報告
白井佳夫〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉の批判的考察
(「『無法松の一生』は二度死んだ」、NHK文化センター、 大阪市 、2006年4月16日)

羽鳥隆英

1.
 
『無法松の一生』(稲垣浩監督、1943年)という映画がある。私見によれば、とある家屋の二階のひと部屋につりさげられたランプを捉えたカメラが、そのまま往来をのぞむ窓枠をこえて地上へと降りたち、路上で子守をする母親を捉えてしまうという驚嘆すべきファースト・ショットによって記憶されるべきこの映画は、一般にはオリジナル版が現存していない作品として知られている。戦前・戦中期に製作された古典的名画の残存率が極端に低い日本映画の現状を考慮すれば、こうしたことは驚くにはあたらないかもしれない。しかし、『無法松の一生』のオリジナル版が現存しない理由は、その他の古典的名作群の大半が失われてしまっている理由とはいささか異なっている。それはフィルムの自壊作用を促進させるような高温多湿の日本的風土によってもたらされたものでもなければ、十五年戦争敗戦後の混乱期に正規の手続きを経過しないまま映画を上映した「闇」映画興行者の都合によって恣意的に切り刻まれてしまったのでもない。一度目は1943年の映画封切時における大日本帝国内務省の検閲によって、二度目には十五年戦争敗戦後の再公開時におけるGHQ占領軍の検閲によって、相当な部分を削除改訂されてしまった結果なのである。
 
こうした事実をまえにして、日本を代表する映画評論家の白井佳夫は20年ほどまえから〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉[1]という企画を開催している。その名称からも理解されるように、彼がこの公演を通じて成し遂げようとしているのは、検閲という政治権力の暴戻によって無惨にも削除改訂されてしまった『無法松の一生』という映画を「復元」することである。しかも彼はその「復元」を、オーディションによって選ばれた一般市民による、削除改訂部分のシナリオの朗読を通じておこなうのである。このような白井の姿勢は、政治権力に対して自由な言論活動によって対抗していこうとする知識人のそれとして一般には高く評価されるであろうし、実際この公演に参加した聴衆の多くは感動の涙を流していたはずである[2]。筆者自身も2003年12月に東京都杉並で開催された第58回公演に参加し、しばらくは興奮がさめやらなかった。しかし翌2004年7月、すでに映画研究のために大学院進学を決意していた筆者が東京都葛飾での第59回公演に参加したときには、もはや前回のような感動を覚えることはなかった。そして、そのような印象の差異が決して「一度目」と「二度目」との違いによるものではないことも、当時の筆者は漠然とではありながらも理解していたように思う。筆者はこの公演に、かつての大日本帝国内務省やGHQ占領軍が遂行したのと同じような暴力性を感じとってしまったのである。
 
本稿は2006年4月16日に大阪市において開催された第60回〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉についての報告である。それは同時に、第58回から第60回までの公演に継続的に参加してきた筆者が経験した内面的な変化の記録ともなるであろうし、さらには従来の映画評論が映画学(Cinema Studies)という新しい学問領域へ脱皮していく過程の一齣ともなるであろう。そうしたいくつかの目的を果たしていこうとするなかで、もはや決して「復元」されることのありえない『無法松の一生』という作品が、その「復元」不可能性によってこそ、我々の脳裏のうちに強烈な《イメージ》となって生きつづけているのだということを示しえれば、本稿が書かれた甲斐もあったということになるはずである。

2.
 
議論の詳細にはいるまえに、〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉とはどのような企画であるのかについて、本稿の報告対象である第60回公演[3]をもとに整理したい。
 
〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉は三つの部分から構成されている。第一部では白井佳夫が『無法松の一生』に関する20分程度の講演をおこなう。はじめに原作の岩下俊作や脚色の伊丹万作、監督の稲垣浩、あるいは主演の阪東妻三郎や園井恵子らの経歴が簡単に整理され、とくに第三部で言及される俳優の川村禾門が紹介される。つづいて『無法松の一生』が二度の検閲による削除改訂を余儀なくされた作品であることが説明されて、この作品の分析を通じて「検閲」、「学徒出陣」、「原爆」、「敗戦」、「占領」、さらには「戦争責任」などといった問題を考察するという、公演全体の目的が提示される。
 
