書評 中村秀之著『映像/言説の文化社会学』(岩波書店2003年)

書評

形而上的要請としてのフィルム・ノワール

中村秀之『映像/言説の文化社会学』(岩波書店2003年)

 

加藤幹郎

 

中村秀之の最初の単著となる『映像/言説の文化社会学』は大胆な発想と実践に基づいた稀有な書物である。実際、この書き下ろしは特異なフィルム・ノワール論である。なぜ特異なのかと言えば、そこではフィルム・ノワールはハリウッド映画の括弧つき「ジャンル」として規定されるというよりも、「テクストと映画体験と言説からなる特殊歴史的な布置[星座]」として規定されるからである(七一頁)。その著書の冒頭近くで中村は、議論に「重要な示唆」をあたえるものとして、英国の映画学者スティーヴ・ニールの近著(Genre and Hollywood, 2000)を引用する。「私見では、ノワールは単一の現象としては決して存在しなかった。誰もそれを定義できない所以である」という一節ではじまるこの長い引用は(三二頁)、一見したところ申し分のないもののように思える。なにしろフィルム・ノワールが「単一の現象」として存在したなどと主張する者など誰もいないであろうし、万一いたとしたらそれは原理主義者にすぎないからである。しかしながらフィルム・ノワールが「単一の現象」として存在しなかったことと、それが「定義できない」こととはまったく別の問題である。というよりも、それは事実「定義」可能なのである。映画事典を繙けば、フィルム・ノワールの詳細な「定義」にはいくらでもあたることができる。にもかかわらずニールが「定義できない」と言っているのは、辞書事典の類で読むことのできるフィルム・ノワールの「定義」が、フィルム・ノワールと目されるすべての事象にはあてはまらないからである。しかしニールには気の毒ながら「定義」というものは本来そういうものでしかない。「定義」はパラダイム変換にともない、つねに書き換えられつづけるものであり、恒久不変の「定義」など存在しない。「観察される事実」としての「現象」はパラダイムを離れて、それじたい客観的に存在するものではない。それゆえフィルム・ノワールにかぎらず、悲劇であれウェスタンであれメロドラマであれ、いかなるジャンルの「定義」もジャンルがそれ自身に内包しているはずの個々の要素を十全に汲み取れたためしなどない。もしジャンルの定義とそこに内包されるべき作品とが歴史的変遷をこえて完璧に対応する一定不変の「定義」が存在してしかるべきだと主張するのならば、それは形而上的要請にすぎない。ジャンルの定義はその内包によってたえず変化するものである。しかるに著者中村は(慷概を発するニールとともに)他の物語ジャンルは「単一の現象」たりうる(であろう)のに対して、ことフィルム・ノワールにかぎっては「単一の現象」たりえないという仮説に立っている。しかし残念ながらこの仮説は妥当性を欠いている。フィルム・ノワールにかぎらず、すべての事象は「単一の現象」ではありえない。それはつねに複数の異なる事件の束にすぎない。逆に言えば、それだからこそジャンルという類概念が有効になるのである。定義上、同一物でないすべてのものは差異物なのだから、世界は差異に満ちあふれている。しかし、それではなにかと事がはかどらないので類似物という概念を引いて、ひとは経験的に(学問的に)それをひとまとめにしている。しかしそれらが本来同一物でない差異物(あるいは類似物)であるかぎりにおいて、それらが「単一の現象」であったためしなど一度もないのである。ジャンルという概念は、本来同一物でない無数の差異物を収めた便宜的容器にすぎない。それゆえフィルム・ノワールが「単一の現象」ではない(名称と内包が揺れている)ということを根拠に、フィルム・ノワールが他の物語ジャンルとはちがって、「定義できない」特異なものであると主張するニールの議論は本末転倒だということになる。実際テリー・イーグルトンが、その最新の著書(Sweet Violence, 2003)で明らかにしたことは、悲劇という古典的/安定的ジャンルですら、その定義を確定することは困難だということである。