タイ無声映画の尽きせぬ魅力
第22回ポルデノーネ無声映画祭報告

韓燕麗

 北イタリアの小さな町サチーレを流れる小川には、タルコフスキーの『惑星ソラリス』のラストシーンを思い出させるような長い水草がしなやかに揺れ漂っていた。この町で朝から晩まで無声映画をたっぷり見ていた秋の一週間は、数えられる昨年の至福なときの一つだった。想像してみよう。二階建ての劇場を埋め尽くすおそらく世界中でもっとも熱心な無声映画の観客たち、そして彼らの前にある大きなスクリーンに映り出される濃淡の異なるモノクロ映像の数々。保存状態の良いフィルムの美しさ、それに全上映作品につくライブのピアノ伴奏。他所では決して味わうことができない無声映画期の観客と同じような体験、いやむしろそれ以上の興奮をここで文字通りに体感できた。しかし、数多くの上映された当時の姿に蘇ったようなクリアな映像が見られたとはいうものの、今回見たフィルムのなかでおそらく最も保存状態の悪い二本が、私にとって最も興味深いものだった。それはタイ映画特集で見たタイの王室によって作られたホーム・ムーヴィである。以下はそれを中心に今回のタイ映画特集について報告する。


1.

 そもそも今回の無声映画祭は、なぜ現存フィルムの量が決して多いとは言えないタイ映画の特集を企画したのだろうか[1]。今までアジア映画の特集を企画したことがあるとはいえ、中国(1996年)や日本(2001年)といったいわゆる映画大国の特集に限られていた。その理由の一つに、2004年度のFIFA(国際フィルム・アーカイヴ連盟)総会はSEAPAVAA(東南アジア太平洋地域視聴覚アーカイヴ連合)の第九回会議との合同開催が決定されていることと無関係ではないと私は考える。SEAPAVAAとはSoutheast Asia-Pacific Audiovisual Archive Associationの略で、1996年に東南アジア諸国及びオセアニアのアーカイヴによって結成された国際団体である[2]。東南アジアのアーカイヴの多くは、西欧主体のFIAFの年会費を支払うことも困難である経済格差や、フィルム保存に厳しい高温多湿の気候条件に強いられているが、FIAFもカバーできないこれらの難題に取り組み、参加国の映像資料を破壊・散逸から救済する動きが1990年代初頭から盛り上がり、ようやくFIAFを含む世界の注目を引く今日に至ったのである。2004年にハノイで行われるFIAFとSEAPAVAAの合同総会は、FIAFの歴史において初めて他の団体と合同総会を開くことになるが、それを契機に、SEAPAVAAとFIAFの活動が今後より緊密になることと想定でき、今回のタイ映画特集はその前触れの一環として考えられるのだろう。
 さて2003年のポルデノーネの映画祭で上映されたタイ映画の特集はおよそ以下の四種類に大別できる。

