パラノイア/ゴシック/ヒロイン

ヒッチコック映画『レベッカ』における女性主人公のポジション

松田英男

 ヒッチコックの『レベッカ』Rebecca(1940)は、通例、パラノイア・ゴシック映画に属すると考えられている。パラノイア・ゴシック映画とは、その名の通り、精神分析で言うパラノイアとゴシック物語とが結びついたものである。この映画について見るならば、「ゴシック」の方は、女性主人公を閉じ込める古い屋敷と家系という舞台設定、先妻の謎の死、身分が高く本心の分からない男との性急な結婚という物語の外形に、根拠を求めることができる。「パラノイア」の方はどうだろうか。パラノイアとは「誇大妄想や迫害妄想を特色とするが知的減弱は伴わない機能性精神病」(1)であり、内的一貫性を持った「系統化された妄想」(2)を特徴とする病気と定義されている。それでは、この作品のパラノイアとは何を指すのか。夫が自分を愛しておらず、先妻を想い続け、結婚を後悔しているのだという「被害妄想」、玉の輿に乗った女として周囲から観察されているという「監視妄想」を指すと考えるのが、一般的なところであろう。実際、物語の展開においては、女性主人公の不安が誤解であり、治療されるべき「妄想」であることが証明されるからである。この意味では、パラノイア・ゴシック映画という分類も理解できる。最近の『レベッカ』論の主流を成すフェミニズム映画論では、このパラノイアが女の置かれた普遍的状況に由来するものとされ、病を生み出す父権制社会、さらには、女性主人公を患者として描く映画システム自体が検討されている。

しかし、この映画で「妄想」を抱いているのは女性主人公だけではない。秘密の露見におびえる夫マキシムもやはり、妻同様に、「被害妄想」、「監視妄想」にとりつかれている。さらに、彼女がシンデレラの幻想を抱いて結婚生活に入ったのに対して、夫もまた彼独自の幻想を抱いて彼女を選んだのである。この映画は、男女のカップルが互いに対して抱く幻想の展開とその帰結を描いた映画であり、両者の幻想の相互関係が中心的位置を占める映画だと考えることも、可能である(3)。実際、女性主人公の「妄想」は単独で存在しているわけではなく、男性主人公との関係において初めて成立している。二人は共に「母親像」の呪縛から逃れられずに苦しむのであり、一組の相補的な関係を形成している。本論文では、映画的物語における女性主人公の位置と同時に、男性主人公との関わりについて、分析する。


 映画は、原作同様、三つの部分から成る。最初の部分は、モンテ・カルロでの二人の出会いを扱い、『シンデレラ』的要素を持つ。第二の部分は、先妻レベッカとの比較に苦しむ屋敷での生活を扱い、夫の告白で女性主人公の誤解が解けるまでの部分である。第三の部分は、レベッカの死の謎が検死法廷に付され、最終的に医師の力で解決されるに至る、探偵物語的な部分である(4)。最初の部分における二人の関係は、両者の力関係を反映している。女性主人公は、身分、財産、人生経験に欠けるばかりか、「わたし」というだけで名前さえ与えられていない。名門の当主(George Fortescue Maximillian de Winter)として、すべてにおいて優位に立つ男は、当然のように父親的存在として振る舞う。最初の二人だけの会話で、母に先立たれた後の父との親密な関係について彼女が話し、同情を得ていることは、注目すべき事実である。一つのものへの忠実さという、彼女の父との主義の共通性を口にするマキシムは、女性主人公に対して第二の父の位置を占めようとし、彼女もそれを進んで受け入れる。

 大人になり切れない娘と父親代わりの恋人、これが最初の部分におけるこの男女の基本的関係となる。二人の恋の進展を伝えるシークェンスに挿入されたダンスのショットに見る通り、「わたし」は目を閉じ、夢に浸っている。恋人の純真さを確認するかのように見つめる男のまなざしに気づいて彼女ははにかむが、夢は続いている。ドライヴの場面における彼女の台詞は、その総決算として位置づけられる。思い出を香水のように瓶に詰めてとっておけたらという彼女の少女趣味は、忌まわしい過去を背負う恋人から修正を迫られる。互いに幻想を抱き合う二人だが、支配権を主張するのは、年齢も身分も上の男の方である。「わたしが黒いサテンの服を着て真珠の首飾りをつけた36歳の女だったら、どんなにいいでしょう」と彼女は口走る。洗練された大人の女になって世間知らずゆえの不安から解放されたいという「わたし」の理想の自己像は、未来の夫の理想とは一致しない。この場面で「わたし」は「黒いサテンの服も真珠も身につけない、36歳にならない」と約束させられる。大人にならないというこの不可能な約束には、先妻のような女にならず子供のままでいてほしいという男の願望が、隠されている。しかし、彼女は父親的寛大さを誇示する恋人に慰められ、事態に気づかない。として女主人の帰国に同行する運命の「わたし」が突然の求婚によって救われる過程は、彼女の子供っぽい一途さを印象づける。玉の輿に乗れたのは偶然と男の気まぐれのおかげであり、愛という感情以外に女に主体性はない。サスペンスを強調する演出は、結果的にその事実を強調している。

