書評
映画スタイルの歴史編纂の見直しとその意義
David Bordwell, On the History of Film Style (Harvard University Press, 1997)
デイヴィッド・ボードウェル『映画スタイルの歴史について』

梅本和弘、音上修子、ガン・ショウフイ、北浦寛之、
大傍正規、田崎亜弥、羽鳥隆英、森村麻紀

はじめに
 本書評はデイヴィッド・ボードウェルの『映画スタイルの歴史について 』On the History of Film Style(Harvard University Press, 1997)をいささか仔細に検討するものである。巻頭言「Ala combriccola di Pordenone ([本書を]ポルデノーネの陽気な仲間に[捧げる])」が示すように、本書はポルデノーネ無声映画祭に見られるような非古典的な初期映画を中心とするフィルムの発掘・修復・保存・上映・研究を受けてなされた仕事である。そういう意味で本書は、タイトルにあるように「映画スタイルの歴史」ではなく、「映画スタイルの歴史に ついて ( ・・・ ) 」書かれた自己省察的なものであり、著者は自著も含めて、これまでの映画研究のなかで、映画スタイルの歴史がどのように書かれ、研究されてきたのかを丁寧に検証する。また本書最終章では歴史編纂/研究における問題点を整理しながら、著者はケース・スタディとしてみずからの映画スタイルの歴史編纂/研究の再規定を試みている。その意味で本書は、従来の映画スタイルの歴史編纂/研究への異議申し立てとして書かれたものといってよい。本書によって読者は、(著者のケース・スタディも含む)これまでの映画スタイルの歴史編纂/研究を概観し、映画学の方法論やこれからの映画学について(再)考察するための大きな展望を得ることができるだろう。(森村麻紀)

第1章 「映画スタイル――その歴史の意義」.
 本書導入部である本章は「映画スタイルの歴史」に明確な定義をあたえ、本書における著者の目的を明らかにする。そのために著者は、冒頭に複数のイメージを提示することからはじめる。これらのイメージは、さまざまな年代(1907年、1913年、1919年、1949年、1960年、1970年)に、さまざまな場所(英国、アメリカ、デンマーク、中国、フランス、旧ソ連コーカサス地方[現グルジア])で製作された複数のフィルムから、その一齣を拡大したフォトグラムである。提示された複数のイメージを比較すると、それぞれに「差異」(ワンショット/複数ショット、平面的構図/立体的構図、接写/遠写、時空間の連続性/非連続性)と「類似」(たとえば1907年の作品に見られる、カメラから離れたところに複数の人物を「物干し竿」に干した洗濯物のように横に並べるのと同様の空間構成が、1971年の作品にも見られることなど)があることに気づかされる。われわれがあるイメージとあるイメージとのあいだに「差異」を感じるのは、ある時代/場所/映画作家のイメージのパターンが、別の時代/場所/映画作家のイメージのパターンには見られない(いいかえればイメージのパターンが変化している)からであり、「類似」を感じるのは、ある時代/場所/映画作家のイメージのパターンやそれを生みだす技術が、別の時代/場所/映画作家のイメージに継承(持続)されているからである。われわれは本章の冒頭に提示された複数のイメージを見て、それぞれのイメージのパターンの変化や、あるイメージのパターンの持続に気づかされる。つまり、われわれは映画のスタイルには当然、歴史があることに気づかされ、映画スタイルの「歴史」とは、映画スタイルのパターンの変化と持続であることを確認する。つぎに著者は「映画スタイル」とは何かを定義する。著者によれば「映画スタイル」とは、狭義において、映画というミディアムの技術が体系的に、そして有意義に使用されることにより生みだされるものである。その技術とは、ミザンセーヌ(人物や事物の配置、照明法、演技、場面設計)、フレーミング、焦点、色調の制御、そのほか撮影に関わること、編集、音響の技術である。さらに換言すれば、「映画スタイル」とは、ある特定の歴史状況において、映画作家がそれらの技術を選択した結果として生成されるフィルムの映像と音響の織りなすもの(テクスチュア)である。それゆえ「映画スタイルの歴史」とは、そうした映像と音響のテクスチュアの変化と持続である。著者は従来の「映画スタイルの歴史」を検討するにあたり、歴史編纂(あるいは歴史研究)はいかにおこなわれるべきかを問う。それに対して著者は、映画スタイルの歴史家は二つの問い――(1)いかなる映画スタイルの変化あるいは持続のパターンが重要なのか? (2)映画スタイルのパターンの変化や持続はどのように説明されるのか?――を設定し、それに答えるかたちで映画スタイルの歴史編纂/研究につとめるのが妥当なのではないかと述べる。著者は、映画スタイルの歴史編纂/研究における方法論の妥当性を、次章以降でおこなわれる従来の映画スタイルの歴史編纂/研究の検討から見出していくことになる。