1)王室の外遊や儀式を記録したフィルム
2) 観光客誘致の宣伝フィルム;
3)初期長編劇映画の断片;
4)王室メンバーによるホーム・ムーヴィ

 順次に各項目を簡単に紹介しよう。一番目の王室の外遊や公式訪問を記録したフィルムは今回の特集の大半を占めていた。タイ人の姿を最初に映画のキャメラにおさめたのは、1897年にチュラロンコーン国王(King Chulalongkornラーマ」世、『アンナと国王』に描かれた国王)とその弟のサンパサート公爵(Prince Sanbassatra)がヨーロッパを訪問する時だった。スイスのキャメラマンによって撮影されたフィルムに目を見張り、再上映まで要求した国王だったが、サンパサート公爵はすぐにパリで撮影機を購入し、タイで最初に映画製作を始めた。以来、国内における王室の外遊や儀式がタイ人によって撮影されたフィルム、そしてデンマークなど外国の訪問先で現地のキャメラマンによる記録フィルムが数多く作られてきた。 
 しかし、タイの王室と映画製作の関わりはそれだけにとどまらず、二番の項目にあげられた観光客誘致の宣伝映画を製作した「タイ国鉄ニュース映画部」(Topical Film Service of the Royal State Railways)も、実は王室メンバーによって設立された機構である。1922年に、ラーマ」世の息子カムペンペット殿下(Prince Kambeangbejr)は国鉄や政府活動を宣伝するために国鉄のニュース映画部を創設した。このタイにおける最初の映画製作機関は、世界においても最初の政府による映画製作機構の一つとされる。今回の特集で見たSEE SIAM(1930)の一本の冒頭では、シンガポールから列車に乗ってシャム[3]へやってくる欧米人の観光客が食堂車で優雅にナイフとフォークを使って食事をとりながら、車窓の外の熱帯風景を眺めていた。英語で書かれた字幕はしきりにシャムは衛生かつ安全な国で、近代化もかなり進んでいると弁明し、その口調の誇張ぶりに満場の観客は何度もどっと笑い出すほどだった。しかし、バンコクの上空からメコン川や市街を俯瞰するショット、そして荘厳な仏教建築を背景に早朝の読経に行く僧侶の行列シーンなどは、どこか今日のタイの観光コマーシャルを思い出させるところが少なくなかった。これらのシーンを短く再編集し、最後にスチュワーデスの燦然とした笑顔のショットを付け加えれば、やすやすと今日のタイ航空のコマーシャルが一本作られるにちがいないだろう。
 三番目にあげた長編劇映画の断片は、タイで製作された初の長編映画『二重の幸運』(DOUBLE LUCK,1927)と三作目にあたる『勇者だけ』(NONE BUT THE BRAVE,1928)の断片である。両方ともワスワット(Wasuwat)兄弟が率いるバンコク映画会社という民間映画会社の製作だが、残念ながらそれぞれ1分半と4分半くらいのフィルムしか残っていない。『二重の幸運』の断片は1995年に発見されたもので、現存するわずか82フィートのフィルムには、一人の女性が数人の男にオープンカーで連れ去られ、彼女の恋人と思われる男性はもう一台のオープンカーに乗って一行を追う部分が写されていた。追っかけシーンのスピード感と、登場人物の西洋化した身だしなみ(特にヒロインの洋服の露出度が高い)が印象的だった。1920年代後半から30年代の上海映画と同様、その時のタイにおいても、映画という西洋から渡来してきた見世物にしばしば当時の現実社会からまだほど遠いモダンな生活ぶりをわざと写し出していたのかもしれない。
 『勇者だけ』の断片であるムエタイの格闘シーンの発見にめぐって、面白いエピソードがある。恋人のために賞金を目当てに戦うヒーロー、そして彼を応援するヒロインとヒロインの父親を写すこの全編のクライマックスにあたる格闘シーンは、じつはアメリカのあるドキュメンタリー映画の一部として使われていた。1930年に、SIAM:THE LAND OF THE WHITE ELEPHANT AND THE LAND OF THE FREEというトーキー映画が製作される時、アメリカのプロデューサーはタイから不要なストック・フィルムを大量に購入し、それらに音声を吹き込んで再編集したのである。『勇者だけ』のこの緊張感溢れるシーンの劇的な要素を完全に無視し、劇映画を実録のドキュメンタリーとして使ったアメリカのこの「記録」映画には、ただ以下のようなナレーションが吹き込まれていた。「ムエタイのコンテスト:シャム人に最も愛されるスポーツ。彼らはオーケストラによるリズミカルな音楽に乗って、踊り、蹴りそして戦うのだ」。このナレーションを聞きながら、当時のアメリカの映画観客はクローズアップされた俳優の大袈裟な演技(主要人物のひどくやきもきする様子や脇役の入れ歯が飛び出した滑稽な様子など)を、タイ人のヴィヴィッドな日常の姿だと思いこんでいたのだろう。誤解やステレオタイプの産出に貢献したこのドキュメンタリーのお陰で、後世のわれわれは初期タイ映画の実態の一断片を今は目にすることができたのだ。じつに笑うにも笑えない皮肉な映画史の一ページだった。
 さていよいよ最後の項目、タイ映画特集の中でもとくにレアな存在である王室メンバーによるホーム・ムーヴィについて紹介することになるが、それは私にとって最も興味深いフィルムでもあったため、以下に詳述させていただきたい。

2.

