スイス・サイレント映画
ーースイス映画史への旅
第21回ポルデノーネ無声映画祭報告

北田 理惠

はじめに

 まぶしいくらい色鮮やかな黄色の10フラン札とピンクの20フラン札。それぞれに印刷されている肖像画のモデル、建築家ル・コルビュジエと作曲家アルチュール・オネゲルがスイス人であることをご存知だろうか。

 日本映画特集のあった前年に続いて2度目の参加となる第21回ポルデノーネ無声映画祭は、昨年も10月12日から19日まで北イタリアの小さな運河の街サチーレで開催された。今回の多彩なプログラムは、160名もの候補の中から選りすぐられた「喜劇女優Funny Ladies」特集、ついで「イタリア・アヴァンギャルド」、「スイス映画」、今回で6年目を迎える「グリフィス・プロジェクト」などである。国際映画合宿とでも呼びたい、朝9時半から深夜零時を必ず越える充実した上映スケジュールのこの映画祭では、カタログで前もって観る作品の予習など体力的に継続できなくなっても、毎日繰り返される固定した上映開始時間はいつの間にか身体が無意識に記憶している。中でも特に、サチーレ一般市民の参加も多く、超満員の劇場の室温が数度は上がる熱気に満ちた夜8時半からの回には、より魅力的なラインナップが用意されている。

 今回の「スイス映画特集」で唯一このゴールデンタイムの枠を埋めたのは、フランス映画で有名な「スイス出身」の俳優ミシェル・シモンであった。トリュフォーが「フランス映画でもっとも素晴らしいしかめ面」をしたと賞するミシェル・シモンは生涯で100本もの作品に出演し、その殆どを占める「フランス映画」の監督‐ルノワール(『素晴らしき放浪者』)、ヴィゴ(『アタラント号』)、カルネ(『霧の波止場』)、クレール(『悪魔の美しさ』)、レルビエ(『生けるパスカル』)‐は数えきれないほどだ。ジュネーヴ生まれのシモンが初出演したこのスイス映画La vocation d’Andre Carel『アンドレ・カレルの使命』(ジャン・シュー監督、1925年)の主役は彼ではない。しかし、本編の前に上映された撮影の様子をとらえたわずか1分ばかりのフィルムに、あの愛嬌のある表情がちらりと映ったそのときに、客席からは一番の反応があったのだ。



スイス・シネマテークとローザンヌ大学映画学科

 今回のスイス特集は、スイス・シネマテークとスイス国内の映画学科の地道な協同作業がなければ実現しなかった企画である。映画祭開催にあわせて出版された論文集Cinema suisse muet, lumieres et ombres(スイス・サイレント映画 光と影)の監修者レミー・ピトンは、カタログ解説のはじめに、スイス映画特集の構想は10年前では実現が疑わしかっただろうと述べている。しかし過去10年の間に、二つの要素に大きな発展があった。それはつまり、(1)スイス・シネマテークの政策(リサーチや保存)、(2)チューリヒ大学とローザンヌ大学の映画学科(1990年設立)である。今回のカタログや論文集執筆にもこれら映画学科卒業生が名を連ねているし、映画祭中サチーレ市内の教会に開設される、映画専門書店Filmfairに並ぶ多数のスイス映画関係図書を見れば、10年間に育成された学生や研究者たちの仕事の成果がうかがえる。

 一方、ローザンヌ大学から地下鉄で10分という距離にあるシネマテークも、みずからのアーカイヴとしての仕事はいうまでもなく、その劇場を教室のひとつとして提供している。レマン湖と対岸のフランスやアルプスの山々を一望できるモンブノン公園にあるスイス・シネマテークは、スイス在住のゴダールが、ローザンヌ市からの依頼で市の中世の歴史的記念日の500周年のために製作した『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981年)でも知られるフレディ・ビュアシュが1948年に創設した。今年で79歳を迎えるこの前館長は、現在も映画学科1年生向けの映画史の講義をシネマテーク内で行っている。毎週水曜14時15分に始まる講義は、通常の上映プログラム枠内にあり、学生のみならず一般市民も入場料さえ払えば自由に聴講できるのだ。リュミエール・スイス映画から始まる一連の講義は、ビュアシュ氏が少し解説をしては、ヴィデオではなくフィルムで、3時間にわたり古今東西の作品をとにかく次から次へと上映していくという贅沢さである。