このように本章のはじめから映画スタイルの歴史編纂/研究方法を提案しようとする著者は、すでに1980年代から、意味よりも形式を重視するロシア・フォルマリズムの概念や方法論を応用した映画スタイルの研究(たとえばDavid Bordwell, Janet Staiger, and Kristin Thompson, The Classical Hollywood Cinema: Film Style and Mode of Production to 1960  [Columbia University Press, 1985])を開始し、それ以降も独自の映画スタイル研究を築き上げてきた。また著者のスタイル研究開始時期とほぼ同時期から、修正主義者による映画スタイルの歴史研究もおこなわれていた。著者は、この修正主義者による研究を魅力的であると評価する(と同時に第5章では批判もおこなう)。修正主義者は、包括的な映画スタイルの変化や持続(=スタイルの歴史)ではなく、研究対象期間を短期間に設定し、その間の映画スタイル変化や持続の因果関係を解明してきた。この研究が魅力的なのは、修正主義者が研究対象期間を限定して小規模な調査をおこなったからではなく、自身の設定した問いに対して説得力のある答えを導きだしているからであると著者はいう。映画スタイルの歴史編纂/研究は、著者や先述の修正主義者によって開始されたのではなく、1920年代からすでにおこなわれていた。著者によると、1920年代からおこなわれてきた映画スタイルの歴史編纂/研究の大部分は評価できないものにせよ(その理由は次章以降で詳述される)、それらは多大な影響を及ぼしてきた。たとえば映画スタイルの歴史家は、正典――『月世界旅行』(1903)から『大列車強盗』(1903)、『戦艦ポチョムキン』(1925)、『市民ケーン』(1941)、『勝手にしやがれ』(1960)などの重要作品一覧表――をつくりだし、正典における「重要作品」は、映画学の講義で教えられ、フィルム・アーカイヴで特集上映され、テレビ放送、レンタルビデオ、音楽伴奏付き無声映画上映会などの催しによって普及してきた。今日、さまざまなミディアで流通する「重要作品」の多くは、映画スタイルの歴史家の考察によってもたらされたものである。またこの正典は、映画製作にも影響をあたえてきた。たとえば1920年代以降、監督や脚本家は、自意識的にこれまでの映画スタイルの慣習を参照することによって自身の作品の定義づけが可能であると認識してきたし、マーティン・スコセッシやフランシス・F・コッポラは、みずからをヌーヴェル・ヴァーグの後継者と任じてきたし、クエンティン・タランティーノは「スタイルのブレイクスルー」と賞讃されたフィルム・ノワールやジャン=リュック・ゴダールの作品をレンタルビデオ等で体験してきた。このように1920年代からおこなわれてきた映画スタイルの歴史編纂/研究はさまざまに影響を及ぼしてきたが、前述したように著者によれば、その編纂/研究の大部分は評価し難いものである。しかし注目すべきなのはそのことではなく、映画スタイルの歴史家が、映画に関する重要事項をつかんでいることであるという。その重要事項とは、スタイルこそが映画体験を形成するということである。たいていの観客は、プロットやジャンル、あるいは主題に夢中になって映画を見ているのだと感じているかもしれないが、映画体験はフィルムに付随している映像や音響によって決まる。映画作家の観点からいえば、映画のスタイル(映像と音響のテクスチュア)こそが、観客がエモーションを獲得するミディアムを構成するのである。スタイルは、脚本を美しく飾るためのものではなく、映画作品の中枢なのである。したがって著者は、スタイルの変化や持続を考察することなしに十分な映画理論研究はあり得ないといい、スタイルの変化や持続(=スタイルの歴史)編纂/研究の重要性を主張するのである。そして映画スタイルの歴史編纂/研究方法が再度提案される。それは著者がすでに述べた方法に新たな方法を加えたものであり、先に著者が指摘した修正主義者による研究の魅力と同様に、問いを掲げ、それに答えるという形式をとる。つまり以下の問い――どのように、そして、なぜ、ある映画スタイルの構成要素は変化/安定したのか? 映画作家や観客にとって、映画が効果的に作用する方法とは何なのか?(映画作家が観客にエモーションを効果的に獲得させる方法は何か?)――に答えることが、映画研究者にとって重要であると著者は強く主張する(より具体的な映画スタイルの歴史編纂/研究方法が第5章の終わりで提案され、それが最終章で実行されることになる)。本章ではこのように映画体験を形成する映画スタイルが、なぜ変化したり持続したりするのかという問いに答えること、つまり映画スタイルの歴史編纂/研究の重要性が繰り返し述べられるが、それこそが著者の立場を表明するものである。それゆえそこには適切な映画スタイルの歴史編纂/研究がおこなわれなければならないという著者の意図が感じられる。その意図を実行するためにも、まずはこれまでの映画スタイルの歴史編纂/研究の見直しがおこなわれるべきであるという主張が本章で掲げられ、次章以降でこの主張が実行されることになる。しかしここでひとつ問題にしたいことがある。著者も本章の最後で断っているように、本書が映画の音響についてはとりあげていないことである。著者が定義する映画スタイルとは、フィルムの映像と音響のテクスチュアであったが、スタイルを形成する要素の半分が考察の射程に入れられていないことはかえすがえす残念なことである。それでもなお本書が必読書たりうるのは、本書において、少なくとも映像に関する従来の映画スタイルの歴史編纂史/研究史が精査され、そのさいの歴史編纂の問題点が探査されたうえで方法論の見直しがはかられているからであり、そのことによって読者は、映画史とは何か? 自分自身の映画体験の背景にあるものは何か? そして映画研究の方法論とは何か? ということについて考える機会を提供されることになるからである。(森村麻紀)