 今回のタイ映画特集で私は見た一本目のフィルムは、前文で言及した国鉄のニュース映画部を設立したカムペンペット殿下の手によるものだった。それは一本の映画というより残存したフィルムの断片を繋げただけのもので、題名も製作年も不詳のため、プログラムには「トリック・フィルム:1920年代」というふうにごく簡単な情報しか書かれていなかった。こうしてタイトルもクレジットもなく、いきなり目の前に広げられたのが以下のような映像だった。スクリーンいっぱいに写される巨大な金魚。まるでスクリーン全体が巨大な水槽にでもなっているようだ。よく見ると金魚や水草の間に小さな全裸の幼女が泳いでいる。素朴な二重露出を用いて金魚と一緒に映し出される彼女は、身長が金魚の三分の一ほどしかなく、腰まで及ぶ長い髪以外、体につけるものは何もない。五、六歳に見えるこの小さな女の子が金魚と一緒に泳いだり、水草の底にある石に腰をかけて瞑想したりするが、どう見ても人間ではなく、水の中に棲息する小さな妖精のようである。保存状態が悪いために、画面が非常に不鮮明で、時々真っ白になる瞬間ですらある。しかし、私を含む満場の観客は息をのんでこのプリミティブな映像に見入ってしまっていた。それは画面にくり広げられるファンタジーの世界の不思議さや、水の中で揺れる妖精の長い髪が金魚の尾ひれの揺れ具合と一致する動きの美しさがあるからだろう。二重露出を施す前の映像も時折混ざっていたが、黒い垂れ幕の前で色々な仕草をとっていた女の子には、ちゃんと扇風機かなにかで風をあてていた。しかしその時私は、風に舞うその長い髪から全く違うことを考えていた。そして少々驚いた。それについて説明する前に、もう一本の王室メンバーによるホーム・ムーヴィを簡単に紹介しておこう。
 国王プラチャーティポック(King Prajadhipokラーマ・世)による『魔法の指輪』(THE MAGIC RING,1929)は38分ほどの完全なる物語がある映画である。国王は自ら脚本を執筆し、旅行中に立ち寄った小島で宮中の子供を使って撮影を行った。実の母を亡くした五人の子供たちは義理の父に重労働や体罰に強いられ、しまいにその父は彼らを無人島に捨てようとする。その時、島の川から長い髪の妖精が現れ、子供たちに魔法の指輪を与える。その指輪をはめると、石を饅頭に、葉っぱを紙幣にといった具合に呪術を使えるようになる。子供たちは呪術を使って義理の父を子犬に変身させたりして懲罰し、とうとう父親は自らの過ちを認め、子どもたちを連れて一行はめでたく帰途につくという物語だった。
 『魔法の指輪』とカムペンペットのトリック・フィルムが共通しているモチーフは、水/女性の妖精/呪術であろう。ただちに思ったのは、それらのモチーフはタイの一大映画ジャンルとしての「メー・ナーク・プラカノン映画」からも見いだすことができる[4]。1999年に新鋭監督のノンスイ・ニミブットによる『ナーン・ナーク』というジャンルの最新作は、タイの国内では『タイタニック』以上に大ヒットし、海外においてもタイ映画の国際市場を大きく広げた一作だった。しかし共通するモチーフが多いとはいえ、ノンスイ監督の『ナーン・ナーク』には、1920年代の王室メンバーによるホーム・ムーヴィとも、それまでのメー・ナーク映画とも完全に違うところがあった。じつはノンスイ監督はこれまでのメー・ナーク映画にあったヒロインの長髪を、わざわざ19世紀の庶民の短髪に置き換えたのである。しかしなぜその必要があったのだろうか。70年の間に、妖精の長髪が帯びる意味に、あるいは妖精そのものの意味に、なにか変質でもあったのだろうか。この問題の答えを探ることによって、20世紀におけるタイの宗教的・政治的な変遷と葛藤の一端を窺い知ることができるのである。

3. 

