映画批評の検討にうつる前に、岸自身の履歴をざっと確認しておこう(2) 。岸は本名阿字周一郎、1906(明治39)年東京日本橋の商家に生まれている。長唄・芝居・落語・講談・演歌など流行りの芸能にすぐ熱を上げる少年時代だった。やや遅れて映画への傾倒が始まる。近所の水天宮近くに常設映画館ができ、岸の父親がそこの株主になった関係で無料パスが手に入り、映画漬けの日々を送るようになる。1923年の関東大震災は、岸に「愛活家」修業を促すきっかけとなった。震災後、実家からではなく下宿から学校(渋谷の府立一商)に通うようになり、親に気兼ねすることなく趣味の世界に没頭できるようになったからである。映画館のプログラムの編集で小遣いを稼ぎながら、ゆくゆくは映画に携わる仕事に就きたいと思うようになる(岸松雄というペン・ネームもこの頃付けた)。次第に映画人たちとの交友を深めながらみずからの批評文を載せる媒体を見つけ、またみずから映画同人誌を発行するなどして、慶応義塾大学在籍時(1925年頃)に早くも新進若手映画批評家として頭角をあらわす。そうして『キネマ旬報』、『映画往来』、『映画評論』、『映画時代』、『蒲田』といった有名映画雑誌の常連執筆者となり、1937年に自身二冊目の映画論集『日本映画様式考』を上梓するまで第一線の映画批評家として活躍しつづけた。
 1920年代末から1930年代初頭にかけては、日本中にマルクス旋風が吹き荒れ、左翼的言説が一種の流行となっていた。「社会主義は、大正時代のように、社会から疎外された少数の特殊な思想家の占有物ではなく、知識階級のエリット達の社会批判の武器となり、ときには彼らの社会的野心の新しい手段」(3) ともなっていたのである。当時慶応義塾大学生だった岸がこの社会的思潮に飛びついたのは容易に想像できる。岸は早くも1927年の暮れにはみずから編集する同人誌『映画の映画』、続いて翌1928年にはそれを改題した『映画解放』を発行してプロレタリア映画の必要性を訴え、さらに日本プロレタリア映画連盟なる団体の結成に中心的役割を果たしてさえいる(4)。これら一連の動きには、岸という人間の時代をとらえる嗅覚の鋭さと機を見るに敏な性格とがよく現れている。この数年後、岸は他に先駆けて新人監督山中貞雄を世に送り出し、さらにその数年後には「実写的精神」の映画作家清水宏を流行らせることとなるのである。逆に言えば、岸の文章ほど時代をあざやかに写し出すネガの役割を果たすものはない。
 しかし、岸の左翼映画運動時代の文章は、同時代の他の大多数の映画批評家のものと同様、現在ほとんど読むにたえない。例えばこのような調子である。

扨て資本主義的悪化から、ブルジョア的頽廃から映画を救い出してその健全なる発展を計らんとする企ては独りプロレタリア映画論研究者のみならず、凡そ正しく映画を愛する程の人の等しく思いを寄せている所なのである(5)

(前略) 無産大衆は、欣んでブルジョア・ニュース映画の火中に飛び込んで行くのである。蓋し現在の一般国民教育の水準と、無産大衆の持ち且つ愛する素朴さとの当然の結果だ(6)

岸の1927〜31年における文章からは、このような公式的で退屈なセンテンスはいくらでも抜き出すことができる。小型映画運動を唱え実践した佐々元十や、プロキノのリーダーとしてニュース・フィルムの撮影編集や上映に尽力した岩崎昶らの「急進さ」と比較するまでもなく、自身の階級性に対する疑念すらない岸の左翼的言説はわれわれを少しも刺激しない。この時期の岸がどこまで本気で左翼映画運動に取り組んでいたかは疑問の余地がある。岸は同時期に『映画往来』誌上で「映画月旦」という商業映画作品の月評を連載していたが、これらからは岸の「愛活家」ぶりと左翼的言説とが併存している様子がよく伝わってくる。例えば豊田四郎の処女作『彩られる唇』(1929)評から抜き出して見てみよう。

黒い夜に明滅する広告燈――イルミネートする文字、「婦人の自活の道、シンガア・ミシン」(?)。泥沼から抜け出た娼婦奈美子が、黙々として之を見ている。(中略)二人の女性の三つの足。足。やがてカメラは又緩く上部へ。顔見合わせて微笑む二人。
この簡単な上下移動によって、奈美子と直子との間に緊き信愛と美しき感情とが如何に素晴らしき効果を収めていた事であろう。