第2章「第七芸術を擁護し、定義すること――映画のスタイルに関する歴史のスタンダード・ヴァージョン」
 本章において著者は、複数の映画評論家によって第一次大戦後に打ちたてられた「芸術」としての映画という正典の形成過程をサイレント期からトーキー初期にかけてたどり直している。ここにはじまる三つの主要なリサーチ・プログラム(?スタンダード・ヴァージョン[The Standard Version]?バザンの弁証法的プログラム?バーチの対抗的プログラム)の(再)検討は、映画のスタイルを映像と音響のテクスチュアとしてとらえながらも、フィルム全体の構造/意味を軽んじてきたという反省のもとに書かれた近著(David Bordwell, Figures Traced in Light on Cinematic Staging[University of California Press, 2005])まで連綿と引き継がれている。著者によれば、映画を経験するということは、フィルムが織りなす時空間の連続的な諸関係に触れることである。すなわち、ある瞬間、もっとも重要なことに気づかせるために映画作家が演出した空間的布置をわれわれが体験することである。もちろん、そこで生起する空間の深さの印象は、単一視点をもつカメラの遠近法的な投影によって生起するものであり、日常的出来事の反復としてのリアリティとは無縁の事象である。しかしながら、動くイメージが、アニメーションのセルに描かれていても、コンピュータ・プログラムによって設計されていても、イメージはわれわれの眼と心を動機づける。すなわち、われわれはスクリーン上のイメージの軌跡が描き出すパターン/文脈/空間における配置を追跡することで、エモーションを獲得するのである。こうして認知主義的映画学に裏打ちされた数多くのフィルム体験を梃子にして、前述の三つのリサーチ・プログラムが前提としている構造主義的映画学やポストモダニズム映画学といった硬直した制度的思考を著者は批判してゆくのである。映画のスタイルに関する歴史的研究の出発点にあった「基本的物語」は、今日的視点から見ればいかにも問題含みである。映画が日常の出来事を記録することから離れて、芸術表現の手段として利用されるというこの「大きな物語」は理論的にも思想史的にも、著者によって幾度となく問いただされてきた(David Bordwell, Making Meaning: Inference and Rhetoric in the Interpretation of Cinema [Harvard University Press, 1989], David Bordwell and No?l Carroll, eds., Post-Theory: Reconstructing Film Studies [University of Wisconsin Press, 1996]. じっさい前者は本書の姉妹編として、後者は本書の後編として読める)。にもかかわらず、日常の出来事の記録としての(当然、のちにはそれが演出であることを指摘する修正主義者が存在するのであるが)ルイ・リュミエールの『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1897)や、ジョルジュ・メリエスの幻想的映画、エドウィン・S・ポーターの『アメリカ消防夫の生活』(1903)などにはじまる映画史の誕生‐成熟‐衰退という抽象的で、生物学的(進歩史観的)なモデルが素朴に継承されつづけてきた。この「大きな物語」の受容の問題は、映画研究者や今日のフィルム・アーカイヴにおける特集上映などによって徐々に解消されつつある。しかしながら、それにもまして本章が興味深いのは、映画史上最初の傑作とされるグリフィスの『国民の創生』(1915)の登場を待っていよいよ本格化する素朴な進化論的モデルの背後に、映画雑誌やフィルム・ライブラリーやシネ・クラブの誕生が(19世紀以来、西欧において醸成されてきたナショナル・アイデンティティの形成過程とともに)あるということが明らかにされていることである。じっさい、ある時期のスウェーデンをヴィクトル・シェストレムで表象し、フランスをアベル・ガンスやマルセル・レルビエらで表象/代表させること、あるいはドイツを表現主義で表し、ソヴィエトをモンタージュに還元することによって、国家間の相違に言及することが映画史上重要な役割を果たした時期があった。