それどころかひとが「9・11テロの悲劇」と言うとき、それは意識的にせよ無意識的にせよ、完全なる言葉の誤用を犯している(正確には惨劇ないしメロドラマと呼ばねばならない)。にもかかわらず悲劇の「定義」は無数の辞書事典のなかに記されている(権威的辞書として名高いOEDすら悲劇を「極端な悲哀ないし悲嘆」と定義し、文例として「あの発砲は悲劇的偶発事であった」を挙げているが、本来悲劇が偶発事であったためしはなく、それはつねに必然の産物なのである)。そして誰もが悲劇という言葉をコミュニケーションのなかで使用しつづけている。少なくとも二千数百年の伝統をもつ悲劇すら、古今東西の硯学の議論にもかかわらず(あるいはそれゆえに)、恒久不変の「定義」にいたっていないのであれば、たかだか六十年ほどの歴史しかもたない新星フィルム・ノワールにおいてその「定義」が揺らいでいたとしても、いささかもおどろくにたらないことである。ニールの議論を要約する中村自身の言葉を引けば、「フィルム・ノワール論者の間でさえ、このカテゴリーの本質はおろか資料体の基準についてさえも明確な合意に達しているわけではない」ということになるが(三三頁)、もしフィルム・ノワールが本当にそのような不遇をかこっているのだとすれば、それは悲劇についても同様のことが言えるし(実際「テロの悲劇」と言うとき、悲劇は正確に正反対の対概念たるメロドラマの同義語と化している)、そもそも「明確な合意に達している」べきだとするこの威勢のいい「本質」論は、次節で見るように具体的なテクストの肌理に接するや、たちまち崩れさるしかない。一般にフィルム・ノワールの特徴とみなされているものは、フィルム・ノワール以外の映画にも見られるとスティーヴ・ニールが言うとき(そしてそれはその通りであるが)、彼はアシュリー・ソーンダイクが前世紀初頭に悲劇について語った、次のような言葉を思い出すべきであった。すなわち「痛ましい出来事ないし破局的な出来事」が起きるという以外、およそ悲劇を定義することなどできないが、そんな定義がいったい何の役に立つだろうかと言うのである。つまりもし悲劇一般を十全に定義しようとすれば、「痛ましい出来事ないし破局的な出来事」が起きるものと言わざるをえないが、悲劇以外のジャンルでも「痛ましい出来事ないし破局的な出来事」はいくらでも起きるのだから(実際メロドラマでもフィルム・ノワールでもウェスタンでもそれは起きる)、結局、悲劇は「定義できない」ということになる。しかしにもかかわらず悲劇は少なくとも過去二千数百年間存在しつづけてきたのである。一般にフィルム・ノワールの特徴とみなされているものがフィルム・ノワール以外の映画にも見られるからといって、それだけでフィルム・ノワールが存在しないということの証しにはならないのである。かくして本書『映像/言説の文化社会学』は、フィルム・ノワールについて論じられた歴史的言説のなかにフィルム・ノワールの恒久不変の定義が見当たらないという至極もっともなことを指摘するのだが、しかし、それゆえにフィルム・ノワールと名指すことのできる映画群の歴史的ダイナミズムの再構築に向かうのかというと、そうではなく、むしろ定義の不可能性を理念の形而上的要請へとすりかえ、かくあるべきはずのフィルム・ノワールがなぜそうではないのかということを、もっぱら言説上の理念的再構成の内にのみさぐろうとする。しかしそれはあえて映画テクストを無視するがゆえに、やがて「理念」のみに基づき「現実」(映画テクストのダイナミズム)をなおざりにした形而上的虚構にすぎなくなる。著者のこの形而上的立場は本書(『映像/言説の文化社会学』)の随所に顔をのぞかせている。たとえば著者は映画史上有名なある一本のフィルム・ノワール(と目されている映画)を挙げ、それがいかなる布置=星座の下にあるかを規定してみせる。著者中村は言う、「フィルム・ノワールの「終わり」を画するとされる映画」(『黒い罠』オースン・ウェルズ1958)に、フィルム・ノワールの「形式的特徴とされる」「一人称ナレーション」が見当たらないことを知ったら、読者=観客はさぞかし「戸惑う」にちがいないと(八-九頁)。