 しかし、結婚してマンダレーの屋敷に入れば、女は先妻がたどった運命の反復へと引き寄せられることになる。「わたし」は夫との関係において、「子供」の位置に留まることはできない。それは、先妻の影が屋敷を支配していることも一因であるが、真の原因は夫にある。第二の父を演ずるこの夫は、先妻の記憶によって植え付けられた恐怖を克服できないままに、矛盾した要求を課して来るからである。

 マキシムが「わたし」に新婚旅行を撮ったホーム・ムーヴィーを見せるシークェンスは、後の仮装舞踏会のシークェンスと同様、作品構造上重要な役割を果たしている。いずれのシークェンスにおいても、女性主人公は、絵の中の女性を手本に別の自分となって夫に愛されようと企て、失敗する。執事フランクから先妻が希有の美女だったと聞かされた「わたし」は、彼我の差を少しでも埋めようと、ファッション雑誌の挿し絵に似せて衣装を作らせる。しかし、このレディ然としたイヴニング・ドレスは、期待に反して夫を満足させない。それは、彼女が絶対身につけたりしないと約束していた映像、すなわち、「黒いサテンの服を着て真珠の首飾りをつけた」大人の女の映像だからである。

 洗練された一人前の女主人ではなく、慎み深い母親になることを、夫は求めている。ホーム・ムーヴィー中の「わたし」の映像に対する彼のコメント("Ah, look atyou. There! I wonder if our grandchildren would be delighted to see how lovely you were.")は、潜在的母親というイメージへの満足を、明らかに示している(5)。しかし、その母とは跡継ぎを生むだけで自己を主張しない、匿名の「わたし」のままの母であるという指摘が、必要であろう。女主人として権力を振るう母
は、彼にとって、子供を産まず夫を支配した先妻の再現でしかないはずだからである。女性主人公は先妻と同じ、男性的欲望の対象という位置を望んだが、「マキシムがそのままに残しておきたいと思っている彼女の映像」の観客の位置へと追いやられる。「ハネムーンが永遠に続いていたらよかったのに」という「わたし」のつぶやきも、召使いによって遮られる。彼女が家宝の置物を壊して隠したために、いざこざが起きていたのである。この中断は、ドーンの指摘する通り、女主人としての能力の欠如を見せつける(6)。マキシムが妻にぶつける短気な批判−"You behave more likean upstairs maid or something, not like the mistress of the house at all."−には、「真の家庭的権威と権力を持った人物」ではなくホーム・ムーヴィー中の妻の姿(映像)を求める彼の本心が隠されている(7)。過去の挫折は清算されずに、現在の欲望と結びつく。子供のままで欲望主体とならず、それでいて先妻と同じ女主人として屋敷を治めるという矛盾した要請を「わたし」が満たすことのできる場所は、「現実」にはなく、過去の記憶としての映像の中にしかない。「わたし」が男性的欲望をかき立てる女になろうとして頼るモデルもまた、雑誌の挿し絵や肖像画にしかない。女性主人公は、自分は映像にならなければ夫の欲望を満たすことができない、と自覚しているかのようである。

 「ゴシップの対象になりそうもないから結婚したんでしょう」と「わたし」が口をすべらせたとき、傷を隠す家父長の目には、彼女は、男の欲望の対象になることで権力を握った先妻と同じ攻撃的女性性の化身となる。スクリーンの反射光を浴びて「わたし」の顔の映像は断片化するが、それは、夫にとって、少女のはずの妻の内なるセクシュアリティが解き放たれ、忌まわしい断片となって浮き上がった瞬間なのである(8)。断片化された女性主人公の位置は、維持不可能である。そこで、先妻の死体の発見と検死のやり直しという、外からの攻撃が必要となる。一人前の主体、統合的人格として夫と対峙する契機をもたらすことによって、「わたし」を再構築するためである。