映画産業(供給側)のカタログや業界誌などの定期刊行物は、1900年代から1910年代のあいだに発刊され、映画ジャーナリズムは1920年代に激増した([例]フランスCinea[1921創刊]、ドイツFilmwoche[1923創刊]、オーストリアFilmtechnik[1925創刊]、ベルギーCamera[1932創刊]、スコットランドCinema Quarterly、イングランドSight and Sound[1932創刊]、Film Art[1933創刊]、アメリカCinema Art[1923創刊]、Movie Makers[1928創刊]、Experimental Cinema[1930創刊]など)。また主要都市の映画協会やシネ・クラブによって支えられた無声映画に美学的要素を求める姿勢は、1920年代に隆盛し、世界最初のフィルム・アーカイヴの設立につながるシネ・クラブの運動は、1930年代半ばに具体的な成果を見せはじめる(シネマテーク・フランセーズ[1936]、近代美術館附属映画図書館[Museum of Modern Art Film Library][1935])。この事実は、著者が本章の後半部においてとりわけ強調する、なぜ、この時期にサイレント映画の開花という基本的物語/スタンダード・ヴァージョンが流布したのかという問題への解答となるだろう。さらに、このような問題の先に進むべく、著者は、いかにあるシークェンスが他のシークェンスと対照性をみせるのか、あるいはそれ以後のシークェンスといかなるパターンを形成するのか、という経路をたどることによって映画のスタイルに関する歴史を記述し直すことになる。(大傍正規)

第3章「第七芸術に対抗して――アンドレ・バザンと弁証法的プログラム」
 第2章を通じて、サイレント期からトーキー初期にかけて執筆活動を展開した評論家たちの映画史観を整理した著者は、続く本章において、トーキー映画が一般化した1940年代前後から第二次世界大戦後にかけての、映画史についての思想的変遷を探っている。第2章が「第七芸術を擁護し、定義すること――映画のスタイルに関する歴史のスタンダード・ヴァージョン」と銘打たれていることからも理解されるように、著者は「スタンダード・ヴァージョン」の思想的中核を、必ずしもひとりの評論家やひとつの著作物に限定してはいない。それに対し第3章では「第七芸術に対抗して――アンドレ・バザンと弁証法的プログラム」というタイトルが示すように、アンドレ・バザン(および彼に率いられた「カイエ・デュ・シネマ」誌)が「弁証法的プログラム」の台風の目であることを明確に打ちだしている。しかし、ここまでのことなら、どのような映画史にも書かれている(それゆえバザンがどこの国の評論家で、だれとだれが「カイエ・デュ・シネマ」誌に参画し、それがどのようにジャン=リュック・ゴダールの映画に受け継がれていったかなどということはここで触れる必要はないだろう)。ここでわれわれが触れねばならないことは、本書全体を貫いている著者の学問的戦略が、第2章においてすでに見え隠れしていたということである。では、その戦略とは一体どのようなものであろうか。端的にいえば、その戦略とは、さまざまな映画史編纂についての思想が特定の「世代」の主観と結びついていることを強調するというものである。結果としておのおのの思想は、おのおのの「世代」の主観を反映した時代の産物にすぎなくなる。たとえば「スタンダード・ヴァージョン」は1930年代前後において、また「弁証法的プログラム」は1940年代前後において映画評論を精力的に執筆した「世代」の主観を色濃く反映した歴史観であり、アカデミズムにおける、より客観的な批判には堪えられないことになる。このことを具体的な文脈に即して検討してみよう。前述したように「スタンダード・ヴァージョン」は、映画がその誕生からサイレント映画の隆盛期(1920年代)あるいはトーキー映画の出現(1930年代前後)にかけて、芸術的な自己実現を達成したと考える。それゆえ「スタンダード・ヴァージョン」にとって1940年代以降は映画の余生にすぎないのである。しかし、より若い「世代」の映画評論家たち(たとえばロベール・ブラジラシュとモーリス・バルデシュが『映画史』を著した1935年においてバザンは弱冠17歳にすぎない)がこの思想に従うならば、自分たちがこれから評論活動をおこなおうとするその対象は余生の映画にすぎないことになってしまう。この由々しき事態への反発から若い「世代」の評論家たちのあいだで、1940年代以降の映画のなかに評論活動をおこなうに値する意義を見出していこうという「世代」の主観が生まれる。結果としてバザンは「スタンダード・ヴァージョン」における進化の判断基準であった映画の芸術性(テーゼ)に対し、映画のもつ現実記録性(アンチテーゼ)を見出し、そのうえで1940年代以降(バザンの「世代」にとっての「現在」)はジンテーゼの時代であるということになり、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)やウイリアム・ワイラーの『偽りの花園』(1941)を、その具体例として賞讃したのである。もちろん著者は「弁証法的プログラム」登場の原因として、シネ・クラブや映画祭の隆盛、第二次世界大戦後のフランスにおけるハリウッド映画の流入、あるいはネオリアリスモの発展など、さまざまな歴史的要素をあげている。しかし、それらの教科書的な知識を紹介する背後には、認知主義映画学の旗頭たる著者のしたたかな戦略が隠されている。