 また、シネマテークの映画史への貢献を示す例としては、現館長エルヴェ・デュモンが1987年に出版した労作、Histoire du cinema suisse, films de fiction1896-1965(スイス映画史 フィクション映画1896-1965)があり、現在は2000年までの全作品を扱った第二巻も準備中である。国からの助成金を受けて、シネマテーク館内で進行中のこの大プロジェクトに従事するメンバーの大半は、ローザンヌ大学映画学科卒業生なのだ。1965年までのスイス・フィクション映画のすべてを扱った600ページ近くにおよぶ『スイス映画史』には、全作品の内容、製作の過程、撮影や初上映の場所と日付、公開当時の国内外での批評などが事細かに記されているのだが、第二巻はより辞書的性格を強め、ページ数もさらに増えるという。ローザンヌ大学留学中に毎日のように図書館と映画館に通ってシネマテークの仕事に興味を持った私は、『スイス映画史第二巻』編纂の「第一段階」作業にニ月ほど参加した。作業の手順は、館内に保存される作品別の茶封筒に入った公開当時の雑誌、新聞記事、映画祭カタログ、助成金の申請書、製作側のプレス記事などの一次資料を、ひたすら網羅的に再読しながら、国内外での上映タイトル、スタッフや俳優の名前と国籍、撮影場所や期間、初上映の場所や日付、映画祭での受賞暦などを見つけ出してデータベース化していく。さらに、批評や物語の概要も決して私見は含まず当時の記事だけをもとに再構成するという、本当に気の遠くなるような細かい作業であった。スイス人がみずからを「勤勉」だと称するゆえんをここでも垣間見た気がするのだが、アーカイヴと映画学科の協同作業によって数年後に完成予定の彼らの仕事の成果が今から待ち遠しい。

スイス・サイレント映画プログラム

 このようにフィルム・アーカイヴと大学が連動して、スイス映画史の再編が日々行われている一方で、従来の「世界映画史」においては、「スイス映画」についての記述はほんのわずかしかない。その大きな理由として、(1)スイス製作の映画が国外にほとんど紹介されていないこと、(2)絶対的な製作本数の少なさ、の二つがあげられる。特にフィクション映画の製作は数少ないし、その多くが隣国フランスやドイツとの合作であり、合作映画を含めてもサイレント期の年間製作本数が10本を超えることはないのだ。

 フランスをはじめとするヨーロッパ内の映画大国の蔭に隠れがちなスイス映画であるが、それでもやはり「スイス映画らしさ」の特徴は存在している。ここからは具体的なスイス・サイレント映画について述べていこう。その全体像を把握するために、映画祭の六つのスイス・プログラムにつけられたタイトルを挙げてみよう。

(1)映画セットとしてのレマン湖の風景

(2) 山岳映画とアルプスの人々

(3) ドキュメンタリーと教育映画

(4) 神話と歴史の間のスイス

(5) 伝統:歴史、伝説、民俗

(6) 労働と労働者

これらスイス・プログラムのすべては、複数の短編と中編または長編で編成されているが、以下はこの中からプログラム(1)、(3)、(6)の長編または中編作品に言及しながら進めていくことにする。

スイス映画と風景

 スイス映画の魅力とは、なによりもまず、フレームの中にたえず存在する自然や風景という美しい天然のセット装置である。このスイスの地の利ともいえる風景のすばらしさについては、これまで国内外で多く言及され、スイス・プログラム(1)と(2)でも湖と山が選ばれている。じっさいスイス人は映画の草創期からみずからの自然を愛し、熱心にフィルムにおさめ、国内外で上映された映像が観客を魅了してきた。1910年代の日本の映画雑誌にも、スイスの湖やアルプスの山々が上映された記録は多く残っている。スイス映画の成長の歴史は、風景が単なる記録の素材から、やがて際だった存在感をもった要素として物語に貢献していく過程の歴史であるともいえるだろう。