 「子供には気をつけてやらないと」などと言われ、「わたし」はたえず子供として扱われる。マキシムは彼女が成長しないことを明らかに願っている。仮装舞踏会を提案する妻に「不思議の国のアリス」になることを勧める彼の台詞は、暗示的である。しかし、夫と先妻の関係の「真実」を知ったとき、「わたし」は永遠の少女であることをやめる。

"I can't forget what it's done to you. I've been thinking of nothing else since it happened. Ah, it's gone forever−that funny, young, lost look I loved. It won't ever come back. I killed that when I told you about Rebecca. It's gone. In a few hours, you've grown so much older."

夫は先妻に求めて裏切られたものを、再び追い求めていた。彼が愛したのは、「わたし」の「途方に暮れたまなざし」であり、世間知らずゆえの自信や積極性のなさ、何よりも、大人としての自己の欠如という、維持不可能な特質であった。夫の真相の告白、死体の発見、検死のやり直しという事態に直面して、「わたし」は自信と責任感を持つに至り、大人として行動し始める。問題は、夫婦の関係がこの変化を乗り越えられるものかどうか、という点である。

 今は亡き女主人の奔放な性生活を擁護するダンヴァース夫人の台詞は、簡潔である。

"She had a right to amuse herself, didn't she? Love was a game to her, only a game. It made her laugh, I tell you. She used to sit on her bed, and rock with laughter at the lot of you. "

原作では、勝ち気で向こう見ずな少女時代のレベッカについての彼女の回想が存在している。それに対して映画では、レベッカという女性像の邪悪な側面だけが強調されている。娘時代の彼女については、乱脈な性行動の暗示以外は、女性像をふくらませる回想は一切無用とされる。夫婦愛の物語として物語を完結させるためには、自己愛的で、ダンヴァース夫人との関係においては同性愛的でさえある先妻を断罪し、否定的女性像として封じ込めなければならないのである。

 レベッカは、家父長制とそこに生きる男たちの欲望を笑い、挑戦する女、「笑いに備わる力と脅威」(9)を感じさせる女であり、それゆえに、過剰なまでの断罪が加えられている。マキシムの告白に集約される、「慎みもない女」という断罪。そして、「レベッカのお気に入りのいとこ」として彼女の負の面を印象づける、ファヴェルの存在がある。彼はゆすりも辞さない自堕落な放蕩者であり、レベッカの男性版として、自由な自己主張が現実世界において持つ醜悪さを、身を以て証明する。彼との子供時代からの交友(原作)、長じての愛人関係は、女主人を自分の身代わりとして崇拝する卑屈なダンヴァース夫人と共に、レベッカに道徳的堕落の烙印を押す。さらに、医師の診断がある。子宮ガンは、モドゥレスキーの指摘する通り、未婚婦人や色情狂を襲う病という俗信を利用した設定であり、レベッカへの最終的断罪として意図されている(10)

 しかし、医師による「真相」の解明の後、マキシムがフランクに言う台詞は、この笑いの脅威の後遺症を感じさせる。過剰な断罪は男性側の不安の強さを示す信号でもあるのだ−"I didn't kill her, Frank, but I know now that when she told me about the child she wanted me to kill her. She lied on purpose, she foresaw the whole thing. That's why she stood there laughing when she...."。 彼は今も将来も、この女がもたらしたショックから立ち直れそうもない。屋敷の女主人の挑発の笑いは、断崖で彼を嘲った新婚当時の彼女の笑い声(冒頭場面で男が聞いているのは、この声である)と重なり合い、響き続ける。