こののち著者は第6章において、ポスト構造主義映画学やポストモダニズム映画学といった、認知主義映画学と対抗する思想を批判してゆくが、そのさいに問題となるのが、これらの思想が「弁証法的プログラム」と同様、自分たちがこれから評論活動をおこなっていこうとする対象のなかに、評論活動をおこなうに値する意義を見出していこうという「世代」の主観に支えられているという欠点である。そうした意識は、著者によれば、実証的な検証作業を軽視し、ひたすら「現在」の予兆となり、「現在」に収斂するような事象のみをとりあげる偏向した歴史観を醸成することにつながる。ポスト構造主義映画学やポストモダニズム映画学におけるこのような「現在主義」に対し、著者がどのように対抗していくかという点については後続章に譲らねばならないが、ここでは第2章において、すでに認知主義映画学とポスト構造主義映画学=ポストモダニズム映画学とのあいだの前哨戦がはじまっていたという点にのみ読者の注意をうながしておきたい。(羽鳥隆英)

第4章「モダニズムの回帰――ノエル・バーチと対抗的プログラム」
 本章において、1960年代以降のノエル・バーチの「リサーチ・プログラム」を20世紀を代表する「芸術」動向たる「モダニズム」の歴史的文脈上でとらえる。バーチは周知のように、「映画」表象における内容的側面よりも形式的側面(「オフスクリーン・スペース」や「モンタージュ」といった映画的構成要素)を前景化した映画学者である。モダニズム=「前衛運動」は世紀の転換期から1920年代にかけて、さまざまな学問・芸術間で横断的に生起したものだが、とりわけ「美術」「音楽」「映画」の領域において、「内容」(=「意味」)の系列が切断されて、「外観」や「形式」の系列が独自性をもち(たとえばエイゼンシュテインにおける「モンタージュ」など)、自己言及性が強調され、「大文字」の「制度」に対抗していった運動であるが、1950年代-60年代に芸術家/映像作家による新たな実践において再度批評家による言説において復活したことも周知の通りであろう。著者はバーチの批評を、20世紀最大の美術批評家クレメント・グリーンバーグの形式主義的批評と同じ地平でとらえる。このことからわかることは、本書の第2章と第3章における1930年代前後の「スタンダード・ヴァージョン」、また1940年代前後の「弁証法的プログラム」と同様に、バーチの表象スタイルの「形式」=「構造」化を重視した1960年代の一連の構造主義的研究も「大文字」の「制度」に対抗していった戦後の前衛運動と同時代的な 「世代の主観」に規定されているということである。またバーチの「対抗的プログラム」に対して著者は、自身の掲げる「認知論的映画理論」の学問的合理主義に反するバーチの形式化=構造化過程において「要素」を取捨選択する「倫理学」、つまり「パラメータ」(モダニズム音楽のセリー音楽にならって映画の「媒介の技法」を唯物論的にとらえたもの)における二分法(「ソフト・フォーカス」/「シャープ・フォーカス」、「直接的」音響/事後的に付加された音響など)、バーチが主張する「再現モード」における二元論(制度的/原初的)の「価値判断」の前提となっているブルジョワ・イデオロギーのモノロジックに批判を加える。くわえて著者は、「初期映画」や「戦前の日本映画」といった「原初的再現モード」を今日見る観客が、同じくバーチいうところの「制度的再現モード」がもたらした三次元的空間のイリュージョンから解放されるがゆえに、認知論的かつ合理的に「固有の記号」を処理することなく、二次元的平面を能動的ながらも自由に解釈する「意味」の主観化に遊ぶことになると、バーチの「再現モード」における還元論を批判する。著者によれば、「モダニズム」美術批評家グリーンバーグが、美術作品から媒介の「物質」=「本質的なもの」を抽出し、媒介における非本質的な要素を抛擲した結果、最終的に残る「平面性」を擁護したように、バーチは「媒介」の存在を隠蔽し、ブルジョワの「虚構」をあたかも「現実」であるかのように錯覚させる「ハリウッド映画」や「国民映画」といった「大文字」の「制度」(「制度的再現モード」)に対抗すべく、観客の能動的な映画読解を可能にする「脱中心化」した「全景画面」や「モンタージュ」を介さない「タブロー」の平面性が特徴である「原初的再現モード」をもちあげた。ゴダールに代表される戦後の「前衛運動」の映画作家の実践は、「大文字」の「制度」に対抗すべく過去の形式スタイルの反復や引用、そしてコンテクストを錯乱させることによって、「意味」を過剰にしていき、解釈の地平を過剰コード化することで「意味」を宙吊りにしたが、バーチの言説は表象スタイルにおける「内容」=「意味」を削ぎ落とし、観客の「パラメータ」の読みの体験を「テクストの意味」へと配置転換させたといえよう。むろんバーチによる「対抗的プログラム」の評価すべき点は、それまで映画作品の形式の透明性/表象の零度とみなされていたハリウッド映画を「初期映画」のスタイルと対峙させることで、ハリウッド映画の「媒介」性を可視化し、それがその時代の支配的スタイルの一形態にすぎないということを明らかにし、そのことによって、従来の映画史観を相対化した点にある。またバーチの言説が、映像における対象物に対するわれわれの知覚が、表象スタイルの構造=形式によって規定されていることを明らかにした意義は大きいといえる。とはいえ著者のいう通り、「パラメータ」の構造化、そして「対抗的プログラム」の二元論において、ブルジョワ支配階級のイデオロギーの反映のみをモノロジックに見出すイデオロギー論を前景化させる傾向、そしてバーチの還元論的批評が映画の多元的空間の「意味」の貧困化、そして主観化をもたらす傾向があることもまた否定できないであろう。(梅本和弘)