 冒頭で紹介したミシェル・シモンの初出演作La vocation d’Andre Carelは、スイスとフランスの国境であるレマン湖沿の複数の町で展開する。公開当時の作品批評や宣伝記事でも、とりわけその「美しき風景」が強調されている。物語は、アカデミー・フランセーズ会員でもあるフランスの作家ジャン・カレルが、落ち着きのない性格の息子アンドレを、休養のためにミシェル・シモン演じる家庭教師とともにスイスのレマン湖沿の町へと送り込むことから始まる。ある日、アンドレ・カレルは船上で眠る美しい女性に一目ぼれし、翌日には水上運送業を営む彼女の父に就職を頼み込んで、住み込みで働くようになる。こうして肉体を使った労働や人間の日々の努力のなかで、主人公は真実の愛や世界の美しさ、そして芸術家の使命を見出すのである。この作品のもうひとつの主役レマン湖が、単なる物語の背景としてだけ登場するのではなく、その水面に輝くまばゆい光を放ちながら、迷えるアンドレ・カレルの人生を幸福へと導いたことは言うまでもないだろう。

 また、プログラム(2)の主役は、スイス土産の定番のひとつ、ピラミッド型チョコレートに似たマッターホルンや、アルプスの山々である。この山を舞台にした作品群はスイスでは特に1930年から1960年にかけて飛躍をとげるのだが、同じようにアルプスを領土にもつドイツやオーストリアでも1920年代以降に開花した国際的ジャンルである。いわゆる「山岳映画」の第一人者として活躍するドイツの映画監督アーノルト・ファンクも、1920年の処女作『スキーの驚異』を含めた初期作品をスイスの映画会社で撮影したのだ。

ジャン・ブロシェの教育映画と巡回上映ーーある種のスイスらしさ

 スイス映画史においてフィクション映画の製作が極めて少ないことはすでに指摘したが、今回のプログラムも、数本の長編劇映画を除き、そのほとんどが短編の記録映画で構成されていた。しかしそれ以外に、ドキュメンタリーとフィクションという従来の分類にはおさまりきらない中編映画が存在している。そのひとつが、プログラム(3)のジャン・ブロシェ監督作品La bourse et la vie『お金と生命』(1928年)である。物語は、雪山に登山にでかけた3人の青年の遭難事件である。切り立った山での遭難場面を眺めながら、ここで彼らが不幸にも山から落ちて命を落とすのか、あるいは無事に危機を乗り越えて生き残る劇映画「山岳もの」になるのだろうかとぼんやり考えていると、ラストの字幕が映画のタイトルの意味を唐突かつ見事に説明するのだ。彼らは雪山から落下することはなかったが、動けなくなった彼らのもとに救援者がやってくると、とき遅く、ひとりの若者はすでに冷たくなっていた。しかし、救援者は青年の死の事実に悲愴を見せるのではなく、即座にこの青年が持参した水筒を取り上げ、その臭いをかぎ、いきなり地面に投げつける。

「酒は金と命を奪う強盗なんだ!」

実はこの青年は、ふだんからお酒を飲んで無駄遣いばかりし、不十分な装備で登山に参加したために友人たちを遭難に巻き込んだうえ、水筒にまでお酒を入れていたのだった。1920年代のスイス映画の特徴である山を舞台にした作品でありながら、単に登山家の所作や技術を忠実に記録した他のドキュメンタリーとはかなり異なるブロシェ作品の特徴は、現実に忠実なロケーションや人々の生活を再現しながら、フィクション化、物語化しているところにある。

 ところで、ブロシェが酒の弊害を説く「禁酒」映画を何本も製作しているのには、当時のスイス社会の関心が反映している。「教育映画」の枠組みでプログラムされたこの作品は、もともと一般の劇場で公開されるためではなく、主にジュネーヴ禁酒連盟からの出資金で製作された。当時、あらゆるプロパガンダ手段を活用しながら、「酒の弊害」に反対運動していたジュネーヴ禁酒連盟が、特に若者に人気があり、影響力もある「映画」を選んだのも不思議ではない。