 レベッカの死は、原作における射殺から事故死へと変更されている。愛人ファヴェルもろとも撃ち殺すというマキシムの決意と彼女の挑発という点では同じだが、死因は異なる。死の真相について説明を求めるトリュフォーに対して、ヒッチコックは、夫の手を借りた自殺であり、マキシムも自分が妻を殺したとは思っていなかったのだとあっさり退けている(11)。マキシムがレベッカを射殺し、血の海になるという原作に対して、殴りはするが、彼女が自分でつまずいて頭を打って死に、夫は途方に暮れるというのが、映画の死の場面である。もちろん、殺人から事故死への変更は、基本的には、ハリウッド映画の主題内容に対する検閲システムである映画製作倫理規定、いわゆるヘイズ・コードによって強いられたものである。映画と「公序良俗」との共存を図るヘイズ・コードは、犯罪や犯罪者に対する共感を誘発するような描き方を、禁じていた。原作と同じ幸福な結末を描くためには、罪の償いなしの殺人など、あってはならないのである。この変更は結果的に、先妻に蹂躙されていた家父長から殺害においても主体性を奪い、運命の犠牲者という性格を強める。レベッカの生前は「取引」による沈黙を強いられ、死後も長く恐怖にとらわれてきたのが、彼であった。「真の家庭的権威および権力を持った」女には耐えられず、その対極にある無力な娘しか受け入れられないというのが、彼の現実なのである。悪い「母」を殺した彼は、所詮「母」なしでは生きられない男であり、「わたし」は新しい「母」になる。一度も名前を呼ばれることのない控えめな「母」は、この男にはいかにもふさわしい。しかし、この新しい「母」に居場所はあるのだろうか。

 女性主人公は、「母親像」との関係において論じられることが多い。先妻が母親的人物像となる理由としては、夫と屋敷の前所有者であって、支配力が今におよび、夫をとらえて放さない人物であることが、まず挙げられる。すでに世を去り夫の追慕の対象となっているがゆえに、子供時代の母親像と同様、妻には超えられない存在なのである。この点では、先妻は夫の母親に相当する。フェミニズムで強調されるのはむしろ、先妻が妻自身の母親の様相を帯びるという点である。先妻は子供にとっての母親と同じように、追いつきようのない全能者と見え、女性主人公はたえず周囲からその人物と比較される。レベッカの令名と夫の熱愛ぶりを伝えるヴァン・ホッパー夫人の言葉は、ヴォイス・オーヴァーとなって「わたし」を悩ませていた。先妻のこの完全性は、マキシムも世間の見方として認めている。この先入観が、彼女をホーム・ムーヴィーや舞踏会の場面における仮装へと走らせるのである。

 「第二の妻」である「わたし」は、先妻と違う自分を示さなければならない立場にあるにもかかわらず、先妻の絶え間ない再現に陥る。夫の屋敷における圧倒的劣位ゆえに、彼女には他の選択肢はない。さらに、先妻の身の回り品のみならず、娘時代からの女中ダンヴァース夫人まで残る環境では、彼女は否応なく先妻を意識し、手本とせざるをえない。その点でも、先妻は乗り越えられない母親的人物であり、現在の妻である「わたし」の支配権の一時的性格をも痛感させる存在となる。モドゥレスキーは「男は何を欲しているのか」という問いによって、男性的欲望に沿う形での女の自己形成の困難を強調している(12)。父権制社会において妻が置かれる位置として、「わたし」の位置にある種の普遍性があることは、否定できない。

 この映画が男性批評家ならびに観客に受けが悪いとすれば、それは一つには、この作品の「女性的精神」が理由であろう。原作に対する忠実さを重視する制作者セルズニックが、監督ヒッチコックに再現を求めた、女性小説のエッセンスである(13)。さらに言えば、マキシムという男性像の不愉快さも一因と考えられる。マキシムは悪い意味で「女性化」された人物なのである。愛妻に死なれて気が変になっていると世間(ヴァン・ホッパー夫人がその代表)から見られ、常に周囲の憶測にさらされる彼は、散歩やホーム・ムーヴィーの場面における激情の発作に見る通り、「わたし」同様監視妄想に悩まされている。配偶者の性行動に受け身で苦しみ、世間の目を恐れて離婚もできず、彼女の死後はその愛人からゆすられる。性的、感情的な面で他者からの攻撃を招きやすい(vulnerable)性格の彼は、ひどく「女性化」していると言える。勝ち気で世話焼きの姉の存在、忠実な同性の友人が私生活の細部にわたるまで把握し、支えていることも、彼を脆弱で攻撃誘発的な人物にする。レベッカとの夫婦関係は近代中産階級の家庭像を転倒したものであり、「わたし」との新生活は、伝統的家庭像の再建の試みとも言える。

 レベッカがマキシムを挑発する言葉は、父権制への抵抗と解釈される場合も多い。

"'When I have a child,' she said, 'neither you nor anyone else could ever prove it wasn't yours. You'd like to have an heir, wouldn't you, Max, for your precious Manderley?' And then she started to laugh. 'How funny, how supremely, wonderfully funny! I'll be the perfect mother, just as I've been the perfect wife. No one will ever know. It ought to give you the thrill of your life, Max, to watch my son grow bigger day by day and to know that when you die, Manderley will be his.' "

