順応主義者たちの混乱
楊徳昌(エドワード・ヤン)監督インタヴュー

加藤幹郎+西川敦子


「浜辺の砂がどんな感じだか言わないで・・・」

 以下のインタヴューは英語でおこなわれた。明快で論理的な英語を話す楊徳昌監督は、今日もっとも偉大で、もっとも真摯な映画作家のひとりでもある。この明透な感性の持ち主に接したわれわれは、映画の未来にたしかな手応えを感じた。「アジア映画」とひとびとが総称するもののなかに、たしかに世界映画史の新しい息吹があることを楊映画は物語っている。

配慮と自信
――今回のすばらしい新作映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』(94年)を拝見して、楊監督がこれまでとまったく異なるジャンルに挑戦されたように受けとりました。ベルトリッチはつねにベルトリッチの、アントニオーニはつねにアントニオーニの映画しか撮れませんでしたが、楊監督は違うのだと、われわれはそう感じました。そこで質問なのですが、楊監督は青春の一時期をアメリカですごされています。その頃ご覧になったハリウッド映画で、ご自分の映画に反映されていると思われるものはありますか。ハリウッド流に言えば、『クーリンチェ少年殺人事件』をフィルム・ノワール、新作の『恋愛時代』はスクリューボール・コメディと呼ぶことはあながち不可能ではないと思うのですが。

楊 (笑)いやアメリカ時代に印象に残った映画というのは特にありませんが、こういうことはありました。十七歳のとき、ガールフレンドと昔のヨーロッパ映画を観に行ったのです。フェリーニの映画だったかもしれませんが、わたしはものすごく感動しました。それはもう激しく打ちのめされました。ところがガールフレンドときたら、こんな暗い悲観的な映画は大嫌いだとおかんむりなのです。そのときわたしは悟りました。彼女とわたしは違うのだと。別の人間なのだと(笑)。
 
わたしの映画『恐怖分子』を見た台湾の批評家たちは、楊徳昌はペシミスティックな映画作家だと評しました。しかしこれも違うのです。問題はそれが悲観的に見えるかどうかということではありません。人生において、もし他者に対する配慮、思いやりというものがなくなったら、そのときこそ悲劇が、悲観的とかれらが呼ぶ事態が生じてくるのだということです。それがわたしの映画の要諦なのです。わたしの最初のガールフレンドも、台湾の映画批評家たちも、どうやらそれがわからなかったようなのです。

――今回の『恋愛時代』はどうでしょうか。この映画では、何人もの人間が喜劇的混乱のなかで四苦八苦しますが、最後に一組のカップルだけはしかるべき幸福を見いだします。この結末は、『恋愛時代』が以前の『クーリンチェ少年殺人事件』(91年)や『恐怖分子』(86年)のような「ペシミスティックな」スタイルから距離をおいたことによって可能になったのではないのではないでしょうか。つまり今回、喜劇というジャンルを採用することによってはじめて可能になった新しいヴィジョンなのではないでしょうか。あのハッピー・エンディングは人生に対する省察から生まれたのと同時に、物語の伝統的ジャンルの産物でもあるように思えたのですが。 

楊 そうですね・・・。大学の一年生のときでしたか、アンドレ・ジッドの小説『放蕩息子の帰宅』を読んだことがありました。そこにこういう一節があったのです。「浜辺の砂がどんな感じだったか言わないで、わたしが自分で歩くから」。これが『恋愛事件』のあの結末に反映されていると思います。つまり不幸を招いた原因について互いに相手を非難し合うかわりに、まず我が身をふりかえるのです。そして身をもって体験してみるのです。もしそれができれば、われわれはさまざまな困難を解決できるのです。それがわたしなりの人生観です。わたしはあのエンディングをそういう風に考えています。ですからあのハッピー・エンディングは、かならずしも御都合主義的な約束事としてやってきたのではないと思います。いったい人はいつもっとも美しく、もっとも愛らしく、そしてもっとも気持ちのよい人間になるのでしょうか。それは彼が自信を抱いたときです。『恋愛時代』のあのカップルは、あの喜劇的破綻ののちに、最後になってようやくこの自信を獲得します。それが重要なのです。わたしのこういう考え方はたぶんに中国的ではないかもしれません(笑)。

儒者の混乱
――『恋愛時代』は過剰にコミカルな映画です。ファンキーな台詞とオーヴァーアクションが観客を挑発しつづけます。しかし喜劇的要素が過剰であっても、そこに込められているアイロニーもまた過剰なので、正直言ってハワード・ホークスの『赤ちゃん教育』のように大笑いしながら拝見できたわけではありませんでした。その点で『恋愛時代』は、言葉の狭い意味でのポリティカル・コメディでもあると言っていいのではないでしょうか。

