アメリカ日系移民と日本映画

板倉史明

はじめに

アメリカで日本映画が上映されはじめたのは、1951年に『羅生門』(黒沢明、大映、1950)がヴェネチア映画祭でグランプリを受賞したあとであると多くの人は思っているかもしれない。確かに、1950年代前半、日本の各映画会社はアメリカに直営支店を開設し、アメリカのアート・シアター(ヨーロッパの「芸術」映画や古典映画を上映していた映画館)へ日本映画を配給しはじめた。多くのアメリカの映画ファンや映画批評家たちは、この時期にはじめて日本映画を見ることになったのである。例えば、1953年にロサンジェルスに直営支店を開設した松竹は、翌1954年に英語字幕付き日本映画第1作として『東京物語』を配給している[1]

 しかし、実際は、日本映画はアメリカで生活する日系移民のために、1910年頃から1941年12月に勃発した太平洋戦争の直前まで、アメリカで頻繁に上映され続けていたのである。1900年に約9万人いたアメリカの日系移民は、1940年の太平洋戦争直前には約28万人にまで増加しており[2]、アメリカで生活する日系移民にとって、日本映画はもっとも人気のある娯楽としてだけではなく、日系コミュニティーを経済的、文化的に支える機構として存在していたのである[3]。日本の映画会社の直営支店がない戦前期には、日系人によって設立された日本映画の配給会社(例えばサンフランシスコの桑港興行[4]やロサンジェルスの日米興行など)が、独自に日本映画のフィルムをアメリカへ輸入していた。また、ロサンジェルスには、1925年に開館し、翌1926年から日本映画だけを興行するようになった「富士館」があり[5]、毎週のように日本の劇映画が入れ替わり上映されていた[6]。また、日系移民がもっとも多かったハワイ諸島には、1939年のピーク時に日本映画を上映する場所が55カ所あり、年間179本の日本の長編劇映画が公開されている[7]


アメリカの弁士たち

 ハワイ生まれの日系三世カヨ・ハッタ(Kayo Hatta)監督による『ピクチャー・ブライド』(1995年)の印象的なシーンを覚えているだろうか。日系移民が働いているキャンプの広場において、三船敏郎演ずる弁士(活動弁士、活弁)が、サイレント時代劇『血煙高田馬場』(伊藤大輔監督、日活、1928年)を、三味線の伴奏にあわせて語っているシーンである。
 弁士とは、日本サイレント映画の上映中に、スクリーン脇で物語を語り、登場人物のセリフを語る、ライヴ・パフォーマーであり、サイレント映画のナラティヴに決定的な影響を与えていた。弁士は日本国内だけでなく、植民地の朝鮮や台湾、そして南米や北米への日系移民地にも若干存在した。

サンフランシスコの弁士――桃中軒浪右衛門

 アメリカの日系移民になじみの深い有名な弁士が数人いた。松井翠民、河井大洋(清風)、木村宗雄、藤岡吟波、桃中軒浪右衛門などである。女性弁士も新聞記事で確認することができる[8]

 アメリカの弁士は数ヶ月に渡り、主に西海岸の日系コミュニティーを巡回して日本映画興行をおこなった。1930年までには、毎週のように日系移民地の仏教会ホールや日本語学校のホールで日本劇映画の上映が行われており、人気の弁士たちが毎回解説を付けていた。この頃、日本での封切からおよそ2・3年程遅れて上映されていた(例えば、サイレント時代劇の代表作のひとつである『忠次旅日記』(伊藤大輔、日活、1927年)は、1930年の初頭にカリフォルニア州各地で巡回上映された[9])。特徴的なのは、日本映画の上映会が、しばしば日系人の青年会や日本語学園の基金集めの目的で開催されていたことである[10]。つまり、日本映画の興行は、日系コミュニティーの文化活動を経済的にサポートする重要な役割を果たしていたといえよう。

 そのなかのひとり、桃中軒浪右衛門(1887-1971)については先行研究がある[11]。彼は佐賀県に生まれ、1911年に浪曲(浪花節)の大家・桃中軒雲右衛門の弟子になって浪曲を学んだ。1922年にハワイに渡り、映画と浪曲を「連鎖」したパフォーマンスで人気を博す。そのパフォーマンスが人気を呼び、翌1923年にサンフランシスコへ招かれ、日本映画の弁士として活躍しはじめたのである。彼のトレードマークは頭のちょんまげであり、時代劇映画を語るときにぴったり合っていたに違いない。彼がもっとも活躍したのは1920年代後半から1930年代初頭で、彼はフィルムや映写機の機材を持って北米各地の日系コミュニティーを数ヶ月かけて巡業した。上映中の伴奏音楽は三味線と拍子木のシンプルなものであったようだ。