しかし、他の男の子供が偽って自分の跡を継ぐということは、単に父権制の攪乱というイデオロギー的次元だけの問題ではない。世間からは実の息子と見られながら実際には自分の血統は消滅するということであり、父権制社会における自らの位置の一時的性格を、妻である「わたし」と同様に、突きつけられるということなのである。男性主人公も自己の喪失という女性主人公の不安を共有している。観客が同一化すべき対象は基本的には「わたし」であるにせよ、夫マキシムへの同一化もまた要請されている。男性主人公に共有されることを通して、女性主人公の不安の普遍性が確認される。男性観客を呼ぶために夫の人物像が原作よりもふくらまされたという事情は別としても(14)、男女を問わず、この映画の観客が女性主人公への同一化と男性主人公への同一化との間で揺れ動き、部分的にせよ、二重同一化を経験することは確かである。

 この作品には水=海=女性性のメタファーが一貫している。マンダレーは先妻レベッカのセクシュアリティを象徴する海に隣接しており、その脅威にさらされている。そもそも、冒頭のヴォイス・オーヴァーにおいても、屋敷は海岸特有の濃霧に包まれていた。じっとりした霧に包まれた庭をバックにクレジットが流れ、夢の中の「わたし」は屋敷の中へ進んでいく。かつての車道を浸食する草木の繁茂は、文明の力に押さえられなくなった自然の姿であり、原作同様、レベッカの奔放な性を象徴している。

 ヒッチコックはこの流体=女性性のメタファーを過剰なまでに押し進めている。ヴォイス・オーヴァーが終わると物語が始まるが、最初の場面は荒波打ち寄せる断崖に立つ男(マキシム)の映像である。それはレベッカが自らの奔放な性生活を語って彼を嘲弄し、体面を繕った偽りの結婚生活を提案した場所であった。海は女性的セクシュアリティのメタファーとなり、砕ける波のショットが要所で反復される。新婚旅行から屋敷に帰った二人を激しい雨が襲う。原作にはない雨の歓迎は、窓に映る奇妙に明るい水滴模様とともに、このメタファーを強調する。先妻の愛犬に導かれ、夫の制止を聞かず浜辺に下り、白痴の男から聞かされる台詞−"She's gone in the sea, ain't she? She'll never come back no more."。苛立つ夫と和解するものの、コートのポケットから出て来るRのイニシャルのハンカチと、呼応するかのような波のショットが、和解のはかなさを告げる。

 ホーム・ムーヴィーの場面の翌日、夫の不在中、「わたし」はダンヴァース夫人からレベッカの部屋の中を、衣装、下着に至るまで見せられる。新婚時代でまだ若い夫の写真が机の上からほほえみかける中、夫人がRのイニシャルの付いた衣装ケースからレベッカのネグリジェを取り出し、手にかざす。高まる音楽が「わたし」の苦悩の原因を指し示す。それは先妻の現前であり、「第二の妻」は愛されていないという不安である。死せる女主人の帰館をほのめかす夫人の台詞は、海に面した部屋の暗い子宮的空間の中で「わたし」を無に帰する−"Sometimes I wonder if she doesn't come back here to Manderley and watch you and Mr. de Winter together. You look tired. Why don't you stay here a while and rest? Listen to the sea. So soothing. Listen to it. Listen. Listen to the sea."。直後の波頭のショットが、亡き妻に夫が欲望を持ち続けているという「わたし」の「妄想」の深まりを強調する。

 仮装舞踏会も、濃い霧の夜。追いつめられた「わたし」が引き寄せられるのも、窓下の闇を包む霧である。原作と違って、映画では、舞踏会はダンヴァース夫人に対する独立宣言("I am Mrs. de Winter now.")を受けて、女主人としての能力を証明する手段として、自らの提案で開催される。しかし、ド・ウィンター夫人として自己確立を図った彼女をあざ笑うかのように、先妻の死体が発見される。海からわき出る霧で外国船が難破し、捜索が行われた結果である。マキシムによる「真相」の告白はこの霧に包まれた浜辺の舟小屋で行われる。作品世界に遍在する水=海=女性性のメタファーは、レベッカのセクシュアリティの呪い、女性主人公にとっての先妻=母親像の現前を伝える。屋敷を包む霧となってどこからともなく現世に舞い戻って来る女。本体を見せないこの悪女の呪いが晴れることは、あるのだろうか。冒頭のヴォイス・オーヴァーの映像が示すように、回想の主体である「わたし」は、今なおその呪縛から解放されていないのではないだろうか。

