野外上映映画の諸相――戦前期の日本の大都市圏における映画イベント

藤岡篤弘

はじめに
 映画上映は常設的なものと仮設的なものと大きくふたつに分類できる。常設的な映画上映とは通常の映画館における、おもに営利を目的とした興行と考えてよい。一方、仮設的な映画上映とは、不定期かつ限られた期間にさまざまな団体がさまざまな場所でさまざまな目的をもって開催するものだ。「さまざまな団体」とは映画製作会社のみならず新聞社や企業、官公庁や教育関係団体などが想定される。また「さまざまな場所」とは地域の公民館(コミュニティセンター)や学校、神社仏閣、工場のレクリエーション施設など、不特定多数の人々が一同に会す「公共空間」のことだ。そして「さまざまな目的」とは新聞購読者や商品購入者など顧客へのサービス、大きな社会的事件や事故の犠牲者あるいはその家族への慰安、そして社会あるいは児童教育や「非常時」における国民の戦意高揚などが挙げられる。戦前、こうした仮設の映画上映会が日本各地で繰り返し開催された。これらの多くは入場無料であったが、多かれ少なかれ常設の映画館では得がたい開催者の意図や目的が潜んでいる。
 仮設映画上映といっても多種多様だが、本稿では、東京や大阪の大都市圏[1]で開催された、新聞社とりわけ大阪毎日新聞社(以下、大毎)主催の野外映画イベントを取り上げる。1930年代まで日本の新聞社は各地で数多くのメディア・イベントを開催し、名声を高め、購読者を獲得するとともに文化活動の重要な担い手ともなっていた[2]。そのなかで大毎の野外映画イベントに焦点をしぼって検討し、その映画史的な意義を見出すことが本稿の目的である。常設映画館における劇映画上映の歴史が映画興行史の本流だとすれば、野外映画イベントや地方巡回上映などはその傍流になるかもしれない(ただし野外映画イベントと地方巡回上映は意義や機能が異なるため、同じ地平で論ずることはできない)。そして常設映画館の興行記録や統計でさえ満足に残っていない、あるいはばらつきがみられるという現状からすれば、記録よりも人々の記憶に残る、不定期かつ仮設的な野外映画イベントの記録が十分に残っている可能性は少ない。にもかかわらず本稿が野外映画イベントを取り上げて問題にするのは、それが都市の盛り場や場末に存在した常設映画館の興行とは一線を画す問題系を含んでいるからにほかならない[3]。常設映画館ではなく野外映画イベントという傍流の映画上映制度について検討することで、戦前期、人々が映画という娯楽/メディアに何を期待し、実際にどのような映画体験があったのかといった映画観客の欲望の在り処を探りたい[4]
1 「自由観覧」から納涼へ――「活動写真競技」
 
管見によれば、大都市圏で開催された日本最初の野外映画イベントは1910(明治43)年8月7日、大阪南部の浜寺海水浴場で開催された。主催の大毎はそれを「活動写真競技」と銘打ち、海水浴場の南北二ヶ所にスクリーンを立て、当時の有力な映画会社である東京の吉沢商店と京都の横田商会が互いの映画作品を上映しあった[5]。『大阪毎日新聞』紙上では「観衆」数万人、閉会時刻は午後11時48分と発表されている。これはあくまで主催者の発表であり鵜呑みにはできないが、このイベントがかなり大規模なもので、夜遅くまで賑わったことは間違いなさそうだ。
 しかしなぜ浜寺という、大阪都心部からはやや離れた海水浴場が会場となったのか。浜寺海水浴場は1905(明治38)年に沿線を走る南海鉄道会社が設置したが、翌年になって大毎に経営の協力を求めている。以後両社は夏になると花火や相撲など各種イベントを企画、開催するようになる。大毎はその宣伝力で人々を浜寺へと誘い入れ、また南海鉄道はイベント会場へ向かう人々の足となったのだ。近代日本のメディア・イベントのさきがけとして大毎の功績は重要だが、野外映画イベントもその一環であった[6]
 では大毎はどのようにして人々を浜寺の「活動写真競技」に動員したのか。「活動写真競技」に関する『大阪毎日新聞』の社告を辿ってみよう。

「吉沢横田両商会の所有せる無数の原画中その最も珍奇にして且斬新なるものを選み、これを場内広場に特設したる二ヶ所の屋外映写場において映写し両々相対して一般の自由観覧に供せんとする[7]

「夜間に行ふべき活動写真は〔中略〕南北二ヶ所となし四間と五間の大白布に映写すべきを以て場内にあらん程の人は何人も自由に随意にこれを観覧するを得[8]