 ナーク夫人の髪を短くしたのはむろん単純にメーク・アップの好みの問題ではない。それまでのメー・ナーク映画に出てくるヒロインは例外なく偉大な霊力で人の命を奪ったり、人を発狂させたりする怖いお化けだった。彼女たちの妖怪じみた長髪はいわば化け物のシンボルで、髪を短くすることはいわばナーク夫人の妖怪性を払拭しようとする行為なのだ。しかし1920年代のホーム・ムーヴィに出てくる美しくて慈悲深い長髪の妖精はいつ、そしてなぜ恐ろしい妖怪になってしまったのだろうか。
 周知の通り、タイ最大の宗教は仏教で、国民の94%が仏教徒である。しかし、仏教は隣国のインドから渡ってきた外来の宗教であり、タイ人はもともとは精霊信仰者であった。このタイ人の信仰体系の大きな変更について、私たちは民俗学者や歴史学者から以下のことを教えられる。19世紀末から20世紀初頭にかけて近代国家への編成に伴う「仏教化」がタイ全土に展開され、現在のような仏教優位の信仰環境は当時の中央政府による国家的な仏教化政策の果てに、紡ぎだされてきたものである[5]。全国民の宗教生活に仏教を浸透させようという動きは、前文で言及したように、タイ人として映画のフィルムに初めて姿を収められた人物であるラーマ」世その人が治世下1868〜1910年ごろから始まっている。すなわち、列強による植民地化を極力回避するとともに国の近代化をも推進させようという縄渡りのなか、中央政府はサンガという僧侶組織を地方行政制度と連携して整備し、僧侶組織を利用して中央集権化を行ない、仏教を精神的支柱としたナショナリズムを展開していたのである。このようなタイ人の信仰体系に仏教への固執を浸透させた過程において、国家は土着の精霊信仰に対して積極的な制限を加えていった。仏教的であるものと仏教的でないものが峻別され、多くの呪術的行為に対して罰則が定められていたのである。「メー・ナーク」の物語はまさにこういった近代国家編成のプロセスと並行する形で生成されてきたもので、映画の最後でナークの怨霊を説伏させたのは、バンコク(中央政府所在地)からやってきた仏教の高僧だったという設定は、まさに仏教卓越・呪術制限の象徴的な表れである。メー・ナークの物語はタイの近代国家構築の過程で仏教に平定される民間信仰の象徴だったといえよう。
 さて、歴史学者や民俗学者の研究成果で、前節の設問つまりノンスイ監督はなぜナーク夫人の髪を短髪にしたかという問いに答えることができただろう。しかし、信仰体系が仏教化された過程で生み出されたさまざまな葛藤は、決して上述した冷徹な史実だけで表すことはできない。ところが、それが1920年代の王室メンバーによる二本のホーム・ムーヴィから窺い知ることができたのではないか。
 タイの憲法では、国王は仏教徒でなければならないと定められている。国家的な仏教化の過程において、世紀末の欧米で「キリスト受難劇」が量産されたのと同じように[6]、仏教徒であるタイの国王や王子たちが仏教の法典を翻案したフィルムを作っても至極順当なことと考えられよう。しかし、われわれの予想と反して、彼らは自らの楽しみとして映画を作るときに、心の奥にある夢幻的な世界に生きる善良で美しい存在としての妖精たちを思う存分に描いていた。土着信仰への敬虔心が飾らず素朴に表されているそれらのフィルムは、仏教化の推進者つまり精霊信仰の抑圧者だったはずの王室メンバーによって作られたことこそ、まさに私がサチーレの映画館のなかでひそかに驚いたことだった。土着の精霊信仰と仏教という外来宗教の葛藤が、思わぬところで痕跡を残していたのである。
 東南アジア諸国の近代化ないしナショナリズムの形成は、時期的に映画という20世紀の装置の導入と重なっていた。今回のポルデノーネ映画祭のおかげで初期タイ映画の面白さの一端を思い知らされたが、東南アジアにおける別の土地土地の独自な事情がそれぞれ映画のフィルムにどういった謎々を残っていたのか、もっと探りたいものである。

参考文献

第22回ポルデノーネ無声映画祭公式パンフレット、2003。

チャリダー・ウアバムルンジット「タイ映画史」森本正史訳、タイ映画祭2003パンフレット、国際交流基金アジアセンター、2003。

四方田犬彦「タイ映画における『メー・ナーク・プラカノン』の系譜」『アジア映画繚乱』青土社、2003。

ロン・サヤマナン『タイの歴史』二村龍男訳、近藤出版社、1977。

www.geocities.com/seapavaa2004/01/10

http://www.stickyfilms.com/study_06.htm2004/01/10

[1] サイレント期のタイ映画はわずか17本の長編映画しか製作されていなかった。そのフィルムのほとんどは現存していないという。

[2] 今回の映画祭公式パンフレットにタイ映画に関する紹介文を書いたのは、オーストラリアのアーキヴィスト重鎮レイ・エドモンドソン氏(Ray Edmondson)だった。1996年から2002年の間にSEAPAVAAのFounding Presidentを担当していた氏は、いかにFIAFがアジアのアーカイヴをその視野に入れようとしないか、という点をたびたび問題にしている。

[3] 1936年に国名がタイと改められるまでに、タイはシャム(Siam)と呼ばれていた。

[4] メー・ナーク・プラカノーンとは「プラカノーン運河に住まうナーク夫人」という意味である。タイ人なら誰もが知っている幽霊譚である。物語の起源には様々な説があるが、以下のような物語のパターンに定着したのは1910年代ごろのことだとされる。兵士として戦地に赴いた夫に残された身重の妻ナークは、難産で死んでしまう。執念から彼女は幽霊になって赤ん坊を育て、夫との再会を果たせた。しかし偶然に夫はナークが冥界の者だと分かり、バンコクから高僧が来て、暴れていたナークの幽霊を成仏させる。この物語は詩歌、演劇などによく取り上げられ、タイの映画史上において繰り返し数十回も映画化されたことがある。タイの国民映画といっても過言ではない。

[5] 津村文彦「ナーン・ナークの語るもの タイ近代国家形成期の仏教と精霊信仰」『アジア経済』2002年1月号、25−43頁。

[6] 1897年にレアールによって作られはじめた「キリスト受難劇」は大成功を収め、「全世界で模倣され」、「最終的には長期間にわたる深い影響を与えた」という。例えばリュミエール社の「イエス・キリストの生涯と受難」は全体で250メートル近くあり、その長さは「この時期のヨーロッパのあらゆる作品と異なっていた」。ジョルジュ・サドゥール『世界映画全史2 映画の発明 初期の見世物1895−1897』村山匡一郎など訳、国書刊行会、1993、191−211頁。