人間的時間の欠落
ポール・ヴィリリオ『自殺へ向かう世界』(青山勝、多賀健太郎訳、NTT出版、2003年)

大傍正規

 2001年9月11日、NYの世界貿易センタービルに旅客機が突っ込んだ。“Ce qui arrive(それから起こること)”。同時テロ直後(2001年10月20日)に発表された『自殺へ向かう世界』のこの原題には、実際に起こってしまった大惨事・大事故がこれで終わりではなく、「これから起こること」の一部に過ぎないということが含意されている。その意味で、9.11の同時多発テロがヴィリリオにとって特別な意味を持つことはない。

 これまでもヴィリリオは、「テクノロジーと事故と速度の思想家。技術の進歩、とりわけ電子情報技術が可能にしたリアルタイムのコミュニケーションが、人間の知覚、社会に及ぼす影響を鋭く分析する」と、本書の略歴にあるように、進歩の裏側にある負の側面について言及してきたが、ここではその略歴についていま少し加筆しておきたい。『電脳世界―最悪のシナリオへの対応』(本間邦雄訳、産業図書、1998年)にもあるように、ヴィリリオは1932年、共産主義者の父親と、カトリック信者の母親との間に生まれた。ここで自らも言及しているように、幼少時の戦争体験が彼の速度論に影響を与えたことは疑いない。さらに18歳でキリスト教徒となったこと、バルザックの「生は周辺部=余白にしか存在しない」という警句を座右の銘にしたことは、彼の思想形成上、重要である。そして対談者のフィリップ・プティも言うように、ヴィリリオは対話/会話によって「言葉を取り戻す仕方」、「世界を取り戻す仕方」を模索し、つねに「ヴァーチャルな民主主義に幻想を抱くこと」に警鐘を鳴らしてきた。

 では、最新作『自殺へ向かう世界』をできるだけ筆者の意図を汲み取って読み進めるためには、どうすればよいのか。それには彼の主著である『速度と政治 地政学から時政学へ』(市田良彦訳、平凡社ライブラリー、2001年)の議論を見ておく必要があろう。「速度とは、語の最も完全な意味において、稼いだ時間に他ならない」(p.34)。 ここでヴィリリオが想定している「時間」とは、幼い頃の切迫した体験から由来している。つまりそれは「死の砲弾から人間が稼いだ時間」であって、われわれが迫り来る砲弾から逃れうる可能性のことである。ここで、われわれに求められることは、その兵器の速度から逃れるために、その兵器と同じ速度、あるいはそれ以上の速度でもって運動することである。テクノロジーが強いる速度は困難を極めた試練をわれわれに強いる(もちろん今日その速度は機械自身が人間の代わりをすることで乗り越えられるのだが、既に人間の関与を極小化する自動制御された機械と機械の戦いが生起している)。