 ここでは野外で上映される映画を誰もが自由に「観覧」できることをとりわけ強調している。翻っていえば、従来の映画「観覧」がある程度の「不自由」を強いられる経験だったのではないか、という推測が可能であろう。つまり当時(もちろん現在でも)木戸銭を支払って常設映画館あるいは仮設の映画上映場に入場し、椅子席や桟敷席で座り、興行主が選択した映画を見ていた人々に、「活動写真競技」という野外映画では無料の「自由(随意)観覧」という価値を提示してみせたのだ。それは人々が見たい映画を(二者択一とはいえ)選択し、自由に移動できるという新しい映画体験であったにちがいない。
 大毎は翌年も同時期に「活動写真競技」を開催し、横田商会と三友倶楽部がそれぞれの作品を上映した。ところが『大阪毎日新聞』の社告や記事には、「自由観覧」を呼び物にする記述はみられない。それとはひきかえに、初年度にはなかった以下のような表現がみられる。

「涼風海を掠むる岸辺より波上に躍る千変万化の映写を観覧せしめんとするものにして実に破天荒の新趣向なり[9]

「涼風海を掠めしより夜の浜寺は又一方ならぬ雑沓を来たし〔中略〕喝采大方ならず納涼余興としては此上なしとて最後まで立去らんともせず愈が上に人数は加はるのみ[10]

 初年度の「活動写真競技」では、主催者の大毎は映画の「自由観覧」をその呼び物にした。ところが翌年には、それが真夏の夜に風光明媚な避暑地で開催されるイベントたることに着目し、そこに「納涼」という付加価値を見出したことが明らかである。明治後期以降、めざましい工業化を遂げる大阪都心部は「煤煙都市」と呼ばれたほど劣悪な住環境にあった。そのようななか大阪都心部をターミナルとする各私鉄は沿線住宅地や郊外リゾート地などを開発し、「避暑」や「納涼」を呼び物にして乗客の獲得を競った[11]。都市の諸施設にもまだ冷暖房装置がない時代にあって、「納涼」は都市住人の余暇娯楽の重要な要素となっていたのだ[12]
 日本最初期の野外映画イベントは無料で「自由観覧」という新しい映画体験に納涼という価値を付加し、都心の人々を動員したのである。
2 ニュース映画上映のさきがけ――「フィルム通信」
 
「活動写真競技」よりも以前、1908(明治41)年9月に大毎は発刊九千号を記念して独自の「活動写真班」を組織している。これはおそらく日本の新聞社としては最初期の試みだろうが、「活動写真競技」ではその活動成果を披露することはなく、あくまで海水浴場への人々の動員が主目的だったと思われる[13]
 大毎の活動写真班の活動はおもに地方巡回であった。1903年、日本で最初の常設映画館である浅草電気館が開館したのち、都市部でこそ常設映画館が増加しはじめたものの[14]、1910年代になっても地方で映画をみる機会はまだ貴重なものだった。したがって大毎の活動写真班が各地で撮影した記録映画を地方の小学校や神社仏閣などで上映することはそれじたい意味のある活動であったが、当然ながら大毎には、この巡回上映によって自紙の名をひろめ、購読者を獲得しようとする目論見もあった。当時の大毎は一地方紙の域を超え、近畿地方のみならず中部、北陸、中国、九州といった西日本全域に販売網を広げており、各地の販売店は「活動〔写真〕があれば、増紙はオニに金棒」と巡回上映会に積極的に協力したのだ[15]
 そのように大毎の活動写真班は西日本各地を巡回することで、普段なかなか映画を見る機会に恵まれない地方の人々を喜ばせたが、都市住人にむけての活動としては1917年の「フィルム通信」が重要である。大毎は1917年8月から9月にかけて「フィルム通信」という大規模な野外映画イベントを開催した。会場となったのは大阪中之島公園だ。それは新聞紙上を賑わせる数日中あるいはその日の事件や行事を撮影し、週末ごとにそれらを野外上映する試みであった。その内容は「三面記事」的なものも含めて大阪あるいは近畿圏の地方ニュースがほとんどを占めた[16]
 では『大阪毎日新聞』の記事から「フィルム通信」初日の様子を確認しておこう。

「待ちに待たれたる三間に四間の大シートを前後左右より取囲みて熱心に観覧す、かくて映写万般の準備成るや公園内の弧光灯一時にパッと光を消して「開始」の二字シートに現れ〔中略〕フィルムの第一は我社特設活動写真班が七月三十日事件の突発と共に自動車に飛乗り雨を衝いて現場に突進する光景にて機敏なる写真班活動の有様を見せ〔中略〕映写一時間、一万五千に余る観衆の興味尽きざるに八時半第一回を終り第二回には更に同日浜寺に催されたる本社主催の錦魚大会の光景を映写し〔中略〕第一回の説明映写は稍鮮明を欠きて画面の了解十分ならざる遺憾ありたれば折柄来場の天活直属森弁士をして第二回の最初より説明せしめたるに始めて十分に了解され八時二十分大成功裡に閉会したり[17]