第5章 「進歩についての考察――近年のリサーチ・プログラム」
 これまでに詳述してきたように、1910年代以来、多くの思想家が映画というミディアムの性質、あるいはその芸術の機能について問いはじめた。1920年代から1930年代にかけて、映画は芸術であるか否かということが熱心に論じられた。そのような経緯をへてバザンの「弁証法的プログラム」が、1940年代-50年代に主流な思考様式となった。そして1960年代-70年代に重要な議論となったのは、バーチの「対抗的プログラム」であった。1970年代以降は、大学における映画学伸展の結果としての修正主義的研究の誕生である。本章で著者は、修正主義的研究と「大きな物語」との遭遇がいかにしてスタイル研究にとって重要な結果を生みだしてきたかについて明らかにしている。このなかで注目されているのは、新たなリサーチ・プログラムを代表する修正主義歴史家のトム・ガニングやチャールズ・マッサーなどによる、D・W・グリフィスやジョルジュ・メリエス、そしてエドウェン・S・ポーターといった初期映画作家に対する従来とは異なった認識である。この認識は、従来の映画に対する研究の一貫的手法(おおむね目的論的で、哲学的論拠を映画の分析に当てはめる傾向)とは異なる手法によってもたらされたものである。同時に、著者は、映画のスタイルにおける文化やモダニティに関する課題をも批判的に考察し、全体的に映画史編纂について新たな展望を系統的に述べている。また著者はリサーチ・プログラムを仮説として分析したり、書き直したり、拒否したりして映画史編纂の新たな認識を生みだすことを主張している。これは一般の読者にとっては、かなり常軌を逸した言説であるが、著者の提出した議論は明快であり、これまで存在しなかった認識として納得できるだろう。さらに著者はジャン・ミトリが書いた本には膨大な資料が詰まっているにもかかわらず、そのなかの因果関係を明晰に解説しなかったことを厳しく批判する。それでも著者は、ミトリが提出した映画史家の身につけるべき姿勢(映画史家は厳格な態度をもち、因果関係をはっきりさせ、説得力のある言説を生みだすべきである。その言説の中心は国家主義や経済の要素をめぐるだけでなく、映画産業と大衆側の受容にもっとも近い出来事や主張などを中心とすべきである。傑作とされる作品だけでなく、平凡な作品なども分析すべきである)は「スタンダード・ヴァージョン」からの重要な逸脱であり、そうした方法論を採用すべきであるとも説いている。このように著者は、修正主義者がいかに従来のリサーチ・プログラムと異なった手段を使って、より緻密に多くの原資料、新しい文献と新しく発見した映画の断片をくまなく調査して、帰納的に以前の論拠の欠陥を論証し、補足しているかを指摘している。たとえば修正主義者が参加し、研究成果を発表した1978年に英国のブライトンで開催された初期映画に関する初の世界的シンポジウム(およそ550本の初期映画を上映し、膨大な研究発表報告会をおこない、のちにその研究成果は出版された)やその伝統を守ってきたポルデネノーネ無声映画祭の粘り強い回顧上映会、およびそれに関連する批評研究書の出版が、映画史編纂に建設的な影響をあたえた意義は大きい。(ガン・ショウフイ)

最終章「例外的に正しい知覚――深度の演出について」
 本章において著者はまず1970年代初頭、「カイエ・デュ・シネマ」誌におけるジャン=ルイ・コモリの提唱する従来の進化論的、目的論的史観および映画技術のイデオロギーの中立性に対抗する唯物論的映画史観に異を唱える。 すなわちコモリによれば、まず映画技術は下部構造(経済的な力)のみならず上部構造からも規定され、映画の奥行きのイメージがイデオロギーをともなって表象されるものであり、映画技術はイデオロギーによって侵犯されている。つまりカメラレンズによって表象される「画面の奥行き」はルネサンスにおける透視図法のコードに侵犯されており、映画技術の核であるカメラそのものがブルジョワ・イデオロギーから無縁ではいられないのである。さらにコモリは再現=表象された「画面の奥行き」には初期映画とトーキー映画の二つの局面があると述べている。初期映画における35ミリと50ミリレンズの使用は「正常な視覚」で現実を再現するために用いられてきたが、このプリミティヴな映画の画面の奥行きはイデオロギー的に中立にリアリティを再現するのではなく、世紀転換期のブルジョワにとってもっとも快適であったリアリティの媒介によって表象されたものであったとしている。しかし1925年から1940年になると白黒映画ほどの深度をもつ奥行きを表現することができないパンクロ・フィルム(カラー映画用フィルム)の採用によって、それまでの「画面の奥行き」は失われる。リアリティの再現の比重は視覚的奥行きよりも、むしろ音響におかれていくようになるのだ。