 20世紀は軍事技術が絶えざる進化を繰り返してきた世紀である。かつて「兵士が槍を投げていた頃、この武器の初速は、それが飛んで行くのを見ることができる程度のものだった。それゆえ、盾の助けを借りてそれをかわす事もできた。しかし槍が弾丸に変わったとき、その速度は非常に速く、よけることは不可能になった」(p.197)というように、地上で始まった戦闘が、戦艦によって海上でも行われるようになり、さらに戦闘機の登場によって陸海を覆う空間をも戦場に変えてしまった。地球空間を全て戦場にしてしまった後に残った宇宙空間すらも、戦闘に加担する能力を備えた人工衛星によって戦場と化してしまった。このように新しい兵器は必ず、逃走する時空間をより一層われわれから奪う。その意味で広島に投下された原子爆弾は世界史に大きなインパクトをもたらした。「ピカ」と「ドン」の間に逃走時空間は皆無だった――。ここでは時間と空間の問題が同時に提起されている。ありとあらゆる空間を、その兵器の高性能化とともに消滅させ、新しい砲弾が逃走を無駄にし、救いの時間を奪い取ったのがわれわれの世紀であった。このような時空間の出現に際してのヴィリリオの指摘、「空間を失うや、戦争は人間的時間の中で拡大し、繰り広げられるようになる」(p.85) は、安楽死の問題、核抑止の問題に直面しているわれわれに示唆を与える。つまり見かけ上の戦争は行われていないが、われわれは常に慢性的な戦闘状況下にあるということだ。その意味でも、冒頭に述べたようにヴィリリオにとって同時多発テロは特別な意味を持たないと言えるのだ。このことが、地政学から時政学へという副題の意味、つまり死に至るまでの時間を管理する政治への移行を表すことになる。ここには人間的時間、人間的自由が存在しない(二十世紀の戦争における映画技術の組織的利用についてのヴィリリオのアプローチである、『戦争と映画知覚の兵站術』〔石井直志・千葉文夫訳、平凡社、1999年〕も、このような問題意識を共有している。確かに時間と空間を自由に操作する映画自身にも、このように人間的時間を脅かす側面はあるが、ここではむしろその逆の側面に光を当てたい)。ここでの人間は、かつてファシズムが生産したような「大量の魂なき身体、生きかつ死んでいる者、ゾンビ、憑かれた者」、「流刑者」、「飼い馴らされた身体」(p.118)、「意志なき身体」(p.127)、「工学的な義肢に補佐された身体」(p.163)、「囚人」(p.171)に喩えられる。これは『情報化爆弾』(丸岡高弘訳、産業図書、1999年)での「人間の肉体こそ、文化的、社会的、道徳的な禁忌によってそれまで比較的よく保護されていたために、この地球上でまだ探検し尽くされていない最後の辺境だった」(p.72)という身体観とも通底しており、ついに戦場の境界が宇宙を越えた後、行き場を失って人間の肉体そのものにまで影響を及ぼし始めたことを意味している。

 しかしわれわれは、このような身体の無能性に目をつむって、たいしたことはないと納得するだけで済ませていて良いのだろうか。ヴィリリオは単なる破局論者にすぎないのだろうか。圧縮された時間、犠牲となった時間を取り戻す術はまったく残されていないのだろうか。

 ここで映像と言語にかかわる映画研究を志す者にとっては、「人間的時間の欠落」が欠落しているからこそ、映画はスロー・メディアとして再考すべき対象になると言ってしかるべきところであろう。ヴィリリオ自身も言葉とイメージだけで行われるプロパガンダ、リアルタイム映像の瞬間性を前にして言葉が敗北することに抗して、「読む時間は反省の時間、力学的効率を破壊する緩慢さを含む」(p.12)、要するに「言葉を取り戻すことです」(p.73)と、スロー・メディアを評価している。それは早まる生活のテンポに対抗する術であり、ここでヴィリリオは「本を読むこと」を想定しているが、私は映画を読むことにも十分な可能性があると思う。現在と同時性を強調した映画だけではなく、認識し理解するという人間的時間を持った映画はかつてたしかに存在したし、今後も存在しつづけるであろう。ここでは、そのことも念頭におきながら、本書『自殺へ向かう世界』について見てみたい。

 本書の大きな関心の所在は二つある。ひとつは『速度と政治』以来、考察してきた「生命をめぐる政治(ビオポリティーク)」(p.45)の系譜に連なるものである。哲学者、芸術家達の「内面の変化を求める神秘的なエゴ」と生物学者、科学者達の「テクノサイエンス的エゴ」とが持つ「誇大妄想=長身への憧れ」(p.24)を示唆する数多くの言説を検討し、それらが「感覚的な生を無化し、ありのままの世界についての私たちの意識の異質性を無化しようとするその欲望において、一致」(p.27)するとき、「自殺へ向かう世界」に至ることを冷徹に見てとっている。「生を無化する」とは、主体が「運動を喪失すること」であり、その結果として招来するのは、死(時間の喪失)、空間の喪失である。