 この映画の結末は、衣装ケースと縫いつけられたRのイニシャルの炎上である。それはネグリジェを入れる手製の布ケースで、ダンヴァース夫人が「わたし」に見せつけていた品である。このケースは、下着に託された濃密な女性性を華麗な外見で飾り立て、さらにイニシャルの刻印によって、妻のセクシュアリティの夫からの、否男性一般からの自由を主張する。車で帰宅を急ぐ夫妻が屋敷を包む炎を遠望するという原作の結末に対して、映画ではこの衣装ケースが炎上するショットが結末に置かれている。それは映画の物語の必然的帰結である。障害の除去と夫婦の幸福な未来の暗示は、母親的人物像を克服し成長を遂げた女性主人公という構想にとって、不可欠だからである。異性愛にも母性にも拘束されない奔放な女性的欲望、そしてその象徴としての角張ったイニシャルは、ハリウッド的な幸福な結末を保証するためには、火刑に処されなければならない。レベッカの負の部分の体現者ダンヴァース夫人の発狂と焼死は、この欲望の悪を刻印し、その滅亡を確認するものとして付加されている(15)。べーカー医師訪問から帰ったマキシムが、燃える屋敷を前に「わたし」をかき抱く。呪いは解かれ、自己のない「わたし」がド・ウィンター家の永続を保証するという幻想が、物語を完結させる。

 女性映画には心を病む女性主人公の治療を扱う下位ジャンルが認められるが(16)、この作品でも、同様に、医師による診断が真実を最終的に明らかにする権威を与えられている。ベーカー医師だけが、検死法廷の下した自殺という結論を、「確
認」(confirm)しうる。子宮ガンという身体上の診断のみならず、医師は、精神上の「診断」をも下す。そして、夫の手を借りた「自殺」という点で、「診断」はあたってもいる。

Dr. Baker: You want to know if I can suggest any motive as to why Mrs. de Winter should have taken her life. Yes, I think I can. The woman who called herself Mrs. Danvers was very seriously ill.

Maxim: She was not going to have a child?

Dr. Baker: Oh, that was what she thought. My diagnosis was different. I sent her to a well-known specialist for an examination and X-rays, and on this date she returned to me for his report. I remember her standing here holding out her hand for the photograph. "I want to know the truth," she said. "I don't want soft words in a bedside manner. If I'm for it, you can tell me right away." I knew she was not the type to accept a lie. She'd asked for the truth. I let her have it. She thanked me. I never saw her again, so I assumed....

Maxim: What was wrong with her?

Dr. Baker: Cancer. Yes, the growth was deep-rooted. An operation would have been no earthly use at all. In a short time, she would have been under morphia. There was nothing that could be done for her, except wait.

未婚時代から通っていた婦人科医が下すこの診断は、医師本人の意識とは無関係に、レベッカの乱脈な生活ぶりに対する道徳的断罪となる。夫妻とフランクはそう受け取っているはずだし、彼女の勇気に対する賞賛の可能性は留保するとしても、観客も基本的にはそう期待されている。この病気は、夫以外の男の子供を宿そうとした女の道徳的逸脱に対する神の裁きとして、サスペンスが絶頂に達した瞬間に自らを明らかにする。この場面は、マキシムがレベッカの死の晩について語る場面−カメラが不在の女の動きをたどり、女が記憶の中の映像として復活せしめられ、道徳的断罪を加えられる場面−の、形を変えた反復である。あの場面における男性主体は、亡き女の力のみならず、法の権威におびえる脆弱な主体であった。ここで男性主体は、医学=法廷という個人を超えた権威を借りて、女を断罪する。医師の家を後にしてフランクが口にする "Thank heaven we know the truth."という台詞は、医師に託された権威を物語る。男たちが納得するばかりか、ダンヴァース夫人までもが、女主人が病気を隠して自殺したという「真実」の重みに絶望し、狂気の焼死を遂げる。

 しかし、医師は物語にとって所詮外的権威にすぎないことも忘れてはならない。家父長には有効な断罪は不可能なので、医学的=法的権威が呼び出されたというのが実体ではないのか。断罪によって存在意義を与えられる第二の妻は、自己主張を貫いた先妻との比較を免れない。マキシムの告白の場面である。

"I": How could we be close when I knew you were always thinking of Rebecca? How could I even ask you to love me when I knew you loved Rebecca still?