氏の芸術の貧困は、氏が現実世界へのヨリ深き透徹を欠いている点から派生するに違いない。個人主義的リアリズムの映画における一開花。けれど必要なことは、社会的集団主義的なるリアリティの発露であり、徹底である(7)

引用の前半部分の活き活きとした画面の描写、これこそが岸の映画批評家としての資質を保証しているものである。われわれが岸の60年以上も前の映画批評を読む気になるのも、実にそれが現在ではほとんど失われてしまっている戦前日本映画の最も詳細で信頼できるドキュメントであるからだ。ところが結論部になってガラリと雰囲気が変わり、作品の世界観が悪いために作品そのものが悪いという引用の後半部分で締めくくられてしまう。左翼的世界観による作品の否定とその結論までの過程における作品細部への嬉々とした執着。この両価的な態度は、あきらかに文体の戦略などではなく、岸の左翼映画運動があくまで観念的なものにすぎなかったことを示している。結局、岸はただの一度たりとも商業映画の魅惑を記述することをやめなかった。そして1932年の『抱寝の長脇差』論は、岸の五年間に及ぶイデオロギーの季節の終焉を告げるテクストであり、それはまた新たなイデオロギーの幕開けでもあった。

2.『モロッコ』とトーキー化
 岸の左翼映画運動は、1931年にほぼ終わりを告げた。1931年の左翼運動の後退といえば、ただちに9月の満州事変の勃発が思い起こされるだろう。これ以後政府による言論統制が強化され、プロレタリア映画運動そして左翼運動全体が停滞し、地下へと潜りこんでいく。それのみならず、一時的な「満州景気」によって日本経済が長い不況を脱し、当初は満州侵略に揺れていた国内世論が、(特に新聞を中心として)一気にナショナリスティックな方向へと高揚していった。しかし満州事変より少し前に、岸はすでに左翼映画運動から遠ざかりつつあった。そのきっかけが何であったかは、岸の自伝でもふれられていないため推測の域を出ないが、同年二月に公開されたスタンバーグの『モロッコ』(1931)が大きな影響を与えたことは確かなことのようである。1931年9月号の『映画往来』に掲載されたスタンバーグ論の冒頭部分で、岸はある決意表明を行っている。

(前略) 初期の活動写真から、三十何年もの長い歳月、幾万幾十万の人間が汗水たらして働いて、そして到々映画を第八芸術の高さにまで引き上げた、その一切の努力と苦心とは、芸術が男子一生の仕事とするに足らん、となったら一体何によって酬いられるのか。箆棒なママ仮設だ。それが本当とすりゃ、それこそ、われわれは「詩を作るより、田を作っ」ていた方がましというものだ。(中略) ところが今、僕にはハッキリとした確信がついたのである。――そんなママ仮設は嘘っぱしだ。誰が何といったって、映画は男子一生の仕事であり、一生かかっても困難な併し生甲斐のある仕事である!僕の此の確信は何によって得られたか。「モロッコ」によって。ジョセフ・フォン・スタンバーグの「モロッコ」によって(8)

