報告
ホウ・シャオシェン回顧展と国際カンファレンス
第18回シンガポール国際映画祭報告

ガン ショウフイ

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 18回目を迎えたシンガポール国際映画祭が、4月14日から30日まで開催された。今年の映画祭で最も注目すべきイベントは、ホウ・シャオシェンの回顧展と国際カンファレンスが同時開催されたことである。昨年はシンガポール歴史博物館およびシンガポール国際映画祭の協力で、カーマ・ヒントンの革命特集が大成功を収めた。これが契機となって、今年はシンガポール国立大学アジア研究所の呼びかけのもと、国際カンファレンスが同時開催されたのである。
 近年、シンガポール歴史博物館は、活発な活動を展開してきた。多くの映画作品のなかから、シンガポールをはじめ、東南アジア各国で製作された映画の上映、特に若い映画作家の出品を促すことによって、新しい才能を発掘し、活発な議論を起こし、シンガポールの映画産業の発展に尽力している(またシンガポール国立遺産局に属するシンガポール・アート・ミュージアムは、2006年に映画資料センターを完成させる予定である)。
 
今年のプログラムの中でメインとなるのが、台湾のホウ・シャオシェン(侯孝賢)、イタリアのプピ・アヴァテ、ベルギーのアニエス・ヴァルダという三人の監督の回顧展である。そのほかにここ数年、学生の人気を集めているのが、ゲーテ・インスティチュートの企画である。今回は、マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピンの短編デジタル作品、韓国のアニメーションなどを十日間にわたって無料上映することであった。その他、特に1991年からアジアでの豊かな映画作家の発掘、および意識を向上するために創立されたシルバー・スクリーン賞は映画祭の目玉となるはずだったが、それほどの反響はなかった。それは同時に企画された特集[i]に比べると、あまり興味を惹くものではなかったからである。私が見たところでは、基本的に一般観客の鑑賞パターンは、他の主流映画祭で受賞した作品を「ブランド」として見に行くというのが一般的傾向のようである。国内での一般上映が禁止されている過激な性描写場面を含む作品を見に行くというような場合は例外であるが。
 
ところで今日の東南アジアにおいては、日本の国際交流基金、ブリティッシュ・カウンシル、ゲーテ・インスティチュート、アリアンス・フランセーズなどが、頻繁に新聞社、大学、非営利団体と共同で小規模の映画祭、定期上映会、公開講演などの活動を企画してきたが、その中でアジア自体の映画はあまり注目されてこなかった。したがって今回のシンガポール国際映画祭においてアジア人監督が中心となってカンファレンスを開き、欧米、中国、台湾、香港、日本、シンガポールなどの映画研究者、批評家を集め、プラットホームとして多方面にわたる交流をはかったことは、これまでにない記念すべき活動だった。
 
二日間という短いカンファレンスだったが、五つのパネルがあり、合わせて十四人の報告者が参加した。以下に、代表的な報告をいくつかピックアップし、その主旨を紹介したいと思う。総体的に見てこのカンファレンスでは、ホウ・シャオシェンの映画を以下の三つの観点から捉えようと試みていた。第一に、政治=経済=社会と美学との相互フレームの視点からホウ・シャオシェンの作品を同定すること。第二に、ポスト・コロニアリズム等のなんらかの文化理論を援用して分析を加えること。第三に、ホウ・シャオシェン映画の中で、一貫した様式やスタイルを取り上げ、テクスト分析を加えることである。