第二部は『無法松の一生』のビデオによる上映である。いうまでもなく、ここで上映されるのは大日本帝国内務省、ならびにGHQ占領軍による検閲を経過した版の映像である。
 
『無法松の一生』のビデオ上映終了後、10分間の休憩をはさんで再開された第三部においては、ふたたび白井佳夫が演壇にのぼって90分ほどの講演をおこなう。まず話題となるのは、『無法松の一生』においてヒロインの吉岡よし子を演じた園井恵子である。宝塚歌劇団出身の彼女が同作に出演したのち、移動演劇さくら隊に参加し、公演で訪れていた広島において1945年8月6日に被爆した事実が説明されて、『無法松の一生』と原爆の問題とが関連づけられる。つづいて、第一部ですでに名前を紹介されていた俳優の川村禾門が再導入される。1993年7月に東京都池袋で開催された第22回公演の記録映像が上映され、当時存命であった川村が映しだされる。彼が語るのは、自身の亡妻であり元・大映の女優であった森下彰子が移動演劇さくら隊に参加して、園井恵子と同様に被爆死したという事実である。ここにおいて『無法松の一生』はいまいちど原爆という主題と結びつけられる。
 
第二の主題は学徒出陣である。ふたたび第22回公演の記録ビデオが上映され、川村禾門が『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』より松岡欣平の手記[4]の一部を朗読する。同手記において松岡は、入営直前に鑑賞した『無法松の一生』への言及に相当部分をあてており、我々は死をひかえた青年から見た同作品のありようを想像するなかで、一般には知られていない『無法松の一生』と学徒出陣との関係に思いをはせることとなる。
 
以上のような段階をへて、主題はこの公演の主たる眼目である『無法松の一生』と検閲制度の問題にうつされる。まず、2002年9月の第57回公演の記録ビデオが上映され、白井佳夫が内務省の検閲記録にもとづき、映画封切時に内務省によって削除改訂されたと判断した部分、すなわち主人公の富島松五郎が吉岡よし子に愛情を告白するシークエンスについて、伊丹万作による脚本の該当箇所が朗読される[5]。松五郎の台詞部分の朗読を白井自身、ト書き部分の朗読を劇団展望の林陽子といった配役である。ここで白井による解説が加わり、松五郎と吉岡との異性愛が国家権力による国民の支配統御をおびやかす抵抗として強調され、松五郎の吉岡への愛情が「美化」される。つづいてGHQ占領軍によって削除改訂されたと白井が判断をした部分、すなわち吉岡の子息である敏雄が学芸会において唱歌「青葉の笛」を歌うシークエンスを、やはり伊丹版シナリオの該当箇所の朗読によって「復元」した映像が、ふたたび第57回公演の記録ビデオから抜粋上映される[6]。ここでも白井は削除改訂されたシークエンスが「美しいシーン」であった点を強調している。
 
最後に白井は、いまいちど第57回公演の記録ビデオから『無法松の一生』の脚本を担当した伊丹万作による有名な随筆「戦争責任者の問題」[7]を林陽子が朗読した映像を上映する。ここでは、伊丹が十五年戦争下にあっていかに批評的な思考を維持しつづけた希有な知識人であったかが強調され、『無法松の一生』と戦争責任の主題とが結びつけられる。
 
こうして〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉はクライマックスをむかえる。それは会場の聴衆全員による「青葉の笛」の合唱である。白井はこの歌が戦争の愚かさを歌いあげた厭戦歌であると主張し、日本に平和をもたらしたはずのGHQ占領軍が「青葉の笛」のシークエンスを『無法松の一生』から削除してしまった点を糾弾する。そして富島松五郎が自立した人間として「美しくかよわい」吉岡よし子への愛情を貫いたように、我々も周囲に存在する有形無形の圧力から自己の尊厳を守りぬくために、「青葉の笛」という「日本的な美しい歌」を歌うことで自分自身を叱咤激励しようと呼びかける。今回の公演では、第57回公演記録ビデオから参加者全員による合唱シーンが抜粋上映されて、それにあわせて会場の聴衆もまた「青葉の笛」を合唱する。こうしてついに、3時間をこえる〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉は、そのすべてのプログラムを終了する。

3.
 
前節では、駆け足ながらも〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉の概要を整理したわけであるが、つづく本節では、この公演が提起したいくつかの問題のうちから『無法松の一生』と検閲制度との関係という主題に焦点をあてて、批評的な考察を展開したい。
 