芸術を男子一生の仕事にするとは、善/悪の世界(イデオロギーの世界)ではなく、美/醜の世界に生きるという岸の決意表明であり、四年前のみずからの言葉の否定である (9)。前節で述べたように、岸は確固たる政治的信条を持っていたわけではない。岸は変わることなく「愛活家」であったし、商業映画を消費してそれについて語り、書くという欲望を持ち続けていた。岸の「転身」は外的な言論統制の結果というよりは岸自身の内的映画体験の影響の方が大きいように思われる。そして興味深いのは、『モロッコ』が日本語字幕をフィルムに焼き付けた形で公開された最初の(外国)トーキー映画であり、一般にも好評を博した映画作品であったことである(10) 。岸が『モロッコ』から受けた衝撃は、「人間の生活に対する態度を変化させ、恋愛に対する感情を改めさせた」(11) といったものであり、岸をして「トオキイ芸術の進むべき道」の一つとして確信させるほどのものだった。この映画の成功によってそれまでの外国トーキー映画上映の難点が解消され、興行のめどがたち始める(12) 。『モロッコ』公開の翌三月には、松竹とパラマウントが合併しSP興行社を設立することにより、洋画興行の寡占化が進行する。トーキー化とは、岩崎昶が指摘したように「未だ個人的小中資本の活躍の余地の残っていたこの市場も、金融財団の力を借りずには立ち行かなくなり、一方では、それは映画会社相互間のトラスト化ともなり、他の産業部門との企業結合ともなり、要するに、あらゆる点で高度資本主義化され」(13) るということである。日本映画にとって1931年とは、一言で言えば松竹への資本集中が鮮明になり、まさに「高度資本主義化」が加速した年であった。すでに1月に予告されていた国産トーキーの製作着手は、8月に松竹蒲田撮影所の本格的国産トーキー第一作『マダムと女房』の完成公開そして大ヒットとなって結実し、日本映画のトーキー化(技術革新と設備投資)がすべての映画会社にとって抗すべからざる課題としてたちあらわれてくる。9月には経営が破綻した老舗映画会社帝国キネマの代行会社として松竹資本の新興キネマが設立され、独立プロダクションの統廃合に向けて動き始める。つまり1931年は、最終的に1940年に完成を見るに至る戦前の日本映画界の再編成=戦時体制の胎動が始まった年だった(14) 。岸の『モロッコ』礼賛(美/醜の世界への転身)は、凡庸なまでに時代と合致している。

3.「作家主義」のマニフェスト
 翌1932年2月、いよいよ問題の『抱寝の長脇差』論の登場となる。『キネマ旬報』の日本映画批評欄に載ったこの論の新しさは二つの点にある。一つは嵐寛寿郎プロダクションというマイナーな製作会社の作品を取り上げたということ。二つ目は「映画的教養」の観点から作品を評価していることである。この二点は互いにつながっている。
 嵐寛寿郎プロダクションは、東亜キネマを退社した嵐寛寿郎が仲間とともに1931年に設立した製作会社(配給は新興キネマと業務提携)であり、マキノ出身の四大時代劇スター(他は阪東妻三郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵)の独立プロダクションとしては最も遅く設立されたものである。この当時阪東妻三郎プロダクションは松竹・ユニヴァーサルとの業務提携に失敗しすでに解散、市川右太衛門プロダクションは『旗本退屈男』シリーズ(1930〜)だけでかろうじて延命し、片岡千恵蔵プロダクションだけが稲垣浩や伊丹万作といった有能なスタッフとともに比較的安定した経営を続けていた。岸が寛寿郎プロというマイナー・プロダクションの映画作品を取り上げるのは意図的なものである。

われわれが、いつも口を酸っぱくして、評判になった映画ばかり見ていることの危険を説く理由を、諸君は此の映画の中に発見する違いない。何故なら、これは寛寿郎プロの作品だから。寛寿郎プロの作品を見るなどということは、寛寿郎贔屓の方か、さもなければわれわれのように、どんな映画でもみなければならない商売の者か、いずれにしても相当な心掛けをもった者でなければ出来ないことだ(15)

「われわれのように、どんな映画でもみなければならない」と書いてはいるが、実際にはこの当時の映画批評家で日本映画をくまなく見ていたのは、岸以外では大塚恭一や山本緑葉(16) など数えるほどしかいない。筈見恒夫にしろ、北川冬彦にしろ(いわんや飯島正や岩崎昶にしろ)、決して日本映画を論じなければならないというような使命感を抱いて作品を見ていたわけではなかった。一方岸は、「映画月旦」連載時からすでに日本映画を論じ続けることへの執着を見せている(17) 。岸には他の映画批評家にはない「相当な心掛け」、すなわち独自の日本映画論の展望があったのである。そして『抱寝の長脇差』論によってはっきりと打ち出されたもの、それは岸の日本映画論の対象たる、言説の上での「日本映画」そのものである。それは「評判になった映画」だけではなく、マイナーで注目されにくい弱小プロダクションの映画をも含むような撮影所システム全体のことであり、岸の批評がその内部を自由に漂うことができるような閉ざされた場である。一時の熱狂とはいえ、まがりなりにも左翼映画運動に携わった岸は、このような立場をとったことの意味を自覚していた。

だが、こうした資本主義的な撮影所に於ては決して良いものはできないと匙を投げている人、もしくは、いろいろと技法上の改革についても知っているのだがやらないのだと威張っている人、そんな人に較べれば失敗にせよ、兎に角、実際の努力をつづけて行く人の方が偉い(18)