 自らカトリックであることを公言するヴィリリオが、あらためて<神>について説くことはない。彼はただ現代社会が<神>の後継に<進歩>を掲げたことを危惧するだけだ。さらに言えば、悪魔を下位におく一元論的な<神>の位置に、この世を支配するのは神と悪魔であると考えるグノーシス主義的(マニ教的)な善悪二元論の彼岸=<進歩>を掲げることを憂慮するのだ。検証できるものだけが真実と呼びうると仮定して、<進歩>の両義性――善い面である便利さ、悪い面であるアクシデント(事故)――の中でも、否定的な側面である「事故」をことさら強調するのがヴィリリオである。したがって生政治を管理するものとしての、「十九世紀の優生学、進化論、遺伝理論、骨相学、統計学的方法論などのうちに同一のマニ教的な信仰を見出すとしてもさほど驚くには及ばない。こうした確信は二十世紀には、全体主義的システムの主要なイデオロギー道具になる」(p.34) ということになる。そして、この全体主義的システムのイデオロギーがもたらした災厄が、ホロコーストであったことは周知の事実である。このような十九世紀の諸学を全体主義的システムへと統合してゆく<進歩>=テクノロジーについて考察する一助となるのが彼の速度論であったのであろう。

 二つ目の関心の所在については、先のそれとも当然繋がることであるが、ヴィジョンの一側面――テレ(遠隔)ヴィジョンが挙げられる。ヴィリリオによれば、テクノロジー的な進歩(コンピューター、インターネット、携帯電話など)によってリアルタイムのコミュニケーションは可能になるが、光速のコミュニケーションツールによって、使用者は思考する時間を奪われてしまう。つまりコミュニケーションの空間が「人間的時間を欠いた消滅しかねない時間」に変換されるのである。そこで導出されるテーゼは、「進歩とはいわば加速すること」(p.39)であって、われわれの思考能力を根こそぎ奪い、そこに全体主義を割り当てる道を拓くものとなる。またヴィリリオはハイテク機器(パソコン、携帯電話等)によるリアルタイム映像、音声の受容について、「自分の殻から抜け出させてくれるものに依存している」(p.79)と言う。つまり、それは受容者の身体に直接訴えかけてくるのではなく、「直接性=即時性というペテン」、「偽りの近接性」(p.81)によって、アルコール、ドラックのように身体をごく短い間稀薄な存在にしてくれるだけなのだ。その結果が生政治との関連で言えば、「生きるとは自分自身の大きさに盲目になること」になる。そして今日では、その抜け殻のような身体に、「宗教、擬似哲学、トランスポリティクス、混交主義」を充填することになるのである。このように「偽りの近接性」は、一過性の過剰な快楽をもたらすだけに、大いなる危険を伴う。主体が「溶解し、人格を喪失する」例外状況におかれたとき、ほかならぬホロコーストがあったのだし、9.11のテロもあったのであるから。

 このようにヴィリリオの著作には、ヴィジョンの側面と生政治・倫理的側面がたがいに分かちがたく色濃く反映されている。それは他の著作においても、様々なヴァリエーションを為している。生政治に関しては最近上梓されたジョルジョ・アガンベンの『ホモ・サケル―主権権力と剥き出しの生』(高桑和巳訳、以文社、2003年)における生政治(ビオポリティーク)についての議論や、アガンベンが参照するミッシェル・フーコーの『性の歴史T知への意志』(渡部守章訳、新潮社、1986年)における言及「自然的な生が反対に国家権力の機構と打算とに包含されはじめ、政治が生政治(ビオポリティーク)に変容する」も参考になるので一読をお薦めする。今や、生と死の境界について考察することは、切迫した緊急の課題になっている。車に乗らず、ファックスも使わず、テレビも見ずに、ただひたすら本を読んでいるヴィリリオ(速度の背後にひそむ権力をつねに嗅ぎ分けてしまうヴィリリオ)と、現代文明を日々享受しているわれわれとの間には大いなる溝が横たわっている。そのような溝を埋めるためにも、研究者として映画の中に見え隠れする人間的時間を表象し、看取できる要素を顕揚してゆかなくてはということに思い至る。そのようなものとして映画を見ること、そのためにも以下では、本書で触れられる映画についての議論を見てみたい。

