カール・ドライヤーの発見に向けて

大沢浄

 2003年はカール・ドライヤーの年だった。全ての長篇14本とほとんどの短編7本が一挙に上映されたのだ。東京以外では上映作品数が減少されてしまったことが何とも残念ではあるが、ともかく一大事件と呼ぶにふさわしい壮挙だった。これまでは日本に居住している限り、ごく限られた劇場での上映機会に巡りあわせるか、テレヴィの衛星放送や海賊版を元にした市販ヴィデオ等で数本のドライヤー作品を細々と追いかけるほかはなかった。しかし、今回ようやく見ることのできたその圧倒的な映画群は、そうした個人的な積み重ねを一瞬のうちに粉砕し、全く未知の相貌を披露した。目を疑うとは、まさにこのことである。作品はいずれも考古学的な斬新さに満ちた傑作ばかりで、サスペンスとスピードが、メロドラマと喜劇が、そして洗練と野蛮とが混交していた。それぞれの作品は一度きりしか見ていないため、ここで詳細な分析をするゆとりはないが、その衝撃の一断面を文字に定着させるべくここに簡単な報告を綴りたい。


過激なる通俗作家ドライヤー

 ドライヤーと言えば、彼の最後のサイレント映画『裁かるるジャンヌ』(1927)が代表作ということになっている。他の作品がほとんどまともに紹介されてこなかったのだから当然と言えば当然なのだが、確かにこれは他に類を見ない異様な映画である。周知の通り、映画のほとんどの場面はジャンヌ・ダルクが捕らわれているルーアンの獄中や教会などの室内で進行していく。一見するとそこで生起しているのは、あらかじめ決められた結論に向かって追い込んでいく異端審問官たちを前にして、ジャンヌの「内面」が動揺していくドラマであるかのように見える。しかし実際の画面は、そのような「内面」の成立を不可能にしている。場面提示ショットの不在やクロースアップの多用、視線の不一致等で有無を言わさずに進んでいく画面の連鎖は、その中で振舞う人々の見る/見られるという関係を保証しない。確かなのは、パンクロマチック・フィルムによって画面に高解像に定着したジャンヌの顔が、目を見張ったり、かすかに眉を上下させたり、口を半開きにさせたり、泣いたりしながら刻々と変化していくことだけであり、われわれは、ジャンヌが何を「考えている」のかさっぱりわからない。もちろん、「内面」が不可能だというまさにそのことによって、語り得ない至高の存在が否定的に浮かび上がってくるのだという解釈も成り立つかもしれない。これによって『裁かるるジャンヌ』は、単に主題としてだけではなくテクスト編成の総体として「信仰」を体現することに成功した「聖なる」「奇跡の」映画作品になり得ているのだ、と。しかしわれわれは、今回(日本では二度目に)上映されたオリジナル版[1]によって明白になった、この映画の持つ過激な通俗性を見落としてはならないだろう。この通俗性は、映画の最後において露呈する。ジャンヌが火刑に処せられるという知らせが広まるやいなや民衆が蜂起し、武装してルーアンの町を襲う。火刑の場面と並行モンタージュによって進行していくこの大活劇は、垂直や水平の運動、俯瞰や仰角のコンビネーション等の空間的分節が反復したリズムを形成し、エイゼンシュテインや伊藤大輔、ジャン・グレミヨンらが同時代に達成しつつあった視覚的な探究をほとんど凌駕する。しかしより重要なのは、この一大スペクタクル場面が、これまでわれわれを魅了するとともに異和を与え続けてきたジャンヌが焼滅していくのと同時に出現するということだ。画面から消えゆく主人公の存在を埋めるかのように、善と悪との戦いが、つまりは人間の領域における葛藤たるメロドラマが出現するのだ。『裁かるるジャンヌ』が真に異様であるとすれば、このラストを含めた全体の構造においてでなくてはならない。そこには、顔の強度によって同一化を拒否する非ドラマを画面の運動の組織化によってエモーショナルなドラマに引きずりおろす、過激なる通俗映画作家が存在する。