岸は、撮影所システム内の映画監督たちに限りなく同一化していく道を自主的に選んだ。「資本主義的な撮影所」の機構にとらわれながら映画を撮りつづける者に畏敬の念を抱き、その「実際の努力」を評価すること。これはまさしく「作家主義(作家擁護)」の意識に他ならない(19) 。『抱寝の長脇差』論以降、岸は個々の作品評のほかに監督論を執筆したり精力的に監督インタヴューを敢行したりすることによって、「作家」のコレクションを増やしていくことになる(20) 。岸の二冊の映画論集『日本映画論』と『日本映画様式考』は、「作家主義」の集大成としても読むことができる。そして「作家主義」が焦点を当てるのは、個々の監督の個性つまり微妙な映画的演出の違いであり、岸が『抱寝の長脇差』を評価したのは、山中の「映画的手法」のあざやかさであった。

併し旅人渡世の義理や人情の細かさをこれほど美しく「映画によって」描き得た作者がこれまであったであろうか。

すべてこれらの特徴は、間接的描写による強調を目的にして、効果的になされている。そこにわれわれは脚色者として鍛えて来た山中貞雄の映画的教養の強靭さを知る(21)

「映画によって」「映画的教養の強靭さ」による才能の開花。題材は「長谷川伸の、例によって股旅物」であるが、「渡世人仲間の喧嘩出入り。乾分を揃え、命を賭けて、――そうした緊張した気分を、これほどまでに鮮かに表現し得た作者がこれまであったであろうか。」(22) ここに至って、「映画月旦」以来の、フィルムの形式的側面に対する岸の関心が花開き、画面の運動に対する鋭敏さが最大限に発揮されている。

それから又、誤解から源太に喰ってかかる勘太を軽くあしらって、相手になるから川端へ来い、――そういって源太は出て行く。庭下駄。(大写)そのキチンとそろえた下駄をつっかける勘太の足。次の瞬間、その庭下駄が川の中に浮いている。「水ででも、頭を冷やしておきねえ。」源太の言葉だけが響いて来る(23)

『抱寝の長脇差』に続く山中の第二作目『小判しぐれ』(1932)評では、文章の長さがさらに倍くらいになり(これは『キネマ旬報』の批評欄としては記念碑的な長さである)、画面の再現はさらに活き活きとしてくる。もはやこれらの批評からは、作品を左翼イデオロギーによって切り捨てようとする姿勢は認められない。ある想定された(閉ざされた)システム内にいる限りでのみ見えてくる、個々のフィルム表層の微細な美の発見、これこそが岸の『抱寝の長脇差』論が先駆的に実現したものである。

4.清水宏と「実写的精神」
 1932年の『抱寝の長脇差』論以降およそ5年間の岸の日本映画批評(この後岸は批評の筆を折ることになる)は、前述の二つの日本映画論集『日本映画論』(1935)と『日本映画様式考』(1937)でほぼ確認することができる。前節の『抱寝の長脇差』論の検討で示した岸の批評的方向性は、『日本映画論』の方に出尽くしている。ここでは日本トーキー論や作品評に始まり、映画作家との一問一答、時代劇の「映画話術」の再検討などが取り上げられている。この間に岸は山中や小津安二郎、清水宏らと親交を結び、映画作家たちとの個人的関係を深めていく。『日本映画様式考』は個別の作家論・作品論が中心であるが、それらの記述のほとんどは、『日本映画論』のアイディアの延長線上にある。しかしその中で清水論や実写映画についての論考が目新しく、注目に値する。清水論は、岸の日本映画論においてほぼ最後に位置する仕事であり、清水もまた岸によって映画作家として「発見」された監督である。われわれは岸の清水論に岸の「作家主義」のある種の行き詰まりを読み取ることができる。以下は『抱寝の長脇差』論の後史として、岸の批評の行き着いた境地を記述してみたい。
 清水は1924年に松竹の監督としてデビューし、問題となる1936年前後までにすでに100本を越える数の作品を作っていた。端的に言って、岸以前の批評では、「映画作家」としての清水は存在していなかった。それまでの清水とは、商業映画を手早く器用に作る御用監督に過ぎず、たまに賞賛を浴びはするものの、独自の一貫した映画表現を持った「映画作家」としては認められていなかったのである。同時代の映画批評家たちが清水映画に注目し出すのは、1936年前後の岸による清水論そして『有りがたうさん』(1936)の公開によってのことである。これは四年前の『抱寝の長脇差』論によって映画批評家たちの山中論に火がついたことの反復でもあった。しかし今回は作家の「発見」とともに奇妙な標語が付けられていた。「実写的精神」がそれである。