 『ピクチャー・ブライド』の活弁シーンにおける伴奏音楽が三味線だったことから推測できるように、三船敏郎演ずる弁士は浪曲師出身ではなかったろうか。というのは、実際、アメリカで活躍していた弁士には、浪曲出身者が多かったからである。桃中軒浪右衛門も、彼と一緒にアメリカへ渡った古賀又雄も、松井翠民[12]も、1913年にハワイに渡った北都齋謙遊[13]も、皆もともと浪曲師だったのである。なぜ浪曲出身の弁士が多かった(人気があった)のであろうか。それは、通常の弁士よりはるかにメロディアスにストーリーを語る点において、日系移民にとって彼らのパフォーマンスはより魅力的だったのではないだろうか。    1910年代の『日米』『新世界』などの日系新聞を見れば、しばしば浪曲の興行広告が掲載されている。浪曲は当時、移民地でもっとも人気のある娯楽のひとつであり、日本に対するナショナリズムを高揚させる役割を持っている娯楽であった[14]。したがって、浪右衛門たち浪曲出身の弁士によるメロディアスな語りは、異国で生活する特に一世たちのナショナリズムを喚起し、各地で熱狂的に受容されたのであろう。

 浪右衛門の波乱に満ちた生涯は、1971年にハワイ移民二世の母を持つ小説家・梶原李之によって『カポネ大いに泣く』(講談社)という小説となった。梶山の小説は、1985年、鈴木清順監督によって『カポネ大いに泣く』(ケイエンタープライズ=C・C・J)として映画化されている(しかし本作において浪右衛門は弁士ではなく浪曲師として登場している)。

ニッケルオデオンと移民観客

南欧の移民の群れの荒(あら)れと男(を) 
       ニックルシヨウにヂゴマ見し夜よ(ルビを含めて原文ママ)
(在ポートランド市 播磨桜城)[15]
 この短歌は1913年、サンフランシスコ(桑港)の日系移民が発行していた新聞『日米』に掲載された。「ニックルシヨウ」とは、1905年から約10年間にアメリカの各都市に乱立した小・中規模の映画館・ニッケルオデオンにおける映画上映のことであり、「ヂゴマ」とは、1911年にフランスで製作され、同年日本でも公開された犯罪活劇映画『ジゴマ』のことである。『ジゴマ』は日本で大ヒットするが、不良少年の犯罪を助長するとして社会問題化し、上映禁止にまでなった。
 つまりこの句は、ある夜、ポートランドのある日本人が、故国日本で話題になっている映画を見ようと、南欧から来た移民が集う映画館に足を運んだ体験を詠んだものである。「南欧」移民とは、この場合イタリア移民を指しており、当時、日系移民もイタリア移民も共に、その多くがアメリカに来て間もない「新移民」であった。
 おそらくこの作者は、『ジゴマ』が映し出されているスクリーンを通して、故国の観客に思いを馳せ(同時期の日本と同様、日系新聞紙上においても少年犯罪と『ジゴマ』は関連付けられて語られていた)、彼らの熱狂を遠く聴いていたに違いない。しかし、彼がふと周りを見渡すと、そこは日本語でも英語でもなく、イタリア語が飛び交う空間が拡がっており、彼は突然、二重に「異国」に在ることを意識するのだ。そして、このニッケルオデオンに集まってきた南欧移民たちも、私と同様にさまざまな事情で故郷を離れてアメリカまでやってきた移民なのだと、なにかしらの親しみと哀愁をおぼえ、それがこの句を詠むきっかけになったのではないか。当時頻繁に使用されていた「白人」という人種用語ではなく、あえて「南欧」という地理的単語を選択した理由もここにある。

メディアの変遷と想像力

 2002年の7月、NHKの人気番組「のど自慢」がサンフランシスコで開催された。その模様は衛星中継によってアメリカと日本の両国で同時放送され、日本人と日系人が同じテレビ映像に魅入って幸福な一時を過ごしたのである。1969年、アポロ11号が月面着陸に成功し、月面からの映像が衛星中継によって世界中で放映されたことが象徴するように、衛星中継は1960年代後半から徐々に一般的になった。そして同時期に、日系人の家庭にも日本の映像が徐々に、リアルタイムで入ってくるようになっていったのだろう。