こうして「類似のイデオロギー」は、映画作家をプログラム化し、リアリティの再現は動き、遠近法の奥行き、音響といった各部要素のトータルでとらえられるようになった。これに対して著者は「画面の奥行き」がレンズや生フィルムといった技術的文脈によってのみ規定されているのかどうかと大いに疑問であるとし、コモリのいうイデオロギー概念の曖昧さ、そして演技空間の物理的奥行きとディープ・フォーカスの区別の不明確さを指摘する。著者によるコモリ批判の最たる点は、遠近法のイデオロギー論の一般化である。コモリが主張した「現実らしさの印象」というイデオロギーが演技空間の奥行きに関する具体的な決定をいかに規定しているのかという問題に対しては、むしろ、「どのように画面の深さが、映画のスタイルの安定と変化をもたらしうるのか」という問いに対する概念化の重要性を説いている。さらに著者によれば、初期映画において重要なのは観念やイデオロギーの伝達ではなく、映像イメージが観客に理解されることであった。それゆえ著者は、バーチの主張するような進化論的映画論(「原初的再現モード」[初期映画]はフレーム内のいたるところに観客の注目を遠心的に分散させていること)に異を唱える。すなわち著者はバーチの議論に対抗しつつ、演出空間(例をあげると初期映画に一般的な直線移動、対角線的空間の創出、前景への対角線上の動き)に着目することによって初期映画の固定的タブローにおいて脱中心化のショットがいかに適切な視覚的バランスをとり、重要な事柄とそうでない事柄とを区別して観客に提示していたかということを論証する。さらにルイ・フイヤードやヴィクトラン・ジャッセといった初期映画の代表的な監督に対するバーチの評価――プチ・ブルジョワ的監督である彼らが原初的タブローを頑なに支持していた――に対して、いかに彼らが明確に「語りのアクション」を習得していたかを論証することによって、著者はバーチの主張が早とちりにすぎないことを論破している。つまり著者は初期映画が進化論者によって「原初的=プリミティヴ」であるといった誤った映画史観に基づいた文脈で語られてきたことに対して積極的反論を試みるのである。(音上修子)

 さらに著者は、初期映画の演出空間においては深度の演出が、構図上の問題や映画を「見ること」という新たな問題を提起すると指摘する。単一視点というカメラの限界が、狭く深い画面に対応した映画セットを要求し、それによって「視覚のピラミッド」なるハリウッド黄金期の古典的な撮影方法が形成されてきた。フレームの手前から画面の奥に向かって三角形(ピラミッド)を描くように被写体や映画セットを配置するというこの撮影方法は今日にいたるまでハリウッド映画演出法の基礎となっている。したがって映画史を記述するさい、深度の問題は避けては通れない問題となり、その歴史的経過のなかで、「プラン・アメリカン(アメリカのショット)」や「フレンチ・フォアグラウンド(フランスの前景)」といったフレーム内の被写体の位置取りが採用され命名されていったのである。これは前景の被写体の混み具合に応じてカメラの距離を決定することによって、前景のフロントラインの幅を決定することであり、ここでは重要な情報をいかに中心にもってくるかということが問われている。1910年代のフランスでは、カメラを被写体から12フィートの位置にとらええたため、人物の膝下が切れるいわゆる「フレンチ・フォアグラウンド」として知られる撮影法が採用された。1909年のヴァイタグラフ社の映画群では、カメラをやや被写体に接近させ、9フィートの位置でとらえたため、フロントラインが4〜4.5フィートとなり、股下あたりで切れる「プラン・アメリカン」として知られる撮影法が採用された。このように著者は、映画作家がフロントラインの幅を決定し、それに応じた深度を演出によって獲得するという深度の問題を、1910年代の作品に探り当てた。それゆえにこそ著者は、ジャン・ルノワールの作品に深度の問題を発見した1960年代の映画批評家たちのみならず、映画を「見ること」のできない批評家たちを批判することができるのである。本章では、深度の演出の「黄金時代」である1910年代半ばから30年代後半まで、当時の映画作家が空間の深度を深化=進化させるために探求してきたスタイル上のさまざまな選択肢が記述されている。これらの選択肢は、この時期の奥行きのある演出についての考えのすべてがオーソン・ウェルズの『市民ケーン』(1941)的ディープ・フォーカスへと収斂してしまわないために、著者の分析によって識別された「別の解釈」として提起され、著者は『市民ケーン』における奥行きのある演出を正典とするバザン的見解への挑戦的問題提起をしている。著者によれば、バザンが空間の奥行きの探求を抑止したとみなしたデクパージュは、むしろ奥行きの探求を促進するものだとみなされる。奥行きのある構図がデクパージュを基調としたスタイルにおいてイスタブリッシング・ショットとして機能していたことは今や明らかであり、映画作家は比較的大きな前景を利用することによって、または前景の人物が動いて、後景の次第を明らかにするといった演出などによって、観客に奥行きを意識させていたのである。