Maxim: What are you talking about? What do you mean?

"I": Whenever you touched me, I−I knew you were comparing me with Rebecca. Whenever you looked at me or spoke to me or walked with me in the garden, I knew you were thinking, "This I did with Rebecca−and this−and this." Oh, it's true, isn't it?

Maxim: You thought I loved Rebecca? You thought that? I hated her! Oh, I was carried away by her, enchanted by her as everyone was. And when I was married, I was told I was the luckiest man in the world. She was so lovely, so accomplished, so amusing. "She's got the three things that really matter in a wife," everyone said, "breeding, brains, and beauty." And I believed her−completely. But I never had a moment's happiness with her. She was incapable of love, or tenderness, or decency.

"I": You didn't love her. You didn't love her....

告白のこの時点では夫が先妻を殺害したとしか思えない状況であるにもかかわらず、女性主人公には、夫が先妻を愛していなかったという事実以外は、目に入らない。先妻の断罪は周囲による比較の苦しみからの解放であり、願望の実現なのである。かつてフランクから言われた慰めの言葉−"You have qualities that are just as important, more important, if I may say so. Kindliness and sincerity, and if you'll forgive me, modesty, mean more to a husband than all the wit and beauty in the world."−が真実となり、「育ちのよさ、頭のよさ、美しさ」が「思いやり、誠実、慎み」の前では無価値であると証明され、「わたし」の自己同一性を保証する。直後の彼の言葉、彼女をホーム・ムーヴィーの場面における惨めな仮装に駆り立てた、レベッカが希有の美女だったという台詞は、男性的欲望の対象となることを積極的に求めた女の道徳的破滅の前に、無意味なものとなる。

 ド・ウィンター夫人となった「わたし」が直面する困難はすべて誤解に起因するというのがこの物語の表向きの論理であり、当時の「わたし」の認識である。しかし、先妻の運命の反復への恐怖は、確実に胚胎している。女性主人公が幸福な結末を享受
した(と思い込んだ)としても、作品全体は別の醒めた次元を示唆している。"Ihated her!"という夫の言葉を聞いて、先妻の殺害が自分にとって持つ潜在的脅威を意識せずに歓喜の忘我状態に陥る「わたし」の表情のクローズアップは、先妻とは対照的な新妻の愚かしさを伝える。男の愛情にすべてを依存する立場の困難が露呈し、彼女をあざ笑うダンヴァース夫人が正当性を持ち始める。先妻からの独立宣言をした直後に、帰宅した夫にいきなり抱きつく彼女は、「主人」の愛犬と変わらないからである。夫の立場に無条件に同情し、先妻の死についても、本人の供述でさえ殴打からの転倒、頭部強打という疑わしい状況であるにもかかわらず、事故と断定し、無実を保証する「わたし」。夫の積極的協力者=共犯者となる、家父長と同一化した自己のない「わたし」には、舟小屋を包む霧の闇の外に、どんな未来があるのだろう。女性主人公のヴォイス・オーヴァーが物語を伝達する原作とは違い、彼女の映像に焦点を合わせとせざるをえない映画メディアは、女の位置の矛盾を暴露する。「わたし」を希有の美女が演ずることで観客が甘美な同一化へと誘われたとしても、事態に変わりはない。

 物語全体を女性主人公の性幻想の表現と解釈することも、可能である。配偶者に対して劣った不安定な地位に置かれ、周囲から迫害されるものの、一切が誤解であり実際には夫は自分だけを愛していたことが判明する。それも自らの愛の力によって、夫の愛の確認が得られる。絶望した夫を母親のように独占的に愛し、包み込むという状況。夫の権力を具現する屋敷の消滅(17)。それは明らかに「わたし」にとって理想郷であり、甘美な愛のテーマがふさわしい。その意味では、この種の物語の始祖であるJane Eyre(1847)を連想させる結末とも言える。ただし、夫にとっては大きな問題がある。それは、妻が危険な秘密を握っているという事実である。先妻レベッカは、偽りの結婚生活という、家父長にとって世間から隠すしかない秘密を武器にしていた。ここで第二の妻は、父権制の土台たる「法」によって家父長自身を葬り去りかねない危険な秘密を、握ったのである。先妻がおぞましい母親的人物像であったとすれば、「わたし」は第二の母となり、潜在的恐怖の対象となるはずである。夫が再び暗い殺意を抱いても不思議はない。この映画が必ずしも幸福な結末という印象を与えないのは、そのあたりにも原因があろう。