 まず台湾の映画批評家ウェン・ティエンシャン(聞天祥)は、多くの貴重な中国語文献を引証し、ホウ・シャオシェンが「台湾新電影」時代からどのような変遷をへて受け容れられるにいたったのかを詳細に論じた。70年代の「台湾新電影」時代において、ホウ・シャオシェンが新たなスタイルを採用したことによって(つまり撮影場所を従来の居間やダイニングルームや喫茶店といった閉鎖的小空間から、戸外のロケーションへと展開させたこと、さらに非職業俳優の起用、台湾語の頻繁な使用など)、また発展しつつある社会の明るさ、積極性のみならず、その暗黒面にも照明をあてるという従来の「健康的リアリズム映画」との差異の強調によって、大衆から注目を浴びることになった。
 80年代に入り、ホウ・シャオシェンは様々な課題を自覚しつつ、形式や内容を再考し、『風櫃(フンクイ)の少年』(1983)、『冬冬(トントン)の夏休み』(1984)、『童年往事/時の流れ』(1985)と『恋々風塵』(1986)を監督した。しかし彼の作品の国内での興行収入は失敗と見られ、厳しい批判にさらされるようになる。しかし、にもかかわらずウェン・ティエンシャンは、ホウ・シャオシェンの映画のスタイルは明らかに洗練されつづけてきたとしている。一般の観客や一部の映画評論家から評価されていないのは、レヴェルの不一致にすぎないと指摘した。皮肉なことに、時期を同じくして、ホウ・シャオシェンは徐々に国際映画祭で作家として認められるようになった。1989年からホウ・シャオシェンはいわゆる「台湾現代史三部作」と呼ばれる作品、『悲情城市』、『戯夢人生』(1993)、『好男好女』(1995)を演出した。ウェン・ティエンシャンによると、「台湾現代史三部作」は、二つの重要な影響力を生み出した。一つは、特に『悲情城市』がきっかけで、台湾の映画史においてこれまで触れられてこなかった題材、とりわけ白色テロルに関しての映画が次々と出現するようになったことである[ii]。もう一つは、『悲情城市』のように、先に国際映画祭に出展し、ネームバリューを得てから国内で上映するというマーケティング戦略が流行するようになったことである。
 
90年代に入ると、ホウ・シャオシェンは映画作家という立場にとどまらず、「台湾電影文化協会」を設立し、コーディネーターという役割を担って「師徒学苑」映画教室を開き、映画製作の指導を始めた。同時に、政治的関心の高まりから、政治活動も活発に行うようになった。これに対し台湾の政治家は、ホウ・シャオシェンの作品について露骨に意図的な歪んだ視点にもとづく、誤った解釈を提出し始めた。さらに聞天祥によれば、今日、「台湾新聞」でのホウ・シャオシェンに関する論評はほとんど政治化されており、まともな論評は専門誌か大学出版物にしか掲載されなくなる。これは間接的に台湾マスコミにおける映画的、文化的脆弱さを露呈することになる。表面的には栄光を得たホウ・シャオシェンであるが、台湾での評価の不一致、困難な環境を克服するにはまだまだ遠いのが現状である。

 
つぎにアルスター大学のヴァレンティナ・ヴィタリーによれば、近年、アメリカ、イギリス、フランスの主流映画雑誌(VarietyFilm CommentMonthly Film BulletinSight and SoundFilms and FilmingCahiers du Cinema等)に掲載されている映画評論においては、1950年代以来の基本的スタンスが微妙に変化してきているという。わかりやすくいえば、ホウ・シャオシェン映画の、複雑だが省略的な演出手法はかならずしも理解されなくともよく、また台湾の政治や歴史など固有の映画的背景も無視してもよいという「感覚的」鑑賞法の顕彰である。つまり映画それ自体の「普遍性」を重視しようというのであるが、それは種々の分析概念で武装した従来の映画批評の抜け殻にすぎないかもしれない。全体的に見れば、映画雑誌編集方針の変化は、長期にわたる欧州の映画産業とハリウッドとの戦いの「副作用」と関連性があるのではないかと考えられている。たとえば80年代半ばからフランスの映画産業は国際的競争力をつけるべく新たな再出発を強いられ、国際市場にフランス映画を浸透させるべく、国民文化的特徴が抑えられた映画を中心に製作推進しようという方針が採られている。無論それにはハリウッド的定式の流用にすぎないのではないかという批判の声があがっている。
 
上述の映画雑誌は、東南アジアで影響力をもつ、いわば「ブランド」雑誌である。それゆえそれらの雑誌の論説や評論の微妙な変化も間接的に東南アジアに対してある種の影響をあたえるものであろう。西欧の映画雑誌を重視する傾向のなかで、無反省的な感覚的鑑賞法の受容は東南アジアにおいても悲しむべき結果にならないともかぎらないであろう。