 興味深いことに、日系人の家庭において日本のテレビ番組が比較的簡単に受信できるようになると、それに反比例するように、サンフランシスコやロサンジェルスに存在していた映画館の観客数が激減してしまう。ロサンジェルスで「ラジオ小東京」を長らく開局していた上手亦男氏が1974年に書いた文章によれば、日本語テレビ放送で人気番組が放映されている時間帯には、映画館はガラガラになっていたし、知人の家を訪問する際も、人気番組の時間帯にぶつからないように注意しなければならなかったそうである[16]。このような事実を踏まえると、各時代の日系人が日本に思いを馳せる想像力のかたちは、20世紀に次々と誕生していったレコード、映画、ラジオ、テレビというメディアの変遷とともにその質を変化させていったのではないだろうか。以下に、日系人による短歌をいくつか紹介することで、その点について思いを巡らせてみようと思う。
壁一重へだててきこゆ蓄音機祖國の歌をなつかしく聞く[17]
 普段は隣の部屋で微かに流れているレコードのサウンドなど気にも留めないものだ。しかし、隣の部屋から微かに聞こえていた“サウンド”が、日本語の歌詞とメロディーだとふと気が付いた瞬間、その“サウンド”は「祖国の歌」として耳に飛び込んできたのである。
稀に観る日本映画に日の丸を振る場面ありて心をどるも[18]
 この歌で興味深いのは、この一世歌人は、日本映画に出てくる有名スターや映画の内容に感動したと言うよりは、画面の中にふと出てきた日の丸の映像に心を奪われているという作者の視点である。たとえ同じ映像を見ても、見る人の境遇やバックグラウンドによって、製作者が予想もしなかったような仕方で受容されるという映画や写真の本質を、この歌は見事にあらわしており、故郷を離れた移民ならではの日本映画の受容の仕方であるといえよう。
 上記ふたつの歌に共通しているのは、普段の生活の中でレコードや映画というメディアに接している時に、思いがけず日本への思いをかき立てられてしまったその感動を歌にしているということだろう。しかしレコードや映画といった複製芸術ではなく、ラジオやテレビといった放送メディアになると、歌人の想像力も若干異なってくるのが分かる。
京の鐘レデオに聞きゐるこの除夜に京にて聞かすか九十の母も[19]
 1926年に日本からやってきたこの作者は、日本の大晦日に鳴り響く除夜の鐘をサンフランシスコのラジオで聴きながら、遠く離れた故郷の母に思いを馳せている。同じ瞬間に同じ除夜の鐘を聞いているという想像力によって、日本とアメリカの物理的距離はかき消されてしまうのである。
オリンピック開会を宣言さるる天皇のみ声真夜中のテレビに響く[20]
 日本時間1964年10月10日午後3時。昭和天皇の宣言によって東京オリンピックが開幕した。それ以前は、日本映画上映館のニュース映画などで数週間遅れの日本の映像を見ていたのだが、この時期になると衛星放送によって、リアルタイムで日本の映像が家庭で享受出来るようになっているのである。 
 このふたつの句に共通している想像力の根幹には、たとえ日本とアメリカという離れた場所であっても、リアルタイムで同じ音と映像を共有しているのだ、というその一体感が存在しているのではないだろうか。

 以上のように、それぞれの時代を代表するメディアによって、日系移民の日本に対する想像力のかたちは変化してゆくのであるが、特に筆者が興味をもっているのは日系人と日本映画の関係である。


 筆者は、2002年の2ヶ月間、サンフランシスコとロサンジェルスに滞在し、日本映画が日系人にとってどのような役割を担っていたのかということを調査し、現在も継続中である。日系移民関連の資料調査だけでなく、日本映画の配給や上映に関わられた方々へ聞き取り調査も、多くの方々の協力によって実現することができた。戦前から日本映画の配給に関わっていたある方は、1941年の真珠湾攻撃の数日後に、保管していた日本製ニュース映画のフィルムの中で、天皇陛下の映像が入っているフィルムを自宅で焼却したという体験を語って下さった。 

 20世紀最大の娯楽メディアとしばしば評される映画、そのなかでも特に日本映画が、日系人の歩みとどのように関わってきたのか。いまだ書かれたことのないその歴史を、今、早急に書き留めなければならない。

附記

【附記】本稿は以前発表した以下の(1)―(3)の拙稿を、改訂して(英語は日本語に翻訳して)ひとつにまとめたものである。

(1)"Benshi in the U.S." in Japanese Silent Cinema and the Art of the Benshi (Berkeley: Pacific Film Archive, 2002) , p.13 .