第一に批判すべきことは、白井佳夫がこの公演を通じて聴衆に提示している検閲制度の《イメージ》が[8]、彼にとってはなはだ都合のよいものになっている点である。『無法松の一生』は大日本帝国内務省とGHQ占領軍によって検閲され、削除改訂を余儀なくされている。しかし、そのような削除改訂が白井佳夫(および彼の審査をとおして採用された一般市民)の〈パフォーマンス〉によっていとも簡単に「復元」できてしまうのであれば、そのような検閲をおそれる必要はない。いいかえれば、この〈パフォーマンス〉は、白井佳夫というひとりの英雄的な映画評論家が存在しさえすれば『無法松の一生』の「完全復元」は成し遂げられるという、彼の神格化につながりこそすれ、検閲制度のはらむおそろしさやおぞましさ、あるいはそのような言葉だけではとても捉えきれないような怪物的な「なにか」を提示することに失敗しているのである。白井は講演のなかで、稲垣浩監督自身が伊丹万作の脚本にもとづいて1958年に再映画化した『無法松の一生』からは1943年版ほどの感銘を受けなかったとし、その理由として、軍国主義国家の支配という同時代的環境のなかであえて『無法松の一生』のような無償の愛を賛美する作品を世に問うたことこそが意義深いのであり、1958年においていかに「完全」版を再映画化しようとも、そのような意義は失われていると述べている。この発言からも看取されるように、1943年版『無法松の一生』が検閲によって「復元」不可能なまでに削除改訂されることで自己言及性を帯び、それによって逆説的に検閲という暴力の存在を顕在化させるにいたったという点を、おそらく白井は直覚していると考えられる。凡百の映画評論家がことごとく欠落させてしまっている、このような鋭敏な嗅覚を白井が保持しているとするならば、彼が安易に私家版にして「完全」版の『無法松の一生』を「再映画化」していることが惜しまれる。
 
第二の問題として、〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉と検閲制度との相同性が高いことに、白井佳夫が無自覚であるという点がある。彼は『無法松の一生』をめぐるさまざまな事象から、それが軍国主義日本政府に対抗する作品であったという《イメージ》に合致する事象のみを選びだして〈パフォーマンス〉に取りこんでいる。たとえば、脚色担当の伊丹万作は植民地主義的作品『新しき土』(アーノルド・ファンク/伊丹万作監督、1937年)の関係者としてではなく、「戦争責任者の問題」をものした知識人として紹介され[9]、監督の稲垣浩と主演の阪東妻三郎が、『無法松の一生』公開の翌1944年には『狼火は上海に揚る』という、やはり植民地主義的作品に携わっている事実が聴衆に伝えられることはない。もちろん、ここでいわんとすることは公演を通じて「善」の《イメージ》を付与された『無法松の一生』のスタッフ・キャストが、実際には「悪」であったなどという低い次元の問題ではない。そうではなく、大日本帝国内務省あるいはGHQ占領軍が検閲を通じて「不適切」な事象を排除していく身振りと、白井佳夫が『無法松の一生』=「善」という《イメージ》を構築するために「不適切」な事象を排除する身振りとが、たがいに相通じるものだということである。そのような暴力(残念ながら筆者自身もそこから自由にはなれない)の可能性に無頓着である限り、〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉が政治権力の暴戻と正面切って対抗していくことはできないはずである。
 
最後に、白井佳夫が〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉を通じて「美しい」という言葉を繰り返し用いている点を問題化したい。前述のように彼は、「青葉の笛」という唱歌を厭戦的で「日本的な美しい歌」として称揚し、その「美しさ」が政治権力の抑圧に対抗する拠点になりうると考えている。しかし、果たしてそうだろうか。むしろ「美しい」という《イメージ》こそ、我々を抑圧しようとする政治権力と相性がよいのではないだろうか。そもそも、『無法松の一生』を削除改訂した大日本帝国は「大東亜共栄圏」などという「美しい」スローガンのもとに十五年戦争を開始したはずである。第60回公演の会場で、白井佳夫の音頭のもと厭戦歌「青葉の笛」を歌った聴衆は、ひとたび風向きが変われば、今度は「戦争を厭うための戦争」、つまり世界から戦争を根絶させるための最後の一戦という「美しい」スローガンのもとに、ふたたび軍国主義の賛美者となってしまうことだろう。もしも、あなたが『無法松の一生』という古典的名画のオリジナル版が現存しないという事実に忸怩たる思いをもつならば、白井佳夫とともに「青葉の笛」を歌うことで、自分以外の聴衆とのつかの間の情動的連帯に酔いしれていてはならない。あなたはただ、『無法松の一生』が自分自身を切り刻ませるという犠牲を払って獲得した自己言及性に対して、それにふさわしい理性をもって向きあうことで、検閲制度のはらむ怪物的な「なにか」へと思いをはせればよいのである。「青葉の笛」を歌ってはならない。明日にもそれは、いまひとたびの「露営の歌」となり「同期の桜」となるに違いないのだから。