 この記事からは以下四点のポイントが見出せる。まず映写および「観覧」形態だ。これによると「観衆」はスクリーン(大シート)の前後左右を取り囲んでおり、必然的にスクリーンの裏側から「観覧」しなければならない「観衆」もいたことになる。『大阪毎日新聞』の社告によると、「中の島公園の西端に映写場を置」いたことから[18]、スクリーンの東側がその裏にあたったようだ。当然ながら、後日の同紙上では「観覧者は主にシートの西側へ西側へと集中されるため其方は非常に詰って居りますがシートの東側は案外気楽に見物が出来ます」といった告知がみられた[19]
 二点目としては大毎活動写真班じたいのアピールがみられる。本篇であるはずの事件あるいは行事フィルムの映写に先立ち、「我社特設活動写真班」の活動風景を上映したことは興味深い(実際のところ、大毎は全ての撮影を天活[天然色活動写真株式会社]大阪撮影所に依頼したのだが)。
 三点目は速報性だ。それが意図的か否かは不明だが、第一回目には上映されなかったフィルム(「同日浜寺に催されたる本社主催の錦魚大会の光景」)を第二回目に挟み込むことで、その速報能力と「フィルム通信」というイベントの意図を会場の人々に知らしめたようである。
 そして最後は「説明」の問題だ。当初スクリーンには撮影された事件や行事の文字説明が映写されたようだが、不鮮明だったらしい。二回目の映写では(「折柄来場」していたのか待機していたのかは不明であるが)天活の弁士が説明役にあたっている。
 以上、「フィルム通信」の特徴を確認したが、いずれにせよこの野外映画イベントは非常に重要である。なぜならこのイベントこそがニュース映画上映のさきがけであったと考えられるからだ。この頃はまだ「ニュース映画」という呼び方はなかったし、記録映画とニュース映画の厳密な区別は難しいが、ここでは記録映画に時事性と速報性が備わったものを「ニュース映画」と呼ぶとすれば、新しい出来事をできるだけ早く、一度により多くの人々に映画という形態で報道するという、ニュース映画の原型がここにみられる。1910年代はまだ、フィルムの輸送能力ばかりでなく、一度により多くの人々の「観覧」に供することが映画の速報力であり、大都市圏での野外映画イベントは新聞社がそれをアピールする格好の場となったのだ。
 また「フィルム通信」についてはもう一点の指摘を付け加えておきたい。「フィルム通信」が開催された1917年とは日本映画史の、とりわけ興行の歴史においては重要な年になる。同年7月、警視庁は「活動写真興行場取締規則」を発令した。そこでは映画検閲の問題とともに、映画館という制度上あるいは建築構造上の問題(たとえば甲乙種別による年少観客の入場制限、男女別席、興行時間、休憩時間、看板の設置など)にも細かな規制が加えられた。また東京だけではなく、同年4月には長野県の松本小学校が、7月には 岡山市 が児童に活動写真の「観覧」を禁止したという事例がみられる[20]。「フィルム通信」が開催された大阪では「滑稽物」や「実写物」を先に、「活劇等子供に見せて感心せない様なもの」を後で上映することが警察から興行主たちに通達された[21]。1910年代初頭に『ジゴマ』映画[22]が世間を騒がせて以来、映画が年少観客や社会に与える影響が問題視されるようになっており、映画館あるいはそれに準ずる興行場も風紀上あまり良いイメージをもたれていなかった[23]。1917年とはそうした一般的認識や風潮が「規則」として明文化されはじめた年だったのだ。他方、映画じたいの人気は上昇の一途を辿り、人々にとって最新かつ最高の娯楽となっていった。1917年(前後)の映画興行は取り締まり強化と人気上昇の間でジレンマに陥っていたといえよう。そうしたなかで同年に開催された「フィルム通信」はその興行形態と上映内容で映画上映の新機軸を提示してみせた。つまりこの大規模野外映画イベントでは映画館にはない健全で開放的な映画「観覧」が期待され、そこでは老若男女が見られる「ニュース映画」が上映されたのだ。
 さて「フィルム通信」は、主催の『大阪毎日新聞』紙上では当然ながら「大成功」とされる。にもかかわらず結局同年かぎりのイベントとなった。日本を代表する映画史家の田中純一郎はその要因を「大した事件でもないのに出張費や製作費が厖大にかか」ったためと総括する[24]。もちろん経済的要因は絡むが、ここでは「大した事件」がなかったという要因に注目してみたい。その名称からも明らかなように、当初「フィルム通信」は定期上映を目論んだはずだが、結局「大した事件」を報道できなければそれは新聞記事の映画化にすぎず、人々の関心が次第に薄れていった可能性が高い。では当時(1910〜20年代)の人々にとって「大した事件」、最大関心事とはなにか。それはなによりも皇族および皇室行事であろう。
3 許されなかった速報上映――「御大典活動写真」
 1915(大正4)年11月10日、当時「御大典」と呼ばれた大正天皇即位式が京都でおこなわれた。都新聞社は11月12、14、15日の三日間、日比谷公園の大運動場で野外映画イベントを開催した。既述した大毎の野外映画イベントがいずれも夏の夜に開催され、そこに納涼という付加価値を見出した一方で、都新聞の「御大典活動写真」は肌寒い11月の夜に開催されたのだ。つまり「自由観覧」や納涼などの付加価値ではなく、皇室行事という人々の最大関心事で集客を当て込んだのである。
 大毎とはちがい独自の映画撮影班をもたなかった都新聞は「御大典活動写真」の撮影を他社に依頼し、「ゴーモン会社週報」など併映した国内外の短篇映画も野外での無料上映会のために他から買い付けた[25]。『都新聞』の社告には「兎に角東京で真先に御大典の盛儀を見得るは吾社の活動写真であるといふ事を申上げて置ます」とあるように[26]、東京を出発した大正天皇一行の姿や京都での儀式、またそれに熱狂する人々の姿を東京でいち早く映画公開することで自社の取材力をアピールしようと目論んだのだ。
 しかしながら結局「御大典」じたいを撮影したものは「御大典終了後にあらざれば」という理由で上映が許可されず[27]、この野外映画イベントで映写された「御大典活動写真」とは「 京都市 街の御大典の前況、陛下京都駅着車前の光景」などであった。そこには大正天皇の姿はもとより、式典じたいも映写されることはなく、人々が「万歳を連呼」したのは「一昨日の深川のお神輿の撮影」にすぎなかった[28]。皇族あるいは皇室行事の撮影が「謹写」と呼ばれた当時、まさに即位式に臨む新天皇の実写映画を式典も終わらないうちに速報として一般公開することが許可されなかったのだ。その速報に尽力した都新聞は内心落胆したにちがいない[29]
 『都新聞』によると、この野外上映会は3日間とも盛況で、11月の寒さにもかかわらず初日「一万余」、2日目「三万に余る」、3日目「無慮二万余」の人々を集めたという[30]。とはいえ、その発表の信憑性はさておき、この上映会に駆けつけた人々のすべてが『都新聞』の社告を見て集まったわけではなかったようだ。同紙は上映会初日の様子を以下のように記している。