われわれはあまりにも劇的なるものに縋りつこうとしている傾きがありはしまいか。一つの映画が構成について気を配り始めたことは悦ぶべきことではあるが、その構成を劇的なるものによって塗り固めようとするのが全てであろうか。われわれはここらで劇的なるものによって染ったこころを洗い直して新しい方向を見つけ出そうではないか。実写的精神、――忘れていたこの言葉に泌々とした感情を湧かそうと試みる。これは清水宏の熱心に提唱するところであり、ぼくの服膺するところのものである(24)

『抱寝の長脇差』論のときは、岸は山中と面識ないままに熱意あふれる批評を書き綴ったのであったが、ここでは岸は清水とほとんど一心同体である。そのことの意味は後述するとして、清水の提唱していたことは何であったのか。清水自身がこれについて直接言及した跡はなく、われわれは岸の後年の回想からわずかにそれらしきものを認めるのみである。

映画の歴史が実写から始まったことを忘れてはいけない。金魚が泳ぎ、鳥が飛ぶ。単純な動きの実写を幼い日のわれわれがよろこんだのは単なる好奇心からだけではない。制約された舞台から解放されたよろこびがそこにあった。キャメラの眼は、ありとあらゆるものをその生態のなかにとらえることが出来る。お芝居のような人生を描くことから暫く遠去かって、あるがままの人生を拾おう。ポツン、ポツン、途切れがちな人生なら途切れがちでいいではないか。こうした清水の考えを「実写的精神」と呼んだのは私である(25)

残念ながらこれだけでは、ほとんど何も言っていないに等しい。実際この語はほとんど「自然」と同義語として受け止められた(26) 。「実写的精神」は、様々な人々の饒舌な解釈を誘うイディアロジカルな語であり、岸自身にとっても整合性のない概念だった(27) 。問題は語の定義ではなく、岸が清水の映画に対する考え(と呼べるかどうかは疑問であるが)に名前をつけ、それを映画製作の新しい方向として示そうとした身振りにある。

この精神をおろそかにしないならば、この世の中のありとあらゆるものが映画化し得ぬという筈がない。どうも映画になるような物語がない、素材がない、という。ないのじゃあない、そこにもここにもころがっているのだ。要はそれをとりあげるに必要な精神である(28)

ここから伝わってくるのは、新しい映画を創造せよというアジテーションのみであり、「批評」というよりは「実践」への関心である。それは一見すると左翼映画運動時代の、「現実」を変革するプロレタリア映画を作るべしという主張の反復のようにも見える。しかし今回は友人映画作家たちの存在という日常的「現実」が背景にあり、岸のこの呼びかけは彼ら映画作家たちに対するものだった。そしてそれは自分自身に対するものでもあった。なぜなら、岸はこの時期すでに映画批評の行き詰まりを感じていたのである。

ところで、清水宏氏は批評家が段々映画を難しくして行くと申されたが、これはどうしたことであろうか。批評家である私は、映画の難しさを解くために、かような苦しみをつづけているというのに、その難しい正体をつかむことの出来ぬ以前に、いよいよその難しさに輪をかけて行くような振舞いをしているのであろうか。若しそうだとすれば私は、映画の難しさを深め、朦朧たる正体にますます濃い霧をかけ、映画をつかもうとする私の愚かなる希いを絶望に終わらせることに他ならないではないか(29)

それにしても僕自身の不甲斐なさを思うと、腹が立って来る。ぼくは山中貞雄より三つ年上である。三つちがいの彼は、当時売出しの時代劇映画監督中の新鋭として良き仕事をばしているのに、三年も余計に無駄めしを喰っている僕は、まだ何にも仕事らしい仕事をしていない。ぼくが没落し、ぼくが死んだって、後に後るもの(ママ)は簡易生命保険ぐらいのものである(30)