4.
本稿は白井佳夫の〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉について批判的に報告してきた。もちろん、この公演のうちにも敬意を表すべきさまざまな瞬間がある。川村禾門が『無法松の一生』と原爆という主題について自分自身の目線から語った記録映像は、彼が失ったものが何人をもってしても「復元」することのできないかけがえのない伴侶であり、ありえたはずの彼女との未来であったことを我々に思いおこさせて千金の価値をもつ。しかし、『無法松の一生』に関していわば「部外者」である白井佳夫が、あたかも正当な権利の継承者ででもあるかのようにこの作品を「復元」してしまうことで、過去が恣意的かつ「美的」に、さらにいえばそれが一般に受容されやすいという意味で商業主義的に《イメージ》化されていたのは残念なことである。公演終了後に白井は、会場に残った数人の聴衆との質疑応答をおこなったが、そのときに彼は以下のような発言をした。すなわち、近年の社会的状況のなかでは、〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉のような企画を支持する団体が少なくなってきた、というのである。この発言をした瞬間、おそらく白井は自分自身の経験として、有形無形に自分自身の思想を抑圧する「なにか」の存在を意識していたはずである。その「なにか」のありようをきわめて個人的な視点から示唆することで、同時に『無法松の一生』を「復元」不可能なまでに削除改訂した「なにか」のありようさえも的確に浮かびあがらせることに成功したこの瞬間に、〈パフォーマンス〉それ自体の一割程度の聴衆しか際会しえなかったということが悔やまれてならない。

付記

筆者は2003年10月から2005年9月までの2年間にわたって、東京芸術大学映像・舞台芸術に関する授業科目開発研究プロジェクト実験授業のうち「日本の古典映画2・3」に参加し、主任講師であった白井佳夫先生の御指導をいただく機会をえた。本稿が先生の学恩に対して、相撲の世界にいう「恩返し」の万分の一ともなれば、筆者には過分な幸福である。

[1]「『無法松の一生』は二度死んだ」の会場で販売されていたパンフレットには、この企画の第1回から第30回までの軌跡が紹介されているが(「白井佳夫の『無法松の一生』集会基礎資料集〔第3版〕」、頁番号記載なし)、その名称は一定ではない。それゆえ、本稿では1993年7月に開催された第22回公演の記録をもとに、この企画の名称を〈『無法松の一生』完全復元パフォーマンス〉として統一して表記することとする。
[2]筆者自身は気づかなかったが、「『無法松の一生』は二度死んだ」会場においても感極まって涙を流している聴衆がいたことを、公演終了後にべつの聴衆が指摘していた。
[3]本稿が報告する「『無法松の一生』は二度死んだ」は第58・59回公演とは違い、〈パフォーマンス〉の主要部分を過去の公演ビデオの上映で代替する簡略版であるため、聴衆に現前する人間が演じた〈パフォーマンス〉を鑑賞する場合とはやや印象が異なる。つまり、『無法松の一生』の削除改訂部分を「復元」する人々をさらに「復元」する映像を上映したため、公演全体が自己言及的になっているのである。しかし、註[2]で記したように、これほど自己言及的な〈パフォーマンス〉に対して自己同一化し、感動の涙を流すような聴衆が存在したということは、今後の考察に値するだろう。
[4]日本戦没学生記念会編『新版 きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』(岩波文庫、1995年)においては、松岡欣平による手記は209‐221頁に収録されている。
[5]ここで「復元」されたのは、伊丹万作「無法松の一生」(『伊丹万作全集3』[筑摩書房、1961年]、275―326頁)を参照した場合、シーン86‐102の箇所に該当する。
[6]ここで「復元」されたのは、前掲「無法松の一生」のシーン54‐57の箇所に該当する。
[7]伊丹万作「戦争責任者の問題」は『伊丹万作全集1』(筑摩書房、1961年)の205‐214頁に収録されている。なお、白井は「『無法松の一生』は二度死んだ」終了後の質疑応答で、同文章が書かれた日付を4月29日、すなわちかつての天皇誕生日としているが、『伊丹万作全集1』版には4月28日とあり(214頁)、再調査の必要がある。
[8]ここでの《イメージ》とは、「作り手と観客を含めた人間の想像力の機能であるイマジネーションの産物一般をいい、単なる図像イメージに収斂されるものではなく、観客の受容や言説、イデオロギーなど全般」(劉文兵『映画のなかの上海―表象としての都市・女性・プロパガンダ』[慶應義塾大学出版会、2004年]、vii頁)である。
[9]この点をめぐって山本直樹は、「伊丹の反戦思想的文章が「戦後」における一つの救いとして脚光を浴び、[中略]神格化が事後的に推し進められると、[中略]「国策映画」[『新しき土』・筆者補注]に伊丹が加担していた事実さえもが何か悪い夢であったかのように、人々の記憶のなかで否定される」と述べている(「風景の(再)発見」[岩本憲児編著『日本映画とナショナリズム』森話社、2004年]、64‐65頁)。