「映し出すフィルムの数々は公園の外を通る電車の窓からさへ見え吹奏する楽隊の音は公園外を通る人々を片端から引寄せて映写幕の前後は見る見る中に人を持って囲まれ其数凡そ一万にも及んだらう尚其上にもそれ都新聞の活動だ活動だと口々に云ひながら駆込む人引も切らぬ様子だった」[31]

 
遠方からでも見えるような大スクリーンそれじたいと、楽隊の吹奏、そして人々の口伝てが会場外への大きな宣伝となっていたのだ。重要なことは、映画を見るという目的以外に物見遊山的な集客要因があったことで、そこには常設映画館とはまったく異なる映画体験が確かにあったはずである。
4 未曾有の大映画イベント――「東宮御渡欧映画」
 1921(大正10)年3月3日、のちの昭和天皇である皇太子裕仁が半年間の訪欧の旅に出た[32]。大毎はロンドン支局を通じて、フランスのゴーモン社に訪問先での撮影を依頼した。5月8日、最初の訪問地ロンドンに到着した皇太子一行の様子を撮影したフィルムは、ただちに北米カナダ経由の船便で発送され、6月6日に横浜港に到着する。翌7日、フィルムは沼津御用邸滞在中の大正天皇と皇后の前で「天覧」、8日夕刻には赤坂離宮にて皇族の前で「台覧」されたのち、8日晩からは「東宮御渡欧映画」として一般公開される。皇太子の訪欧に同行撮影を許可されたのは日活の技師だけであったが、日活撮影のフィルムが公開されたのは皇太子帰国後の9月以降であった。したがって大毎(ゴーモン撮影)のそれは速報性において日活をはるかに凌駕していたのだ。東日本は『東京日日新聞』の、西日本全域および朝鮮や満州は『大阪毎日新聞』の活動写真班が総動員でフィルムを巡回上映した[33]。その多くは各地の公民館や学校などで上映され、主として両新聞購読者および教育関係者や学校生徒が招待された。第一報フィルムの到着以来約半年間、『大阪毎日新聞』の巡回区域だけで上映回数は919回にものぼり、「観衆」の総数は487万6750人に達した[34]。「東宮御渡欧映画」は未曾有の一大イベントになったのだ。
 この巡回上映は『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の名を全国津々浦々にまで浸透させることに成功したが[35]、大毎がとりわけ力を注いだのは、東京や大阪の大都市圏での野外上映イベントであった。
 東京では「天覧」と「台覧」を経た6月8日から2日間、日比谷公園音楽堂前広場で夜間野外上映された。初日は約13万人もの「観衆」を集めた。その後15日の上野公園が5万人、翌16日の芝公園が7万人の「観衆」を集め、盛況をきわめている。一方大毎のお膝元である大阪では11日から2日間、中之島公園剣先にて野外上映され、こちらも両日とも数万の「観衆」を集めたのち、神戸の大倉山公園や京都の円山公園などでも同様の試みがなされた。この後も大毎は「東宮御渡欧映画」の続報フィルムが届くたび両都市近郊で大規模な野外上映会を開き、毎回相当数の「観衆」を集め、それは皇太子一行が帰国する9月初頭まで続いた[36]
 主催新聞社によるこれらの発表記録は信憑性に欠ける部分もあるが、いずれの場合も相当数の人々を集客した可能性は高い。ではなぜ毎回これほどの「観衆」を集めたのか。ここではその要因を探ることで「東宮御渡欧映画」という野外映画イベントの意義を映画史的に考察したい。
 まず一点は速報性だ。空輸というフィルムの輸送手段がなかった時期にあって[37]、ヨーロッパからの船便は日本到着まで約ひと月を要した。だが大毎は他社よりも早くフィルムを取り寄せ、大都市圏では地方巡回にさきがけた野外映画イベントを開催することによって、映画を一度により多くの人々の「観覧」に供した。既述のとおり、そこにはある種の速報性が機能しており、いち早く「東宮御渡欧映画」を見たい人々が会場に殺到したのだ。
 もう一点はそれらのフィルムがヨーロッパで撮影されたことに関連するだろう。とはいえ人々が見たかったのは異国の光景ではない。皇太子の動く姿を見たかったのだ。たとえば大阪中ノ島公園で公開された第一回目の映写を見損なった「観衆」は「切めてもう一度殿下の御写真を拝ませて下さい」と大毎社員に詰め寄ったという[38]。たしかに皇太子がヨーロッパ各国の元首や国民に熱狂的な歓迎を受ける光景に人々がナショナリズムを高揚させた可能性は高いが[39]、その前段階で、人々にとっては皇太子の動く姿を目にすることじたいが希少な体験だったはずなのだ。『東京日日新聞』には以下のような記事がみられる。