楊 そうですね。あの映画のなかで描かれている中国人社会というのはすこぶる順応主義的なものです。つまり皆が皆互いに似ようとし、コピーし合おうとし、同じ顔をもとうとしています。範に習うこと、それが順応主義であり、この映画の英語タイトルにある儒教というものです[『恋愛時代』の英語タイトルは『儒者の混乱』]。ところがその同じ顔の下に、きわめて猜疑心の強い中国人がいるのです。これは何千年も断続的につづいた王朝の交代劇やその後の帝国主義によってもたらされた社会的政治的大混乱、悲劇、惨劇と呼ぶしかないものによって中国人の精神の内に培われたものです。その結果、中国人は人を信頼するということができなくなったのです。
 この点では、われわれの世代は幸運だと思います。われわれの世代は長い中国史のなかでも初めて先行世代に一体何が起きたかのか、冷静に判断をくだせる時代に生きているからです。台湾ではこの四十年間というもの戦争らしい戦争は起きていません。おそらく『恋愛時代』は、中国人社会における中国性というものを、つまり中国人とはいったいどのような人間なのかを描いた初めての映画でしょう。

――台湾は今日、政治的に中国大陸からの『独立時代』(『恋愛時代』の中国語題)をむかえていますが、その一方で、それ自体失敗作としか言いようがない『息子の告発』(94年)のような映画製作に見られるように、台湾、中国、香港の合作映画体制が近年とみに整備されてきているように思えます。この中国圏映画の共同体制といったものをどう評価されますか。

楊 わたしは否定的です。台湾で映画を撮ることと香港や中国で映画を撮ることとはまったく別の経験です。環境、思考形態、行動様式、すべての点で異なります。それぞれの政治、経済、社会はそれぞれ別個のものです。スリー・チャイニーズ・テリトリーズ。わたしにはこの三つを一括りにして考えることに意味があるとは思えません。それぞれ異なった文化があり、映画に反映される現実はまったく異なるものだからです。もし真摯な中国圏映画を創造しようとするなら、わたしにとって相互影響は重要ではないし、必要でもありません。

ファミリー・ヒストリー
――監督は一九四七年に上海で、儒者の父親とクリスチャンの母親のもとにお生まれになり、二年後の国民政府の樹立とともに、一家で台北に移住されています。ここで少しファミリー・ヒストリーについてお聞かせ頂けるでしょうか。

楊 わたしの両親は、故郷での戦乱を逃れる旅の途中で出会って恋に落ちました。ふたりは出身地も違えば、習慣やものの考え方もまるで違いました。ちょうど例のイタリア男とスウェーデン女[監督ロッセリーニと女優イングリッド・バーグマン]の出遭いのようなものです(笑)。父からもらったバースディ・プレゼントと言えば、『論語』とか中国の古典ばかりでした。厳格で高等な儒教教育です。いっぽう母は中国におけるクリスチャン第一世代と言ってもいい世代に属しており、わたしのエドワードという名前も洗礼名です。母方の祖父は政治犯として長期間投獄されていましたが、それを解放したのがアメリカ人宣教師たちでした。祖父はキリスト教徒となり、母もまたそのように育てられました。このような混淆文化のもとに育てられたことは有意義なことだったと思います。儒教的世界とキリスト教的世界の両方を比較的客観的に観察することができたからです。

――監督の『恋愛時代』には、規律と協調を重んじる儒教精神と、豊かな物質生活を背景にした上昇志向のあいだで引き裂かれ、足場を失った精神の軌跡が認められます。監督はオリエンタリズム、つまり西洋人が御都合主義的に思い描く東洋の固定観念を打破する必要性を説かれますが、一九七〇年代のアメリカ留学生活は監督に何をもたらしたのでしょうか。コンピュータ・サイエンスの修士号をお取りになっていますが。

楊 あの時期は・・・・そう時間の浪費だったかもしれない(笑)。とにかく生計を立てる必要があったのです。しかし映画製作をはじめてからは、あの頃に学んだ論理的思考やマネージメント方法が現場で大いに役立つことに気づきました。芸術系の人間は、とかくそういうトレーニングが欠落しがちですからね。撮影現場では瞬時の判断が大事です。何事も即決でおこなわねばなりません。しかも一日に千もの決断が待っているのです。いや誇張ではなくて。とにかく撮影第一ですから。的確かつ合理的な判断でクルーを正しい方向へと導いてゆかねばなりません。わたしはその方法をアメリカで身につけたのです。やはり時間の浪費ではなかったかもしれません。

――今日のインタヴューでは終始監督の笑顔に魅了されましたが、現場では厳しい監督なのでしょうね。

楊 現場では専制君主ですよ(笑)。

(一九九四年九月二五日、京都ホテルにて)

追記
 
本稿は『キネマ旬報』(一九九五年五月上旬号)に掲載されたものを一部改訂採録したものです。
 
ところで東京国際映画祭京都大会に来日されたエドワード・ヤン監督らと京都で日本の時代劇をめぐるシンポジウムの席を囲んだおり、隣席のヤン監督が座頭市(勝新太郎)の似顔絵を何枚も描いていたのは、あながちシンポジウムというものの退屈さのせいばかりではなかったろうと思われます。しかし長いシンポジウムの終わったあと、所在なさの所産と言ってもいい、その落書き(座頭市の似顔絵集)を監督から譲り受ける誘惑にわたしは打ち勝てませんでした。