(2)「移動する民への想像力」、『人環フォーラム(第13号)』(京都大学人間・環境学研究科、2003年、35頁)

(3)「日系人と日本映画の足跡」、『日米タイムズ』(2003年1月1日号、6頁)
[1] 『松竹百年史 本史』(松竹、1996)、815頁。
[2] Japanese American National Museum(ed.). Encyclopedia of Japanese American History (Updated Edition). (Checkmark Books, 2001), xvii.
[3] 1910年代における日系移民と映画(映画館)との関連については、拙稿「米国日系移民の日本映画受容――1911年、横田商会映画に対する不安定な観客性」、『アート・リサーチ(第3号)』(2003年、189-197頁)を参照されたい。インターネット上でも読むことができる(http://www.arc.ritsumei.ac.jp/)。
[4] 桑港興行は1920年に設立された。映画、演劇、相撲など、サンフランシスコの娯楽興行を一手に引き受けていた会社で、1924年には日本映画配給・興行に特化した「スター・フィルム」を立ち上げ、より一層日本映画興行に力を注ぎはじめた(「桑港興行が二五万ドルに増資してスターフィルム株式会社」、『新世界』1924年1月1日号)。
[5] 富士館については、Junko Ogihara, “The Exhibition of Films for Japanese Americans in Los Angeles During the Silent Film Era,” in Film History.Vol.4. pp.81-87, 1990.を参照のこと。
[6] 筆者が『羅府新報』の映画広告欄を用いておこなった統計調査では、1930年に富士館で封切られた日本劇映画全45作品中、時代劇は27本(60%)、現代劇18本(40%)であり、時代劇の方が比較的頻繁に上映されていたことは日系移民の嗜好を考える際に興味深い事実である。
[7] 1936年の日本映画上映場所が52カ所、1年間における日本長編劇映画の上映本数が50本であるから、1939年のピーク時には日本映画が毎週のように封切られていたのである。『日布時事 布哇年鑑 並人名住所録(一九三七−一九三八年度)』(日布時事社、1937、214-215頁)、『日布時事 布哇年鑑 並人名住所録(一九四一年度)』(日布時事社、1941、213-216頁)を参照。
[8] 例えば1922年の『新世界』にはサンフランシスコの興行会社・桑港興行の広告が掲載されており、「女弁士 松葉美佐子」の名が載っている(『新世界』1922年1月29日)。ちなみに、ハワイでは無声映画最盛期に15人ほどの弁士がいたという。” The Benshi: On Making People Weep” in Kanyaku Imin: A Hundred Years of Japanese Life in Hawaii (Honolulu: International Saving and Loan Association, 1985, pp.40-41.)を参照。
[9] 例えば2月1・2日にはサンフランシスコの日本語学園金門学園のホールにて、桃中軒浪右衛門(後述)の弁士によって上映された(『新世界』1930年1月27日)。
[10] 例を挙げれば枚挙にいとまがないが、1925年10月15日にマテナスという地域で開催された寄付興行の例をあげるに留めよう。「活画会大成功(マテナス)」とタイトルの記事があり、「河井清風の活動写真を興行したが 純益の全部は全て之を当地唯一の公共団体たる農事同志会に寄付するという趣意であったから[中略]非常なる盛況を呈した 従って寄付金も多額に上り 総収入四七九ドル五〇仙 支出一〇三ドル八〇仙 差引残額三七五ドル七〇仙の純益金は 主催者より同志会に寄付したと」([]内は引用者による。『新世界』1925年10月15日)。
[11] 桃中軒雲右衛門については、伊藤一男『続・北米百年桜(復刻版)』(PMC出版、1984)の273-294頁、伊藤一男『桑港日本人列伝』(PMC出版、1990年)の542-565頁を参照。
[12] 戦後日本映画の映写に関わった松浦茂氏への聞き取り調査による(2002年10月1日、サンフランシスコのジャパンタウンにて)。貴重な時間を割いてお話くださった松浦茂氏に記して感謝申し上げる。
[13]「謙遊の浪花節」、『布哇報知』(1913年10月21日)
[14] 近代日本のナショナリズムと浪曲の関連については、兵藤裕己『<声>の国民国家・日本』(日本放送出版協会、2000)を参照。
[15] 「日米短歌」(『日米』、1913年8月13日号)。
[16] 上手亦男「カラーテレビ」、『ラジオ小東京 マイクと共に42年 1952-1994』(私家版、1994)、29頁。
[17] 岡田花子『花に花』(層雲社、1961)25頁。
[18] 泊良彦『歌集旅人』(国民文学社・日米短歌会、1958)、193頁。
[19] 阪倉清子「戦後のうた」(泊良彦編『歌集 移植林』[東津久仁短歌会、1958])、191頁。
[20] 谷口貞子『歌集 旅愁』(短歌研究会、1978)15頁。