「我社が撮影し奉った東宮殿下の活動映画中、日本に於けるものと、英国に於けるものとの間には幾分の相違があり、前者にあっては只奉送者の堵列を写し、御馬車を写し、御召列車を写し、御召艦艇を写すに止まれるに反し、後者にありては、写真班が鶴賀を距る三四間のところまで接近して謹写することをさへ許された。外国においては日本におけるが如く皇族の御尊容を拝写するにいろいろ六づかしい制限がないため有らゆる場合における東宮の御動静手に取るが如く拝せらるゝのである[40]

 1915年、大正天皇即位式を撮影した「御大典活動写真」が「御大典終了後にあらざれば」という理由で即日上映が許可されなかったことは既述のとおりだが、当時「謹写」と呼ばれた皇室行事の撮影はそれじたい困難であり、日本では「只奉送者の堵列を写し、御馬車を写し、御召列車を写し、御召艦艇を写す」のが精一杯だったようだ。まして皇族に近接して撮影することは畏れ多いことで、人々が天皇や皇太子の姿を記録映画に確認することは稀であったはずだ。ところが大毎の「東宮御渡欧映画」ではフランスのゴーモン社が撮影を担当した。撮影され日本に届けられたフィルムには皇太子が「英艦司令長官其他に御迎接」、「英国皇太子殿下となつかしげに御対面」し、「英国皇帝陛下と御同列で粛々とプラットフォームを歩ませらるゝ御英姿」が見られた[41]。つまり多くの人々にとって皇太子(あるいは皇族)の動く姿を目にする機会は、これが最初となった可能性が高いのだ。
 このように、スクリーンに大きく映し出された皇太子の動く姿をいち早く目撃するため、人々は「東宮御渡欧映画」という野外映画イベントに駆けつけた。それはもはや数年前の「フィルム通信」のように新聞記事を映画化したものではなく、映画がそれじたいでニュース価値をもったのだ。
 「東宮御渡欧映画」は皇室と映画の関係性を考えるうえできわめて重要である。なぜなら皇太子の渡欧以降、皇室行事あるいは皇族の姿が積極的に映画に残されるようになったからだ。とりわけ『東京日日新聞』の活動写真班はそれを「代表撮影」することが多くなった[42]。「東宮御渡欧映画」イベントの未曾有の成功は皇室行事の映像による保存の重要性や国民に与える影響力の大きさを認識させ、映画による皇室記録報道を一歩推し進めたのである。
とりあえずのおわりに
 