文面からは、岸が作家たちとの個人的距離を狭めていくにしたがい、自己省察の度合いを強めていったことがうかがえる。これは個人的な資質の問題であると同時に、岸自身の批評的パースペクティブつまりは「作家主義」の抱える問題でもある。つまり岸が意識的に作り上げた、閉ざされたシステム内の差異が岸自身によって消費され、枯渇してきたということである。同時代の日本映画の作品評を書き、名だたる映画作家たちにインタヴューし、主要な監督論を書き、二冊の本にまとめる。のみならず映画作家たちと親しく交わり、その創作の過程や映画に対する見方・考え方を知る。岸は「批評家が誰でも一度は陥る批評の無力さに対する反省」(31) にとりつかれ、批評家でいることに飽き足らなくなり、みずから製作側へ転身することを考えるようになる。しかし決して「作家」たちの差異を際立たせている基盤である撮影所システムそのものへ目を向けることはなかった。岸の「作家主義(作家擁護)」は、システム内で飽和してみずからの批評の筆を折るというところまで行き着いたのである。

5.まとめ――批評からの撤退その後

昭和十二年の一月元日、私はすでにPCL(ママ)で仕事をしていた滝沢英輔とともに、静岡駅前の大東館に清水宏を訪れた。(中略)かねてから私に撮影所に入って監督になれと熱心にすすめていた清水宏だ。無論、大賛成である。山中貞雄は「ど根性の問題や」とだけ云った。成瀬巳喜男は「そうねえ……やってみるのもいいけど……」と例によって言葉少なに答えて、ハッキリした意見を出さなかった。
私は決心した。二月、大阪弁天座の映画講演をすませ、河出書房から「日本映画様式考」を批評家としての最後の置土産にかえると、三月、キネマ旬報を辞め、PCL(ママ)に入り助監督となった(32)

岸の以後の経歴について軽く触れておこう。最初の年に成瀬や山中の作品の助監督を勤め、二年目には初監督作品『風車』(東宝京都、1938)を撮るが批評・興行両面で不評で、監督作品はこれきりとなる。しかし以後も東宝で職業的シナリオ作家として十数本の脚本をものした。映画雑誌などで外国の映画事情を伝えるなどの文筆活動を行い、のちにP・C・Lそして東宝の映画製作の中心的人物になった森岩雄を別とすれば、岸は批評家から製作側に転身して成功した戦前期唯一の映画人であろう。戦後は主に新東宝で脚本家、時にはプロデューサーの役割も果たし、清水宏と組んだ『小原庄助さん』(1949)や『桃の花の咲く下で』(1951)、成瀬と組んだ『銀座化粧』(1951)などが有名である。1950年代半ば頃からは、岸は精力的に戦前の映画人たちの評伝を執筆し始める。溝口健二、小津安二郎といった監督たちのみならず、渾大坊五郎や岡田時彦、及川道子といったプロデューサーやスターたちに至るまで、岸にしか書けない親密さと審美眼とノスタルジーとによって、『日本映画人傳』(早川書房、1953)や『人物日本映画史』(ダヴィッド社、1970)といった第一級の映画史の史料が著されたのである。
 岸は再び職業的映画批評家に戻ることはなかったが、1940年代に入って一度だけ見事な清水論を雑誌『新映画』に執筆した(33) 。これはフォルマリスティックな文体分析に近いもので、清水論としては最も優れたものの一つである。画面の運動を活き活きと再現する熱っぽさこそないが、清水映画の特徴的なキャメラの動きを冷静に追っていく筆致は、フィルムの肌理を全て見逃さまいとする迫力に満ちている。ここには、明らかにみずからの映画製作への転身とその挫折の経験が影響している。しかしそれ以外に岸がみずからの映画批評を深化させた跡はない。戦時中においても、清水とプロパガンダ映画『必勝歌』(松竹京都、1945)の脚本を執筆するなど、製作側に徹し続けていた。
 岸は骨の髄まで「愛活家」であり、フィルムの表層を読み取ることができる有能な映画批評家だった。そして山中貞雄の映画とともに「映画的なるもの」を称揚し、日本映画における「作家主義」の到来を宣告した。そして自身の批評的見取り図にあまりに忠実であるがゆえに、みずから映画批評の筆を断った。あるいは岸は「批評」と「実践」の差異を自覚したまま「批評」にとどまり、映画に対する認識をさらに深化させることもできたかもしれない。しかしそうはせず、製作側に移行することで批評家と作家の垣根を一気に飛び越えようとしたのである。この二度目の「転身」もやはり自覚的になされた。しかしそれが岸の思惑を超えたところで決定されていないと誰が言えるのか。1930年代の一つのモデル・ケースとも言うべき岸の映画批評家としての道程からは、教訓や共感を受け取ることはできないだろう。現在のわれわれはただ、これを認識するべきである。