しかしながらはたしてそうであろうか。「戸惑う」のは、あるひとつの星座を見上げている者たちだけであり、別の星座を見上げている者たちは「戸惑う」ことはないのではなかろうか。著者は『黒い罠』に「一人称ナレーション」はないと断言するが、しかし、それは彼がある特定の布置=星座にしたがって星々を眺めているからであって、別の星座のもとに同じ星々を観察している者にとってみれば、「一人称ナレーション」は見える(聞こえる)のではなかろうか。ここで言う「一人称ナレーション」とは著者によればヴォイスオーヴァのことである。著者はヴォイスオーヴァをそれ以上「定義」しないので、ここではとりあえずヴォイスオーヴァとは、発話と映像が同調しない、虚構世界外へ向けられた語り手=主人公の声と定義しておこう。わかりやすく言えば、主人公がしゃべっているときに、彼(彼女)の口唇の動きがない場面のことで、その発話内容は彼(彼女)が棲んでいる世界の誰の耳にも基本的に届いておらず、ただ観客のためにだけ発せられる。それゆえヴォイスオーヴァは、あるときは一人称現在形による主人公の真情吐露(心の声)となり、またあるときは一人称過去形による「信頼できない語り手」(ウェイン・ブース)として観客を迂路に導くものとなる。しかるに『黒い罠』ではたしかに「伝統的な」ヴォイスオーヴァ(たとえば『深夜の銃声(ミルドレッド・ピアース)』マイケル・カーティス1945に見られるようなもの)は採用されていない。しかしヴォイスオーヴァが主人公の真情吐露でもあるという意味においては、たしかにヴォイスオーヴァはそこに存在する。それはむしろ「フィルム・ノワールの「終わり」を画するとされる映画」にふさわしく、まさにそれまでの「伝統的な」ヴォイスオーヴァとは一線を画するものとしてそこにある。すなわちチャールトン・ヘストンの盗聴テープレコーダーのスピーカーから流れ出て、橋脚のしたで反響するオースン・ウェルズの声は、「テクストと映画体験と言説からなる特殊歴史的な」星座からすれば、まぎれもない「フィルム・ノワール」のヴォイスオーヴァのヴァリアントなのである。そのことがわからない観客は、同じ「フィルム・ノワール」の別の星座を見あげていることになる。つまり「フィルム・ノワール」のヴォイスオーヴァとは『深夜の銃声』にあらわれるようなものに限定されるべきであるとする静態的な立場が、そのような限定的枠組みに基づいてあるひとつの星座を見あげさせているのである。しかし動態的立場に立てば、黒い川面のうえを反響しながら録音されるオースン・ウェルズの虚ろなオフの声は、結局、それを本当に聞いている者はその場に誰もいない(彼らはただそれを盗聴録音するためにだけいるのである)という意味で、その徹底したよるべなさゆえに典型的な「フィルム・ノワール」のヴォイスオーヴァとなる。それは、すべてを統御しているつもりだった怪物的な刑事が、ついに運命の統御不可能性と逢着するという典型的にノワールな場面となる。それは『ブレードランナー』(リドリー・スコット1982)の主人公が、やはり『深夜の銃声』の主人公とはかならずしも一致しないタイプのヴォイスオーヴァを採用していることと同じことである。著者が星座の客観的な煌めきを説明するさいに引いた具体例が、ここではからずも星座の客観性を揺るがす光芒を放つことになるのである。著者中村がいささか唐突に主張するように、もし「フィルム・ノワール」という現象がベンヤミンの言う意味での「理念」にほかならないとするならば、つまり「フィルム・ノワール」というものが「現象の要素[星々]の客観的な解釈として、現象の要素[星々]相互の関連性を規定する」布置(星座)であるとするならば、ここで「客観的な解釈」なるものはいったいどこへ姿を隠しているのだろうか。同じ一本の映画テクストを見聞きしながら、いっぽうはそれがそこにないと言い、たほうはそれはそこにあると言う。もし両者がともに同一の「テクストと映画体験と言説からなる特殊歴史的な布置[星座]」のなかに身をおいているのだとすれば、それは「客観的な解釈」であるべきなのだから解釈に異同が生じることなどないはずである。