1910年代以降、日本の都市部を中心に常設映画館が増加しはじめたが、常設映画館以外での映画上映の試みも同時に進行していた。そのひとつが新聞社とりわけ大毎の主催による大都市圏での野外映画イベントであり、そこには常設映画館とは異なる都市住人の映画体験があったのだ。その実態と映画史的意義を簡単にまとめておこう。
 まず最初期の野外映画イベントは映画を無料で「自由観覧」できることを呼び物にしたが、主催者は夏の夜の納涼という余暇・娯楽価値を早々に見出し、それを集客手段として付加した(「活動写真競技」)。1910年代後半になると、新聞社(大毎)が新聞記事の映画による報道を試み、自社の取材力を誇示するために野外映画イベントを開催する。それは時事映画を一度により多くの人々の「観覧」に供することをもって速報力となし、ニュース映画上映のさきがけとなった。また映画興行(上映制度)が取り締まり強化と人気上昇のジレンマに陥っていた同時期、野外映画イベントがオルタナティブなフィルム・プレゼンテーションの可能性を提示したことも指摘できる(「フィルム通信」)。とはいえ地方の新聞記事の映画化に強い求心力をもたせることは困難であった。戦前の人々の一大関心事は皇室(行事)だ。1915(大正4)年、大正天皇即位式をテーマとした都新聞社による野外映画イベントでは、新天皇の姿はもとより式典さえ速報映写を許されなかったが(「御大典活動写真」)、1921年、大毎が開催した「東宮御渡欧映画」では多くの人々が初めて動く皇太子の姿を目撃し、熱狂のうちに未曾有の野外映画イベントとなった。それはもはや新聞記事の映画化ではなく、映画ならではのニュース価値をもったと同時に、映画による皇室記録報道の扉を開いた。
 こうしてみると、一見関連のない個別の事例がじつのところ緊密につながり、時代ごとに新たな価値を付加しつづけることで、野外映画イベント史を形成してきたことがわかる。またこれらはいずれも主催者側からの歴史だが、野外映画イベントに詰めかけた人々にとっては、それが次第に増大する彼らの欲望を満たす装置として機能していたといえる。
 ただし野外映画イベントの歴史はさらに続く。戦前の人々にとって皇室(行事)はたしかに一大関心事でありつづけたが、関東大震災などの天災やオリンピック大会、そして「満州・支那事変」などは突発的に世間を賑わせ、実際それらもまた野外映画イベントの格好のテーマとなった。野外映画はもはや大毎独自のイベントではなく、ライバル新聞社がその速報性、規模、内容で対抗するようになる。そこでは飛行機技術の進化にともなう速報能力の向上やトーキーという映画の技術革新がニュース映画に少なからず影響を及ぼし、本稿で提示した野外映画イベントの諸問題はより先鋭化される。とはいえそれらは野外映画イベント史の範疇を超え、ニュース映画の上映制度の問題やその受容史へと論が展開する可能性があるため「後篇」として稿を改めることにしたい。


付記 引用文献中の旧漢字・歴史的仮名づかいを、断りなく現行の字体にあらためた箇所がある。また引用中の傍点および亀甲括弧内は引用者による。なお本稿は平成17年度科学研究費補助金(日本学術振興会特別研究員奨励費)を受けた研究成果の一部である。