【主要参考文献】
[雑誌]
『映画の映画』初号、映画の映画社、1927年。
『映画解放』3号、映画解放社、1928年。
『映画往来』1925年1月号〜1932年6月号。
『キネマ旬報』1925年1月1日号〜1940年12月31日号。
『映画評論』1928年1月号〜1936年6月号。
[単行本・論文]
岸松雄『日本映画論』絢天洞、1935年。
―――『日本映画様式考』河手書房、1937年。
田中純一郎 『日本映画発達史U 無声からトーキーへ』中公文庫、1976年。
田中真澄他編『映畫読本 清水宏』フィルムアート社、2000年、24−31頁。
牧野守「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の創立過程についての考察」『映像学』27号、日本映像学会、1983年。

1 和田山滋「日本映画批評」『キネマ旬報』1932年2月21日号、72頁。
2 岸に関する伝記的事実の記述の多くは、岸自身の「私の映画史」(『映画評論』1953年6−8月号連載)に負っている。
3 中村光夫『日本の現代小説』岩波新書、1968年、53頁。
4 この団体はすぐに、全日本無産者芸術連盟(のちに全日本無産者芸術団体協議会、通称ナップ)の映画部に合同解消し、最終的に佐々元十や岩崎昶らを中心とした日本プロレタリア映画同盟(通称プロキノ)が1929年初頭に誕生することとなる。このあたりの経緯については、牧野守「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の創立過程についての考察」(『映像学』27号、日本映像学会、1983年、2−20頁)に詳しい。
5 岸松雄「結合を孕む分裂へ」『映画往来』1927年9月号、43頁。なお本稿では、引用文献中の旧字・歴史的仮名づかいはことわりなく現行の漢字・現代仮名づかいにあらためている場合がある。
6 岸松雄「『世界の眼』を、何処に如何にして集注せしむべき乎」『映画往来』1929年2月号、47頁。
7 以上二つとも、岸松雄「映画月旦」『映画往来』1929年7月号、45−46頁。
8 岸松雄「スタンバーグの『間諜X27』」『映画往来』1931年9月号、106頁。
9 四年前にはこのように書いていた。「之に反し、映画を純粋美学的見地のみから取り扱い、映画の社会的関心を冷めたい眼を以って眺める人たちが『映画に愛のある』映画人として兎角賞賛されがちなのは何という滑稽ぞ!」。岸松雄「映画大衆性の過去・現在・未来」『映画往来』1927年10月号、42頁。
10 それ以前では無声映画と同様に「説明者」(弁士)が解説したり、フィルムの横に字幕を同時スライド上映する「サイド・タイトル」方式などがあった。森岩雄「字幕問答――日本版『モロッコ』を中心として」『映画往来』1931年3月号、58-61頁あるいは徳川無聲「映画軟尖日記」第三回『キネマ旬報』1931年2月1日号、64頁などを参照のこと。
11 岸「スタンバーグの『間諜X27』」前掲、107頁。同じ行の次の引用も同様。
12 外国トーキー映画の興行は、上記注11のような上映形態も手伝い、「わかりにくい」と不評で成績が落ち込んでいた。(田中純一郎『日本映画発達史U 無声からトーキーへ』1976年、中公文庫、206-219頁)。
13 岩崎昶『映画と資本主義』往来社、1931年、217頁(初出は『プロレタリア映画』1931年1月号)。
14 この流れは、日活との提携をきっかけにして異業種の大資本を導入することに成功したP・C・L(写真化学研究所)の拡大(1932年)によって決定づけられることになる。
15 和田山「日本映画批評」前掲、72頁。
16 大塚恭一は1903年生まれ、東大文学部英文科卒。主に日本映画を論じた批評家で、著作に『日本映画監督論』(映画評論社、1937年)がある。山本緑葉は1899年生まれ、1922年に橘弘一路とともに雑誌『蒲田』を創刊し、その後も『キネマ旬報』で日本映画欄を担当し「撮影所通信」(日本映画撮影所のミニコミ・ニュース欄)を創設した。
17 「併し読者のうんざりも御尤もだ。本誌に映画月旦を書き初めてから以来、私のとりあげたものは、すべて日本映画だったから。日本映画は実に他のいかなる国の映画よりも、良きにつけ悪しきにつけ近頃の私をとらえる。」(岸松雄「映画月旦」『映画往来』1929年11月号、56頁)。