 韓国国立大学のキム・ソヨン(金素栄)によれば、ホウ・シャオシェンは映画『戯夢人生』で、満州政府が台湾を日本政府に譲渡した後の50年間に渡る統治時代を背景にした李天禄の人生を、植民地政策に対する異例の解釈として提出したという。リ・テンルー(李天禄)が本来採るべき父親の「許」を名字とせずに、祖父の名字の「李」を使用したこと、占い師の判断で、実の父母を「おじさん」「おばさん」と呼ばされたことなど、幾つかの歪みによって、『戯夢人生』は国民主義(ナショナリズム)を表明した映画、あるいは歴史や政治をパロディー化した映画と考えられがちである。しかしながらリ・テンルーは自分の人生や入植者については、明らかに運命によって定められたという諦念感を抱いており、また皇民化運動の時期は、喜んで反英米政策の人形劇団で働いている。キム・ソヨンは、それゆえリ・テンルーはむしろ日本占領下における台湾人のひとつの典型だと結論づける。
 台湾中央大学のリン・ウェンチー(林文淇)は、ホウ・シャオシェンの映画を見るさいに、シーンの表層ではなく、第二層の意味を分析することが重要だと主張する。第二層の意味というのは、発展途上国の発展過程における消費社会の繁栄、旧社会の崩壊といった社会的雰囲気である。その雰囲気は、固定カメラのフレームと長回しカメラで凝視されるあらゆる小道具・大道具をとおして間接的に醸成され、実在する風景に歴史の「真実らしさ」をあたえるものである。ホウ・シャオシェンは、実在するものに寓意をこめるのが巧みな映画作家である。しかし『戯夢人生』の人形劇団の存在は、中国大陸ないし台湾で国家を代表させる文化的象徴というよりも、台湾労働者階級の生活文化に属するものである。それは正確にリ・テンルーの状況の隠喩である。またリ・テンルーは劇中、自分自身の過去を語る役をあたえられながら、その一方で、観客同様、自分の人生が演じられているのを見ているようにも見ることができる。その「演じられるドラマ」とリ・テンルー本人の登場というスタイルは「戯夢人生」の迫真性を一層高める効果となったとリン・ウェンチーは言う。


 最後に日本の蓮実重彦はホウ・シャオシェンの映画について「列車」に焦点を絞って主題論的に考察した。蓮実重彦によれば、とりわけ『恋々風塵』での固定カメラによる単一方向からの撮影と、スクリーンの断続的な揺れは、リュミエール 兄弟の『蒸気機関車のトンネルの通過』(1898)と『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1897)を想起させる。ホウ・シャオシェンは、リュミエール兄弟と同じように、カメラそのものの動きではなく、カメラのなかでの被写体の動きを巧みに利用し、スクリーンに躍動感/動き(モーション)と距離感をあたえた。そしてこの躍動感と距離感は、場面によっては言葉で表現し尽くせない無力感をもうまく呼び出している。たとえば『童年往事』で、老婆が村の茶店で梅江橋はどこかと尋ねるが、村人には分かるはずもない。そのシーンで背景に列車が走っている。どこか遠くへ向かって走っていく躍動感にあふれた列車が、老婆の無力感をますます引き立たせるわけである。一方、『珈琲時光』に見られる列車の場面は、『恋々風塵』のようなスタイルとは異なり、単なる輸送手段としてのそれにすぎないという。また『珈琲時光』で描かれている二人の男女の関係は、前作の『ミレニアム・マンボ』(2001)に比べてもまた違う。『珈琲時光』の主役の男女の間には沈黙が多いが、にもかかわらず親密な感情描写が達成されるのである。

[i] アジア特集、ベトナム特集, イラン特集、フランス特集、ドイツ特集、カナダ特集、アメリカ・インディペンデント特集、日本アニメ特集など。
[ii]例としては、ワン・トン(王童)の『バナナ・パラダイス』(1989)、エドワード・ヤン(楊徳昌)の『クーリンチェ少年殺人事件』(1991)、万仁『超級公民』(1998)林正盛『天馬茶房』(1999)などがある。