[1] 戦前、大規模な野外映画イベントが大都市圏ばかりで開催された理由としては当然人口の問題がある。主催者のリスクを考えれば、それに見合うだけの動員が必要であったろう。だが見落とせないのは電気、電力の問題だ。たとえば後述する「フィルム通信」という野外映画イベントに関する『大阪毎日新聞』の記事では、大阪の市電や大阪電灯など、会場の電力供給に関わった人々に対して繰り返し感謝が述べられる。つまり野外映画の規模が大きくなれば、そのぶん映写じたいにかかる電力だけではなく、会場広場内の電灯を増加し、また消点灯装置も施さなければならない。事実、地方では小規模の野外映画イベントでもその電力供給には困窮した(「ある村で映写したとき、大毎の活動写真がくるというので全村休業して、花火を打ちあげるやら夜店が出るというお祭り騒ぎ。ところが電気の設備がない。班員は大きなアセチレンガスのタンクを汗だくで運び込んだ」[川上富蔵編『毎日新聞販売史 戦前・大阪編』毎日新聞大阪開発、1979年、142頁])。戦前期にあって比較的早い段階で電力供給システムが安定した大都市だからこそ、大規模な野外映画イベントが可能であったという側面も確認しておかなければならない。電化による人々の暮らしや文化環境の変化の歴史については橋爪紳也編『にっぽん電化史』日本電気協会新聞部、2005年を参照されたい。
[2] 近年、戦前(戦中)期日本のメディア・イベント研究は進み、文化形成史におけるその役割の重要性が指摘されている。主要な研究としては津金澤聰廣編『近代日本のメディア・イベント』同文館出版、1996年と津金澤他編『戦時期日本のメディア・イベント』世界思想社、1998年が挙げられる。とりわけ両書巻末の「新聞社事業史年表」と「戦時期マス・メディア・イベント年表」は網羅的で重要な成果となっている。そのなかで吉見俊哉は「メディア・イベント」の概念を「メディアが主催するイベント」、「メディアに媒介されるイベント」、「メディアによってイベント化される現実」の三層に分け、それぞれが密接に結びつく包含関係を指摘している(吉見俊哉「メディア・イベント概念の諸相」前掲、『近代日本のメディア・イベント』、4−5頁)。
[3] 常設映画館以外での映画上映に関する最近の研究では、上田学「近代日本における視覚メディアの転換期に関する一考察――日露戦争期京都の諸団体による幻燈及び活動写真の上映活動を中心に」『アート・リサーチ』4号、2004年3月、109−119頁が挙げられる。そこでは日露戦争期の京都において頻繁に開催された幻燈や活動写真の上映会を取り上げ、それらの性質や目的を分類したうえで興味深い考察をしており、この広範な問題のケーススタディとしては有効である。
[4] 野外映画イベントを扱う本稿で用いる各種の記録は、断りのないかぎり、主催新聞記事に掲載された発表を基にしており、信憑性を欠く部分もあるが、現在までのところ「客観的統計記録」なるものが他に確認できないため、ここでは論を進めるため便宜的に用いることとした。
[5] 「競技」とはいっても吉沢、横田両者の勝敗や優劣の裁定はなかったようだが、現存する日本最古の映画雑誌『活動写真界』の読者投稿によると、上映作品数については吉沢が横田を大きく上回ったという。ただしここでは同雑誌が吉沢の宣伝広告媒体ともなっていたことを指摘しておかなければならない(『活動写真界』1910年8月号、21頁)。
[6] 当時、南海鉄道による難波浜寺間の所要時間は約30分であった。なお浜寺海水浴場における各種イベントについては『浜寺海水浴二十周年史』大阪毎日新聞社、1926年に、大毎の社会事業活動については津金澤聰廣「大阪毎日新聞社の『事業活動』と地域生活・文化――本山彦一の時代を中心に」前掲、『近代日本のメディア・イベント』、217−248頁に、大毎と南海両社の共同開催イベントについては橋爪紳也『海遊都市――アーバンリゾートの近代』白地社、1992年、179−204頁に詳しい。
[7] 『大阪毎日新聞』1910年8月5日付社告。
[8] 同前、1910年8月6日付社告。
[9] 同前、1911年8月5日付社告。
[10] 同前、1911年8月7日付。
[11] 明治大正期、関西の私鉄各社による大阪近郊の開発、ならびに大阪文化圏の余暇娯楽については竹村民郎『笑楽の系譜――都市と余暇文化』同文舘出版、1997年や原武史『「民都」大阪対「帝都」東京』講談社、1998年に詳しい。
[12] 当時のある余暇娯楽調査の項目には「活動写真」や「演劇」、「スケート」や「釣魚」などとともに「納涼」があり、夏の夜間の余暇利用としては年代、性別、職業を問わず高い数値を示している(『余暇・娯楽研究基礎文献集4 余暇生活の研究』大空社、1989年、215−342頁)。
[13] 大毎活動写真班の最初の上映会は1908年9月、浜寺海水浴場に新築された公会堂で開催されたもので、野外映画ではない。プログラムは「写真 吉野山の桜」、「写真 宮島名所巡り」、「滑稽 三十六面相」、「写真 東京大角力(梅ケ谷常陸山の取組)」、「滑稽 看板広告屋の失敗」であった(水野新幸『大阪毎日新聞活動写真史』大阪毎日新聞社、1925年、22−25頁)。「写真」とは記録映画を、「滑稽」とは初期の簡単な劇映画を、それぞれ指すと思われる。同上映会は、新設した活動写真班の成果を示すことで読者層の拡大を目指す大毎と、大阪都心部から浜寺海水浴場へと人々を乗せて走る南海の思惑が一致して実現したもので、映画を利用したメディア・イベントとしては最初期のものと考えられる。しかし主催者はこの映画上映会にさほど集客を期待しなかったようだ。なぜならこの上映会はあくまで同日に開催された音楽会の添え物としての性格が強く、当の大毎ですら小さな記事で告知するのみであった(『大阪毎日新聞』1908年8月30日付)。
[14] ただし同時期の大阪は他の大都市とは事情が異なった。昭和17年度の『映画年鑑』によると、1912年、大阪府に37館存在した常設映画館が五年後の1917年には10館にまで激減している。他都市の常設映画館が増加するなか、この統計数値は異例だ。その大きな要因としては、1912年に起こった「みなみの大火」と呼ばれる大火災で興行の中心地であった難波・千日前地区が焼け野原になったことが考えられる。