しかし事実、異同は生じている。だとすれば、両者は別々の星座を見上げていることになる。結局のところ、無数の星々を夜空にあおぎ見る者は、その星々が新星(同時代の新作映画)である以上、どの星とどの星をつないで(新しい)星座とし、今後の旅の道標とするかは、星間に特定の星座を読みとる者の解釈の実践能力次第だということになる。そもそも星々と星座の間にそのような解釈の自由と力の許容度がなければ、星座などという(星空に天秤や蠍を見るような)荒唐無稽なものは生まれない。だとすれば、著者がベンヤミンを引用しながら主張する、「フィルム・ノワール」は「現象の要素[星々]の客観的な解釈として、現象の要素[星々]相互の関連性を規定する」星座であるとする奇妙に無意味な規定はいったいどこから生まれてくるのであろうか(「<フィルム・ノワール>は概念ではなく理念と見なすべきものである。・・・・理念のほうが・・・・現象の要素の客観的な解釈として、現象の要素相互の関連性を規定する。・・・・理念とは、永遠の星座なのである。そして現象は、各要素がそのような星座のなかの点である星として捉えられる」[六九-七〇頁])。さながら著者は、星座は先験的なものであるがゆえに「客観的な解釈」たりうると主張せんばかりである。しかしながら先に述べたように、経験的かつ歴史的なものであるはずのフィルム・ノワール(すなわち「テクストと映画体験と言説からなる特殊歴史的な布置[星座]」に、星々の相互の関連性を規定する客観的な星座を重ねる試みはすでに(あらかじめ)破綻しているのである。結局、理念としての星座とは超歴史的な形而上的虚構ないし要請だということになる。そして『映像/言説の文化社会学』がそうした要請に貫かれる以上、一本のフィルム・ノワールの肌理が通時的かつ共時的にどのような動態的様相を呈してみせても、それはかくあるべき理念から逸脱している以上、ひとに「戸惑い」をあたえる「定義できない」「曖昧な」ものとみなされてしまうのである。しかしそうした矛盾した要請に貫かれながらも、フィルム・ノワールをめぐる代表的言説が年代順に引用分析される『映像/言説の文化社会学』はそれだけで十分魅力のある仕事となっている。それらはまた別の意味でフィルム・ノワールの「現実」を照らし出してくれるからである。本書はフィルム・ノワールをめぐって書かれた過去六十年ほどの錯綜した言説の歴史を、粘り強いリサーチと明晰なレトリックによって解きほぐしてくれる稀有な書物である。しかしもしそれがスティーヴ・ニールのような二流の言説にしか逢着しないのだとすれば、結局、言説のかかる歴史的調査の意味はどこにあることになるだろうか。それはフィルムがいかに多くの二流の映画評論家や映画学者たちによって誤解されてきたかということを示しはするが、そのフィルムがいかに偉大なテクストであるかを示すことはついにできないのである。もっとも誤解の多寡が対象の偉大さの函数であるとすれば、そのかぎりではないが。

実際、誰のおかげで立教大学の助手になれたのか知らないが(実を言えば、立教大学文学部教授へのわたしの強い推薦のおかげに
ほかならないのだが)、藤井仁子という若者が「フィルム・ノワールを語るという際限もない「ゲーム」それ自体を成立させている条件を超越論的に吟味しなければなるまい」などと小法螺を吹きつつ、「実定性をそなえたその[言説]空間にあってはある命題についてその真偽をいうことができる」と言っている。しかるに藤井当人がその言説空間の編成条件を「超越論的に吟味」する台座を精査し、「真偽」を検討する妥当根拠を提出しえているかというと、無論、小法螺吹きには、とてもそんな芸当などできない。著者の中村氏におんぶにだっこである。その肝心なことができないまま藤井は、ただ「フィルム・ノワールという用語を定義することは困難であっても、ある映画がフィルム・ノワールであるか否かを判断することは概して容易である」と逃げ口上を打って終わるしかない。こうしたぶざまな言説空間の編成の条件とはまさに「定義」の条件なのである。