運動=情動としてのグリフィスの影

 実際、ドライヤーのサイレント映画はそうした運動が生み出す情動性に満ちている。ユダヤ人虐殺を扱った長篇第4作『不運な人々』(1921)は、その生々しい暴力描写においてエイゼンシュテインやプドフキンを先取りする恐るべき映画だが、映画の最後で危機に陥った女性主人公は、疾走する列車に乗って駈けつけた恋人によって、ぎりぎりのところで救出される。また長篇第8作『グロムダールの花嫁』(1925)でも、急流に押し流された主人公が、すんでのところで命拾いする。さらに長篇第2作『サタンの書の数ページ』(1919)の第4話ラストにさしかかると、われわれは「やはり」という思いを強くする。銃殺されようとしている男性を若い女性兵士が単身手榴弾を持って助け出し、純潔を守って自死しようとしている女性をトロッコに乗った兵士の一団が救い出す。ここでも「ラスト・ミニッツ・レスキュー」が力強く展開するのである。そう、この映画がグリフィスの『イントレランス』(1916)に想を受けて製作されたことに明らかなように、ドライヤーはグリフィス映画の衝撃を他の誰にもまして強く受け止めた映画作家なのだ。それは単に作品の物語構成を模したり、長篇第10作『吸血鬼』(1930-31)のラストにおいてグリフィスの『小麦の買い占め』(1909)のアイディアを模倣したというようなレヴェルに留まらず、複数の運動ヴェクトルの掛け合わせによってわれわれの情動を揺さぶり同一化を促すという、物語映画の決定的な「起源」とも言うべき話法のレヴェルにおいてなされている。例えば長篇第1作『裁判長』(1918)後半のクライマックスは、画面内の事物の激しいアクションを欠いているにもかかわらず劇的である。主人公=裁判長が死刑囚の娘と共に町から馬車で逃亡するというその場面は、音を立てぬよう静かに移動する馬車と、それとは知らず門に立つ見張りとを、的確としか言いようのない画面の連鎖で提示し、サスペンスを出現させる。また長篇第11作『怒りの日』(1942)では、森や小川を移動する恋人たちの水平方向の運動が、垂直的な秩序から逃れる束の間の甘美なひとときを映し出す。ドライヤーによってわれわれは、所与のものとして受け入れてきた映画の、考古学的起源とでも言うべき存在への遡行を余儀なくされる。われわれはグリフィスもまた、ほとんど未知の映画作家であることを思い知らされるのだ。

再び、顔へ

 グリフィスが、リリアン・ギッシュの恐怖にひきつる顔や絶望に引き裂かれる顔をクロースアップで提示することにより、映画における人物の顔そのものを新たに作り直したことはよく知られている。それは知覚におけるショックであると同時に、メロドラマにおいて発生する情動を受け止める両義的な貌(かたち)として存在する。グリフィスのメロドラマ映画における顔がそのような両義性に彩られているとすれば、ドライヤー映画における顔には、ある変更が加えられていると言えよう。それは、とりあえずは男の顔だと言える。もちろんドライヤー映画においてもメロドラマ的境遇にある女性の顔は魅惑的だ。長篇第7作『あるじ』(1925)であるじに虐げられる妻の顔、『怒りの日』で義理の息子と惹かれ合い魔女の烙印を押される若妻の顔等々。しかし『裁判長』における裁判長の顔、長篇第6作『ミカエル』(1925)における壮年画家の顔を目の当たりにして、われわれは言い知れぬ衝撃を覚える。それは表情を極度に抑制され、視線も移ろわず、必要最小限の身体アクションと一体となった顔であり、実の娘を裁くことになってしまった苦悩や若い画学生への愛と嫉妬といった物語的文脈には到底収まりがつかない顔である。階級や身分といった文化的記号を示す顔ではなく、また内面を押し殺した無表情という意味を担わされた顔でもなく、読み取り尽くすことのできない余白そのものとしての顔。少しも過剰ではない彼らの顔において、メロドラマは宙吊りにされる[2]。ここにおいてドライヤーは、再び通俗から身を引き剥がす。そして先にとりあえずと述べたように、男か女かという区別は実は本質的ではない。それが分かるのは、遺作『ゲアトルーズ』(1964)においてである。主人公女性ゲアトルーズは、ただ愛が大事なのだと語り続け、長年連れ添った夫と別れ、年下の若者に接近する。微動だにしないその顔は、まるで愛が決して視線や表情といった顔の変化の問題ではないことをわれわれに告げているかのようだ。そして彼女のかつての恋人である詩人が、脈絡もなく突然彼女の元に突っ伏して静かに泣き出す時、彼女はそれを黙って受け入れるだろう。ここでは、一体何が起きているのであろうか。筆者はまだ、それを分節化する言葉を持ちえていない。われわれは映画における顔(そして身体)の魅惑について、いまだによく分かっていないのだ。とりあえずわれわれは、その画面をありのままに肯定することから始めなくてはならないだろう。カール・ドライヤーの(そして付け加えるならばグリフィスの)映画への探究は、今まさに始まったばかりである。

[1] 『裁かるるジャンヌ』のヴァージョンの歴史的変遷については、小松弘「歴史と真実」(『シネティック』2号、洋々社、1995年、48−87頁)を参照のこと。

[2] この意味においても、『裁かるるジャンヌ』のジャンヌの顔は特異である。ジャンヌもまた余白=顔として実現されているが、それは無限の変化を示す(メロドラマ的ではない)過剰さとして現前する。