[15] 川上、前掲、142頁。
[16] たとえば8月12日の上映番組は以下のとおりである。「久邇総裁宮殿下京都武徳会大会臨御(6日)」、「亡父(大和土倉翁)の喪に急ぐ内田大使夫人(7日)」、「市岡女学校の七夕祭と星祭展覧(7日)」、「いぢらしき放火少年の公判日(8日)」、「本社野球コーチ団慶応正選手の難波出発(9日)」、「土産のありさうな池上市長の帰阪(10日)」、「大阪スケッチ(11日)」、「清水谷女学生の有馬山登り(11日)」(『大阪毎日新聞』1917年8月12日付)。
[17] 『大阪毎日新聞』1917年8月5日付。
[18] 同前、1917年8月2日付。
[19] 同前、1917年8月27日付。
[20] 下川耿史編『明治・大正家庭史年表』河出書房新社、2000年、417頁。
[21] 『活動画報』1917年11月号、170頁。
[22] 犯罪活劇映画『ジゴマ』は1911年にフランスで製作されたのち日本でも公開され、模倣作が次々と製作されるなど大流行となった。しかしその内容が犯罪を助長するとして、1912年10月に警視庁が類似作品も含めて上映を禁止した。
[23] ただし映画あるいは興行に対する当時の言説では「取り締まり」と教育目的での積極的利用が意見として並存したことを指摘しておかなければならない。たとえば当時の教育雑誌『帝国教育』1917年5月号では、映画(興行)の利害問題に関する大きな特集が組まれている。
[24] 田中純一郎『日本教育映画史』蝸牛社、1979年、65頁。
[25] 田中純一郎によると、この「御大典活動写真」には「日活、天活、東京シネマ、小松商会その他、映画界全社が撮影技師を派遣したが、混雑さを避けるためとの理由でMカシーの梅屋庄吉が謹写団をつくり、自ら班長となって御所内の撮影を独占した」という(田中、前掲、34頁)。この記述が事実であれば、都新聞の野外映画イベントでは「京都に於る御盛儀等をも映写し公衆の観覧に供する予定」であったことから(『都新聞』1915年11月14日付社告)、買い付けた「御大典活動写真」がMカシー製作のものである可能性が高い。
[26] 『都新聞』1915年11月7日付社告。
[27] 同前、1915年11月14日付。
[28] 同前、1915年11月16日付。
[29] 1928年、昭和天皇即位の「御大典」の撮影を担当した東京シネマのカメラマンは以下のように回想する。「〔東京駅前では〕早朝から快晴の光の下に二十数台のカメラが並び、前方五、六十メートル先を進む天皇の馬車をパーンして写すのである〔中略〕〔京都〕駅前は馬車の通る祝賀門のそばのため距離が近い〔中略〕私どもニュース映画の場合、距離の近いところでは陛下の顔をできるだけ大きく、かつその全容を見せるべきだと考えていたので、駅前の遠い馬車は二インチレンズ、近づいてカメラ前にきたときには三インチレンズにターレットして廻しつづけた〔中略〕このとき撮影したネガフィルムは、朝日、毎日、電通ともに飛行機で東京に運ばれ、一刻を争って公開されることになっていた」(藤波健彰『ニュースカメラマン――激動の昭和史を撮る』中央公論社、1977年、65−67頁)。大正の「御大典」から13年を経た昭和の「御大典」では撮影カメラの台数が増え、近接位置からの天皇の撮影が許され、フィルムの空輸による速報が可能になっていたのだ。
[30] 『都新聞』1915年11月13日付、同15日付、同16日付。
[31] 同前、1915年11月13日付。
[32] これは戦前における天皇、皇太子の唯一の外遊であり、大きなニュース価値をもった。その実態と歴史的意義に関しては横山孝博「皇太子裕仁の訪欧と大正デモクラシー期の天皇・皇室像」『北大史学』33号、1993年、39−51頁を参照されたい。
[33] 1911年、大毎は『東京日日新聞』を発行していた日報社を合併し、同紙を傘下においた。『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』が題号を統一し、現在の『毎日新聞』となるのは1943年のことである。
[34] 水野、前掲、65−101頁。
[35] 地方巡回上映では、おもに地元の新聞販売店が会場設営と「観衆」の動員に当たった。事実関係はともかく、「東宮御渡欧映画」を見たいがために『大阪毎日新聞』に転読する人々が殺到し、「ふえてふえて、笑いが止まらな」かったという記述もみられる(川上、前掲、216頁)。
[36] なかでも大きな集客があったのは東京明治神宮参道橋付近における7月2日の上映会で、紙上では「観衆」15万人と発表された(『東京日日新聞』1921年7月3日付)。いまのところ「東宮御渡欧映画」イベントに集まった「観衆」個々の反応を確認することは至難だが、主催新聞社の発表記事から、できるかぎり正確にその実態を読み解くことは重要である。『東京日日新聞』や『大阪毎日新聞』の記事によると、この野外映画イベントではいずれも拍手喝采にはじまり、「君が代」を合唱し、万歳を叫んで終了するのが主流となる「観覧」スタイルだった。しかしながらこれらはかならずしも「観衆」から自然発生的に起こった反応ではなさそうだ。拍手喝采はともかく、「例によって画面君が代の楽譜につれての大合唱」(『東京日日新聞』1921年6月16日付)とフィルムの中途に「君が代」の楽譜画面を挿入し、人々に合唱を促したようであるし、「本社員の発声で雨中万歳を三唱」したケース(『大阪毎日新聞』1921年6月12日付)もあったようだ。主催者が多少なりともこのイベントを盛り上げる演出を加えたことはまちがいない。
[37] 『キネマ旬報』によると、皇太子が帰国した9月3日、松竹キネマはその撮影フィルムを同日中に洲崎から大阪城東練兵場まで「我国最初の映画空中輸送」したという(『キネマ旬報』1921年9月11日号、11頁)。
[38] 『大阪毎日新聞』1921年6月13日付。
[39] 竹山昭子「メディア・イベントとしてのニュース映画」前掲、『戦時期日本のメディア・イベント』、76頁。事実、一般公開直前(六月八日)の『大阪毎日新聞』社告の見出しは「英国皇帝と御同列の東宮殿下」となっている。
[40] 『東京日日新聞』1921年7月7日付。
[41] 『大阪毎日新聞』1921年6月8日付。
[42] 水野、前掲、101−123頁に詳しい。