 第一次大戦後のスイスでは、特に芸術としての映画に対する一般的な評価が高まり、日刊紙でも映画批評の掲載が始まる。当時の映画通の一人であったブロシェは、映画芸術を推奨するための複数の企画に加わり、1920年代を通じていくつもの講演をこなし、特に映画の教育的役割の重要性と、教育者たちに対し、映画の有効性を説いていた。ブロシェが実際の映画製作に加わる経緯ははっきりしないのだが、この処女作のあと、「禁酒」や「女性問題」(モラルや女性の投票権など)を扱った十数本もの中編や長編を残した監督のユニークさは、何よりもその製作と配給システムにある。ほとんど一人で製作や配給、上映を行ったブロシェは、講演で得たお金を次作の資金にしながら映画製作を継続し、作品は、まずジュネーヴの中央ホールで1週間ほど上映されると、次はジュネーヴ近郊へ、そしてさらに地方へと順々に上映されていった。一般の劇場で公開されることのほとんどなかったブロシェ作品は、まるで映画常設館ができる前の巡回興行者のように、監督みずから持参する上映機材によって、どんな地方の小さな会場でも上映が可能となったのだ。このように、通常の劇映画とはまったく異なるルートで行われたブロシェの教育映画製作と巡回上映活動の成果は、当時のスイスのローカルな社会問題のみを対象としながらも、一方でオランダやフランスなどにも輸出され、同類の社会組織団体によって上映されたようである。ブロシェというまったく特定の個人の仕事であるとはいえ、映画製作産業が育ちにくく、常に小規模の映画会社が生まれては消えていくスイス映画史のなかで、長年にわたり十数本もの作品を産出できた事実は、やはりその「教育映画」という内容や、村から村へという地道な配給システムに、ある種の「スイスらしさ」が表出されている証でもあるだろう。

勤勉なスイス人

 最後に、プログラム(6)に登場する中編作品Ein Werktag『労働の一日』(1931年)を取り上げたい。作品のクレジットを見てまず驚いたのは、製作がPraesens Film(プレゼンス・フィルム)社だったことである。この1924年に創設されたプレゼンス・フィルム社は、トーキー導入の混乱期をうまくのりきり1930年代以降に大きく成長し、スイス最大の映画会社となった。隣国からの戦争亡命者のおかげで活発化した第二次世界大戦中の量産期(といっても年間15本くらいだが)の作品や、戦中から終戦直後にかけての国際映画祭での数々の受賞作や、それと同時に国外の一般の劇場で公開された複数のスイス映画の大半は、このプレゼンス社の製作による。プレゼンス社の成功のおかげで、スイス・フィクション映画製作は1930年代半ば以降に飛躍を遂げたともいえるのだ。

 中立国スイスでは珍しい政治プロパガンダ作品であるEin Werktagの監督リヒャルト・シュヴァイツァーは、当時すでに有名な映画脚本家であり、戦後スイス映画の活躍の第一歩ともなった作品Marie-Louise『マリー・ルイーズ』によって、1945年に外国映画としては初めてアカデミー賞のオリジナル脚本賞を受賞している。物語は、クレーン操作員、トラック運転手の青年、3人の子育てをしながらレストランで働く母、失業中の老人、靴屋店員の女の子、彼ら5人の「労働者」の就労の一日を描くことから始まっている。舞台であるチューリヒの街が目覚めはじめると、まだ夜霧の湿気が残る石畳や、やわらかい逆光を受けて橋を横切る市電、朝の光に反射する川面などが描き出され、サイレント後期ドイツの都市映画『伯林‐大都会交響楽』(ヴァルター・ルットマン監督、1927年)や、あるいはソヴィエト映画『カメラを持った男』(ジガ・ヴェルトフ監督、1929年)などの影響を受けたとされるスタイルで展開していく。しかし「日々の糧」を求めて勤勉に働く彼らの一日が決して楽ではないことが次第に明かされていく。映画の後半では、字幕や具体的なグラフ、統計数値を用いてさらにこの厳しい現状を強調していく。例えば、「スイスの資産は国民1人あたり12,500フラン。しかし3.1%の納税者が公的資産の53.1%を所有する一方で、48.4%の納税者はまったく何も持たない」。この階級闘争の要素も含んだ映画は、やがて貧しい労働者たちに「団結せよ!」と呼びかけ、彼らは横断幕を持って仕事やパンを要求しながら、次第に市内を行進するデモ隊を形成していく。エイゼンシュテインの革命映画のように、あちこちからどんどん増え続ける人々の波でやがてスクリーンは埋め尽くされ、5人の登場人物もそれぞれが別々にこの行進の列へと加わっていく。そして映画は、男女平等や労働時間短縮などの公約を掲げる「社会民主党に投票しよう!」と叫ぶのである。映画の効果が実際どれほどあったのかは不明であるが、1931年の選挙で着実に得票率を伸ばした社会民主党は、1888年の創設から初めてスイスの第一政党へと躍進した。作品はもちろん一般の劇場で公開されたのではなく、現在もスイス主要政党のひとつである社会民主党の要望で、選挙活動の一手段として講演会などで上映するために製作されたのであった。