18 岸松雄「日本映画における表現の問題」『日本映画論』絢天洞、1935年、21頁。
19 1950年代後半にフランスの映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』を中心としておこった作家主義の精髄とは、ハワード・ホークスのような「職人」映画監督の作品に個性=作家性を見出すことであり、他の映画監督たちとの差異=才を見出すことである。(アンドレ・バザン「ひとはどうしてヒッチコック=ホークス主義者でありうるのか」奥村昭夫訳『作家主義――映画の父たちに聞く』リブロポート、1985年、535−538頁)。
20 このような作家コレクションの最たるものが、「日本映画の最近段階」と題された論文の末尾に掲げられた1932年の「上半期日本代表映画監督の作品目録」であろう。そこには小津や伊藤大輔を始めとして、清瀬英次郎や三枝源次郎といった比較的名の知られていない監督たちの代表作品までもが列挙されている。(岸松雄「日本映画の最近段階」『映画科学研究』第10号、往来社、1932年、178−179頁)。
21 以上二つとも和田山、前掲、72頁。
22 引用はいずれも和田山、同上、同頁。
23 和田山、同上、同頁。
24 岸松雄「実写的精神」『キネマ旬報』1935年12月11日号、71−72頁。
25 岸松雄「現代日本映画人伝(5) 清水宏」『映画評論』1953年11月号、42頁。
26 清水作品に対するよくある批評は、二つの異なる要素が混同される形でなされた。つまり、撮影対象として山河や農村、地方の町といった実際の風物を選択する「実写」という行為と、劇映画の中で登場人物が生々しい存在感を示す「写実」という概念との混同である。典型的なのは北川冬彦の次のような評である。「(前略)清水の實寫拐~というのは、風景に於てしかその実績を挙げ得ていないと云うことであった。バスの中から見た伊豆下田街道の風景は美しいものであった。(中略)清水宏が、風景の次に、子供を描くのに成功したことは、大へん興味深いことである。何故ならば、風景の次に、「自然な姿」を示すのは、子供だからである。」ここでは、劇映画における風景ショットが物語の文脈から切り離されて実写の美しさとして賞賛され、それが劇的構造における子供たちのリアルな存在感と、「自然」という語彙で一続きに短絡されている。(北川冬彦「演出の拐~その三 實寫拐~と夾雑物」『キネマ旬報』1937年12月11日号、6頁)。こうして、清水作品に対する現在も続く定評(例えば、人物が風景に溶け込んでいる、自然の中で人々の素朴なやりとりが淡々とした筆致で描かれるなど)が形作られたのもこの30年代後半の時期であった。そこでは、清水作品の印象は「自然さ」という語彙に結び付けられていた。なお拙論「四角、持続そして子供――清水映画作品の空間分析」(『映像学』66号、2001年、40−57頁)は、清水作品をそれらの語彙によらないで分析・記述しようとした試みである。
27 「実写的精神」が提案される約半年前には、その原型とも言うべき「メロドラマ−リアリズム論」を発表している。そこでは、度を過ぎたリアリズム(同時代の小市民映画を指している)に対する修正として「メロドラマ」(新派悲劇的なつくりものめいたプロットの設定を指している)の必要性が提唱され、両方の釣り合いがとれていなければならないという主張がなされている。(岸松雄「日本映画論の一齣 ―メロドラマとリアリズム―」『キネマ旬報』1935年6月1日号、55頁)。「実写的精神」は、「メロドラマ」と「リアリズム」の観念的弁証法の産物であり、岸自身が二年後に回想して述べているように(岸の)「批評の混沌としたさま」の証であった。(岸松雄『日本映画様式考』河出書房、1937年、自序)。
28 岸「実写的精神」前掲、72頁。
29 岸松雄『日本映画論』絢天洞、1935年、自序。
30 岸、同上、24頁。
31 岸松雄「私の映画史(完) 現代日本映画人伝附録」『映画評論』1953年8月号、62頁。
32 岸、同上、63−64頁。
33 岸松雄「清水宏の演出手法について」『映画読本 清水宏』フィルムアート社、2000年、24−31頁(初出は『新映画』1941年3月号、5月号)。



Top Page