さらにデクパージュの利用によって、ディープ・フォーカスとは対極のスタイルである、全体的にぼんやりした画面を生成するソフト・スタイルの映像でさえ、観客に奥行きを意識させることが可能であったことを著者はフランク・ボーゼージの『なまけ者』(1925)をとりあげて論証する。前景と後景のそれぞれに人物が存在し、中景に別の人物が入り込んできて、後景を覆ってしまう。しかしカットが切り替わり、カメラはちょうど前景と中景のあいだに割り込んだかたちで中景と、隠れてしまっていた後景の人物をとらえる。この二つのショットからボーゼージは観客にシーンの奥行きを意識させたのである。こうした著者の分析は認知主義的映画学の顕著な例であり、正典に対する 「別の解釈」でもある。そして、こうして外堀を埋めるかたちでじわりじわりと展開する著者の分析は、より直接的にバザンによる奥行きのある演出に対する批判へと向けられてゆく。著者は1940年代のウェルズやワイラーの作品における深度を導いたであろうジャン・ルノワールの1930年代の作品にも、「別の解釈」をあたえる。ルノワールの奥行きをめぐる想像力はウェルズやワイラーを予感させるものではなく、あくまでも当時、利用可能であった技法を統合し精製したものである。後景の人物を窓の枠で囲み、ワンショット内で焦点を前景の人物から、後景の人物へと移動させ、中心にすえることでルノワールは画面の奥深いところに観客を誘う。そして興味深いことに、バザンが評価するルノワールの1930年代の作品に対してこうした解釈をあたえる著者は、その一方で、皮肉にもバザンが軽蔑するスターリン主義的映画のなかに、正典としての『市民ケーン』的奥行きにもっとも近い奥行きが見られることを明らかにするのである。そこに見られる活動的で存在感のある前景の近接性と正面性こそが『市民ケーン』と同質的な奥行きのある演出と類似のものであったのだ。そうした空間構成はえてして、画面内に表象される群集の個人個人に焦点をあてることができる一方で、個人や個人の思念を増大させる効果をもっていた。そして、このソヴィエトの社会主義的リアリズム映画の空間構成からなる効果を他の国の監督、とりわけハリウッドの監督たちはこぞって習得しようという努力をみせる。著者はそうした努力が『市民ケーン』の独創的な視覚的デザインを理解するためにもっとも近い状況を形成したのだと指摘する。(北浦寛之)

 
本章ではまた映画が「進化し」、そのスキーマを精緻化させてきた過程について、軸となる作家をとりあげつつ説明がなされている。著者によれば、深度の扱い方は、サイレント期、初期トーキー期に変貌した。まず1930年代後半から1940年代初期にかけては、世界中の多くの監督がより深い深度をとりいれた。その後、撮影はもっぱら室内でおこなわれるようになり、それに付随して改良された強い照明が深い深度を特徴づけた。この時期、多くの映画作家は映画セットや被写体の「縁」がくっきりと見えるような深度を採用していた。たとえばウィリアム・キャメロン・メンジーズは表現主義的効果を深い深度で表現していた。一方、ジョン・フォードは鋭いフォーカスを用いて、画面が2段階、3段階の層に別れる構成を達成していた。この流れは、深度の構成が編集に頼っていたこと、演技空間を広げるためのイスタブリッシング・ショットを撮る必要があったこと、それに二つの動作の同時性を強調することによってもたらされた。このような背景のもとで、幅広い範囲の映像が撮れるカメラマンは映画作家の創造的選択の幅を広げるのに貢献した。この頃、映画作家たちは競って深度を深めようとしたのであるが、カメラマンのグレッグ・トーランドはこの主唱者の先鋒に立った。彼は1930年代、フォードやワイラーらとともに仕事をし、競争心から画面の深度を深めていった。しかし同時に彼はスタジオセットの照明の暗さに苦しんだ。彼が演技する空間を深めた時、前景はミディアム・ショットと同じくらいになった。また別の時には画面はゆがんでしまい、演技する空間はそれほど深くならなかった。サム・ウッド監督の『我等の町』(1940)にも見られるように、トーランドだけでなく映画作家たちはつねに近い前景ときわめて遠い背景を求めた。しかしながら、この時点では前景と遠景に交互に鮮明な焦点があらわれるという事態に陥っていた。この難問に解決策をあたえたのが『市民ケーン』である。周知の事実ではあるが、トーランドはアーク灯と強い光を集めるレンズを用いて、前景と遠景をともに焦点を合わせながら撮影することに成功し、これを「パン・フォーカス」と呼んだのである(スーザンの自殺シーンを参照)。ここで注意を払うべきは、『市民ケーン』に見られる演出空間は、今日のアニメの視覚効果に近かったということである。すなわち、より大きな前景が一般的に用いられるようになり、登場人物たちが異なった平面に配されたとしても、観客の注意は照明や正面から見ることや会話によって方向付けられるようになったのである。このように、深度の演出の分析は、「演出とは何か?」という疑問に答えるものとなるだろう。それは、オットー・プレミンジャーやミケランジェロ・アントニオーニの作品における優美な場面転換を見れば明らかであり、深度のスキーマがいかに精緻化してきたかが理解できるであろう。このように著者は具体的に映画作家をとりあげながら、ジャン=ルイ・コモリが充分にはなしえなかった「画面の奥行き」の映画史を再構成することに成功している。(田崎亜弥)