女性主人公は、愛の力によって夫との関係を再構築する。しかし、二人の関係を支えるのは、夫の無力と妻の母親的役割である。それは、幼妻と父親的な夫という当初の関係を転倒したものであり、一方的依存の危うい関係であることに変わりはない。父と娘が母と息子に置き換わっただけなのである。女性映画におけるこの愛は、同時代の男性的ジャンルであるフィルム・ノワールにおいて愛が占める位置と、比較を免れない。そこでは、愛がすべてという女の主張は実は罠で、愛は権力闘争の道具の一つにすぎない。この映画では悪女が画面に登場しないため、直接的な比較を免れるものの、ファム・ファタールの系譜をひく先妻の不可視の遍在は、女性主人公の愛の論理の絶対性を切り崩し、彼女が切り開くべき新たな人生をも、男女の終わりのない権力闘争の一部として位置づける。そして、この夫婦の妄想の霧も晴れることはない。なぜなら、妄想はこの男女の欲望のあり方そのものだからである。「わたし」も「あなた」(マキシム)も、映像の呪縛から、内なる海から逃れることはできない。執拗に海=女性性の結びつきを強調する不吉な映像は、恋愛物語における愛の論理を相対化するとともに、結末の有効性を疑問に付す。それは、原作の忠実な映画化を求める制作者の圧力を前に、「映画的(映像的)」要素を追求したヒッチコックの抵抗の刻印なのかもしれない。

(1)Charles Rycroft著、山口泰司訳、『精神分析学辞典』(河出書房新社、1992)、171頁。

(2)J.Laplanche、J.B.Pontalis著、村上仁(監訳)、『精神分析用語辞典』(みすず書房、1977)、381頁。

(3)例えば、Ed Gallafent, "Black Satin: Fantasy, Murder and the Couple in Gaslight and Rebecca ", Screen 29, no.3(Summer, 1988): 84-103がそうしたとらえ方をしている。

(4)この標準的な区分を整理しているのが、Don Ranvaud, "Rebecca," Framework,no.13(Autumn, 1980): 19-24。

(5)Gallafent, 95参照。

(6)Mary Ann Doane, The Desire to Desire: The Woman's Film of the 1940s(Indiana University Press, 1987), p.163. 邦訳、松田英男監訳、『欲望への欲望−1940年代の女性映画』(勁草書房、1994)、260-61頁。

(7)Gallafent, 95.

(8)ドーンは女性の映画鑑賞という観点から、このシークェンスを詳細に分析している。Doane, pp.163-66. 邦訳、257-63頁。

(9)Tania Modleski, The Women Who Knew Too Much: Hitchcock and Feminist Theory(Methuen, 1988; reprinted by Routledge, 1989), p.54. 邦訳、加藤幹郎他、『知りすぎた女たち−ヒッチコック映画とフェミニズム』(青土社、1992)、
118頁。

(10)Modleski, p.53. 邦訳、117頁。

(11)Francois Truffaut, Hitchcock(New York: Simon & Schuster, 1967; third edition, 1984), p.129. 邦訳、山田宏一・蓮實重彦、『映画術』(改訂版)(晶文社、1990)、118頁。

(12)Modleski, p.50. 邦訳、111頁。

(13)Modleski, pp.43-44. 邦訳、96-97頁。

(14)Karen Hollinger, "The Female Oedipal Drama of Rebecca from Novel to Film", Quarterly Review of Film and Video, 14, no.4(1993), 19.

(15)Modleski, p.53. 邦訳、117頁。

(16)Doane, p.36. 邦訳、56-57頁。

(17)原作では夫妻は大陸でホテルを転々とする流浪生活をしており、根無し草として心的外傷に苦しむ夫に対する「わたし」の優位は一層明確である。ダンヴァース夫人も生きており、夫の悪夢は続いている。Hollingerは、原作と映画との間の結末の変更を、父権制的異性愛への女の参入に伴う困難という観点から、検討している。 Hollinger, 25-28.

(『京都大学総合人間学部紀要』第5巻(平成10年)の初出論文を改訂)