 本書では、映画は「リュミエールによる隠し撮りカメラや、世界の映画ニュース、アングロサクソン系のドキュメンタリーの伝統、イタリアのネオレアリズモ、ポルノグラフィの流行などといった原始的シュミレーターを経て、今日ではついにリアリティショーにまで行き着いてしまった」(p.84)というように否定的に触れられるに留まっている。しかし、かつてヴィリリオはロッセリーニの『無防備都市』(1945)や、アンディー・ウォーホルの作品を肯定的・積極的に評価していたこともあり(『電脳世界』p.21)、要するに、人間的時間が欠如したような作品だけをリアリティー・ショーと呼んでいるのであろう。ヴィリリオが聴講していたメルロ・ポンティの著作『知覚の現象学』(中島盛夫訳、ウニベルシタス、1982年)中にある言葉に、彼の「時間」に対する思いが透けて見える。「空間は知覚経験世界に限定されたものであり、それを超えたところでは、もはや空間という名に値するものはなく、ただそこには「時間の深み」があるだけで、いわゆる「宇宙空間」と呼ばれる空虚とはいかなる関係も持たない宇宙時間が存在するだけだ」(p.198)(『情報エネルギー化社会―現実空間の解体と速度が作り出す空間』(土屋進訳、新評社、2002年)。いささか抽象的なもの言いではあるが、彼がしばしば援用する「時間の深み」をいう言葉の背景はここにあると思われる。TVのような単なるリアリティー・ショーに堕したものではなく、絵画であればセザンヌ、ピカソ、映画であればウォーホルのような実験映画を評価するのも、そこに人間に驚きを与え、過去のパラダイムを変換する芸術作品に喪失した世界を取り戻す可能性を見ているからだろう。

 映画には「感受性に対する徹底的な崇拝にほかならず、もっと俗な言い方をすれば、見、聞き、洞察し、動き、呼吸し、変化の生きた身体への徹底的な注目」(p. 98)を促すものが存在しないわけではない。確かに「諸芸術はすべて――とりわけ、再現=上演(レプリゼンーション)の芸術は、――それゆえ、速度学的でも速度光学的でもある直示(プレザンタシオン)と複製の技術の絶えざる加速化によって決定的な打撃を被り、やがて破壊される。こうした技術の加速化によって、主体と客体との間の時空間は無に帰し、希少性や持続性の概念だけでなく、芸術作品に備わるヴァーチュアルなものと生成するものとの結節点、つまりその現象学もまた、強制的に抹消されてしまう」(p100) という側面もある。それでも映画には物語の進行する時間とは別の、われわれの内面で進行している異質な時間、観客それぞれが認識し、理解し、記憶を手繰り寄せて構成する別の物語が、本を読む時間と同様の人間的時間が構成できる契機があるのではないだろうか。今日、健全な娯楽を標榜する余り、そのような時間を送るための映画作品自身に潜む異質なものが失われてきてはいないだろうか。

 ここで「無」に帰した時空間で起こった9・11に対するヴィリリオの悲痛な嘆き、「法がもはや存在しない国において、犯罪とは実際のところ何を意味するのか」は額面どおり受け取ってはいけないであろう。何もないのではない。言うまでもなく法とは、存在していないにも関わらずわれわれを支配するというように、本来的に無形のものである。しかし主体性を持つ人間がそこにいる。ヴィリリオは提議するに留まるだけのことが多い。それを批判的に読み解くには、我々自身が能動的に思考することから始めなければならない。二十世紀におけるテクノサイエンス的<進歩>の狂信者たちが、二十世紀――鉄条網と強制収容所の世紀――の革命における大量虐殺を行った実験的な無法地帯について思い出そう。芸術自身、いや映画自身もその無法地帯から抜け出せずに、われわれの救いを待っているはずである。