 プログラム(6)の解説が、「周知のように、労働はスイス人の美徳である」の一文で始まるように、この作品は単なる一政党のプロパガンダ作品であるだけでなく、やはりこの「スイスらしさ」も携えているといえるだろう。労働の中に真実の愛とみずからの使命を見出したアンドレ・カレルのもうひとつの公開タイトルは、La puissance du travail『労働の力』なのである。そして、映画を観終えた私たちは、階級闘争や選挙とはまったく関係がなくても、一緒に立ち上がって頑張らなければ、という気分に満たされていた。

おわりに

 イタリア国外からの観客が大半であるこのポルデノーネ映画祭に毎年やってくる常連さんは数多い。映画祭が始まると、だいたいはいつもスクリーンから同じような距離を保ち、それぞれの指定席がほぼ決まってしまう。数日がすぎれば、たとえ名前は知らなくてもお隣さんはしだいに顔見知りだらけになっている。毎回、前から3、4列目の真ん中あたりに座っていた私の周りには、スイス・シネマテークでも顔なじみの常連さんが多かった。今回の映画祭でとくに印象的だったのは、スイス・プログラム前後の彼らの反応である。日本映画特集のあった前年、映画の内容と同じくらい外国観客の反応が気になって仕方がなかった私たち自身の姿に、まるでここで再会したかのようであった。1プログラムごとに、みずから厳選してきた作品と観客の反応に対する大きな自信や小さな落胆などが、彼らの会話の輪の中に交錯するのが、ついついお隣から聞こえてくるのであった。

 さて、いよいよ今年もお祭りが終わると、遠方からの常連さんは、それぞれ友人や知人たちに「また来年」と簡単な挨拶をしながら、あっという間にサチーレの街角から姿を消していく。スイスの常連さんは、イタリアの友人に「ボローニャで」と言って去っていった。毎年、7月のはじめ頃にイタリアで開催される「ボローニャ復元映画祭」でも、彼らは常連さんなのだ。彼らはまた、「映画」のためなら国境も越えていく旅人たちである。

主要参考文献

DUMONT, Herve, Histoire du cinema suisse, films de fiction 1896-1965, Cinematheque suisse, 1987.

JAQUES, Pierre-Emmanuel, “ Cinema suisse et paysage : un parcours geographique ”, Cinema suisse : nouvelles approches, TORTAJADA, Maria & ALBERA, Francois, Editions Payot Lausanne, 2000, pp. 211-234.

PITHON, Remy, Cinema suisse muet, lumieres et ombres, Editions Antipodes & Cinematheque suisse, 2002.

“ Discovery : Swiss Cinema 1896-1931 ”, Le Giornate del Cinema Muto 2002 Catalogo, pp. 90-104.


(『映像学』第70号、2003年5月、80-87頁の初出論文を改訂。)

※文中のフランス語表記は一部アクセント記号(アクサン)を省略しています。ご了承下さい。なお、ポルデノーネ無声映画祭についての詳細は以下をご覧ください。
http://cinetecadelfriuli.org/gcm/